« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月

2015年1月28日 (水)

佳子さま中退に、皇室懐柔勢力を垣間見た (2015年1月28日)

これは、佳子さまが中退された、学習院大学文学部教育学科の教員一覧である。
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/edu/staff.html

この教員紹介を見て、単純に思ったことがある。
これがまともな大学教員だろうか、と。
今の大学、特に私学にはまともな教員はいないというが、その一例のように見える。

公に開示するHPで、こういう服装の写真を載せて平気でいる教員と、それを注意しない、あるいはよしとする監督の立場の教員、…このページをさっと眺めただけでも、いろいろな雰囲気が推察できる。

そして、もう一点は、見る人が見れば感じるだろうが、どことなく漂うサヨクのにおいである。各教員の専門や著書名からして、保守愛国や伝統重視の発想は見られない。

皇室に配慮し、伝統として皇族方が通われた学び舎という雰囲気が、どこからも感じられない。
まるで、三流専門学校の雇われ講師のような面々だ。

元来、東京近辺の有名私学は、東大植民地などと言われていた。東大の大学院を出ても国立系ではポストが足りず、都内や近郊の私学に就職し、やがて実績を上げて、他の国立大学に移ったり、ずっとその私学に居座ったりするのである。

この教育学科には、学習院出身の教員は何人いるだろうか。たった一人だけである。私学の老舗と言われる早稲田大学や慶應義塾大学には、無論、学問的業績が確かであるのは言うまでもないが、まだ、卒業生を迎えるという気風が残っている。

しかし、学習院全体に、学習院のよき伝統を受け継いでいくという雰囲気は、微塵もみられない。
今の大学は皆そんなもんだ、という意見もある。それでも、学習院は、そうであってはならないはずだ。
そうであってはならないという誇りが失われつつあるのか。そう仕組んでいる勢力があるのか。

大学側は、佳子さまをお迎えするために作られたような学科だと言うが、一見してわかるこれら教員の品位のなさ、頭の悪さ、信念や熱意のなさ、サヨクのにおい、などからして、真剣な覚悟をもって人選を進めたとは思えない。

むしろその逆のような気もする。
推測に過ぎないが、「学習院内の一部の勢力」が、おそらくは「何がしかの背後の勢力」と相通じ、相互の了解をもって、佳子さまのための学科新設を、「皇室弱体化」あるいは「皇室懐柔」の好機とみたに違いない。

この学科の監督の立場にある主任教授(責任者)・諏訪哲郎(フォト上)は、中国・韓国贔屓の教授であり、教育学科の第二外国語を、中国語と朝鮮語だけの二者択一に絞るという、異様な決定をした張本人である。

語学であるから当然、必修科目であり、四泊五日の中国か韓国への研修旅行もカリキュラムに組まれている。交流目的で、昨今、反日の材料となっている記念館や資料館に案内されるかもしれない。
極端なことを言えば、教授の権限や指導で、学生に、それぞれの特定の地で、こうべを下げさせることもありうるのだ。

▼佳子さまが、他の学生とともに、中国あるいは韓国国内で、頭を下げるという姿を、学習院は期待したのだろうか。▲

もしそうなら、由々しい問題である。

諏訪は日中韓環境教育協力会http://www.tuat.ac.jp/~asaoka/nichukan.htmlという独自の団体をつくり、自らその代表を務め、連絡先は学習院大学教職課程諏訪研究室としている。つまり、自分の研究室である。

この団体が何をめざし何をしてきたかはサイトを読むしかないが、「東アジア環境教育ワークショップ」なるものを通じ、日本・韓国・中国の教員が深く交流することだけは確かなようである。そして現在もこれは進行中である。。(フォト下・ワークショップでの記念写真)

日中韓環境教育協力会を母体とし、日中韓環境教育指導者育成会
http://www.erca.go.jp/jfge/subsidy/organization/act_repo/report19/143.htmlができており、独立行政法人・環境再生機構の地球環境基金から、360万円の助成金を受けている。

学習院の学生がそれに参加しなければならないという記述はないものの、諏訪の研究室にこの育成会の事務局があるわけで、学生は自動的に事務手続きや電話連絡などを手伝うはめになる。

