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2016年2月17日 (水)

コミックス『屍鬼』 を読んで (2)

≪感想≫

ゾンビでも吸血鬼でもない、人間そっくりの「起き上がり」・・・、映画『遊星からの物体X』を思い出してしまった。

『遊星からの物体X』の原題は The Thing であり、対象を食らうと、その対象と似た格好に変容でき、仲間を増殖させようとするが、本物の人間の血には拒否反応を示す。
しかし、人間に寄生すると、その生来の姿のままに成りすますことができた。
『東京喰種 トーキョーグール』と似たテイストも感じるが、それ以上ではない。

この作品で「起き上がり」は、その目が黒く塗りつぶされて、人間と区別が付くようになっている。室井静信は、「起き上がり」に似て、初めから目の半分近くが黒い。髪はグレーで中央から分け、女性的な顔立ちにメガネをかけ、僧侶というよりエキセントリックなインテリ風情である。

しかし、その生い立ちからして、不本意ながら村の住職を継がねばならず、本心とは別な道を選択せさるを得なかった。本心はまさに、著作『屍鬼』に現れるのである。
沙子も同様で、自らの意図とは別の次元で生きてこざるを得なかった。それゆえ自然と静信に同病相哀れむのであり、著作の完成を待ち遠しく思ったのである。

静信は敏夫や村人を裏切り、「起き上がり」の仲間となり、沙子の逃走を手助けした、というところだけとらえると、この物語の本質を見失う。

人間界にも「起き上がり」の世界にも、絶対善も絶対悪もないのであり、<村を救いたい人々>と<村に棲みたい「人々」>の対立は、両者が歩み寄り理解しあうこともなく、「起き上がり」に対する人間側からの殺戮となり、やがて村は業火に焼き尽くされるのである。

村人を殺し続けた「起き上がり」に対し、敏夫らが片っ端から「起き上がり」を成敗していく。
これはあたかも殺戮であるが、「起き上がり」の増殖を止めるために殺さなければならないのである。

敏夫は、山火事から逃げるラストで、赤く染まる山の端を見ながら、「やはり負けたのかな」とつぶやく。
「起き上がり」はたしかにほとんど撲滅し、そのことに限ってはけりがついたが、村そのものは原因不明(敏夫らは知らないが、前田元子によるものとして描写されている。)の火事によって、違う方向から、消滅という結末を招いてしまったからだ。

しかし、村に代々続く医院の跡継ぎとして、敏夫の分析や判断は正確であり、正義でもある。
他方、同様に、村に代々続く寺の若い住職・静信の悩みは、これもまた否定できず誠実であり、沙子の出現により、いよいよその理念は真実へと近づき、書物として著され世に出るのである。

このストーリー全体は、極めて巧妙なつくりになっている。
読者を含めおよそ人間が関心をもたざるを得ない「死」という出来事を、「生」と並べて描ききっている。

人は死を恐れ死にたくない一心から、輪廻転生を望むこともあり、そうした主題の小説や映画は視聴者に受けがよい。
生きるとは、また、いかに死ぬことか、ということにつながる。
ただ、この村での出来事は、「起き上がり」による殺人なのであり、それは罪悪である。それを正当化してはいないが、「起き上がり」にはまた、それぞれに寄ってきたる事情もある。

「起き上がり」は沙子や千鶴の会話にあるように、望んでそうなったのではない。
かつては彼女らも人間であり、おそらく他の「起き上がり」に殺され、たまたま「起き上がった」のだ。

「起き上がり」のあこがれは、さほど壮大なものではない。千鶴の言うように、人に隠れることなく、人間らしく生活したり買い物したりできればよいのだ。
しかし、生きていくためには、どうしても、人間の血を吸わなければならない。それは吸われた人間の死を意味する。

沙子の事実上の父親であり桐敷家の当主である桐敷正志郎は、「起き上がり」ではない。その忌まわしい過去から、「起き上がり」に憧れ、沙子を育ててきた。夏野と対決するときに、私は加害者になりたかった、などと言っている。
同時に、村人に「起き上がり」が殺され続けるのを見、形勢が不利となるや、人狼でもある佳枝(よしえ)を待ち構えていて射殺している。すべてに対して加害者でありたかった正志郎こそ、この物語のなかで、人間の尊大さの象徴である。

人間と「起き上がり」の対決は、結論を出せない。
ストーリー上の設定やしくみがそうなっているのであり、ましてや、教訓めいたものをうったえたいわけでもない。それだけにエンタメ性は担保されている。
両者の共存の可能性は否定されている。自分の親や子を殺された人間が、その加害者と共存することはありえない。

