2017年4月26日 (水)

映画 『ナポラ』

監督・脚本: デニス・ガンゼル、撮影:トルステン・ブロイアー、音楽:アンジェロ・バダラメンティ・ノーマンド・コーベイル、主演: マックス・リーメルト、トム・シリング、ユストゥス・フォン・ドナーニー、2004年、117分、ドイツ映画、原題:NAPOLA/BEFORE THE FALL

ドイツ版の原題は、『Napola - Elite für den Führer』(ナポラ - 総統のためのエリート)となっている。

労働者階級の少年であるフリードリッヒ(マックス・リーメルト)が、ボクシングの腕前を認められ、ナチスのエリート養成機関である民族共同体教育施設(ナポラ、Nationalpolitische Lehranstalt)に入校し、その後さまざまな試練を経験し、結局はそこでの教育に付いていけず、退学処分となるまでを描いている。

フリードリッヒの親友となり、彼の退学に至る契機をつくる人物がアルブレヒト(トム・シリング)である。アルブレヒト自身は、党内で実力をもつ父親のハインリッヒ(ユストゥス・フォン・ドナーニー)のコネで入学しているが、親の方針に反発し、自害を遂げている。

そのアルブレヒトの父は、字幕では知事と出るが、日本の知事とは全く異なり、ナチス党の行政区分である大管区(ガウ、Gau)の地区指導者(大管区指導者、Gauleiter)である。ナポラはナチス親衛隊の下部組織であり、生徒や教職員は、親衛隊と同じ色や柄の制服を身に着け、階級も親衛隊組織を倣ったものとされる。

監督のデニス・ガンゼルは、高校での独裁政治についての授業を扱った『Die Welle』(波、2008年)でも有名だ。デニス・ガンゼルは、祖父がナポラの教員であり、ナチスについて詳しいようだが、どちらの作品とも、ナチスの価値観に対しては否定的に描かれている。

ナチスのエリート養成学校であるからには、心身の鍛錬はもちろん、生活の仕方なども軍人同様細やかな規則や慣習があり、それを逸脱し或いはそれに反発する者は、一定の制裁を受け、また、平然と落ちこぼれていく。そうした、一部非人道的な扱いをされることを含め、せっかく難関を突破し貧しい生活と縁を切ることができたフリードリッヒは、我慢強く過酷な試練に耐え、仲間をつくり、やがて、有力者の息子アルブレヒトとも親しくなる。

アルブレヒトはフリードリッヒと違い、親の決めたとおり、本人の意図と無関係に入校させられ、初めから決められたレールの上を歩んでいくのであるが、本人の性格も相俟って、ナポラのやりかたに不満をもち、やがて自分の生きる場を見失ってしまう。自我を捨て、弱者を見下し、うまくいった者だけが生きる価値を認められる世界には、とても付いていけなかったのである。

そのアルブレヒトの死は、一大決心をし、親の反対を押し切ってまで入校したフリードリッヒの気持ちをさえ、折ってしまうのである。

これらの展開が、一定のテンポで進んでいく。ナポラという場所での生徒の訓練や生活の実態が、リアルに再現されていくようすは興味深い。ただ、フリードリッヒという少年の心の変容を描くべく、単線的な展開に終始しているので、映画としてのエンタメ性は置き去られたような感を否めない。

巨大な城や雪原、森林など、大がかりなロケや、シーンにふさわしいOST、カメラワークやさまざまな演出も、映画の単線ぶりを補うことはできなかった。

この映画のあとにできた『Die Welle』は、学校のひとクラスとその教師という全体が主役となっているので、話が、教師の家庭や、生徒それぞれの関係などにも及び、重複的な展開を見せているが、こちらは、フリードリッヒという少年の生きざまを中心に描かれていくため、映画上での遊びがない。

フリードリッヒとアルブレヒトの二人を、ほぼ同格に描き、それに対する強固な壁としての制度を対立させる、といった構図のほうがよかっただろう。

フリードリッヒの内面の変容についても、映画自体は静かに淡々と日々のようすが描かれていくようすは好感をもてるので、それに対比させるかたちで、彼の葛藤を描き出してもよかった。それは描かれていないことはないが、客観的な事実があってそれに対する彼の反応としてしか描写されていないので物足りない。

日本でいうエリートとは明らかに異なり、歴史上のある時点での、ナチスという政党の機関であり、同じエリートと言っても、あくまでも「総統のためのエリート」であったのだが、それでもなお、能力面での競争などやその結果としての優劣の発生、優れた者のとる態度、劣等の者が陥る心理などを、輻輳的に描写してほしかった。

そこまで描いたとしても、2時間の枠を超えず、フリードリッヒの内面描写も表現できたはずだ。

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Napola

 

2017年4月20日 (木)

映画 『イレブン・ミニッツ』

監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ、製作:エバ・ピャスコフスカ、イエジー・スコリモフスキ、音楽:パヴェウ・ミキェティン、出演:リチャード・ドーマー、ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、パウリナ・ハプコ、2015年、81分、ポーランド・アイルランド合作、原題:11 MINUT/11 MINUTES(11分)


イエジー・スコリモフスキは、23歳のとき、28歳のロマン・ポランスキーに請われ、二人で同監督処女作となる『水の中のナイフ』(1962年)の脚本を書き、ヴェネツィア国際映画祭・国際映画批評家連盟賞を受賞している。同作品は、第36回アカデミー賞外国語映画賞にポーランド代表作品として史上初めて出品され、ノミネートされるに至った。
言われてみれば、この映画も、『水の中のナイフ』を彷彿とさせる。

左目に痣をつくった男の新妻は女優であり、映画監督らしい男のいる高層ホテルの一室を訪れる。男の痣は、どうもこの映画監督の男に殴られてできたようで、その仕返しと妻の浮気が心配で、このホテルに向かい、多少狼狽し躊躇しながらも、消火器でドアを叩き壊し、ようやく室内に入ることができたのだが・・・・・・。

