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2016年7月

2016年7月31日 (日)

映画 『残穢(ざんえ)-住んではいけない部屋-』

監督:中村義洋、原作:小野不由美、脚本:鈴木謙一、撮影:沖村志宏、編集:森下博、主演:竹内結子、橋本愛、2016年、107分、松竹

原作は、『屍鬼』を書いた小野不由美、監督は、『予告犯』などの中村義洋、脚本は中村の大学の後輩に当たる鈴木謙一。

「私」〈小松由美子、竹内結子〉は小説家であり、最近、読者からの投書を元にして、サスペンスものを雑誌に連載している。

あるとき、久保さん〈久保亜紗美、橋本愛〉という女子大生からの投書を見て興味をもつ。久保は、新しい賃貸マンションに越してきたが、夜間、勉強中に、隣の寝室から、妙な音を聞こえる、という。それは、あたかも、女性の帯が畳にこすれるような音であると言う。・・・・・・

歴史的背景をたくみに絡ませたホラーものとでも言うのだろうか。血や死体を見るわけではないだけに、純粋に和風の恐怖映画となっている。

たぶんこれも、原作のほうが、つまり、文字の積みかさねのほうが、恐怖を惹起しているのではないかと想像する。あるいは、ストーリーとして、まっすぐに進行しているのだと思う。
ここでも、原作本の脚本化が難しいことを思い知らされる。

怪しげな物音は久保のへやだけではなく、やがて「私」と久保の関心は、マンションのある土地自体に向けられ、その土地に代々住んだ人間の人となりについての情報を集めまわるうち、福岡での炭鉱事故へと歴史を遡る。

びっくりどっきりさせる怖いシーンや不気味なシーンは、それはそれとして映画でなければ表せないものであるにしても、歴史を遡りつつ明らかになる土台部分のストーリー展開が、冒頭以来の小説家と学生の日常という「高さ」と変わらず、均等な幅と奥行きといった重みで語られていくため、途中から飽きがくる。

人物がたくさん出てくるのであるが、それらのしたことも、ほとんど「私」という一人称の語りになり、映画それ自体に立体性がなくおもしろくない。

見方を変えれば、オーソドックスな路線を踏襲した「優等生的展開」に終始するので、映画として落ち着いて観られると言える。

もうひとつ言えることは、カメラが全然外に出ていない。これがこの映画をつまらなくしている主因だ。
久保のマンションは外観を何度も撮られるのに、それ以外のシーンは、ほとんどスタジオ撮影である。

「私」や久保が最後に訪れる「現場」は、圧巻となるシーンのはずだ。そこの描写も貧弱だ。
「現場」を訪れるというセリフがある、タクシーで乗り付ける、福岡某所とテロップが出る、・・・それだけで、この一連の出来事のルーツに当たる部分を描写する「入り」にするには無理がある。
ここは、この映画のクライマックスに当たるのだ。映画として盛り上がっていかないのだ。

竹内結子のいかにも現代の小説家らしい演技はよかった。
住職役で上田耕一が出てくる。この悪役専門で馴染み深い俳優が坊さんの役というのはおもしろい。とても坊主に見えない。

この住職はこの話のキーパーソンでもあり、エンディングで、問題の「絵」とともに映っている。いわくありげな住職として、悪役・上田耕一は適役であった。

この映画は、英文法の点はとれても、英語が話せない優等生を思い出させる。

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2016年7月29日 (金)

新たなサヨクの指南役・岡原正幸 (平成28年7月29日)

近眼且つ学の素養のない有田芳生のアホがミスタッチしていたが、岡原正幸・慶大教授が言っているのは、「ヘイトクライム」についてである。

フォトは28日付・東京新聞に載った岡原の原稿だ。ヨシフは、ここからの一部を、自分のツイートに引用した。前後を読めば、ヨシフのツイートは、自分にとって都合のいい「いいとこ取り」だということがわかる。

岡原は、27日付フェイスブックで、こう書いている。
(岡原正幸 https://www.facebook.com/masayuki.okahara

   ▼
今朝の報道、ワイドショーでも、一部「ヘイトクライム」との指摘はあったが、依然として、狂った個人の物語に収斂させようとしている。

しかし、これは思想による犯罪なのだ。優生思想が思想と言われる所以は、それが個人的なものではなく、ある意味で公的社会的だということだ。優生思想はいまも色々な形で生きている。出生前検診の結果で、障害ある胎児にいかなる態度がとられているか。母体保護法での経済事由はいかに運用されるか。植物状態への議論など、優生思想のある部分は今も形を変えこの間、生きられている。

この国では思想を刑事犯罪には問わない。しかし、それを間違っている、この国の方向は違うとは、言えるのだ。首相個人の見解でもいい。表現の自由の圧殺ではない。

この間、生活保護受給者への締め付け、生かされているだけの末期患者に対してこれでいいのか、という指摘、などなど、実は、公的に庇護すべき弱き存在への風当たりを強くしたのは、どの政府だ。
容疑者が自分を認めてくれるかもしれないと陳情書を書きその宛先にしたのは、なぜ大島議長で安倍首相なのか。
彼は狂った個人ではない、大義を果たし、国士として、連行される車内で振舞っているじゃないか。

国のリーダーにはすべきことがある。
またワイドショーでも、彼のこの思想を、狂っているのではなく、間違った思想として取り上げてほしい。このままでは彼の思想が全国にばら撒かれるだけになるかもしれないじゃないか。
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東京新聞の肩書きでは、かれの専門は「障害学」とある。なんだ?それは?

どちらにせよ、岡原の専門の中心は、常に、社会的弱者であり、それも特に、障害者の目線で社会を捉えることにある。
障害者が登場する事案については、それが加害の立場であろうと被害の立場であろうと、目が輝くのだ。

今回の事件に関し岡原が言いたいのは、

キチガイが行った凶行だ、として簡単に片づけるな!
こういう人間をこしらえたのはほかならぬ国家そのものである!
国家はそれなりの対応を示せて初めて、国家たりえる!

ということだ。

典型的なサヨク思考である。

院生時代、机を並べた関係で、岡原正幸の人となりは、よく知っているつもりだが、今後メディアへの露出が多くなればなるほど、その発言はサヨクに与(くみ)するものとなろう。これは、マルクス主義者でありフェミニストとしてサヨクを指南してきた上野千鶴子以上の影響をもつだろう。

といって、おそらく、簡単に・頻繁に、メディアに現れるヤツではない。
「仕込み」がうまいので、その点かえって、要注意なのである。

<参考>

A君は、なぜサヨク教授になったか (2016年3月29日) http://bit.ly/1qdSoLV @syuya_yui

A君とは、岡原正幸である。

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2016年7月17日 (日)

映画 『ラルジャン』

監督・脚本:ロベール・ブレッソン、原作:トルストイ、主演:クリスティアン・パテイ、1983年、84分、フランス・スイス合作、フランス映画、カラー、原題:L'Argent

アルジャンとはお金のこと。英語なら、The Money だ。ブレッソンの遺作である。

少年二人が写真店で偽札を使う。だまされたと知った店の夫婦は、給油しにきた燃料店の従業員イヴォン(クリスティアン・パテイ)に、その偽札を混ぜて支払いをする。イヴォンは食事の代金に、偽札と知らずそれを使い、店員に断わられるので、店員を突き飛ばしてしまう。
イヴォンは警官といっしょに写真店に来て、事情を話してくれるよう店の人間に頼むが、イヴォンとは会ったこともないというばかりである。イヴォンは帰って妻に話すが、会社はクビになる。……

偽札が事件として犯罪映画のような通常の展開にならず、最初の一件を契機にイヴォンの日常が、不条理にも、悲劇的に変わっていくようすを淡々と描いている。
音楽が一切なく、後半に出てくる老人が弾くバッハのピアノだけだ。金にかかわるさまざまな人間の選択が出てくる。

イヴォンは店をクビになり、知り合いのツテでドライバー役として強盗の片棒を担ぐが、未遂に終わり、逮捕され服役する。その間に小さな我が子は病死し、妻も離れていく。独房に入ると、与えられた睡眠薬をためておいて、一気に飲み、自殺を図るが、直ってまた刑務所に戻る。3年の刑期を終えて出てくると、すぐに小さなホテルの経営者夫婦を殺し、やがて通りがかった夫人のあとを追ううち、その家に住みつく。白髪の混じるその夫人には、すぐ手の出る義父や車いすの息子がおり、つましい生活を強いられている。その家族をも全員殺してしまい、酒場で警官に、殺しを自白し連行されるところで終わる。ストーリーは単純ではあるが、観客がわかるだろうところは、大胆に省略して進んでいく。

