« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月

2015年7月28日 (火)

福岡教育大学准教授・林嵜和彦に、厳正な処分を (2015年7月28日)

国立大授業で「安倍は辞めろ!」とデモ練習 大学側「看過できない」と准教授の授業停止 http://www.j-cast.com/2015/07/27241214.html @jcast_newsさんから(2015/7/27 18:13)

▼安保法案に反対するデモが各地で活発化する中、福岡教育大学(福岡県宗像市)の授業で40代の男性准教授が「安倍は辞めろ!」といったシュプレヒコールを学生に「練習」させたとして問題になっている。
国立大学法人の教員が政治的な主張を学生に強いるともとれる行動には批判が多数寄せられ、大学側も「看過できない」と問題視。事実関係の調査が終わるまで教員に対して授業停止を命じたという。(以下略)▲

大学側が本人に事情聴取したころ、事実を認めたという。

大学当局側は、

「本学は、高等教育機関である大学として、しかも教員養成を行う国立大学として、国民の期待と負託に応える責務を負っている。このことに照らして、このたびの事案は、本学の教員及び教育の在り方の根幹にかかわる問題として、看過できない。」

と厳しく非難し、准教授には「このたびの事案で引き起こされた学内外の混乱を避けるため」授業の停止を命じ、履修していた学生に不利益にならないように対応する、としたという。

今後、准教授の過去の授業を含めて問題がなかったか調査する方針で、懲戒等調査委員会を立ち上げて調査を始める。必要に応じて、准教授の授業を履修していた学生に対する調査も行う。

大学のHPにも、

「本学の学生であることをもって学内外において誹謗中傷を受けるなどの不利益を被ることが無いよう徹底して学生を護るとともに、大学教員が行った教育活動の適正さについて関係法令や本学規則に照らした事実調査等を早急に実施し厳正に対処してまいります」

とする文章を掲載し、対外的にも事実関係を大筋で認めている。(http://www.fukuoka-edu.ac.jp/news/archives/344

当初、上記事態をその場で撮影しツイートした学生がおり、ツイッターで面白半分に拡散されていったものの、見る人が見れは偏向的な内容であり、さらに、これを非難するものとして拡散されていった。
ましてこれを、講義中におこなったというのだから、非常識にもほどがある。
瞬く間に、ツイッターを超えて、一般的なニュースとして、全国を駆け巡った。

上のニュースについては、いかにもお花畑星人とも言えるブサヨが、まあいいじゃないか、といったコメントを付けていたが、大方はこれを非難するものであり、大学当局の反応は正常であったと言える。

この准教授は、学校教育講座を担当する10人の教員のうちのひとりで、林嵜和彦という。
これも早い段階から、ツイートに書かれ拡散された。本人も認めており、今さらニュースで、匿名にすることもないだろう。
フェイスブックの本人の写真から、沖縄系の顔にも見える。

教員総覧( http://scholar2.fukuoka-edu.ac.jp/sran5/206) によれば、専門は、

(教育)人権同和教育
(研究)コミュニティ教育学 多文化教育 人権教育 同和教育 教育福祉学 外国人教育

とあり、サヨクの下地は充分という感じだ。

経験上、同和問題や差別問題を専攻するのは、日本人であれば、自身が同和部落の出身者が多い。情報として表には出ないが、筑波大学や広島修道大学、東北大学、埼玉大学などは有名だ。それらの大学を渡り歩くのは、決まって東大か京大の出身者である。

特に筑波大学は、その昔、そうした専攻の教員を採る大学が少なかったところへ、渡りに船というぐあいに新設されたこともあり、同和問題・差別問題を専攻する教員の系譜ができている。

社会学という分野がこれを含む広大な領域を覆っている。
都市社会学や村落社会学、社会福祉論などの延長線上に、同和問題・差別問題・在日問題などが含まれている。
ただ、社会学の領域のなかでは、末端に位置し、それだけに逆に言えば、専門的に取り組まないと研究成果は上がらない。

都市社会学などは、欧米でも研究が進んでおり、日本の研究者もそこに加わることができるが、同和問題は海外に同じ例がなく、研究材料や資料に乏しいのだ。
となると、同和出身の人間が、経験や生きた知識をもっており、同和の研究に入るのが、ふつうの流れになってくるのだ。

大学当局は、この件に対して厳正に対処するという。
すなわち、林嵜和彦に、一定の処分を下すということだ。

林嵜が潔く辞表でも出せば、当局もほっとして受理するだろうが、図々しい野郎のようであり、その可能性は少ない。
当局は、教授会などにかけて、公務員としての何らかの懲戒処分をおこなうだろう。

今回の件では、大学側の反応が非常に早かった。それだけ当局も驚き憤慨したのだろう。そういうことからすれば、当局がこの件をうやむやにはしないだろう。
あるいは、当局にとって、実は面倒な人間だったかも知れず、これ幸いと、厳しい処分を出すかも知れない。

おそらく、文科省とも協議のうえ、法令などに照らして、処分が決定されるだろう。
懲戒解雇や諭旨免職は難しい気もするが、当局は過去の講義内容も調査するとしており、似たような件が明らかになれば、免職もありうるだろう。

結局、6カ月の減給くらいに落ち着いてしまうのであれば、この男は、そんな処分で済んだとして、また似たようなことを仕出かすに違いない。

文字通り、厳正な処分で臨んでほしい。笑い事ではない。
今後のなりゆきを見守りたい。

Hukuoka


Hukuoka2


Photo
※このFBの写真は、現在削除されています。

2015年7月20日 (月)

映画 『麒麟の翼』

監督:土井裕泰(どい・のぶひろ)、原作:東野圭吾、脚本:櫻井武晴、撮影:山本英夫、編集:穂垣順之助、音楽:菅野祐悟、出演:阿部寛、新垣結衣、中井貴一、2012年、129分。

 

前から気にはなっていたが、主演の阿部寛、中井貴一、溝端淳平の三人とも嫌いなので、敬遠していた。実際、あまりい演技をしているとも思わない。

 

むしろ、脇を固める俳優陣と、みごとな脚本によって救われている。

原作がおもしろく、脚本とカメラがしっかりしていれば、出演者が大根でも、みごとな出来栄えになるという見本だ。

 

日本橋の欄干にある麒麟の像のそばで、初老の男が、腹にナイフを突き刺されて倒れる。

捜査本部では二人の刑事、加賀( 阿部寛)と松宮(溝端淳平)が中心となって、聞き込みを始める。

 

事件直後、現場近くから、八島冬樹(三浦貴大)は、同居する中原香織(新垣結衣)に電話をし、「大変なことをしてしまった」と話すが、警官に見つかった八島は逃走し、トラックにはねられてしまう。・・・・・・

 

原作は、東野圭吾の書き下ろし小説である。

 

原点に忌まわしい犯罪があり、それを世間に知られることなく、苦しみとともに背負っている人々が、ある一件を契機に、今になって、その過去を暴かれていく。

この作家の作品はこういうものが多いのだろうか。

 

映画化は難しいと言われていた。小説をを映像にするのは、何でも難しいだろうが、ストーリー仕立てのものをそのまま時間を前後させるなどすれば、脚本は何とかなるのだろう。

問題は、心理ドラマのウエイトが高いこうした作品などは、そこまできちんと映像化できるかが、監督の腕なのだ。

 

この映画を観終わって、同じ原作者の映画『白夜行』を思い出した。

同じような流れをもち、小出しにされていた不審や疑惑は、細やかな枝葉もきちんと回収されるなど、本作も『白夜行』と似て、まずまずの出来ではあると思う。

 

だが、これだけ似たような作品でありながら、『白夜行』と違う何かを感じずにはいられなかった。

カットも細かく切り、うまく編集してあり、脚本もカメラも充分に的確に動いている。技術的に特に問題もなく、そういう点で批判するところはないのだ。

 

そこで、二人の監督について調べてみた。『白夜行』のほうは、その日記のときに書いていたが、監督について再度調べ比較してみた。

 

『白夜行』(2011年、配給:ギャガ)の監督は深川栄洋(ふかがわ・よしひろ)が34歳のときの作品であり、こちらは土井裕泰が47歳のときの作品だ。

 

年齢はあくまで参考だが、この二人には、背景に大きな違いがある。

深川栄洋は、東京ビジュアルアーツ映像学科映画演出専攻出身で、自主制作映画や短編映画を監督し、監督としてのメジャーデビューは30歳ころである。

 

土井裕泰は、早大在学時、劇団で活躍し、現在、TBSに在籍するテレビディレクターで、当然、テレビ作品が多い。こちらの映画の配給は東宝である。

 

私は両者ともに原作を知らないし、『白夜行』でも、不可解で行き届いていない描写もある(ラスト近く、刑事が亡き息子の姿を犯人の男に重ねて慟哭するあたり)が、映画というものの味わいや余韻を残している。女児への姦淫が、ストーリーの根底にある。

 

本作は、プールでの事故とその関係者の負い目がストーリーの軸であって、刺された男の公私の生活をうまく交差させているが、誰かにせっつかれた書き下ろし作品なのか、小手先仕上げのようなストーリーであって、計算問題の答え合わせをしているようで、映像化されたにしても充分に楽しめないのだ。

 

でこぼこは平にする、散りばめた不審物は回収処理する、ここはカメラをこう動かす、・・・といった基本はみごとにきちんとしているが、それだけに、喩えれば、きれいなカラーの昆虫図鑑の写真を見ているようで、昆虫そのものがいないのだ。

 

内容の重さに違いがあり、一概に比較できないのだが、この二作品だけなら、間違いなく『白夜行』に軍配を上げる。




11751732_880504865372161_6643212430




11752327_880505002038814_4991813520








一枚の写真から

これは、ある方からいただいた写真だ。ところは北海道某所だ。
網走方面へ、バイクで移動中とのことだ。


見た瞬間、虜(とりこ)になってしまった。



バイカー同士は、知らない者同士でも、峠道などですれ違うとき、手を挙げて挨拶することがあるという。

これは、同じ会社同士のバスがすれ違うときにも見られる。或いは、会社が違っても同じ路線のバス同士であれば、すれ違うとき手を軽く挙げている。

しかし、多少とも商売の絡むような挨拶ではなく、全く見知らぬ者同士の瞬間的挨拶というのは、純粋でほほえましい。

高山に言ったとき、宮川の河辺を歩いているとき、すれちがった中学生から、いきなり「こんにちは!」と言われたときの感動と同じだ。



思えば、バイクの免許をとろうと思ったときもあった。
友人に、柄にもないからやめとけ、と言われて、ついぞバイクには縁がない。
うしろに乗ったことはある。



学生アルバイト(当時はまだ、バイト、という省略形はない)を、ホテルニューオータニでしているとき、友達になったヤツは、適度なワルであった。イタズラ好きであった。

仕事はルームサービスであったが、ワゴンが二台になると二人で運ぶ。厨房からの専用のEVで客室まで行くのだが、高層ホテルでもあり、その途中で、サラダに付いているサラダ菜を一枚食べるといったようなイタズラだ。
サラダ菜を食いたいのではなく、そういうスリルを味わい、人に見せたい、ということだ。


ソイツは八王子に住んでおり、赤坂まで、たまにバイクで来ていた。
今日はうしろに乗せてやるというので、駐車場まで行くと、そこには戦車のような怪物があった。

750ccという。その上にそのまま寝れそうな大きさだ。
色は黒で、新品に見えた。中古としてもきれいだ。

ヘルメットをつけて、走り出す。ほとんど揺れない。
赤坂の街中を、ゆっくりと走り抜ける。左折・右折時にも、みごとな安定感だ。もう、自動車だ。
しかも、音もしない。停止していても、わずかにシャシャと聞こえるくらいだが、走り出すときはブルブルと爆音を発する。

一人で高速をぶっ飛ばすこともあるという。時速200kmになるときもあるという。そういうときは、ハンドルを握る両手が、風圧で固定されるようだという。



こんなビッグサイズとまで行かずとも、250ccくらいでも充分なのだろう。
ひとりでひょこひょこ歩き回るのが好きなので、バイクに乗れていれば、行動半径も広がったことだろう。当然、写真のシャッターチャンスも増えたはずだ。

そして、北海道はムリとしても、どこかを走っているとき、フォトのように、見知らぬ仲間と、ピースのサインを交換していたかも知れない。



以前の職場で、バイク通勤の教員がいた。バイクで突っ走っていると、車とは違った風景が見えてくる、と言っていた。(生意気な!)

少し前にやめた女子スタッフはバイク乗りであった。長髪だがちょっと男っぽいところもあり、雰囲気は黒木メイサであった。(ほめ過ぎ!)



まあ、しかし・・・たしかに柄ではないなあ。

快適なご旅行を!



 
15773290_2166351395_138large_2





2015年7月14日 (火)

ツイッター復活を決心した経緯 (2015年7月14日)

<ツイッター退会に至った経緯>

今月(7月)に入ったころ、2回ほど、あるツイートに、アレは削除したほうがいいのでは?という返信が、他のものと混じって書かれました。
しばらくして、さらに1回、アレはなりすましのようだから、削除したほうがいいのでは?という返信をもらいました。

アレというのは、先月(6月下旬)、札幌で、ある未成年女子が安保法制を批判した記事と写真(電車内でおじさんを痴漢犯人に仕立てた、というツイートのスクリーンショット)が横に並んだ一枚の写真になっているもので、それを使い、自分なりの言葉を付けてしたツイート、です。

大勢の人が、それを使って拡散しており、すでにこの女子を含む団体について拡散していたので、今さら私まで拡散する必要もないかなと思いましたが、まだ知らない人もいるかと思い、ツイートしました。

これについては、同女子の名前の前に、パンスケという語を付けていました。パンスケとは、もとパンパンという語で、戦後間もないころ、街頭で、特に進駐軍相手にからだを売っていた日本人女性のことです。今では死後になりましたが、知っている人は知っています。

インパクトのある語なので、ときどき使っていました。サヨク(国体破壊者)に対しては、たまに勢いづけの意味もあって、いわゆる汚い言葉をわざと使う場合がありました。ペン乞食、クソビッチ、うじ虫野郎、クソばばあ、売国ジジイ、半島土人、などがそれです。

一回目に、削除したらどうですか?と言われたときには、まだそれがニセモノと知らず、そういう証拠もないので、偽者自体が本人かも知れない可能性もあり、そのままにしました。やがて、別人のなりすましであることを当の別人本人が白状していることを知りました。

今月4日に、メッセージが3件届きました。
うち2件は、あのツイートは削除したほうがよいのでは?というものであり、1件は、何かあれば助っ人に立つ、というものでした。

どの方にも、誰がどこで何を言っているのか・どう書かれているのか、を尋ねませんでしたが、要は、上記女子と関連ある某集団が、その集団の大黒柱である弁護士を焚きつけて、私を名誉毀損で告訴するべしと息巻いている、ということのようでした。
それで、フォロワーの方々が心配して、メッセージを送ってくれたのです。

多くの愛国者が、アレを拡散し、なりすましとわかっても、まだ削除されず、あるいはなりすましということを知らぬまま、拡散しつづけてましたが、私はトラブルは嫌いであり、そんなことで張り合うつもりもないので、ここへきてアレを削除しました。ついでに、某集団の固有名詞が出てくるツイートは、今年1月にまで遡って削除しました。

削除しても、魚拓を取られていれば残りますし、あるサイトから、取り消したツイートを含め、過去のツイートを見ることもできます。
ただ私は、単純に、トラブルがいやなだけでしたので、とりあえず、相手が見ているだろうことを前提にして動いたまでです。

弁護士といえども、原則的には、原告が未成年の場合はその親権者の申し立てによってしか動けず、個人的動機で他人のために誰かの個人情報を手にすることはできません。つまり、弁護士の恣意で、個人情報を取得するなどできないわけです。警察の捜査の場合は、そのアカウントのIPアドレス、PC・携帯などの端末の記録などから、本人を特定することができますが、弁護士だからといって何でもできるわけではありません。

ただ、不法な行為をおこなう集団というのは、どこで誰にツテがあるかも知れず、どういう手段で私にアクセスしてくるかわかりません。今では大袈裟だったと思いますが、多少、身の危険を覚えたのも事実です。

連中なら、法廷に出かけることは、「よくあること」のひとつなのでしょうが、私自身は一介のサラリーマンであり、万一にも、告訴されるなどということで、法廷以前の段階で、すべてが世間に知られうることのほうを避けたい気持ちが強かったわけです。

もともと、ツイッターは、登録後しばらくは、リツイートのほうが多く、ログイン自体もたまのことでしたが、民主党政権に対し愛国者が批判する姿勢を見、保守政権に戻すべく力を入れ始めたのは、2012年になってからです。

その年の2月、先ほどの某集団のある人物が、私のアカウントを凍結させようと動き回っていました。文言を信用するなら、ツイッター社にもメールしていました。
これは実際に、私がこの目でそのツイートを見ているので明らかですが、結果的に一週間経ってもひと月経っても凍結はされませんでした。実際、凍結に値するようないわれはありません。

おそらくこのあたりを契機として、私の名前は、あちら側に広がったと思われます。
その後連中は、ほとんどが私をブロックしていたので、中のようすはわかりません。私がどれくらいインフルエンシャルな(影響力が強い)のか意識したことはありませんが、ツイートがRTされるのはうれしいし、結果的にフォロワーが増えていくことに、密かにやりがいのようなものも感じていました。応援してくださる方もでき、下は中学生からも慕われ、うれしい限りでした。

もともとRTが多かったので、オリジナルのツイートはあまり政治に関しないものが多かったのです。途中からは、サヨク批判のためにはオリジナルをツイートすべきと思い、そう心がけてきました。
しかし、これも次々にというわけにも行かず、自分のしたツイートでも、これは大事だというものは、繰り返してツイートすることにしました。また、ブログのURLをツイートすることもあります。
繰り返しのツイートは顰蹙を買うかと思っていましたが、フォロワーの方から特に異論もなく、むしろ、初めて接する人もいるだろうから続けたほうがいい、という励ましもいただきました。

某集団やその周辺の人間にとって、こういうふうに動く私が「気に食わない」ということなのでしょう。だから、「潰そう!」「訴えよう!」という脅しをかけてきたものと思われます。

こちらに、ほとんど非はないと判断しますが、相手は不法行為を繰り返している集団なので、厄介ごとに巻き込まれるということ自体がいやであり避けたいところなので、放置することもせず、それならばと、退会(アカウント削除)することにしたのです。

<ツイッター復活を決心した経緯>

7月10日(金)の午後9時過ぎを期限にしていたので、そのころ退会手続きをしたところ、初めて知ったのですが、ツイッターでは、アカウント削除後30日以内であれば、復活できるとのことでした。
いままでどおりふつうにログインすれば、それで復活となります。30日経過すると復活できなくなり、新たなアカウントが必要とのことです。

それらしい噂を初めて知ってから二週間、一連のツイートを削除してから十日余りが経ちますが、身辺に何も起こらず、不審な電話や訪問者もなく、訴状や手紙なども届いていません。どういう文言だったかはいまだに知る由もないですが、やはり脅しの一環だったのだろうと思われます。

たったその程度のことで退会を決めたのか、情けない人だ、被害妄想じゃないのか、という方もいるでしょう。
しかし私はいまだ、一匹狼の右翼ではありません。
相手が見えず、想像を巡らせばいろいろな可能性がありうる段階では、一市井の人間としてはやむを得なかったことと、理解していただくしかありません。

30日以内なら復活できる、というのは、私企業であるツイッター社にとっては顧客は多いに越したことはない、という前提でのことなのでしょうが、また、万一、一時の感情で削除したり、親しい人物が削除してしまったりといった場合を考慮しての救済措置でもあろうと思います。

私はこのどちらにも当てはまりませんが、退会と言ったとき、一部中高生を含む何人かの方が残念に思い、丁寧なメッセージをいただいたことを忘れません。

ツイッターを去るということで、フォロワーさんを置いていくような感覚に襲われたことも確かです。

もともとツイッターから離れるつもりだったので、もし再開するのであれば、そのまま戻ることにし、表記は変えるかも知れませんが、元のアカウント名でそのまま再開するつもりです。別名に変えたり、別人を装ったりする必要はありません。

一部の方には、Facebookに移ることをお知らせしましたが、併用していくからには、あちらは映画や音楽など趣味的なことを展開していければと思っています。Facebookも昨年6月に退会しているのですが、一年以上経つのに、そのまま復活できました。

ツイッター復活は、退会と同様、自分の意志です。
今後もどこかで誰かが、私のツイートや存在をおもしろくなく思って、脅しをかけてくるようなことがあるかも知れません。私を叩くのを肴に、自分たちのサイトで盛り上がるのかも知れません。
不法者・無法者とは、そういう者たちのことであり、論理や常識は通じません。芯の通った左翼なるものがいなくなったのと同様、真の極道も少なくなったようです。

自らの反省として、今後は、国会議員や作家など、広く名前を認知されている人物はそのまま実名を使いますが、それ以外の人物についてはよく考えた上で実名を使うことにします。
むしろ、実名を晒すことが目的の場合もあるのですが、そういう場合でも、脅しを呼びそうなときは避けるようにします。別途、メッセージで問われれば、お答えしようと思います。

不逞のヤカラを絡ませないために、しばらくはツイートを鍵付きにしようかとも思いましたが、ツイート非公開にすると、リツイートができなくなります。どちらをとるかですが、ここはやはり公開でいこうと思いました。

ついでながら、いい機会なので、以下、お知らせしておきます。

・常々、私のツイートにある写真は、無断で使ってかまわない、としてきました。今後も変わりません。誰かのツイートをRTしたり、それに手を加えて拡散できるのがツイッターのよいところです。
ただ、全文丸ごとコピペして、それをあたかも自分のツイートであるかのように見せることだけはやめてほしいと思うのです。そういう例は今までに一件あります。ことりん、という人です、同じ愛国側の人間ですが、これはモラルの問題であり、抗議のうえブロックしました。これは思想がどうとかいう以前の問題です。

・しばしば指摘してきたとおり、愛国側にはたくさんの似非愛国者がいます。一見すると、その姿勢はほとんど愛国者なのですが、ツイートのタイムラインをずっと見ていくと、自分の言葉であったとしても、ブログや動画などどこかで誰かが言ったことを、そのままパクったり、多少言葉を変えてツイートしたりしているに過ぎないことがわかります。

同じ愛国者なので、ツイートの内容は同じようなものになります。ただ、自分で確かめたりした形跡が感じられず、やはり、他人のコピペの改変に過ぎない場合が多いです。つまり全体に、軽い印象のツイートが多くなります。

・昨年9月ころ、東京都豊島区東池袋5丁目のアパートをアジトにしている某極左集団から、仲間に入りませんか、という誘いを受けたことがありました。そのころ、この集団のことを批判的にツイートしていたので、逆に私を取り込もうと画策したのでしょう。ここはすでに二度にわたり公安当局の捜索を受けており、上記某集団ともつながりがあるとされています。
私を自分たちの一員に加え、うまく利用していければと考えたのでしょう。たしかにそちら側に付いたら、強い味方になったかも知れません。いかにも真剣な誘いでしたが、その手には乗りません。

私は若い世代が思想に目覚め、悩み考えるプロセスを見守り、応援していくつもりですが、左右に限らず、自ら学ばず、人の意見の受け売りだけに終始する者は、力のある思想には到達しないと思っています。

ココログブログのほうは、何の変更もありません。こちらは始めたときから、コメントは載せない設定にしています。アクセス解析によると、たまにNHKや朝日新聞、国立私立大学のPCからアクセスされているのがわかります。それでも、これらはいわゆる無法者とは違うので、全く気にしてはいません。

ニュースや保守系サイトからの拡散は、みなさんがおやりになっているので、なるべくそれらと重複しないような情報を、提供できたらと思っています。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

2015年7月12日 (日)

アニメ映画 『バケモノの子』 (2015年7月12日)

企画・制作:スタジオ地図、原作・監督・脚本:細田守、キャラクターデザイン:細田守、山下高明、伊賀大介、作画監督: 山下高明、西田達三、美術監督、大森祟、高松洋平、西川洋一、音楽:高木正勝、主題歌:Mr.Children「Starting Over」、119分、カラー、2015年7月11日公開。
声の出演:宮崎あおい(九太(きゅうた、幼少期)、染谷将太(九太、青年期)、役所広司(熊徹(くまてつ))、広瀬すず(楓(かえで))
身寄りのいなくなった9歳の少年は、親類の言うことに逆らい、渋谷の雑踏をさまよう。
警官に追われ路地に入ると、そこはバケモノの世界に通じていた。
一方、バケモノの世界では、次期宗師を決めるための決戦が近づいていた。
その侯補の一人である熊徹には子供がなかったため、熊徹はその少年を弟子にし、共に強くなろうとする。少年は9歳だったため、熊徹は彼を九太と名付けた。九太も強くなるため、熊徹の戦いぶりをまねていく。・・・・・・
背景は細かく丁寧に書き込まれ、アニメもきれいだ。キャラクターもそれぞれに際立ってはいる。
ただ、ストーリーとして、話の大筋はわかるが、内容を詰め込み過ぎて、広がり→回収、疑問→回答、という流れがなく、総花的な印象だ。
これは、際立ったキャラクター同士が、例えば、熊徹と九太が、相手と向き合う際にもつ感情を描き切っていないからだ。
9歳の九太が、熊徹のいる世界で、人間として成長していく過程は順を追って丁寧に描かれているものの、17歳になって以降の後半になると、バケモノの世界と人間の世界との狭間で揺れる少年の心はどこかに行ってしまい、少年の心の葛藤などは見えてこない。
熊徹が身を賭して、少年を守ることになるラストは、この作品の圧巻であり、そのあたりの処理や運びはよかった。
それだけに、後半の拙速な展開が惜しまれる。
途中より、人間の闇というのがテーマとして唐突に登場してくるが、これについても、もう少し踏み込んだセリフがどこかに欲しかった。
それでも、夏休みに向け、親子で気軽に楽しむにふさわしいアニメであろう。
Main_bg_fix
9ccf46e8s

2015年7月 9日 (木)

映画 『そこのみにて光輝く』 (2015年7月9日)

監督:呉美保、原作:佐藤泰志、脚本:高田亮、撮影:近藤龍人、照明:藤井勇、編集:木村悦子、音楽:田中拓人、主演:綾野剛、池脇千鶴、菅田将暉、2014年、120分。

終わって、観てよかったなあ、と思う作品である。近年まれに見る傑作だ。

同時に、よしっ!という感じであった。
日本映画は死んでない、と確信した。だが、監督は日本人ではない。

古くから、味のある作品を産むのは、監督から俳優まで共産党員によるものが多いが、最近は在日韓国人の作品も多いようだ。

呉美保(オ・ミボ)は在日3世で、韓国語を話せない。高校卒業後より本名を使っている。
佐藤泰志は函館市出身の作家で、何度も芥川賞候補になりながら実現せず、この作品でも三島由紀夫賞候補であった。その後、自律神経失調症に悩まされ、41歳で自殺している。

函館が舞台であるが、中心にあるのは、千夏・拓児姉弟の家である。
家は、函館のおそらく大森浜のはずれあたりにある漁村集落という設定だろう。この小さなバラック小屋のような木造家屋と、雑然としたその家の内外は、この作品に登場する人物たちの生活レベルを象徴している。

今は無職の達夫(綾野剛)は、パチンコ店で拓児(菅田将暉)に声をかけられ、誘われて拓児の家でメシをごちそうになる。
奥から出てきたのは千夏(池脇千鶴)であった。夏なのに閉め切られた襖の向こうには、うめき声が聞こえる。千夏らの父は、脳梗塞で寝たきりになっていた。その父が、母・かずこ(伊佐山ひろ子)を、しつこく呼んでいるのである。

ある晩、達夫が酒場をうろつき、酔っ払ってバーに入ると、千夏がいた。店の奥でからだを売っているのだった。
千夏は、拓児にバイト先を紹介した妻子ある中島(高橋和也)の性の相手もしていた。拓児は執行猶予中の身であり、中島がその後見となっていた。・・・・・・

この映画については、これ以上書かないほうがいいだろう。
大好きな池脇千鶴を目当てに、先日レンタルした数枚のうちの一枚で、たいしたことはないと思っていたが、観終わった感想は☆五つである。『寄生獣』も借りたが、こちらは始まって15分で切り上げた。

本作のキャッチコピー(「愛を捨てた男と愛を諦めた女。函館の一瞬の夏を舞台に、二つの魂が邂逅する。」)の前半は何ともおかしい。たしかにそうとも言えるが、映画のキャッチコピーには、あまり振り回されないほうがよい。

本作については、何の情報もなく借りたのだが、映画として秀逸だ。
観たあと調べてみると、数々の映画祭で受賞しており、いいものは皆、そう思うのだなと再認識した。どこかで見たな、と思ったら拓児は菅田将暉(すだ・まさき)であった。

日本では信頼のおけるキネマ旬報ベスト・テンで、日本映画ベスト・テン1位をとっているほか、監督賞、脚本賞、主演男優賞も受賞した。
日本アカデミー賞で、優秀主演女優賞、毎日映画コンクールで、日本映画優秀賞、男優主演賞、女優助演賞(池脇千鶴)、監督賞受賞となっている。

脚本賞は当然だろう。よい映画になるかどうかは、脚本のできばえに左右される。
脚本の高田亮は、ピンク映画、Vシネマ、深夜ドラマなど低予算映画で苦労してきた人物とある。若いときにポルノ映画・ヤクザ映画にかかわった俳優やスタッフが、中年以降いいものを作り出すという例がここにもある。

菅田将暉もいくつかの助演男優賞をとっているが、これに反対する者はいないだろう。なぜなら、菅田将暉の存在こそこの映画の背骨であり、演技がみごとだからだ。

冒頭、導入部で、自転車に乗る拓児と徒歩の達夫が、前後しながら拓児の家に向かうシーン。達夫には、触れたくない過去があるので、あまり話さないが、それだけに拓児がべらべらとしゃべりまくる。この素朴で爽やかでやんちゃなおしゃべりで、すーっと映画に誘い込まれる。
いかにも役に成り切っており、しかも演技に嫌味がない。

ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで注目されたらしいが、『共喰い』(日本アカデミー賞新人俳優賞)での演技同様、まだ22歳にしては徹底的に演技の出来る役者であり、若手では、池松壮亮と並んで注目できるひとりだ。
本作だけで、六つの助演男優賞を受賞している。

撮影の近藤龍人は『桐島、部活やめるってよ』を撮っており、手持ちと固定カメラの几帳面な使い分けによる効果が、ここでも見られる。
悲しい場面、重苦しい場面でも、アップを多用するという下品さがなく、生活感をとりこむようなフレーム切りをしているのもよい。

出演陣には他に、達夫の元の職場(岩石の発破職人)のまとめ役・松本に火野正平、千夏・拓児の母に、ポルノ出身の伊佐山ひろ子がおり、ストーリー・映像ともに、うまくバランスをとる役目となっている。

音楽はオリジナル・サウンドトラックであり、波の音などを入れる際には控えており、効果的に使われている。エンディングでも、それまでのムードをぶち壊すようなアホな歌は流さず、OSTが静かに流れる。

ほとんど社会の底辺というところでかつかつ状態で生きているところへ、さらにそれぞれが生活のために我慢を強いられ、過去の悲劇に縛られ、相手を見出すことで、何とか生きている。

映画では、似たようなストーリーは腐るほどあるが、それを陳腐なものにしなかったのは、舞台が都心ではないことのほか、人物の感性の位相をうまく互い違いにして畳みかける脚本と、それにきちんと応じた映像のなせるわざである。

さらに、あるシーンの人物の心情を、観客が見て理解するのに、どれくらいの時間がかかるか、…これなら3分くらい、これなら5分くらい、といった長さの感覚が、そのシーンの表現とともに適切なのである。

函館はよく、ロマンティックな場所柄として、あるいは、坂のある異国情緒ただよう街として、映画に登場するが、ここでは、いかにも原作者が函館の出身であるように、いわば土着のにおいがするのである。
観光の街、教会の街ではなく、漁師の街、潮騒の街なのである。

ロケも、市電、山上大神宮での祭事、夜の十字街など丁寧に撮られており、イカの塩辛をつくる食品工場などでは、立ち入った撮影も行われている。

拓児が、家に来た達夫に、ホタルブクロの鉢植えをあげる。さりげないやりとりだが、このホタルブクロの演出はその後にまで効いている。

201403movie06

Img_sokonominite_01


In_1405_hikarikagayakustill8_l

Detail_481_1416838616



2015年7月 8日 (水)

「一つのメルヘン」 (2015年7月8日)

ふと気が付いたのですが、ここ2年ほど、書物の活字から、離れていたようです。

20代30代前半くらいまでは、ワープロさえなく、情報収集はもっぱら、紙媒体でした。
今から思うに、紙媒体ほど、根拠を明らかにしてくれるものはなかったようです。

雨の日々ということもあり、紙媒体の生活に戻るには、ちょうどよいかと思い、しばらく、書物の世界に浸ることにしました。

多少の困難はあっても、安倍政権の意志は、必ず実現されていくことでしょう。
それを脇に見ながら、いっとき、昔の自分に戻ろうかと思いました。

とりあえず、こんな雨の日にふさわしいのは、これだよな、と思って引っ張り出したのは、『田園の憂鬱』です。
あとの二冊は買ってきたものです。

中原中也の詩集は、読んで置いておくうち、その後誰かにあげてしまって、これが4回めくらいの購入です。
「一つのメルヘン」は、初め、高校の教科書にあり、そこで中原中也の名も知ったのです。
「冬の長門峡」を知って、山口県・湯田温泉まで旅したのも懐かしい想い出です。

もう一冊は、新刊として並んでいたものです。

私は、ある時期から、複数の本を同時進行で読むという読書法になりました。

そのうち、どれか読み終わると、それに関連するものへと、自然に関心が動きます。そうすると、棚から引き抜いてそれを読みます。思想や哲学の本も同じことです。

電子文字や音声から、少し遠ざかる時間をもちたいと思います。
映画もよく観てますが、文字でしか表せない芸術があるのも確かです。

48430274_2164646629_253large


48430274_2164646631_227large_2



48430274_2164646627_27large


48430274_2164646624_141large


48430274_2164646621_132large


48430274_2164646616_192large

2015年7月 4日 (土)

安保法制不成立で喜ぶのは、シナだけ (2015年7月4日)

安保法制は、この秋には、間違いなく成立するだろう。

 

当初、通常国会の会期内、つまり6月中に衆議院通過と言われていたが、野党の要求もあって、会期を延長した。

 

集団的自衛権の解釈変更閣議決定から1年以内に法整備することはできなかったが、会期延長は安倍政権も織り込み済みだったろう。

 

強行採決そのものは、いつでもできるのだ。なぜそれをしないのか。

与党の懸念は、参院選にある。

 

 

審議時間は充分にあった。

安保法制のためだけの特別委員会を設置し、各回ごとに売国・民主党などに、全時間の2割近くも割くというサービスをした。売国政党は代案も新たな発想もないので、反対のための反対を、言葉や形容を替えて繰り返すに過ぎなかった。

 

それでも野党は、審議時間が足りないと迫った。会期を大幅に延長すれば、今度は会期幅が不満だと言って審議を拒否した。

 

これら一連の動きを、心ある国民は注視している。

野党をはじめ、売名を兼ねた壊し屋の有名人や、毎週国会周辺に湧く泡沫は、勢力になってはいない。

 

60年安保の際、左翼運動の中心は学生であり、彼らには、アメリカとは縁を切れ、という根底的思想があった。だから、とりあえず、学生中心に、物量として大きな勢力となった。左翼学生が大学間で連絡を密にし、連携して動いた。

 

それでも安保条約は承認された。

ひとりの学生が死んだが、本人もそれくらいは予想していたことだろう。辺野古でも同じである。

 

 

今のサヨクも、根本は同じだ。その思想を徹底するあまり、革マル派は共産党を見放したくらいだ。

 

ただ、そこに集まる人間は、今や学生だけではなくなった。学生は若いから目立つだけである。むしろ、今のサヨク(国体破壊者)は、老人集団である。

 

姿を見せないが、過激派やサヨクのほとんどのメンバーは、中年以上の人間、さらに老人と言われる世代である。左翼の子はサヨクになる。

 

この旧左翼の老人たちが、奥の院にいて、末端の行動を計画し、資金も提供している。

当然、これら旧左翼に、公安が付いているのは明らかだ。

前科があろうと取調べされただけであろうと、本庁のデータにはいろいろ残っているはずだ。

 

 

政権とは権力だ。

もしあれが映画なら、脚本はあまりよくなかったのだが、中核派・京大大学寮への家宅捜索の顛末に、端的に現れている。

 

少し前、ある会見で、安倍首相が「椿事件」という言葉を口にした。同様に、菅官房長官が、「放送法」という言葉を出した。

間抜けな記者に通じたかどうかわからないが、こういう言葉を権力側が口にすること自体、それなりの強い意味があるということだ。

 

審議時間を尽くした上で強行採決をしたところで、政権支持者は間単に政権から離れるとは思えない。むしろ遅きに失したと思うくらいだろう。

 

 

岸首相のときのように、安保法制が成立したからといって総辞職する必要もない。

 

目標は憲法改正である。これは首相自身が忘れるはずがない。先の衆院選での公約でもある。

むしろ、安保法制成立を契機に、参院選での政権支持を、広く国民にうったえるようになるだろう。

 

米軍基地はいつまで日本にあるのか、自民党はいつまで公明党と連立を組むのか、・・・保守側にも本望としないところはいくらでもある。

ただ、一度に何でも解決できない。

 

政治とは(つまり、国民生活とは)、歴史を引きずり、国内国外に相手のあるなかで、より国益に沿う選択をすることだ。

 

理想論、空理空論、観念論だけに終始すれば、共産党、革マル派、似非保守に成り下がってしまうのだ。

民主党などは、こうした例にも挙がってこない。共産党、革マル派、似非保守は、一応何か言っているのが聞こえるが、民主党は、何を言っているのかさえ聞こえない。聞こえてくるのは騒音だけだ。

 

 

安保法制が成立することで、シナに対しては、一定の脅威となる。

 

大東亜戦争で、日本人の戦い方は世界に知られた。

その日本に、強くなってほしくない国や売国奴がいる。

 

安保法制の成立は、日本国の強いことを、日本を舐めたらまずいのだということを、国内売国奴を黙らせたということを、シナと半島に知らしめるという副産物的効果もある。

 

そして、この効果は、シナ・韓国を除く東南アジアほか、世界の国々から賞賛されよう。

 

 

 

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »