2016年11月30日 (水)

練習機での特攻 (平成28年11月30日)

海陸の特攻では、徐々にまともな戦闘機などもなくなり、セコハンものの航空機を総動員しても間に合わず、ついには練習機として使われていた機体までも使うようになった。
特に最終盤である沖縄特攻では、それが顕著である。練習機だけは、あちらこちらの基地にたくさん残っていたのである。...

練習機は通称「赤とんぼ」(※)と言われる複葉機であった。満洲事変から太平洋戦争に至る間で、複葉機で戦闘したのは、重慶におけるシナ空軍くらいであった。当時、最新鋭機として登場した零式艦上戦闘機が重慶爆撃にも使われた。
(※海軍九三式中間練習機。練習機の多くはオレンジ色で複葉なのでこう呼ばれた。特攻の際は、濃い色に塗り替えた。練習機といえども性能はよかった。)

零戦飛来の噂を聞きつけたシナ軍は、さらに奥地へと逃げ込み、業を煮やした零戦隊は、引き上げると見せかけてUターンし、猛スピードでシナ複葉機を追いかけた。大人と子供の喧嘩であった。まさしく鎧袖一触(がいしゅういっしょく)であった。
シナ軍の複葉機はそれなりの戦闘機であったが、沖縄特攻での複葉機は練習機だったのである。

航空機の練習機は二人乗りで、前席の操縦席に練習生が乗り、後部に教官が乗る。特攻のときは、教官はいらないわけだから、一人で乗った。

かつて「特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」の読者投稿欄に書いたことがある。秘密特攻基地といわれた万世などは、村人たちも手伝った急場しのぎのでこぼこ滑走路しかなく、そこから使い古した特攻機で沖縄に向けて飛び立った。せめて特攻くらい、整地された最良の滑走路から飛ばせてあげたかったなあ、と。

同協会の会報『特攻』より、「赤とんぼ特攻隊」の記事を転載します。
掲載は平成21年11月号、庭月野英樹という方からの投稿です。
文中の予備練(予備練習生)は、予科練(予科練習生)や飛行科予備学生ではありません。

<嗚呼壮絶「赤トンボ特攻隊」 14期海軍飛行科甲種予備練>

 先の大戦で愛機の胴体の下に爆弾を抱いて、飛行機ごと敵艦船に体当たりの「特攻攻撃」を敢行した戦闘機や攻撃機など、2400余機、3800余人の若人達が、肉親、同胞、祖国を護るために自らの命を捧げました。

 その中に、帆布張り、張り線付き(上翼と下翼の間に数本の張り線があった)、木製プロペラ、二枚羽根の「赤トンボ練習機」が、7機あったのです。終戦の17日前、昭和20年7月29、30日深夜に宮古島基地を飛び立ち、沖縄の敵駆逐艦に見事体当たりをして撃沈しました。

 現代の航空機に搭載されている方向指示器、レーダー、無線通信機、機銃も積んでいない練習機で、月夜とはいえ、目標の見えない太平洋を、250キロもの重い爆弾を積んで、深夜の海を飛んでいきました。

 選抜された優秀な若者達でした。終戦がもう少し早ければこの人達も生き残り、官庁や民間で立派な仕事をしたであろうことを思えば、本当に残念でなりません。戦争は、二度としてはなりません。

 一緒に征くはずだった私は、同期の玉井上飛曹、特乙一期の島内二飛曹と共に、6月20日に千葉県木更津の彩雲特攻隊に転勤、訓練を終えて、8月15日出撃予定でしたが、終戦により生き残りました。たまたま3人は長男でした。

 この特攻隊は、昭和20年5月に台湾の虎尾海軍航空基地で編成されました。それまで私達は、昭和19年4月から沖縄、石垣島で1年間、敵の潜水艦哨戒任務に就いていましたが、951航空隊石垣島派遣隊の二式哨戒機を連合軍の空襲で消失しました。そこで、予備練同期の三村、玉井、小生及び特乙一期の島内二飛曹と一緒に、この特攻隊に編入されました。

 先着組の零戦搭乗員による第一次8機、第二次7機は、いずれも天候その他で、途中の与那国島に不時着、大破して中止となりました。
 第三次は、私達3名が転勤してから7月27日に、三村上飛曹(水偵出身予備練)、庵一飛曹(丙飛6期)、甲飛12期の佐原、川平一飛曹、原一飛曹、近藤一飛曹、松田一飛曹により編成されたとのことです。

 米軍の記録によれば、駆逐艦キャラハンを撃沈、同じくブリシット、カッシングヤング、高速輸送艦ホーレス・A・バスに命中して、損傷を与えたことが報告されています。練習機7機で4隻の敵艦に損傷を与え、250キロ爆弾で1隻を撃沈したのですから、素晴らしい戦果でした。
 
このキャラハンは、特攻に撃沈された最後の米国艦艇だそうです。米軍側にも油断があったようですが、この帆布張り、低速の特攻機は、レーダーが捕捉できず、VT信管の対空砲火も効果がなかったとのことのようです。
このように、帆布張り、張り線付き二枚翼、木製プロペラ、拙劣な計器にも拘わらず、深夜の太平洋を、最後の最後まで、強固な意志で突撃した隊員達の勇気には、深甚の敬意を捧げたいと思います。

(私達予備練14期は、昭和19年4月15日、姫路海軍航空隊の九七艦攻操縦課程修業、即日充員召集、一飛曹に任命され、沖縄海軍航空隊付、19年8月現役編入、19年11月上飛曹、20年3月15日石垣島派遣隊、20年5月台湾虎尾基地龍虎特攻隊、同年6月10日723空彩雲特攻隊。)

2016年8月22日 (月)

親米保守とは、一線を画す (平成28年8月22日)

 私は、さまざまな政策に関し、根底では、アメリカという国を信用していません。
というより、まず、感覚的に嫌いなのです。
 
これは、戦争の現場だからお互いさまですが、歴史の因果に一切触れずに言えば、事実として、若く優秀な親類が米軍の攻撃を受けて殺された、ということが原点にあります。
 
古い価値観を背負ったままでいると非難されそうですが、この事実を消すことはできません。簡単にいえば、ヤンキーゴーホームという心理が、いまだに心のどこかにあるのです。
ロシアを露助、中国をチャンコロと呼ぶように、私にとってアメリカは毛唐なのです。
 
かつて、小泉内閣当時の終戦の日に、アメリカ人が靖国神社の神門手前で、小泉総理賛成と書いた札と、アメリカ国旗を持って、参拝者の注目を浴びようと立っていました。そのこと自体が、場所柄や日柄をわきまえない、大変低能なことと思います。動画にもアップされていました。
 
一部の日本人の年寄りがこの男と握手などしていましたが、私にはとても不快な光景です。
ところがその直後、右翼の青年たちなどが来て、そのアメリカ人に文句を言い始めました。そこに「毛唐!」という言葉も聞かれ、すっきりした覚えがあります。
騒ぎを聞いて駆けつけた警察官により、この男は靖国通りの反対側に連れていかれました。
 
その混乱のなか、靖国神社の神官も寄ってきて、いいことを言いました。
「あなたは、もうお参りしたのですか?」
もみくちゃにされていたので、音声は聞き取れませんでしたが、おそらく参拝などしていなかったでしょう。
こういうお祭りバカには、靖国の参道にさえ、入ってきてほしくないものです。
 
日常的にアメリカの映画や製品を享受しているとはいえ、まず、感覚的に、国家としてこの国を「好き」にはなれません。
 
歴史的にも、結論は同じです。
 
アメリカは実に、利己的な勢力拡大政策だけをとってきました。
多かれ少なかれ、どの国も自国の利益を優先させるのは当然ではあっても、その勢力の拡大のためには、正義も法もなかった、というのが、アメリカの歴史です。
 
戦前戦後から、資源や物量と広い国土ゆえの大国だっただけです。それを基盤とし、自由を尊重する大国としてさまざまな発明・発見があり、能力的にも秀でた人材をもつ国家であるというのは認めます。
一方で、イギリスからの逃避と独立、その後のフロンティア精神という美名のもとでのインディアンなど先住民族の駆逐、フィリピン争奪のためのスペインとの戦争やハワイの占領などは、まさに現在、中国がチベットやモンゴルでおこなっていることと軌を一にすると思うのです。真珠湾攻撃のとき、ハワイはまだアメリカの州ではありませんでした。
 
帝国主義の時代のイギリスやオランダの動きを見て、遅れをとるなと思ったのは理解できます。人道主義の一面もあり、相手を尊重して議論することもできます。民主主義の成熟した国家をめざしてきたことも事実として認めましょう。
 
しかし、そのアメリカ自体にも問題は山積しており、国内の問題は、そう簡単に解決はしていません。
 
国際機関といわれる国際連合についても同様です。
 
第一次世界大戦後、世界の平和と進歩のために、まずは、日本も常任理事国として加盟した国際連盟ができましたが、アメリカは議会の承認を得られず、結局、不参加となりました。
第二次大戦後、国際連合なるものができ、日本も参加しましたが、国際連合とは名訳で、United Nations ですから、米英側連合国の結束を、そのまま世界平和を希求する国家間の結びつきに衣替えしただけです。
 
柔軟な思考をもつアメリカが、国連に関することにだけは、何の変革も求めず、アメリカに次いで拠出金の多い日本については、いまだに非常任理事国のままにして、中国に大きな顔をさせたまま、拱手傍観の体を崩していません。
ましてや、核を持ちながら、核縮小に向けての発言を繰り返すなど、矛盾しています。
 
国家間の協力と、国家間の独立とは、別です。
独立した国家が、相互に協力し合うなら、それは初めて国家間の協力となるでしょう。
 
ちょうど、保守回帰の機運が高まってきました。
憲法改正を初めとして、アメリカが講じた占領政策の「恩恵」からは、いい加減に足を洗わなければなりません。仮にアメリカが、恩を返せというなら、もう遠の昔に返し終わっていると思います。
 
憲法改正やアメリカからの乳離れと、日米安保や在日米軍基地とは矛盾しません。
独立国家が、防衛面で協力するのは、今後アジアにおいてもよく見られることになるでしょう。
 
しかし、ずっと遠い将来、アメリカの世話にならずとも、防衛面で、日本がひとり充実した国家となる方向を目指すべきです。
そこから、インド、ベトナム、フィリピンなどアジアの国々や、洋上の島国などとの、新たな協力関係や行き来が生まれてくるものと考えます。
 
いずれにしても、アメリカの国益を優先させるために日本が犠牲になる、という図式からは、少しずつ脱却していかねばなりません。

2016年7月29日 (金)

新たなサヨクの指南役・岡原正幸 (平成28年7月29日)

近眼且つ学の素養のない有田芳生のアホがミスタッチしていたが、岡原正幸・慶大教授が言っているのは、「ヘイトクライム」についてである。

フォトは28日付・東京新聞に載った岡原の原稿だ。ヨシフは、ここからの一部を、自分のツイートに引用した。前後を読めば、ヨシフのツイートは、自分にとって都合のいい「いいとこ取り」だということがわかる。

岡原は、27日付フェイスブックで、こう書いている。
(岡原正幸 https://www.facebook.com/masayuki.okahara

   ▼
今朝の報道、ワイドショーでも、一部「ヘイトクライム」との指摘はあったが、依然として、狂った個人の物語に収斂させようとしている。

しかし、これは思想による犯罪なのだ。優生思想が思想と言われる所以は、それが個人的なものではなく、ある意味で公的社会的だということだ。優生思想はいまも色々な形で生きている。出生前検診の結果で、障害ある胎児にいかなる態度がとられているか。母体保護法での経済事由はいかに運用されるか。植物状態への議論など、優生思想のある部分は今も形を変えこの間、生きられている。

この国では思想を刑事犯罪には問わない。しかし、それを間違っている、この国の方向は違うとは、言えるのだ。首相個人の見解でもいい。表現の自由の圧殺ではない。

この間、生活保護受給者への締め付け、生かされているだけの末期患者に対してこれでいいのか、という指摘、などなど、実は、公的に庇護すべき弱き存在への風当たりを強くしたのは、どの政府だ。
容疑者が自分を認めてくれるかもしれないと陳情書を書きその宛先にしたのは、なぜ大島議長で安倍首相なのか。
彼は狂った個人ではない、大義を果たし、国士として、連行される車内で振舞っているじゃないか。

国のリーダーにはすべきことがある。
またワイドショーでも、彼のこの思想を、狂っているのではなく、間違った思想として取り上げてほしい。このままでは彼の思想が全国にばら撒かれるだけになるかもしれないじゃないか。
   ▲

東京新聞の肩書きでは、かれの専門は「障害学」とある。なんだ?それは?

どちらにせよ、岡原の専門の中心は、常に、社会的弱者であり、それも特に、障害者の目線で社会を捉えることにある。
障害者が登場する事案については、それが加害の立場であろうと被害の立場であろうと、目が輝くのだ。

今回の事件に関し岡原が言いたいのは、

キチガイが行った凶行だ、として簡単に片づけるな!
こういう人間をこしらえたのはほかならぬ国家そのものである!
国家はそれなりの対応を示せて初めて、国家たりえる!

ということだ。

典型的なサヨク思考である。

院生時代、机を並べた関係で、岡原正幸の人となりは、よく知っているつもりだが、今後メディアへの露出が多くなればなるほど、その発言はサヨクに与(くみ)するものとなろう。これは、マルクス主義者でありフェミニストとしてサヨクを指南してきた上野千鶴子以上の影響をもつだろう。

といって、おそらく、簡単に・頻繁に、メディアに現れるヤツではない。
「仕込み」がうまいので、その点かえって、要注意なのである。

<参考>

A君は、なぜサヨク教授になったか (2016年3月29日) http://bit.ly/1qdSoLV @syuya_yui

A君とは、岡原正幸である。

Okahara21495x345

13882216_10207381615203496_75565115



2016年7月14日 (木)

都知事選、告示 (平成28年7月14日)

前回のブログ、「小池百合子・衆議院議員、都知事選出馬表明 http://bit.ly/28ZTUs8 @syuya_yui(平成28年6月29日)」で、予想と異なる点が二ヶ所出ていた。

「小池としては、さまざまな状況からして、党が公認を出さざるを得なくなるだろう、と読んでいるはずだ。

仮に公認されなくても出るだろう。」

 

小池本人はそう読んでいたかわからないが、少なくとも私は、この時点では、自民党都連も公認せざるを得ないだろうと思っていた。

 

「自民党東京都連も動きが遅い。小池の出馬表明が唐突だと言っているが、これはそのうち静かになる。これもホンネは、守屋と同じで、俺のほうに先に相談がない、女が防衛省の大臣?女が都知事?女が俺たちの上に立つ?といった程度のところだろう。小池は、少なくとも田中真紀子とは違う。」

 

したがって、「これはそのうち静かになる」という予想もはずれた。

 

 

 

実は、自民党東京都連(自由民主党東京都支部連合会 https://www.tokyo-jimin.jp/introduction2/、会長・石原伸晃、幹事長・内田茂)にとって、小池百合子は、「最もおとなしくしていてほしい」人物だったのである。

 

そこで、小池以外で、これに対抗でき、自分たち都連の言うとおりに動いてくれて、そこそこ実績のある人物なら、誰でもいい、・・・となり、尻に火がつき、候補者を選び始めたのである。

すでに、その第一号、元・総務事務次官・櫻井俊には、けんもほろろに断られていた。

 

 

 

その後、党都連が増田寛也を担ぎ出すことになり、自民党は増田を党として推薦し、非推薦の候補者を応援する議員は、その家族が応援したとしても、除名などの処分をおこなうと脅すことになった。公明党も増田を支持することになり、大方の組織票を得て、その経歴や信条とは無関係に、増田がトップ当選する可能性が強くなった。

 

宇都宮健児が立候補から身を引いた翌日の今日は、告示日であるが、すでに、3位までの得票は、1.増田寛也、2・鳥越俊太郎、3・小池百合子、となるだろうとの予想があちこちで囁かれている。

 

 

 

増田寛也という人間について、ほとんど印象になかった。総務大臣をしていたな、くらいである。

その後、さまざまな情報を得て、実務に長けてはいるものの、実行力に乏しく、官僚の評判も高くなく、上からは使いやすいイエスマンだということがわかった。

 

外国人参政権に賛成という一点だけでも、反対せざるを得ないのに、風采の上らない容姿、かつらをかぶったような頭、短い首、近眼の小さい目、・・・東京都の代表として、こんな顔は最もふさわしくない。

都連の選択に、都民は不在のようだ。

 

舛添知事以来の都内公共工事にかかわる利権は、都連幹事長の内田茂が牛耳ってきたのであり、世間知らずの石原伸晃は、高校中退の土建屋上がり・内田茂に、いいように懐柔されてきたのである。

 

