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2016年2月

2016年2月29日 (月)

映画 『日本のいちばん長い日』 (2015年版)

監督・脚本:原田眞人、原作:半藤一利 『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』(1995年6月)、撮影:柴主高秀、美術:原田哲男、編集:原田遊人、音楽:富貴晴美、主演:役所広司、本木雅弘、山崎努、松坂桃李、136分、2015年8月、松竹。

参考までに、1967年版は、以下のとおり。

監督:岡本喜八、原作:大宅壮一編『日本のいちばん長い日』(1965年8月)、脚本:橋本忍、撮影:村井博、美術:阿久根厳、編集:黒岩義民、音楽:佐藤勝、1967年8月、モノクロ、157分、東宝。

鈴木貫太郎男爵・内閣総理大臣(笠智衆)
米内光政・海軍大臣( 山村聡)
阿南惟幾・陸軍大臣(三船敏郎)
畑中健二・陸軍少佐( 黒沢年男)

が中心となっており、昭和天皇(松本幸四郎)は登場するものの、登場シーンは少なく、ほとんど顔を映していない。

本作品では、

阿南惟幾・陸軍大臣(役所広司)
昭和天皇(本木雅弘)
鈴木貫太郎・内閣総理大臣( 山崎努)
畑中健二・陸軍少佐(松坂桃李)

が中心となっている。

いずれも原作を知らないが、映画の出来という点では、明らかに旧作のほうに軍配が上がるだろう。

そもそも、監督が脚本を兼ねるというだけで、ピンとはきた。こういう場合、特段に優れた作品になるか、逆に、独りよがりの作品になるか、のいずれかになる。

本作品も後者に当てはまる。
全体に詰め込み過ぎという印象が強い。会話のやりとりが、まるで掛け合い漫才のようで、余裕や間がない。カットも、同じシーンであっても、次から次へと休みない。
こういうことをされると、映像として楽しむという気持ちを、観客から奪ってしまう。

終戦前から15日にいたるまでの緊迫した状況を、機関銃のようなセリフの応酬と映像編集で現したかったとするなら、根本的にその発想は誤っている。それはまるで、文字の早読みであり、映像としては楽しめない。

あちこちに飛ぶロケ、豪華なセット、多数のエキストラ、軍服・軍装品、往年の高級車など、カネは使われている。俳優陣も、若手から年配者まで、しっかりした演技ができている。
EDにくだらない歌を使わず、全体的にOSTも映像を壊してはいない。
となると、すべての責任は、脚本を兼ねた監督にある

この映画を見て、冷房もロクにない真夏の蒸し暑さを感じるだろうか?
連合国軍の一方的なポツダム宣言受諾を目の当たりにした大臣たちの苦渋や、沖縄などでの悲劇を感じるか?
「反乱軍」の決断や熱意が伝わるか?

脚本上の問題も大きい。
旧作では、宣言受諾を渋々受け入れる内閣、特に阿南惟幾と、これに対する畑中少佐ら「反乱軍」の対立軸が鮮明であり、その軸を中心として、それぞれの内部にドラマが起きるという構図になっている。

厚木基地や横浜からトラックで駆けつける「反乱軍」応援隊は、大きなストーリーの流れに味を添えている。「反乱軍」が首相官邸を襲撃するシーン、玉音版を探して皇居内を荒すシーンなど、ポイントごとにメリハリもあって、重大な内容をもつ映画であるにもかかわらず、映像や音響でも楽しむことができる。

本作品には、計画された軸というものがない。時系列に忠実になるあまり、事実を追っているだけで、それで精一杯といった感じだ。
セリフの多いのも、監督が脚本を兼ねているからであって、これは捨てられない、というセリフが多かったのだろう。

本作品のかなめは陸軍大臣・阿南惟幾であるが、役所広司はミスキャストだ。
大作=巨額の投資=結果的に有名俳優の起用、ということになるが、悪役の多い俳優でも連れてきたほうがよかった。これは旧作の三船敏郎にかなわない。
巨額の投資をするからには巨額の収入が見込まれなければならない、・・・制作費の張る映画には、常にこうしたジレンマがある。

内閣側の人物像にも強弱がなく、みな並列的に出てくるので、おもしろみがない。映画として、天皇、鈴木、阿南、米内のどれに力点が置かれているのかわからない。
登場回数が多ければ力点が置かれている、とは限らない。

映画全体に、思い切って割愛する・抑制する、という姿勢が感じられず、そういう意味では、ただひたすらまじめに作られただけの映画で、大作たりえず、エンタメ性にも欠けるできばえとなった。

映画 『予告犯』

監督:中村義洋、原作:筒井哲也、脚本:林民夫、撮影:相馬大輔、音楽:大間々昂、主演:生田斗真、戸田恵梨香、119分、2015年6月、東宝。

特におすすめということもないが、期待していなかったわりには良い作品であった。

インターネットを通じ、ある犯行を予告する人物がいた。
目と鼻のところだけ開いている新聞紙をかぶった男が、ネットカフェのパソコンから、犯行予告を流す。翌日、予告どおりの事件が起き、警視庁サイバー犯罪対策課が捜査に乗り出す。捜査の指揮をとるのは、係長の吉野絵里香(戸田恵梨香)である。