全くよそでおこなわれていることではなく、自分たちの指導教員が、自分たち学生に単位を出す教員らが、情熱的におこなっていることについて、学生がその渦の中に巻き込まれていくのは自然の流れである。

外交と教育に関しての交流は別というが、学生主体の団体でないだけに、却って、その動機に不純なものを感じざるを得ないのである。

学習院のグループには学習院女子大学がある。兄弟大学であるが、主導権は学習院大学にある。

そこでは、1998年から2009年まで、社民党・元党首・福島瑞穂が教鞭をとっていた。
身分は客員教授だから、在籍教授ではなく、一種の契約教員である。

担当は、共通基礎科目群の法学Ⅰ・Ⅱで、法律というもののありかた・法的なものの考え方を習得する科目である。(共通科目(外国語を除く) 平成21 年度授業科目および担当者http://gwcsyllabus.gakushuin.ac.jp/kougi2009/binran/pdf/p107_116.pdf
講義は、Ⅰが春学期、Ⅱが秋学期におこなわれ、それぞれ2単位で計4単位である。

法律に詳しい人間が法学を教えるのは不思議ではないが、何も福島瑞穂でなくても、教養科目の法学など教えられる人間はいくらでもいる。

1998年までは政界にはいなかったが、すでに第二東京弁護士会内部では、人権派弁護士としてサヨク思想の持ち主であることは知られており、事実、反日テレビの政治討論番組にはよく出演していた。当選するために顔を売っていたわけである。

なぜ福島瑞穂でなければならなかったのか。法律の研究者としての業績があるわけではない。一介の弁護士であったに過ぎない。たとえ客員でも、誰でも連れてこれるわけではない。
つまり、誰かが紹介したか、誰かが呼んだか、誰かが仲介したはずだ、と推量するのが正しい。
紹介する側も、受け入れる側も、双方にとって何がしかの目算があったのである。

学習院女子大学が福島を採用したことは、政治を多少知るふつうの国民の感覚として、まるで「水」と「油」の人事なのである。キリスト教系の北星学園大学が、すべて承知の上で、植村隆を非常勤講師として採用したのとは違うのだ。

1998年といえば、社民党から参議院比例区で初当選した年であり、名実ともに社民党の代議士となった年だ。2009年までに、三たび党首に選ばれ、2009年9月16日、鳩山内閣において内閣府特命担当大臣に任命されるに当たり、大学を去っている。

上の推測を繰り返す。
「学習院内の一部の勢力」が、おそらくは「何がしかの背後の勢力」と相通じ、相互の了解をもって、佳子さまのための学科新設を、「皇室弱体化」あるいは「皇室懐柔」の好機とみたに違いない。

これらの事情を、畏れながら、母親の紀子さまは、卒業生として肌に感じ、推察されていたはずだ。父上の川嶋辰彦氏(東大経済学部卒)は学習院大学経済学部の教授であり、そちらからの情報もあっただろう。

ご自身が学習院大学のご出身ながら、ご出産・育児と並行して、学問研究も進められ、2013年3月には、お茶の水女子大学で博士の学位を受けられている。翌4月に、佳子さまが学習院大学に入学されている。

誠実な研究を進められてきた紀子さまにとっても、佳子さまの学習環境を憂慮したに違いない。ただでさえ、あのような弱体な教授陣の並ぶ学科に、佳子さまを委ねたくなかったであろうし、ましてや、中国・韓国しか頭にない人物が責任者であるような教育環境に、危機感を抱かれたのだろう。

佳子さまの中途退学は、本人の申し出があったからとされている。両殿下はそれを翻意させ、あくまでも学習院で学ぶということに固執しなかった。両殿下のご英断であった。
母親としての紀子さまが、秋篠宮妃となる前から、ありうべき日本人であったことがうかがえる。

以上は私の推測の域を出ない。しかし、合理的疑いは残る。
この推測が当たっていたとしても、両殿下や佳子さまご本人が、こうした理由を口にするはずもない。

「学習院内の一部の勢力」が、おそらくは「何がしかの背後の勢力」と相通じ、相互の了解をもって、佳子さまのための学科新設を、「皇室弱体化」あるいは「皇室懐柔」の好機とみたに違いない。・・・