防衛大臣時代、ほとんど唐突な印象をもった事務次官・守屋武昌夫妻の収賄による逮捕は、おそらく小池百合子が収集した情報の発動であったと思われる。

これと同様に、都知事に打ってでるからには、小池もそのあたりの「黒い情報」はつかんでいるに違いない。

いや、多くの議員がそれを知っているのだが、あえて頬かむりを決め込んでいるだけなのだ。

 

ところが、小池が都知事になれば、したたかな動き方をする人物なので、その行動を読めない。そればかりか、利権に妙にメスを入れられて、その利権を失うのではないか、ややもすれば、収賄が摘発されるのではないか、といったおそれがあり、合法的手段によって、小池をつぶそうとしているのである。

 

こうしてみると、増田も、高給と再びの退職金を約束され、担がれ出された官僚神輿である。小池百合子のいう「東京に行政官は不要」という発言は、こうした動きを懸念して、知事としてのありようをシニカルに指摘したものであった。

 

 

 

東京は、それ自体が「移民都市」である。日本に対する外国人のように、東京都には他道府県からの移入が多い。就職や学校に通うため上京していた人たちが、やがて定着して所帯をもち、住民票を移して都民になったのである。

こういう人々の多くは、都知事が誰になろうと関係ないのであろう。

 

今回の参院選では、あれだけの売国性、政治の誤り、国家の舵取りに対する素人ぶりが明らかになっても、なお、民進党の候補者が莫大な票を集める。一人だけだったとはいえ、共産党も若い弁護士が当選した。

 

かつてニューヨークは「人種のるつぼ」と言われた。東京都も、住民はさながら「ごった煮」のようなものである。

自民党は、東京選挙区で、三人目に候補者を出さなかった。落ちたかも知れないが、結果はわからない。その人物も公認して党が応援すれば、票は伸び、小川敏夫を落選させることができたかも知れない。中核派の代表や反原発の活動家さえ、相当な票を得ている。

 

 

 

人心は把握しにくい。日本人の特性として、あの人がいいと言うなら、私も・・・、というのが投票の実態だろう。あの人とは、配偶者かも知れない、サークルの代表かも知れない、テレビのタレントかも知れない、・・・それでも一票になる。応援する人によっても、候補者の印象は変わる。

 

半月ほどの選挙期間に、何が起こるかわからないが、告示日前後の予想がそのとおり当たったら、おもしろくない。

同時に、自民党のよくない面を見せつけられたようで不愉快になる。

 

ものごとは程度だ。利権を得、与えさせるのも、政治を潤滑に安定して進ませるためには必要なことではあろう。党内を一本にまとめるために、党内を引き締めること自体も、理解できる。

ただし、それが蚕の繭のように、外から見えなくなっているなら問題だ。オープンにできないということは、そういう理由があるからということになる。

 

 

 

小池百合子が、安倍総裁の政敵・石破茂の応援団として動いたことを理由に、安倍晋三・自民党総裁の不興を買っているのは、都連にとっては好都合だったろう。

党が公認をするということは、総裁の決済を受けているということだ。

 

選挙の過程で、ツイッターや保守系サイトなどを中心に、都連に関することがいろいろ暴かれていく気がする。これは小池がリークしなくても、情報網をもっている機関なら、ある程度可能なことだ。

 

組織の常識として、安倍総裁は、これら「すべて」を了承し是認しているわけであり、増田寛也当選に向けて、都連に対し発破をかけているわけだ。

何とも複雑であり、今更ながら私は、自民党員にはなれないと思う次第だ。

 

 

 

都知事が誰になろうと関係ない、と思っている人々が多い東京都ではあるが、都民は住民税などを徴収されているのであり、売国性に強い人物に使われたくはない。都知事が誰になろうと関係ない、と思っている人々も、いざとなれば投票に行くのだろう。

 

小池百合子が、自公の組織票を頼みとする増田寛也をやぶったとしたら、それは「大衆」である都民の勝利、ということになるだろう。まさに「大衆の反逆」である。

 

2016年6月29日 (水)

小池百合子・衆議院議員、都知事選出馬表明 (平成28年6月29日)

私の住む豊島区選出の衆議院議員・小池百合子が、都知事選への立候補を表明した。

もともとは比例近畿ブロックにいたが、2005年の衆院選(郵政選挙)の際、刺客候補としてやってきたのである。

いくつかの党を渡り歩いたことでも知られ、外国人が日本国籍をとることには寛容である立場をとることからして、いっとき、移民賛成派ではないのかとして保守側から批判されたこともある。人口減少をつづける日本に、外国人労働者が入ってくることにも賛成であった。
公明党や幸福実現党双方から選挙協力を得たことも事実である。

一方、しつこいほどに資料を調べるなど勉強家の一面もあり、英語のほかアラビア語に堪能なことでも知られ、頭の回転も早い。過去に、環境大臣、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣、自民党総務会長などの要職をこなし、党広報本部長となった。

今度の舛添辞任は、小池にとってかっこうのチャンスと映ったであろう。
自民党内で党三役に就き、厚生労働大臣や文部科学大臣などではなく、防衛大臣を務めた実績も大きい。安倍政権下、大臣在任はわずか二ヶ月ほどであったが、前大臣のリリーフ役を務めると同時に、当時の防衛事務次官・守屋武昌の収賄を暴いたのは、議員である小池の調査能力によるものであろう。

しかし、まさにこの一件以来、(私の想像だが)安倍首相は、小池を党務に専念させることにしたようだ。表に出すのはよくない、何か起こすと面倒だ、という印象を、安倍首相に植え付けてしまったのだろう。
小池の経歴上、表に出て突然動く、というスタイルが、よいほうに転んだことはたくさんある。あとで党内からスタンドプレーだと言われても、結果的に、その行動が内外から評価され、既成事実として反論されにくい状況をつくったことも多い。
そしてそれらは、国益に寄与していた。

今回も、いかにも彼女らしい「現われ方」であった。
確かに自民党党員として、党内で党のために活躍はしているが、議員であるからには、表に出たいというのがホンネであろう。
といって、首相としては、党三役や、短期とはいえ防衛大臣まで務めた当選回数の多い議員を、党内下流の立場に置くこともできない。
さらに、安倍首相の複雑な心中もある。

それゆえ、小池としては、都知事選は、願ってもないチャンスと映ったに違いないのだ。
立候補表明したからには、当選するつもりだろう。
知名度や印象からすれば、当選圏内にいるだろう。

石原都知事以降、都知事選の候補者選びに、自民党は常に後手に回っている。そもそも、後ろ足で砂をかけて出て行った舛添を、公認にするのが誤りであった。しかし、当時は、舛添をおいて、自民党寄りの候補者で、勝てる人材がいなかったのも確かだ。
何もしなければ、サヨク弁護士・宇都宮健児が都知事になってしまっていた。

再三、固辞しつづける前総務事務次官・桜井俊に、自民党が候補を打診するとは噴飯ものだ。
記者が聞いても固辞するが、自民党が要請したら快諾するとでも思ったのだろうか。
しかも、桜井俊の役人としての人脈は、小池百合子のそれに遠く及ばない。そもそも当選はありえない。

小池百合子は、ひと昔前の言い方をすれば、明らかにタカ派である。
サヨクの有権者は賛同しないだろう。保守派の人間にも、距離を置く人が多い。
ただ、都知事は、東京都の行政を取りしきるのであって、外交課題・防衛課題は馴染まない。それは舛添のおこなったことからしても、都民の目は厳しい。

もうすぐ64歳になる小池としては、党内実務も大事だが、「表に出る」恰好の機会に違いない。
記者会見では、党の公認を得られなくても出るのか、という質問が繰り返された。
小池としては、さまざまな状況からして、党が公認を出さざるを得なくなるだろう、と読んでいるはずだ。

仮に公認されなくても出るだろう。そうなれば、党籍がありながら、党の名前を連呼しなくて済むだけに、かえって自由に遊説できるくらいに思っているに違いない。
党の爺さん議員よりは、したたかな女性である。

自民党東京都連も動きが遅い。小池の出馬表明が唐突だと言っているが、これはそのうち静かになる。これもホンネは、守屋と同じで、俺のほうに先に相談がない、女が防衛省の大臣?女が都知事?女が俺たちの上に立つ?といった程度のところだろう。小池は、少なくとも田中真紀子とは違う。
この程度だから、都議会議員に共産党が増えるのだ。

さて、前回は田母神俊雄に一票を入れたのだが、野党はもちろん、まわりに言われて出てくるような候補者には入れたくない。
ほかに有力な候補者がいなければ、小池を応援するほかない。一票を投じた候補者が当選してくれるのが、有権者としては最もうれしいものだ。