あえてストーリーの中心を見つけようとするなら、この話だけであり、これと平行して何人かのエピソードが語られるに過ぎない。同じホテルの一室で、ガールフレンドの持ってきたポルノを飽き飽きしながら見る窓掃除の男、出所したばかりのホットドッグ屋、男にフラれ、連れていた犬を押し付けられる女、浅はかな銀行強盗をひとりで仕出かし失敗する青年、麻薬を売った女と一発やって亭主の帰宅に慌てふためいてバイクで去っていく売人など、ロクでもない連中ばかりが登場する。彼らが、「最後はいっしょになる」運命であり、そうした都会の人間の生きるプロセスが、断片的に描かれていく。

こうした技法を群像劇として宣伝しているが、古くは『グランドホテル』(1932年)のように、それぞれの人物がドラマをもち、その掛け合いの後、大団円に収斂するのが、群像劇の意味であり、この映画はそこからは大きく脱線している。

同じ時間の出来事を、キャラクターごとに見せたり、時間を前後させたりするという点で、むしろ、『エレファント』(2003年)や『桐島、部活やめるってよ』(2012年)と同じ手法であり、突然、カオスを迎えるという点では、予知夢のない『ファイナル・デスティネーション』でもある。

こうして、いろいろな映画を観、いろいろな出来事を経験してきた老齢の監督の作品としては、当然ながら、特に目新しい部分を発見するほどではない。

むしろ、この映画の圧巻はラストのカオスそのものではなく、そこから引いていくカメラなのだ。カオスの現場から引いていくカメラが、実は・・・という「落ち(オチ)」なのだ。この映画に、ストーリー上のオチなどあるはずがない。むしろ、映像上のオチこそ監督の意図なのだ。ラストの出来事のあとに、もったいぶった末にようやく出してくるのである。

このオチを効果的にするためには、登場人物に地位や名誉のある人間も高尚な人間的からみも要らなかったのである。スケベ監督やドラッグの売人、強盗をする少年、或いは、客に出すルームサービスの料理をひと切れ食べてしまうルーム係、ホットドッグを頬張る尼僧たち、で充分だったのだ。大仰なキャラクターでは、オチが霞んでしまうのである。

それが証拠に、エンドロールのあの字の小ささに注目したい。故意にポイントを小さくした文字を並べて、俳優名・役柄名など読めなくていいのだ、と言わんばかりである。膨大な数のモニターが映し出す都会の光景に、個人名は初めから不要なのである。

さらに、この映画の個性は、音と多彩な映像にある。この映画には音楽らしきものがほとんど入らない。あったとしても、故意にヴォリュームを下げて、聞こえるか聞こえない程度に流すだけである。あとは、音だけだ。それもきれいな音とは限らない。

映像にはさまざまなくふうが凝らされている。カメラがキャラクター目線になるのはよくあるが、犬の目線になることもあり、強盗を仕出かす前の少年のように、何を見ているかわからないようなシーンもある。

筋がないようなものだから、逆に、象徴的でサスペンス風な映像を取り入れることもできたのだ。低く飛ぶ航空機、大きなシャボン玉、みごとな絵の描かれたカンバスに落ちた黒い絵の具の一点、など、カオスのあとの衝撃を予兆させる通奏低音である。

こうして、この映画は出来上がった。81分のほとんどを使って、都会に住む「たいしたこともしてない」人物たちの午後5時過ぎのわずかな時間と、彼らの向かうカオスを描いたのである。そして、これは、都会の「どこにでもある出来事」としてカメラが記録しているだけの事実に過ぎないことを、「どうっすか?」と提示してくれただけなのである。

この手間ヒマかけた<遊びの世界>で、戯れることができるかできないかは、観客個人個人の個性によるのであろう。戯れることができなかったからといって卑下することもない。戯れることができたのなら、楽しい世界の扉をまた一つ開けた、とは言えるだろう。



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2017年1月 8日 (日)

映画 『水の中のナイフ』

監督:ロマン・ポランスキー、脚本:イエジー・スコリモフスキ、ロマン・ポランスキー、撮影:イエジー・リップマン、音楽:クリシトフ・コメダ、1962年、94分、モノクロ、ポーランド語、原題:Nóż w wodzie

アンジェイ(レオン・ニェムチク)と妻クルィスティナ(ヨランタ・ウメツカ)は、湖でヨットを浮かべて休暇を過ごすため、車を走らせている。
しばらく行くと、青年(ジグムント・マラノウッツ)が前に立ちふさがり、注意したものの、車に乗せる。青年はヒッチハイクしていた。
湖に着くと、夫婦は自家用のヨットを出す準備をするが、アンジェイの招きで、青年はいっしょにヨットに乗り込む。……

ポーランド出身のロマン・ポランスキーによる、28歳にして初めての映画作品だ。

ポランスキーといえば、妻のシャロン・テート殺害事件で有名になったが、『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』『戦場のピアニスト』で知られる鬼才だ。

タイトルにあるように、ナイフは出てくるが、途中で海に落とされてしまう。それでも、そこまでにときどき出てくる青年の持ち物である一本のナイフは、道具としてのナイフを超え、象徴的な意味をもたされている。

映画全体の印象としては、若い監督の作品によくあるように、低予算でありダイナミックな展開があるわけではない。この作品も、画面上ではひたすら淡々と話が進むため、ダイナミックな展開を期待していると、裏切られるかもしれない。

やや倦怠期にあるような夫婦は、妻のほうが若く、豊満な肢体をもつ。夫の仕事などは一切語られないが、ある程度の社会的地位と財産があるようだ。
一方、ヒッチハイクの青年は、その名前も出てこず、アンジェイにガキなどとも呼ばれるが、そこまで子供ではなく、といって大人になりきっている年齢でもない。一度、19歳というセリフが聞かれる。

夫は、帰ろうとする青年を、無理やり誘い、自慢のヨットに乗せた。カネのない若造に、いいとこを見せてやろうというくらいの気持ちがあったからだろう。だから、ヨットの操舵に素人の青年に、ああしろこうしろと、船長よろしく命令する。

青年は、命令されるのを不愉快に思いながらも、それに従い、そのうちヨット乗りも楽しいと思うようになる。その間、妻の作る料理を楽しんだりし、妻はひとり泳いでワニの形をした浮き輪と戯れている。
ヨットが浅瀬に乗り上げて動かなくなったその日の晩も、船底のへやで、三人で子供じみたゲームなどをして楽しむ。

あすは5時に起きようと言って、目覚まし時計をセットしたものの、その前にすでに妻は起きて甲板でタバコを吸い、そこに青年も起きてくるが、あとから起きてきた夫に甲板掃除を命令され、掃除しているうちに、ちょっとした口論から、青年は水の中に落とされてしまう。

責任を感じて青年を探しに湖に飛び込んだ夫は帰らず、それをブイの陰で見ていた青年はヨットに泳ぎ着く。泳げないと言っていた青年は、泳げたのだった。妻はそれを知り、ヨットに上がってきた青年にビンタを加えるが、その直後、青年と妻は…。

この映画は、大人の男と青年との対比を描いているのだろう。そう見るならわかりやすい。
ヒッチハイクをしている青年がナイフを持っていてもおかしくない。実際、森のなかでは役に立つんだ、というセリフもある。


青年が大人に刃向かうとき、文字通り、このナイフを持つことでバランスがとれる。権力、財産、社会的地位、…そうしたものをもつ大人の男に対して、それらの何もない貧乏な青年は、ナイフをもつ。このことは象徴的だ。

アンジェイは、そうしたものをすでに手に入れている壮年の男だ。だから、ナイフのかわりに、高級車や自家用ヨットを持つ。
だが、船上という閉じられた空間で三人しかいないのでは、青年の所有するナイフは不気味であり、5時前に起きた時、夫は、テーブルにあった青年のナイフを、自分の着るガウンのポケットにしまって甲板に上がり、青年に掃除を命令する。
まさに、そのとき、青年がナイフを返してくれと言ったことから、揉み合いになるのだ。

妻は、熟年の夫であっても、その実、小心さや意気地のなさ、そのかわり、それを隠そうとして高慢にふるまうような態度に辟易している。
それは、ファーストシーンで、車を交互に運転する夫婦のツーショットからも、はっきりわかる。
夫と青年の間にあって、夫の身勝手さをなじりながら、青年にはその幼さを指摘する。ただ、夫がいなくなったところで、青年とは過ちを犯す。

音楽にはサスペンス調のジャズが使われるが、ヨットでの週末の休暇という図式でありながら、雰囲気として決して陽気なものではなく、どこか常に不安やサスペンス感を漂わせるこの作品に、よくマッチしている。

ある船乗りの話が、途切れ途切れに出てくる。酒瓶を割って床に飛び散った破片の上を、誤って踏んでしまったという。ところがその男の足は皮が厚かったので、足裏にはけがをしなかった。それどころか、これは実は俺の芸のひとつでわざとやったんだと言ったという。
このエピソード風の話は、夫の心理や性格と並行して時折出てくる。

この映画には無駄がない。映像もシャープであり、いろいろな苦労も想像できる。映像のあちこちに出てくる「尖った物」が、この映画をまさにシャープなものにしている。編集もうまいが、何より、フレームを切り取り方がいい。この映画も、どんな教科書より、カメラの勉強をするにはもってこいである。

後の、ポランスキー特有のサスペンスタッチではあるが人間ドラマである、という個性が、すでに萌芽として見られる作品だ。

2017年1月 7日 (土)

映画 『顔のない眼』

 監督:ジョルジュ・フランジュ、主演:ピエール・ブラッスール、アリダ・ヴァリ、エディット・スコブ、1959年、88分、フランス映画、モノクロ、原題:LES YEUX SANS VISAGE
 
医師ジェネシエ(ピエール・ブラッスール)は皮膚移植の権威であるが、交通事故で、顔の両目以外の部分を損傷した娘クリスチアヌ(エディット・スコブ)のために、同い年くらいの同じような容貌の娘を、助手のルイーズ(アリダ・ヴァリ)に誘拐させては、自宅に連れて来させ、地下にある手術室で、ルイーズとともに、クリスチアヌに移植手術を施す。
 
この2回目の手術でクリスチアヌは美しい素顔を見せるが、それも実は失敗したことがわかると、二人は第三の犠牲者を探すことにする。……
 
ホラー映画監督の黒沢清が賞賛するように、まさにフランスでヌーベル・ヴァーグがもてはやされていた同時期に、実はこんな作品がひっそりと生まれていたことは注目されてよい。このささやかな作品は、その後、サスペンスやホラーなどのジャンルに、大きな影響を与えたからだ。
 
白黒であるから、ライティングと影をうまく使うのは当然と言えるが、ストーリーの展開も一定の速度を保ち、省けるところは省くなど、シーンやセリフも最低限となっていて見やすくなっている。
 
顔の移植というと安倍公房の『他人の顔』を思い出すが、それと違い、この映画には、顔に関する自我との葛藤などという哲学的課題は出てこない。
もっぱら、失った娘の顔を取り戻そうとする父親の執着心と、それを受動的に受け入れながらも自家撞着に陥る娘本人の物語としてのみ描かれている。
 
手術台で眠らされている被害者の顔に、鉛筆で剥がす線を書き入れたり、メスで皮膚を切って鉗子で押さえ、その後それを剥がすシーンまで入るが、それほど生々しさが感じられず、手術シーンも二体目のこのシーンだけである。
 
クリスチアヌは登場しても、初めは後ろ姿だけしか映さない。ルイーズが持ってきた仮面をかぶると、ようやく顔が映される。まるで『犬神家の一族』の助清のようであるが、こちらは少女であり、仮面の姿そのものもかわいらしく美しくみえてしまう。
 
