« 2017年2月 | トップページ

2017年4月

2017年4月26日 (水)

映画 『ナポラ』

監督・脚本: デニス・ガンゼル、撮影:トルステン・ブロイアー、音楽:アンジェロ・バダラメンティ・ノーマンド・コーベイル、主演: マックス・リーメルト、トム・シリング、ユストゥス・フォン・ドナーニー、2004年、117分、ドイツ映画、原題:NAPOLA/BEFORE THE FALL

ドイツ版の原題は、『Napola - Elite für den Führer』(ナポラ - 総統のためのエリート)となっている。

労働者階級の少年であるフリードリッヒ(マックス・リーメルト)が、ボクシングの腕前を認められ、ナチスのエリート養成機関である民族共同体教育施設(ナポラ、Nationalpolitische Lehranstalt)に入校し、その後さまざまな試練を経験し、結局はそこでの教育に付いていけず、退学処分となるまでを描いている。

フリードリッヒの親友となり、彼の退学に至る契機をつくる人物がアルブレヒト(トム・シリング)である。アルブレヒト自身は、党内で実力をもつ父親のハインリッヒ(ユストゥス・フォン・ドナーニー)のコネで入学しているが、親の方針に反発し、自害を遂げている。

そのアルブレヒトの父は、字幕では知事と出るが、日本の知事とは全く異なり、ナチス党の行政区分である大管区(ガウ、Gau)の地区指導者(大管区指導者、Gauleiter)である。ナポラはナチス親衛隊の下部組織であり、生徒や教職員は、親衛隊と同じ色や柄の制服を身に着け、階級も親衛隊組織を倣ったものとされる。

監督のデニス・ガンゼルは、高校での独裁政治についての授業を扱った『Die Welle』(波、2008年)でも有名だ。デニス・ガンゼルは、祖父がナポラの教員であり、ナチスについて詳しいようだが、どちらの作品とも、ナチスの価値観に対しては否定的に描かれている。

ナチスのエリート養成学校であるからには、心身の鍛錬はもちろん、生活の仕方なども軍人同様細やかな規則や慣習があり、それを逸脱し或いはそれに反発する者は、一定の制裁を受け、また、平然と落ちこぼれていく。そうした、一部非人道的な扱いをされることを含め、せっかく難関を突破し貧しい生活と縁を切ることができたフリードリッヒは、我慢強く過酷な試練に耐え、仲間をつくり、やがて、有力者の息子アルブレヒトとも親しくなる。

アルブレヒトはフリードリッヒと違い、親の決めたとおり、本人の意図と無関係に入校させられ、初めから決められたレールの上を歩んでいくのであるが、本人の性格も相俟って、ナポラのやりかたに不満をもち、やがて自分の生きる場を見失ってしまう。自我を捨て、弱者を見下し、うまくいった者だけが生きる価値を認められる世界には、とても付いていけなかったのである。

そのアルブレヒトの死は、一大決心をし、親の反対を押し切ってまで入校したフリードリッヒの気持ちをさえ、折ってしまうのである。

これらの展開が、一定のテンポで進んでいく。ナポラという場所での生徒の訓練や生活の実態が、リアルに再現されていくようすは興味深い。ただ、フリードリッヒという少年の心の変容を描くべく、単線的な展開に終始しているので、映画としてのエンタメ性は置き去られたような感を否めない。

巨大な城や雪原、森林など、大がかりなロケや、シーンにふさわしいOST、カメラワークやさまざまな演出も、映画の単線ぶりを補うことはできなかった。

この映画のあとにできた『Die Welle』は、学校のひとクラスとその教師という全体が主役となっているので、話が、教師の家庭や、生徒それぞれの関係などにも及び、重複的な展開を見せているが、こちらは、フリードリッヒという少年の生きざまを中心に描かれていくため、映画上での遊びがない。

フリードリッヒとアルブレヒトの二人を、ほぼ同格に描き、それに対する強固な壁としての制度を対立させる、といった構図のほうがよかっただろう。

フリードリッヒの内面の変容についても、映画自体は静かに淡々と日々のようすが描かれていくようすは好感をもてるので、それに対比させるかたちで、彼の葛藤を描き出してもよかった。それは描かれていないことはないが、客観的な事実があってそれに対する彼の反応としてしか描写されていないので物足りない。

日本でいうエリートとは明らかに異なり、歴史上のある時点での、ナチスという政党の機関であり、同じエリートと言っても、あくまでも「総統のためのエリート」であったのだが、それでもなお、能力面での競争などやその結果としての優劣の発生、優れた者のとる態度、劣等の者が陥る心理などを、輻輳的に描写してほしかった。

そこまで描いたとしても、2時間の枠を超えず、フリードリッヒの内面描写も表現できたはずだ。

V1301579s_03gif

Mv5bmdbjntvhzdetntk3ni00nduxlwfhzwy

Napola

 

2017年4月20日 (木)

