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2016年2月17日 (水)

コミックス『屍鬼』 を読んで (1)

原作: 小野不由美『屍鬼(しき)』、新潮社・単行本(上・下巻、1998年刊行)、新潮文庫・文庫本(全5巻、2002年刊行)、漫画版: 藤崎竜(「ジャンプスクエア」:2008年1月号~2011年7月号掲載、単行本(全11巻、2008年7月~2011年7月)、テレビアニメ版: 監督:アミノテツロ(2010年7月8日~12月30日フジテレビ系放映)

(※原作は読んでいませんが、漫画版とテレビアニメ版を観ると、原作も読みたくなる内容です。当然ながらネタバレを含みます。)

≪あらまし≫

漫画版は原作と異なる部分が多いとのことだが、アニメ版は漫画版にほぼ忠実である。漫画版と多少前後するシーンなどあるが、よくある入れ替え程度である。
また、漫画版では結末まで書かれているキャラが、アニメ版では想像にまかせることで割愛されている場合もあり、漫画版のラスト「数ヵ月後 東京」は、アニメ版では最終話EDの後に「数日後」と出て、全く別の短い創作となっている。

総じて、アニメを見れば漫画と同じ内容を得られるが、かなめになりうるセリフがアニメ版で略されているところがあり、アニメ版だけだと理解しにくいところもある。話の前後関係から多少「離して」もいいとされる独白は、各話EDの後、流されている。

キーワードは「起き上がり」である。
舞台となる小さく辺鄙な山奥の村には、いまだ土葬の慣習が残る。その条件に目を付けた「ある集団」が、自分たちの居場所として、この村を乗っ取ろうというのが大筋である。
ただそれは、単純に人間界を侵略することではなく、基調にやや哲学的な背景をもっている。

「ある集団」は、外見上、全く人間と同じであるが、実は彼らは一度死んで、その後、墓から「起き上がった」者たちである。彼らは、人間の血を吸うことで生き延びている。

何度となく血を吸われた人間は、やがて衰弱し死んでしまうが、そのうちの幾人かは「起き上がり」、彼らの新たな仲間となる。「起き上がり」になるかどうかに規則性はない。

「起き上がり」はあたかも吸血鬼のようであり、たしかに、十字架や仏像など宗教的な象徴に弱いが、ゾンビのように単なる「生ける死体」ではなく、吸血鬼のように人間でないということでもない。
彼らは「起き上がって」しまえば、生前と全く同じ姿の人間となり、生前と同様に生活していくことができる。

それゆえ彼らは、ゾンビでもなく吸血鬼でもなく、「屍鬼」という呼び名をもつのである。
年齢や性格、人間性、記憶などもすべて引き継いだまま「起き上がる」ため、多くの苦悩や悲劇を生むことにもなる。

弱点として、太陽の光に当たると肌がとけてしまい、首の切断や、大動脈など太い血管を破壊されると、完全に死んでしまい、二度と「起き上がれ」なくなる。ただ、「人狼」となった者は、昼間でも平然としていられ、「屍鬼」より強い存在である。
いずれも、一応、招かれなければその家に入れず、対象の血を吸うこともできないということになっている。

こうした大前提を下地としてストーリーが展開するが、秩序の上で「ある集団」のトップにいるのは、意外にも、沙子(すなこ)という少女である。
対して、村の住人側の中心人物は、村に代々続く尾崎医院の尾崎敏夫という若い医者である。

尾崎には室井静信(むろい・せいしん)という幼馴染みがおり、これも村では代々つづく寺の若い住職で、村人からは若御院(わかごいん)と呼ばれている。
住職のかたわら小説も書いているが、その小説のなかに「屍鬼」という言葉が出てきており、これがこの作品のタイトルとなっている。漫画版ではラストに、静信の著作としての『屍鬼』が登場する。
静信を含む以上三人が、ストーリーの主役となっている。

主役に準ずるキャラとして、高校1年生の結城夏野(ゆうき・なつの)、夏野を慕う女子高生・清水恵、夏野と親しくなる青年・武藤徹、徹が思いを寄せる尾崎医院の看護婦・律子、恵の幼馴染みで中学生の田中かおり、その弟・昭、沙子の住む桐敷家の使用人の青年・辰巳、沙子の事実上の両親、桐敷正志郎・千鶴、などがいる。

敏夫ら三人がストーリー上の背骨に当たる理念的部分をなす人物群であるのに対し、夏野らはこれを肉付けする重要な要素として描かれており、現実的日常的なレベルでの感情の描写という役割を負わされている。

全体に、狭い村の密度の高い人的関係を描くべく、村人は親子・家族で登場し、親子や職場での仲間などすべてに氏名を入れてきちんと描くため、登場人物の数が多く、煩瑣な印象をもつ。

シーンごとに、日付と六曜が出る。これにより、すべてのシーンが、見る側にとって証拠映像ともなるような設定であり、また、日時を遡る場合にも、どこで何が同時進行していたかなどを掴めるようになっている。
六曜を示すことで、日本の村落生活を強く印象づけており、物語全体の雰囲気醸成にもひと役買っている。

冒頭から、死因不明の死者が続出し、それが屍鬼のしわざとようやく察知するのは、敏夫と夏野である。独自にこれを察知する郁美という祈祷師の女もいる。
「起き上がり」の手は、ついに尾崎医院にまで及び、敏夫の妻・恭子も「起き上がり」に誘惑され病床に伏すが、やがて絶命する。

敏夫はその妻を実験台として、「起き上がり」のしくみを半ば理解し、やがて桐敷千鶴を騙して村の祭事(霜月神楽)に連れ出し、その正体を暴き、村人を殺しているのは「起き上がり」の仕業であることを村人に知らしめ、同調者を募り、「起き上がり」に対する「狩り」を始める。
「狩り」とはすなわち「起き上がり」殺しであり、「起き上がり」の胸に、太い杭(くい)を撃ち込むか、または斬首である。

「起き上がり」があらかた片付くうちに、村の奥山で発生した山火事は住民居住地域にまで及び、敏夫らはそこから逃げるように村外に向かう。(アニメ版。漫画版では、山火事を見ている。)

一方、敏夫と幼馴染みの静信は、「起き上がり」の埋葬されていた墓を掘り返すなどという敏夫の発想に付いていけず、悩んだ末、途中から沙子に同情するようになる。それは、沙子が自分の小説のファンであるというだけでなく、沙子が何度となく静信の元へ来て話すうち、沙子の身の上や考え方に同調したからでもある。

沙子の話には静信自身、身につまされるものがあり、一概に「起き上がり」=悪者、とまで言えないだろうという、静信なりの迷いもある。
静信はついに意を決し、沙子の住まう桐敷の館に向かい、沙子に血を与え、「起き上がり」に与(くみ)するようになる。これは静信なりの苦渋の選択であった。

辰巳が囮になることで、二人は「起き上がり」撲滅を進める村人たちの襲撃から辛くも脱し、車で村を後にする。
事件の数ヵ月後、静信の著作『屍鬼』を出版した東京の出版社前に現れるのは、沙子と静信自身のようであり、二人は存命していることを暗示して終わる。

ストーリー上の主役は、<敏夫とその同調者である村人>vs<静信・沙子を含む「起き上がり」>と整理できるが、ストーリーのかなり早い段階で「起き上がり」が登場してきており、「起き上がり」による深夜の引越しや退職が語られ、人間界の敏夫から、「起き上がり」に同調する静信へと、ストーリーの中核が引っ張られている。

このほぼ同等のストーリー上の重みからして、必ずしも、人間界が中心で、「起き上がり」が周辺の存在だ、という固定した位置づけにはなっていない。
むしろ、特に個人レベルに下ろしてみれば、「起き上がり」のほうに、生きていく上での必死さ・懸命さ・論理性なるものさえ見られ、「起き上がり」が中心にあるような構図ともとれる。

沙子の住まう桐敷家が、小さな村には不釣合いな巨大な洋館で、村中を見下ろす位置に立っている様相からしても、「起き上がり」は人間と並んで、初めからストーリーの中心となっている。

実際、「起き上がり」が襲撃するのは、動物や植物でなく人間のみであり、そこに親近の疎密というものは関係ない。
しかし「起き上がって」も、生前の本人と何ら変わっていないので、相手を慕う気持ちや親近感が、襲撃を躊躇させることもあり、逆に意欲的になることもある。
これは例えば、夏野に対する恵、夏野に対する徹、徹に対する恵の態度を通し、「起き上がり」になったがゆえの苦しみや反転心理として表現されている。

(つづく)

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