入試という観点からみても、学習院大学は、偏差値的に、かつての「やや難関」という領域から、ずっと下がってしまった。
質の低下も問題である。

穿(うが)った見方かもしれないが、もし以上の推量が当たっているとすれば、この質の低下をも、どこかの誰かが仕組んでいるように思われてならないのである。

Ph_sp15_a

Image041

2015年1月15日 (木)

共産党を勢いづかせてはならぬ  (平成27年1月15日)

あす1月16日(金)午後、「君が代」裁判第三次訴訟の判決がある。同じ案件で、三審制の訴訟手続きを踏んで、最高裁までいったから、三次訴訟なのではない。
連中が勝手に、そう呼んでいるのである。

2003年10月23日、東京都教育委員会は、入学式・卒業式などの儀式で、国旗掲揚・起立しての国歌斉唱を励行するよう、都内各校に通達を出した。

その後、これに反対し、君が代不起立などの反日教師らは処分を受け、その数はこれまでに延べ463名に上る。延べというのは、同一人物が懲戒処分を受けている場合もあることを指す。

このうち、2007~2009年の間に、入学式等でこの通達に違反し処分された教職員50名が、処分の取消を求めて訴訟を起こした。

彼らにとって都合のよかったのは、2012年1月16日、最高歳判決で1名、減給処分が取り消され、2013年9月6日、22件21名が、減給と停職処分を取り消された点である。
彼らはこの二つの判決を、実質的に、運動の一部勝利につながるとして快哉を叫び、一次訴訟・二次訴訟と名付けた。

この一連の最高裁の判決を受けて、あす16日、処分取り消しについての判決を出すのは、東京地方裁判所(民事11部、裁判長・佐々木宗啓)である。
一部勝利といっても、大半の者は処分取り消しがなされていないので、最高裁判決に縛られる地裁判決で、処分相当の判断が覆されることを望んでいるわけだ。

原告数50名、請求内容は、懲戒処分(戒告、減給、停職)の取り消しと、この処分により蒙った精神的苦痛に対する損害賠償(1件55万円)である。被告はもちろん東京都教育委員会であり、当時の石原都知事ではないが、当然、間接的な意味での石原都政に対する批判が根本にある。

午後3時には、地裁3階にある司法記者クラブで、原告代表が記者会見をおこなうことになっている。

そもそも、われわれからすれば、あたりまえの通達に対し、それに反対し処分を受けたから、今度は法廷闘争になる、という方向自体が、全くもって不可解であり、滑稽であり、恥知らずもいいところだ。

入学生・卒業生、その父母、来賓の前で、国旗を引きずりおろし、国旗を掲揚しないよう妨害し、国歌斉唱時に起立せず、あるいは国歌を声に出して斉唱しないとは、自分たちが、生徒に誤った自虐史観を教え込む予定であり、また、今まで生徒にそうしてきたという証しでもある。

まして、損害賠償まで請求するとは、サヨク弁護士の入れ知恵も去ることながら、自分たちの責務をどう考えているのか、、理解に苦しむ。

日教組は、全体でその組合員数を減らしてきてはいるが、依然として約25万人が加盟しており、都道府県によっては、ほとんど組合員のいない県もあれば、日教組天国になっているところもある。

この処分取り消し運動を支援しているのが、都教委包囲・首都圏ネット(http://houinet.blogspot.jp/)である。代表電話は携帯電話だけであり(090-5415-9194)、発足は2004年5月22日となっている。通達が出たあと半年後にできており、俄かにつくられたサヨクネットである。

この連中は、昨年3月、都立高校の卒業式の日、足立区をはじめとする各高校正門前で、ピンクのチラシを配っていた。今年もこれをやる、と宣言している。

このネットが個人的に頼りにしているのが、君が代不起立で処分を受けている根津公子(ねづ・きみこ)である。
「私が立たなかったことで、だれが迷惑を受けましたか」などと書いた札を、平然と自分の勤務する中学校の前で掲げている無神経な反日教師である。