映画 『イレブン・ミニッツ』

監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ、製作:エバ・ピャスコフスカ、イエジー・スコリモフスキ、音楽:パヴェウ・ミキェティン、出演:リチャード・ドーマー、ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、パウリナ・ハプコ、2015年、81分、ポーランド・アイルランド合作、原題:11 MINUT/11 MINUTES(11分)


イエジー・スコリモフスキは、23歳のとき、28歳のロマン・ポランスキーに請われ、二人で同監督処女作となる『水の中のナイフ』(1962年)の脚本を書き、ヴェネツィア国際映画祭・国際映画批評家連盟賞を受賞している。同作品は、第36回アカデミー賞外国語映画賞にポーランド代表作品として史上初めて出品され、ノミネートされるに至った。
言われてみれば、この映画も、『水の中のナイフ』を彷彿とさせる。

左目に痣をつくった男の新妻は女優であり、映画監督らしい男のいる高層ホテルの一室を訪れる。男の痣は、どうもこの映画監督の男に殴られてできたようで、その仕返しと妻の浮気が心配で、このホテルに向かい、多少狼狽し躊躇しながらも、消火器でドアを叩き壊し、ようやく室内に入ることができたのだが・・・・・・。

あえてストーリーの中心を見つけようとするなら、この話だけであり、これと平行して何人かのエピソードが語られるに過ぎない。同じホテルの一室で、ガールフレンドの持ってきたポルノを飽き飽きしながら見る窓掃除の男、出所したばかりのホットドッグ屋、男にフラれ、連れていた犬を押し付けられる女、浅はかな銀行強盗をひとりで仕出かし失敗する青年、麻薬を売った女と一発やって亭主の帰宅に慌てふためいてバイクで去っていく売人など、ロクでもない連中ばかりが登場する。彼らが、「最後はいっしょになる」運命であり、そうした都会の人間の生きるプロセスが、断片的に描かれていく。

こうした技法を群像劇として宣伝しているが、古くは『グランドホテル』(1932年)のように、それぞれの人物がドラマをもち、その掛け合いの後、大団円に収斂するのが、群像劇の意味であり、この映画はそこからは大きく脱線している。

同じ時間の出来事を、キャラクターごとに見せたり、時間を前後させたりするという点で、むしろ、『エレファント』(2003年)や『桐島、部活やめるってよ』(2012年)と同じ手法であり、突然、カオスを迎えるという点では、予知夢のない『ファイナル・デスティネーション』でもある。

こうして、いろいろな映画を観、いろいろな出来事を経験してきた老齢の監督の作品としては、当然ながら、特に目新しい部分を発見するほどではない。

むしろ、この映画の圧巻はラストのカオスそのものではなく、そこから引いていくカメラなのだ。カオスの現場から引いていくカメラが、実は・・・という「落ち(オチ)」なのだ。この映画に、ストーリー上のオチなどあるはずがない。むしろ、映像上のオチこそ監督の意図なのだ。ラストの出来事のあとに、もったいぶった末にようやく出してくるのである。

このオチを効果的にするためには、登場人物に地位や名誉のある人間も高尚な人間的からみも要らなかったのである。スケベ監督やドラッグの売人、強盗をする少年、或いは、客に出すルームサービスの料理をひと切れ食べてしまうルーム係、ホットドッグを頬張る尼僧たち、で充分だったのだ。大仰なキャラクターでは、オチが霞んでしまうのである。

それが証拠に、エンドロールのあの字の小ささに注目したい。故意にポイントを小さくした文字を並べて、俳優名・役柄名など読めなくていいのだ、と言わんばかりである。膨大な数のモニターが映し出す都会の光景に、個人名は初めから不要なのである。

さらに、この映画の個性は、音と多彩な映像にある。この映画には音楽らしきものがほとんど入らない。あったとしても、故意にヴォリュームを下げて、聞こえるか聞こえない程度に流すだけである。あとは、音だけだ。それもきれいな音とは限らない。

映像にはさまざまなくふうが凝らされている。カメラがキャラクター目線になるのはよくあるが、犬の目線になることもあり、強盗を仕出かす前の少年のように、何を見ているかわからないようなシーンもある。

筋がないようなものだから、逆に、象徴的でサスペンス風な映像を取り入れることもできたのだ。低く飛ぶ航空機、大きなシャボン玉、みごとな絵の描かれたカンバスに落ちた黒い絵の具の一点、など、カオスのあとの衝撃を予兆させる通奏低音である。

こうして、この映画は出来上がった。81分のほとんどを使って、都会に住む「たいしたこともしてない」人物たちの午後5時過ぎのわずかな時間と、彼らの向かうカオスを描いたのである。そして、これは、都会の「どこにでもある出来事」としてカメラが記録しているだけの事実に過ぎないことを、「どうっすか?」と提示してくれただけなのである。

この手間ヒマかけた<遊びの世界>で、戯れることができるかできないかは、観客個人個人の個性によるのであろう。戯れることができなかったからといって卑下することもない。戯れることができたのなら、楽しい世界の扉をまた一つ開けた、とは言えるだろう。



82f2e8c040ffb8bd

« 2017年2月 | トップページ