2016年6月 4日 (土)

「ヘイトスピーチに関する法律」 (平成28年6月4日・記)

正式名称、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」は、案として、5月13日に、「先に」参議院で投票がおこなわれ、次のような結果になり、賛成多数で成立した。(http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/190/190-0513-v014.htm

投票総数 228   賛成票 221   反対票 7

参議院242議席のうち、14票は白票だったことになる。

自民党はほとんど、公明・共産・おおさか維新は全員が賛成、白票は自民党その他に散らばっている。

参議院で審議されていた法案は、そのまま本会議採決まで運ばれた。
この後、直ちに衆議院に回され、5月24日に本会議で採決され、賛成多数により成立し、6月3日に公布され、「公布と同時に施行」された。

ある意味、大変あわただしく、でたとこ勝負のような勢いと経緯で成立したのである。

この法案は、参議院での結果からわかるとおり、左右双方が賛成していると同時に、左右双方が反対している不思議な法律である。
それが証拠に、成立以後一週間が経つというのに、法律についての批判の声は、左右どちらにおいても大きくない。

その略称さえ、一定のものがない。
ここでは無難に、「ヘイトスピーチに関する法律」という、間の抜けた言い方にした。

あえて言えば、「ヘイトスピーチ規制法」という呼称がまだ多いほうかな、と思うくらいだ。
ただこれでさえ、サヨク側からは、罰条もなく、規制法というにはその内容が不充分だという声があり、保守側には、内容に片手落ちの部分があり、法案自体が急いでつくられた経緯もあり、「横に見る」くらいの存在感しかなく、一般的に罰条のない法律を規制法と呼ぶにはためらいがあるようだ。

まさに、こうした「とまどい」や「躊躇」が、全会一致に近い賛成を得ながら、日本のこころを大切にする党の三名全員が反対、社民党も吉田忠智は白票であるが、事実上三名全員が反対という結果に反映されている。

2014年8月の自由権規約委員会において、日本は「日本の第6回定期報告に関する最終見解」として、ヘイトスピーチ及び人種差別に対応することを申し合わせた。(→http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000054774.pdf)

同時に、同年9月、人種差別撤廃委員会において、「日本の第7回・第8回・第9回定期報告に関する最終見解」として、ヘイトスピーチ及びヘイトクライムに対応することを申し合わせた。(→http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000060749.pdf)

これら国際的な動きや勧告にしたがって、かなり急いでつくられたのが、このたびの「ヘイトスピーチに関する法律」である。

この、自由権規約委員会と人種差別撤廃委員会の勧告は、ヘイトスピーチだけにとどまらない。ご覧いただけばおわかりのとおり、死刑廃止などを含め、日本の伝統や歴史の流れに背くものばかりで、今後すべてこの勧告通りにした場合、日本という国家のアイデンティティは、国連によって骨抜きにされる可能性がある。

われわれがそこまで気が付くのだから、国会議員も立場こそ違え、これについてはみな承知しているところだろう。

自民党側が急いだのは、「取り急ぎ」つくることで、国連からの批判をかわす狙いがあったのは明らかだ。
国際社会において、安倍首相の熱心で誠実な外交は一定の評価を受けており、将来の常任理事国入りのためにも、国際社会全体の印象を良く保っておく必要がある。

民進党・共産党など野党売国奴側は、もともとこんな法律さえなかったのだから、とにかく成立することは願ったりかなったりだった。それでも、真の狙いは、この法律を自分たちの勢力拡大のツールにし、何かにつけ、水戸黄門が印籠を示すような効果を予定しているのだろう。

この法律をツールにした野党の勢力拡大方針を、同じサヨク側として糾弾してきたのが中核派や革マル派などの過激派であり、福島みずほや山本太郎が、白票どころか反対票を入れたのも納得できる。

この法律には前文が置かれている。(→http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/190/meisai/m19007190006.htm


 我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することを煽(せん)動する不当な差別的言動が行われ、その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている。
 もとより、このような不当な差別的言動はあってはならず、こうした事態をこのまま看過することは、国際社会において我が国の占める地位に照らしても、ふさわしいものではない。
 ここに、このような不当な差別的言動は許されないことを宣言するとともに、更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進すべく、この法律を制定する。

このうち、「国際社会において我が国の占める地位に照らしても、・・・」のくだりは必須だったろう。

これに続き、総則が置かれ定義、基本理念が書かれる。


 この法律において「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下1において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加える旨を告知するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。

この定義は漠然としているが、初めから罰条を設けるつもりがなかったとすれば、受信契約を定めた放送法64条と同様、努力義務の法律なのであって、包括的な定義でいいと判断したのだろう。

前文と定義を比較する限り、国連へのアピールという点では、本文より前文のほうに重きがあるような印象であり、実際、それが本当のところだろう。

罰条がないだけに、サヨク弁護士が主張する「違反」や「禁止」という言葉がないのは当然だが、
マイノリティの味方を自認する連中は、不当な差別的言動の対象に、「本邦外出身者」や「適法に居住するその出身者又はその子孫・・・」というしばりがあることに、最も不満なのだ。

すなわち、「アイヌ民族、琉球・沖縄の人々、また被差別部落といった国内のマイノリティに対してヘイトスピーチをしても適用対象外とされることも大きな問題」である、という。
この件については、日本国民の民度が熟してきており、かつてほどの差別は少なくなりつつあり、これらをいつまでも差別対象にカテゴライズしておくのは、これこそ連中の商売と売名、ひいては売国政党の勢力拡大のためにほかならない。

結果的に、この法律の成立意図は、国際社会への応答であると同時に、より根本的なところにあると思われる。

1.
対シナの動向に対し、防衛上、日米韓は、根本のところでは、協力体制になくてはならない。昨年暮れの日韓合意もそのひとつである。

2.
民進党・共産党の連中が飛びついて賛成するだろう唯一の法案を、与党が先取りして成立させることで、政権側の意向を反映させながら、同時に、野党のガス抜きを狙った。
野党は緊迫感を削(そ)がれたのだ。同日選にしなかったことも、結果的に、落選が危ぶまれる野党衆議院議員にとって救いとなった。

1.については、読んで字のごとく、である。

2.については、安倍内閣として、歩み寄れるものはギリギリまで歩み寄って、安倍政権は実は、ものわかりのよい内閣であり、話せばわかる内閣であることのアピールにもなる。

これは例えば、SEALDs を応援していた、人権屋弁護士・伊藤和子が主催するNPO法人ヒューマンライツ・ナウが、意志に反して女性をアダルトビデオへ出演させることについて、女性への人権侵害として、政府が実態の把握につとめるという答弁書を閣議決定したのも、こうした一環であると見る。
女性の社会進出や地位向上をかかげる安倍内閣としては、聞く耳をもっているのですよ、ということだ。

これは、伊藤がそうであるように、政府批判を繰り返す有権者も、やはり半分は女性であり、何かというと、女性・子供・障害者を全面に立てる共産党支持者への懐柔、あるいは緊迫感の削ぎ落としという効果を狙ってのことでもあるだろう。

安倍内閣の最大の懸案は、憲法改正にある。
抵抗勢力を片っ端から批判する一方で、歩み寄れるところは歩み寄ることで、支持基盤を広げ盤石なものにしたいのだ。
われわれもその懸案に向けて協力したい。

あまり、歩み寄り過ぎれば、本末転倒になるおそれもある。国民がしかと、与野党と政権を監視していく必要がある。

ともかくも、「ヘイトスピーチに関する法律」が出来上がったことは事実だ。
特定秘密保護法の成立、マイナンバー制度の確立など、民主党が自分たちの都合のよいように立法化しようとした法案は、これを受けるかたちで、しかるべき分野ごとに独立して成立した。

安倍首相は、戦後にきちんと区切りをつけて、国際社会での日本の未来を模索している。
そのプロセスに、「ヘイトスピーチに関する法律」を位置付ければいいことだと思う。

3mgkdaq2

2016年5月21日 (土)

華北分離工作に対する抗日支那の陰謀と野蛮 (2016年5月21日)

華北分離工作とは、1935年(昭和10年)、日本が華北(中国の北部、満洲は東北部)五省、つまり河北省・察哈爾(チャハル)省・綏遠(スイエン)省・山西省・山東省で行った一連の政治的工作のことである。

中国側は、満洲事変・上海事変・盧溝橋事変と並び、なぜか華北事変と称している。事変とはふつう、宣戦布告のない戦争である。 

満洲国建国から二年、華北の政情はまだ不安定であった。支那駐屯軍と関東軍は華北も満洲同様に支配したいと考えていた。

ところがこの広大な地域にも、やはり軍閥が割拠しており、大都市・北平(後の北京)に留まる最大の軍閥・宋哲元(ソウ・テツゲン)を籠絡するのが最大の目的であった。宋は国民革命軍第二十九軍の司令官である。

そのためにも、それぞれの軍閥に対し自治宣言を出させて、国民党政府・蒋介石から距離をおかせて実質上独立させ、その後それらを懐柔するのが支那駐屯軍の方法であった。


まず、日本に留学経験があり日本人を妻とする親日の殷汝耕(イン・ジョコウ)に、塘沽(タンクー)停戦協定で決定された非武装地帯を支配させるため、冀東(キトウ)防共自治委員会を作り委員長に据えた。これに対し蒋は冀察(キサツ)政務委員会を作り、その委員長に宋を据えた。冀とは河北省をさす古い言い方である。

宋はこうもりのように日本側にもつかず蒋とも交渉をつづけていたが、蒋から殷を国賊として捕えるよう命じられ、冀察という広大な土地に対する自由裁量権を与えられたことで満足した。宋は政策上も、民意尊重、日華親善、反共という点で、日本と蒋の間に位置していた。

支那駐屯軍は焦り、冀東防共自治委員会を直ちに冀東防共自治政府に格上げした。蒋介石はこの時点ではまだ日本を最大の敵国とはみなしていなかった。戦わずに済むなら戦いたくなかった。強大な軍事力をもつ日本を相手とするより、まず共産軍を追い落とすことが先決であり、日本軍とは適当に仲良くしていればいいと考えていたのである。

 

この蒋介石の動きに機敏に反応したのは日本軍ではなく、中国の学生らであった。12月9日には当時としては異例で大規模な一万人のデモが北京でおこなわれ、そのスローガンは、華北自治反対、内戦停止(国民党政府軍と共産党軍の内戦停止)、一致抗日であった。このデモの効果は大きく、さまざまな抗日団体が中国全国に形成されていった。 

やがて一年後には、爆殺事件で死亡した張作霖(チョウ・サクリン)の息子で東北軍の張学良(チョウ・ガクリョウ)が西安事件を起こし、蒋介石を説得し、内戦停止・一致抗日の方向で、中国国内は一枚岩になる。

このあたりの前後の歴史は以下の通り。

 

1931年9月18日   柳条湖事件(満洲事変勃発)

   10月8日   錦州爆撃

1932年3月1日   満洲国建国宣言

   5月15日   五・一五事件

   9月15日   日満議定書調印

1933年2月28日   熱河(ネッカ)作戦

   3月27日   国際連盟脱退

   5月31日   塘沽停戦協定

193411月1日   満鉄、特急あじあ号運転開始

1935年5月~12月  華北分離工作

   6月10日   梅津美治郎・何応欽協定

   6月27日   土肥原賢二・秦徳純協定

   8月3日   相沢中佐事件

   1125日   冀東防共自治委員会

          (1225日 冀東防共自治政府に格上げ)

          (冀=河北省、冀東=河北省東部)

      12月8日   冀察政務委員会

          (察=察哈爾省)

1936年2月26日   二・二六事件

   1115日~23日  綏遠事件

     25日   日独防共協定 

   1212日   西安事件

1937年7月7日   盧溝橋事件(北支事変、つまり日中戦争勃発)

          (中国側からの発砲がきっかけ)

     11日   停戦協定調印

     13日   大紅門事件(1) 

     25日   廊坊事件(2)

     26日   広安門事件(3)

     28日   華北攻撃開始

     29日   通州事件(4)

   8月9日   大山勇夫中尉事件(5)

     13日   第二次上海事件(~11月9日←陸軍上海派遣軍)

   9月23日   第二次国共合作

   12月1日   南京攻略

     11日   南京占領

     17日   南京入城

1938年1月11日   支那事変処理根本方針

   4月1日   国家総動員法公布  

   5月19日~1027日   武漢三鎮攻略

   7月9日   張鼓峰事件

 

(1)北平の大紅門で日本軍のトラックが中国兵に爆破され日本兵4名が死亡。 

(2)北平近郊の廊坊駅で発生した日中間の武力衝突、日本側死傷者14名。

(3)北平で起きた第二十九軍による日本軍への襲撃事件で日本兵など19名死亡。

(4)冀東防共自治政府保安隊の張慶餘(チョウ・ケイヨ)らによる日本軍部隊・特務機関と日本人居留民に対する襲撃事件。民間人を含む日本人260人が虐殺された。張慶餘は第二十九軍と内通していた。殷汝耕も捕捉された。

(5)上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が共同租界で、中国保安隊に殺害された事件。日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることなどからも、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定。国民党の張治中(チョウ・ジチュウ、共産党工作員)の指揮とされる。

大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷が与えられていた。後頭部の銃撃が致命傷で即死であったが、保安隊は更に死体にダメージを与え続け、頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置にはこぶし大の穴が空いていた。靴、時計などの貴重品も奪われていた。

広大な支那の東北部・満洲には石油もあり土地もあり、日露戦争勝利の結果として、そこにおける権益を得たはずであるのに、華北まで欲しがった陸軍は貪欲の塊である、という説がある。 

大都市には租界などに日本人居留民も多く、貿易も盛んとなり旅行者も増えていた。上海のヤマトホテルなどは年中満員御礼状態であったという。無法な支那人から国民を守るというのは、他の列強と同じである。

日本本土は不況がつづき、国際的ムードとしても支那進出は予想できるところである。だからといって、欲にかられ政府の意向を無視してまで華北を侵攻しようとしたのはなぜか。

日本国内における軍国化の動きは、言うまでもなく底流にある。政治家や政党が国民の声を聞かず、国民不在の政治をおこなっていれば、それらを信用できなくなった無力な一般国民が、軍に期待をかけるのも世界史の道理である。

こうした後押しと、日本人固有の道徳的信念と、日清・日露という二つの戦争における勝利は、たしかにイケイケな雰囲気を日本にもたらし、それが軍を後押ししたというのも想像に難くない。 

日本に恨みをもつ張学良のおこなった西安事件以来、蒋介石も日本を敵とみなし、それと知った支那人民も、対日イケイケとなったのも理解できる。

 

そして盧溝橋事件が起こった。停戦協定が結ばれたにもかかわらず、支那の一部が上記(1)~(5)などの事件を起こし、蒋は各国の国民が多数滞在往来する上海を舞台に、日本に食い下がり、国際的世論を集めようとした。 

海軍陸戦隊では足りず、陸軍の応援を得て、日本軍は益々意気軒昂となり、蒋の本丸・南京を落城させる。これにはやはり国民の後押しがある。

停戦協定を結んだにもかかわらず、支那はその保安隊という名のもとに、いろいろな手管を用いてなお日本兵を殺し、通州事件・大山中尉事件での残虐極まる無差別殺人は、暴支膺懲(ボウシヨウチョウ=粗暴な支那を懲らしめる)という一撃論を日本国内に沸騰させた。

そして、このころ日本軍は圧倒的に強かった。華北を華中以南と区別して、そこに全面的に日本軍を配備し、日本列島より広大な面積の満洲を一層繁栄させたかったし、そのためにそこに暮らす日本国民の安全を守る義務があったのである。

さすがに露骨なやりかたは憚(はばか)られた。どっちつかずの軍閥がいるなら、それに接近して懐柔するほかない。それが犠牲者を出さずに済む最適な方法である。蒋介石国民党の敵は、共産党であった。父親を爆殺された張学良が、蒋を軟禁して国共合作を決するまでは…。

 

華北分離の最大の理由にして最大の目的は、要するにソ連の南下阻止である。ソ連軍によって満洲が荒らされ、邦人に犠牲者が出ることを軍は警戒していた。ソ連軍の実力も侮れなかった。深謀遠慮もあった。予想通りこの後、1938年7月9日には張鼓峰事件、1939年にはノモンハン事件が起きる。ソ連は蒋介石国民党にとっても脅威であったはずだ。 

支那共産軍は国民政府軍より野蛮である。常日頃はそれを隠した日常を送る。それが農民と結び匪賊と結んでゲリラを扇動すれば、戦争時や道路建設には役に立った。残虐な殺害方法も未開部族並みである。

 

戦後71年経っていても、中共独立後67年経つにしても、その本質は変わっていないだろう。以上のような事情は、今日彼らがスーツを着ていようが高層ビルで生活していようが、根本的に変わっていないと思う。

このことは、日本人とて同じである。しかし、野蛮人を相手にするからには野蛮であることにも精通しておかなければならない。

支那の歴史はよくこう言われる、国力が国境を決めるのだ、と。


20120207085353a7b

2016年3月29日 (火)

A君は、なぜサヨク教授になったか (2016年3月29日)

(以下、どちらかと言えば、思い出話です。)

彼とは、私と同時期に大学院社会学研究科(社研)に在籍し、現在、慶大教授となっているAのことである。

教授といっても、常にラフでカジュアルな格好をしており、以前から知られる教授のイメージではない。今や、そんな風体の教授があちらこちらに出没している。

私は再入学し、彼は付属高校(慶應義塾高校、通称:塾高)からそのまま上がり文学部を経てきているので、私より数歳年下ということになる。

文学部の上には文学研究科があるが、社会学研究科は院だけであり、文学部や法学部、経済学部からの学部学生が上がってくるが、社会学研究科の教授は文学部の教授が務める。

われわれの指導教授Bは、よく言えば、学問一筋の人であり、研究者としての評価はあまり高くなかったが、精力的に数々の仕事をこなし著作も多い。
新潟県の片田舎から出てきて教授にまでなった人であり、努力家である。礼儀やマナーを重んじるところがあり、研究者というより教育者の面も強かった。

このBを常日頃から快く思っていなかったのは、かつて棚からぼた餅式に教授になり、長年、社研の長を務めてきている教授Cである。Bに対するCは、いわば、財前助教授に対する東教授という構図だ。

Cはかつて、Bの指導教授であるDに疎んじられていたこともあったが、当時社研で大学に残るものはほとんどおらず、同時期にちょうど年齢のふさわしい研究者もおらず、幸運にも大学に残ることになり、教授にまでなったのである。

このCは、文科系の年配者の教授にしては、生涯著作が二冊しかなく、それも大学内の講義で使うものであり、出版社も慶應系の慶應出版である。
単純に、制度として、収まっていたに過ぎない。しかし、学説に対する批判精神は旺盛で、性格的には、実は、老獪であった。

当時、どこの大学も、今とは正反対に学生数が多くなってきており、慶應も湘南台を候補地と決め、人の手に入っていない広大な雑木林を二束三文で買収した。
後に、慶應藤沢キャンパス(頭文字をとってSFC)となる。

SFCには総合政策学部と環境情報学部が置かれた。
各学部から「政治的に」人事異動が進められた。つまり、実力があるのに周囲となじみにくい者などが、二学部に必要な専攻であるかぎり、日吉や三田から狩り出されたということだ。
出したほうは、目の上や下のたんこぶがいなくなり、出されたほうも真新しいキャンパスで気分よく仕事を始められるわけで、どちらにも文句はなかった。

この二学部は、慶應の難易度を維持するために、開校時から入試問題は難しかった。特に、制限時間120分の英語の読解力は高水準を要求される。やむを得ない結果ではあるが、私自身はこうした入試には賛同しかねる。

SFCのこの両学部には、入試科目に国語や社会科がない。文系理系を超えた学部を、という所期目的からすれば、最低限、国・数は必須にすべきだろう。英語だけはべらぼうにできる「外国人」が多く入学し、そのなかにサヨクが生育することにもなる。アホサヨクが増える所以だ

Cは退官間近となり、そのままただ去ってもよかった。
ただ、そういう段階になると、どうしても自分の息のかかった人間を後釜に据えたいと思うようだ。財前助教授に対する東教授と同じである。

ところが、SFCができ、各学部とも学生数を増やしていこうという時期に重なり、文学部にも人が充分とは言えなかった。Cの人脈で、他大学から呼ぶこともできたはずだが、慶應には純粋培養を行なう伝統のようなものがあり、Cも、選ぶならやはり学内から、という決意をしたのだろう。

Cは退職前に、常勤講師としてAを推した。一度常勤になれば、事故などない限り、いずれは教授になる。
推したのは確かだが、なぜAであったか、という理由は忖度するしかない。
Aは高校時代、ドイツへの留学の経験があり、ドイツ語は日本語なみに読み書きができる。そこしかない。

社会学は、マックス・ウェーバーが確立したといってもいい学問分野だ。Cはドイツ社会学に精通していた。それが社会理論の本流だと信じていた。
他方、Bの恩師Dは日本の社会学を確立した人物のひとりであり、B自身はアメリカ社会学が専門であった。
Cのドイツ狂いが、ドイツ通のAを後釜に、と思ったとしても不思議ではない。

Bには特に不満もなかったようだ。Aの出現によって自らの立ち場が危うくなるわけではない。
大学内の序列は軍隊並みである。

別の事情もある。Bには一人娘Eがいた。
彼女は付属女子高から自分のいる文学部に入学し、自分のゼミにまで参加させた。けじめのつく人であり公私混同はないことは誰もわかっていたが、世間一般の常識からして顰蹙を買っていた。
教授の子供が、親の勤務する大学に入学するのはしばしばあることだが、ゼミまでいっしょというのは異様である。

いずれ我が娘を、自分の後釜に座らせようと画策していただろう。Aが付属の普通部(中学)・高校出身なら、我が娘も付属女子中高出身なのだから、遜色ないと思ったのだろう。

Bもやがて退職し、某女子大学へ再就職した。Eはいろいろな大学の非常勤講師をかけもちしながら、実力は自分でつけるべき、というBの厳しい考えのもと、研究活動を活発化していった。
学者の活動とは、学会での発表や論文・著作の作成によって、自らの学問の正当性を問いかけることであり、デモやテレビに出て喚くことではない。

しかし、Eは、ある地方の私大で准教授になった年の秋、出勤途中に交通事故に遭ってしまう。信号待ちをしていたEの軽自動車に、居眠り運転の大型トラックが追突したのである。Eは意識不明となり、意識が戻ることなく数ヵ月後に死去した。

いずれ慶應へ、という親としてのBの目論見は無に帰した。
当然ながらBは落胆したが、表ではそうした表情は出さなかったとのことだ。現在は女子大もすでに退職している。

時間経過からすれば、その5年後、Cが死去した。葬儀を取り仕切ったのは、親に反対され教え子のままCに嫁いだ糟糠の妻と、教授になっていたAであった。
Aははみ出し者であるから、学部内では浮いているが、とりあえず彼をよく知る「小姑」連中は、みな消えたのであった。

Aはある時期、大学案内で、新入学生向けに、こんなメッセージを残している。

「教員からのメッセージ A教授:
すべてはあなたの中や横にあります。やりたいことはすべてやれます。そう思い込んで大学での生活を組み立ててください。あなたを阻止するものは何もありません。」 

これは、A自身の生き方をも表している。
文字通り、Aの前方を塞ぐ壁は、何一つなくなったのである。

私のいた文学部のゼミから上がってきた修士課程に揚がった学生は他に三人おり、そのうち一人は在日韓国人の女性で、その後、おそらくBのツテで上記女子大の教授となっている。

その後、非婚出産をし、これこそ、これからの「日本」の家庭の原型だと主張した。常にマイノリティに立った発言を繰り返し、上野千鶴子の弟子的な位置にある。

もう一人は関東各地の短大・大学を回って、結果的に早稲田大学に落ち着いている。
穏やかな女性ではあったが、最近言っていることは左がかるようになってしまった。完全にそうだとは言えないが、学問が「進歩的なること」を謳うとき、一度は左傾思考にはまらざるを得ないところもある。だが彼女は、「向こうに行ってしまったまま」になったようだ。

残る一人は、博士課程の入試において、Bに落とされてしまった。もちろん証拠はない。
彼は論理的で聡明な男であったが、Bの指導や意向に沿うところがなく、左派に立った発言が多かった。それ以前に、遅刻も多く服装もだらしなかった。初めからBの嫌いなタイプであった。

大学院入試科目は、英語・ドイツ語・専門科目(社会学)だが、専門が極端に出来なかったとのことだ。試験は一応入試であり公平公正であるが、指導教授が引っ張れば入るたぐいのものだ。将来、火種になりそうな人物、あるいは、自分より秀でそうな人物は、前もって切り捨てておきたかったのだろう。

しかしおそらく、それ以前に、彼は専門科目の基礎をおろそかにし、英語もまともに読めなかった。無精で誠実でない者が、それだけで博士課程に上がる資格はない。
その後を知らないが、思考がサヨクになっていることだけは間違いないだろう。

