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2015年4月

2015年4月23日 (木)

高校生に、靖国神社参拝と遊就館拝観を (2015年4月23日)

平成21年(2009年、皇紀2669年)、靖国神社では、創立140年を記念し、「ヘイワ ト キズナ」と題して、遊就館一階で、特別展示がおこなわれていた。

靖国神社 御創立百四十年 遊就館特別展「矢弾丸(やだま)尽きるとも -我レ生還ヲ期セズ-」である。

これは無論、硫黄島の戦いを率いた栗林忠道陸軍中将の句、

「国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ口惜し」

からの引用である。

開催記念として、その出口では、冊子を頒布していた。

そこにいた係の女性によると、このたびの冊子には、拝観後の高校生の感想を、紙にして巻くことにしたとのことだった。

ひとつひとつの表紙には、細長い和紙が輪にして巻かれ、それには、遊就館見学後の高校生ひとりひとりの感想が、簡潔に書かれていた。それゆえ、巻かれている和紙の言葉は、みな違うとのことだった。

それは、集団で遊就館に見学に来た高校生が、使い道を聞かされたうえで、簡潔に何かひと言残すというものだった。たしか、セロファンで覆われていたので、見本品以外、中を見ることはできなかったと思う。

私の求めた冊子には、ご覧のような言葉があった。

英霊の姿や遺書などに接し、この関くんなる人物は、こう感じたのであろう。

最近では、靖国神社を参拝する高校生の姿も多く見られる。

去年夏には、先生らしき人が、中学生くらいのグループを率いて、遊就館の二階に登っていく姿もあった。
高校生や中学生が、拝観のあと、遊就館売店で、国旗や、国旗の卓上セット、書籍を買っているのもよく見かける。

日帰りで九段まで来られる距離の学校の生徒は、社会科見学の一環として、靖国神社を訪れてほしいものだ。
できれば、参拝後、遊就館に入り、見学してほしいと思う。

修学旅行で上京する高校は、民間会社の経営するテーマパークなどだけでなく、日程に、靖国参拝を入れてほしい。たいした手間をとるものでもない。
教師や学校側の意志と意欲の問題だ。

無知蒙昧の生徒には、ぜひ正確な史実を知らしめ、日本人としての先輩にあたるご英霊が、どういう生き方をしたかを、よく学んでほしい。

本日、4月23日、春の例大祭への参加として、山谷えり子参議院議員らが、靖国を参拝された。相も変わらず、反日メディアは、中国・韓国にのみ配慮した報道をし、最近ややおとなしくなった反参拝風を再燃させようと煽っている。

もう誰もその手には乗らないだろう。

おそらく、全く英霊やら靖国神社やらに無知無関心であっただろう一高校生をして、

「いまの自分たちを情けなく思う。自分も強い意志を持って、生きてゆきたい。」

と自覚させることができるのであれば、その意味でも、先人のありかたを知る機会は、ここ靖国にもあるのである。

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共産党の扇動に叙述トリック (2015年4月23日)

ミステリー映画は好きなのだが、推理小説はあまり読んだことがない。
推理小説には、叙述トリックなるものをしかけてある作品も多い。

叙述トリックとは、読み手の思い込みや錯覚を利用したトリックであるが、映画にも、視聴者の先入観や錯覚を利用したストーリー展開をもつ作品は多い。

小説でもそうかも知れないが、あちらこちらに伏線が張られている場合もあり、それが役に立つこともある。話の展開に連れ、いわゆる「伏線の回収」が進むが、視聴者を混乱させるために、回収されないまま残される伏線もある。

映画では多くの場合、「どんでん返し」と言われる結末が待っている。そういう作品は、さすがに完全なネタバレは禁物だ。

映画『情婦』を初めて観た人に、被告人・レナード(タイロン・パワー)の弁護を引き受けたウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)が、被告に有利な証拠をつかめず途方に暮れていたとき、突如ネタをタレこんできたいかがわし身なりの女が、まさかマレーネ・ディートリッヒ自身だと気が付く人はいないだろう。

『情婦』の原作『検察側の証人』を書いたアガサ・クリスティは、まさに叙述トリックの妙手であったと言われている。

映画ならおもしろかったで済むが、これが政党のプロパガンダに使われるとしたら大ごとだ。
日本共産党は、この、読者や聞き手の「先入観」「思い込み」「錯覚」を使い、巧みに受け手を操っている。

共産党執行部は、前線でキチガイ踊りをする連中たちと違って、頭脳明晰である。
今回の選挙のチラシひとつにしても、こうした叙述トリックが散りばめられているところも多い。

下に挙げた有名な画像、「ナイフを持つ人」のシルエットも同様だ。
円の中だけ見せられると、左側の人間が悪者であるが、全体像を見れば、明らかに右側の人間が悪者である。この画像では、これがメディアだとして、メディアを批判しているのだが、サヨクや共産党の説明も、これに似ている。

