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2016年12月 3日 (土)

去勢された日本的大義を取り戻すために (平成28年12月3日)

三島由紀夫によれば、戦後制定された現憲法には、日本人の魂が盛られていない、ということになる。そのとおりだ。

三島は、この憲法が、実は、日本人の魂に対しては大いなる制約をもち、人権尊重以上の理念を日本人にもたせないように縛り付けている、と鋭く指摘した。

この指摘はまさに卓見であり、憲法の三大原則を、子供のころから教えられ、また、教師になって何の疑問ももたず生徒に教えてきた身としては、大いに自己反省しなければならないと痛感した。

現憲法の大原則は、今でも変わらず、国民主権主義、基本的人権の尊重、平和主義の三つの柱である。

戦争を反省し、日本を平和国家にするという名目の陰で、米国は日本に憲法を制定させたが、それによりわれわれ日本人は、人権や自由であることを保障されたかに見える一方で、その実、古来より綿々とつづく日本人の魂なるものを去勢されてしまった。

現憲法下では、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないということに、日本人は非常に苦しんでいる、と三島は説いた。しかし、心ある日本人は、少なからず、戦後間もなくから、きっとどこかで、米軍に知られぬようにして、その魂を解き放そうと、試行錯誤を繰り返し、もがき続けてきたに違いない。

ヒューマニズムとは人道主義のことである。人道主義の根本には、人命尊重主義の考えがある。
人命はもちろん尊いものであり、二つとないものだ。不用意にそれが消えていく状況は、社会的にも許されない。

しかし、ヒューマニズムは万能ではない。一分(いちぶ)の例外もなく、ただ生命あるゆえ、これを尊重しなければならない、というのであれば、日本人の魂は、そこにおのずから、制約を感じることであろう。

ヒューマニズムの強制のもとでは、人を殺してはならぬ、自ら命を絶ってはならぬ、人のために生命を犠牲にしてはならぬ、…といった具合に、いかなるときにも、いかなる場合にも、いかなる職業の人々も、自他ともに、まずは人命を尊重しなければ「ならなくなった」のである。

災害や不慮の事故、強盗や通り魔事件において、人の命が奪われることは、いかなる主義主張・信条・信仰に身を置くとしても、望ましいことではないだろう。
こうした事件の被害を防ぐようにするのが人命尊重主義なのではない。それは、一行政の任務に過ぎない。

問題は行政のありかたといった表層のできごとではない。
日本人の魂という唯心論的なものである。
だから、これはまた、soul とか mind とか mentality などという西洋単語に置き換えられるような単純なものでもなく、ニュアンスも異なる。

人命尊重には一理あるものの、人命尊重主義というヒューマニズムが、「魂を持たぬ」日本人を増殖させ、日本人固有の精神の翼を捥(も)いできたことも事実であり、それが問題なのだ。
そして、「持たない」が、いつの間にか「持てない」に変化することが、恐ろしいのである。それはもはや、飼いならされた愛玩動物に等しい。

非常にごく最近ではあるが、「持てないことはないだろう」と、一部の日本人が目覚める方向になってきているのはうれしいことだ。

人命尊重主義が、社会の究極の摂理になってしまえば、外形的にも内面的にも、武士道は認められることはなくなる。むしろ、それは、異端であり狂気であるとレッテル貼りされる可能性もある。

絶対的人命尊重主義の考えは、極めて西欧的な「平和思想」に根ざしている。これは、宇宙倫理にかなうものでもあり、それだけに普遍性をもつ。その普遍性は、他方でまた、得てして侵略性を伴う。
平和は人倫にかなう、だから、それをあなたの土地にも広めたい…これが侵略の真実である。宗教や左翼に見られる折伏(しゃくぶく)も、これに似ている。

この「平和思想」は、武士道とは真っ向から対立する。武士道は、そもそも、常日頃におこなう「戦いの準備」だからだ。

武士道は死んだかに見えるが、脈々とつづく日本人の血というものは、そんな簡単に、「他人の血」に変わりうるだろうか。

血というものは、本来、排他性を帯び、同じ血同士で結びつくのではなかったか。
国際化というものにしても、良きことなり、という暗黙の絶対的性善説は危険である。「他人の血」との融合は、良きことばかりではない。

三島は、今でも一部の動画で見られるが、戦後民主主義体制において、大義という考え方は消えてしまったが、これは、民主主義が大義を必要としない国家形態であるから、無理もないことである、と言っている。

武士道の根幹には、大義がある。武士道における大義とは、誰かのために自己を犠牲にする、という考え方、あるいは、信念、あるいは、生き方そのものである。

天皇主権のもとでは、誰に向けても堂々としていられる大義があった。天皇の御稜威(みいつ)に従い、これがために身を捨てる、すなわち「海ゆかば」の世界観である。
民主主義は、三島のいうように、たしかに、天皇に対する意味をもって、大義を言うことには難がある。

しかし、本当に、民主主義体制において、大義はありえないろうか。両立しないだろうか。
大義というものの考え方も、武士道といっしょに、戦後の憲法下で、完全に、露のごとく消えてしまったのだろうか。

もし、現代の日本において、大義というものが失われてしまっているのであれば、むしろ、西欧的米国的民主主義を、一旦取り去ってみてはどうだろうか。
そうして、日本人が伝統的に培ってきた文化やその思想・教育観を盛り込んで、日本固有の「民族憲章」なるものを産み出すべきである。

こうした観点からしても、現憲法は、一度、廃棄せざるをえないと考える。

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