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2015年3月

2015年3月28日 (土)

ブログツイートの変化に見る安倍政権への信頼度 (2015年3月28日)

昨年11月6日以降のツイートの変化です。

前回から四か月半ほど経ったのでチェックしてみました。

その間に衆議院議員選挙がありました。

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平成27年3月27日(金)午後11時55分現在。

数字は、2013年7月31日→8月31日→10月7日→12月7日→2014年3月7日→6月6日→8月12日→11月6日→現在のツイート数、です。

『日教組への道順』<2012年12月22日(土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-137c.html
4396→5230→6228→7560→10273→12416→12838→15546→16608ツイート

『社民の議席増とひめゆりの塔事件』<2012年12月31日(月)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-fd1f.html
4162→4277→4294→4335→4367→4408→4430→4541→4859ツイート

『活動家養成段階に入った過激派』<2013年1月6日(日)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-cdf9.html
5512→6459→7524→8922→11695→13137→13167→13188→14933ツイート

『国旗国歌法改正案としての提案』<2013年2月16日(土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-b3c3.html
3786→4567→5454→6378→9242→9899→10261→11461→12132ツイート

『迷える子羊を、保守愛国に振り向かそう』<2013年5月1日(水)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-b3e6.html
2304→2707→2717→2731→2747→2764→2769ト→2770→2778ツイート

以下、その後加えたもの。

『先の戦争に関し、韓国は日本に対し、何の賠償請求権も存在しない』<2013年1月19日(土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-8856.html
9738→11999→12773→16093→17235ツイート

『死刑制度は存続させるべし』<2013年3月1日(金)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-33fa.html
1634→2959→5436→7810→8761→10802→12028ツイート

『過激派のテロを警戒せよ!』<2013年4月19日(金)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-b362.html
8323→10253→10587→10632ツイート

『雨後の筍のように生まれた保守系論客』<2013年9月27日(金)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-9a56.html
3963→6006→6701→8747→9609ツイート

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これらは、2012年12月の保守政権回帰となった衆院選を受けて、その翌年2013年の参院選もこの調子でいってほしいと始めたものです。

昨年7月現在でツイート数の多いほうのものを五つ選んでいました。

風前の灯となった社民党関連のブログはしばらく伸びていませんでしたが、この、『社民の議席増とひめゆりの塔事件』は、ここのところなぜか伸びています。保守政権が安定し、ひめゆりの塔事件に対する関心が増えたのかも知れません。

社民党がもはや国政に影響を与えるようなことはないでしょうが、まだ存在し、一部自治体ではビラ撒きなどで民主党とも協力しているようであり、何を仕出かすかわからないからには、これらの都内の住所とともに、再度、注意を喚起していかねばと思います。

<千代田区神田駿河台3-2-11、新宿区西早稲田2-3-18、港区新橋2-8-16>

今回も、『日教組への道順』 『先の戦争に関し、韓国は日本に対し、何の賠償請求権も存在しない』 『死刑制度は存続させるべし』 『雨後の筍のように生まれた保守系論客』 のツイートが伸びています。
昨年暮れ頃から、これらはたまにしかツイートしていませんが、これらのテーマに皆さんの関心がある証拠でしょう。

過激派関連のものも、コンスタントに伸びています。
『過激派のテロを警戒せよ!』よりも『活動家養成段階に入った過激派』が具体的記述が多いせいかも知れません。
ただ、以前ほどの伸びがないのは、安倍政権となり時間も経過し、公安のはたらきを信じるようになってきたからだと推理します。

『雨後の筍のように生まれた保守系論客』は、今でもたまにツイートしているので伸びたと思います。安倍政権も丸二年以上になり、ニセモノの保守が横行していることから、誰をどう信じていくかということに、皆さんの関心があるように思います。

『国旗国歌法改正案としての提案』は、この時期も順調に伸びていました。
最近はたまにしかツイートしないのですが、それをきちんと拾って拡散している方がいるということです。
今すぐに実現などしそうもないことですが、私としてはかなり真剣にまとめたものでした。首相官邸や自民党にも、ブログのURLをメールで送ってあります。

日教組対策として、愛国心高揚策として、これはいつの日か、実現させてほしいものです。
本来は、このような法律がなくても、日本人の生活習慣として、国旗掲揚・国歌斉唱があるべきです。しかし相変わらず、日教組や共産党が、国旗・国歌を軽視しており、立法化するのも一案と思っています。不要になれば、法律は廃止することもできます。

憲法改正に絡んでくるので、難しい話ですが、別の法律になってもいいので、きちんと整備させていくべきと考えます。

近隣諸国で多少の出来事が起きても、日経平均は、19000円台で推移しています。
前々回、この日記を書いた8月上旬は15000円前後で推移していました。前回の日記のころ、市場は、17000円を回復したと大騒ぎしていました。
この効果はまだ、なかなか一般庶民にまで波及していない面もありますが、国力が増すためにはまず、国内全体の景気回復と、それによる景気の好循環が必要なのです。

日経平均が高値安定は、日本国内あるいは日本に対する諸外国からの信頼の証(あかし)でもあります。実績を伴わない政権には、国民も外国の投資家も信用を寄せないわけです。

前々回、ひとつの区切りとして、年末までに、憲法改正に向けて、ほんの一歩でも、その端緒を開けるかどうか、国民のひとりとして期待しています、と書きました。
自民党の衆院選の公約には、最後の部分で、憲法改正に触れていました。大きな一歩です。
公約に掲げた以上、数年がかりでも実現するでしょう。

来月4月12日(日)と26日(日)には、統一地方選挙があります。
統一地方選は、国政と違い、国全体を見通すようには関心をもちにくいですが、せめて、自分の住む自治体に関しては、積極的に情報を集め、あるいは周知して、反日分子が当選しないような環境を作っていかなければなりません。