つまり、自分たちに都合のよいところだけ切り取って、そこだけを拡大して見せる、というやりかただ。これは共産党の常套手段だ。

数百人しか集まっていないデモでも、そこだけフレームいっぱいに撮って拡大し、それを新聞や自分らのHPに載せ、数千人のデモ隊だ、などと嘘の発表をすることもできる。「赤旗」や売国新聞がよくやることだ。世間には自分たちの勢いを誇示し、仲間には士気を高めるために使うのだ。

政治というのは、今日に至るまでの歴史を引きずっており、相手があり、何をするにも、必ず賛成と反対が生じる。
そこで、特に保守政党の場合は、国益を重んじ、重大な決定をしていかなければならない。時間の制約もある。

集団的自衛権の問題もそうだ。
去年、9条の解釈変更が閣議で決定されたとき、サヨクは騒ぐと思ったが、私も初め、意外に感じた。

そんなことができるのか、でなく、暗黙に思っていた前提、即ち、日本は憲法9条により、自衛隊は「必要最小限度の実力」であり、個別的自衛権しか持てないという考えで、疑問に感じることなく今日まで来ていたからだ。

そのように学校で習い、教師時代、公民や政治・経済を教えるときも、そのように教えた。そして当時、それを疑問にも思わず、また不満があるわけでもなかった。

そのころまでに、自衛隊への違憲訴訟が相次いでいた。多くの合憲判決のなかに、たまに違憲判決があると、こういう判決があった、と新聞を切り抜いて資料として授業で使ったこともある。

ただ、自衛隊に関するいろいろな判決のなかで、「統治行為論」の考えは、その後から今日まで強く記憶に残っている。
「統治行為論」とは、国家の統治に関する事柄については、司法は介入できない、とする判断だ。砂川事件上告審判決(最高裁昭和34年12月16日大法廷判決)での初判断以降、後に下級審でも援用される。

長沼事件控訴審判決(札幌高裁昭和51年8月5日判決)でも「統治行為論」が使われたが、その一審(札幌地裁昭和48年9月7日判決)では「統治行為論」は採用されず、自衛隊は違憲とされた。
この一審判決のとき、左翼は喜んだが、違憲判決を出した当の札幌地裁の裁判長は、その後、いわゆる出世街道からはずれていった。自民党長期政権だからこその話だったろう。

「統治行為論」を採用され、満足のいかない判決を受けた左翼陣は、司法の責任放棄だとコメントしていた。
だが、この「統治行為論」は、裁判所としては、ある意味、とても勇気のいる判断であったろう。そして、今日でも私の賛同する考え方だ。
(地裁レベルで、原発再稼働に可なり不可なりの判決が出てまちまちだが、そういう案件は統治行為論として片づけるべきと密かに考えている。)

しかしこれらはいずれも四半世紀近く前のことだ。
今や、国際情勢は当時とは全く異なっている。
そして、何ら疑問に思うことなく自明のこととして思ってきたことが、安倍政権の閣議決定により覆された。
大きく視野が開けた瞬間でもあった。

トリックは、辺野古でも使われている。

何のために、米軍基地を普天間から辺野古に移設することになったのか、その経緯を語らず、その意味を隠して、ただ、海が汚れる、サンゴやジュゴンを傷つける、だから反対しよう、などとだけ呼びかけるのは、虚偽の喧伝だ。

カネで買収した人間や共産党や過激派は別として、一般への世論操作のために、こうしたトリックを使うのは卑怯千万だ。
沖教組やその元教員が、現役の組合教師と結託して、下は幼稚園児から上は高校生にいたるまでの生徒たちに、こうした「切り取った部分」だけを強調し、嘘を吹き込んでいる。
東京都町田市にある和光学園も同様だが、こうした方向に傾く学校は少なくない。

「戦争」という文字を、活字にし、ゴチックにし、この言葉から想起するイマジネーションを使うのも、いつもの共産党の常套手段だ。
戦争という言葉を中央に置き、それに巻き込まれる可能性があるから、集団的自衛権には反対だ、という。
辺野古の海の写真を中心に置き、そこの生物の生態だけを取り上げ、基礎工事がまるで、象牙を手に入れるためにむやみに象を殺す野蛮人のしわざと同じであるかのような見せ方をする。

集団的自衛権も辺野古移設も、共産党特有のトリックで片づけ、あとの責任はとらない。
戦争にならないために必要、という発想は出てこない。(仮にわかっていても、そう言わない。)
戦争になるから不必要、という発想しかない。
そして、その似非セオリーの周辺をぐるぐると回り、オウムのように繰り返し、人々を悪しき誤解へと洗脳するのである。

テロ政党と揶揄されてもしかたがないほどに、共産党は戦後、中核派・革マル派と同様の事件を起こしてきた。政党そのものが、公安調査庁や警視庁公安部、全国警察本部警備部(公安)に監視対象とされているのは、日本共産党だけである。
公安調査庁では、共産党のめざす革命は、暴力革命である、と断言している。

宮本顕治はそもそも、仲間割れした同士を殺し、遺体をアジト床下に隠した一味の一人であり、その「粛清」という名の殺人は、方法論として・伝統として、受け継がれていると考えるべきだ。
殺された者ら仲間割れした二人は、拷問として、陰嚢を錐で何度も突き刺され、頭から硫酸をかけられ、後頭部を薪割で殴られた。
これが彼らの革命への道なのだ。

こんな男が、戦後、GHQによる、日本人からの日本精神骨抜きという思惑もあり、自由な活動を開始し、戦後、共産党トップとして君臨しつづけたのである。

共産党が常套手段とするのは、「そこだけ切り取って見せる」トリック、言い換えれば「それ以外は隠して見せない」トリックである。
こんなトリックに引っかかることはない。引っかかりそうな気配のある者には、注意喚起が必要だ。

風前の灯となった社民党は共産党にすり寄っている。同じく民主党も力を失っている。
このこと自体は喜ばしいことだが、その分の議席が、そのまま共産党に替わるのであれば意味はない。

共産党自体は、宮本書記長全盛時のような勢いはない。
「赤旗」の読者や党員も減ってはいる。

ただ、結束力は固く、勢いを削がれた分、「一点共闘」と称して、手を結べるところとは、過激派であろうと、死に損ないの政党であろうと、無所属であろうと、手を結ぼうとしている。

「一点共闘」とは、原発、消費税、米軍基地、河野談話など、国政にかかわる問題一切について、一致点をもつ勢力とは、どことでも共闘する、という意味である。

保守の真の敵は、共産党である。似非保守は相手でない。

そもそも万年野党のヒトリ猿、共産党が、「左翼」から「サヨク」に堕した現在、また、保守安定政権が見込める現在、これをさらに委縮させるのは、そんなに難しいことではないと思う。

※叙述トリックの例:
「騙されました。ネットで見かけた秀逸な叙述トリック大集合(http://matome.naver.jp/odai/2136925179201287701)」より。

(1)

「ちょっとスチュワーデスさん!席を変えてちょうだい」
ヨハネスブルグ発の混んだ飛行機の中で、白人中年女性の乗客が叫んだ。
「何かありましたか?」
「あなたわからないの?黒人なんかの隣には座りたくないのよ!こんな人迷惑だわ」
女性の隣では、黒人男性が憮然とした顔で座っている。

「お客様、少々お待ち下さいませ。空いている席を確認してきます」
乗務員は足早に立ち去り、周囲の乗客はざわざわと不穏な空気。
しばらくして乗務員が戻って来た。
「お待たせしました。ファーストクラスにひとつ空きがありますので、どうぞそちらへ。
本来ならこういうことはできないんですが、隣の席がこんな人では確かに迷惑でしょうと、
機長が特別に許可しました。さ、どうぞ」

周囲の乗客は、にこやかに黒人男性を見送った。

(2)

「一体、どうすればいいんだ」
私は死体の隠し場所に頭を悩ませていた。
あと三十分もすれば人がここに来ることになっていた。
それまでにこの問題を解決しなければなるまい。

タンスやクローゼット?残念ながらそんなものは存在しない。
むしろ、そんなものがあるのならこの私が逃げ込みたい程だ。
だが、そんな事をすれば辛酸の思いを経て生み出した
私のアリバイトリックが全て無駄になってしまう。
外に運び出す時間はない。けれども、死体を部屋から消し去ってしまわなければならない。

 ドンドン
扉が叩かれた。ビクリと肩を揺らし私は玄関を振り返る。
予想よりも早い。だが、彼女に限って言えばそれは決して珍しいことではなかった。
「私です。居ないんですかー」
彼女の明るくほがらかな声が、ヒステリー女の金切り声に変わることを私は知っている。
そして、地獄よりも苦しい追い込みを味あわされるのだ。
だが、それももう仕方ない。タイムリミットはとうに過ぎていた。
私は腹を括ると大声で叫んだ。

「原稿ならまだ出来てないぞ!」

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2015年4月19日 (日)

アニメ映画 『言の葉の庭』 (2015年4月19日)

監督・原作・脚本・絵コンテ・撮影・編集:新海誠、音楽:KASHIWA Daisuke、声の出演:入野自由、花澤香菜、主題歌:秦基博「Rain」、2013年、46分。

新海誠は他に、『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』などで知られるアニメ作家である。『氷菓』の日記で、背景がきれいなアニメとして、マイミクさんに教えてもらい、初めて知った。

さっそくこれら三作をレンタルした。『秒速5センチメートル』と並びこのアニメも、とてもアニメとは思えないほどの美しい映像で、アニメもここまできているのかという驚きを禁じ得なかった。

『秒速5センチメートル』の映像美やセンチメンタリズムには共感したが、私は「映画」として観てしまうので、ドラマやエンタメ性は味わえないままであった。というより、そういったものは初めから捨象されていたかのようであった。
これに比べれば、『言の葉の庭』は、映画としても秀逸な仕上がりになっている。強めではないがドラマ性もあり、核があるから周辺の曖昧さも生きてくる。

キャッチコピーは「"愛"よりも昔、"孤悲(こい)"のものがたり。」とあるが、万葉集には、「恋」に、「古非」「古比」「孤悲」といった文字を当てた歌があるそうだ。「孤」は孤独を意味し、「悲」は文字通り悲しみを意味しているのだろう。

高校1年で15歳のタカオ(秋月孝雄、あきづき・たかお)は、雨が好きで、年よりは少し大人びた実直な性格をしている。

朝の通学時、新宿で乗り換えるとき、雨が降っていると、一限をさぼって、わざと新宿にある広い庭園(新宿御苑)まで行き、東屋で靴のスケッチをすることにしていた。タカオは靴職人になるのが夢であった。

ある日、いつものように庭園に行くと、そこにはOL風の妙齢の女性が座っていた。しかし、脇にはチョコレートを置き、朝から缶ビールを飲んでいる姿に、とまどいと違和感を感じる。ただ、どこかで会ったような気もした。

タカオが消しゴムを落とし、女性が拾ってくれたのをきっかけに、言葉を交わし、その後会うたびに、少しずつ会話するようになる。女性がユキノ(雪野百香里、ゆきの・ゆかり)という名であることを知るのは、それよりずっと後のことであった。・・・・・・

雨の日の朝、二人はその同じ場所で何度か会うことになる。
後に明らかになるが、ユキノはタカオのいる高校の古典の教師であった。ある一件と噂に押されて、ユキノは学校に足が向かなくなっていたのだ。

二人が初めて会ったとき、ユキノはタカオに、次の歌を残して去っていく。これは『万葉集』の柿本人麻呂の短歌だ。女から男に向けて詠んだものだ。

雷神(鳴る神、なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇(くも)り 雨も降らぬか 君を留(とど)めむ

訳:雷の音がかすかに響いて、空も曇り、雨も降ってこないでしょうか。もしそうなれば、このままあなたをここに引き留めておくことができるでしょうに。

何度目かの出会いのとき、タカオはユキノに次の歌を返す。同じく、柿本人麻呂の短歌で、男から女に向けて詠まれている。

雷神の 少し響みて 降らずとも 吾(わ)は留(とど)まらん 妹(いも)し留(とど)めば

訳:雷の音がかすかに響くくらいなら、雨が降らなくても、私は留まりますよ、あなたが引き留めてくれるならば。

俄かに豪雨になり、タカオはユキノのへやに行き、服を乾かしてもらうかわりに、料理を作る。そして終末を迎える。
ついに、二人は互いに、ホンネをぶつけ合ってしまうのであった。

冒頭からラストまで、ほとんどのシーンで雨が降っている。
洋画での雨もそうだが、特にかつての邦画で使われる雨は、多分に演出として使われる。悲しい出来事の前触れであったり、別れを暗示したりするほか、女の涙や恍惚を象徴している。それは演歌に出てくるときも同様だ。

しかし、この映画の雨には、鬱陶しさや湿気というものを感じない。多くの日本の映画で、雨がおよそ肉感的な道具や別離の象徴として使われてきたのに対し、この映画の雨にはそれを感じない。

雨自体が美しさやはかなさの象徴であり、それを背景として、二人の物語はゆっくりと前へ進む。雨の粒が、池の面に当たったり、木々の葉に当たったりする描写もみごとで、一つ一つの雨のしずくが輝いているように見える。

ある日、タカオはユキノに合う靴を作るとして、ユキノの足のサイズを測る。ユキノは裸足になってベンチの上に立つ。タカオが初めてユキノの素肌に触れる。この映画で、官能が描写されるシーンだ。

このシーンから、映画『天城越え』(1983年)を思い出した。中学生である少年(建造、伊藤洋一)がハナ(田中裕子)から、足指の股の擦れを手当てしてもらうシーンだ。他に比べると長いこのシーンは、少年が官能の扉を開けたことを象徴している。(参考:「映画『天城越え』」http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=48430274&id=1879321524

季節は、梅雨入りから、エンドロールでの雪の日につづく。
ひとり庭園に来たタカオは、ユキノのために作った靴を、脇に置く。

靴の製作だけに専念する一途な少年と、心に傷をもつ女性との淡い恋の季節を、静かに描き出した佳作である。

言の葉の庭 ~ 雨
https://www.youtube.com/watch?v=9eZW5OlbLKk
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2015年4月18日 (土)

映画 『チャイコフスキー』 (2015年4月18日)

監督:イーゴリ・タランキン、脚本:イーゴリ・タランキン、ユーリー・ナギビン、ブジミール・メタリニコフ、製作総指揮・音楽:ディミトリ・ティオムキン、指揮:ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、撮影:マルガリータ・ピリーヒナ、編集:レオニド・ネホロシェフ、ゾーヤ・ウェリョフキナ、主演:インノケンティ・スモクトゥノフスキー、アントニーナ・シュラーノワ、1970年8月、ソ連映画、カラー、154分、原題:Чайковский(チャイコフスキー)、日本公開:1970年12月

当時、高校1年だったわけだなあ・・・封切直後に、有楽町の映画館まで行って観てきた。

当時、ソ連を代表するチャイコフスキー指揮者、ロジェストヴェンスキーが指揮をとるほか、ボリショイ・オペラ、ボリショイ・バレエ団、レニングラード管弦楽団など一流どころが出演・協力した映画である。
一度も会うことなく、チャイコフスキーに経済的な支援を送りつづけたフォン・メック夫人についても、丁寧に描かれている。

プロローグとエピローグに挟まれた二部構成となっている。

ピョートル・チャイコフスキー(愛称、ペーチャ、インノケンティ・スモクトゥノフスキー)は、新曲、ピアノ協奏曲第1番を、親友でピアニストのニコライ・ルビンシテイン(ウラジスラフ・ストルジェリチク)から批判されながら作曲していく。

フォン・メック夫人(アントニーナ・シュラーノワ)は亡き夫の跡を継いで、女手ひとつで娘を育てながら、商売を営んでいる大富豪であるが、知性的で賢明で芸術にも理解があり、特にチャイコフスキーの音楽には、早くから注目していた。
あるコンサート会場で、夫人はピョートルを遠くから見るが、二人は以降も手紙のやりとりをするのみで、実際に会うことはなかった。

デジレ・アルトー(マイヤ・プリセツカヤ)のオペラシーンや踊るシーンを挟みながら、デジレとの恋が描かれるが、その恋は終わり、学生であったアントニーナ・ミリュコーワ(リリア・ユージナ)としぶしぶ結婚する。だがアントニーナは品もよくなく、ピョートルにふさわしい妻ではなかった。
ピョートルはこれを悲観し、近くの川に入水自殺しようとするが助けられる。

フォン・メック夫人邸を訪れたニコライは、ピョートルの払うべき慰謝料や今後の生活費について相談し、夫人は承諾する。その直後、ニコライはパリで病死し、ピョートルは衝撃を受ける。茫然としたまま知人とパリの街中をさまよいカフェで話し込むうち、新たな創作の情熱が芽生える。

長い汽車の旅のなかで、自分の音楽に対する新聞の批判記事を読むうち、幻にフォン・メック夫人とやりとりした手紙の内容が回想される。
夫人は手紙を通じ、ピョートルを心から愛し、邸に招待するので会いたいと綴るが、ピョートルは、合わないほうがいいとして、断り続ける。

幾星霜を経て、夫人邸に雇われていた楽士にして秘書役のウラジスラフ・パフリスキー(キリール・ラヴロフ)は、夫人の娘と結婚している。商売は娘夫婦の預かるところとなり、夫人はピョートルに会えない心痛から神経を病んでいた。
ピョートルからの手紙は続いていたが、夫人は病いで字が書けなくなっていると聞いていたため、ウラジスラフ宛てになっていた。ウラジスラフはピョートルの手紙を、夫人に渡していなかった。

やがてピョートルは、交響曲第6番「悲愴」の作曲に着手する。
街中で偶然、ピョートルはウラジスラフに会い、夫人から手紙が届かない理由を尋ねるが、出世のために夫人を利用したあなたのせいで、夫人は病気になったのだ、と罵られる。

第6番の作曲は順調に進んだが、何か足りないという思いがあり、ピョートルは最後の部分を修正して世に出す。自ら初演を指揮したこの曲は観客の大喝采を浴び、ピョートルは英雄視される。その9日後に、彼は息を引き取る。

ラストに、プロローグに戻り、子供のころのピョートルの姿があり、次いで、白樺の林を歩く作曲家チャイコフスキーの姿が静止して終わる。

まさに、この修正した部分が、6番の第4楽章であり、悲劇のメロディーであることを暗示している。
交響曲が第4楽章まであるときは、最後の楽章は盛り上がって終わるのが常であるが、6番の盛り上がりはみごとなまでに3楽章でいったん終わり、最後に悲劇的な哀しい旋律を讃える楽章が付け加えられるという異例の形をとっている。
1楽章冒頭から悲劇的な主旋律で始まるが、4楽章もそのように終わることで、この交響曲は、まさしく悲愴となった。

自分の意志で、合わない方がほうがいいと決めたフォン・メック夫人に対する、ピョートルの心からの感謝と、心の嗚咽が託されているかのようだ。

この映画は、チャイコフスキーが、35歳から、逝去する53歳までの時期を取り上げている。
特定の時期のチャイコフスキーの作曲家あるいは人間としての姿を追った人生ものであり、メリハリを楽しむような映画ではない。
それだけに、上に出てきた以外にも、「花のワルツ」など随所に彼の著名な音楽がふんだんに流され、作曲家をモチーフにした作品ならではの豪華な出来栄えになっている。

フォン・メック夫人の最後には触れられていない。夫人は、チャイコフスキー逝去の翌年、1894年に亡くなっている。
夫人の側については詳しく描かれていないが、この映画としてはそれで妥当だろう。

明るく威勢のよい交響曲第4番は、夫人に捧げられている。夫人からの資金援助が始まったころであり、熱のこもった作品である。この映画でも、前半にBGMとして流されている。

これを初めてコンサートホールで聞いたとき、身震いしたものだ。割れんばかりの拍手というが、本当にホール自体が崩壊するような絶大な喝采というのがこの世にあるのだと知った一瞬だった。
チャイコフスキーは、本当に、楽器を鳴らすことに長けている作曲家であると思う。

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2015年4月14日 (火)

TVアニメ『氷菓』という空気感 (2015年4月14日)

原作は読んでないが、アニメ『氷菓』を通して観て、痛く感動した。
感動すると、それを分析してみたくなるのは私の悪いクセだが、その理由を手繰るのもまた格別だ。

TVアニメ版『氷菓』は米澤穂信(よねざわ・ほのぶ)原作の小説で、それをアニメ化したものだ。制作は京都アニメーションで、2012年4月~9月にTOKYO MXなど独立局やBS放送の深夜枠で放映された。

漫画版もほぼ同時に出され、キャラクターの容姿はTVアニメ版に準拠しているとのことだ。漫画版のキャラクター原案の段階から、京都アニメーションが手掛けている。漫画を描いたタスクオーナも、「アニメ化に合わせて始まったものなので、キャラクターデザイン他多くの点でアニメ準拠となっています」と書いている。

※作品に至る詳しい成り行きやあらすじなどは以下のサイトなどをご覧ください。
『〈古典部〉シリーズ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%88%E5%8F%A4%E5%85%B8%E9%83%A8%E3%80%89%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
TVアニメ「氷菓」オフィシャルサイト
http://www.kotenbu.com/

このアニメに出会ったのは、下のYouTubeがきっかけであった。
この物哀しいセンチメンタルな歌はいろいろな動画でアップされているが、これがいちばんマッチしており、これは何というアニメだろう、というところから始まった。
コメント欄を読むうち、『氷菓』というアニメであることがわかった。

YouTubeとレンタルで合わせて、DVD11巻全巻を観た。
この動画は、アニメ全編から、そこの歌詞に合うようなシーンをピックアップしてつなげているのがわかる。

[AMFS][AMV] Yume to Hazakura [夢と葉桜] - Kurenai (Vietsub)
https://www.youtube.com/watch?v=wkNrzrtIyLI
<externalvideo src="YT:wkNrzrtIyLI">

原作者は岐阜県出身で、高山市所在の岐阜県立斐太(ひだ)高校を出ており、登場する高校や風景、街並は、多分に高山市内のものが使われている。DVDには、製作者たちが高山市内をロケしている特典映像も付いている。

登場する喫茶店や川辺、神社などは高山市内のもので、このアニメのヒットをきっかけに高山市ではフェスティバルも催されたとのことだ。
そのようすを、何人かの人が、高山市の風景とともにブログに収めている。

原作者は、観光で訪れる人が高山に来て感じることとは別に、高山に生活する人が、そこで味わう感動を喚起したかったというふうな意味のことを言っている。

中心的な登場人物は、神山高校1年の折木奉太郎(おれき・ほうたろう)、千反田える(ちたんだ・える)、福部里志(ふくべ・ さとし)、伊原摩耶花(いばら・まやか)である。
主役は奉太郎だが、えるはヒロインとして中心にある。

高校生活という日常に起きるミステリアスな出来事を、主に奉太郎が読み解いていく。必ずしもミステリアスなことばかりでもないが、常にミステリーの香りを漂わせている。「氷菓」の意味も、あるミステリー解読の結末に語られる。

いわゆるイケメン男子とかわいい女の子が中心であるが、色恋は水面下に押し込められており、多少、演出でわからせるくらいにして、ミステリー解読に重点が置かれているのが特徴だ。
これに準じたアニメは他にも多数あるのだろうが、幸か不幸か私はよく知らない。

DVD一巻につき二話収めらている。どこから観始めても雰囲気は伝わるだろうが、できれば順番に観たほうがいい。
それは第1巻の直後からの話題が全編を覆うようなつくりになっているからだが、他方、ラストに至るまでつづく奉太郎とえるの淡い心模様の通奏低音は、二人の古典部入部直後から始まっているからだ。

ラストの第22話は「遠まわりする雛」というタイトルになっている。テーマは各話それぞれであっても、入学から夏休み、文化祭、初詣、バレンタインデー、雛祭り、などと時系列に並んでいる。

第22話には、満開の桜が出てくる。4月3日、旧暦での生き雛祭りでのことだ。作者はどうしてもここに、満開の桜をもってきたかったのである。最終話でもあり、理由は観ているとわかる。

このアニメを観てまず思ったことは、映像が細やかであり、且つ、きれいだということだ。

原作の意を汲んだ監督・武本康弘のキャリアが、如何なく発揮されているのだろう。アニメ化するにあたり、多少、原作と異なるところもあるようだが、それは大きな問題になっていないようだ。

人物のキャラクターを暗示するしぐさや動きも、細部まで描かれている。それを際立たせるためには、背景も同様でなければならないが、これはその目的を達し、成功している。景色であれ室内であれ、細やかな描写とカットが効果を上げている。

不安を表わすフレームの斜め撮りやアップ、目の動き、顔のアップやバストショットの使い分けなど技術的面、適度に回想シーンを挿入するシナリオなど、ほとんど映画づくりと同じだ。アニメーションはやはり、映画なのである。

さまざまな演出も、よく効いている。奉太郎の姉は、古典部やえるに有意義なヒントを海外から知らせてくるが、その顔は映らない。
横顔を大きく映すときにも、顔の前に空間を残すのと、頭の後ろに空間を残すのとでは、演出の意味が全く違うが、監督はこの違いをよく知っている。

もうひとつは、奉太郎とえるの純情な心理に共感できるところだ。高校1年という設定がよかった。

いわゆる青春ものらしく、人物は一様に純粋無垢で、あちこちにつっけんどんなやりとりも多いが、それぞれシーンごとのテーマについて、そのプロセスは丁寧に描かれ、その終わりは垢抜けしていて潔い。
これはおそらく、文章を書く人間が原作者であるというところからきているのだろう。原作者が漫画家だとしたら、ここまで細やかな言葉遣いができただろうか。

例えば、ところどころ、わざわざ時間を割いて挿入される奉太郎と里志の二人の会話のシーンがそれだ。この二人の会話は、それぞれのシーンごとだけでなく、それぞれのテーマごとに作られている。これがなければ、それぞれの挿話は、落ち着きのない終わりになるに違いない。

言わば後始末をつけるような役をもたせられた会話シーンだが、言葉の紡ぎ方においても丁寧でありタイミングもよい。カットもうまくつなげ、一連の会話が終わると、「よかった…」、という感想を観る側にもたらしてくれる。何かが「よかった」のではなく、「これでよかった・・・」と、ほっとするのだ。

漫画がアニメになると、色がつき、声が付き、音楽も付く。そこが作品の華麗なる変身なのだが、声については好き好きがあるようだ。
この作品でも、折木奉太郎役の声(中村悠一)に違和感はない。むしろボツボツとした話し方が絵にマッチしている。千反田える役の声(佐藤聡美)はやや甲高く、ぶりっ子的なしゃべりに驚いた。ただ、そういう役柄でもあり、表情とも合わせねばならないのだろう、観ているうちに慣れてしまった。

BGMは、奉太郎らが真相を明らかにするような過程で、おなじみのいかにもスリリングなメロディーが流れるほか、バッハの「G線上のアリア」「無伴奏チェロ組曲第1番前奏曲」、フォーレの「シチリアーナ」など、よく知られた気品ある調べが効果的に使われている。

Pahud plays Gabriel Fauré Sicilienne Op78
https://www.youtube.com/watch?v=KweXColOsgQ
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高山といえば、学生の頃、からくり人形で有名な高山祭を見に出かけた一回きりだ。その前後には市内もゆっくり見物し、白川郷まで足を延ばした。遠い記憶だ。
このアニメは、その遠い記憶を蘇らせてもくれた。

いまこのとき、若い頃の旅と、奉太郎の想いが重なる、・・・「夢と葉桜」の如く・・・

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2015年4月12日 (日)

映画 『狂恋』

監督:ジョルジュ・ラコンブ、原作:ピエール・ルネ・ヴォルフ、脚色:ピエール・ヴェリ、撮影:ロジェ・ユベール、音楽:マルセル・ミルーズ、主演:マレーネ・ディートリッヒ、ジャン・ギャバン、1947年(昭和22年)、フランス映画、モノクロ、103分、原題:Martin Roumagnac(マルタン・ルーマニャック、ジャン・ギャバンの役名)、英訳版:THE ROOM UPSTAIRS(二階のへや)

フランスの田舎町で小さな穀物商を営んでいるフェランは、姪のブランシュ(マレーネ・ディートリッヒ)が二階に同居していた。店にはブランシュの好みで、小鳥まで売っていた。

ブランシュは、地元の領事との間に結婚話が上がっていたが、領事には病身の妻がおり、その妻が亡くなったら結婚することになっていた。

店の二階は、店と別の出入口があり、今日も妻子ある男がブランシュのへやから出ていくところだ。

ブランシュは退屈を紛らわすためボクシングの観戦に行くが、そこでマルタン(ジャン・ギャバン)と出会う。ブランシュが落としていったブローチを、マルタンが届けることで再会し、二人は恋に落ちる。
マルタンは建築工事屋の現場責任者でもあり、姉とともに生活している。マルタンはやがて自分の敷地に、ブランシュのための別荘まで建て、そこで二人は密会する。

ブランシュには、領事以外にも純粋な思いを寄せる青年などがいたが、それを承知でマルタンは交際を続けるのであった。・・・

昔から邦題タイトルだけは知っていたのだが、ようやく観ることができた。邦題は内容にふさわしくない。
ジャン・ギャバン、41歳、マレーネ・ディートリッヒ、45歳のときに作品だ。たしかに若い男女の役ではないが、二人は、若々しい男女を演じ切っている。ディートリッヒが着飾った田舎娘の役を演じるのも珍しい。しかし、いろいろな男に言い寄られる役柄はいつものとおりだ。

冒頭、青年が店を訪れ、螺旋階段からブランシュが下りてくる。ストッキングをつけたディートリッヒの脚から全身が映っていく。このころの映画でもあり裸のシーンはないが、それだけに、キスシーンや会話のシーンなど、カメラアングルやカットなど効果的な演出がなされている。

ストーリーは枝葉を散りばめながら進行し、結局マルタンはブランシュを殺すことになる。その後、マルタンの裁判となり、姉の計らいなどもあって無罪になるが、ラストには殺した者は殺されるという帳尻を合わせて終わる。
このラストシーンは光と影の演出とともにみごとだが、『望郷』同様、そこまで話すと、これから観る人の関心を削ぐので、やめておこう。

この邦題は、いろいろな理由が考慮されるにせよ、あまりよくない。原題どおり「マルタン・ルーマニャック」のままでよかった。ただそれではインパクトに欠けるので、ちょっと変えればよかっただけだ。
狂恋ものは他にもあり、もっとそれらしい作品もあるので違和感があるが、当時はこれだ最高だったのだろう。実際にギャバンとディートリッヒが恋愛関係にあったこともひと役買っているかもしれない。

フランス郊外や建築現場、居酒屋、パリのナイトクラブなど、いろいろな背景が舐めるようにカメラに撮られ、見る楽しさを与えてくれるのだが、脚本が欲張りすぎており、まさに狂恋だけを期待していると裏切られてしまう。
この映画はまさしく、マルタンの恋愛経路とその結末を描いているからだ。

後半の4分の1は法廷シーンとなり、ディートリッヒは回想でも出てこない。別荘を建てるほど惚れ込んだのだが、それほどの心境になるまでのマルタンの男としての心意気の過程が伝わってこない。

マルタンが仕事をしており、作業員が事故で死んだり、カネに困るなど、仕事をもつ男の面をきちんと描いたがために、かえってブランシュとの恋愛シーンがテキパキと進みすぎ、観客が二人の心情を味わう時間を奪ってしまっている。

純情な青年の役どころや、ブローチや小鳥などの小道具、無罪となったことを知らせる号外に踊る自由の文字など、細やかな配慮が行き届いているわりに、どんとうったえることがないままに終わってしまった感がある。

充分名の知れたスターを共演させながら、肩透かしを食らう映画であった。同じギャバン主演の恋愛ものであれば、『望郷』のほうに軍配が上がる。
ラスト近く、ギャン・ギャバンとミレーユ・バランの、パリを思い出す会話シーンがある。あれこそ、映画でしか表現できない恋模様だと思う。

本作を観る方は、是非、『望郷』も観ていただきたいと思う。

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