この根津は、ヒマなのか、よく都議会の傍聴に行き、その話をHPに掲載している。これをよく引用するのが、都教委包囲ネットである。(根津公子さんのページhttp://www.din.or.jp/~okidentt/nezusan.htm

そのほか、集団的自衛権解釈変更のあとは、都内行事における自衛隊の参加などに事寄せて、何でも短絡的に、軍事国家への変貌の危機、というふうに捻じ曲げてとらえており、折にふれ、都庁前や日比谷公園などで声を上げている。

あすの地裁判決は、連中にとってもわれわれにとっても、それほど驚く判決とはならないだろう。
しかし、甘りにもぬるい判決が出るのは問題だ。
それはどういうことか。

衆院選での結果もあり、国民がこれを選択しているのであり、全体的にサヨクは目下、意気消沈気味であるが、都議選・衆院選と議席を増やした共産党は、その逆である。
そして、このネットを陰で支援しているのは、当然ながら日本共産党だ。

衆院選前に、日本母親大会連絡会なる団体が、集団的自衛権反対のため、全国各地で、赤紙に似せたビラを撒いた。この団体の本部は、千代田区二番町12-1全国教育文化会館(エデュカス東京)B1にあり、同ビルには都教組がその4Fに同居し、5Fでは東京総合教育センターという名称で、教育相談も受け付けている。
これらすべて、共産党系の組織である。

根津公子は、昨年夏、中核派支援の弁護士・鈴木達夫が主催する、8・17大集会と銘打った安倍政権打倒集会に、来賓として出席し演説している。同じくこれに出席し演説していたのは、全学連中核派委員長・齋藤郁真、 動労千葉委員長・田中康宏、長崎原爆式典で平和への誓いを読み上げた城臺(じょうだい)美弥子である。

畑違いの者らが、一同に会するのは、それぞれが弱体である証拠でもあるが、打倒安倍政権という点で一致するなら、なりふり構わないということでもある。

城臺美弥子はNAZEN(すべての原発いますぐなくそう!全国会議http://nazen.info/index.php)の集会に来賓として演説している。NAZENの代表は、元中核派委員長・織田陽介である。

鈴木達夫は、先月の衆院選に、東京8区(杉並区)から出馬し落選したが、顧問弁護士である動労千葉から支援を受け、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)も全面的に支援した。逮捕された法政大学の中核派学生の弁護を、積極的に引き受けているのも鈴木だ。

こうして、サヨクは今、小異を捨てて安部政権打倒という大同に就いており、その手綱を大元で握っているのは共産党である。
一介の反日教師の処分取り消し訴訟といえども、結果的に共産勢力を勢いづけるような判決だけは出してほしくないものだ。

あすの判決が、万一、連中を喜ばせるようなものとなっても、それは司法の世界のことであり、50名の不届きな教師の話である。悲観することはない。

安倍政権は、休むことなく、日本を取り戻すために、正規の行政手続きをもって、愛国心回帰のための政策を実現せんとしている。
起立しての国歌斉唱にしても、国旗掲揚にしても、この10年近く、おおかた守られてきた。
本来、通達など出すようなことではないが、出す必要がある時代があったということだ。

国民に、そして将来を担う若い世代に、愛国の心を説いていくには、まずその根本である学校教育を改善しなければならない。
同時に、日教組や反日教師、仕事をしない教師を、排除していくような制度改革も、待ったなしの状況にきている。

B6agywhcqaagbth

Nedu05531

Image1_thumb3





B7x5calcyaa04rr

B7x5cdqciaanxt

2015年1月14日 (水)

映画 『荒馬と女』

監督:ジョン・ヒューストン、脚本:アーサー・ミラー、 撮影:ラッセル・メティ、音楽:アレックス・ノース、主演:マリリン・モンロー、クラーク・ゲーブル、モンゴメリー・クリフト、1961年、124分、モノクロ、原題:The Misfits (順応できない者)

ジョン・ヒューストンがモンローを使うのは、フィルム・ノワールの『アスファルト・ジャングル』で端役として使って以来、二度目。モンローの事実上のデビュー作と遺作を撮ったことになる。

モンローは、映画公開翌年1962年8月、36歳で謎の死を遂げ、ゲーブルは撮影完了直後、1960年11月、59歳で他界している。

離婚天国といわれるネバダ州リノで、ロズリン(マリリン・モンロー)は、離婚を支援してくれるお手伝いのイザベル(セルマ・リッター)とともに法廷に向かう。
簡単に離婚が成立した直後、夫の残した車を修理したグイド(イーライ・ウォラック)を通じ、居酒屋で、グイドの友人ゲイ(クラーク・ゲーブル)と出会う。

成り行きで、ロズリンとイザベルは、郊外にあるグイドの家に、ゲイと車で向かう。
まだ完成しきっていないグイドの家で、四人は酒を飲み、ダンスを踊って、楽しく過ごす。

セスナ機に乗って野生馬の群れがいることを知ったグイドは、それを捕えて業者に売るため、ゲイを誘うが、もうひとり人手が必要なため、たまたま開かれるロデオ大会で、相棒を見つけようとする。
野生馬のことを、彼らはムスタングと呼んでいた。

偶然、二人の顔見知りであるパース(モンゴメリー・クリフト)を見かけ、ロデオ大会の後、野生馬確保の約束をする。
ロズリンは、暴れ牛から振り落とされたパースのケガを心配するが、男たちは気にも止めず、翌朝の野生馬捕獲の準備をする。

当日、セスナで六頭の野生馬の群れを見つけ、グイドは低空飛行で追い回し、ゲイたちのいるところへ馬を走らせる。
セスナから降りたグイドが運転し、ゲイとパースは荷台から荒馬にロープを投げる。ロープには重いタイヤが結ばれており、馬の動きが止まったところを、三人がかりで一頭二頭と倒し、足首を結わいて動けなくする。

しかし、特に親子馬の両親を捕えた光景を見て、ロズリンはたまらなくなり、遠くから、あなたたちは殺し屋も同然だ、と絶叫する。

自責の念を感じたパースは、馬のロープを切るが、そのうちの一頭にはまだロープが巻き付いており、ゲイは格闘の末、一頭を捕え、ロープの端をトラックに結びつける。
が、そこまでし終わってから、そのロープを切り、ロズリンに言われたからではなく、自分の判断で馬を放したのだと言う。・・・・・・

モンロー主演であり、西部劇風の作品といえども、お色気作品どころか、すこぶる文学的・哲学的な含蓄を撒き散らした映画である。ただでさえ、あまりヒットしなかった作品であるから、モンローやゲーブルなしでは、ほとんど見向きもされなかったであろう。

西部劇に詩情を乗せることに成功した作品であると言われる。
その詩情とは、人間の生死という、深淵であるがわかりやすく根源的なテーマではなく、男と女、都会と田舎、拘束と自由、完成と未完成、といったテーマで表わされており、モンローの出演作のなかでは、最も難解な作品と言える。

脚本のアーサー・ミラーは、モンローの最後の夫であったが、この脚本が書かれたころと違い、現実には夫婦の関係はほとんど破綻していたという。円満な関係であったときだからこそ、ミラーも、こうした作品をモンローのために書けたのかもしれない。

この錯綜したテーマを、映画としてうまく撮れたのは、やはり監督ヒューストンの力量だろう。
荒馬を捕獲するシーンは、ほとんどアクション映画のシーンに似て、緊迫感をもたせ、カットをうまくつなぎ、迫力あるものとしている。

前半は、離婚した直後で、目的もなく奔放であり、ロズリンは、ヒマをもてあそぶような女としてしか描かれない。やがて、ゲイたちとかかわるうちに、ロズリンの心には、徐々に、はっきりした意志が芽生えてくる。

ゲイが、庭にレタスを植えたものの、野ウサギが荒らしているようだから、これを殺さなければならない、と言うとき、ロズリンはそれに反対する。馬を倒した後、三人が六頭の馬を業者に売るといくらになるか相談するのを聞いて、ロズリンの心は破裂する。

三人の男たちは、結局、ロズリンの言うとおり、馬を放し、ゲイとロズリンは、車を走らせる。
どこに向かうの?と聞くと、あの大きな星の下に道はある、とゲイが答える。

難解な映画であるが、モンローは美しく撮られており、ゲーブルも野性味あふれる西部男をうまく演じている。
モンローについては、おそらく、髪型を含め、ふつうの女優として映されたなかで、最もきれいに撮られた作品かもしれない。