私個人は、東京都杉並区で立候補予定の、中核派の支援する北島邦彦の当落に注目しています。
区議会議員といえども、ここまではっきりと中核派であることを丸出しにしている候補が当選するということは、杉並区がいかにアカ汚染が進んでいるかのメルクマールになるからです。
東京都特別区議選は4月26日投開票です。

2015年3月25日 (水)

辺野古移設は、政府と共産党との代理戦争だ (2015年3月25日)

辺野古への基地移設は可能なのか。

いや、大丈夫だ。実現させなければならない。

これは、日本共産党との代理戦争でもある。

当初の予定通りにはいかないかも知れないが、結果的には完成する。

まず復習から。

★極左暴力集団の構図★

都政を革新する会⇔動労千葉⇔動労総連合⇔韓国民主労総⇔中核派⇔山本太郎 ⇔都教組=日教組⇔都教委包囲・首都圏ネット⇔日本共産党 

↑↑↑
敵対関係 
↓↓↓

JR総連⇔革マル派⇔枝野幸男・田城郁・有田芳生⇔のりこえねっと

目下、成田空港の整備を妨害する極左暴力集団には、中核派・革マル派・革労協主流派・革労協反主流派の四つがある。

このうち、いちばん熱心なのは中核派と革労協主流派だ。
中核派は、地元の労組を母体とする動労千葉と組み、今や動労千葉を呑み込み、動労千葉は中核派の傘下といってもよい。

革労協(革命的労働者協会)主流派(現代社派)は、「農地強奪阻止・空港廃港」をスローガンに、空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟)の北原派と組み、なお成田闘争を続けさせている。

昨年(平成26年)5月と9月には、成田現地で集会・デモを実施したほか、一昨年結成された「三里塚を闘う九州実行委員会」が、予定通り福岡県内某所で「三里塚-九州集会」を開き、全国展開への幕開けをアピールした。

革マル派は、それ自体大人数ではないものの、JR総連などと組み、組織の結束が固く、動員人数も多い。中央政界に二人の議員を送り込み、政治主導での問題解決を図って行こうとする側面もある。

肝心の国政では、ほとんど勢力を失い、テレビの前で茶番を演ずる以外に、幹部クラスも何をどうしたらよいのか途方にくれているありさまだ。
革マル派は、民主党という蓑をかぶったまま目立った動きはしてないものの、利用できる機会があれば議員を動かすだろう。

革労協(革命的労働者協会)反主流派(赤砦社派)は、反原発闘争のほか、昨年(平成26年)10月に、名護市辺野古の移設工事を請け負う会社に飛翔弾を発射するなどした。
だが、もはやかつての勢いは萎え、今や「全国障害者解放運動共闘会議」なるものを結成するなど、運動以前のテーマ探しの次元にまで衰退している。

ブントなどを含め、ここ数年、インターネットのはたらきで、各団体ともその内実が明らかにされ、まともな人間は、それが大学新入生であっても、近づかないようになった。
加えて、公安警察がフル回転しており、上に掲げた★極左暴力集団★の幹部のほとんどには、内偵や尾行がついている。

都教委包囲・首都圏ネットを主導する千葉県立松戸国際高校の現職教諭・渡部秀清は、自らを含む同士と、今年も都立高校の卒業式の日、各学校の正門前でビラを撒いたが、そのさなかに公安に監視されているとこぼしている。

こういう流れを元に、辺野古がどうなるかを考えたい。

辺野古の代替施設や滑走路建設は、国家の決定事項であり、対外的にも約束され了承されていることである。すでに計画が練られ、工期も決定しているからには、気象条件による中断以外は、工事を中止するいわれがない。

普天間基地の使用期限は2019年2月までという合意のもと、むやみに延長することもできない。それに、もたもたしていれば、中国がナメてかかってくる。大量の漁船という姿で、その実、日本の資源や情報を盗みに近づいてくるのは明らかだ。

知事の翁長雄志は、かつて自民党に属していながら共産党に変わった変わり者だ。
翁長が知事に当選したとき、政府は、残念だったなあと苦笑いしたくらいだったろう。当時、菅官房長官は、辺野古移設は粛々と進めていくのであり、知事選の争点は、辺野古移設の賛成、反対だけではなかった、と述べていた。

むしろ、その後の衆院選において、沖縄の四つの小選挙区で、翁長の推した候補ばかり当選したことのほうが、政府にとって厄介だなと映ったと想像する。

ここで再度、政府は気を引き締めたはずだ。

辺野古の騒動は、成田空港の闘争に似ている。
そこに住んでいない者が、大挙して反対運動に押し寄せ、国家と相対するという図式だ。

成田闘争と違うのは、本州から離れているため、引っ越しをし、住民票まで移した人間が多いということだろう。それをわりと簡単にできるのは、定年退職者と無職の者である。元日教組教員やその他の労働者、失業者などがいるだろう。途中退職した者もいるはずだ。

海底調査を妨害しようとして、海上保安庁と小競り合いのなり、海保職員を訴えた男がいたが、これも元をたどると、東京・立川市の住民で、わざわざ沖縄に移り住んだのである。
立川基地をかかえる立川市は、中央線沿線にあり、サヨクが多い。ところが、すでに基地反対闘争に意味はなく、反基地という闘争目的を探していたら、辺野古があったということだ。

辺野古に集まる連中は、年寄りも女も、まず時間の自由がきく連中である。暖かい地方でなら、テントでも生活するのだろう。ただ、彼らは敵の数に入らない。
地面にころがっても、ごぼう抜きされ、警棒をふりかざせば逃げる連中である。

厄介なのは、警棒を振り上げても「逃げない」連中である。いわゆる意気のいいオッサンや学生、フリーターという名の乞食は、雑草のように強い。これは、逮捕慣れしている連中を含んでいるため、すぐにはひるまないということをプライドとしているからである。まさに小林多喜二の生き様に重なる。