この映画は、飛躍するストーリーと音を楽しむ映画なのだ。お札を調べるときの紙の音、手紙の封を切る音、扉の開閉の音、靴の音、杓子の落ちる音、グラスの落ちた音、小川のせせらぎの音、木の実を取る音、バイクの音、そして頻繁に出てくる車の走る音。
突き倒すシーン、殺すシーン、はたくシーンなどを直接映さず、その前後の映像のみでわからせる。

映像は、ほとんどが固定カメラで、観ていて疲れないが、レンズも同じままで、固定のままでも近づいたり遠ざかったりしない。対象と常に一定の距離をもち、カメラの動きは、抑制されたままである。
ストーリー同様、カメラも、説明ということをしない。シーンからシーンへと飛んだところを補うように観ろということなのだろう。

この映画では、登場人物やその背景、日常、出会い、意図、そして感情は、極端と言っていいほど、そぎ落とされている。さらに、カメラは、実行行為は映さず、他のところを撮っている。脚本は、わかる範囲で、省略され飛躍する。音楽もない。俳優もみな、本来の役者ではない。仕事としての演技というニオイを嫌っている。

こうして、通常の映画ならありえないことをすべて実行している。それにはこの長さが限界であったかもしれない。短い映画ではあっても、しかしそこに強い印象を残す映画だ。

映画 『第三の男』

監督:キャロル・リード、原作・脚本:グレアム・グリーン、撮影:ロバート・クラスカー、音楽 アントン・カラス、主演:ジョセフ・コットン、アリダ・ヴァリ、オーソン・ウェルズ、トレヴァー・ハワード、1949年、104分、白黒、原題:The Third Man

戦後まもないウィーンに、アメリカからホリー・マーティンス(ジョセフ・コットン)がやってくる。ホリーは売れない作家であり、それを知る長年の友人ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が仕事があると呼び寄せたのであった。
しかしウィーンに着き、ハリーの住むアパートに出向くと、そこの大家の男が、たった今10分ほど前に、ハリーはトラックに轢かれて死んだ、と言う。

墓地に行くと、そこに一人の女アンナ・シュミット(アリダ・ヴァリ)がいた。送ってくれた少佐でもある刑事のキャロウェイ(トレヴァー・ハワード)から、ハリーは実は、重大な犯罪の元締めをしており、事故死しても自業自得だと言われるが、それを信じることができないホリーは、舞台女優をしているアンナの楽屋に彼女を訪ねる。

二人で事故の真相を求めるうち、現場には、ハリーの遺体を運んだ二人以外にもう一人の男、つまり第三の男がいたことが大家の口からわかるが、再度その大家に確認しに行くと、すでに彼は殺されていた。……

いままで何回観てきただろう。サスペンスの危険な香り、先へ引っ張るストーリー展開、白黒を活かした光と影のライティング、多様なカメラアングル、チターの音色、戦争の跡の生々しい街並、心憎いばかりのラストシーン、と、ほとんど映画芸術の粋を凝縮した完璧な作品だ。高校の映画研究部で、毎年最初に観せる映画はこれであった。

実は、この映画についてレビューするのは、これは初めてなのだ。レビューとは多かれ少なかれ、批判的要素が入る。批判できる要素のある映画は、レビューが書きやすい。この映画については、最高、という以外に言葉がないのだ。

もうひとつには、映画としてすばらしい作品を、そもそもコトバで評するということは不可能に近いということだ。いいから観ろよ、と言っておしまいなのだ。それ以外に言うことはないからである。映像は言語に翻訳できない。

悪いヤツでありながら、その男を心から愛したアンナの女心と、犯罪を犯した男を罰する社会正義とのせめぎ合いは、多くの映画に見られる。この映画も、ある意味、アンナが主役である。そのいかにも小説の専売特許とも言える一つのパターンは、『カサブランカ』同様、戦争の影を落とした時代と、そこに湧いてはびこる悪を選ぶことで、物語としてまねのできない個性をもち、それをさらに映像にするという作業で、二度とありえない作品になったと言える。それゆえ、リメイクもできない。

ちょっとしたところに、演出の妙が冴える。帽子の少年が叫ぶ、ネコがハリーの靴にじゃれる、ホリーの駆け引きを知ったアンナが駅のカフェを去るとき、肩にかけたホリーのコートが床に落ち扉が開閉している、張り込みを続けるキャロウェイらの前にハリーが現れたかと思えば、風船売りの酔っ払った年寄りであった、など数えきれない。

最後にハリーの逃げ込むのは、地下の下水道だ。地上と同じような幅をもち、迷路のようになった下水道で、捕り物が行われる。ここも圧倒的に光と影の演出が効く。

追い詰められたハリーは、片足を撃たれながら何とか地上に出ようとするが、固くしまった格子状の蓋はなかなか開かない。地上には、グレーチングから出たハリーの指だけが、風の音のなか、空に向かってもがいている。そこにホリーが拳銃を持って近づく。二人の間に目と目のやりとりがある。ハリーは親友だったホリーに殺される。ここをツーショットにしなかったのはプロの選択だった。

全体に、カメラのポジショニングがいい。フルショットからバストショット、アップとうまく使い分ける。また、冒頭から頻繁に使われるのが、斜め撮りだ。通常は傾ける必要のないところまで、大胆に斜め撮りにし、不安感、不安定感を演出している。下から見上げ、上から見下ろすさまざまなバリエーションもみごとだ。

ホリーが初めてハリーを見かけるシーンは圧巻だ。漆黒の闇に、一瞬、向かいの家の光が当たる。主役のこうして初登場する。まことに心憎い演出だ。
ホリーが二度目にハリーに出会うのは観覧車だ。この観覧車の箱のなかで、二人は意味深長な会話をする。ハリーの本性が観客に知れるのもこのシーンだ。観覧車を背景に立つホリーのもとへ、ハリーが遠くから現れる。この登場のしかたもまたいい。

あまりにも有名なラストシーンは、この映画唯一の長回しである。アンナをほとんど点にしか見えない遠景から、ずっと中央を歩いて来させて、カメラの脇をすり抜けさせる。会話しそうかという観客の予想を裏切って、アンナはホリーに目をやることなく、脇を通り過ぎる。

サスペンスという単純なくくりかたでは収まらぬ作品で、しゃれた雰囲気と映像のセンスが輝く逸品と言える。

生まれてきて、この人に出会えてよかった…人には誰しもそういう人物が一人はいるだろう。
この映画は、私にとってそんな作品だ。

2016年7月14日 (木)

都知事選、告示 (平成28年7月14日)

前回のブログ、「小池百合子・衆議院議員、都知事選出馬表明 http://bit.ly/28ZTUs8 @syuya_yui(平成28年6月29日)」で、予想と異なる点が二ヶ所出ていた。

「小池としては、さまざまな状況からして、党が公認を出さざるを得なくなるだろう、と読んでいるはずだ。

仮に公認されなくても出るだろう。」

 

小池本人はそう読んでいたかわからないが、少なくとも私は、この時点では、自民党都連も公認せざるを得ないだろうと思っていた。

 

「自民党東京都連も動きが遅い。小池の出馬表明が唐突だと言っているが、これはそのうち静かになる。これもホンネは、守屋と同じで、俺のほうに先に相談がない、女が防衛省の大臣?女が都知事?女が俺たちの上に立つ?といった程度のところだろう。小池は、少なくとも田中真紀子とは違う。」

 

したがって、「これはそのうち静かになる」という予想もはずれた。

 

 

 

実は、自民党東京都連(自由民主党東京都支部連合会 https://www.tokyo-jimin.jp/introduction2/、会長・石原伸晃、幹事長・内田茂)にとって、小池百合子は、「最もおとなしくしていてほしい」人物だったのである。

 

そこで、小池以外で、これに対抗でき、自分たち都連の言うとおりに動いてくれて、そこそこ実績のある人物なら、誰でもいい、・・・となり、尻に火がつき、候補者を選び始めたのである。

すでに、その第一号、元・総務事務次官・櫻井俊には、けんもほろろに断られていた。

 

 

 

その後、党都連が増田寛也を担ぎ出すことになり、自民党は増田を党として推薦し、非推薦の候補者を応援する議員は、その家族が応援したとしても、除名などの処分をおこなうと脅すことになった。公明党も増田を支持することになり、大方の組織票を得て、その経歴や信条とは無関係に、増田がトップ当選する可能性が強くなった。

 

宇都宮健児が立候補から身を引いた翌日の今日は、告示日であるが、すでに、3位までの得票は、1.増田寛也、2・鳥越俊太郎、3・小池百合子、となるだろうとの予想があちこちで囁かれている。

 

 

 

増田寛也という人間について、ほとんど印象になかった。総務大臣をしていたな、くらいである。

その後、さまざまな情報を得て、実務に長けてはいるものの、実行力に乏しく、官僚の評判も高くなく、上からは使いやすいイエスマンだということがわかった。

 