手伝い役のセルマ・リッターは、『イヴの総て』では、マーゴ・チャニング(ベティ・デーヴィス)の付き人を演じ、この映画でも、ロデオ大会までロズリンに付き添うおしゃべりな婦人を軽妙に演じている。

音楽はアレックス・ノースで、時折入る不安をイメージするような旋律は、ロズリンの揺れる心を映し出すかのようだ。ノースは、映画音楽の巨匠となるジェリー・ゴールドスミスが師と仰いでいた人物だ。
スタンリー・キューブリックは『2001年宇宙の旅』の音楽をノースに依頼したが、ノースに無断で、シュトラウスの『美しく青きドナウ』などクラシックの既成曲ばかりを採ることにしたため、それを知り、ノースが怒り狂ったというのは有名な話だ。

タイトルバックには、当時珍しかったと思われるジグソーパズルのピースが出てくる。順応しないことをイメージしてのことだろう。

Misfits


50708_w600


Mf05

2015年1月11日 (日)

映画 『ノックは無用』

監督:ロイ・ウォード・ベイカー、原作:シャーロット・アームストロング、脚本:ダニエル・タラダッシュ、撮影:ルシアン・バラード、音楽:ライオネル・ニューマン、主演:リチャード・ウィドマーク、マリリン・モンロー、1952年、76分、モノクロ、原題:Don't Bother to Knock

ニューヨークのホテルが舞台で、全編が室内劇。

ホテルのバーの歌手として歌うリン・レスリー(アン・バンクロフト)は、宿泊中の恋人ジェド・タワーズ(リチャード・ウィドマーク)との結婚に、踏み切れず、一方的に別れ話をもちかけていた。

ジェドはバーに来て、リンとやり直そうと話すが、話がつかず、へやに戻ると、中庭のはさんだ向かいのへやに、ネル・フォーブス(マリリン・モンロー)の姿を見つけ、内線電話で話す。

ネルは、このホテルでエレベーターボーイを勤めている叔父のエディに呼ばれ、ジョーンズ夫妻がホテル内のパーティで不在になる深夜まで、幼い娘バニーのベビーシッターを引き受ける。

バニーを寝かしつけると、ネルはこっそり、夫人のネグリジェをまとい、イヤリングをつけて、悦に入っていた。
そこにジェドからの電話があり、半信半疑ながらも、自分のへやに招き入れる。

ネルの恋人はパイロットであったが事故死しており、ネルは精神を病んだが、最近ようやく正常な状態に戻ったばかりなのであった。
しかし、話すうち、ジェドもパイロットであることを知り、ジェドが恋人フィリップだという妄想を描くようになり、異様な行動をとるようになる。・・・・・・

原作は、シャーロット・アームストロングの小説『ノックは無用』で、原題は 「Mischief」(いたずら)である。

モンローが、『ナイアガラ』(1953年)で一躍トップスターになる前年の映画であり、シリアスで難しい役柄を演じた最初で最後の作品である。

モンローはすでに、『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』(1950年)などで、スクリーンに強烈な印象を残しており、この作品の後、オー・ヘンリー物語を元にした『人生模様』(1952年)で、名優チャールズ・ロートンと共演し、そこそこの演技を披露しながらも、『ナイアガラ』で悪女ローズを演じ、その容姿やスタイルのほうに、人々の注目が移っていく。

有名になってからも、『帰らざる河』(1954年)、『バス停留所』(1956年)と、演技力のいる役柄をこなしていく一方で、20世紀フォックスの作り上げたセックス・シンボルというイメージと本来の自分との間の軋轢に悩み、精神安定剤の助けを借りるようになってしまう。

遺作となった『荒馬と女』(1961年)は、最後の夫アーサー・ミラーの脚本による哲学的な作品であり、およそ男女のなせる単純な物語ではない。そこでもモンローは精一杯の演技を披露している。