この連中はおそらく、必ずしも全学連の学生とは限らない。★極左暴力集団の構図★にある人間とも限らない。
これらの中心は、共産党である。

革マル派は、何と言っても国会議員にその一部がいるのだから、中央から指令がくれば、そのとおりに動かざるをえない。せっかく勝ち取った議席を、次回、無にしたくはない。愚かな動き方をすれば政府に表立って突っつかれる。
政権は、万一の場合、革マル派、つまり、民主党の一部とは駆け引きするだろう。駆け引きは、政治の世界では常套だ。国益を実現するために必要なことであれば、ありうるだろう。

中核派はようやく山本太郎を送り込んだくらいであり、しかも政界にパイプもなく、執行部は、次回、山本が落選してもかまわないくらいに思っているだろう。しかし利用価値はあるのであり、それをフルに使うだろう。
その延長上で、山本が辺野古に出かけて吠えて見せる、というパーフォーマンスはありえるかもしれない。それでも、都市部でこそ活躍する盗聴や住居侵入、爆発物製造のマニア集団が、日々どれだけ沖縄という土地に移動するだろうか。

共産党は、先の衆院選で、得票率の目的を達成したものの、党員数と「赤旗」購読者は、ここ数年で激減していることを嘆いている。
民主党に一度は期待したものの、民主政権に愛想を尽かし、自民党支持に変え、愛国心に芽生えたとする人は多い。共産党についても同様なことが起きている。

都教委包囲・首都圏ネットは日教組であり共産党であるが、ビラ配りのときも、受け取った生徒や親は多かったと自分たちのサイトには書いている。それでも、すぐに校長が校舎入口に用意したバケツに、皆がビラを丸めて捨てていた、とも書いている。

共産党は傘下に民医連、自由法曹団の弁護士などがいて、動員しようとすれば、全学連以上の人間を動員できる。しかも、直接的には、中核派や革マル派と信頼関係にあるわけではない。常に独自路線を行く。 

いわゆる草の根運動をマメにこなしていく。女・こども・年寄りを題材に、共産党は勧誘を続けている。そういうテーマに、人々は惹かれやすい。おそらく池内沙織なども、へたなミュージシャンや歌手連中とともに沖縄入りする日がくるだろう。そこにはまた、騒音とゴミがばらまかれ、渋滞を引き起こし、翌朝、近隣の住民が後片付けをするのだろう。

成田闘争では、政府はやむを得ず、伝家の宝刀を抜いた。行政代執行を行なった。中核派の妨害活動に対して、機動隊を集結させて、反対派を追い出した。ほとんど戦闘に近い状態であった。
警察側に三名も殉職者を出している。国益を妨害する者に対して、人権擁護が頭にあり、武器使用の制限があっては、こういう悲劇を生む。

開港後の妨害に対し、これを政府は、単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦とし、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる、とする声明を出した。
国会では、新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法」(現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)を成立させ、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)を発足させた。

与党が過半数である現在、数々の臨時措置法も成立させうる。
法治国家であるからには、政府としても法手続きを尊重するのに変わりはない。現在も、翁長が沖縄防衛局に海底作業を全面停止するよう指示したことについて、菅官房長官は法的手続きで解決しようとしている。

その翁長も、地元「住民」や全学連の一部は、業を煮やしているという噂もある。連中からすれば、動きが遅いということのようだ。
翁長は誰の言うことを聞いているのか。志位和夫である。これは間違いない。

そもそも、政府の方針決定に法律上の瑕疵(かし)はなく、急に物理的に中止を指示するとは、権限の乱用というものだ。
翁長は共産党から支持されているため、おいそれとそっぽを向けなくなったのだ。翁長は、共産党の言いつけだけを守る、ただの傀儡と化したフシがある。

「琉球新報」や「沖縄タイムス」は決して流さないが、愛国心に満ちた人々のほうが多いのが沖縄だろう。手登根安則氏らの奉仕活動や情報発信もありがたいときがある。

日本人なら誰しも、国土のなかに米軍基地などあってほしくはないと思っている。
戦後の已むに已まれぬ流れからして、いまただちに、代替案もなくそれを実行はできない。
といって、これは、日本がアメリカに追随することを意味しない。

かつて、大日本愛国党の赤尾敏氏や山口二矢が言っていたのもそこである。彼らも、鬼畜米英から始まり、どこの国にも手を借りない、真の独立を願ったのである。しかし、当面は、日本が共産主義化することを防ぐべく、ここはアメリカの協力が必要と判断し、安保成立に賛成し、これを阻む社会党や全学連と戦ったのである。

大局を見ずして国益なし・・・辺野古で若い声やサヨク弁護士にそそのかされ、付和雷同している人々は、やがて機動隊の放水に倒され、棍棒で叩かれ、公務執行妨害で逮捕され、護送車に連行されることになるのを予期できないのだろう。

2015年3月24日 (火)

左傾教科書の「書き方」と「見分け方」 (2015年3月24日)

これは、かつて高校教科書として流通していた、一橋出版㈱の『政治・経済』で、2006年1月20日発行である。

平成15年3月20日検定済、とある。平成15年(2003年)に検定を通過したあと、そのまま作られつづけてきたということだ。

「政治・経済」と「公民」の教員をしていた経験からして、社会科の教科書、特に、中学生対象「公民」と、高校生対象「政治・経済」は、筆者や編者の思想的傾向が盛り込まれやすい。同じ社会科でも、「地理」「歴史」分野より、盛り込みやすい。

一定の思想に偏らないよう、文部省で検定をほどこすのであるが、極端なものでなければ、それほど厳しいとは言えないのが現状だ。
厳しくし過ぎれば、検定でなく、検閲ではないか、との批判を受けるからだ。

検定を通過した教科書のうち、どれを採用するかは、通常、各自治体の教育委員会に一任される。
私学は独自に採用する。私のいた私立学校にも2月頃、見本品が送られてきて、どれを使うか決めていた。

一橋出版は、中でも左寄りであることで知られていた。これは、各出版社の教科書を並べて、同じ思想色の出やすい分野を比較すればわかる。

この教科書の著作者には、奥平康弘、高畠通敏がいる。あとは経済学者などであるが、この二人がサヨクの政治学者ということは誰しも知るところだ。

教科書は、その執筆者や編者の思想に左右される。私は採用責任者だった当時、少なくとも一橋出版の教科書は使わなかった。初めからサヨクとわかっている執筆者の書いた教科書を使うことはできない。

ちなみに、この教科書が検定された2003年3月は、第一次小泉純一郎内閣のときである。検定は、時間的に発行前の1年以内に行われるが、小泉内閣は2001年4月に成立している。

この教科書のいくつかの部分を、抜粋してみよう。(以下、「」内が抜粋部分)

〔法の下の平等〕の一節には、こうある。

「とくに在日韓国人・朝鮮人など、永住権をもつ定住外国人の生活の実態は、日本国籍をもつ「国民」と変わらない場合が少なくない。ところが政治的・社会的な権利について、「国民」と異なった扱いを受ける場合がある。(*)何が差別かを点検することは、国境をこえて共生する市民としての責務であろう。」

ここでさりげなく、サヨクの好きな【共生】【市民】という言葉が使われている。最後の部分は、国境をこえて共生する国民、と書いてもおかしくはない。それをわざわざ【市民】と直し、市民運動を煽動するような書き方をしている。

(*)の注をみると、こうある。

「雇用関係(とくに、公務員の国籍条項)、社会保障、教育その他の民生部門での差別の見直しのほか、最近では、せめて地方自治体における選挙権が与えられるべきだという声が高まっている。」

これにはさらに、各国の参政権付与の比較図が付いている。
あたかも、国籍など無視して、在日韓国人にも公務員や教員への道を開くべしという主張と読める。

基本的人権のうち、〔自由権的基本権〕では、ふつうは各自由権を列挙して解説していくのがふつうだが、ここでは、表現の自由、人身の自由、経済活動の自由と進んでいくなかに、わざわざ死刑の項目を独立させて解説している。

「・・・「目には目を」の考えにもとづく応報主義思想の是非、および死刑という制裁手段がもつ犯罪抑止効果の有無などとともに、どんな人間の生命も尊厳視すべきだという人間尊重主義の立場など、討議すべき論点がたくさんある。」

死刑を求刑されるほどの被告人が、どういう動機で・どういう態様で人を殺したか、なぜ極刑という判決を受けたのかなど、といった論点は書かれない。

政教分離についても同様で、県知事が靖国神社への玉ぐし料を、県の予算から支出してことが最高裁で違憲とされたことについては、その新聞記事とともに言及している。

〔平和主義と防衛問題〕では、集団的自衛権が取り上げられている。

「・・・ところが、1990年代からの安保「再定義」論議のなかでは、集団的自衛権の理論にもとづいて、アメリカの防衛のために日本が軍事協力するのは、相互協力してそれぞれ防衛しあううえで、必要なことであるという主張が出されている。しかし、日本では集団的自衛権の考え方は、憲法上とれないというのが、政府の立場として堅持されている。実際のところ、もし集団的自衛権が認められるとすれば、憲法第9条がもつ軍事抑制的な意味はほとんどなくなる。」

前後には、自衛隊の海外派遣についての解説や資料が置かれ、いろいろな意見があるという紹介どころか、執筆者の主張としての論述になっている。

〔日本国憲法の平和主義の意義〕と題する節では、憲法前文や9条を引いて、自衛隊が軍隊として活動するには制約があり、防衛政策も、「専守防衛」「集団的自衛権の禁止」「海外派兵の禁止」「攻撃的兵器の不保持」「非核三原則」「武器輸出の禁止」などの制約のなかでおこなわれてきたことを讃えたあと、こう述べている。

「しかし今、それらの制約が大きくゆるめられる傾向が強いだけでなく、憲法前文・9条の平和主義の規定そのものを改正しようとする動きも勢いを増している。私たちは、あたらめて21世紀の世界のあり方を、想像力を働かせて構想するなかで、日本の進むべき道を選ばねばならないところにきている。」

〔日本の政治と実態と問題〕では、その終わりに〔大衆運動の発展〕と〔市民運動と住民運動〕に触れている。

「・・・市民運動は、創意と自発性にもとづいて、少数の人たちが自主的に多様な活動を展開することに特色がある。
・・・また、特定の地域の問題について、その地域での住民を中心に組織される運動は、一般に住民運動とよばれる。住民運動は、公害反対や保育所建設など地域での生活上の利害にからんで生まれ、ときに地方議会の解散や首長リコール、さらには住民投票条例制定の請求に高まったりする。」

ここで突然、この節は終わっている。あたかも、読者を扇動するかのような文章であり、突如終わることで余韻を残すあたり、演出が効いている。

このページの下には、新潟県刈羽村でのプルサーマル計画受け入れについての住民投票の写真など、住民運動に関する写真が載っている。

この出版社は、その後、11億円余りの負債をかかえて倒産した。2009年5月、東京地裁に自己破産を申請している。

所在地は東京都杉並区南荻窪4丁目30番6号であった。JR荻窪駅の南東で、今は建築事務所が入っている。左傾の教科書出版社がサヨクの街にあるというのは、単なる偶然だったろうか。

高畠通敏は、鶴見俊輔とともに、60年安保で闘争に参加した人物だが、2004年に死去している。奥平康弘は、鶴見俊輔や大江健三郎とともに「九条の会」を立ち上げたひとりであるが、今年1月死去している。
高畠が死んでいても、そのままこの教科書は作られつづけたということだ。

二人に共通の仲間である鶴見俊輔は、「私は参政権を持ってから共産党だけに投票してきた」という、筋金入りの左翼の論客だ。現在92歳になったが、多くの左翼が影響を受けている。

この教科書は、中心的な執筆者も死去し、出版社そのものも消え去ってしまったが、各出版社の教科書には、多かれ少なかれ、一方に偏らないよう、いろいろな学者が執筆に当たる。
そこで、次のようにまとめられる。

(1)中心人物、特に政治分野を誰が書いているのか、によって、左傾の教科書かどうか判断できる。ときに、執筆者でなく著作者とういう場合もあるが同じである。

監修者がいる場合は、教科書全体に影響を及ぼすこともあるので、その人物も要チェックだ。監修者は自分も書くが、全体の色調を決定するからである。

(2)左傾の執筆者は、ひととおりの事実を述べたあと、あたかも「教える」ような書き方をしながら、「示唆する」ような文章を付け加える。その部分は、もはや事実ではなく、自らの意見であり主張である場合が多い。

(3)反政府・反体制となる写真や資料を、参考として載せる場合が多い。何も知らない生徒は、そうした煽動に、無意識に駆り立てられる可能性がある。

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2015年3月16日 (月)

日教組組織率0への道~愛媛県の死闘 (2015年3月16日)

愛媛県、栃木県、岐阜県は、2009年10月現在、日教組組織率0%の県です。

しかし、そこに至るまでには、国側と日教組側との熾烈な戦いがありました。

以下に引用したのは、愛媛県の例です。

愛媛の教育改革はここから始まった(http://nippon-ehime.jp/esse/08.html)から抜粋しました。

講演記録を文字化したものでいささか長いので、さわりを抜粋しますが、時間のある方はURLから全文をお読みください。

ここには、社会党や共産党のやりかたが浮き彫りにされています。
暴力と多勢に無勢で教育委員会に詰め寄る姿など、まさしく暴力革命でしょう。こうした連中のやりかたは、今日においても何ら変わっていません。

それを知るだけでも、貴重な資料と言えます。

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~昭和30年代初頭の勤務評定紛争を振り返って~

                                              愛媛県師友会ひの会

                                                                   会長 近藤美佐子

(平成14年8月、愛媛県教育委員会は、翌15年春開校の県立中高一貫校における「新しい歴史教科書」の使用を決定、公立一般中学校としては、全国初の採択となった。
 愛媛県教育委員会の全国に先駆けた教育改革の取り組みには前史があった。昭和30年代初頭、勤務評定紛争で当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった日教組と全面対決し、これを撃退したのである。
 当時、教育委員長として日教組と闘い抜いた竹葉秀雄氏に師事し、県庁職員として勤務していた近藤美佐子先生に当時を振り返っていただいた。 
 なお、本稿は、平成14年11月に行われた講演(愛媛県教科書改善連絡協議会主催)をまとめていただいたものである。)                  


 今年の夏は皆様方の大変なご活動によりまして、愛媛県教育委員会は全国に先駆けて扶桑社の歴史教科書を採択するという快挙を成し遂げました。誠にご同慶の至りでございます。

  今から四十五年前、愛媛県教育委員会はこれまた全国に先駆けまして教育の正常化ヘの道を拓きました。当時猖獗を極めておりました日教組、その日教組の御三家のひとつと言われていた強力な愛媛県教員組合を、ほとんど壊滅せしめて教育正常化へと進んだのであります。(以下略)

 
  占領下に生まれた鬼っ子 日教組

 昭和二十年八月、日本が戦争に負けまして、アメリカが日本を占領致しました。そのアメリカ占領軍が真っ先にやったことは、共産党の徳田球一などの政治犯三千人を刑務所から開放することでありました。そして占領軍は日本民主化の名のもとに、盛んに労働運動を奨励したのであります。

 全国で一番始めに学校の先生の組合を結成したのは京都府でした。それからはまさに燎原の火のように物凄いスピードで、全都道府県に教師のいわゆる労働組合が次々と結成されてゆきました。その組合の四分の一は社会党系、四分の三は共産党系でありました。愛媛県の教員組合は共産党系で、昭和二十一年七月に結成されております。

 アメリカは占領当初は、共産党の活動が盛んになることをむしろ歓迎したのであります。そして労働組合の活動を奨励しましたので、全国のいたるところで労働争議が頻発しました。その集大成といいますか、帰結が、ご記憶の方もおいでになるかと思いますが2・1ストであります。昭和二十二年二月一日を期して、吉田内閣打倒を目標に、国鉄労組、全逓信、日教組、この三つの組織が中心となって全官公労二百七十万人のゼネストを立ち上げていったわけです。

 これが実施されれば、まずお米をはじめあらゆる物資の流通が止まります。通信もストップしてすべての情報が遮断される。ちょっと考えただけでも、食うや食わずで敗戦のどん底に喘いでいた日本は大混乱になり、革命へと雪崩れ込むのは必至と思われました。こうなると占領軍もほうってはおけません。いよいよストに突入するという前日、即ち一月三十一日の午後五時に、まさに瀬戸際でマッカーサー総司令部は、ストップをかけてストをねじ伏せたのです。こうしてストが中止されましたので、その代償として、いたるところで労働協約が結ばれました。

 愛媛県では県と教員組合が労働協約を結んでおります。その一部を申し上げますと、まず、県が採用した教員、学校の先生ですね、これは一人残らず否応なしに組合員になると定められました。ですから組合はなんの苦労も無しに全県下の教師を組合員として掌握することができるようになった。それから、教員の給与や人事、これらすべてを県は組合の意向を聞いて決めなければならない等々、その他いろいろございますが、この労働協約によりまして、県組合が教育行政の中に深く入りこんできたわけであります。

  教員の政治活動

 昭和二十三年に教育委員会が置かれました。これも進駐軍の命令であります。全国の都道府県・市町村に置かれましたが、これはアメリカ占領の置き土産ですね。日本人が産み出したものではなくて、つまり貰い物なので、いつまでたっても本物としての力が出ない。 去年の歴史教科書の採択でも教育委員がいかに弱いか、全国三千余の教育委員会で、どこかが扶桑社の教科書に手を挙げかけたのですが、少し脅かされると直ぐひっこめましたね。極めて弱い。まだまだ借り物であります。

 この教育委員会でありますが、当初は委員を選挙で選出することになっていました。すると教組は組合の役員を立候補させて、先生方が走り回って運動して高得点で当選させる。選挙のあとで教育委員会を開催してみると、委員会と組合の役員会が同じような顔ぶれだったなどという話もあります。これで教組は教育行政を牛耳り、選挙運動のノウハウを身につけたわけです。

 次に参議院議員の選挙がありました、全県一区。非常に強力な自民党の議員を抑えて社会党が当選しました。これも教員組合が走り回った。その二年後に知事選がありました。保守のレッキとした筋の通った政治家に対して社会党も候補を押し立てて、これも学校の先生が走り回って激戦の末、社会党の知事を実現させました。選挙の後で学校の先生七千人か八千人が一斉に一号給月給が上がったのであります。そういうことで、選挙の後は、先生の組合は飛ぶ鳥を落とす勢いだったと思います。組合の幹部なんかは県庁の中を肩風切って歩いているという感じでした。(以下略)

  日教組の正体

 はじめは学校の先生たちも、それほど日教組を恐るべき危険な団体だとは思ってなかったようです。校長先生をはじめ全員が組合員ですし、県に採用されればそのまま自動的に組合員になるのですから。むしろ組合は日本民主化の旗印を掲げている進歩的な良い団体だと思いこんでいた先生が多かったのではないでしょうか。それに自分達の身分を保証してくれるのはどうやら組合に違いないと思い違いをしている先生も大分おいでになったようで、組合に逆らうことなど夢にも考えない、そういうひとが多かったと思います。

 ところが、その組合を包括する全国組織、日教組は「丹頂鶴」と言われました。組織のずーっと上層部は真っ赤なんであります。つまり共産党の闘争委員長の岩間正男なんかが日教組の上層組織にガッと食い込んでおる。共産党にしてみれば、学校の先生の組合くらい頼りになるものはない。というのは学校の先生は全国の津々浦々、山の中にも島の果てにも配置され組織化されておる。しかもそれぞれの地域の父兄と深い繋がりを持っておる。そして次の世代の青少年を育てる職業なんであります。この教員の組合、七十万人の日教組、これを赤く染めれば居ながらにして日本は革命できるのであります。

 また、その赤く染めるのを一所懸命に手伝ったのが大学の教授であり文化人でありました。左翼のね。なかでも特に熱心だった六十余名は日教組のお抱え講師団に雇われて小中学校の教員の思想教育に全国を飛び回りました。またそのなかの数人が一所懸命に考えて作ったのが、「教師の倫理綱領」であります。これは日教組の先生たちの「教典」と言われました。御承知の方もおいでになると思いますが、書いてあることは、まず、
 「教師は労働者である」。
 「団結こそ教師の最高の倫理であって、共産主義社会を実現することが教師に課せられた歴史的使命である」なんて書いてある。そして、
 「青少年はそういう社会を実現するための働き手として組織され、教育されねばならない」。つまり「学校教育は共産主義社会をつくるための戦闘員を養成すること」だというのであります。
 
 これを書いたのは、柳田謙十郎、宗像誠也、宮原誠一、周郷博、清水幾太郎等々とまあ錚々たる左翼の学者たちであります。
 
 当時の日教組のいろいろな資料を見ておりますとね、彼らがあこがれる理想の国は、ソ連、中国、北朝鮮であります。ソ連は分解して無くなってしまいましたが、よりによって、この三つの国こそわれわれの手本・理想郷だと書いてある。そして日本はぼろくそです。 国歌は歌うな、国旗は引き摺り下ろせ、あの「愛国心は戦争につながる」というアホな言葉は、その当時からの合言葉であります。

  こういう学者にしろ、それに躍らされた多くの先生方にしろ、こういう人たちは要するに日本のことを本当に知らなかったのではないかと思います。明治の開国で、鎖国の扉を開けてみて西洋文明に魂消た日本人は、朝野を挙げて追いつけ追い越せに忙しくて、子供達に日本のことをじっくり教えなかった。(以下略)

  竹葉秀雄先生
 
 さて、文部省も日教組の左傾化に、これはと気がついて、昭和三十一年に、教育委員の公選制をやめて、任命制にしました。地方公共団体の長が議会の承認を得て教育委員を任命するのです。それで愛媛県でも五名のそれぞれ立派な方が県教育委員として任命されました。その一人が竹葉秀雄先生でありました。ここで竹葉先生のことについて少し触れておきたいと思います。
 竹葉先生は日教組と戦ってこれを敗退させましたが、その後で日教組は愚かにも、文部省と愛媛県をILO(国際労働機関) に訴えたのです。それで竹葉先生はジュネーブまで行かれたのですが、行かれてその顛末を「ジュネーブ行」という文章にお書きになりました。その一番初めにこう書いておられます。
 「日本は大東亜戦争に敗れた。そしてこの戦争は日本がしかけた侵略戦争だという烙印を押された。私はアジア民族解放のための戦いだと思って全力を尽くした」と。

  (中略)

 その当時、つまり今から七、八十年前のアジアを考えて頂きたい。インドがどうだったか、中国はどうだったか。仏領インドシナはどうか、フィリピンはどうか。アジアにはまともな独立国なんか一つもなかった。全部植民地であります。その屈辱と貧困の中で喘いでおったのがアジアです。日本だけが唯一の独立国でした。周りの国を見て、なんとか立ちあがってほしい、一緒に手を握って立ち上がろうというのが、あの戦争の底をずーっと流れておった思想であると思います。だから民族解放の戦いだった。

 ところが戦争が終わった後で、あの極東軍事裁判。まあ、なんと見事に日本人は洗脳されたことか。マインドコントロールされて完璧にやられてしまった。日本は悪いことをした、悪いことをしたと言い続け、教科書の中にもそれを書き、それを学校で教え込む。総理大臣までが侵略戦争であったといって憚らない。あの戦争で亡くなった二百四十万の将兵の方々に、申し訳ない。
 
 戦後の日本人は、いとも簡単に自己を失いました。と同時に国に対する誇りを失った。とくに青少年を教育する学校の先生が、驚くべきことに、知らん間に日教組の目指す社会主義革命の担い手となってずるずると引きずられて行ったのです。

 竹葉先生は戦後の、とくに教育界の状態を痛切に憂えておられました。
その時、即ち三十一年九月に教育委員になって頂きたいと知事からお話があったのです。

 先生は心に深く期するところがあったのでしょう。「私が教育委員になれば大変な混乱が起こりますが、かまわないでしょうか」知事が「結構です」と。それで先生は教育委員になることを承諾されました。三間町の家を出られる時ご家族に「私の命は無いものと思うように」と言われたとか。先生は死をする思いで松山に出られたのです。
 
  第一次勤務評定紛争

 三十一年十月一日。新しい任命制の教育委員による第一回の委員会が開かれました。
そのときすでに勤務評定の準備は始まっていました。と言うのは、勤務評定は去年から法律で実施することが決まっていたのです。教育委員会の事務局では教師の勤務評定の内容についてどうすれば公正な評定が出来るか、検討の最中でした。

 勤務評定と言うのは、働いている者は当然受けなければなりません。県職員であった私達も当然のこととして評定を受けました。県警のお巡りさんも、県病院の医者もみんな受けます。学校の先生だけではないのです。職場での勤務ぶりを評定されることは当然で、しないほうがおかしい。それを小中学校の日教組だけがカーッと怒ったんです。高等学校は日教組に属していません。だから極めて冷静で、勤務評定も粛々と実施してべつになんの騒動もなしに済んでおる。

 ところが、日教組だけがひとりで大騒動して、全国七十万人の組合員の力で愛媛県教委を叩き潰してやるとかなんとか言うて「ナアニ、愛媛のようなちっぽけな県の教育委員会なんか鎧袖一触、一ひねりじゃ」とばかりに襲いかかってきたわけです。むこうから喧嘩をしかけにやってきたわけです。 

  交渉という名の集団暴行

 そしていよいよ十月二十日から毎日々々二百人の校長や教員を動員して、県教委に押しかけてきて「勤務評定をやめろ」「団体交渉をせよ」と大声でわめきたてました。
 「勤務評定は法律で決められたことを実施するので、交渉事項ではない、しかし評定の内容について意見や要望があるなら聞きましょう」と初めは大会議室で話し合うようにしましたが、「人間が人間の評定をするのは不可能ではないか」とか、「校長がそんな勤務評定をやったら、組合員が校長に諂うようになる」とか「学校の中がお互いの疑心暗鬼で暗くなる」等々まことに低次元な話、そしてとどのつまりは「勤評で教師に差をつけるのは許せない」と、運動会で一着二着を決めるのは差別だ、許せない、という彼ら一流のおかしな理屈を振り回す。中には所謂団体交渉のプロが混じっておりましてね、そういうのが教育委員の話の言葉尻を捉えては攻め立てる。嘲笑し、揶揄する。やがて机を叩き、足を踏み鳴らし、怒号し、罵詈雑言、とても話し合いなどというものではありません。

 竹葉先生はこれが教師だろうか、と何度も目を疑ったといいます。教師であり公務員である彼らは闘争のために授業を休み、交代しては毎日教育委員会に推しかけて来て交渉を強要しました。

 二百人も三百人も来ては話し合いにならない、委員会室に入れる程度に人数を減らして貰いたいというと人員を制限するとは非民主的だと叫ぶ。そして委員会室にギュウギュウ詰めに押し入って、職員の制止も聞かばこそ、ドアを蹴破ってなだれ込む。入れない者は廊下に新聞紙を敷いて座り込む。新館四階の廊下はギッシリの座り込みで、人も通れない。夜になると冷えるので毛布や布団をもちこむ。もう狼藉散乱、目を蔽いたくなる有様です。

 委員会室の中では教育委員や教育長がカンズメになり(トイレにも何人かが監視についてくる)恐喝同様の質問や、取るに足らない理屈をつけた抗議を際限なく聞かされ「勤評やめろ」の繰り返し。大体こういう「話し合い」は、連日午後三時ごろから始まって、ナイターになり、翌朝の空が白み始めるまで続くのです。組合のほうは交替で出てくるのですが、委員のほうは、たまったものではありません。真鍋さんの「勤評紛争記」のなかに、竹葉委員長蒼白になり倒れる、という記録があります。

 不眠不休の連日連夜の包囲攻撃に委員は疲労困憊の極に達して、閉会にしようとすれば、彼らはこの時とばかりにさらに勢いづいて「逃げる気か、卑怯だぞ、誠意がない」と怒号し、退場しようとすれば、集団のなかに巻き込んで蹴り、殴り、洋服を引き裂く。それを誰がやったかわからないようにワッショイ、ワッショイとスクラムを組んでやるのです。ぎっしりの人ごみですから、部屋を出ることも物理的に不可能です。
 そして「いまに殺してやる、いやなら勤評を中止しろ」とか「こっちには総評もついているんだぞ、金もいくらでも在る。とても小さい委員会では勝てんから、今のうちにこの文書に印を押せ」などという者のなかには酒気を漂わせている者もいる。そして連日「昨日の回答はどうなった」「この件は、明日の四時にはっきり回答せよ」等、委員会の開催を強要するのです。

 当時、家の周りの塀や電信柱に大きな鳥の子紙一杯に「不倶戴天の仇竹葉秀雄を殺せ」などと書きなぐってベタベタ貼ってありました。電話戦術、電報戦術(三十分ごとに電報が届き家人が寝られないようにする)などの神経戦術、恐喝、尾行、デマ、とにかく集団暴行の限りをつくしたのです。

 また、県庁の正面広場から周辺を総評の赤旗で埋め尽くし異常な雰囲気で、そこを通って県庁に入るのが怖いようでした。
かれらの闘争の常套手段はこちら側の発言の中から彼らに都合のいい言葉だけを取り上げて、つまり作文をしてそれをマスコミに流す、誤報ですね。それが新聞記事になる。

 はじめ県教委は、教師である彼等の意見を聞こうと考えたようですが、彼らは勤評自体に反対で勤評粉砕を叫んでいる以上、もうこれ以上不毛の話し合いを続けることはない、却って誤報を新聞に流されたりして、県民を迷わせることになると、十月三十日に教組との話し合いを打ち切り、翌十一月一日に勤務評定実施に踏み切りました。
 
  勤評断行(略)

  はじまりは四面楚歌(略)
 
  松山市の校長の動き

 そのうち、松山市の数人の校長は「これはちょっとへんだぞ」と思い始めたのではないでしょうか。余りにも暴力的な組合のやり方に疑問を持ちはじめ「自分は一校を預かる校長としての責任がある」と思い「それが組合員と一緒になって騒いでいていいのか」と考え始めたのです。県下の小中学校校長八百人の大会で松山市の校長が組合とは別の校長会の結成を提案しました。これは否決されましたが、この提案は十二月になって松山市の校長二十名が組合に脱会届を出すことによって実施されました。これは勇気の要ることでした。いっぽう、組合にとっては背中に冷水を浴びせられたような気がしたことでしょう。

  そのころ、社会党の国会議員はこの問題を国会闘争に持ち込み参議院文教委員会で審議することになりました。勿論、勤評阻止策です。しかしこれは見事に失敗しました。社会党の勤評反対の論拠はコテンパンにやられてしまいました。

  勤評書提出のいろいろ(略)

  「スターリン」に押さえ込まれた周桑郡(略)

  第二次勤務評定紛争(略)

  戦闘開始「校長を監視せよ!」(略)
 
  評定書封印事件(今治)(略)

  宿屋は大騒動(小田町)(略)

  住民意識の変化

 この騒動で注目すべきは一般住民の意識です。宿屋での騒動の後、小田町の校長先生たちは前言を翻して再び提出拒否の側に回ったので、町教委は再度校長との話し合いをもち、その席に各校のPTA会長にオブザーバーとして来て貰った。

 そのときのPTAの発言の一、二を挙げます。
 「勤評が悪法なら改正するよう努力するのが本筋です。しかし改正は合法的手段でやってほしい。私は今の勤評の法律は遵守すべきものと思っています」
 「勤評の内容が不備だから提出できんというが、日教組の団結が壊れるから提出できんというのが本音のように思われる」
 「先生方は、昇給した先生と昇給しなかった先生に対して子供の信頼感がどうのこうのと言うけれども、子供は毎日先生を評定しています。月給の多寡によっては子供の信頼はつなげません。もしも先生方が子供の目をそれほど甘く見くびっておいでなさるのなら問題は大きいと思います」
 かつてのPTAは学校の先生の指示どおりに動いていましたが、勤評騒動の有様をみているうちに山の住民もこれは…と思い始めたようであります。

  権力のイヌ論争(三間町の紛争)(略)

  猛烈な阻止活動のなかで(略)
 
  勤評闘争大詰め(略)
 
  終 焉

 組織の危機、これ以上闘争を強行すれば県教組は崩壊するぞと緊急戦術会議が開かれました。日教組の委員長はじめ幹部は全員松山に詰めていましたし、社会党も浅沼稲次郎書記長ほか党幹部が大勢来て直ちに秘密会議、これ以上勤評闘争を続けるかどうかで、県教組はヤメたといい県外の連中は続けろで、怒号乱れ飛ぶ徹夜の議論でもまだ決まらず翌日もエンエン九時間の論争で全員朦朧となってようやく、いったん全校勤務評定書を提出して事態の収拾を計ろうということになりました。

 完全な敗北であります。
 十二月十四日似は県下の全小中学校七百六十七校の評定書がそろいました。

 その翌日の十二月十五日、日教組の小林委員長は、誰一人見送る者も無い国鉄松山駅から、たった一人で汽車に乗って帰るのを、読売の記者が見つけて「日教組の委員長、一人淋しく去る」と言う見出しの記事を書いておりました。

  おわりに

 いったい日教組は愛媛県に何をしに来たのでしょうか。

 日教組六十余人の中央執行委員のうち四十七人を松山に派遣し、各府県からのオルグ述べ二千四百七十人を投入して連日連夜県下全域を走り回らせ、闘争資金として本部や総評傘下の労組からのお金を合わせて二億とも五億とも言われるお金を(当時ハガキは五円でした)消費しただけでなく、結果として、県教組から組合員の殆どが逃げ出し、愛媛の組合はボロボロに崩壊して見るかげもなくなりました。いったい日教組はなにをしにきたのでしょうか?
 竹葉先生の「ジュネーブ行」に次の一節があります。

 ―――天は私に幸をもたらしたと言うべきか。県教組・日教組の勤評反対闘争は激烈を極め、地評、総評まで加わり、県会・国会の政治闘争にまで発展し、まさに天下を二分する戦いとなった。が、これによって父兄や一般の人達は、日教組が如何なるものか、その本性を始めて知って愕然とし、また各地に義挙の旗が立って、この戦いは全国的となった。

 日本教育の正常化は未だ出来上がらず、その前途は未だ遠いけれども、その曙光が見え始めたのは、この勤務評定によってであり、もしこれ無かりせば、日本教育の正常化は更に困難であり日時を要したことと思う。その意味で確かに神助であった。―――と。

 竹葉先生は勤評のことは「あれは済んだことだ」と余り話したがらなかったのですが、たまに、こんなふうに言われました。

 「あれは、鋤で土をひっくり返したようなもので、本当の教育はこれから始まる.土をこなして、種をまいて、水や肥料をやり、そして大輪の花を咲かせねばならない。そのなかで一番大切なことは、この日本がどんなに美しい国か、それを教えることだ。そして一人一人がどんなにすばらしい輝きを持っておるか、それを更に輝かせるような教育をしなければならない。そのような愛媛のすばらしい教育がいずれ花開く時が来る」と。
                            
 これで終わりにします。


h14.11.24 「愛媛を愛する会フォーラム」においての講演より

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栃木県足利市のニュース記事

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