外国人参政権に賛成という一点だけでも、反対せざるを得ないのに、風采の上らない容姿、かつらをかぶったような頭、短い首、近眼の小さい目、・・・東京都の代表として、こんな顔は最もふさわしくない。

都連の選択に、都民は不在のようだ。

 

舛添知事以来の都内公共工事にかかわる利権は、都連幹事長の内田茂が牛耳ってきたのであり、世間知らずの石原伸晃は、高校中退の土建屋上がり・内田茂に、いいように懐柔されてきたのである。

 

防衛大臣時代、ほとんど唐突な印象をもった事務次官・守屋武昌夫妻の収賄による逮捕は、おそらく小池百合子が収集した情報の発動であったと思われる。

これと同様に、都知事に打ってでるからには、小池もそのあたりの「黒い情報」はつかんでいるに違いない。

いや、多くの議員がそれを知っているのだが、あえて頬かむりを決め込んでいるだけなのだ。

 

ところが、小池が都知事になれば、したたかな動き方をする人物なので、その行動を読めない。そればかりか、利権に妙にメスを入れられて、その利権を失うのではないか、ややもすれば、収賄が摘発されるのではないか、といったおそれがあり、合法的手段によって、小池をつぶそうとしているのである。

 

こうしてみると、増田も、高給と再びの退職金を約束され、担がれ出された官僚神輿である。小池百合子のいう「東京に行政官は不要」という発言は、こうした動きを懸念して、知事としてのありようをシニカルに指摘したものであった。

 

 

 

東京は、それ自体が「移民都市」である。日本に対する外国人のように、東京都には他道府県からの移入が多い。就職や学校に通うため上京していた人たちが、やがて定着して所帯をもち、住民票を移して都民になったのである。

こういう人々の多くは、都知事が誰になろうと関係ないのであろう。

 

今回の参院選では、あれだけの売国性、政治の誤り、国家の舵取りに対する素人ぶりが明らかになっても、なお、民進党の候補者が莫大な票を集める。一人だけだったとはいえ、共産党も若い弁護士が当選した。

 

かつてニューヨークは「人種のるつぼ」と言われた。東京都も、住民はさながら「ごった煮」のようなものである。

自民党は、東京選挙区で、三人目に候補者を出さなかった。落ちたかも知れないが、結果はわからない。その人物も公認して党が応援すれば、票は伸び、小川敏夫を落選させることができたかも知れない。中核派の代表や反原発の活動家さえ、相当な票を得ている。

 

 

 

人心は把握しにくい。日本人の特性として、あの人がいいと言うなら、私も・・・、というのが投票の実態だろう。あの人とは、配偶者かも知れない、サークルの代表かも知れない、テレビのタレントかも知れない、・・・それでも一票になる。応援する人によっても、候補者の印象は変わる。

 

半月ほどの選挙期間に、何が起こるかわからないが、告示日前後の予想がそのとおり当たったら、おもしろくない。

同時に、自民党のよくない面を見せつけられたようで不愉快になる。

 

ものごとは程度だ。利権を得、与えさせるのも、政治を潤滑に安定して進ませるためには必要なことではあろう。党内を一本にまとめるために、党内を引き締めること自体も、理解できる。

ただし、それが蚕の繭のように、外から見えなくなっているなら問題だ。オープンにできないということは、そういう理由があるからということになる。

 

 

 

小池百合子が、安倍総裁の政敵・石破茂の応援団として動いたことを理由に、安倍晋三・自民党総裁の不興を買っているのは、都連にとっては好都合だったろう。

党が公認をするということは、総裁の決済を受けているということだ。

 

選挙の過程で、ツイッターや保守系サイトなどを中心に、都連に関することがいろいろ暴かれていく気がする。これは小池がリークしなくても、情報網をもっている機関なら、ある程度可能なことだ。

 

組織の常識として、安倍総裁は、これら「すべて」を了承し是認しているわけであり、増田寛也当選に向けて、都連に対し発破をかけているわけだ。

何とも複雑であり、今更ながら私は、自民党員にはなれないと思う次第だ。

 

 

 

都知事が誰になろうと関係ない、と思っている人々が多い東京都ではあるが、都民は住民税などを徴収されているのであり、売国性に強い人物に使われたくはない。都知事が誰になろうと関係ない、と思っている人々も、いざとなれば投票に行くのだろう。

 

小池百合子が、自公の組織票を頼みとする増田寛也をやぶったとしたら、それは「大衆」である都民の勝利、ということになるだろう。まさに「大衆の反逆」である。

 

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