ちなみに、人物紹介の学歴欄で、よく、〇〇大学院修了、と書いてある場合があるが、上のように、専門科目が受験科目なのであるから、難しいわけがない。知的なレベルでの競争は、よくも悪くも、学部入試であって、大学院が難関大学名であっても、それは一種のカモフラージュに過ぎない。
大学院が一流大学であっても、知的な実力は大学入試で試されるのであって、そちらがその人のその時の実力を、正直に表わしている。誤魔化されてはならない。

Aに幸運が付いて回ったということはあるが、それ以外にも、サヨクにさせた理由がないとは言えない。
大学進学直後から、ボランティアで、自閉症児の面倒を見ていた。それはその後、学部在学中、ずっと続けられた。

母親にも一度会ったことがある。いい人であったが、ややかまいつけるタイプの親だった。Aは物心ついたころより一貫して母親を嫌っていた。担任ともうまくいっていなかったと聞いたことがある。
自宅は、今も昔もアカの町、杉並区の地下鉄・丸の内線沿線の住宅街にあり、父はなく母は残されたアパートの管理運営をして生活していた。Aのへやは、そのアパートの一室であった。

当時の私の自宅にも、2回ほど来たことがある。
いろいろととりとめのない話をした。20数歳でそういう話ができる人間は、周囲にあまりいなかった。彼には特定の友達がいなかった。
読むべきものは読み、自分の考えをもって批判していた。

あるとき、いきなり、実は結婚しているのだ、と聞き、驚いた。よく聞くと、式も挙げず、婚姻届だけは出してある、とのことだった。同い年の相方と同居することもなく、それぞれが違う場所で生活していながら、「結婚していた」のである。

ところが悲劇が起きた。元々からだの弱かった相手方が、心臓麻痺で急死してしまったとのことだった。二十歳のときに母を失った私も、同居していない若い妻を亡くすということがどういうものなのか、その心情は理解を超えていた。

その後しばらくは、同じ研究科の者同士、他の仲間とともに、院生生活を送っていくのである。
私は非常勤講師として母校の高校で教えることになり、それを機に、何に対しても体制批判精神の強くなっていったAとは疎遠になった。Aはそういう人物だから、もとより年賀状の交換などなかった。

インターネットの時代に入り、学生時代から現在までを、通して知ることができるようになっただけである。

Aの名前をFB(フェイスブック)で知り、あるときから、知られずにそのタイムラインを見ているが、何とも「ふつう」のサヨクになってしまっていて残念だ。

共産党は嫌いなようだが、SEALDsのデモの告知をシェアし、大学内で「安保法制」を批判するリレートーク集会をお膳立てするなど、Aもついに真の左翼にはなれないままに終わるのだろう。
そのAも、数年後には定年を迎える。

こうしてみると、A君は、なぜサヨク教授になったか、ではなく、A君は、生まれつきサヨクであった、というほうが正しいようだ。

2016年1月18日 (月)

日本は難民を受け入れない薄情な国である? (2016年1月18日)

<日本の難民1>「イモトに元気づけられた」 難民認定まで「7年」コンゴ人男性の苦悩(弁護士ドットコム) - Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160118-00004178-bengocom-soci 弁護士ドットコム 1月18日(月)10時30分配信

サヨク弁護士の集団で構成される弁護士ドットコムが、仲間のサヨク弁護士・神原元の弁護により、ようやく7年ぶりに難民認定されたコンゴ人の元教師について取り上げた記事だ。(以下、一部抜粋転載▼~▲)

   ▼

●政治的迫害を受けたコンゴ人男性

昨年8月、注目すべき判決があった。あるコンゴ人男性が「難民不認定」の処分取り消しを求めていた裁判で、東京地裁は男性の言い分を認めて、国に難民認定を義務付ける判決を下したのだ。男性の代理人をつとめた神原元弁護士によると、このような判決が出ることは「非常にめずらしい」という。だが、男性が最初に難民申請してから7年という歳月が経っていた。

この男性の名前は、マッサンバ・マンガラさん。1975年にコンゴ民主共和国に生まれた。判決文によると、2002年に中学の教師になったマッサンバさんは、コンゴ政府と対立する地域政党「BDK」に入党。反政府活動で、2005年に逮捕・拘束された。その後のデモ行進で指導的な役割を果たし、2008年に検察当局から出頭命令を受けるなどして、身の危険を感じため、同年10月に日本に逃れてきたという。

マッサンバさんによると、日本にやって来た理由は「大使館でその日に入国ビザがとれたからだ」という。来日後、すぐに難民申請の手続きをおこなったが、2010年に「不認定処分」となった。さらに、異議申し立てをおこなったが、2012年に却下されたことから、2013年に裁判を起こした。

日本が加入している難民条約によると、難民は「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人とされている。

国連のレポートなどによると、BDKとコンゴ政府は死者を出すほどの衝突を繰り返しており、マッサンバさんが来日した2008年には、コンゴ政府がBDK支持者に対して、銃器を利用した迫害をおこなったとされる。神原弁護士は「同じくBDK党員だったマッサンバさんの父親は、治安当局から頭を殴られたのが原因で亡くなっている。マッサンバさんはまぎれもない正真正銘の難民だった」と話す。

どうして法務省は「不認定」としたのだろうか。法務省に取材したところ、「個別のケースについては答えられない」という回答だった。判決文などによると、国は、マッサンバさんの供述や証拠を信用できないと主張していた。一方、東京地裁はマッサンバさんの供述や証拠について「全体として信用するに足る」「真正な成立が認められる」という判断を下した。

(中略)

マッサンバさんの来日以降、彼の生活や裁判を支援してきた市民団体「カラバオの会」(横浜市)の渡辺英俊さんは「彼は寡黙だけど、いつもにこやかで明るい印象がある。礼儀正しく、紳士的に人と接して、支援者たちの信頼を得てきた。付き合えば付き合うほど、彼は正直な人間だと感じるようになった」と話す。

難民申請が認められなかったマッサンバさんは「仮放免」となった。仮放免とは、強制送還または入管施設収容の対象であるが、一時的に拘束から免れていることを意味する。一応、日本にとどまることはできるが、就労のほかにも行動範囲が制限される不安定な立場だ。

   ▲

外出できず部屋に引きこもるような生活、難民認定をおこなう職員が足りない?、「仕事を通して人から認められたい」、とう小見出しで、記事が続けられている。

サヨクは、欧州における事態をよいことに、これをきっかけに難民受け入れを加速させようと画策している。
多少のことでビクともしない政権にこうしたことを言ったところで、時間の無駄なのだが、政権批判しか能のないサヨクや野党にとって、批判材料がなくなってくれば、同調する歴史音痴の外国人といっしょになって、わいわい騒ぎだすことであろう。

難民認定までの速度が遅いのは、職員が足りないといった人員の問題ではない。
政府が、従来の方針を、あえて変更させようと動かないのも、それなりに理由があってのことだ。難民を許可するについては、それだけ慎重にコトを進めているという証拠である。

いつも、こうした事例で、まず直観的に感じることは、なぜ日本なのか、ということなのだ。
世界のなかでは人権先進国であり、難民と認定されれば、この平和な国で、平和に暮らすことができるから、と考えるのだろう。表向きの理由は何とでも言える。
サヨクの言うように、日本が人権後進国であったら、難民は申請にやって来ないはずだ。

コンゴという国で何がなされているか、その気になれば情報を得ることができる。
是非は別とし、この人物は、カビラ大統領の圧政に対し、反政府デモの先頭に立ち、あと少しのところで、逮捕され拷問を受けていたかも知れないという。そこで、命からがら日本に逃げてきたのだ。

仮に革命の志士を自認するのであれば、投獄されるのは予期できたはずであり、それがいやだから命だけでも、と考えて難民となる。
小林多喜二は拷問を受けて殺されたとされるが、そうなることを予期してそのとおりに投獄され、時代の与えた運命にしたがった。思想信念を通すというのは、死をも覚悟してのことだとすれば、まだ多喜二のほうが潔い。

ある国の反政府分子を難民と認定すれば、時の政府はその相手国との間に、不安定な関係を生じさせてしまう。
チベットの僧侶が中国に抵抗する証しとして、焼身自殺をする姿は、まことに痛々しく慚愧に絶えないが、しかし、一身をもって自らの意志を通すという点で勇壮であり、だからこそ周囲の共感を呼ぶのであろう。

父を殺され、目をつけられていたからには、コンゴ政府同様、入管がこの人物についても調べることは多い。日本で難民認定された途端、さまざまな募金が始まり、日本国内で、コンゴ反政府デモを仕切られたのではたまったものではない。それをサヨクが利用するのは火を見るより明らかだ。
法務省入国管理局は、しかるべき充分な調査をしているというだけの話だ。

国益を考えるということは、国の利益を図ることであり、裏を返せば、国の損失を最小限に抑える、ということでもある。損失や被害を、みずから進んで作り出すのは、国益に反する行為だ。

日本は難民に対し、すこぶる薄情な国である、というのは、難民を題材とした単なるサヨク思考の賜物である。
難民受け入れに積極的なのは、そろいもそろって、サヨク弁護士であり、サヨク教授であり、サヨク系のNGOであるというのは、偶然ではない。

おそらく、本来、難民なるものは、受け入れ国の国民が、その事情を理解したうえで、みなが手を広げ、ようこそ日本へ、と心から歓迎するといったたぐいのものだろう。

事情はどうあれ、現地国で反政府デモを率いていた人物はもちろん、言語も生活習慣も全く異なる民族を、そうやすやすと受け入れるほど、日本人も日本国政府も寛容ではない。
国家というのは、それぐらいの堅固な意志で成り立っている。
難民によって荒らされた国は、国家としての堅固な意志をもっていなかった、と言われてもしかたない。

国民の意志に耳を貸さず、難民をやすやすと受け入れた国々が、いまどういった状況にあるか。サヨクは自分らに都合の悪い話には一切触れない。事態を謙虚に見つめていくという器量は、初めからない。

つまり、難民を受け入れない国家という題材で、安倍政権を批判したいだけなのだ。
そして、仮にもし受け入れて国内が混乱したら、それも安倍政権の批判材料にするに決まっている。

2016年1月12日 (火)

アムネスティ日本は似非人権団体 (2016年1月12日)

アムネスティ日本とは、1961年に発足した国際人権NGO・アムネスティ・インターナショナルの日本支部であり、日本では、正式には、公益社団法人・アムネスティ・インターナショナル日本と称している。

公益社団法人 アムネスティ・インターナショナル日本
https://www.amnesty.or.jp/about_us/ai_japan_outline/

Twitter:@amnesty_or_jp
Facebook::https://www.facebook.com/amnesty.japan

HPのトップには、今や世界で700万人以上がアムネスティの運動に参加しており、国境を超えた自発的な市民運動が「自由、正義、そして平和の礎をもたらした」として、1977年にはノーベル平和賞を受賞した、と書かれている。

はっきり言って、そんなことはどうでもよい!

世界各地に紛争地域があり、政情不安のもと、虐待される子供、レイプされる女たちも後を絶たず、政治不信も続く開発途上国などで、政府のできないことを、政府に代わって成し遂げているなら、それは評価されてもよい。

だからといって、日本への人権主義の押し売りは、お門違いだということだ。

日本は、アムネスティの好きな言葉を使えば、世界基準としては先進国であり、紛争地域でもなければ、虐待やレイプが日常茶飯に発生しているわけでもない。

ところがアムネスティ日本での活動ということになると、一言にして言えば、それは「サヨク応援部隊」でしかないような気がする。これはまた、複数の心ある人々も指摘してきたところだ。

アムネスティ日本は、死刑制度に反対している。朝鮮学校の無償化打ち切りを人種差別と批判している。
また、かつて、従軍慰安婦問題に関し、日本はこれを認めず、国際基準となっている「性奴隷」という用語を使うことを拒否していると批判した。
特定秘密保護法についても、特定秘密の内容が不鮮明だと批判し、いわゆる「ヘイトスピーチ」についても、国際的人権基準から乖離し続けている、と批判していた。

これらのうち慰安婦問題と特定秘密保護法については、今日までに片が付いた。死刑制度も存続している。
ヘイトスピーチ問題については、以上の点やその他の多くの課題で、日本がアムネスティ日本の「思うようにならない」ことから、他の問題と絡めて、日本を攻撃するような風潮がある。

サヨクは騒ぐ、「虐待は日本でも多い! レイプは日本でも多い!」
子供の人権が何よりも大事という弁護士や、秋葉原で女子高生は男の餌食になっている、と発信する女性らがみな、SEALDs応援団の一員であり、共産党支援者であるというのは、今日までに明らかとなっている。

自分たちの主張に、「世界基準」を謳うアムネスティからお墨付きを得ていると言わんばかりに、
アムネスティを利用しているのはサヨク連中であり、アムネスティ日本もサヨクの発信に乗じて参加者・寄付者を増やしていこうとしているのである。

差別をなくせ、と言っている集団が、実は差別をなくしたくない、といったホンネを隠しているのと同様、アムネスティ日本にとって、人権侵害などは、「あってしかるべき」なのだ。
差別があることでカネが入ってくるなら、それを本気で廃止しようなどとは思うはずがない。

同じように、参加者を募るためにも寄付金を増やすためにも、アムネスティ日本にとって、人権侵害・児童虐待・婦女暴行は、「なくなってはならない」ものなのだ。

高邁なる理想でもあれば、真剣な非営利活動だとも思いたいが、崩れサヨクは国体破壊者であり、そのようなものがあるはずがない。

レイプの絶対数が少なくても、レイプが多い、と騒ぎ立てるのは、自分たちの生活基盤が損なわれるからであり、売名とカネ集めのためにも、レイプは「なくなってはならない」のだ。
とんでもないことだ。仁藤夢乃(にとう・ゆめの)や、伊藤和子といった安っぽい人権屋弁護士、大学教授、評論家、自称ジャーナリストどもは、自分たちのために、事実を歪曲して、国連を利用し、世界に誤った情報を発信したのである。

アムネスティ日本の現在の理事長は、学習院大学法学部政治学科教授・庄司香(しょうじ・かおり)である。
副理事長、石田城孝(いしだ・しろたか)は、Facebook において、ISILに拘束された湯川遥菜(ゆかわ・はるな)に関する情報を垂れ流していたというのも、今や公然の秘密となっている。

理事のひとり、坂本廣幸(さかもと・ひろゆき)は、仮放免者の会「5つの要求」に賛同しており、難民受け入れに賛成している。
仮放免とは、入国管理局から強制退去命令を受けながら、帰国しようとせず、在留資格を得ようと待っている外国人の状態をさす。(http://praj-praj.jimdo.com/

アムネスティ日本のイメージカラーは黄色である。
勤務先のJR中央線に、私がサヨクの街と呼ぶ吉祥寺駅がある。

昨年10月ころ、駅前の交差点、三菱東京UFJ銀行の入るビル角に、ある日突然、アムネスティ日本が、黄色い布切れを巻いた机と、黄色い紙を貼った箱を置いて、通行人を勧誘し始めた。勧誘は男二名で、ときどき男女一名ずつになっていた。

そのビルの警備員に伝えたところ、すでに知っていたが、他でしてくださいと言ったら、道路許可をとっている、と言われたという。そんなはずはないのだ。
警備室によると、銀行の敷地に入っていない以上、それ以上は言えないとのことだった。

連中の机の真後ろには、消防設備の連結放水管の十口近くあり、そんなところに警察が許可を出すはずがない。そもそも交差点の角は駐停車禁止であり、停止した状態でおこなうすべての活動は許されないはずだ。

向かいの交番に行った。交番の正面でしていることでもあり、警官も視野に入っている。
あれは許可を得ているのかどうか、確認してほしい旨伝えただけだったが、その日の午後に行ってみると、すべて撤去されていた。

しかも、翌日からは、男女の警官二人で、交差点のその場所あたりを右往左往していた。警戒していたのである。言ってみるものだな、と思った。
あんな連中が、道路許可などとっているはずがない。また、許可される場所でもない。

しばらく姿を見なかったが、おとといまた、出現していた。
連結放水管の前はまずいはずだ、と警備に伝えたところ、放水管の口をよけるように、その左に机、その右に箱を置いて、勧誘をしていた。

今日は朝から霧雨が降っていた。
連中は銀行前にはおらず、線路の下の雨の当たらないところで、勧誘をしていた。

つまり、アムネスティ日本とは、こうしたせこい団体なのだ。
許可証があると嘘をつき、霧雨程度でガード下に移動する。ボランティアの信念などない。
勢力の拡大とカネ集めが目的であり、人権はそのために利用されているだけだ。

安保法制を戦争法と呼び、「赤旗」の売上増と党員増だけを目的に、戦争法反対を叫ぶ日本共産党と、同じ穴のムジナである。

以上からして、アムネスティ日本に限っては、似非人権団体であり、「サヨク応援部隊」とみなしてかまわない、と結論する。

より以前の記事一覧