2016年5月22日 (日)

映画 『桐島、部活やめるってよ』 (2016年5月22日)

監督:吉田大八、原作:朝井リョウ、脚本:喜安浩平、吉田大八、音楽:近藤達郎、主演:神木隆之介、橋本愛、大後寿々花、東出昌大、2012年、103分。

脚本の喜安浩平(きやす・こうへい)は、アニメ『はじめの一歩』で、主人公・幕之内一歩の声を演じている。

とある高校が舞台。ロケは高知県にある複数の高校となっている。
放課後の部活など、高校では日常的なありふれた光景のなか、バレーボール部の中心メンバーである桐島という生徒が、突然部活をやめ、学校にも来ていないという噂が流れる。

桐島は、バレー部の活躍だけでなく、彼女もおり、友達グループもあり、勉強面でも運動面でも、クラスの人気者である。
その桐島が部活をやめるということは、周囲にとっては青天の霹靂であった。
桐島に、友達や彼女が連絡をとるが、メールも返ってこない。

しかし、そんなこともありながら、日々の高校生活は、またあすを迎える。……

桐島という生徒は、映画には登場しない。それらしいフェイントのかかるところがあるが、まともには一度も登場しない。

部活の実力者として、恋人として、友人として、無意識に交流がつづいていた人物が、忽然と姿を消し、連絡も途絶える。
その影響は、彼女だけでなく、部活の同輩後輩から、同じ塾に通う友人にまで及ぶ。

映画は、時系列で進まず、桐島が部活をやめた金曜日から翌週火曜日までを、それぞれの曜日のエピソードを重ねていくことで、畳みかけるように進行する。
特に、はじめの金曜日は、ほぼ同じ時間帯を四様の角度からとらえ、ラストの火曜日も繰り返される。
生徒による校内ライフル銃撃事件を素材にした『エレファント』と同じ手法である。

高校生ころの細やかな感情をきちんと拾ったセリフややりとりには共感できるし、セットなども実際の高校の教室や校舎、屋上を使っているので、現場の光が入り、望遠で撮られた景色や運動場も、映画が日常のひとこまであることを示すようになり、リアリティがあってよい。世紀の駄作『告白』とは雲泥の差である。

いくつかの賞も受賞しているようだが、いままでにあまりない製作のしかたや、高校が舞台であるのに、明るく朗らかで活発な日常ではなく、どこかサスペンスの香りをさせる演出もよかった。

いわゆるお涙頂戴でもなく、恋愛に照準を絞ったものでもなく、進路や受験の悩みをかかえることを描くわけでもない。
桐島は現れないが、桐島の存在からはいちばん遠くにいる、つまりその退部や失踪でいちばん影響を受けていない前田(神木隆之介)が事実上の主役となっている。
この設定はおもしろいし、ストーリー展開の基本を主軸として支えている。この作品を成功させた主因だろう。


舞台は高校であり、ロケを使いながら、それ自体が一種の虚構のように感じられる演出が功を奏したものと思われる。

これは、屋上で前田らが映画部の映画を撮っていたところ、桐島を見たということで集まった生徒たちがどやどややってきて撮影ができず、両者が格闘寸前になり、その状況を撮ることで、そこがそのまま、部員たちが集まってきた生徒たちに襲いかかるゾンビの映画になってしまっていることからもわかる。

皆を翻弄し心配させた桐島は、ついに現れず、その後周囲がどうなっていくのか、ということまでは説明されず、映画は終わる。

桐島といちばん親しかった宏樹(東出昌大)が、その事実をあらためて認識してか、涙ぐむシーンは、ラストとしてよかった。
このシーンは、さっきの騒動でとっ散らかった屋上を宏樹が去る時、前田の使っていた8ミリのレンズカバーを拾って、すぐ戻ってそれを前田に手渡すところからひとつの流れとなっている。

宏樹はそのカメラを手にして前田を覗き込むが、逆光だからと言って今度は前田が持って、宏樹を撮る。そのカメラの映像のなかで宏樹は涙ぐむ。
カメラを向けられて、つい感情が高ぶるということはよくあることだろう。

宏樹は桐島とは正反対の位置にいる生徒だ。野球部に属しながら幽霊部員であり、何かにつけあまり主体的に動いていくほうでもない。でありながら、桐島とは親友であった。彼は桐島から、何も聞かされないし知らされない。

その宏樹をラストで、8ミリを介して向かい合うのが、桐島からはいちばん遠くにいる前田であった。このラストは想定しにくいが、それだけに、観る者を快く裏切ってくれている。

ある生徒が部活をやめたということから、これだけの話を紡ぎ出した原作と、あまり見ない時系列並列の脚本がよかった。

そしてやはり神木隆之介くんであろう。子役のときは、よくテレビで見ていた。もうこんなに大きくなったのだなあと思う。
セリフやしぐさが役に成り切っていて、実にうまい。セリフを言っていないときの演技もうまい。

ある人が、他の配役は替わりがありうるとしても、この前田は神木しかできないだろうとコメントしていた。
そのとおりと思う。

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2016年4月27日 (水)

映画 『女が階段を上る時』

監督:成瀬巳喜男、脚本:菊島隆三、音楽:黛敏郎、主演:高峰秀子、森雅之、仲代達矢、1960年、111分、モノクロ。
 
モダンな音楽をともなって、切り絵を使ったタイトルバックが流れる。
何度も観ているのだが、バーが舞台の映画にしては、品のある作品だ。
 
矢代圭子(高峰秀子)は、女の子数人をかかえる銀座のバーの雇われママである。 
そこには、金回りのいい実業家・郷田(中村雁治郎)や銀行の支店長・藤崎(森雅之)、いつもひとりでやってくる工場経営の関根(加東大介)らが飲みにきていた。
 
一見華やかに見える店内であったが、実は掛けで飲む客も多く、マネージャー・小松(仲代達矢)は集金に回っていた。
圭子の下で働いていたユリ(淡路恵子)が、金回りのいい実業家(小沢栄太郎)の力で店を独立させたため、上客がそちらに流れ、圭子は店の経営者から追われ、他の店に移る。……
 
この移った先の店ライラックが主な舞台となり、圭子に思いを寄せる小松、圭子が思いを寄せる藤崎、圭子に結婚を申し込む関根らの話に、佃島にある圭子の実家のようす、圭子の下で働く純子(団令子)の独立など、さまざまな要素を合わせながら、ストーリーが巧みな展開を見せる。
 
当時のバーは終電で閉めるようであり、奥にある女の子のロッカー室には小松がいて、マネージャーとして仕事をしている。そんな仕組みだったのだなあと思う。
 
高峰秀子がハデ気味な和装を見せるほか、当時のバーの店内や銀座の街並み、喫茶店、アーケード、圭子の住むアパートのなかや食卓など、今から見るとかえって新鮮に映る。喫茶店の砂糖入れ、食卓のバター入れやトースターなど、懐かしい小物類もチェックできてうれしい。
衣装は高峰自身が担当している。
 
銀座のバーに勤める雇われママが、身近に、そして身の上に起こる出来事に翻弄されながらも、なおひとり、あすに向けてたくましく生きていく。
 
根性ものではないが、夫に先立たれた女が、何とか自分にケジメをつけながら仕事に生きつつ、それでも女としての弱さに襲われるサマが、円熟した脚本とセリフ回しによって、鮮やかに表現されている。
 
雇われマダムというひとりの女の生きざまを、さりげないが完成度の高い演出と構図でみごとに描きだすことに成功した作品であり、成瀬監督の作品としては『浮雲』と並んで好きな映画である。
 
主演の高峰秀子以外も、出演者はほとんどが名の知られた名優ばかりだ。
このママの勤めるバーが二階にあり、そこからこのタイトルがつけられている。階段を上がるときの心情は、それぞれの時と場合により違っている。そのつどカメラが、脇から圭子の足もとをとらえるのも効果的だ。
 
ストーリーの展開のテンポもよく、節度を保ったカメラで、カットをつなぐ編集もみごとで、夜の世界に生きる女を通じ、女の愛と悲しみをみごとに表現した大人の映画だ。
すべてにおいてプロが作った作品というのは、上映時間全体が充実しており、観ていて安定感がある。
 
こういう映画に、二十歳くらいのときに出会っていたかった。
もしこの映画を、いま二十歳くらいの人間が観たら、どんな感想をもつのだろう。そもそも、監督の名さえ知らないかもしれない。
 
かつて、成瀬巳喜男特集というのを、都内文京区にある三百人劇場という映画館で上映していた。そこで、この映画や『浮雲』『流れる』『放浪記』なども知った。評論家と高峰秀子との対談もあった。とても懐かしい。実物の高峰秀子を見られてよかった。映画俳優というイメージからは、たいへん質素な方であった。
 
この三百人劇場も、並木座などと同様、消えてしまった都内の名画座だ。あのころの名画座で今も残っているのは、池袋の文芸坐くらいだ。今は新文芸坐となっている。新文芸坐は、邦画を中心に、往年の名作を繰り返し上映している映画館だ。

2016年4月25日 (月)

映画 『スパルタの海』

監督:西河克己、製作:天尾完次、原作:上之郷利昭、主演:伊東四郎、辻本幸一、1983年、105分。
 
高2の松本俊平(辻本幸一)の自宅のへやに、戸塚ヨットスクールのコーチらが駆け込んできて、俊平を車に乗せていく。俊平は、父・俊一(平田明彦)、母・勢津(小山明子)に暴力を振るい、しばしば家庭内暴力を起こしてきて、最後の手段として、俊平を戸塚宏校長(伊東四郎)の下に預ける決心をしたのであった。
 
愛知県美浜市にあり、目の前に海岸のある宿舎では、俊平と同じようにして送り込まれてきた男女が20数人はいて、夜明けから晩まで厳しい訓練をしていた。その中には、海に出てヨットを操る訓練も入っていた。…
 
当時、公開に踏み切る直前、戸塚宏が傷害致死などで逮捕されることとなり、しばらくお蔵入りとなっていた映画だ。
 
作りとしては、あのころのテレビ番組のようなBGMや演出で時代の経過を感じるが、海でのヨットの訓練のシーンも多く、さほど陳腐な映像とまではいえない。
 
俊平を軸として、なかなか言うことを聞かない女の子や、動作ののろい太った男子など、数人の少年らに焦点を当てて進む。万やむを得ずここに子供を預けることにしたそれぞれの両親の姿や、ヨットスクールで働き、食事や保健の仕事もする娘の姿などを取り込み、多彩な角度からヨットスクールの現実を描き出している。
 
戸塚本人は、その後起訴され最高裁で上告棄却となり収監されたため、世間ではヨットスクールは犯罪の巣窟のような印象をもってはいるが、原作がそのまま反映されたとするなら、映画化ということを考慮しても、ここで描かれる戸塚やヨットスクールの実態は、彼らに好意的である。
生徒の死亡も、持病の悪化が原因で、体罰や厳しい訓練そのもののせいではないことになっている。俊平の前には、もうひとり、もうここにいる必要もなくなったとして、一人の男子が巣立ち、家庭に帰っていく。
 
