« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月

2014年12月31日 (水)

今年を振り返って~この一年の漫画史 (2014年12月31日)

漫画史、とは、またオーバーなタイトルになってしまった。

昨年今頃、大友克洋の『AKIRA』をアニメで観たのをきっかけに、その後、まんだらけ各店のお世話になって、かつての大友作品をほとんど集め、片っ端から読んだ。

単行本『AKIRA』を全巻読んだのを初め、『アキラ絵コンテ集』『童夢』『気分はもう戦争』『ヘンゼルとグレーテル』『さよならにっぽん』『ハイウェイスター』『ショートピース』と遡り、また戻って『GOOD WEATHER』『BOOGIE WOOGIE WALTZ』『彼女の想い出…』『SOS大東京探検隊』を何度となく読んだ。これらの作品は、折に触れ手にしている。

『AKIRA club』『アキラ・アーカイヴ』も、探し求めてパラパラと眺め、読んだ。『POSTERS』『武器よさらば』も発売されるのを待って購入した。

これを契機に、鉄雄のフィギュアを買ったり、GENGA展での缶バッジを集めたりと、思いもよらぬ方向に進んだ。アニメ『交響詩篇 エウレカセブン』を、全巻通して見たのも、春頃だった。

大友作品は、その時代を反映している。ほぼ同世代である私は、なぜこんな漫画を描いたのだろうか、という大友の心理を、憶測しながら読む楽しみもあった。

大友作品は、絵が細かい。ストーリー展開のおもしろさもあるが、映画同様、その絵や、ページを繰ったときに現れる次の絵の印象も強い。

漫画で人気が上がると、今ではアニメになる。どちらも楽しめるが、アニメは漫画から生まれたものでもあり、漫画そのものにしか味わえない描写というものがあるのも確かだ。
アニメで観てつまらなくても、本のほうがおもしろいということもあるし、その逆もあるのだろう。

その後、勧められて『攻殻機動隊』をアニメで多少見たが、これは合わなかった。だた、せっかく近くの西武デパートで8月、その大原画展をやっていたので、それには出かけた。

それより前、この春に出会ったのが古舘春一の『ハイキュー!!』であった。

高橋留美子の『めぞん一刻』、あだち充の『みゆき』『タッチ』あたりから始まり、紹介されて、山岸凉子の『日出処(ひいづるところ)の天使』、高野文子の『絶対安全剃刀』など、おそらく片寄った作品を見てきた。
その後、映画のほうに関心が移ってしまった。

そのせいか、いわゆるスポーツ根性ものというのは、実に久しぶりに新鮮に感じた。
当時、スポ根ものは先が見える感じがして、大島やすいちの『バツ&テリー』を最後に遠ざかっていたが、やはり、漫画の本道を行くものとして、手を変え品を変えていても、読んでいて、熱くなるし感動もする。

『ハイキュー!!』は、7月からDVD・BRも出て、単行本も先週、14巻が発売された。さまざまなグッズも出ており、水道橋のジャンプショップやアニメイトに行くようになったのも、『ハイキュー!!』の影響である。
同じ作者の『詭弁学派 四ッ谷先輩の怪談。』もおもしろかった。
どうも、ああした吊り上がった目の顔が好きみたいだ。尾田栄一郎の『ONE PIECE』は、顔や図柄が幼稚で、ついに好きになれずじまいであった。

こうした延長で知ったのが、渡辺航の『弱虫ペダル』だ。これもなかなかおもしろい。YouTubeで全部見た。
『ハイキュー!!』と違って、登場人物がとても高校生には見えないが、中盤からはインターハイでの自転車競技部としての活躍にテーマが移り、部員相互の切磋琢磨から、他校のメンバーとの競争や駆け引きが出てきて、かなり引っ張られる。
これは相当巻数が出ているので、本は一部しか買ってない。アニメは2期目が放送中だ。

『ハイキュー!!』との共通点は、主役が小柄で恥ずかしがり屋である点だ。しかも、それぞれ、潜在的な力をもち、それが周囲の助けもあり、次第に開花していく。

両方好きだが、あえて比較すれば、やはり『ハイキュー!!』のほうが好きだ。
いろいろ分析するに(あまり分析するとつまらなくなるので書きませんが)、一種独特の、といっても、ごく一般的な、「健康な泥臭さ」がある。そこがいい。

絵もうまいが、自転車競技を描く『弱虫ペダル』のように、車輪や疾走感などの表現として常に細かい線があるわけではない。そのかわり、ここぞというところに、多くの線が入る。ところどころ、ボケたようなおかしさを入れているのもいい。

御堂筋翔(みどうすじ・あきら)のような、変態じみた駆け引き人間も出てこない。
キャラクターの多く、特に、主役の日向翔陽(ひなた・しょうよう)と影山飛雄(かげやま・とびお)は、どこまでもまっすぐで、どこまでも単純バカで、とても憎めないほどに愛くるしい存在だ。

インターハイでの初戦で、烏野(からすの)に負けた常波(とこなみ)の池尻隼人(いけじり・はやと)や、初戦敗退のシーンのフラッシュバックでは、さすがに涙した。落としどころを用意してあるのも、この作品を魅力あるものにしている一因だ。実際に、池尻隼人や道宮結(みちみや・ゆい)の存在のほうが、はるかに多いのだ。

『ハイキュー!!』も、アニメ2期放送が決定したようだ。切れのよいところで、きちんと一期を終わっているというのも好感をもてる。
アニメについては、ほとんど原作に忠実なのだが、動画の特性を、うまく演出に使えている。アニメのスタッフもすべて、仕事として扱う以上に、『ハイキュー!!』という作品を好きなのだろうと思う。

こうした過程で、もうひとつくらい抱えられると思い、手を出したのが、葦原大介の『ワールドトリガー』であった。これは何とか8巻まで来たのだが、それ以上付き合うことにはならなかった。絵がおもしろくないのと、内容に思うような世界観がなく、所詮は子供相手のゲーム漫画にしか見えなかった。

ひぐちアサの『おおきく振りかぶって』はアニメしか見てないが、出だし3話ほどでずっこけてしまった。心理劇に近い展開と、細やかな思いやりが軸となった、このジャンルにしては珍しく個性的な作品だが、その個性が合わなかった。
後に必ず展開される試合のシーンまでいけば、おもしろかったのかもしれない。そこまで付き合うほどに惹き込まれなかった。

最近YouTubeで全話見たのは、石田スイの『東京喰種トーキョーグール』だ。これも人気作品で、アニメ2期がもうすぐスタートする。
これは書店にいくたびに、その表紙が気になっていた。目の赤い人間は人目を引く。人を喰らうグール(屍食鬼)の話だが、これはなかなかよい。グールといっても、人を喰らう怪人であって、外見は人間である。これを人食い人種として「喰種(グール)」と呼んでいる。

人間と、人間の形をした異人種が交錯するという点や、人体から生まれる特殊な武器を使用するという点で、設定が『ワールドトリガー』に似ているが、中心人物・金木研(かねき・けん)の心理的変容がテーマとなっていて、大人でも楽しめる。
カラーとなったアニメを見る限り、顔の変化や表情、図柄などが好みだ。

カネキは、グールの少女に喰われたが、そこで事故に遭い、グールの内臓を移植された。これにより、カネキは半喰種となり、人間と喰種双方の間で、生きて行かざるを得なくなる。

アニメ1期が中途半端に終わったとして非難轟々だが、そもそも深夜枠や早朝に放送されるということ自体が、放送局や製作者の妥協の産物なのだから、そういうことだと了解せざるをえない。逆に言えば、2期を見越してのことだったのだろう。
拘束された金木の髪が白くなり、今後「白カネキ」がどう変化するのか、人間世界とどう向き合っていくのか、単行本を読んでいない者としては楽しみだ。

この点、『ハイキュー!!』の1期は、実にきれいに終わっている。こうなるとむしろ、2期があるのか心配にもなる。人気作品だからあるだろうが、間が空きすぎても心配してしまう。アニメができればDVDになる。『弱虫ペダル』同様、人気作品は、アニメも続くと思う。

・・・さて、『東京喰種トーキョーグール』でも買いに行くかな・・・

201406080226193a2


00dffbce


77dd255f

今年を振り返って~愛国者であることに躊躇は無用 (平成26年12月31日)

今年もいよいよ大晦日を迎えた。
日常生活に特に大きな変化があったわけではないが、これも見方ひとつで、起伏に富んだものとなる。

政治・思想面では、愛国の徒としては、ほぼ満足な一年だった。
二年前に、国民多数の意志として、安倍政権が誕生し、昨年の参院選でねじれ国会が解消し、先だっての衆院選でも、自公の大勝に終わった。

次の参院選までに、いわゆるアベノミクスが功を奏し、国民ひとりひとりにデフレ脱却の実感が得られるかどうか、・・・これは、為政者を選んだ有権者がしっかり見守っていく必要がある。

経済再生だけを叫んで、勝利してみれば、集団的自衛権行使のための法整備や憲法改正へ動くのは、選挙戦術としての裏切りであるとする声もある。

しかし、自民党の公約は、充分に周知されていた。一票を入れた人々は、当然そこまで知った上で、候補者を選別したのだ。何も問題はない。

むしろ、安部政権の流れを見ていれば、このたびの選挙が、実は保守思想の実現を賭けた選挙になっていることは明らかだ。
特に、中国・韓国を強く意識した首相の積極的外交は、実は、そうした狭隘な地域の基準ではなく、世界水準の思考を念頭に置いてのものであった。

やがて、これらの努力が、何がしかの実を結ぶはずである。2020年に、戦後二回めのオリンピックを開催することになった国は、その滑走の段階にあり、アジアのみでなく、世界からも名実ともに注目されるリーダーシップを発揮することになるだろう。

情けないのは野党である。独裁国家でないかぎり、野党は、常に代案をもって、与党に対し、一定の牽制力をもつべき存在だ。それが野党の存在理由というものだ。
それは、同じ国を支える国民として、野党を支持する有権者にも求められることである。

残念ながら、今の日本の野党には、国家を思う気持ちも、日本の将来を憂慮する心意気も見られない。ある高校生に見透かされたように、諸外国の右翼・左翼と異なり、日本では、愛国者は右翼であり、反日売国が左翼と呼ばれる。

安部総裁のいう日本を取り戻すという言葉は、景況にかかわらず、思想的な面を指したものだと思う。野党が情けないのであれば、多数の信任を得た政権が、思うところを実行するしかない。

テロ関連の改正三法も成立し、特定秘密保護法が施行されるや、各省庁が特定秘密を指定し始めた。
いやしくも法治国家では、法の成立(改正を含む)により、思想の定着が実現する。

前途多難ではあるが、ここ二年のうちに、それぞれの分野の根本法を成立・改正させ、最高法規である憲法の改正に向け、一歩を踏み出してほしい。

日本共産党は、昨年の都議選につづき、結果として、大きな躍進を果たした。
高度成長期の保守と革新の対立軸は、自民党と共産党の対立軸へと変化した。

しかし、これもまた、取り戻したい本来の日本の姿の一片かもしれない。なぜなら、保守の本来の敵は、共産党だからだ。共産党が従来の共産主義をもって保守勢力に向き合うなら、それは望むところだ。

伝統のよさを重んじるということと、古ければ何でもよい、というのとでは、微妙に趣きが異なる。
かつてのように、斬新なアイデアと、キレのよい論理で、平和ぼけした自民党に喝を入れるのなら、それはそれでけっこうなことだ。

ところが、現在の共産党は、かつてのような鋭さは消え、支持者に迎合するばかりの、単なる反日に堕してしまった。反日運動の共犯としてしか、その存在意義はなくなっている。

自民党のように、脈々とその思想を受け継ぐ者を作らないこの政党は、そのときどきに、あたかも円周上に必ず向き合う点があるように、そこに立って批判するだけである。人材も不足気味なのだろう。

気合いを入れて、共産主義を叫ぶ人間など、ほとんど稀であろう。
共産党に一票を入れた人間も、ほとんどは思想的に賛同などしていない。弱者・少数者・低所得者が選んだとしても、その共産党が、戦後一貫して、一大勢力をもつことがなかったのは、思想としての共産主義への賛同者がいなかったということであり、また、日本国民の大多数が、支持していないという証拠でもある。

とりもなおさず、中途半端な反日政党である民主党は、虫の息となった。
戦前戦後を通じ、敵は日本共産党である。その図式が再来した。

反日の共犯者となっても、共産党は、痩せても枯れても、良くも悪くも、組織力だけは創価学会並みの一枚岩を誇る。
しかしながら、この政党は、政権を運営するだけの力をもっていない。何もできない政党を、思想に共鳴して一票を入れたわけではない有権者=思想信条に賛同して一票を入れたわけではない有権者が、いつまでも支持し続けるとは思えない。

一部の狂人や有名人が騒いだところで、勢力にはならない。
政治勢力は選挙結果であり、それを支持する国民そのものである。

安部政権にとっては、むしろ、すぐそばに敵がいる。
ただ、これについても、信念を貫く政治家として、駆け引きのうまいしたたかな政治家として、私はあまり心配していない。
政治は、結果として政治責任をとることだ。

将来の日本国の国益にかなうのであれば、民主主義の枠内で、何でもやったらいいと思う。

来年は、さらに、政治とは別の世界において、例えば、民間なり学生の集まりなりで、いっそうの保守志向の盛り上がりが見られることを期待している。

主義信条のもとに結集する人間は強い。保守系団体がもっとあってもよいと思う。
無理に組織化したり全国縦断的なものをつくることもない。国を憂える真の右翼の台頭も待たれる。敵を糾弾すると同時に、政権を叱咤激励する存在はあってよい。

誠実な姿勢で、正確な史実に基づいて、日本のあるべき姿をイメージし、それに向けて意志疎通を図る程度でよいのだ。そうした愛国者のつながりが、もっと生まれてもいい。むしろ、そうなるのではないか。

将来の日本を背負って立つのは、若い世代だ。
キチガイヤクザ集団・日教組は、依然として組織率25%であり、それが、ゴミのような野党の末端分子と通じて、相変わらず、若い世代を誤った方向に導こうともくろんでいる。

日本人であることに誇りをもつ学徒は、そうしたことに気付いている。やむを得ず、在学中は、これらの連中に従わざるをえない。

若い世代は、大人の影響を受けやすい。ならば、よき影響を与えるのが、大人の責務であろう。
安部政権や自民党の代弁者になるつもりはないが、仰々しくならない程度に、何がしかの勉強会のようなものを開けたらいいなと思っている。

愛国者であることに、恥ずかしさや躊躇を感じるというのは本末転倒だ。
むしろ、日本人であることに誇りをもって生きていける、日本人であることを肯定的にとらえて今を生きていく・・・そうした人間を、多く産みたいと思っている。

2014年12月17日 (水)

三島由紀夫 『金閣寺』

三島由紀夫の『金閣寺』は、吃りに生まれついた寺の修行僧の観念の変化と、その実行として、彼が国宝金閣に火を放つまでを描いた小説だ。 
『炎上』というタイトルで映画にもなっている。 

いろいろな角度から読めるのだが、美にとりつかれた若い男の使命感と、その帰結と読むこともできる。 
むろんその使命感は、この男の生い立ちや、周囲とのかかわり合いから生じてきた利己的なものではある。 

しかし、自らの観念を現実の行動に移したこの男のなかに、一貫したものを見てしまうのだ。この一連の観念の誕生やその変化の経緯は、吃りから派生する被差別的劣等感と、それによる自我の世界の構築が前提とされている。さらには、自分の身を引き受けてくれた金閣の老僧の偽善者ぶりや、学友のけしかけなどが、放火へのバネになっている。 

放火したあと、自殺でもするかと思いきや、タバコを飲みながら、私は生きようと思った、とするラストには感激した。 
そうだ、死んではならんのだ。 

映画でいうなら、一種のどんでん返しレベルのラストであった。 
抑制された文体、三島一流の比喩表現の多用など、いろいろ感じ入るところは多いが、このラストにも感動する。 

全く何気ない終わり方に見えながら、犯人として捕まるような場面には言及せず、といって、燃えさかる金閣を見て、目的を果たしたからといって自害するわけでもない。 

そう、生きようと私は思った、のである。 


映画同様、小説もラストが難しい。書き進んでいるうちはむしろ平易だろう。書き出しと、それ以上に、ラストが難しい。 

三島にしてはあぶらぎったところのない乾いた文体で、かつては高校生の夏休みの宿題感想文には必ず入っていた小説であるが、高校生にはなかなか難解だろう。 
しかし、常に難解なものに挑戦してこそ、エネルギーははぐくまれるものと思う。 

小説ではあるが、時代背景は、終戦直後の日本と朝鮮戦争の始まる直前という状況である。 
そのころ日本は、まだまだ不安定であった。 

寺社への放火が相次いでいた戦乱の世をさして、主人公がつぶやく。あのころ社会は不安であった。今の世も不安は同じだ。金閣が焼かれないでよいであろうか… 

この小説の後半では、明確に、認識と行動という対立軸で主人公の観念が変化していく。これは学友、柏木との長い対話からも明らかとなる。 

主人公の行動にはずみをつける鶴川という少年は、自ら死を選んだ。この鶴川という少年(おそらくは美少年)の平凡な死こそ、三島が嫌忌した死にかたであったろうし、このように主人公を死なせず、何ということか、国宝に火を放ってもまだ、生きようと決心させたのであろう。 

516hep4gv7l

沢木耕太郎 『テロルの決算  新装版』 (2014年12月17日) 

沢木耕太郎・著  文藝春秋  2008年11月7日

山口二矢の浅沼稲次郎刺殺事件についてのノンフィクションである。 

『山口二矢供述調書』(山口二矢顕彰会編、展転社、平成22年11月2日発行)以外で、かの事件に関することを中心的テーマとして書かれた、ほとんど唯一の書籍である。 

事件の真相をリアルタイムで追うという形を取りながら、それぞれの誕生から始まり、政治活動に至るまでに言及され、それらが適宜挿入され、特に浅沼はよわい60を超えているだけに、戦前から戦後間もなくの政治状況や、昭和30年代の激動の時代背景にまで話は及ぶ。 

左翼と右翼が激突しながら迎えた安保条約自然承認のあと、10月12日に、日比谷公会堂で山口が浅沼を刺すに至るまでについては、浅沼周辺の人々の発言に触れ、特に2回目の中国訪問のときの演説やその後の発言により、一気に右翼の怒りを買うまでになったことが明らかにされる。そして、他方、同時に、愛国党を離れた山口の決意と決行までのようすを、独自の調査と収集資料により、克明に描き出している。 

両者双方から、その瞬間までを描くことで、映像的なダイナミズムをもったノンフィクションとなった。 


夭折者に関心が向くのは、こうしたノンフィクション作家にとっては本能に近いものがあるだろう。実際、沢木は、あとがきでそう述べている。 

「二矢がもし生きていたら…楽しいこともあったのだろうか… 
いや、夭折した者には、それ以上の生を想像させないところがある。…特に二矢の場合ほど、もし生きていたらという仮定を撥(は)ねつける夭折はない…」 


何歳までを夭折というか決まりはないが、一般的に若くして死ぬということをさすのだろうし、この言葉には、多分に、文学的なヒロイズムが隠されている。 

滝廉太郎も中原中也も、立原道造も藤村操も、あるいはショパンだって夭折と言えないこともない。 


こういうものを書くからには、そうしたきっかけがあるわけで、ということは、初めから二矢という人間への暖かなまなざしが見て取れるのは当然かもしれない。 

二矢は事件後、その背後関係を疑われ、何度も取り調べを受けた。しかしそうした背後、つまり彼に誰かが命じて浅沼を殺させた、といったことはなかった。 

「…山口二矢はその誰かに踊らされていた人形にすぎないのだ。…私には、このような見方の底に隠されている他者への傲慢さと、その裏返しの脆弱(ぜいじゃく)さが我慢ならなかった。それは山口二矢という十七歳ばかりでなく、同時に私の十七歳に対する冒瀆ではないか、いやすべての十七歳への冒瀆ではないか、と思えた。あなたは十七歳の時、人ひとりを殺したと思ったことはないのか。少なくとも、私にはあった……。」 

この部分は、1982年当時に書かれたあとがきにある。 


1990年代の終わりころ、17歳が数々の問題を引き起こし、問題の17歳などと言われた。 

17歳は、未成年として、成長途上にある年齢であるのは間違いない。 
しかし、昭和30年代の17歳より、40年代の17歳より、50年代の17歳より、近年の17歳のほうが、ものわかりがよく柔軟になったと同時に、国家・歴史・思想について、無関心で不勉強になってきているのではないだろうか。 

O0800106612820680063

映画 『アンチクライスト』

監督・脚本:ラース・フォン・トリアー、撮影:アンソニー・ドッド・マントル、主演:ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール、2009年、104分、カラー(一部モノクロ)、デンマーク・ドイツ・フランス・スウェーデン・イタリア・ポーランド合作、原題:‘ANCHCHRIST’、映画タイトル:‘ANTICHRIST’、スクリーンタイトル:‘ANTICHRIS♀’。 

夫婦(彼:ウィレム・デフォー、彼女:シャルロット・ゲンズブール)がセックス中に、幼い一人息子ニックが、窓からあやまって転落し死亡する。 

彼女は深く傷つき、ニックの死に対し、強く自責の念に駆られる。しばらく入院加療したものの精神の不安定は改善しないので、セラピストでもある彼が、自宅に連れて帰り看護する。 

それでもなお回復が見込めないため、彼は彼女に、恐怖を感じるものは何か、と問う。恐怖を克服すれば、落ち着きを取り戻すはずだという。 
やがて彼女の出した答えは、森であった。 

二人は森に向かい、歩いて行く。休憩したあと彼女が先に歩きだしたので、彼があとを追うと、古ぼけた山小屋の中で、すでに彼女は寝ていた。…… 

モノクロのプロローグとエピローグに、カラーの四つのチャプターが挟まれる構成になっており、プロローグで悲しく流れるヘンデルのアリアは、エピローグでも流されるが、メインとなるチャプターにはメロディらしきものは入らない。自然の音や、効果音のみだ。 

夫婦の過去は抹消されており、父と子、母と子の描写もほとんどなく、それらを暗示する会話やカットが入るだけで、夫婦の名前さえなく、彼は男の代弁者であり、彼女は女の代弁者である。 

二人の向かった森はエデンという場所であり、小屋やそこにある道具以外に、なんら文明文化を表すものはない。 

彼女のセリフに、自然は悪魔の教会だ、という言葉があり、第2章の副題には、カオスが支配する(Chaos Reigns)という言葉が示される。この映画のテーマはおそらく、これらの言葉と nature がキーになっている。 

キリスト教文化圏に過ごさない我々にはピンとこないテーマ性ではあるが、女を奴隷化したり蔑んできた歴史は、日本でもみられた事実であり、その後今日にいたるまでのそれら文化の皮を剥ぎ取るカタチで、本来の男と女の野蛮な本性と、相互に相手にもちうる矛盾さえ同在する感性や欲望といった関係を、露骨に示した作品とみることができる。 

時代を遡って原初性をあらわにするのではなく、森や小屋しかない自然という素材において、それらを現そうとしている。 

時代が下るうちにまとわりついた男女の関係、特に女が性の対象として太古の時代から、男に翻弄される性であることを、子供の突然死をきっかけに、彼女は精神錯乱のなかで自覚する。 
そして、彼にうったえかけ、挑戦し、脚に鉄の棒を突き刺すが、力では男に負け、殺されてしまう。 

世界を制覇したかのような男が、森から歩き始めるとき、顔だけモザイク処理された多数の女たちが、彼の方へと群がってくる。 
彼はいったい、どこへ向かって歩いていけばいいのか。 

原始的野蛮性を象徴するかのように、それぞれのチャプターに、鹿、きつね、カラスが登場する。これらは各チャプターを象徴する存在でもあり、ラストでも登場し意味深長だ。 

野蛮性と、太古から変わらぬ性のありようを現すために、多少‘痛い’シーンが入るのもやむを得ないのだろう。 

現実と幻想が織りまぜられた映像…、もちろんそうなのだが、森にしても小屋にしても、更には、この彼と彼女とのやりとりまでもが、テーマからすれば、すべて幻想に見えるのだ。 

しかしそれらは幻想ばかりではなく現実でもあるのであり、それを現すのが、彼女が彼の脚に鉄棒を突き刺すシーンや、彼女がハサミで自らの陰部を切断するシーンなのであろう。 
そんな彼女さえ、生前のニックには、左右逆に靴を履かせていて気付かなかった。 

何層にも重なりうる過去は観客が想像するしかない。相対立する性も、所詮は不完全なカタチしかもたない。それが男女のつくる歴史ということか。 

プロローグの高速度撮影など、全編にみごとに美しい映像やテクニックが楽しめるが、投げられた課題は、美しさとはほど遠い。 

赤ん坊は窓から落ちる、鹿の子は死産のまま母体からぶら下がる、木の実が屋根に落ちる、そして、「女」も地面に落ち、やがてキリストも「落ちる」のだろう。 

アンチ・キリスト教というテーゼを立てながら、キリスト教へのアンチを用いながら、男女の原初形態を再現させんと意図した作品とも言える。 

主役二人のキャスティングは成功している。 

ラストに、タルコフスキーへの献辞が出される。 

Img_0

A0212807_10283764


2014年12月16日 (火)

ラ・カンパネラ (la Campanella)

大好きな曲です。

正確には、リスト作曲、パガニーニによる超絶技巧練習曲第3番、です。

「ラ・カンパネラ」とは、イタリア語で「鐘」のことで、高音の「レ#」で表現していると言われています。短調です。

YouTubeで比較的音質のよいものを、演奏者の生誕順に並べてみました。

聴く人それぞれに好き嫌いがありますが、最近になって、フジコ・ヘミングのピアノのよさがわかってきました。
他の奏者より、1分以上も長い演奏時間になっています。

時間のある方、聴き比べてみてはいかがですか?^^

フジコ・ヘミング(1932年12月5日)

Ingrid Fujiko Hemming - La Campanella: http://youtu.be/xNzzF0M5hB0 @YouTubeさんから

<externalvideo src="YT:xNzzF0M5hB0">

小山実稚恵(1959年5月3日)

小山実稚恵 (Michie Koyama) Liszt Paganini Etude No.3, ラ・カンパネラ: http://youtu.be/EaCRx8co3tE @YouTubeさんから

<externalvideo src="YT:EaCRx8co3tE">

エフゲニー・キーシン(1971年10月10日)

Evgeny Kissin - La Campanella (Liszt): http://youtu.be/0FbQZCsYXVg @YouTubeさんから

<externalvideo src="YT:0FbQZCsYXVg">

アリス=紗良・オット(1988年8月)

Liszt - La Campanella — Alice Sara Ott: http://youtu.be/0-czNkyPQDA @YouTubeさんから

<externalvideo src="YT:0-czNkyPQDA">

辻井伸行(1988年9月13日)

Nobuyuki Tsujii 辻井伸行  Liszt Paganini Etude No.3, ラ・カンパネラ  2009 Van Clibu...: http://youtu.be/v9fo3FoHDBc @YouTubeさんから

<externalvideo src="YT:v9fo3FoHDBc">

(参考)アマチュア

ラ・カンパネラ(リスト) La Campanella (Liszt): http://youtu.be/cSsIDf9Vi_Y @YouTubeさんから

<externalvideo src="YT:cSsIDf9Vi_Y">

2014年12月15日 (月)

もろ手を挙げて喜べない選挙結果 (2014年12月15日)

いみじくも、けさの産経新聞が、安倍総裁の心情を汲み取った記事を載せていた。

選挙で大勝するのはもとより、憲法改正に向けての端緒になるかと思いきや、それには届きそうもない結果になったからだ。

安倍氏は、昨晩、風呂に浸かって、両手で顔をこすりながら、思ったことだろう・・・もう一歩だった、残念だった、と。

私も、前回の衆院選の結果ほどには、もろ手を挙げて大喜びできない。どことなく悔しさが残る。
しかし、結果がすべてであり、この議席配分が、日本の選択した現実なのだ。


ツイッターでも私なりにいろいろな情報を広めたつもりだが、自民党と争う民主党の候補は、ほとんどが比例復活で当選している。そこは、安倍氏の狙い撃ちした場所と、ほとんど同じところだった。
それでも、辻本清美は選挙区で当選し、菅直人も深夜に比例復活してしまった。
逆に自民候補が比例復活で当選したところもある。JR中央線・中野駅北口で私が安倍氏を直接拝見した選挙区だ。長妻昭が選挙区当選し、松本文明は比例で復活当選した。

5議席減の選挙戦からすれば、やはり自民党の大勝には違いないが、公明党も議席を伸ばした。引き続き安定した政権運営がなされるだろう。


驚いたのは、民主が議席を増やしたことと、次世代の党の惨敗ぶりであった。共産党は21議席を占め、昨年の都議選同様、組織力を生かして、法案提出権のある勢力になってしまった。
が、これはある程度、予想されたことでもある。都議選同様、一時的なことと思うが、他の野党に入れていた有権者が共産党に入れたということだろう。

国家内の戦いは、戦前から、政権党と共産党の戦いであったともいえる。保守政党の敵は、常に共産党であってしかるべきだ。これに対しては保守勢力は緊迫感をもたざるを得ないからだ。保守が腐敗し国民不在・国家不在の政治をおこなわないためにも、よき意味での牽制力は必要となる。それは国民の選択肢にもなる。

しかし、共産党の台頭を歓迎するつもりなど毛頭ない。
かつての日本共産党も全く賛同できないが、昨今の共産党は、全く地に落ちてしまった。革新政党という信条は放棄され、共産党らしき純粋理論から始めることもなく、もっぱら他の不良団体と組んで、国家を解体しようとしている。そうした勢力は、初めからあってはならない。

日本共産党はその歴史の始まりに、リンチ殺人事件を起こしている。その粛清という考えは、今も変わっていないはずだ。不良団体は味方をしてくれている間は歓迎しても、要らなくなれば捨て去るに決まっている。


ある高校生がツイートしていた。右翼対左翼が、そのまま、愛国対反日になっているのは日本くらいだろう、と。この純粋なつぶやきは、多くのRTを呼んだ。

国を憂えぬ革新勢力など論外である。共産党が国家を支配したら、改正テロ三法どころの話ではなくなる。いま共産党のために動いている分子どもも、彼ら自身が、用済み後、血の粛清を受けるのは火を見るより明らかなのだ。

法案提出権を得ても、共産党の出した法案など、委員会レベルでことごとく否決されるだろう。
それだけに、勢いづいて、巷での活動が、うるさくなる気がする。共産党は若い女・子どもを利用する。池内沙織などという頭からっぽの候補を、比例名簿3位に置くというあたりからして、共産党の特徴でもあるが、裏を返せば、若い世代にこれを越すような人材がいないという意味でもある。


前回の衆院選は、反民主というエネルギーがあったが、それだけまた熱狂ぶりもあった。今回はそうした熱狂ぶりは消え、よくいえば冷静な判断が有権者を覆ったと言える。

いつの選挙も、有権者はまじめに一票を投じているに違いないが、今回の選挙のイメージとして、少なくとも投票した有権者は、どの政党に入れようとも、誠実に悩んで、投票したように思う。
あるいは、自民党を応援するが、考えあって共産党に入れたなどという有権者もいたかもしれない。


結果としては与党優勢は変わらず、選挙前と同じ政局運営がなされていくだろう。
安倍首相が憲法改正について、特別国会ではないかもしれないが、通常国会の所信表明演説で言及するかどうか、注目したい。

かつて、自民党の憲法改正案に対する感想を述べたことがあった(自民党憲法改正草案に対する感想 (2013年2月2日)   http://bit.ly/1upE7Mf @syuya_yui)。

現憲法を破棄することがあるとしたら、自衛隊がクーデタを起こすような場合以外考えられない。
第一次安倍内閣が断行した改正教育基本法同様、改正するという手続きを踏んで、実際にはすっかり中の水を変えるという方法しかない。

米国から押し付けられた憲法であり、米国はこれを安易に改正できないよう、両院3分の2以上の発議が必要という厳しい必要条件をつけた。これは主要先進国では同様にみられる厳しさではあるが、さらに国民の審判も必要となる。しかもそれは、日本の主権が回復する前の話だ。

それなら、その米国の与えた憲法の手続きを踏んでも、なお改正に踏み切れた、というプロセスと結果を、米国に見せつけてやればいいではないか。憲法改正の実現は、日本が名実ともに、世界に対し、米国から独立したという証しとなる。
これは、単純に法的手続きを踏むというだけでなく、米国の敷いた条件のなかで難題を解決し、米国の鼻を明かしてやろうということだ。おそらく安倍総裁も同じ考えだろう。


憲法改正は、安倍氏や自民党の悲願のみならず、愛国者全員の悲願でもあろう。
条項によっては、公明党をはじめ自民党内からも、反対の声は出るだろう。ましてや共産党においてをや、である。
それでも断行するのは保守政権の責任であり、なた、今後、安倍総裁の下でしかありえないかもしれない。

いずれにしても、政権奪還以来のここ二年間の実績については、国民の大多数から評価されたのだ。
自信をもって政局運営をおこなってほしい。
心ある国民が後押ししているのだ。進む方向に間違いはない。

そして、自民党議員にあっては、昭和の自民党時代のように、党内分裂や足の引っ張り合いだけは禁物だということを肝に銘じてもらいたい。



2014年12月 7日 (日)

じかに見た安倍総裁の印象

今日、初めて、安倍首相を、じかに見た。

きのう、あすの日曜、都内各地を遊説するとわかっていたのだが、そのなかでも、池袋に近いところというと、JR中央線中野駅前だった。

安倍首相は12時20分ころ到着と出ていたが、その場でのアナウンスで、30分になると知った。

中野駅北口前は狭いので、混雑するだろうと思い、早めに行った。
11時40分ころ着いたが、選挙カーはすでに停まっていて、運動員が候補者のビラを挟んだ自民党のパンフレットを、集まった人や通行人に配っており、警察官もまだ、手持ち無沙汰で立っているだけだった。

晴れだったが、やはり気温は低いので、そろそろ開店するまんだらけ(12時開店)を冷やかして戻ってこようと思ったが、せっかく来たのだから前のほうにいたいと思い、トイレを済ませただけで引き返した。

案の定、ちょっといなかった間に、人が増えていた。それでも、前から三列目くらいのところに立って、首相到着を待った。

東京7区は渋谷区と中野区が選挙区で、ここ10年ほど、民主党の長妻昭が当選してきている。対する自民党の松本文明氏は、落選→当選→落選ときて、前回の衆院選では比例復活当選だった。

今回は何とか小選挙区当選を果たすのが悲願であり、それだからこそ、総裁が来なければならなかったのだろう。長妻は強いので、比例復活もありうるが、小選挙区で渡したくないというのいが、自民党の意地というものだ。

日本維新の会から次世代の党に鞍替えした吉田康一郎もおり、長妻が比例でも落選する可能性はある。東京ブロックのなかでは、厳しい選挙戦が繰り広げられる選挙区だ。

先に着いたのは、舛添都知事であった。舛添も、じかに見るのは初めてだった。たしかに弁舌はうまい。候補の応援というより、都知事としての抱負を披露するような演説であったが、最後はうまくまとめていた。

舛添が去って、松本候補が演説しているところに、安倍総裁の3台の車列が到着した。午後1時10分であった。
安倍氏は、スーツの上に白いジャンパーを着ていた。

選挙カーに登って、選挙の意味や掲げた公約などについて、続けざまに話した。少し声が枯れていた。ときどき合いの手が入るなか演説は終わり、最後に候補者らと集まった人々で、ガンバローを唱和した。

車から降りて、最前列の人々と、駆け抜けるように握手していった。
このときとばかり、前に出て握手しようとしたが、そうすると写真を撮れないので、握手はしなかった。それでも、さーっと動いていく安倍さんを撮るのは難しかった。
思えば、選挙カーから降りてきて、人々と握手するとき初めて、ようやく笑顔を見せていた。それだけ多忙であり真剣なのだろう。

演説中の雰囲気などは、テレビで見るのとほとんど同じであるが、加えて、この人、相当まじめな人なんだ、という印象をもった。ふまじめな議員も多いなかで、政治家に対する信頼と負託ということを、痛いほど知っている人だと感じた。

デフレ脱却政策を立案し、着実に実行してきて、その成果も上がりつつある、だから、これをさらに推し進めるために、自民党を勝たせてほしい、松本氏を当選させてほしい、・・・この誠実なうったえかけは、集まった人々の心に響いたのではないか。

会場で配られていた政策パンフレットは、自民党衆院選2014のHPにある、政権公約2014の要約版(PDF)(http://jimin.ncss.nifty.com/2014/political_promise/sen_shu47_summary.pdf)をペーパー化したものである。
要約版にはないが、詳細版(PDF)(http://jimin.ncss.nifty.com/2014/political_promise/sen_shu47_promise.pdf)には、いちばん最後のところに、憲法改正の項目がある。自民党は、憲法改正も公約に入れている。

真剣に大真面目に、日本の将来と国益を考えているからこそ、教育基本法の抜本的改正が実行された。方向が決まったら、実行していかなければならない。それが政治家の責務だ。

おそらく今回も、自民党は大勝するだろう。有権者を投票に行かなくさせるためのマスコミの自民党褒め殺しと関係なく、人々の期待は、おおかた自民勝利を見ていると感じる。

信任を得て、政権3年めともなれば、国民の後押しをもって、公約を着実に実現していくことだろう。

大勝したら、再び靖国神社を訪れ、選挙結果の報告も兼ねて、英霊の前に手を合わせてほしいと思う。

48430274_2124584168_206large


48430274_2124584179_247large


48430274_2124584177_252large

2014年12月 5日 (金)

クラスでの盗難事件~あなたならどう解決しますか (平成26年12月5日)

ある盗難のケースを例に、その後の対処の違いを比べてみた。

辞書盗難の概要:

中学1年の男子生徒Xが、ひとりで職員室に来て、担任Zに言うには、自分の英語の辞書を盗まれたとのことだ。心当たりを探してみたが、出てこなかった。
手元にないと勉強できないので、親に新たに辞書を買ってもらうと言っていた。

数日後、同じクラスの男子生徒Yが、Xの辞書を持って、ひとりで職員室に来た。
Yによれば、Xの辞書を盗んだのはY自身であり、この数日中に、いわば良心にさいなまれて、担任Zのところに持参したとのことであった。

別室に移り、事情を聞いたが、仲間がいたりそそのかされたりしたことはなく、単独で、出来心でやってしまった、と泣きながら告白した。

その後の展開:ケースA

ZはYに、辞書は近いうちにXに返すようにはするが、Yが盗んだことは言わない、と伝えた。

数日後、Zは放課後にXを呼び出し、校内の某所から用務員により発見されたと伝え、辞書をXに渡した。
ZはXに、誰かが盗って、その後某所に置いたらしいが、それしかわからない、と伝えた。

その翌日、Zは放課後にYを呼び出し、きのうXに辞書が渡ったことを伝えた。今後、二度とこうしたことをしないよう説諭して帰した。

その後の展開:ケースB

翌日のHRで、担任ZはXに、辞書を返した。その際、Xが盗難に遭ったこと、辞書を盗ったのはYであることを明らかにした。

さらに、教壇に二人を立たせ、握手をさせた。その際、Xは無言であったが、Yは小声で謝った。
その場でZは、Yが申し出て解決したことでYを讃え、XにはYを責めないよう伝え、HRを終了した。

********************

概要の事案は、実際にあったことだが、似たようなケースを経験したことがあるので、並べて書いてみた。

AとBのいずれかが私のとった方法であり、いずれかが日教組に所属する教員のとった方法である。私のとった方法でさえ、最善の方法であったかはわからない。

学校でいちばん多く起きるのは、教材や体操着、その他小物類の盗難だ。
そして、これに準じた出来事は、日常に起きる。

教育の場に、「正解」「最善の解決」「理想的な方法」などというのはない。
生徒の学年や性別、性格、体格、家庭環境、それまでのクラスの歴史や学校行事もかかわってくる。

ふだんは基本を押さえておくだけでいいと思うが、必ず問題は起きるものと予想して、それぞれのケースにどう対処するか、備えておかなければならない。

それが教師の使命である。

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »