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2016年12月

2016年12月14日 (水)

映画 『にごりえ』


監督:今井正、原作:樋口一葉〔1872(明治5年)~1896年(明治29年)〕、脚本:水木洋子、井手俊郎、主演:第一話・丹阿弥谷津子、第二話・久我美子、第三話・淡島千景、1953年、130分、モノクロ、第一話・約31分、第二話・約36分、第三話・約63分。
 
樋口一葉は、五千円札に描かれた女流作家である。とはいえ、24歳で結核により他界している。
これは、明治期の小説家・樋口一葉の短編小説を三本合わせたオムニバス映画である。ほとんど、原作に忠実と言われている。
一葉の見た明治のこの時代における、若い女たちの悲しい物語である。
 
映像は、内容を自然にそのままを描いているものの、毅然とした姿勢で撮られており、定点長回し、モンタージュ手法、クローズアップ、スポットライトなど、映画の基本的技術ばかりでありながら、こうも神々しい絵ができあがるものかと驚嘆する。
 
それぞれの話に、それぞれに薄幸な娘が出てくる。
 
第一話。
身分の高い男のもとに嫁いだ女・せき(丹阿弥谷津子)が、夫に身分の低さをはじめ、いろいろと蔑みを受けるので、耐えきれなくなって実家に戻ってくる。最後は両親に説得されて戻るのであるが、夜道だからと人力車を拾うと、その男は幼なじみであった。車を止めて、他愛のない話をしたのち、男は車を引いて去り、女は歩いて別れる。
 
第二話。
料理屋に奉公している娘・みね(久我美子)は、伯父夫婦から、大晦日までに返さなければならない金があるから、何とかならないかと頼まれる。大晦日まで言い出せず、当日も忙しいあまりに女主人に言い出せないところへ、勘当同様の先妻の道楽息子が帰ってくる。金をせびりにきたのだったが、両親から大枚を無心すると、帰っていく。
たまたま、女主人がある業者から取り立てた金を、掛け硯(かけすずり)にしまったのはみねであり、こっそりそこから二円を盗ってしまった。
しかし、あとでその掛け硯の抽斗を開けると、一切の金がなくなっており、息子の文字で、ここにあるものももらっていく、という手紙が入れてあった。
みねが二円を失敬したことは、誰にも知られなかった。
 
第三話。
遊郭で働くお力(おりき、淡島千景)は、その店一番の美貌と客あしらいで知られていた。そこへある晩、きちんとした身なりの男が現れる。何度か男が足を運ぶうちに、お力はその男に思いを寄せるが、ある夜、身の上話をする。
女郎のお力にも、かつて好き合った男がいて、いまは別れていた。だが、男のほうは、ときどきお力に会いに、その店の前に現れるのであった。お力にはすでにうっとうしい存在であった。
その男は、妻子がありながら、甲斐性もなく、働きもせず、女房になじられる日々が続いていた。夫婦喧嘩の末、女房は小さな男の子を連れて、そこを出ていく。
 
三話のあらすじはこういったところである。
 
これら儚くも悲しい、若い娘たちの日常のありさまや苦労が、映像になることで、文字以上に見るだによくわかる。
三つの話に共通するのは、背景に身分の違いが鮮明に描かれているところだ。
 
明治という時代の底辺には、たくましくけなげに生きる貧しい女たちがたくさんいた。一葉の日記風に綴られた小説は、みごとに映像に置き換えられている。
 
内容はそれとしても、映画としての品格を失わず、話にむだもなく、流れるようなカメラと演出がある。いまだに、邦画の代表作に数えられるのも当然かと思う。
 
しかし、やはり、悲しい物語には違いない。
 
第三話で、お力の回想シーンがある。
貧乏な家の娘であるお力は、寒い晩に、お金をもらって、おかずを買いに行く。そのおかずといっても、おからである。
小さなカゴにおからを抱いて帰る途中、雪道で転んでしまう。少女は、雪と泥のなかに散らばったおからを、両手で掬ってカゴに戻す。
しかし、もうそれは食べられず、その場に立ちすくんで泣きじゃくる。そこへ、母親が迎えにくる。
 
この一連のシーンにセリフはない。転んでおからをカゴに戻す少女の姿と、その泣き顔のアップだけである。
このシーンは、全く何でもないように見えて、実に悲しいシーンだ。
 
これでもかこれでもかという不運の末に、なりたくもないのになってしまったのが女郎だった、というわけである。おまけに、最後は心中するのだ。
 
出演者でわかるとおり、その後有名になる俳優が、たくさん出ている。そういう俳優たちの若い頃を見られるのも楽しい。


 
※ YouTubeにも、全編アップされています(平成28年12月14日現在)。
Troubled Waters Imai Tadashi, 1953 https://youtu.be/BsSuuE-5SDY @YouTubeさんから


 

2016年12月12日 (月)

アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年12月12日)

<平成28年12月12日(月)現在>

前回→アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年8月5日) http://bit.ly/2aKlXh9 @syuya_yui

初めて見た順:

*全部見たもの

総合評価・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・小

*まだ続いているもの

総合評価・期待度・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・期待度・小

媒体は、見た順。
試しに見たが2~3話で挫折したものは載せていないので、ほとんどが高評価になっています。
特記ある場合以外は、アニメ=テレビアニメ。
ツイッターで知ったもの、mixi時代にマイミクさんに教えていただいたもので、見ていないものもたくさんあります。

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『AKIRA』     コミック・劇場アニメ   ★★★★★

『交響詩篇エウレカセブン』   アニメ  ☆★★★★

『ハイキュー!!』     コミック・TVアニメ  ★★★★★

『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談。』  コミック  ★★★★★

『迷宮物語』  アニメ  ☆★★★★

『弱虫ペダル』   アニメ  全シリーズ  ☆★★★★

『さよなら絶望先生』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『氷菓』       アニメ・コミック  ★★★★★

『言の葉の庭』  アニメ  ★★★★★

『東京喰種』    アニメ・コミック  第二期二話で挫折  ☆☆☆★★

『黒子のバスケ』  アニメ  ★★★★★

『ワールドトリガー』  コミック  7巻で挫折  ☆☆☆★★

『進撃の巨人』  アニメ  第5話で挫折  ☆☆☆★★

『バケモノの子』  アニメ  ☆☆★★★

『ばらかもん』  アニメ  ☆★★★★

『雲のむこう、約束の場所』  アニメ  ★★★★★

『残響のテロル』    アニメ  ☆★★★★

『坂道のアポロン』  アニメ  ★★★★★

『四月は君の嘘』  アニメ  ☆★★★★

『デュラララ!!』(起承転結)    アニメ  ☆★★★★

『ハリガネサービス』  コミック  ★★★★★

『亜人』   コミック  8巻で挫折  ☆☆☆★★

『屍鬼』  アニメ・コミック  ★★★★★

『カーニヴァル』  アニメ  3話で挫折  ☆☆☆★★

『鬼灯の冷徹』  アニメ  ☆☆★★★

『東のエデン』  アニメ  ☆☆★★★

『文豪ストレイドッグス』  アニメ  ☆☆☆★★

『ダイヤのA』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『おおきく振りかぶって』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『はじめの一歩』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  アニメ 全シリーズ  ☆★★★★

『心が叫びたがってるんだ。』  アニメ  ☆★★★★ 

『僕だけがいない街』  途中で挫折  ☆☆★★★

『ReLIFE』  アニメ 全シリーズ  ☆★★★★

『チア男子!!』  アニメ  途中で挫折  ☆☆★★★

『DAYS』  アニメ  途中で挫折  ☆☆★★★

『アルスラーン戦記』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『君の名は。』  アニメ   ☆★★★★

2016年12月 3日 (土)

去勢された日本的大義を取り戻すために (平成28年12月3日)

三島由紀夫によれば、戦後制定された現憲法には、日本人の魂が盛られていない、ということになる。そのとおりだ。

三島は、この憲法が、実は、日本人の魂に対しては大いなる制約をもち、人権尊重以上の理念を日本人にもたせないように縛り付けている、と鋭く指摘した。

この指摘はまさに卓見であり、憲法の三大原則を、子供のころから教えられ、また、教師になって何の疑問ももたず生徒に教えてきた身としては、大いに自己反省しなければならないと痛感した。

現憲法の大原則は、今でも変わらず、国民主権主義、基本的人権の尊重、平和主義の三つの柱である。

戦争を反省し、日本を平和国家にするという名目の陰で、米国は日本に憲法を制定させたが、それによりわれわれ日本人は、人権や自由であることを保障されたかに見える一方で、その実、古来より綿々とつづく日本人の魂なるものを去勢されてしまった。

現憲法下では、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないということに、日本人は非常に苦しんでいる、と三島は説いた。しかし、心ある日本人は、少なからず、戦後間もなくから、きっとどこかで、米軍に知られぬようにして、その魂を解き放そうと、試行錯誤を繰り返し、もがき続けてきたに違いない。

ヒューマニズムとは人道主義のことである。人道主義の根本には、人命尊重主義の考えがある。
人命はもちろん尊いものであり、二つとないものだ。不用意にそれが消えていく状況は、社会的にも許されない。

しかし、ヒューマニズムは万能ではない。一分(いちぶ)の例外もなく、ただ生命あるゆえ、これを尊重しなければならない、というのであれば、日本人の魂は、そこにおのずから、制約を感じることであろう。

ヒューマニズムの強制のもとでは、人を殺してはならぬ、自ら命を絶ってはならぬ、人のために生命を犠牲にしてはならぬ、…といった具合に、いかなるときにも、いかなる場合にも、いかなる職業の人々も、自他ともに、まずは人命を尊重しなければ「ならなくなった」のである。

災害や不慮の事故、強盗や通り魔事件において、人の命が奪われることは、いかなる主義主張・信条・信仰に身を置くとしても、望ましいことではないだろう。
こうした事件の被害を防ぐようにするのが人命尊重主義なのではない。それは、一行政の任務に過ぎない。

問題は行政のありかたといった表層のできごとではない。
日本人の魂という唯心論的なものである。
だから、これはまた、soul とか mind とか mentality などという西洋単語に置き換えられるような単純なものでもなく、ニュアンスも異なる。

人命尊重には一理あるものの、人命尊重主義というヒューマニズムが、「魂を持たぬ」日本人を増殖させ、日本人固有の精神の翼を捥(も)いできたことも事実であり、それが問題なのだ。
そして、「持たない」が、いつの間にか「持てない」に変化することが、恐ろしいのである。それはもはや、飼いならされた愛玩動物に等しい。

非常にごく最近ではあるが、「持てないことはないだろう」と、一部の日本人が目覚める方向になってきているのはうれしいことだ。

人命尊重主義が、社会の究極の摂理になってしまえば、外形的にも内面的にも、武士道は認められることはなくなる。むしろ、それは、異端であり狂気であるとレッテル貼りされる可能性もある。

絶対的人命尊重主義の考えは、極めて西欧的な「平和思想」に根ざしている。これは、宇宙倫理にかなうものでもあり、それだけに普遍性をもつ。その普遍性は、他方でまた、得てして侵略性を伴う。
平和は人倫にかなう、だから、それをあなたの土地にも広めたい…これが侵略の真実である。宗教や左翼に見られる折伏(しゃくぶく)も、これに似ている。

この「平和思想」は、武士道とは真っ向から対立する。武士道は、そもそも、常日頃におこなう「戦いの準備」だからだ。

武士道は死んだかに見えるが、脈々とつづく日本人の血というものは、そんな簡単に、「他人の血」に変わりうるだろうか。

血というものは、本来、排他性を帯び、同じ血同士で結びつくのではなかったか。
国際化というものにしても、良きことなり、という暗黙の絶対的性善説は危険である。「他人の血」との融合は、良きことばかりではない。

三島は、今でも一部の動画で見られるが、戦後民主主義体制において、大義という考え方は消えてしまったが、これは、民主主義が大義を必要としない国家形態であるから、無理もないことである、と言っている。

武士道の根幹には、大義がある。武士道における大義とは、誰かのために自己を犠牲にする、という考え方、あるいは、信念、あるいは、生き方そのものである。

天皇主権のもとでは、誰に向けても堂々としていられる大義があった。天皇の御稜威(みいつ)に従い、これがために身を捨てる、すなわち「海ゆかば」の世界観である。
民主主義は、三島のいうように、たしかに、天皇に対する意味をもって、大義を言うことには難がある。

しかし、本当に、民主主義体制において、大義はありえないろうか。両立しないだろうか。
大義というものの考え方も、武士道といっしょに、戦後の憲法下で、完全に、露のごとく消えてしまったのだろうか。

もし、現代の日本において、大義というものが失われてしまっているのであれば、むしろ、西欧的米国的民主主義を、一旦取り去ってみてはどうだろうか。
そうして、日本人が伝統的に培ってきた文化やその思想・教育観を盛り込んで、日本固有の「民族憲章」なるものを産み出すべきである。

こうした観点からしても、現憲法は、一度、廃棄せざるをえないと考える。

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