舞台出身のアン・バンクロフトは、この作品が初の映画出演であり、後に『奇跡の人』(1962年)でアカデミー賞を受賞する演技派である。

リチャード・ウィドマークは、すでに悪役俳優として名を馳せており、この作品あたりから、ふつうの男や西部劇などへと演技の幅を広げていく。『拾った女』(1953年)はウィドマーク主演の最高傑作だ。

音楽のライオネル・ニューマンは、モンロー主演の『紳士は金髪がお好き』(1953年)、『帰らざる河』でも音楽を担当している。なめらかな即興調の旋律が、内容にマッチしている。
兄のアルフレッド・ニューマンは、多くの映画音楽を生んだ大御所で、モンロー作品では、『イヴの総て』』『ショウほど素敵な商売はない』(1954年)、『七年目の浮気』 (1955年)、『バス停留所 』で音楽を担当している

この作品は、戦後、アメリカ映画が全盛時代を迎えんとするときの、ジャンル分けの難しい映画であるが、この作品を含め、ややサスペンスタッチの映画が、犯罪映画としてのフィルム・ノワールの枠をはずし、サスペンスというジャンルを確立していく過程で生まれた作品でもある。

ホテルの向かいのへやにいる男女が主役になるというシチュエーションは、スタンリー・キューブリックの実質上のデビュー作『非情の罠』(1955年)でも使われている。
ホテル内だけが舞台となる映画としては、グレタ・ガルボ出演の『グランド・ホテル』(1932年)が有名だ。

概しておもしろい作品とも言えないが、モンローの演技、ホテル内に絞った舞台設定、軽妙な会話は、このころのアメリカ映画の定番であり、ある意味、安心して楽しむことができる。

バニーを寝かしつけたあと、特にすることもなく、夫人の服を勝手に身につけ、たまたま鏡台にあった宝石類を見るうちに、イヤリングをつけ、香水をつけ、口紅をつける。モンローひとりのパントマイムだが、質素な身なりの娘が女らしさを取り戻していくようすがほほえましい。そのさなかに、手首の切り傷も映される。

ノックは無用とは、ホテルのへやのノックは無用(=ジェドに入ってきてもらいたい)というよりはむしろ、私(=ネル)の心にジェドが入るのにノックは無用、という意味だろう。

ジェドは、このネルとの一件をリンに話すことにより、リンとジェドは元のさやに納まるのである。

ネルが、バニーを縛ったりしたことで、ロビーのひと隅に追いやられ、カミソリで首を切ろうとするが、ジェドとリンがそれを止め、警官に引き渡される。その際、ネルがひと言つぶやく。

貴方たち(ジェドとリン)は、お互いに愛し合う人たちなのね・・・と。

開店扉に姿を消すネルの姿は、何とも哀れである。

17375view001


O0500037511244286534


8987d3627fa38cc04d397f51a564d803

2015年1月 1日 (木)

会報「靖國」 (平成27年1月号(714号)より)

<一月社頭掲示>
          

           遺     書

                           陸軍軍曹   本多 正 命

                              昭和十九年二月二十四日
                              マーシャル諸島ブラウン島にて戦死
                              東京都新宿区牛込改代町出身  二十四歳

妹へ

呉々も身体に注意して俺の分まで母さんに孝養を尽してくれ。

古来の日本婦人の如く、又、母さんの様に我を強く内に蔵して

しとやかな日本婦人になる様修養してくれ。

よき母こそ日本を実に興隆させる原動力になる事を自覚して。

   言ふなかれ一髪のみと我が魂は

   七度生まれ祖國守らば

                                             正

澄子殿

*****************************

<記事より>

防衛大学校学生
靖國神社まで夜間行軍実施

十一月二十九日午後から翌朝にかけて、防衛大学校学生三七二名が、同大学校(横須賀市)から靖國神社に至る七十五キロの夜間行軍を行った。

一行は四隊に分かれ約十八時間をかけて行軍し、翌三十日朝、靖國神社に到着した。その後、制服に着替え昇殿参拝。引き続いて遊就館を拝観した。

尚、この夜間行軍は、昭和三十六年に学生有志十二名が行って以来、学生の自主的行事として毎年続けられており、本年で五十三年目となった。

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »