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2015年5月17日 (日)

映画 『人間の條件』 (2015年5月17日)

監督:小林正樹、原作:五味川純平、脚本:松山善三、小林正樹、稲垣公一、撮影:宮島義勇、音楽:木下忠司、主演:仲代達矢、1959年1月(第1~2部)、同11月(第3~4部)、1961年1月(第5~6部)、計9時間31分(第1部~第6部)、モノクロ、松竹。DVDは各部ごとで計6枚となっている。

一週間かかって観終わった。
五味川純平の『人間の條件』(三一新書、1956-58年)を映画化した作品。五味川純平は後に、『戦争と人間』(三一新書 1965-82年)を書き、これも山本薩夫監督により日活で映画化(1970~73年)されている。

戦時中、五味川純平は満州の製鋼所に勤務、昭和18年に27歳で召集され、同じく満州各地に行っている。小説家には違いないが、自身の経験を元に、これら長編フィクションを書いたと言える。

ちなみに、三一書房は共産党系出版社であり、出演する俳優人も、プロレタリアート劇団、文学座、俳優座、民芸などに所属している俳優である。戦前から戦後にかけての劇団や監督は、ほとんどプロレタリアートであり共産系である。

それにしても、『戦争と人間』のようにオールキャストとも言える出演陣であり、懐かしい顔も多い。特に、田中邦衛が自殺するひ弱な二等兵で出てきたり、原泉が軍人ばりの婦長を演じたりと、そういうシーンを見るだけでも楽しい。27歳の岩崎加根子、31歳の岸田今日子、37歳の高峰秀子も見られる。

『戦争と人間』はカラーで、伍代家という新興財閥が中心であり、関東軍も幹部中心で描かれ、女優の出番も多く、全体に画面が華やかである。

一方、こちらの『人間の條件』は、白黒で、梶(仲代達矢)という男の生きざまを中心に描かれていく。前半には妻・美千子(新珠三千代)とのやりとりも多く挿入されるが、召集されてからは軍内部や前線が舞台となるので、絵それ自体としては質素でおとなしく感じる。

ただ、こちらは横に広いスクリーンを使っており、セットを使った室内シーンの多い『戦争と人間』に比べ、多くのシーンでカメラが屋外にあり、映画としてのスケール感がある。
特に、遠景の描写がすばらしく、繊細且つ大胆な演出が効いている。

梶が労務の責任者として赴任する場所は、鉱山で中国人人夫が働いているところであり、その鉱山をいただく撮り方やフレーム切りがうまい。
屋外セットにしても、膨大な量の丸太が積まれた収容所など、相当の手間と費用がかかっているのがわかる。

密林を抜けるシーンでは、おそらく実際の密林であろうところを俳優たちが歩いていき、敵と遭遇するシーンでも、広大な台地での遠近を捉えるなど、実にリアルで、それだけに、その映像の広がりと深さに呼応するように、梶の心理の深さや正義感が浮き彫りにされる。

『戦争と人間』は、戦争状況を画面に映し出す映画であって、『白い巨塔』や、後の『華麗なる一族』のように、脚本に沿って事実を次々にシーンにして畳み掛けていく手法だが、それだけに、特定の人物の心の深淵に入り込むということがない。
莫大な資金を使いながら、ある意味、ゴージャス感だけで終わるのが、山本薩夫の短所でもある。

この映画の第一部冒頭は、梶と美千子との会話から始まる。この夫婦のあり方そのものが、当時の時代状況に対するアンチテーゼである。それでも、妻は妻としての言い分があり、順風な時ばかりではなく喧嘩もする。

中国人人夫に対する処遇などで憲兵からも目を付けられ、召集されると、上官からは「アカ」「赤化」などという言葉も聞かれる。梶はそのつど、誠実に前向きに(あるいは進歩的に)生きようとし、判断していこうとするが、そこには常にどうにもならない組織や規律といったものが立ちはだかる。
梶とは、そういう状況でも、自己の考えに誠実に、思い悩みながら生きていこうとする人物である。

総じて、実に重厚な作品であり、映画作品として高く評価できる。時代は戦争中から戦争末期を描くが、上層部の登場はなく、戦闘シーンは限られており、まさしく、梶という人間の生きざまを、徹底的に追い求めた秀逸な作品だ。
特に、第5部・第6部でこれが顕著である。

『人間の條件』『戦争と人間』とも、明らかに反戦映画であるが、年代からして『戦争と人間』では、南京大虐殺などという言葉も出てくる。
本作では、露骨な事実認定や統計などは会話に出てこない。梶の脳裏に常にある「本当にこれでよいのか?」という疑念のみが、物語の源泉となっている。

ある一件で梶が上官に呼ばれ叱責され、さらに梶が口答えするので、上官が「何が不満なのだ?」と尋ねると、梶はようやく「戦争そのものです!」と答え、殴られるシーンがある。おそらく、この会話のシーンは、原作も脚本も監督も、落としたくはなかったところだろう。

どんな映画にも、監督には、どうしても落としたくないシーン、言い換えれば、これこそ入れておきたいシーンというのがある。これは監督の身になってみればわかる。

山田洋次監督に、吉永小百合主演の『母べえ(かあべえ)』(2008年)という作品がある。映画自体も山田監督にしてはメリハリなく締まらない作品であった。笑わせるシーンも、寅さんシリーズのような軽快な笑いではなく、NHKのよくやるヤラセ的笑いで、見ていてもおかしくない。

そのラストシーンで、年老いた母べえ(吉永小百合)は病床に臥せている。見舞いに来た娘が、母が死ねば、既に獄死した思想犯であった父べえの元に行くことができるという意味で、お母さんももうすぐお父さんに会えるわね、と言う。

それに対し母べえは、「生きて会いたかった」とすすり泣く。しかも、カメラは吉永を映しながら、顔は向こうを向けたまま、こちらには向かない。
ラストの土壇場で、主演女優に究極の一語を言わせながら、その容貌を映さずじまいにして終わるのだ。監督として演出冥利に尽きるのだろうが、いくら監督取って置きのラストとはいえ、こういううったえかけは好きではない。

この『人間の條件』は、『戦争と人間』より前の作品でありながら、映画として重厚多彩な作品である。現実的な動きまで描写する最前線の戦闘シーンは、従軍した作者にしか描写できないものだろう。心理的な軋轢や葛藤も、やはり戦地に身を置いた人間だからこそ吐露できるのだろう。
作者はその現実を頭に焼き付け、辛くも生き延びたことを糧として、それを文字に表わした。
当然ながらに、こうした小説が生まれるのだろう。

戦争を云々、アカが云々という前に、映画として優れており、全編を通じてうったえたいことを、ストレートにうったえる力をもっている力強い作品だ。
内容的にも、あたかも日本が悪者である前提となって書かれ、歴史の総復習のような『戦争と人間』より、こちらの作品のほうが、人物描写、風景描写、心理描写において優っている。

蛇足だが、原泉はプロレタリアート劇団の出身であり、ここに出てくるほとんどの俳優も、調べてみれば共産党系であり政府批判の立場である。
したがって、そのよく知られた顔を、赤旗や選挙の際の公報などに使われているかもしれないが、彼らの多くは、どんなに仕事が来なくなっても、あるいは逆に、どんなに著名になろうとも、一般紙(特に反日紙)で、自らの政治的主張を述べることはない。

反日新聞に依頼をうけ、それを本人が承諾するから載るのである。本人が断れば事務所も拒否する。ましてや、共産党系の団体に支援の言葉を送ったり、その集会に列席したりすることは、俳優の本分としては、ふつうは避けるところであろう。

ここに出てくる多くの有名な俳優陣・女優陣は、政治に関心はあっても(誰しも政治には関心をもつべきだ!)、進んで政党機関紙や新聞に自らの左傾思想や反政府思想を述べることは慎んでいる。本来の職業を忘れ、いい気になっている者だけが、他の職業の分野の人たちからもてはやされるだけだ。

吉永小百合はじめ、映画の世界にも、若干そういうヤカラがいる。
そういうヤカラのおかげで、こうした質の高い反戦映画もただのアカ映画か、などと誤解され、その真価が隠されてしまうとしたら残念だ。
反戦的な映画も戦争映画も、映画としての価値を顧みられないまま、サヨクの代弁者のような顔をした有名人の印象の陰に隠されてしまうとしたら、何と罪つくりなことだろうと思うのだ。

戦争映画も、サスペンスやアクションと同じく、映画の一ジャンルである。
映画は映画として観られるべきである。今やプロパガンダ映画などというものはない。
映画は映画として楽しまれ、あるいは、映画として批判されるべきである。

その共同作業の一部を構成する俳優が、自らの本分を離れ、反政府を標榜してはばからないとは、それが歌手であれ音楽家であれ小説家であれアニメ監督であれ詩人であれ、とてもみっともなく貧弱な光景に写る。
それぞれの分野で、後進の指導や業界の革新などに当たるほうが賢明であり、それこそその分野でのプロというものだろう。

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