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2016年10月

2016年10月30日 (日)

映画 『飢餓海峡』

監督:内田吐夢(うちだ・とむ)、原作:水上勉、脚色:鈴木尚之、撮影:仲沢半次郎、音楽:冨田勲、主演:三国連太郎、左幸子、伴順三郎、1965年(昭和40年)、183分、モノクロ、東映。

杉戸八重(左幸子)が東京に出て、女郎屋に身を落ち着かせるまでが前半、10年後、八重が舞鶴に犬飼太吉(三國連太郎)を突然訪ねるところからが後半で、映画の時間もほぼ二分される。

自分の一生の恩に、ただただお礼だけを言うために、健気に娼妓の仕事をこなしてきた女、過去を忘れ、新たな人間として生き、自分の故郷の貧しい村や刑余者のために、金銭を惜しみもなく寄付する男、…女は一度でいいから男に会って礼を言いたかった、男は過去に絡む女にはどうしても会いたくなかった、…やがて男はまた、殺人を犯してしまう。

いわゆる逃亡ものであるが、人間心理や人間の業にまで入り込んだ小説を、うまく映像化している。恐山の巫女の祈祷などいくつかのシーンで、ネガにして映す(ソラリゼーション)など、心理描写を演出するのにくふうしている。

全体的にも、16ミリで撮影されたモノクロフィルムを35ミリにブローアップさせる「W106方式」という撮影方式がとられており、古典的作品を映画化したときのようなしっとりした落ち着いた映像ではなく、ザラザラとした映像シーンが多くなっている。これは、時代の不安や人物の焦燥感を表わすのに功を奏している。

ふだんお笑い調の似合う俳優をシリアスに、あるいはシリアスな雰囲気で知られる俳優をお笑いの役に使うというのは、キャスティングとして効果的で、よく使われる手だ。

喜劇役の多い伴淳三郎を、執念の刑事役とし、風見章子をあまりものを言わない犬飼の妻にするなど、効果的である。後半、舞鶴の事件捜査では、まだ若い高倉健が刑事役として出てくる。

それぞれの現地での撮影を中心に、大掛かりなロケも敢行し、ロケ現場もカメラが広くパンし、薄幸な人間たちに対峙する環境や自然も、うまく取り入れている。
特に、東京で働く八重の店の近所で、かなり横に動くシーンがあるが、セットもよく作られている、当時の東京は、こんな風だったのだろう。

大まかなストーリーは上のとおりであるが、3時間の尺をもつのは、付随的なシーンまで、細やかにフィルムに収めており、作りも丁寧だからだ。
東映は一時、長すぎるとして、監督に無断で、短いヴァージョンを作ったが、監督の抗議により、元のままの長さに戻されたという逸話がある。

しかし、この映画全編を観て、くどいほどに観ている者にうったえかけてくるものは、背景に広がる戦後の日本と、そこで何とかしてたくましく生きて行こうとする、社会の底辺にうごめく人間たちの生きざまである。

八重は犬飼の置いていった金で、あこがれの東京に出てくるが、働く場所は、まだアメリカ人やヤクザが闊歩するドヤ街の一杯飲み屋であった。そこを出て、ある女郎屋に世話になるが、初めて訪れたその店で、そこに置いてもらうことになったとき、うれし泣きをする。

荷物を取りに帰り、あす朝にはこちらに来る、と言って去ろうとするときの、おかみのちょっとした言葉がきっかけである。「あ、ちょいと、電車賃あるのかい?」

どんなにあこがれて来た東京でも、結局は大湊でしていたことと同じようなことをしなければならないのに、ここに置いてもらうことができてうれしいんです、と言って泣きじゃくる。
貧乏のどん底で、厄介になる置屋がようやく見つかり、電車賃のことまで気遣ってくれる、・・・八重の気持ちは痛いほどわかる。このシーンは涙を誘う。

八重は、大湊の女郎屋で犬飼と時を過ごすなかで、犬飼の伸びた爪を切ってあげる。行方をくらました犬飼の思い出は、へやで偶然踏んだその親指の爪しかなかった。現金と同じように、その爪を懐紙にくるんで後生大事に持ち続けたのである。
女郎屋の自分のへやで、その金と爪を取り出し、犬飼さんと呼びながら、爪を自分の頬や首に当てて動き回る。この映画唯一の官能のシーンである。

犬飼も貧しい男だった。それでもとにかく生きて行かねばならなかった。後半は嘘つきで傲慢な紳士のように映るが、貧困のルーツは八重と同じである。その八重さえも殺してしまう犬飼は、本当の意味での畜生になってしまった。

犬飼と八重の出会いは、森林軌道の後ろにつながれた客車でであった。そこで八重は、昼飯のおにぎりを頬張るが、その一つを犬飼にやるのである。例のおにぎりのシーンである。八重がなぜそういう親切をしたかといえば、その直前、犬飼の近くにいる婆さんに、タバコをひと箱恵んでやったのを見ていたからである。その婆さんは初め、床に落ちている吸い殻に火をつけようとしていたからだ。タバコも貴重な品であった。
これがまさに、運命の出会いであった。

映画として渾身のできばえである。単に長い作品なのではなく、映画としての楽しさを見せながら、人間の心理の奥底、人間のけなげさ、善悪といったものにまで踏み込んで描き出した重厚な作品となっている。

そして、実に悲しい話でもある。

映画 『言の葉の庭』

監督・原作・脚本・絵コンテ・撮影・編集:新海誠、音楽:KASHIWA Daisuke、声の出演:入野自由、花澤香菜、主題歌:秦基博「Rain」、2013年、46分。

『秒速5センチメートル』の映像美やセンチメンタリズムには共感したが、私は「映画」として観てしまうので、ドラマやエンタメ性は味わえないままであった。というより、そういったものは初めから捨象されていたかのようであった。

これに比べれば、『言の葉の庭』は、映画としても秀逸な仕上がりになっている。強めではないがドラマ性もあり、核があるから周辺の曖昧さも生きてくる。

キャッチコピーは「"愛"よりも昔、"孤悲(こい)"のものがたり。」とあるが、万葉集には、「恋」に、「古非」「古比」「孤悲」といった文字を当てた歌があるそうだ。「孤」は孤独を意味し、「悲」は文字通り悲しみを意味しているのだろう。

高校1年で15歳のタカオ(秋月孝雄、あきづき・たかお)は、雨が好きで、年よりは少し大人びた実直な性格をしている。

朝の通学時、新宿で乗り換えるとき、雨が降っていると、一限をさぼって、わざと新宿にある広い庭園(新宿御苑)まで行き、東屋で靴のスケッチをすることにしていた。タカオは靴職人になるのが夢であった。

ある日、いつものように庭園に行くと、そこにはOL風の妙齢の女性が座っていた。しかし、脇にはチョコレートを置き、朝から缶ビールを飲んでいる姿に、とまどいと違和感を感じる。ただ、どこかで会ったような気もした。

タカオが消しゴムを落とし、女性が拾ってくれたのをきっかけに、言葉を交わし、その後会うたびに、少しずつ会話するようになる。女性がユキノ(雪野百香里、ゆきの・ゆかり)という名であることを知るのは、それよりずっと後のことであった。・・・・・・

雨の日の朝、二人はその同じ場所で何度か会うことになる。
後に明らかになるが、ユキノはタカオのいる高校の古典の教師であった。ある一件と噂に押されて、ユキノは学校に足が向かなくなっていたのだ。

二人が初めて会ったとき、ユキノはタカオに、次の歌を残して去っていく。これは『万葉集』の柿本人麻呂の短歌だ。女から男に向けて詠んだものだ。

雷神(鳴る神、なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇(くも)り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ

訳:雷の音がかすかに響いて、空も曇り、雨も降ってこないでしょうか。もしそうなれば、このままあなたをここに引き留めておくことができるでしょうに。

何度目かの出会いのとき、タカオはユキノに次の歌を返す。同じく、柿本人麻呂の短歌で、男から女に向けて詠まれている。

雷神の 少し響みて 降らずとも 吾(わ)は留(とど)まらん 妹(いも)し留(とど)めば

訳:雷の音がかすかに響くくらいなら、雨が降らなくても、私は留まりますよ、あなたが引き留めてくれるならば。

俄かに豪雨になり、タカオはユキノのへやに行き、服を乾かしてもらうかわりに、料理を作る。そして終末を迎える。
ついに、二人は互いに、ホンネをぶつけ合ってしまうのであった。

冒頭からラストまで、ほとんどのシーンで雨が降っている。
洋画での雨もそうだが、特にかつての邦画で使われる雨は、多分に演出として使われる。悲しい出来事の前触れであったり、別れを暗示したりするほか、女の涙や恍惚を象徴している。それは演歌に出てくるときも同様だ。

しかし、この映画の雨には、鬱陶しさや湿気というものを感じない。多くの日本の映画で、雨がおよそ肉感的な道具や別離の象徴として使われてきたのに対し、この映画の雨にはそれを感じない。

雨自体が美しさやはかなさの象徴であり、それを背景として、二人の物語はゆっくりと前へ進む。雨の粒が、池の面に当たったり、木々の葉に当たったりする描写もみごとで、一つ一つの雨のしずくが輝いているように見える。

ある日、タカオはユキノに合う靴を作るとして、ユキノの足のサイズを測る。ユキノは裸足になってベンチの上に立つ。タカオが初めてユキノの素肌に触れる。この映画で、官能が描写されるシーンだ。
このシーンから、映画『天城越え』(1983年)を思い出した。中学生である少年(建造、伊藤洋一)がハナ(田中裕子)から、足指の股の擦れを手当てしてもらうシーンだ。他に比べると長いこのシーンは、少年が官能の扉を開けたことを象徴している。

季節は、梅雨入りから、エンドロールでの雪の日につづく。
ひとり庭園に来たタカオは、ユキノのために作った靴を、脇に置く。

靴の製作だけに専念する一途な少年と、心に傷をもつ女性との淡い恋の季節を、静かに描き出した佳作である。

2016年10月20日 (木)

配給会社に期待する

われわれが映画館で映画を鑑賞できるのは、制作会社の作った映画をわれわれに提供してくれるところがあるからだ。それが配給会社だ。

配給会社の役割は重要だ。配給会社がうまく動いてくれなければ、作品を観ることもできず、下手をすれば、一般市民はどこにどんな映画があるかもわからないままとなる。文化のジャンルだから、政治的問題は生じないだろうにしても、どんな映画にも言えることだが、採算をとれるかどうかも問題だ。

2011年6月、最寄りの椎名町駅踏切脇にオリジン弁当が誕生した。
惣菜ができて商品化するまで、つまり、原材料購入から消費者が惣菜を買うまでには、さまざまなプロセスを経る。その日その日の客足や購買の大きさは、鶏の唐揚げなどスタンダードなおかずを用意するなり、野菜をもっと食べましょう、といった健康志向のキャッチフレーズで、何とかしなければならない。
しかし、毎日の衣食住にかかわることだから、大当たりもないかわりに堅実でコンスタントである。そのかわり食中毒でも出せば、営業停止は必至な業種だ。

採算がとれなかったのか、1年ほどで閉店した。

映画は、作品の企画立案から劇場、DVD販売にいたるまで、実にさまざまな人間が介在して成り立っている。
しかし、映画は食とは違うから、観なくても生活はできる。映画館に行って自宅へまっすぐとんぼ帰りしたとしても、計4時間前後はかかる。休日に、他の用事でも入れば、映画館は二の次となる。
それでも、映画の好きな人は映画館に行く。

映画館に行くと決めたら、多少の雨でも風でも、今日は逃せられないとして、目的地に行く。その人にそうさせるだけの映画に対する情熱を、どれだけ多くの映画関係者が共有しているかに、今後の映画産業の行方がゆだねられている。

映画一本が、監督・俳優・撮影・編集・美術・音楽その他多数の人間によって製作されるように、映画業界自体は、製作会社と上映会社(興行場所=映画館)以外に、それらをつなぐ配給会社が重要な役割を担っている。多くの場合、ここがなければ、映画の上映はありえない。特に、外国から映画をもってくるには、絶対に必要な部分だ。

いくらすばらしい映画があっても、それが発見され、または、それをよしと見抜いて映画館に売り込む役割をする部分がなければ、結局、われわれ一般視聴者には、何があるかわからないし、観ることもできない。製作者からすれば、いい監督を選び、いい俳優を起用して、せっかくよい作品を作ったのに、それを一般大衆に観てもらえない、という無念の結果が生じるのである。

映画を作る側は、観てもらいたくて作る。いい映画であれば、それを宣伝して、上映してくれる映画館を見つけ、観客にもいろいろな形でアピールするのが、配給会社の役割だ。

といっても、映画館も、それなりの場所をそれなりの設備で用意するのだから、一定の収入はほしいし、製作側は製作費以上のものを得なければ赤字になる。宣伝営業や流通確保をするのだから、それなりの収入はもらいたいというのが配給会社の言い分でもある。映画には常に、興行収入が伸びなかったらどうするか、というリスクが伴う。

それだけに、すぐれた作品かを見抜く眼と、それが多少とも観客に受け興行収入が見込めるかどうかを見定める眼が、配給の仕事には必要になってくるわけだ。

単に、前売鑑賞券を割りふるくらいだけであれば、配給の仕事もおもしろくないだろう。言っちゃ悪いが、それは事務屋の仕事だ。すぐれた作品を観客に見せるのが本来の仕事で、事務屋のままであってはならない。

本人がこれは本当にすばらしい映画だ、と自ら感動したら、それを、他のたくさんの人に観てもらいたい、と思うのが映画産業に生きる人間の情熱というものだろう。

配給会社は、われわれ鑑賞する側からすれば、縁の下の力持ちなのだ。スクリーンの初めや終わりに映るくらいだが、彼らのおかげでわれわれは映画を観ることができる。
それでも、われわれの観うる映画は、この世に完成した作品の一部でしかない。発掘されても、収入が見込まれなければ目をつけられないというジレンマはある。こうなると、映画産業のシステムの問題にもなってくるとは思う。

映画人口は、映画の危機と言われた1995年前後ころからすれば、ずいぶんよくはなっているように思う。ここ数年の状況は、統計上では、1978年前後位の状況にまで戻っている。これは全国映画館入場者数の推移であるので、今ではDVDなどでの鑑賞も多いから、映画館でなくとも実際に映画は、よく観られていると思う。映画に対する人々の関心は薄れたとは思えない。

映画はだいたい土曜に初日を迎え、日曜を経て、その週の金曜までの状況で、どのくらい客足の伸びを期待できるか判断する

初日、二日めあたりに、あちらこちらのレビューでこきおろされたら、客足が途絶えるし、製作者側は金にならないし、配給会社は宣伝コンセプトと客層ターゲットの読み違えとばかりに、製作者側と興行者側とから叩かれてしまう。こっそりサクラを使って、あちらこちらのレビュー欄で☆五つを連発するなんてことはありうることだ。

自分の言説を目立たせたいための評論家やブロガーの批判に、よくも悪くも影響されないような姿勢が、配給の仕事の生きがいになっていれば、映画はおのずと観られ続けるものではないかと思うのだ。

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