予告犯から被害を受けるのは、社会的には無責任な行動をとった会社や個人であり、ネットユーザーの間では予告犯を支持する者が増え人気も出て、いつの間にか予告犯は「シンブンシ」と名づけられる。

やがて警察は、数回に及ぶ犯行後の防犯カメラの映像などから、それぞれの犯人の背が違うことがわかり、犯人は複数いることを突き止める。

一方、数年前、奥田宏明(生田斗真)は、IT関連の会社をクビになり、ハローワークで仕事を探すにも職がなく、そうこうするうち、日雇いの労働者となった。現場は、山奥の廃棄物処理場だったが、そこでは不法投棄がおこなわれていた。
処理場の小屋には、他に三人の男とひとりの少年が寝泊りしていた。

やがて五人は、それぞれニックネームで呼び合う中になった。
奥田宏明はITに強いのでゲイツ、葛西智彦(鈴木亮平)は関西弁訛りがあるのでカンサイ、木村 浩一(濱田岳)は、「ドラえもん」ののび太に似ているからノビタ、寺原慎一(荒川良々)は腹が出ているのでメタボ、フィリピンから来た日系の少年はひょろっとしているのでヒョロとなった。

この少年はネルソン・カトー・リカルテと言い、奥田に「OTPトークン」というセキュリティキーを見せた。これは、働いていたインターネットカフェがつぶれたときに、少年が持ち出してきたものであった。
ヒョロはよく働いたが、病いに倒れ、山奥のそんな場所で医者も呼べず、そのまま亡くなってしまう。

ゲイツは、残った4人で、あることを実行しようとする。・・・・・・

この少年の持っていた「OTPトークン」と呼ばれるセキュリティキーから、予告犯の犯行が始まっており、これはまさに犯行のキーとなる小物であると同時に、物語が進むうち、これを持っていて亡くなった少年が、犯行の動機となっていることが明かされる。

突っ込みどころも多いのだが、それを覆い隠すのは、「シンブンシ」の狙う対象が反社会行動をした個人や会社であるため、予告犯の行動がいわば「世直し」的はたらきをすることであり、少年初め結びつきをもった若者たちが、社会的に報われない存在だということから、観ている者に同情を引き起こすからでもあろう。

「シンブンシ」が計画的犯行を続けたのには、それなりの動機があった。
社会の底辺にいることを余儀なくされている者たちが、ささいな正義と純情を貫き通すために、結束して予告犯となり、視聴者の共感を得るという運びは、それなりに説得力をもつ。

カメラワークにも特筆すべきものもなく、全体には静かに進んでいくが、海辺の景色や排水路での奥田と吉野のシーンなど、会話に見合った場所選びも功を奏している。

戸田恵梨香はミスキャストだ。偶然いっしょにレンタルした『日本のいちばん長い日』に、NHK放送局員・保木玲子役で出ていたが、この程度に短い出番のほうがいいだろう。

登場シーンは少ないが、窪田正孝(ネットカフェ店員・青山祐一)はいい役をもらった。演技もキラリと光るものがある。
取調べのときに彼のいうセリフが、本作品の本質を表している。「小さなことでも、それが誰かのためになるなら人は動く」

ヒョロを演じた福山康平は、EDで日本人とわかるまで、本当のフィリピン人なのかと思った、本作が映画初登場とのことだが、片言の日本語や愛くるしい表情など演技力もあり、これからの成長が楽しみだ。

2016年2月17日 (水)

コミックス『屍鬼』 を読んで (2)

≪感想≫

ゾンビでも吸血鬼でもない、人間そっくりの「起き上がり」・・・、映画『遊星からの物体X』を思い出してしまった。

『遊星からの物体X』の原題は The Thing であり、対象を食らうと、その対象と似た格好に変容でき、仲間を増殖させようとするが、本物の人間の血には拒否反応を示す。
しかし、人間に寄生すると、その生来の姿のままに成りすますことができた。
『東京喰種 トーキョーグール』と似たテイストも感じるが、それ以上ではない。

この作品で「起き上がり」は、その目が黒く塗りつぶされて、人間と区別が付くようになっている。室井静信は、「起き上がり」に似て、初めから目の半分近くが黒い。髪はグレーで中央から分け、女性的な顔立ちにメガネをかけ、僧侶というよりエキセントリックなインテリ風情である。

しかし、その生い立ちからして、不本意ながら村の住職を継がねばならず、本心とは別な道を選択せさるを得なかった。本心はまさに、著作『屍鬼』に現れるのである。
沙子も同様で、自らの意図とは別の次元で生きてこざるを得なかった。それゆえ自然と静信に同病相哀れむのであり、著作の完成を待ち遠しく思ったのである。

静信は敏夫や村人を裏切り、「起き上がり」の仲間となり、沙子の逃走を手助けした、というところだけとらえると、この物語の本質を見失う。

人間界にも「起き上がり」の世界にも、絶対善も絶対悪もないのであり、<村を救いたい人々>と<村に棲みたい「人々」>の対立は、両者が歩み寄り理解しあうこともなく、「起き上がり」に対する人間側からの殺戮となり、やがて村は業火に焼き尽くされるのである。

村人を殺し続けた「起き上がり」に対し、敏夫らが片っ端から「起き上がり」を成敗していく。
これはあたかも殺戮であるが、「起き上がり」の増殖を止めるために殺さなければならないのである。

敏夫は、山火事から逃げるラストで、赤く染まる山の端を見ながら、「やはり負けたのかな」とつぶやく。
「起き上がり」はたしかにほとんど撲滅し、そのことに限ってはけりがついたが、村そのものは原因不明(敏夫らは知らないが、前田元子によるものとして描写されている。)の火事によって、違う方向から、消滅という結末を招いてしまったからだ。

しかし、村に代々続く医院の跡継ぎとして、敏夫の分析や判断は正確であり、正義でもある。
他方、同様に、村に代々続く寺の若い住職・静信の悩みは、これもまた否定できず誠実であり、沙子の出現により、いよいよその理念は真実へと近づき、書物として著され世に出るのである。

このストーリー全体は、極めて巧妙なつくりになっている。
読者を含めおよそ人間が関心をもたざるを得ない「死」という出来事を、「生」と並べて描ききっている。

人は死を恐れ死にたくない一心から、輪廻転生を望むこともあり、そうした主題の小説や映画は視聴者に受けがよい。
生きるとは、また、いかに死ぬことか、ということにつながる。
ただ、この村での出来事は、「起き上がり」による殺人なのであり、それは罪悪である。それを正当化してはいないが、「起き上がり」にはまた、それぞれに寄ってきたる事情もある。

「起き上がり」は沙子や千鶴の会話にあるように、望んでそうなったのではない。
かつては彼女らも人間であり、おそらく他の「起き上がり」に殺され、たまたま「起き上がった」のだ。

「起き上がり」のあこがれは、さほど壮大なものではない。千鶴の言うように、人に隠れることなく、人間らしく生活したり買い物したりできればよいのだ。
しかし、生きていくためには、どうしても、人間の血を吸わなければならない。それは吸われた人間の死を意味する。

沙子の事実上の父親であり桐敷家の当主である桐敷正志郎は、「起き上がり」ではない。その忌まわしい過去から、「起き上がり」に憧れ、沙子を育ててきた。夏野と対決するときに、私は加害者になりたかった、などと言っている。
同時に、村人に「起き上がり」が殺され続けるのを見、形勢が不利となるや、人狼でもある佳枝(よしえ)を待ち構えていて射殺している。すべてに対して加害者でありたかった正志郎こそ、この物語のなかで、人間の尊大さの象徴である。

人間と「起き上がり」の対決は、結論を出せない。
ストーリー上の設定やしくみがそうなっているのであり、ましてや、教訓めいたものをうったえたいわけでもない。それだけにエンタメ性は担保されている。
両者の共存の可能性は否定されている。自分の親や子を殺された人間が、その加害者と共存することはありえない。

敏夫は他の街で生きていくだろう、かおりと昭は生存している(アニメ版)、沙子と静信は逃走する(アニメ版)、あるいは、東京で出会う(漫画版)、・・・かろうじて生き続けられた人間と「起き上がり」の物語は、どちらかが絶滅することなく、どちらもかろうじて生存することで、結論を出さず、言い方を変えれば、それぞれ未来に向け、生きていくことを暗示して終わる。

もし『屍鬼』に、テーマらしきものを求めるとすれば、それは「絶望」ということになろう。
そう思って読み進めていくうちに、静信の口から「絶望」という言葉が出てきた。
静信は本来、村を守る僧侶として、また、人間として、あってはならない選択をした。

敏夫の「正義」、つまり、人間の正義を、理解することはできても、それに同調することはできなかった。そうして、桐敷家の中に入り、沙子の話し相手になり、辰巳に自らの血を吸わせるまでになっている。

勧善懲悪ドラマであれば、沙子も静信も、死ななければならない。敏夫たち村人の正義が、結論にならなければならない。
ところが、作者はそうしなかった。二人を生かしたのである。

村人たちによる「起き上がり」成敗が続くと、逆に、人間のほうが残酷であり、「起き上がり」に同情さえしてしまう。これは作者の狙いである。
旧約聖書『創世記』の「カインとアベル」の例を何度も引用し、静信の揺れる心を描いたのも、静信の生まれてからこのかたの心の変遷を、読者に理解してもらい、彼の書く『屍鬼』という小説に結実させたかったからだろう。

静信は自らが、カインであると同時にアベルだったことを告白し、沙子に対し、絶望に打ちひしがれても、命あるかぎり、足掻きつづけても生きていかなければならない、と諭す。
「起き上がり」は、人間と同じく、その宿命を身に引き受けながらも、生きていくのである。
それは静信の言うように、虚しさを抱えるものであっても、そうするしかないのである。

キャラクターのうち、恵は、他の者に対してはつっけんどんであるが、村を出て都会をめざす少女として卑近な例であり、夏野に恋心をいだくよくいる一般的な少女代表として描かれている。
彼女は、初めから終わりまで出続けている。恵の失踪から、村人たちに事件が大きく認識されることになる。漫画版では暗示されるだけだが、アニメ版では残虐な殺され方をする。