俊平は宿舎に来ても相変わらず暴れまわるので、鍵のついた木製の檻のようなところに寝かせられるし、ド突いたり脚で蹴ったりというのも、ここでは日常茶飯だ。俊平は一度警察に逃げ出し、戸塚も両親も呼ばれるが、両親は過去の経験から、それでも息子を戸塚の元に戻すことになる。
 
やがて俊平はもうここにいる必要もなくなり、戸塚は両親ももとに返すが、すぐ戻ってきて、戸塚のように、ヨットでの太平洋単独横断に挑戦するんだ、と言ってラストとなる。
 
子供本人、両親、スクールの先生たちスタッフが現れるたびに、そのつど名前とともに年齢と学歴が画面に出る。俊平の家などは両親とも高学歴である。そういう家庭の子供さえ、暴力を振るってどうしようもなくなってスクールに来るということを現わしたかったのだろう。俊平の父・俊一も東大卒と出る。
 
戸塚のセリフには、いくつかの決め台詞がある。今からすれば、的を射たものも多い。
警察から俊平を引き取るときに、車に乗りたがらない俊平を殴ると、見送りに出てきた刑事が注意する。すると戸塚は、あんたに俺の代わりができるのか、と言う。
口ばかり達者な子供が、自分がこんなふうになったことを、すべて親や社会など周りの責任にするかのように滔々と述べ、思わず他のコーチが、アイツ、評論家みたいだなあ、と言うと、戸塚が、評論家ばっかり増えて困った世の中だとな、と言う、などなど。
 
映画的創作として見るかぎり、戸塚の信念一途の姿がストレートに表され、それだけに揺れのない脚本で盛り上がりには欠けるものの、当時からすでに顕著になりつつあった、教師と生徒の事務的で希薄な関係に、ひとつの警鐘を鳴らすような作品でもある。
 
製作の天尾完次は『温泉みみず芸者』という映画で初めて、ポルノ映画という言葉を作った人物である。その後『新幹線大爆破』などスケールの大きな映画も制作した。東映Vシネマを産み出したひとりでもある。
伊東四郎はまだ本格的なテレビや映画出演がないときであるが、野外を中心としたこういう内容の映画でもあるので、存在感はあり、決まるところは決めており、特に演技が下手とも言えない。実際に東大を出た平田明彦が煮え切らない父親役をうまく演じている。小山明子は大島渚の妻であるが、ここではメガネをかけた教育ママゴンをうまく演じている。

2016年4月12日 (火)

映画 『吸血鬼ボボラカ』

監督:マーク・ロブソン、製作:ヴァル・リュートン、脚本:ジョセフ・ミッシェル、アーデル・レイ、撮影:ジャック・マッケンジー、音楽:リー・ハーライン、主演:ボリス・カーロフ、エレン・ドリュー、1945年、アメリカ映画、72分、モノクロ、原題:Isle of the Dead (死の孤島)


吸血鬼は出てこない。お馴染み、日本の配給会社の受け狙いである。

ボボラカはキリシア神話にあるという悪霊で、人の心に棲みついて、その人を殺してしまうと言われる。

見るきっかけは、監督のマーク・ロブソンであった。

パニック映画として絶賛された『大地震』(1974年)の監督として覚えていた。まさか同一人物と思わなかった。監督デビューして二年後、32歳のときのサスペンスだ。ちなみに『大地震』は、CGのない時代でもあり、地震発生時の撮影は、すべて実物のコンクリなどの落下と大型模型で作成されている。

ボリス・カーロフ(左)は、フランケンシュタイン俳優として有名だ。あの顔はフランケンシュタインとして一世を風靡した。本作品では軍人役であるが、終盤にいくにしたがって怪優ぶりが発揮されている。

 どこかで見たと思ったら、『第三の男』でクルツ男爵を演じたエルンスト・ドイッチュ(中)が出ている。古い映画を観ると、こうした発見もあってうれしい。


バルカン戦争の最中、ギリシャ軍のフリーディス将軍(ボリス・カーロフ)は、アメリカ人の新聞記者と共に妻の墓参りに行く。

墓はボートで渡る孤島にある。墓地を訪れると、遺体がなかった。すると、どこからか女の美しい歌声が聞こえてくる。声の出どころを訪ねると、一軒の屋敷に行き着いた。

そこには考古学者が住んでおり、政治家などが客として招かれ、晩餐の最中であった。

やがてその家で、致死率100%と言われる伝染病が発生する。フリーディスは自らの権限で、そこにいる人々に、島から出ることを禁ずる。

どうやら敗血症だろうということであったが、治療に来た医師(エルンスト・ドイッチュ)も死んでしまう。次から次へと毎晩のように客が死んでいくなか、客人のひとりである尼僧は、ここにいるうちの誰かがボボラカにとり憑かれているせいだと言う。・・・・・・


そう、別にどうということはない映画なのだ。72分の短い舞台劇のようでもある。

今と違い、セット撮影よりロケのほうが高くつく時代だ。ほとんどセットというのは見ていて誰もがわかってしまうが、この時代にしては、きめ細かい調度品や豪華な品々が並んでいる。この屋敷は登場人物並みにへや数が多いが、それぞれに個性をつくっている。また、しばしば出てくる階段の上り下りのシーンは、ここでも常にアクセントの役割を負う。

ボボラカにとりつかれて死んだとされる女性は、ある晩、棺から起き上がり、あたりをさまよい、邸宅にも侵入する。女性は生前と全く同じ服装で歩き回る。

結果的に、数人だけが生き残り、ボートで島から離れることになる。ここはまさに、死のさまよう孤島であった、というわけだ。

サスペンスの常道をいく作品で、得体の知れない思い込みにより人々が混乱するようすや、風の向きが変わることで災厄が遠ざけられるはずだ、とするとまどいなど、人々が真剣になればなるほど、どこか滑稽ささえ感じてしまう。

ボリス・カーロフやエルンスト・ドイッチュの灰汁の強い容姿もまた、この映画の内容を盛り上げるのにひと役買っている。

灰汁の強い顔や若くはきはきした男、年配の女優や迷信めいたことを言う女性、・・・彼らを配して出来上がったこのサスペンスには、血が流れるシーンもなく、醜い死体が転がっているシーンもなく、一定の品性に包まれている。


冒頭は、ボリス・カーロフが洗面器で手を洗うシーンのアップから始まる。

カメラのパン・横への動き、シーンごとの俳優の立ち位置、白黒ならではの光の使い方など、丁寧な仕事ぶりも注目されていいだろう。

 


2016年3月 1日 (火)

映画 『情婦』

監督:ビリー・ワイルダー、原作:アガサ・クリスティ、脚本:ビリー・ワイルダー、ハリー・カーニッツ、音楽:マティ・マルネック、主演:マレーネ・ディートリッヒ、タイロン・パワー、チャールズ・ロートン、エルザ・ランチェスター、1957年、117分、モノクロ、イギリス映画、原題:
WITNESS FOR THE PROSECUTION(検察側のための証人)

ストーリーもシーンもほとんど覚えているのに、何度も観てしまう映画だ。この映画を嫌いになる人はまずいないと思う。

法廷サスペンスの絶品で、アガサ・クリスティの原作がしっかりしている上に、実力派の大物俳優が名演技を披露しており、それと知られたベテラン勢が脇を固めている。ビリー・ワイルダーの代表的作品。

ようやく退院した、ロンドンでも実力派の大物弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)のところに、殺人の嫌疑をかけられた男レナード・ボウル(タイロン・パワー)が付き添いの弁護士と現われる。
レナードが帰ったあと、今度は妻のクリスチーネ(マレーネ・ディートリッヒ)が現われる。ウィルフリッドはクリスチーネの言葉や態度に不信をいだく。

医者からは心臓の負担になるような事件は扱わないように言われていたが、
弁護士魂に火のついたウィルフリッドは、付き添い看護婦プリムソル(エルザ・ランチェスター)の言うことも聞かず、レナードの弁護を受けて立つ。
しかし、レナードにとっては不利な状況証拠ばかりで、裁判は困難が予想された。……

ストーリーに限らず、セットや多くの小物類などに凝っているほか、変に小細工をしない控えめで丁寧なカメラワークに好感がもてる。ところどころ入る変わったアングルがあり、錠剤や葉巻、ステッキの扱いなど、随所に気が利いていて、映像としても楽しませてくれる。

ファーストシーンからラストシーンにいたるまで、さまざまなエピソードのつながりを邪険にせず、ひとつひとつの挿話やシーンごとに完成度が高い。

夫と妻と弁護士を同じ重みで扱っているので、三者にアンバランスが生じていない。
扇のかなめになるウイルフリッドに付き添う看護婦も、よくフレームに登場し、最初のシーンと最後のシーンには二人が映っている。この弁護士の周辺が映されることで、彼やその周辺の人物のキャラクターが十分に伝わり、単なる法廷モノを超えているが、この看護婦プリムソルの役割は、映像上、案外重要だ。

室内劇に近いため、常にフレームやアングル、カットにくふうを凝らしているのだが、この映画を盛り上げているのは、ストーリー展開とタイミングのよい回想の挿入、俳優たちの熱演を基礎にして可能となるシークエンスの緩急(メリハリ)、を上げることができるだろう。殺害されたフレンチ夫人宅にいる使用人のばあさんも適役だった。

法廷モノは先へ進むものだから、一般的には退屈しないのだが、一歩間違えると、一挙に通俗的に過ぎるつくりとなってしまうジャンルである。

何よりの適役は弁護士役の名優チャールズ・ロートンとレナードの妻役のマレーネ・ディートリッヒだ。そもそも、この組み合わせ自体が興味深い。チャールズ・ロートンはオムニバス映画『人生模様』のなかで、有名になる前のマリリン・モンローとも顔を合わせている。

ロンドン法曹界でも知られる大物弁護士が、葉巻を吸えたときや階段昇降機に乗ったときなど、実に無邪気な笑顔を見せるかと思えば、法廷では大声を上げて怒るところまでさまざまな表情を見せてくれる。

ディートリッヒはどちらかといえば、酒場の歌姫など生活感のない役柄が多く、ここでもそういうシーンはあるが、スーツを着てツンとした表情を保つ悪女風の役柄はあまりなかった。全くのはまり役で、まさかマリリン・モンローはありえず、リタ・ヘイワースもありえず、現代でリメイクするならジョディ・フォスターくらいなら演技はできても、この女のように、過去を引きずりながらレナードを冷静にしかも情熱的に愛する女は演じきれないだろうと思われる。

冒頭から映る巨大な法廷と厳粛な裁判や、検事やこの大物弁護士まで敵に回す、ドイツに過去のあるこのしたたかな女は、ドイツ生まれのディートリッヒにしかできなかっただろう。

レナードが観る映画のシーンで‘ジェシー・ジェイムズ’の名が出てくる。冒頭のほうで、あるたとえとして日本の特攻隊も出てきた。全体にセリフ回しやセリフの駆け引きがおもしろいのも、この映画ならではだろう。

ロンドンを舞台にした話なので、まさにきれいなイギリス英語であり、使用人のばあさんの訛りが際立つ。

本来なら、殺人犯の妻は、出廷するにしても、弁護側の情状証人として出廷するのが普通で、検察側の証人として出廷することは通常ではありえず、その普通ならありえない証人がディートリッヒであり、原題は「検察側の証人」だ。このワケありの妻を「情婦」として邦題にしたのは、当時の配給会社の苦し紛れの選択だったのだろうが、そのために映画ファンから縁遠くなっているとしたら残念だ。

ラストで、カメラを外に出す法廷モノが多いなか、カメラは固定したまま、扉に消える弁護士と付き添い看護婦を映して終わる。
ラストがいつまでも終わらなかったり、ラストでカメラが法廷の外に出るものが多いが、この作品では、さりげなくさっと終わる。あえて自重した演出と思う。

エンドロールが流れるなか、この映画をご覧になった方は、まだ観ていない方に、決して結末を話さないように、とナレーションが入る。
ラストまでに、二度に渡るどんでん返しがあるためである。

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2016年2月29日 (月)

映画 『日本のいちばん長い日』 (2015年版)

監督・脚本:原田眞人、原作:半藤一利 『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』(1995年6月)、撮影:柴主高秀、美術:原田哲男、編集:原田遊人、音楽:富貴晴美、主演:役所広司、本木雅弘、山崎努、松坂桃李、136分、2015年8月、松竹。

参考までに、1967年版は、以下のとおり。

監督:岡本喜八、原作:大宅壮一編『日本のいちばん長い日』(1965年8月)、脚本:橋本忍、撮影:村井博、美術:阿久根厳、編集:黒岩義民、音楽:佐藤勝、1967年8月、モノクロ、157分、東宝。

鈴木貫太郎男爵・内閣総理大臣(笠智衆)
米内光政・海軍大臣( 山村聡)
阿南惟幾・陸軍大臣(三船敏郎)
畑中健二・陸軍少佐( 黒沢年男)

が中心となっており、昭和天皇(松本幸四郎)は登場するものの、登場シーンは少なく、ほとんど顔を映していない。

本作品では、

阿南惟幾・陸軍大臣(役所広司)
昭和天皇(本木雅弘)
鈴木貫太郎・内閣総理大臣( 山崎努)
畑中健二・陸軍少佐(松坂桃李)

が中心となっている。

いずれも原作を知らないが、映画の出来という点では、明らかに旧作のほうに軍配が上がるだろう。

そもそも、監督が脚本を兼ねるというだけで、ピンとはきた。こういう場合、特段に優れた作品になるか、逆に、独りよがりの作品になるか、のいずれかになる。

本作品も後者に当てはまる。
全体に詰め込み過ぎという印象が強い。会話のやりとりが、まるで掛け合い漫才のようで、余裕や間がない。カットも、同じシーンであっても、次から次へと休みない。
こういうことをされると、映像として楽しむという気持ちを、観客から奪ってしまう。

終戦前から15日にいたるまでの緊迫した状況を、機関銃のようなセリフの応酬と映像編集で現したかったとするなら、根本的にその発想は誤っている。それはまるで、文字の早読みであり、映像としては楽しめない。

あちこちに飛ぶロケ、豪華なセット、多数のエキストラ、軍服・軍装品、往年の高級車など、カネは使われている。俳優陣も、若手から年配者まで、しっかりした演技ができている。
EDにくだらない歌を使わず、全体的にOSTも映像を壊してはいない。
となると、すべての責任は、脚本を兼ねた監督にある

この映画を見て、冷房もロクにない真夏の蒸し暑さを感じるだろうか?
連合国軍の一方的なポツダム宣言受諾を目の当たりにした大臣たちの苦渋や、沖縄などでの悲劇を感じるか?
「反乱軍」の決断や熱意が伝わるか?

脚本上の問題も大きい。
旧作では、宣言受諾を渋々受け入れる内閣、特に阿南惟幾と、これに対する畑中少佐ら「反乱軍」の対立軸が鮮明であり、その軸を中心として、それぞれの内部にドラマが起きるという構図になっている。

厚木基地や横浜からトラックで駆けつける「反乱軍」応援隊は、大きなストーリーの流れに味を添えている。「反乱軍」が首相官邸を襲撃するシーン、玉音版を探して皇居内を荒すシーンなど、ポイントごとにメリハリもあって、重大な内容をもつ映画であるにもかかわらず、映像や音響でも楽しむことができる。

本作品には、計画された軸というものがない。時系列に忠実になるあまり、事実を追っているだけで、それで精一杯といった感じだ。
セリフの多いのも、監督が脚本を兼ねているからであって、これは捨てられない、というセリフが多かったのだろう。

本作品のかなめは陸軍大臣・阿南惟幾であるが、役所広司はミスキャストだ。
大作=巨額の投資=結果的に有名俳優の起用、ということになるが、悪役の多い俳優でも連れてきたほうがよかった。これは旧作の三船敏郎にかなわない。
巨額の投資をするからには巨額の収入が見込まれなければならない、・・・制作費の張る映画には、常にこうしたジレンマがある。

内閣側の人物像にも強弱がなく、みな並列的に出てくるので、おもしろみがない。映画として、天皇、鈴木、阿南、米内のどれに力点が置かれているのかわからない。
登場回数が多ければ力点が置かれている、とは限らない。

映画全体に、思い切って割愛する・抑制する、という姿勢が感じられず、そういう意味では、ただひたすらまじめに作られただけの映画で、大作たりえず、エンタメ性にも欠けるできばえとなった。

映画 『予告犯』

監督:中村義洋、原作:筒井哲也、脚本:林民夫、撮影:相馬大輔、音楽:大間々昂、主演:生田斗真、戸田恵梨香、119分、2015年6月、東宝。

特におすすめということもないが、期待していなかったわりには良い作品であった。

インターネットを通じ、ある犯行を予告する人物がいた。
目と鼻のところだけ開いている新聞紙をかぶった男が、ネットカフェのパソコンから、犯行予告を流す。翌日、予告どおりの事件が起き、警視庁サイバー犯罪対策課が捜査に乗り出す。捜査の指揮をとるのは、係長の吉野絵里香(戸田恵梨香)である。

予告犯から被害を受けるのは、社会的には無責任な行動をとった会社や個人であり、ネットユーザーの間では予告犯を支持する者が増え人気も出て、いつの間にか予告犯は「シンブンシ」と名づけられる。

やがて警察は、数回に及ぶ犯行後の防犯カメラの映像などから、それぞれの犯人の背が違うことがわかり、犯人は複数いることを突き止める。

一方、数年前、奥田宏明(生田斗真)は、IT関連の会社をクビになり、ハローワークで仕事を探すにも職がなく、そうこうするうち、日雇いの労働者となった。現場は、山奥の廃棄物処理場だったが、そこでは不法投棄がおこなわれていた。
処理場の小屋には、他に三人の男とひとりの少年が寝泊りしていた。

やがて五人は、それぞれニックネームで呼び合う中になった。
奥田宏明はITに強いのでゲイツ、葛西智彦(鈴木亮平)は関西弁訛りがあるのでカンサイ、木村 浩一(濱田岳)は、「ドラえもん」ののび太に似ているからノビタ、寺原慎一(荒川良々)は腹が出ているのでメタボ、フィリピンから来た日系の少年はひょろっとしているのでヒョロとなった。

この少年はネルソン・カトー・リカルテと言い、奥田に「OTPトークン」というセキュリティキーを見せた。これは、働いていたインターネットカフェがつぶれたときに、少年が持ち出してきたものであった。
ヒョロはよく働いたが、病いに倒れ、山奥のそんな場所で医者も呼べず、そのまま亡くなってしまう。

ゲイツは、残った4人で、あることを実行しようとする。・・・・・・

この少年の持っていた「OTPトークン」と呼ばれるセキュリティキーから、予告犯の犯行が始まっており、これはまさに犯行のキーとなる小物であると同時に、物語が進むうち、これを持っていて亡くなった少年が、犯行の動機となっていることが明かされる。

突っ込みどころも多いのだが、それを覆い隠すのは、「シンブンシ」の狙う対象が反社会行動をした個人や会社であるため、予告犯の行動がいわば「世直し」的はたらきをすることであり、少年初め結びつきをもった若者たちが、社会的に報われない存在だということから、観ている者に同情を引き起こすからでもあろう。

「シンブンシ」が計画的犯行を続けたのには、それなりの動機があった。
社会の底辺にいることを余儀なくされている者たちが、ささいな正義と純情を貫き通すために、結束して予告犯となり、視聴者の共感を得るという運びは、それなりに説得力をもつ。

カメラワークにも特筆すべきものもなく、全体には静かに進んでいくが、海辺の景色や排水路での奥田と吉野のシーンなど、会話に見合った場所選びも功を奏している。

戸田恵梨香はミスキャストだ。偶然いっしょにレンタルした『日本のいちばん長い日』に、NHK放送局員・保木玲子役で出ていたが、この程度に短い出番のほうがいいだろう。

登場シーンは少ないが、窪田正孝(ネットカフェ店員・青山祐一)はいい役をもらった。演技もキラリと光るものがある。
取調べのときに彼のいうセリフが、本作品の本質を表している。「小さなことでも、それが誰かのためになるなら人は動く」

ヒョロを演じた福山康平は、EDで日本人とわかるまで、本当のフィリピン人なのかと思った、本作が映画初登場とのことだが、片言の日本語や愛くるしい表情など演技力もあり、これからの成長が楽しみだ。

2016年2月14日 (日)

映画 『鬼畜』

監督:野村芳太郎、原作:松本清張、脚本:井手雅人、撮影:川又昻、音楽:芥川也寸志、主演:緒形拳、岩下志麻、1978年、110分、カラー。

川越市にある小さな印刷屋に、菊代(小川真由美)が小さな子三人を連れてやってくる。菊代は印刷屋の主人竹下宗吉(緒形拳)の愛人であり、妻・梅(岩下志麻)にはすべて隠していたから、大騒ぎになる。

気の弱い宗吉はバツが悪く小さくなっているそばで、二人の女が丁々発止の押し問答を繰り返す。
深夜、菊代は、三人の子は宗吉の子だからここへ置いて、自分だけ出ていくと啖呵を切り、去っていってしまう。

翌日より、いきなり三人のおさな子と暮らすことになり、宗吉はてんてこまいになるが、梅は、あんな女の子供らの面倒など一切見ない、と宣言する。

梅は子供たちをひっぱたくなど辛くあたり、地獄のような日々が続くが、ある日二階の棚をいじっているうち、棚にあった大きなシートがヒラリと落ち、偶然下にいた末っ子・庄二の上ににかぶさった。
偶然それを見かけた宗吉と梅に、子供らへの殺意が芽生える。……

おなじみのベテラン俳優が散りばめられ、単純なストーリーに厚みが出ている。
ほとんど新人に近かかった大竹しのぶが婦警役で出ているほか、印刷屋の使用人に蟹江敬三、パトカーの警官に田中邦衛などが出演している。

庄二は、いい加減なものしか与えなかったことによる病死であったが、二番目の女の子・良子は、まだ父親の名前や自分の住所も言えないことを利用して、宗吉は都内見物に出るふりをして、東京タワーの上に置いてきてしまう。

長男・利一は6歳になっており、住所も言え、兄弟が順にいなくなったことや、それにつれて冷たく変化していく宗吉の自分に対する態度や折檻などもあり、梅に嫌われていることもよく悟っており、良子のように捨ててくるわけにはいかない。

宗吉は旅行と称し利一を連れだす。東尋坊から能登半島に周り、能登金剛の崖の上で、宗吉は寝ている利一を抱いたまま立ち上がり、関野鼻の崖から利一をわざと落としてしまう。下に投げるのではなく、抱いている手を離すように、そっと利一を落とした。
『ゼロの焦点』で有名になったヤセの断崖のシーンもある。

宗吉は女房の尻に敷かれ、その陰で愛人をつくり、女房との間にはできなかった子供を三人もつくっていた。このしがない小心者の宗吉が、終盤、利一と止まった旅館のへやで、ヤドカリと遊ぶ利一に、聞かせるでもなく、自分の辛い過去や生い立ちを、涙ながらに話す。このシーンは緒形ならではの圧巻だ。

利一を殺すつもりでここまで来たのにもかかわらず、自分も幼い頃、親類じゅうをたらいまわしにされたり、人に裏切られたりした話をする緒形の演技には圧倒される。だから、子供らを大事にしなければならなかったのに、一人を病死させ、一人を捨て子にし、いままた目の前の子を、あすにでも亡きものにしようとしている。

利一は松の枝に引っかかって一命を取り止めるのだが、警察の事情聴取にも、何も答えず、容疑者として連行されてきた宗吉と向き合っても、この人はおとうさんではない、と語る。

ちょうどこのころ、子供を捨てる親、子に対する親の虐待、またその延長で、親と子の関係について、いろいろ話題になっていた。野村芳太郎が手がけた松本清張作品は、『張込み』『砂の器』などいずれもヒット作となり、この後『わるいやつら』『疑惑』へと続く。
清張作品は、サスペンスとして、原作が丹念に仕上げられており、脚本化しやすく、大衆の関心を呼ぶような、人間の内面心理へ迫るものが多い。

この映画の音楽は芥川也寸志だが、出だしはどこかズッコケムードの音楽だ。シリアスな内容の映画であるのに、菊代が男衾(おぶすま)駅から印刷屋に押しかけるまでは、どこか拍子抜けした味わいがあり、緒形拳の気弱なすっとぼけぶりと一致している。

ほとんどのシーンに子供が出てくるからには、子役の演技も大事である。利一役の少年は、演技力があるとは言えないが、こうした状況にある子の役柄なので、あえて丁寧な役付けをしなかったのかもしれない。
やはり注目されるのは緒形拳と岩下志麻の演技であろう。どちらも本当にうまいと思う。

岩下は当時37歳。若いころは清楚なお嬢さん役が多かったが、30代以降、役柄を広げ、桃井かおりとの共演作『疑惑』では、子を夫のほうに残し離婚している弁護士、『鬼龍院花子の生涯』では鬼龍院政五郎(仲代達矢)の妻・歌、『魔の刻(とき)』では息子・深(坂上忍)を愛する母親を演じ、その後『極道の妻(おんな)たち』で圧倒的な存在感を見せつけることになる。

小川真由美は、冒頭に出てくるだけであるが、啖呵を切るところの形相はものすごい迫力で、物語最後まで、その影響力をもっている。
岩下志麻も、石川県の刑事が宗吉を連行しにきたあとは、出てこない。大竹しのぶは、利一が助かったあと、婦人の警官として、何とか利一の口を割らせようとするシーンで初めて出てくる。アップのシーンもあり、ラストで利一に声をかけるシーンもあり、演技派を買われての出演だろう。その後大きく育っていった女優だ。

その後増加の一途をたどり現在にも頻発する子捨て、子殺しを扱ったテーマであるが、社会批判、保護者批判の映画ではなく、人間の本性に眠る鬼畜の部分と罪悪感を、映像に描写した名作だ。

2016年2月11日 (木)

映画 『鍵』

監督;市川崑、原作:谷崎潤一郎、脚本:和田夏十、長谷部慶治、市川崑、音楽:芥川也寸志、主演:京マチ子、仲代達矢、中村鴈治郎、1959年(昭和34年)、110分、カラー。

脚本の和田夏十(わだ・なっと)は、市川崑の妻である。

古い日本の映画だがカラー作品。大好きな映画のひとつ。ようやく今日、手に入れることができた。
京都が舞台で、市電の停留所名に天王町と見える。

耽美派と言われた谷崎潤一郎の小説『鍵』をもとにしてつくられている。
原作を読んでいる映画はあまりないのだが、原作の雰囲気をうまい具合に掴み、再現している。原作では、郁子(京マチ子)、夫の剣持(中村鴈治郎)、娘・敏子(叶順子)、敏子の婚約者で医師の木村(仲代達矢)の四人であるが、映画には主な登場人物に、婆やのはな(北林谷栄)が加わっている。

また、原作では、性欲や心理にのみ焦点を当てて書かれており、剣持の職業などにはほとんど触れられていない。鍵の意味も、原作では、夫の日記がしまわれている引き出しの鍵だが、映画では、剣持が倒れたあと郁子と木村が逢引するため郁子が木村に渡す家の入口の鍵になっている。

原作は日記体で、夫の記述がカタカナ、妻・郁子の記述がひらがなで、元日の夫の日記からそれぞれ書き始められ、夫は妻に、妻は夫に、それぞれ読んでいることをわからないように読んで、元に戻しておいてくれることを要求し、それぞれそのとおりにしている。

夫は高齢期に入り、自分より若い妻との性生活の自信を取り戻すため、かかりつけの医師である木村を何かといっては郁子に近づけることで、自らの嫉妬心を煽り立て、しばらくは円満な夫婦生活が送られる。木村はそもそも敏子の婚約者であるが、木村は一人前の開業医になるために剣持を利用し、剣持は深夜ポラロイドで撮った妻の卑猥な肢体の写真を木村に現像させてさらに自分の性欲を亢進させ、郁子は夜の床への不満を木村との密会で満足させる。敏子は利用されるばかりであり、そういう父親を恨み母親を妬むが、木村には内心好意を抱いている。

谷崎文学の耽美の世界を、メイク、せりふ、カメラ、間、演出でみごとに描ききった名作だ。全体に演技とカメラ撮りに、灰汁(あく)の強い演出が施されていて、原作を見ていなくても、それにふさわしい映像表現となっている。官能の世界を描くが、京マチ子の乳房を映すわけでもなく、閨房の秘事が撮られるわけでもない。それでもなお、官能的な映画なのである。

娘の婚約者役の仲代達矢のうすら白いメイクと薄気味悪い演技、京マチ子の眉を吊り上げた能面のようなメイクと白い肌、婆や役の北林谷栄のとぼけた話し方と鼻のメークなどが、滑稽味をもつせりふやいろいろなメタファーと相まって、日常に材をとりながら非日常的ともいえる、おどけたような官能世界を非常にうまく造り出している。

風呂で倒れた妻の美しい肢体から立ち上る湯気、その女体を夫と娘の婚約者がベッドに運ぶという奇異なようす、電気スタンドで明るく照らした妻の裸体をポラロイドカメラで撮る夫の淫靡な楽しみ、用が済んだら木村の鼻先で玄関の扉を閉める剣持…言い出したらキリがないほど、ワンシーンごとに映像の遊び心も伝わってくる。京都ことばのせりふやイントネーションも効果的だ。

ラブシーンや直接的会話でなく、婉曲な会話のやりとりと演出、間合いの取り方やカメラのフレームや引きなど、最低限の気の利いたせりふと映像と編集のくふうによって、充分に、登場人物の滑稽なやりとり、男女の欲望やエロティシズム、サスペンス感あふれる心理の動き、などをあらわすことに成功した秀作だ。

2016年2月 6日 (土)

好きな映画一覧

<作品名>(平成28年2月6日更新)



『死刑台のエレベーター』『ディーバ』『カサブランカ』『望郷』『モロッコ』『街の灯』『メトロポリス』『M』『靴みがき』『自転車泥棒』『道』『鉄道員』『赤い風船/白い馬』『紅塵』『ローラ殺人事件』『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『汚れた顔の天使』『窓』『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『深夜の告白』『『呪いの血』『私は殺される』『拾った女』『荒馬と女』『十二人の怒れる男』『第三の男』『必死の逃亡者』『陽のあたる場所』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『去年マリエンバートで』『顔のない眼』『めまい』『サイコ』『北北西に進路をとれ』『鳥』『裸足の伯爵夫人』『穴』『非情の罠』『2001年 宇宙の旅』『マドモアゼル』『クリスマス・ツリー』『特攻大作戦』『水の中のナイフ』『帰らざる夜明け』『レマゲン鉄橋』『チャイコフスキー』『大地震』『カサンドラ・クロス』『ベニスに死す』『ラ・パロマ』『シャイニング』『ストリート・オブ・ファイヤー』『激突』『π』『普通の人々』『殺しのドレス』『レオン』『ミツバチのささやき』『マリリンとアインシュタイン』『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』『青いドレスの女』『ミスト』『天使』『ラルジャン』『遊星からの物体X』『トワイライトゾーン』『暴走機関車』『サン★ロレンツォの夜』『ボーイズ・ライフ』『評決』『キャビン・フィーバー』『刑事ジョン・ブック/目撃者』『ミザリー』『氷の微笑』『ステイ』『隠された記憶』『ファイナル・デスティネーション』『白いリボン』『倫敦から来た男』『テキサス・チェーンソー』『ゆりかごを揺らす手』『レミング』『不眠症 オリジナル版インソムニア』『ヒート』『THE WAVE  ウェイヴ』『エクスペンダブルズ1・2』『コロンビアーナ』『アンチクライスト』『メランコリア』『引き裂かれた女』『メカニック』『わたしを離さないで』『ドラゴン・タトゥーの女』『偽りなき者』『危険なプロット』『鑑定士と顔のない依頼人』『悪童日記』『トラ・トラ・トラ!』『安城家の舞踏会』『日本のいちばん長い日』『明治一代女』『どぶ』『にごりえ』『羅生門』『歌行燈』『祇園囃子』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『剣』『白い巨塔』『浮雲』『女が階段を上る時』『鍵』『悪名』『女系家族』『長崎ブルース』『約束』『鬼の棲む館』『飢餓海峡』『人間の條件』『戦争と人間』『少年時代』『華麗なる一族』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『砂の器』『新幹線大爆破』『県警対組織暴力』『人妻集団暴行致死事件』『泥の河』『AKIRA』『ツィゴイネルワイゼン』『家族ゲーム』『鬼龍院花子の生涯』『犬神家の一族』『マルサの女』『疑惑』『極道の妻たち』『TOMORROW  明日』『天城越え』『渚のシンドバッド』『顔』『CURE』『失楽園』『MEMORIES』『青の炎』『トウキョウソナタ』『カミュなんて知らない』『男たちの大和/YAMATO』『女はバス亭で服を着替えた』『明日の記憶』『象の背中』『ライフ』『宮城野』『白夜行』『冷たい熱帯魚』『一枚のハガキ』『11.25 自決の日』『パレード』『はやぶさ 遙かなる帰還』『桐島、部活やめるってよ』『渋谷』『SHORT PEACE ショート・ピース』『迷宮物語』『言の葉の庭』『共喰い』『そこのみにて光輝く』『亜人 第1部-衝動-』 など。








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