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2016年5月21日 (土)

華北分離工作に対する抗日支那の陰謀と野蛮 (2016年5月21日)

華北分離工作とは、1935年(昭和10年)、日本が華北(中国の北部、満洲は東北部)五省、つまり河北省・察哈爾(チャハル)省・綏遠(スイエン)省・山西省・山東省で行った一連の政治的工作のことである。

中国側は、満洲事変・上海事変・盧溝橋事変と並び、なぜか華北事変と称している。事変とはふつう、宣戦布告のない戦争である。 

満洲国建国から二年、華北の政情はまだ不安定であった。支那駐屯軍と関東軍は華北も満洲同様に支配したいと考えていた。

ところがこの広大な地域にも、やはり軍閥が割拠しており、大都市・北平(後の北京)に留まる最大の軍閥・宋哲元(ソウ・テツゲン)を籠絡するのが最大の目的であった。宋は国民革命軍第二十九軍の司令官である。

そのためにも、それぞれの軍閥に対し自治宣言を出させて、国民党政府・蒋介石から距離をおかせて実質上独立させ、その後それらを懐柔するのが支那駐屯軍の方法であった。


まず、日本に留学経験があり日本人を妻とする親日の殷汝耕(イン・ジョコウ)に、塘沽(タンクー)停戦協定で決定された非武装地帯を支配させるため、冀東(キトウ)防共自治委員会を作り委員長に据えた。これに対し蒋は冀察(キサツ)政務委員会を作り、その委員長に宋を据えた。冀とは河北省をさす古い言い方である。

宋はこうもりのように日本側にもつかず蒋とも交渉をつづけていたが、蒋から殷を国賊として捕えるよう命じられ、冀察という広大な土地に対する自由裁量権を与えられたことで満足した。宋は政策上も、民意尊重、日華親善、反共という点で、日本と蒋の間に位置していた。

支那駐屯軍は焦り、冀東防共自治委員会を直ちに冀東防共自治政府に格上げした。蒋介石はこの時点ではまだ日本を最大の敵国とはみなしていなかった。戦わずに済むなら戦いたくなかった。強大な軍事力をもつ日本を相手とするより、まず共産軍を追い落とすことが先決であり、日本軍とは適当に仲良くしていればいいと考えていたのである。

 

この蒋介石の動きに機敏に反応したのは日本軍ではなく、中国の学生らであった。12月9日には当時としては異例で大規模な一万人のデモが北京でおこなわれ、そのスローガンは、華北自治反対、内戦停止(国民党政府軍と共産党軍の内戦停止)、一致抗日であった。このデモの効果は大きく、さまざまな抗日団体が中国全国に形成されていった。 

やがて一年後には、爆殺事件で死亡した張作霖(チョウ・サクリン)の息子で東北軍の張学良(チョウ・ガクリョウ)が西安事件を起こし、蒋介石を説得し、内戦停止・一致抗日の方向で、中国国内は一枚岩になる。

このあたりの前後の歴史は以下の通り。

 

1931年9月18日   柳条湖事件(満洲事変勃発)

   10月8日   錦州爆撃

1932年3月1日   満洲国建国宣言

   5月15日   五・一五事件

   9月15日   日満議定書調印

1933年2月28日   熱河(ネッカ)作戦

   3月27日   国際連盟脱退

   5月31日   塘沽停戦協定

193411月1日   満鉄、特急あじあ号運転開始

1935年5月~12月  華北分離工作

   6月10日   梅津美治郎・何応欽協定

   6月27日   土肥原賢二・秦徳純協定

   8月3日   相沢中佐事件

   1125日   冀東防共自治委員会

          (1225日 冀東防共自治政府に格上げ)

          (冀=河北省、冀東=河北省東部)

      12月8日   冀察政務委員会

          (察=察哈爾省)

1936年2月26日   二・二六事件

   1115日~23日  綏遠事件

     25日   日独防共協定 

   1212日   西安事件

1937年7月7日   盧溝橋事件(北支事変、つまり日中戦争勃発)

          (中国側からの発砲がきっかけ)

     11日   停戦協定調印

     13日   大紅門事件(1) 

     25日   廊坊事件(2)

     26日   広安門事件(3)

     28日   華北攻撃開始

     29日   通州事件(4)

   8月9日   大山勇夫中尉事件(5)

     13日   第二次上海事件(~11月9日←陸軍上海派遣軍)

   9月23日   第二次国共合作

   12月1日   南京攻略

     11日   南京占領

     17日   南京入城

1938年1月11日   支那事変処理根本方針

   4月1日   国家総動員法公布  

   5月19日~1027日   武漢三鎮攻略

   7月9日   張鼓峰事件

 

(1)北平の大紅門で日本軍のトラックが中国兵に爆破され日本兵4名が死亡。 

(2)北平近郊の廊坊駅で発生した日中間の武力衝突、日本側死傷者14名。

(3)北平で起きた第二十九軍による日本軍への襲撃事件で日本兵など19名死亡。

(4)冀東防共自治政府保安隊の張慶餘(チョウ・ケイヨ)らによる日本軍部隊・特務機関と日本人居留民に対する襲撃事件。民間人を含む日本人260人が虐殺された。張慶餘は第二十九軍と内通していた。殷汝耕も捕捉された。

(5)上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が共同租界で、中国保安隊に殺害された事件。日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることなどからも、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定。国民党の張治中(チョウ・ジチュウ、共産党工作員)の指揮とされる。

大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷が与えられていた。後頭部の銃撃が致命傷で即死であったが、保安隊は更に死体にダメージを与え続け、頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置にはこぶし大の穴が空いていた。靴、時計などの貴重品も奪われていた。

広大な支那の東北部・満洲には石油もあり土地もあり、日露戦争勝利の結果として、そこにおける権益を得たはずであるのに、華北まで欲しがった陸軍は貪欲の塊である、という説がある。 

大都市には租界などに日本人居留民も多く、貿易も盛んとなり旅行者も増えていた。上海のヤマトホテルなどは年中満員御礼状態であったという。無法な支那人から国民を守るというのは、他の列強と同じである。

日本本土は不況がつづき、国際的ムードとしても支那進出は予想できるところである。だからといって、欲にかられ政府の意向を無視してまで華北を侵攻しようとしたのはなぜか。

日本国内における軍国化の動きは、言うまでもなく底流にある。政治家や政党が国民の声を聞かず、国民不在の政治をおこなっていれば、それらを信用できなくなった無力な一般国民が、軍に期待をかけるのも世界史の道理である。

こうした後押しと、日本人固有の道徳的信念と、日清・日露という二つの戦争における勝利は、たしかにイケイケな雰囲気を日本にもたらし、それが軍を後押ししたというのも想像に難くない。 

日本に恨みをもつ張学良のおこなった西安事件以来、蒋介石も日本を敵とみなし、それと知った支那人民も、対日イケイケとなったのも理解できる。

 

そして盧溝橋事件が起こった。停戦協定が結ばれたにもかかわらず、支那の一部が上記(1)~(5)などの事件を起こし、蒋は各国の国民が多数滞在往来する上海を舞台に、日本に食い下がり、国際的世論を集めようとした。 

海軍陸戦隊では足りず、陸軍の応援を得て、日本軍は益々意気軒昂となり、蒋の本丸・南京を落城させる。これにはやはり国民の後押しがある。

停戦協定を結んだにもかかわらず、支那はその保安隊という名のもとに、いろいろな手管を用いてなお日本兵を殺し、通州事件・大山中尉事件での残虐極まる無差別殺人は、暴支膺懲(ボウシヨウチョウ=粗暴な支那を懲らしめる)という一撃論を日本国内に沸騰させた。

そして、このころ日本軍は圧倒的に強かった。華北を華中以南と区別して、そこに全面的に日本軍を配備し、日本列島より広大な面積の満洲を一層繁栄させたかったし、そのためにそこに暮らす日本国民の安全を守る義務があったのである。

さすがに露骨なやりかたは憚(はばか)られた。どっちつかずの軍閥がいるなら、それに接近して懐柔するほかない。それが犠牲者を出さずに済む最適な方法である。蒋介石国民党の敵は、共産党であった。父親を爆殺された張学良が、蒋を軟禁して国共合作を決するまでは…。

 

華北分離の最大の理由にして最大の目的は、要するにソ連の南下阻止である。ソ連軍によって満洲が荒らされ、邦人に犠牲者が出ることを軍は警戒していた。ソ連軍の実力も侮れなかった。深謀遠慮もあった。予想通りこの後、1938年7月9日には張鼓峰事件、1939年にはノモンハン事件が起きる。ソ連は蒋介石国民党にとっても脅威であったはずだ。 

支那共産軍は国民政府軍より野蛮である。常日頃はそれを隠した日常を送る。それが農民と結び匪賊と結んでゲリラを扇動すれば、戦争時や道路建設には役に立った。残虐な殺害方法も未開部族並みである。

 

戦後71年経っていても、中共独立後67年経つにしても、その本質は変わっていないだろう。以上のような事情は、今日彼らがスーツを着ていようが高層ビルで生活していようが、根本的に変わっていないと思う。

このことは、日本人とて同じである。しかし、野蛮人を相手にするからには野蛮であることにも精通しておかなければならない。

支那の歴史はよくこう言われる、国力が国境を決めるのだ、と。


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