その夏野は恵の気持ちには応えない。
彼は高校生にしては偏屈な人物であるが、それゆえ、「起き上がり」を早い段階で察知することになる。
彼も村を出て都会の大学へ行くことを志しているから村人と積極的に交わろうとしないが、自転車のパンクを直してくれたことをきっかけに知り合った武藤徹とは、心を通わせることになる。
夏野は、辰巳と半ば相打ちで、死ぬことになる。

徹は仲間からは徹ちゃんと呼ばれている。
徹は「起き上がり」になって以来、幾度となく夏野のへやを訪れるが、親友であったこともあり、なかなか夏野を襲えない。
初め、辰巳が図らって、恵に夏野を襲わせようとしたとき、襲うなら自分だとして、背後から夏野の首に噛みつく。
しかし、その後も、夏野のへや前まで来ながら、どうしても躊躇してしまう。

夏野は徹に襲われる前、窓の外に立つ影が「起き上がり」と知っていて、そこに誰が来ても招き入れるつもりはなかった。しかし、開けてはいけないと思いつつ、鍵を開けてしまうのである。すると、そこにいた者に腕を引っ張られる。そこで初めて、それが徹とわかる。ここは名シーンだ。
血を吸われたあとも、まだ徹に期待し、いっしょに逃げてくれないかと思う。

徹は全編を通じ、唯一、屈託なく明るい性格の持ち主だ。夏野を嫌う正雄にも好かれ、「起き上がり」になったあとでも良心の呵責に悩まされ続ける。
最後は、「起き上がり」のしきたりを拒否し、人質をのがし、辰巳に罰を受けることを承知で、思いを秘めていた律子と並んで、村人に襲われるのを待つのである。

ほかに、田中かおり・昭姉弟など、魅力的なキャラクターが多い。

村の多くの人間が、年寄りから子供まで、「起き上がり」の犠牲となり、仮に生き返っても、「起き上がり」という宿命を負うことになるのである。

悲しくやりきれない物語ではあるが、繰り返し読めそうな厚みのあるストーリーであった。

元々、YouTubeにあったOST(オリジナルサウンドトラック)で、このアニメを知った。『氷菓』のときと同じだ。
あの美しくも悲しい旋律は、アニメのなかでも随所で流れる。
他のアニメもそうだが、OSTの効果は絶大だ。OSTあってのアニメだと思う。

                                                     (完)

コミックス『屍鬼』 を読んで (1)

原作: 小野不由美『屍鬼(しき)』、新潮社・単行本(上・下巻、1998年刊行)、新潮文庫・文庫本(全5巻、2002年刊行)、漫画版: 藤崎竜(「ジャンプスクエア」:2008年1月号~2011年7月号掲載、単行本(全11巻、2008年7月~2011年7月)、テレビアニメ版: 監督:アミノテツロ(2010年7月8日~12月30日フジテレビ系放映)

(※原作は読んでいませんが、漫画版とテレビアニメ版を観ると、原作も読みたくなる内容です。当然ながらネタバレを含みます。)

≪あらまし≫

漫画版は原作と異なる部分が多いとのことだが、アニメ版は漫画版にほぼ忠実である。漫画版と多少前後するシーンなどあるが、よくある入れ替え程度である。
また、漫画版では結末まで書かれているキャラが、アニメ版では想像にまかせることで割愛されている場合もあり、漫画版のラスト「数ヵ月後 東京」は、アニメ版では最終話EDの後に「数日後」と出て、全く別の短い創作となっている。

総じて、アニメを見れば漫画と同じ内容を得られるが、かなめになりうるセリフがアニメ版で略されているところがあり、アニメ版だけだと理解しにくいところもある。話の前後関係から多少「離して」もいいとされる独白は、各話EDの後、流されている。

キーワードは「起き上がり」である。
舞台となる小さく辺鄙な山奥の村には、いまだ土葬の慣習が残る。その条件に目を付けた「ある集団」が、自分たちの居場所として、この村を乗っ取ろうというのが大筋である。
ただそれは、単純に人間界を侵略することではなく、基調にやや哲学的な背景をもっている。

「ある集団」は、外見上、全く人間と同じであるが、実は彼らは一度死んで、その後、墓から「起き上がった」者たちである。彼らは、人間の血を吸うことで生き延びている。

何度となく血を吸われた人間は、やがて衰弱し死んでしまうが、そのうちの幾人かは「起き上がり」、彼らの新たな仲間となる。「起き上がり」になるかどうかに規則性はない。

「起き上がり」はあたかも吸血鬼のようであり、たしかに、十字架や仏像など宗教的な象徴に弱いが、ゾンビのように単なる「生ける死体」ではなく、吸血鬼のように人間でないということでもない。
彼らは「起き上がって」しまえば、生前と全く同じ姿の人間となり、生前と同様に生活していくことができる。

それゆえ彼らは、ゾンビでもなく吸血鬼でもなく、「屍鬼」という呼び名をもつのである。
年齢や性格、人間性、記憶などもすべて引き継いだまま「起き上がる」ため、多くの苦悩や悲劇を生むことにもなる。

弱点として、太陽の光に当たると肌がとけてしまい、首の切断や、大動脈など太い血管を破壊されると、完全に死んでしまい、二度と「起き上がれ」なくなる。ただ、「人狼」となった者は、昼間でも平然としていられ、「屍鬼」より強い存在である。
いずれも、一応、招かれなければその家に入れず、対象の血を吸うこともできないということになっている。

こうした大前提を下地としてストーリーが展開するが、秩序の上で「ある集団」のトップにいるのは、意外にも、沙子(すなこ)という少女である。
対して、村の住人側の中心人物は、村に代々続く尾崎医院の尾崎敏夫という若い医者である。

尾崎には室井静信(むろい・せいしん)という幼馴染みがおり、これも村では代々つづく寺の若い住職で、村人からは若御院(わかごいん)と呼ばれている。
住職のかたわら小説も書いているが、その小説のなかに「屍鬼」という言葉が出てきており、これがこの作品のタイトルとなっている。漫画版ではラストに、静信の著作としての『屍鬼』が登場する。
静信を含む以上三人が、ストーリーの主役となっている。

主役に準ずるキャラとして、高校1年生の結城夏野(ゆうき・なつの)、夏野を慕う女子高生・清水恵、夏野と親しくなる青年・武藤徹、徹が思いを寄せる尾崎医院の看護婦・律子、恵の幼馴染みで中学生の田中かおり、その弟・昭、沙子の住む桐敷家の使用人の青年・辰巳、沙子の事実上の両親、桐敷正志郎・千鶴、などがいる。

敏夫ら三人がストーリー上の背骨に当たる理念的部分をなす人物群であるのに対し、夏野らはこれを肉付けする重要な要素として描かれており、現実的日常的なレベルでの感情の描写という役割を負わされている。

全体に、狭い村の密度の高い人的関係を描くべく、村人は親子・家族で登場し、親子や職場での仲間などすべてに氏名を入れてきちんと描くため、登場人物の数が多く、煩瑣な印象をもつ。

シーンごとに、日付と六曜が出る。これにより、すべてのシーンが、見る側にとって証拠映像ともなるような設定であり、また、日時を遡る場合にも、どこで何が同時進行していたかなどを掴めるようになっている。
六曜を示すことで、日本の村落生活を強く印象づけており、物語全体の雰囲気醸成にもひと役買っている。

冒頭から、死因不明の死者が続出し、それが屍鬼のしわざとようやく察知するのは、敏夫と夏野である。独自にこれを察知する郁美という祈祷師の女もいる。
「起き上がり」の手は、ついに尾崎医院にまで及び、敏夫の妻・恭子も「起き上がり」に誘惑され病床に伏すが、やがて絶命する。

敏夫はその妻を実験台として、「起き上がり」のしくみを半ば理解し、やがて桐敷千鶴を騙して村の祭事(霜月神楽)に連れ出し、その正体を暴き、村人を殺しているのは「起き上がり」の仕業であることを村人に知らしめ、同調者を募り、「起き上がり」に対する「狩り」を始める。
「狩り」とはすなわち「起き上がり」殺しであり、「起き上がり」の胸に、太い杭(くい)を撃ち込むか、または斬首である。

「起き上がり」があらかた片付くうちに、村の奥山で発生した山火事は住民居住地域にまで及び、敏夫らはそこから逃げるように村外に向かう。(アニメ版。漫画版では、山火事を見ている。)

一方、敏夫と幼馴染みの静信は、「起き上がり」の埋葬されていた墓を掘り返すなどという敏夫の発想に付いていけず、悩んだ末、途中から沙子に同情するようになる。それは、沙子が自分の小説のファンであるというだけでなく、沙子が何度となく静信の元へ来て話すうち、沙子の身の上や考え方に同調したからでもある。

沙子の話には静信自身、身につまされるものがあり、一概に「起き上がり」=悪者、とまで言えないだろうという、静信なりの迷いもある。
静信はついに意を決し、沙子の住まう桐敷の館に向かい、沙子に血を与え、「起き上がり」に与(くみ)するようになる。これは静信なりの苦渋の選択であった。

辰巳が囮になることで、二人は「起き上がり」撲滅を進める村人たちの襲撃から辛くも脱し、車で村を後にする。
事件の数ヵ月後、静信の著作『屍鬼』を出版した東京の出版社前に現れるのは、沙子と静信自身のようであり、二人は存命していることを暗示して終わる。

ストーリー上の主役は、<敏夫とその同調者である村人>vs<静信・沙子を含む「起き上がり」>と整理できるが、ストーリーのかなり早い段階で「起き上がり」が登場してきており、「起き上がり」による深夜の引越しや退職が語られ、人間界の敏夫から、「起き上がり」に同調する静信へと、ストーリーの中核が引っ張られている。

このほぼ同等のストーリー上の重みからして、必ずしも、人間界が中心で、「起き上がり」が周辺の存在だ、という固定した位置づけにはなっていない。
むしろ、特に個人レベルに下ろしてみれば、「起き上がり」のほうに、生きていく上での必死さ・懸命さ・論理性なるものさえ見られ、「起き上がり」が中心にあるような構図ともとれる。

沙子の住まう桐敷家が、小さな村には不釣合いな巨大な洋館で、村中を見下ろす位置に立っている様相からしても、「起き上がり」は人間と並んで、初めからストーリーの中心となっている。

実際、「起き上がり」が襲撃するのは、動物や植物でなく人間のみであり、そこに親近の疎密というものは関係ない。
しかし「起き上がって」も、生前の本人と何ら変わっていないので、相手を慕う気持ちや親近感が、襲撃を躊躇させることもあり、逆に意欲的になることもある。
これは例えば、夏野に対する恵、夏野に対する徹、徹に対する恵の態度を通し、「起き上がり」になったがゆえの苦しみや反転心理として表現されている。

(つづく)

2016年2月14日 (日)

映画 『鬼畜』

監督:野村芳太郎、原作:松本清張、脚本:井手雅人、撮影:川又昻、音楽:芥川也寸志、主演:緒形拳、岩下志麻、1978年、110分、カラー。

川越市にある小さな印刷屋に、菊代(小川真由美)が小さな子三人を連れてやってくる。菊代は印刷屋の主人竹下宗吉(緒形拳)の愛人であり、妻・梅(岩下志麻)にはすべて隠していたから、大騒ぎになる。

気の弱い宗吉はバツが悪く小さくなっているそばで、二人の女が丁々発止の押し問答を繰り返す。
深夜、菊代は、三人の子は宗吉の子だからここへ置いて、自分だけ出ていくと啖呵を切り、去っていってしまう。

翌日より、いきなり三人のおさな子と暮らすことになり、宗吉はてんてこまいになるが、梅は、あんな女の子供らの面倒など一切見ない、と宣言する。

梅は子供たちをひっぱたくなど辛くあたり、地獄のような日々が続くが、ある日二階の棚をいじっているうち、棚にあった大きなシートがヒラリと落ち、偶然下にいた末っ子・庄二の上ににかぶさった。
偶然それを見かけた宗吉と梅に、子供らへの殺意が芽生える。……

おなじみのベテラン俳優が散りばめられ、単純なストーリーに厚みが出ている。
ほとんど新人に近かかった大竹しのぶが婦警役で出ているほか、印刷屋の使用人に蟹江敬三、パトカーの警官に田中邦衛などが出演している。

庄二は、いい加減なものしか与えなかったことによる病死であったが、二番目の女の子・良子は、まだ父親の名前や自分の住所も言えないことを利用して、宗吉は都内見物に出るふりをして、東京タワーの上に置いてきてしまう。

長男・利一は6歳になっており、住所も言え、兄弟が順にいなくなったことや、それにつれて冷たく変化していく宗吉の自分に対する態度や折檻などもあり、梅に嫌われていることもよく悟っており、良子のように捨ててくるわけにはいかない。

宗吉は旅行と称し利一を連れだす。東尋坊から能登半島に周り、能登金剛の崖の上で、宗吉は寝ている利一を抱いたまま立ち上がり、関野鼻の崖から利一をわざと落としてしまう。下に投げるのではなく、抱いている手を離すように、そっと利一を落とした。
『ゼロの焦点』で有名になったヤセの断崖のシーンもある。

宗吉は女房の尻に敷かれ、その陰で愛人をつくり、女房との間にはできなかった子供を三人もつくっていた。このしがない小心者の宗吉が、終盤、利一と止まった旅館のへやで、ヤドカリと遊ぶ利一に、聞かせるでもなく、自分の辛い過去や生い立ちを、涙ながらに話す。このシーンは緒形ならではの圧巻だ。

利一を殺すつもりでここまで来たのにもかかわらず、自分も幼い頃、親類じゅうをたらいまわしにされたり、人に裏切られたりした話をする緒形の演技には圧倒される。だから、子供らを大事にしなければならなかったのに、一人を病死させ、一人を捨て子にし、いままた目の前の子を、あすにでも亡きものにしようとしている。

利一は松の枝に引っかかって一命を取り止めるのだが、警察の事情聴取にも、何も答えず、容疑者として連行されてきた宗吉と向き合っても、この人はおとうさんではない、と語る。

ちょうどこのころ、子供を捨てる親、子に対する親の虐待、またその延長で、親と子の関係について、いろいろ話題になっていた。野村芳太郎が手がけた松本清張作品は、『張込み』『砂の器』などいずれもヒット作となり、この後『わるいやつら』『疑惑』へと続く。
清張作品は、サスペンスとして、原作が丹念に仕上げられており、脚本化しやすく、大衆の関心を呼ぶような、人間の内面心理へ迫るものが多い。

この映画の音楽は芥川也寸志だが、出だしはどこかズッコケムードの音楽だ。シリアスな内容の映画であるのに、菊代が男衾(おぶすま)駅から印刷屋に押しかけるまでは、どこか拍子抜けした味わいがあり、緒形拳の気弱なすっとぼけぶりと一致している。

ほとんどのシーンに子供が出てくるからには、子役の演技も大事である。利一役の少年は、演技力があるとは言えないが、こうした状況にある子の役柄なので、あえて丁寧な役付けをしなかったのかもしれない。
やはり注目されるのは緒形拳と岩下志麻の演技であろう。どちらも本当にうまいと思う。

岩下は当時37歳。若いころは清楚なお嬢さん役が多かったが、30代以降、役柄を広げ、桃井かおりとの共演作『疑惑』では、子を夫のほうに残し離婚している弁護士、『鬼龍院花子の生涯』では鬼龍院政五郎(仲代達矢)の妻・歌、『魔の刻(とき)』では息子・深(坂上忍)を愛する母親を演じ、その後『極道の妻(おんな)たち』で圧倒的な存在感を見せつけることになる。

小川真由美は、冒頭に出てくるだけであるが、啖呵を切るところの形相はものすごい迫力で、物語最後まで、その影響力をもっている。
岩下志麻も、石川県の刑事が宗吉を連行しにきたあとは、出てこない。大竹しのぶは、利一が助かったあと、婦人の警官として、何とか利一の口を割らせようとするシーンで初めて出てくる。アップのシーンもあり、ラストで利一に声をかけるシーンもあり、演技派を買われての出演だろう。その後大きく育っていった女優だ。

その後増加の一途をたどり現在にも頻発する子捨て、子殺しを扱ったテーマであるが、社会批判、保護者批判の映画ではなく、人間の本性に眠る鬼畜の部分と罪悪感を、映像に描写した名作だ。

2016年2月12日 (金)

ステキなアニメOST

 

『デュラララ!!×2 承』より
01 Dancing in the Sunshine https://youtu.be/-D4vWsKGcxE @YouTube
<externalvideo src="YT:-D4vWsKGcxE:D">

『デュラララ!!』より
Durarara!! OST [Vol.1] Their Aspirations #11 https://youtu.be/T9MOaxcdmYg @YouTube
<externalvideo src="YT:T9MOaxcdmYg:D">

『黒子のバスケ』より
Kuroko no Basket 2 OST Disc 1 -  2. バニシングドライブ https://youtu.be/RLhaSbIqDNk @YouTube
<externalvideo src="YT:RLhaSbIqDNk:D">

『氷菓』より
思考回路の彷徨い 氷菓(Hyouka) OST 11. https://youtu.be/M5F99shTDbI @YouTube
<externalvideo src="YT:M5F99shTDbI:D">

『氷菓』より
解決ながらも暗然 氷菓(Hyouka) OST 43. https://youtu.be/IBSz5Npj4Bs @YouTube
<externalvideo src="YT:IBSz5Npj4Bs:D">

『残響のテロル』より
Terror in Resonance OST 09 - walt https://youtu.be/DqUezqu67jA @YouTube
<externalvideo src="YT:DqUezqu67jA:D">

『屍鬼』より
Most Emotional Music Ever: Shi-ki https://youtu.be/RuYC6U3LBRs @YouTube
<externalvideo src="YT:RuYC6U3LBRs:D">

2016年2月11日 (木)

映画 『鍵』

監督;市川崑、原作:谷崎潤一郎、脚本:和田夏十、長谷部慶治、市川崑、音楽:芥川也寸志、主演:京マチ子、仲代達矢、中村鴈治郎、1959年(昭和34年)、110分、カラー。

脚本の和田夏十(わだ・なっと)は、市川崑の妻である。

古い日本の映画だがカラー作品。大好きな映画のひとつ。ようやく今日、手に入れることができた。
京都が舞台で、市電の停留所名に天王町と見える。

耽美派と言われた谷崎潤一郎の小説『鍵』をもとにしてつくられている。
原作を読んでいる映画はあまりないのだが、原作の雰囲気をうまい具合に掴み、再現している。原作では、郁子(京マチ子)、夫の剣持(中村鴈治郎)、娘・敏子(叶順子)、敏子の婚約者で医師の木村(仲代達矢)の四人であるが、映画には主な登場人物に、婆やのはな(北林谷栄)が加わっている。

また、原作では、性欲や心理にのみ焦点を当てて書かれており、剣持の職業などにはほとんど触れられていない。鍵の意味も、原作では、夫の日記がしまわれている引き出しの鍵だが、映画では、剣持が倒れたあと郁子と木村が逢引するため郁子が木村に渡す家の入口の鍵になっている。

原作は日記体で、夫の記述がカタカナ、妻・郁子の記述がひらがなで、元日の夫の日記からそれぞれ書き始められ、夫は妻に、妻は夫に、それぞれ読んでいることをわからないように読んで、元に戻しておいてくれることを要求し、それぞれそのとおりにしている。

夫は高齢期に入り、自分より若い妻との性生活の自信を取り戻すため、かかりつけの医師である木村を何かといっては郁子に近づけることで、自らの嫉妬心を煽り立て、しばらくは円満な夫婦生活が送られる。木村はそもそも敏子の婚約者であるが、木村は一人前の開業医になるために剣持を利用し、剣持は深夜ポラロイドで撮った妻の卑猥な肢体の写真を木村に現像させてさらに自分の性欲を亢進させ、郁子は夜の床への不満を木村との密会で満足させる。敏子は利用されるばかりであり、そういう父親を恨み母親を妬むが、木村には内心好意を抱いている。

谷崎文学の耽美の世界を、メイク、せりふ、カメラ、間、演出でみごとに描ききった名作だ。全体に演技とカメラ撮りに、灰汁(あく)の強い演出が施されていて、原作を見ていなくても、それにふさわしい映像表現となっている。官能の世界を描くが、京マチ子の乳房を映すわけでもなく、閨房の秘事が撮られるわけでもない。それでもなお、官能的な映画なのである。

娘の婚約者役の仲代達矢のうすら白いメイクと薄気味悪い演技、京マチ子の眉を吊り上げた能面のようなメイクと白い肌、婆や役の北林谷栄のとぼけた話し方と鼻のメークなどが、滑稽味をもつせりふやいろいろなメタファーと相まって、日常に材をとりながら非日常的ともいえる、おどけたような官能世界を非常にうまく造り出している。

風呂で倒れた妻の美しい肢体から立ち上る湯気、その女体を夫と娘の婚約者がベッドに運ぶという奇異なようす、電気スタンドで明るく照らした妻の裸体をポラロイドカメラで撮る夫の淫靡な楽しみ、用が済んだら木村の鼻先で玄関の扉を閉める剣持…言い出したらキリがないほど、ワンシーンごとに映像の遊び心も伝わってくる。京都ことばのせりふやイントネーションも効果的だ。

ラブシーンや直接的会話でなく、婉曲な会話のやりとりと演出、間合いの取り方やカメラのフレームや引きなど、最低限の気の利いたせりふと映像と編集のくふうによって、充分に、登場人物の滑稽なやりとり、男女の欲望やエロティシズム、サスペンス感あふれる心理の動き、などをあらわすことに成功した秀作だ。

2016年2月 6日 (土)

好きな映画一覧

<作品名>(平成28年2月6日更新)



『死刑台のエレベーター』『ディーバ』『カサブランカ』『望郷』『モロッコ』『街の灯』『メトロポリス』『M』『靴みがき』『自転車泥棒』『道』『鉄道員』『赤い風船/白い馬』『紅塵』『ローラ殺人事件』『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『汚れた顔の天使』『窓』『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『深夜の告白』『『呪いの血』『私は殺される』『拾った女』『荒馬と女』『十二人の怒れる男』『第三の男』『必死の逃亡者』『陽のあたる場所』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『去年マリエンバートで』『顔のない眼』『めまい』『サイコ』『北北西に進路をとれ』『鳥』『裸足の伯爵夫人』『穴』『非情の罠』『2001年 宇宙の旅』『マドモアゼル』『クリスマス・ツリー』『特攻大作戦』『水の中のナイフ』『帰らざる夜明け』『レマゲン鉄橋』『チャイコフスキー』『大地震』『カサンドラ・クロス』『ベニスに死す』『ラ・パロマ』『シャイニング』『ストリート・オブ・ファイヤー』『激突』『π』『普通の人々』『殺しのドレス』『レオン』『ミツバチのささやき』『マリリンとアインシュタイン』『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』『青いドレスの女』『ミスト』『天使』『ラルジャン』『遊星からの物体X』『トワイライトゾーン』『暴走機関車』『サン★ロレンツォの夜』『ボーイズ・ライフ』『評決』『キャビン・フィーバー』『刑事ジョン・ブック/目撃者』『ミザリー』『氷の微笑』『ステイ』『隠された記憶』『ファイナル・デスティネーション』『白いリボン』『倫敦から来た男』『テキサス・チェーンソー』『ゆりかごを揺らす手』『レミング』『不眠症 オリジナル版インソムニア』『ヒート』『THE WAVE  ウェイヴ』『エクスペンダブルズ1・2』『コロンビアーナ』『アンチクライスト』『メランコリア』『引き裂かれた女』『メカニック』『わたしを離さないで』『ドラゴン・タトゥーの女』『偽りなき者』『危険なプロット』『鑑定士と顔のない依頼人』『悪童日記』『トラ・トラ・トラ!』『安城家の舞踏会』『日本のいちばん長い日』『明治一代女』『どぶ』『にごりえ』『羅生門』『歌行燈』『祇園囃子』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『剣』『白い巨塔』『浮雲』『女が階段を上る時』『鍵』『悪名』『女系家族』『長崎ブルース』『約束』『鬼の棲む館』『飢餓海峡』『人間の條件』『戦争と人間』『少年時代』『華麗なる一族』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『砂の器』『新幹線大爆破』『県警対組織暴力』『人妻集団暴行致死事件』『泥の河』『AKIRA』『ツィゴイネルワイゼン』『家族ゲーム』『鬼龍院花子の生涯』『犬神家の一族』『マルサの女』『疑惑』『極道の妻たち』『TOMORROW  明日』『天城越え』『渚のシンドバッド』『顔』『CURE』『失楽園』『MEMORIES』『青の炎』『トウキョウソナタ』『カミュなんて知らない』『男たちの大和/YAMATO』『女はバス亭で服を着替えた』『明日の記憶』『象の背中』『ライフ』『宮城野』『白夜行』『冷たい熱帯魚』『一枚のハガキ』『11.25 自決の日』『パレード』『はやぶさ 遙かなる帰還』『桐島、部活やめるってよ』『渋谷』『SHORT PEACE ショート・ピース』『迷宮物語』『言の葉の庭』『共喰い』『そこのみにて光輝く』『亜人 第1部-衝動-』 など。








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