敏夫は他の街で生きていくだろう、かおりと昭は生存している(アニメ版)、沙子と静信は逃走する(アニメ版)、あるいは、東京で出会う(漫画版)、・・・かろうじて生き続けられた人間と「起き上がり」の物語は、どちらかが絶滅することなく、どちらもかろうじて生存することで、結論を出さず、言い方を変えれば、それぞれ未来に向け、生きていくことを暗示して終わる。

もし『屍鬼』に、テーマらしきものを求めるとすれば、それは「絶望」ということになろう。
そう思って読み進めていくうちに、静信の口から「絶望」という言葉が出てきた。
静信は本来、村を守る僧侶として、また、人間として、あってはならない選択をした。

敏夫の「正義」、つまり、人間の正義を、理解することはできても、それに同調することはできなかった。そうして、桐敷家の中に入り、沙子の話し相手になり、辰巳に自らの血を吸わせるまでになっている。

勧善懲悪ドラマであれば、沙子も静信も、死ななければならない。敏夫たち村人の正義が、結論にならなければならない。
ところが、作者はそうしなかった。二人を生かしたのである。

村人たちによる「起き上がり」成敗が続くと、逆に、人間のほうが残酷であり、「起き上がり」に同情さえしてしまう。これは作者の狙いである。
旧約聖書『創世記』の「カインとアベル」の例を何度も引用し、静信の揺れる心を描いたのも、静信の生まれてからこのかたの心の変遷を、読者に理解してもらい、彼の書く『屍鬼』という小説に結実させたかったからだろう。

静信は自らが、カインであると同時にアベルだったことを告白し、沙子に対し、絶望に打ちひしがれても、命あるかぎり、足掻きつづけても生きていかなければならない、と諭す。
「起き上がり」は、人間と同じく、その宿命を身に引き受けながらも、生きていくのである。
それは静信の言うように、虚しさを抱えるものであっても、そうするしかないのである。

キャラクターのうち、恵は、他の者に対してはつっけんどんであるが、村を出て都会をめざす少女として卑近な例であり、夏野に恋心をいだくよくいる一般的な少女代表として描かれている。
彼女は、初めから終わりまで出続けている。恵の失踪から、村人たちに事件が大きく認識されることになる。漫画版では暗示されるだけだが、アニメ版では残虐な殺され方をする。

その夏野は恵の気持ちには応えない。
彼は高校生にしては偏屈な人物であるが、それゆえ、「起き上がり」を早い段階で察知することになる。
彼も村を出て都会の大学へ行くことを志しているから村人と積極的に交わろうとしないが、自転車のパンクを直してくれたことをきっかけに知り合った武藤徹とは、心を通わせることになる。
夏野は、辰巳と半ば相打ちで、死ぬことになる。

徹は仲間からは徹ちゃんと呼ばれている。
徹は「起き上がり」になって以来、幾度となく夏野のへやを訪れるが、親友であったこともあり、なかなか夏野を襲えない。
初め、辰巳が図らって、恵に夏野を襲わせようとしたとき、襲うなら自分だとして、背後から夏野の首に噛みつく。
しかし、その後も、夏野のへや前まで来ながら、どうしても躊躇してしまう。

夏野は徹に襲われる前、窓の外に立つ影が「起き上がり」と知っていて、そこに誰が来ても招き入れるつもりはなかった。しかし、開けてはいけないと思いつつ、鍵を開けてしまうのである。すると、そこにいた者に腕を引っ張られる。そこで初めて、それが徹とわかる。ここは名シーンだ。
血を吸われたあとも、まだ徹に期待し、いっしょに逃げてくれないかと思う。

徹は全編を通じ、唯一、屈託なく明るい性格の持ち主だ。夏野を嫌う正雄にも好かれ、「起き上がり」になったあとでも良心の呵責に悩まされ続ける。
最後は、「起き上がり」のしきたりを拒否し、人質をのがし、辰巳に罰を受けることを承知で、思いを秘めていた律子と並んで、村人に襲われるのを待つのである。

ほかに、田中かおり・昭姉弟など、魅力的なキャラクターが多い。

村の多くの人間が、年寄りから子供まで、「起き上がり」の犠牲となり、仮に生き返っても、「起き上がり」という宿命を負うことになるのである。

悲しくやりきれない物語ではあるが、繰り返し読めそうな厚みのあるストーリーであった。

元々、YouTubeにあったOST(オリジナルサウンドトラック)で、このアニメを知った。『氷菓』のときと同じだ。
あの美しくも悲しい旋律は、アニメのなかでも随所で流れる。
他のアニメもそうだが、OSTの効果は絶大だ。OSTあってのアニメだと思う。

                                                     (完)

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