手術のあと素顔を表わすが、もともとそのような容姿の少女のせいか、仮面をつけていたときと全く同じ顔である。目の大きなかわいらしい顔つきではあるが、黙っているとそのかわいらしさは、どこかまた不気味である。
 
クリスチアヌが自宅の大きな屋敷の階段や地下の通路を歩くときなど、大きな空間や高い天井に対して、仮面をつけたクリスチアヌが、はかない存在に感じられ、痛々しくもあり不気味でもあり、あるいはまた、いとおしくもあり、これらクリスチアヌの無言のシーンは、サスペンス・ホラーというより、実に芸術性が高い。
 
ジェネシエが行なっていることは、所詮犯罪であり、結果的には帳尻を合わせて終わるが、クリスチアヌだけは生き残る。
 
クリスチアヌは手術するたびに失敗することで落胆していたが、やがては、よその娘を犠牲にしてまで手術を受けることじたいに嫌気がさし、最後は、父親の手先となっているルイーズを殺してしまう。
地下に飼っている何頭もの愛犬を檻から出すと、犬たちは、ちょうど帰宅した父ジェヌシエを襲って噛みつく。
クリスチアヌは、犬たちとともに飼われていた白い鳩も放す。父親が横たわるわきを、平然と真っ暗な木々のほうへ向かってさまよい歩く。周囲には鳥たちが飛び交っている。
このラストシーンは、物悲しいと同時に、映画ならではのメルヘンであり、サスペンス調の映画のラストシーンとしては異色である。こういうラストはあまり見たことがない。
 
当時『リラの門』などで有名なフランス映画界の重鎮ピエール・ブラッスールに加え、ルイーズ役のアリダ・ヴァリは『第三の男』で有名であり、『カサンドラ・クロス』にも老眼鏡をかけた老婦人の役で出ていた。
 
クリスチアヌ役のエディット・スコブという女優は初めて見たが、今なお現役のようである。とにかく彼女は愛らしくかわいい。美人系統ではないかもしれないが、目が大きく青く、全体にほっそりと小作りで、この女優なくしては、この映画は成立しなかっただろう。
 
実際、この子の顔をテーマとした映画だからである。この容姿の娘で、自分が皮膚移植の専門医なら、やってみたくなるという気がする。
 
顔の移植にまつわるサスペンス調の映画でありながら、常に三拍子のBGMも手伝ってか、観終わっても、どこかすがすがしささえ感じる異色作だ。
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2017年1月 4日 (水)

好きな映画一覧

<作品名>(平成29年1月4日更新)



『死刑台のエレベーター』『ディーバ』『カサブランカ』『望郷』『モロッコ』『街の灯』『メトロポリス』『M』『靴みがき』『自転車泥棒』『道』『鉄道員』『赤い風船/白い馬』『紅塵』『ローラ殺人事件』『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『汚れた顔の天使』『窓』『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『深夜の告白』『『呪いの血』『私は殺される』『拾った女』『荒馬と女』『十二人の怒れる男』『第三の男』『必死の逃亡者』『陽のあたる場所』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『去年マリエンバートで』『顔のない眼』『めまい』『サイコ』『北北西に進路をとれ』『鳥』『裸足の伯爵夫人』『穴』『非情の罠』『2001年 宇宙の旅』『マドモアゼル』『クリスマス・ツリー』『特攻大作戦』『水の中のナイフ』『帰らざる夜明け』『レマゲン鉄橋』『チャイコフスキー』『大地震』『カサンドラ・クロス』『ベニスに死す』『ラ・パロマ』『シャイニング』『ストリート・オブ・ファイヤー』『激突』『π』『普通の人々』『殺しのドレス』『レオン』『ミツバチのささやき』『マリリンとアインシュタイン』『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』『青いドレスの女』『ミスト』『天使』『ラルジャン』『遊星からの物体X』『トワイライトゾーン』『暴走機関車』『サン★ロレンツォの夜』『ボーイズ・ライフ』『評決』『キャビン・フィーバー』『刑事ジョン・ブック/目撃者』『ミザリー』『氷の微笑』『ステイ』『隠された記憶』『ファイナル・デスティネーション』『白いリボン』『倫敦から来た男』『テキサス・チェーンソー』『ゆりかごを揺らす手』『レミング』『不眠症 オリジナル版インソムニア』『ヒート』『THE WAVE  ウェイヴ』『エクスペンダブルズ1・2』『コロンビアーナ』『アンチクライスト』『メランコリア』『引き裂かれた女』『メカニック』『わたしを離さないで』『ドラゴン・タトゥーの女』『偽りなき者』『危険なプロット』『鑑定士と顔のない依頼人』『悪童日記』『トラ・トラ・トラ!』『安城家の舞踏会』『日本のいちばん長い日』『明治一代女』『どぶ』『にごりえ』『羅生門』『歌行燈』『祇園囃子』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『剣』『白い巨塔』『浮雲』『女が階段を上る時』『鍵』『悪名』『女系家族』『長崎ブルース』『約束』『鬼の棲む館』『飢餓海峡』『人間の條件』『戦争と人間』『少年時代』『仁義なき戦い』『華麗なる一族』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『砂の器』『新幹線大爆破』『県警対組織暴力』『人妻集団暴行致死事件』『泥の河』『AKIRA』『ツィゴイネルワイゼン』『家族ゲーム』『鬼龍院花子の生涯』『犬神家の一族』『マルサの女』『疑惑』『極道の妻たち』『TOMORROW  明日』『天城越え』『渚のシンドバッド』『顔』『CURE』『失楽園』『MEMORIES』『青の炎』『トウキョウソナタ』『カミュなんて知らない』『男たちの大和/YAMATO』『女はバス亭で服を着替えた』『明日の記憶』『象の背中』『ライフ』『宮城野』『白夜行』『冷たい熱帯魚』『一枚のハガキ』『11.25 自決の日』『パレード』『はやぶさ 遙かなる帰還』『桐島、部活やめるってよ』『渋谷』『SHORT PEACE ショート・ピース』『迷宮物語』『言の葉の庭』『共喰い』『そこのみにて光輝く』・・・など。




2016年12月14日 (水)

映画 『にごりえ』


監督:今井正、原作:樋口一葉〔1872(明治5年)~1896年(明治29年)〕、脚本:水木洋子、井手俊郎、主演:第一話・丹阿弥谷津子、第二話・久我美子、第三話・淡島千景、1953年、130分、モノクロ、第一話・約31分、第二話・約36分、第三話・約63分。
 
樋口一葉は、五千円札に描かれた女流作家である。とはいえ、24歳で結核により他界している。
これは、明治期の小説家・樋口一葉の短編小説を三本合わせたオムニバス映画である。ほとんど、原作に忠実と言われている。
一葉の見た明治のこの時代における、若い女たちの悲しい物語である。
 
映像は、内容を自然にそのままを描いているものの、毅然とした姿勢で撮られており、定点長回し、モンタージュ手法、クローズアップ、スポットライトなど、映画の基本的技術ばかりでありながら、こうも神々しい絵ができあがるものかと驚嘆する。
 
それぞれの話に、それぞれに薄幸な娘が出てくる。
 
第一話。
身分の高い男のもとに嫁いだ女・せき(丹阿弥谷津子)が、夫に身分の低さをはじめ、いろいろと蔑みを受けるので、耐えきれなくなって実家に戻ってくる。最後は両親に説得されて戻るのであるが、夜道だからと人力車を拾うと、その男は幼なじみであった。車を止めて、他愛のない話をしたのち、男は車を引いて去り、女は歩いて別れる。
 
第二話。
料理屋に奉公している娘・みね(久我美子)は、伯父夫婦から、大晦日までに返さなければならない金があるから、何とかならないかと頼まれる。大晦日まで言い出せず、当日も忙しいあまりに女主人に言い出せないところへ、勘当同様の先妻の道楽息子が帰ってくる。金をせびりにきたのだったが、両親から大枚を無心すると、帰っていく。
たまたま、女主人がある業者から取り立てた金を、掛け硯(かけすずり)にしまったのはみねであり、こっそりそこから二円を盗ってしまった。
しかし、あとでその掛け硯の抽斗を開けると、一切の金がなくなっており、息子の文字で、ここにあるものももらっていく、という手紙が入れてあった。
みねが二円を失敬したことは、誰にも知られなかった。
 
第三話。
遊郭で働くお力(おりき、淡島千景)は、その店一番の美貌と客あしらいで知られていた。そこへある晩、きちんとした身なりの男が現れる。何度か男が足を運ぶうちに、お力はその男に思いを寄せるが、ある夜、身の上話をする。
女郎のお力にも、かつて好き合った男がいて、いまは別れていた。だが、男のほうは、ときどきお力に会いに、その店の前に現れるのであった。お力にはすでにうっとうしい存在であった。
その男は、妻子がありながら、甲斐性もなく、働きもせず、女房になじられる日々が続いていた。夫婦喧嘩の末、女房は小さな男の子を連れて、そこを出ていく。
 
三話のあらすじはこういったところである。
 
これら儚くも悲しい、若い娘たちの日常のありさまや苦労が、映像になることで、文字以上に見るだによくわかる。
三つの話に共通するのは、背景に身分の違いが鮮明に描かれているところだ。
 
明治という時代の底辺には、たくましくけなげに生きる貧しい女たちがたくさんいた。一葉の日記風に綴られた小説は、みごとに映像に置き換えられている。
 
内容はそれとしても、映画としての品格を失わず、話にむだもなく、流れるようなカメラと演出がある。いまだに、邦画の代表作に数えられるのも当然かと思う。
 
しかし、やはり、悲しい物語には違いない。
 
第三話で、お力の回想シーンがある。
貧乏な家の娘であるお力は、寒い晩に、お金をもらって、おかずを買いに行く。そのおかずといっても、おからである。
小さなカゴにおからを抱いて帰る途中、雪道で転んでしまう。少女は、雪と泥のなかに散らばったおからを、両手で掬ってカゴに戻す。
しかし、もうそれは食べられず、その場に立ちすくんで泣きじゃくる。そこへ、母親が迎えにくる。
 
この一連のシーンにセリフはない。転んでおからをカゴに戻す少女の姿と、その泣き顔のアップだけである。
このシーンは、全く何でもないように見えて、実に悲しいシーンだ。
 
これでもかこれでもかという不運の末に、なりたくもないのになってしまったのが女郎だった、というわけである。おまけに、最後は心中するのだ。
 
出演者でわかるとおり、その後有名になる俳優が、たくさん出ている。そういう俳優たちの若い頃を見られるのも楽しい。


 
※ YouTubeにも、全編アップされています(平成28年12月14日現在)。
Troubled Waters Imai Tadashi, 1953 https://youtu.be/BsSuuE-5SDY @YouTubeさんから


 

2016年11月10日 (木)

映画 『THE WAVE ウェイヴ』

監督:デニス・ガンゼル、主演:ユルゲン・フォーゲル、2008年、108分、ドイツ映画、原題:Die Welle(英=The Wave

『エクスペリメント』などに似た、実験をテーマとした映画。それの高校生版とでもいえる。アメリカで実際に起きた事件をモデルとしドイツで作られた。

高校教師ライナー・ベンガー(ユルゲン・フォーゲル)は、校長から月曜から土曜の一週間の選択実習講義で、「独裁制」をテーマに指導するよう依頼される。

生徒たちにはディスコで踊り狂ったり、ドラッグを使っていたりするような連中もいた。テーマがテーマだけに、解説だけではわかりにくいと感じたライナーは、身をもって独裁をわからせるため、発言するときは立たせたり、自分に敬称をつけてベンガー様と呼ばせたりしながら、独裁の本質について授業を進めていく。


生徒たちは、次第に興味をもち始め、ライナーは三日目から、このクラスの統一感を出すために、全員が白いシャツを着てくることを指示する。

もともと生徒たちに人気のある教師であったため、日を追うごとに、生徒たちもベンガーの個性に憧れ、ベンガーに敬礼したり、みずから挨拶の手振りを考え出したり、クラスのロゴを考え出したりし、ついにクラスは‘Die Welle’(波)という名称までもつようになり、あたかもベンガーを独裁者とする集団が出来上がってしまう。

 

生徒の中には、さまざまな者がいるのも確かで、一日ごとの授業とは別に、それに多かれ少なかれ影響を受けながら、彼らの日常やクラスメートとの人間関係も、少しずつ変化していく。

マルコは水球部の中心メンバーであり、カロというガールフレンドもいるが、カロは白いシャツを着ていく日に赤い服を着ていき、まわりから疎遠にされ、途中からは、Die Welle に反対するポスターも作ることになる。

ティムは裕福な家庭の子であったが友達もなく、ヤクを仲間にあげて友達になり、Die Welleにいることで、ようやく自分の存在意義を見出す。このティムが最も熱狂的に従順となり、ベンガーの警護まですると言い出す。

 

初めの三日ほどは、独裁指導がクラスの団結を増し、よいほうに作用している描写もあり、クラスメート同士の協力や真剣みを増すための特効薬のはたらきをしているのも事実だ。

だが、やがて、独裁的団結の下に、スタンドプレーに走る者や、マルコのように、彼女と独裁のはざまに揺れる者も出てくる。

スポーツに芝居に恋愛に、純情に生きる高校生たちが、いかに容易に、信頼する教師からの洗脳・指導にのりやすいか、また、のめりこみやすいかが、わかりやすく描かれていく。

実際、端緒はこうして、古今東西の独裁体制も築かれていったはずと考えると、テーマの選択として、なかなか類似の映画は現れないだろうし、ドイツ映画であることも興味深い。

何人かの生徒に絞って、ベンガーや仲間との関係を描写したのがよかったし、ベンガーと同じ学校で教師をする妻とのやりとりも活きている。

最後に洗脳指導は解かれるのだが、そのショッキングなラストへと向かって、映画全体が一定のテンポで進んでいく。このテンポがいい。

脚本が丁寧に書かれている。カメラは手持ちが多いが、そんなに疲れない。なぜだかシーンごとの映像にくふうがあり、また、実にきれいである。

2016年11月 7日 (月)

映画 『窓』

監督:テッド・テズラフ(Ted Tetzlaff)、原作:コーネル・ウールリッチ、脚本:メル・ディネリ、撮影:ウィリアム・スタイナー、主演:ボビー・ドリスコル、アーサー・ケネディ、バーバラ・ヘイル、1949年、73分、モノクロ、アメリカ映画、原題:The Window
 
テッド・テズラフは、ヒッチコックの『汚名』などの撮影をしていたが、後に監督になっている。DVDのパッケージにラズラフとあるのはテズラフの間違い。
メル・ディネリは、『らせん階段』(1946年)などの脚本で知られる。
 
販売元はブロードウェイ。埋もれたフィルム・ノワールを発掘し、販売までおこなってくれる会社が出てきたのは、まことにうれしい。
ジュネス企画では、古い白黒の名作を出してくれた。こういう会社は、大事にしなければならない。
それぞれに、そういう需要が大きいということだろう。
 
冒頭に、イソップ物語の「狼と少年」の言い伝えが出る。
少年はいつも、狼が来た、と嘘をついていたので、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなかった、という話だ。
 
トミー少年(ボビー・ドリスコル)は、仲間の子供たちに、出まかせの話をするうち、会話の行きがかり上、2~3日中に引っ越すと、嘘を言ってしまう。それを聞いた近所の人たちが、翌日、引っ越すならここに住みたい人がいるから部屋を見せてくれと訪れてきた。
トミーは両親(アーサー・ケネディ、バーバラ・ヘイル)に叱られる。
 
その晩は暑かったので、トミーは非常階段で寝ることにする。上の階の外に当たるところでうとうとして目が覚めると、わずかな隙間から、その家の中が見えてしまう。そこでトミーは信じられない光景を目の当たりにした。
そのへやの住人、ケラーソン夫妻が、ある男を殺してしまったのだ。
 
翌朝、トミーは両親に話すが、嘘ばかりつくと叱られ、へやを出るなと言われる。
本当のことを黙っていられなくなったトミーは、非常階段から通りに下り、警察に行くが、やはり相手にされない。……
 
このDVDは当たりだ。わずか73分で、大きなテーマがあるわけでもないが、サスペンス映画としては秀逸だ。子供を主役にしたサスペンスであるが、出来はよい。
この程度の素材でも、作る人が作れば、立派な作品になる。
日本のサスペンス映画も見習ってほしい。
 
父役・アーサー・ケネディにしても、母役・バーバラ・ヘイルにしても、トップスターではなくても、このころ準主役級で活躍していた俳優だ。アーサー・ケネディはこの後、『必死の逃亡者』『ミクロの決死圏』などに出演している。バーバラ・ヘイルはこの後、レイモンド・バーと共演で、TVシリーズ「弁護士ペリー・メイソン」にレギュラー出演し、日本でもなじみの顔となった。
 
場所の設定がよかった。
このころのニューヨークの下町によく見られる、一般庶民のアパートが舞台だ。向かい合うアパートにロープを渡して洗濯物を干し、窓の外に非常階段があるおんぼろのアパートが舞台だ。その建物も老朽化しており、トミーたちの遊ぶところは、その建物の内側の空洞のようなところである。この老朽化しているアパートという設定が、このストーリーにはありがたい舞台なのだ。
 
脚本もすぐれている。
トミーが殺しを見たことを、両親も警察も信用しない。しかし、母親に連れられてケラーソンのへやに行くことで、逆にケラーソン夫妻は、トミーに犯行を見られたと確信し、トミーを何とかしなければ、と思い立つ。
 
前半では、トミーの目撃談を誰ひとりとして信用しないという徹底ぶりがある。後半でも、ひとりでいるトミーはケラーソン夫妻に連れ出され追い詰められていくが、三人いっしょに乗り込んだタクシーの運転手も、後部座席で喚くトミーを見て寄ってきた警官も、誰も疑惑をもたない。このあたりも徹底している。
 
つまり、トミーの話が真実であるのを知っているのは、観ているわれわれだけなのだ。それだけに、トミーが追われて屋上に逃げてからのシーンは、緊迫感が増す。
 
殺人を目撃した話はジョージ・サンダース、バーバラ・スタンウィックの『殺人目撃者』があり、子供が目撃するものには、ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック/目撃者』がある。後者は人間讃歌の側面もあり、この映画はむしろ、時代的にも前者に近い。それも、子供を主演にしたフィルム・ノワールだ。
 
カメラは特別なこともなく普通だと思うが、白黒らしい光と影を活かした描写はあるし、トミーの顔を二回に分けてアップにするという撮り方もある。母親に連れられてケラーソンのへやに行ったとき、応対したケラーソンの妻が、坊や、何を見たって言うの?というシーンでは、この女優がカメラを見て話している。カメラ、つまり観客が、トミーの目になっているわけだ。
 
舞台は日常のなかにある場面で、上映時間も長くなく、ラスト近くまで、トミーには全く救いようのない展開で、サスペンスの基本を忠実に実現した、その意味で、背伸びをしない「誠実な」映画だ。
 
ファーストシーンで、街並が映り、トミーのアパートが映り、そのなかの一つの窓がアップされていく。次のシーンで、トミーが壁に隠れて、仲間と遊んでいるシーンとなる。
この、窓への近寄りは、ヒッチコックの『サイコ』(1960年)でマネされている。
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2016年10月30日 (日)

映画 『飢餓海峡』

監督:内田吐夢(うちだ・とむ)、原作:水上勉、脚色:鈴木尚之、撮影:仲沢半次郎、音楽:冨田勲、主演:三国連太郎、左幸子、伴順三郎、1965年(昭和40年)、183分、モノクロ、東映。

杉戸八重(左幸子)が東京に出て、女郎屋に身を落ち着かせるまでが前半、10年後、八重が舞鶴に犬飼太吉(三國連太郎)を突然訪ねるところからが後半で、映画の時間もほぼ二分される。

自分の一生の恩に、ただただお礼だけを言うために、健気に娼妓の仕事をこなしてきた女、過去を忘れ、新たな人間として生き、自分の故郷の貧しい村や刑余者のために、金銭を惜しみもなく寄付する男、…女は一度でいいから男に会って礼を言いたかった、男は過去に絡む女にはどうしても会いたくなかった、…やがて男はまた、殺人を犯してしまう。

いわゆる逃亡ものであるが、人間心理や人間の業にまで入り込んだ小説を、うまく映像化している。恐山の巫女の祈祷などいくつかのシーンで、ネガにして映す(ソラリゼーション)など、心理描写を演出するのにくふうしている。

全体的にも、16ミリで撮影されたモノクロフィルムを35ミリにブローアップさせる「W106方式」という撮影方式がとられており、古典的作品を映画化したときのようなしっとりした落ち着いた映像ではなく、ザラザラとした映像シーンが多くなっている。これは、時代の不安や人物の焦燥感を表わすのに功を奏している。

ふだんお笑い調の似合う俳優をシリアスに、あるいはシリアスな雰囲気で知られる俳優をお笑いの役に使うというのは、キャスティングとして効果的で、よく使われる手だ。

喜劇役の多い伴淳三郎を、執念の刑事役とし、風見章子をあまりものを言わない犬飼の妻にするなど、効果的である。後半、舞鶴の事件捜査では、まだ若い高倉健が刑事役として出てくる。

それぞれの現地での撮影を中心に、大掛かりなロケも敢行し、ロケ現場もカメラが広くパンし、薄幸な人間たちに対峙する環境や自然も、うまく取り入れている。
特に、東京で働く八重の店の近所で、かなり横に動くシーンがあるが、セットもよく作られている、当時の東京は、こんな風だったのだろう。

大まかなストーリーは上のとおりであるが、3時間の尺をもつのは、付随的なシーンまで、細やかにフィルムに収めており、作りも丁寧だからだ。
東映は一時、長すぎるとして、監督に無断で、短いヴァージョンを作ったが、監督の抗議により、元のままの長さに戻されたという逸話がある。

しかし、この映画全編を観て、くどいほどに観ている者にうったえかけてくるものは、背景に広がる戦後の日本と、そこで何とかしてたくましく生きて行こうとする、社会の底辺にうごめく人間たちの生きざまである。

八重は犬飼の置いていった金で、あこがれの東京に出てくるが、働く場所は、まだアメリカ人やヤクザが闊歩するドヤ街の一杯飲み屋であった。そこを出て、ある女郎屋に世話になるが、初めて訪れたその店で、そこに置いてもらうことになったとき、うれし泣きをする。

荷物を取りに帰り、あす朝にはこちらに来る、と言って去ろうとするときの、おかみのちょっとした言葉がきっかけである。「あ、ちょいと、電車賃あるのかい?」

どんなにあこがれて来た東京でも、結局は大湊でしていたことと同じようなことをしなければならないのに、ここに置いてもらうことができてうれしいんです、と言って泣きじゃくる。
貧乏のどん底で、厄介になる置屋がようやく見つかり、電車賃のことまで気遣ってくれる、・・・八重の気持ちは痛いほどわかる。このシーンは涙を誘う。

八重は、大湊の女郎屋で犬飼と時を過ごすなかで、犬飼の伸びた爪を切ってあげる。行方をくらました犬飼の思い出は、へやで偶然踏んだその親指の爪しかなかった。現金と同じように、その爪を懐紙にくるんで後生大事に持ち続けたのである。
女郎屋の自分のへやで、その金と爪を取り出し、犬飼さんと呼びながら、爪を自分の頬や首に当てて動き回る。この映画唯一の官能のシーンである。

犬飼も貧しい男だった。それでもとにかく生きて行かねばならなかった。後半は嘘つきで傲慢な紳士のように映るが、貧困のルーツは八重と同じである。その八重さえも殺してしまう犬飼は、本当の意味での畜生になってしまった。

犬飼と八重の出会いは、森林軌道の後ろにつながれた客車でであった。そこで八重は、昼飯のおにぎりを頬張るが、その一つを犬飼にやるのである。例のおにぎりのシーンである。八重がなぜそういう親切をしたかといえば、その直前、犬飼の近くにいる婆さんに、タバコをひと箱恵んでやったのを見ていたからである。その婆さんは初め、床に落ちている吸い殻に火をつけようとしていたからだ。タバコも貴重な品であった。
これがまさに、運命の出会いであった。

映画として渾身のできばえである。単に長い作品なのではなく、映画としての楽しさを見せながら、人間の心理の奥底、人間のけなげさ、善悪といったものにまで踏み込んで描き出した重厚な作品となっている。

そして、実に悲しい話でもある。

映画 『言の葉の庭』

監督・原作・脚本・絵コンテ・撮影・編集:新海誠、音楽:KASHIWA Daisuke、声の出演:入野自由、花澤香菜、主題歌:秦基博「Rain」、2013年、46分。

『秒速5センチメートル』の映像美やセンチメンタリズムには共感したが、私は「映画」として観てしまうので、ドラマやエンタメ性は味わえないままであった。というより、そういったものは初めから捨象されていたかのようであった。

これに比べれば、『言の葉の庭』は、映画としても秀逸な仕上がりになっている。強めではないがドラマ性もあり、核があるから周辺の曖昧さも生きてくる。

キャッチコピーは「"愛"よりも昔、"孤悲(こい)"のものがたり。」とあるが、万葉集には、「恋」に、「古非」「古比」「孤悲」といった文字を当てた歌があるそうだ。「孤」は孤独を意味し、「悲」は文字通り悲しみを意味しているのだろう。

高校1年で15歳のタカオ(秋月孝雄、あきづき・たかお)は、雨が好きで、年よりは少し大人びた実直な性格をしている。

朝の通学時、新宿で乗り換えるとき、雨が降っていると、一限をさぼって、わざと新宿にある広い庭園(新宿御苑)まで行き、東屋で靴のスケッチをすることにしていた。タカオは靴職人になるのが夢であった。

ある日、いつものように庭園に行くと、そこにはOL風の妙齢の女性が座っていた。しかし、脇にはチョコレートを置き、朝から缶ビールを飲んでいる姿に、とまどいと違和感を感じる。ただ、どこかで会ったような気もした。

タカオが消しゴムを落とし、女性が拾ってくれたのをきっかけに、言葉を交わし、その後会うたびに、少しずつ会話するようになる。女性がユキノ(雪野百香里、ゆきの・ゆかり)という名であることを知るのは、それよりずっと後のことであった。・・・・・・

雨の日の朝、二人はその同じ場所で何度か会うことになる。
後に明らかになるが、ユキノはタカオのいる高校の古典の教師であった。ある一件と噂に押されて、ユキノは学校に足が向かなくなっていたのだ。

二人が初めて会ったとき、ユキノはタカオに、次の歌を残して去っていく。これは『万葉集』の柿本人麻呂の短歌だ。女から男に向けて詠んだものだ。

雷神(鳴る神、なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇(くも)り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ

訳:雷の音がかすかに響いて、空も曇り、雨も降ってこないでしょうか。もしそうなれば、このままあなたをここに引き留めておくことができるでしょうに。

何度目かの出会いのとき、タカオはユキノに次の歌を返す。同じく、柿本人麻呂の短歌で、男から女に向けて詠まれている。

雷神の 少し響みて 降らずとも 吾(わ)は留(とど)まらん 妹(いも)し留(とど)めば

訳:雷の音がかすかに響くくらいなら、雨が降らなくても、私は留まりますよ、あなたが引き留めてくれるならば。

俄かに豪雨になり、タカオはユキノのへやに行き、服を乾かしてもらうかわりに、料理を作る。そして終末を迎える。
ついに、二人は互いに、ホンネをぶつけ合ってしまうのであった。

冒頭からラストまで、ほとんどのシーンで雨が降っている。
洋画での雨もそうだが、特にかつての邦画で使われる雨は、多分に演出として使われる。悲しい出来事の前触れであったり、別れを暗示したりするほか、女の涙や恍惚を象徴している。それは演歌に出てくるときも同様だ。

しかし、この映画の雨には、鬱陶しさや湿気というものを感じない。多くの日本の映画で、雨がおよそ肉感的な道具や別離の象徴として使われてきたのに対し、この映画の雨にはそれを感じない。

雨自体が美しさやはかなさの象徴であり、それを背景として、二人の物語はゆっくりと前へ進む。雨の粒が、池の面に当たったり、木々の葉に当たったりする描写もみごとで、一つ一つの雨のしずくが輝いているように見える。

ある日、タカオはユキノに合う靴を作るとして、ユキノの足のサイズを測る。ユキノは裸足になってベンチの上に立つ。タカオが初めてユキノの素肌に触れる。この映画で、官能が描写されるシーンだ。
このシーンから、映画『天城越え』(1983年)を思い出した。中学生である少年(建造、伊藤洋一)がハナ(田中裕子)から、足指の股の擦れを手当てしてもらうシーンだ。他に比べると長いこのシーンは、少年が官能の扉を開けたことを象徴している。

季節は、梅雨入りから、エンドロールでの雪の日につづく。
ひとり庭園に来たタカオは、ユキノのために作った靴を、脇に置く。

靴の製作だけに専念する一途な少年と、心に傷をもつ女性との淡い恋の季節を、静かに描き出した佳作である。