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2014年10月 8日 (水)

映画 『永遠の0』

監督・VFX:山崎貴、原作:百田尚樹、脚本:山崎貴、林民夫、音楽:佐藤直紀、主演:岡田准一、三浦春馬、2013年、144分、東宝。

司法浪人を続ける佐伯健太郎(三浦春馬)は、祖母の死後、姉のフリーライター慶子(吹石一恵)から、二人の母・清子(風吹ジュン)の実の父親・宮部久蔵(岡田准一)について調べようと誘われる。
宮部は特攻隊に志願し、散華していた。

開戦の年、宮部と結婚した祖母・松乃(井上真央)は、宮部の死後、清子を連れ子として、戦後、二人の祖父である賢一郎(夏八木勲)と結婚したのであった。

二人は、念のため賢一郎の了解をとりに行くと、賢一郎は、むしろ調べてほしい、と言ってくれた。
慶子と健太郎は、わずかな手がかりをもとに、祖父とかかわりのあった、まだ存命の戦友数人を訪ねることになる。

しかし、特攻隊として亡くなった祖父について戦友らの語る宮部の人間像は、二人の予想を裏切るものであった。なぜなら、彼らは一様に、宮部は臆病者で、常に死を避ける男であった、と言うのだ。・・・・・・

描きたいことはわかったが、映画として楽しめたかというと、そうでもなかった。
映画を観て、正直なところ、『永遠の0』の「0」の意味がわからない。まさかゼロ戦そのものではないだろう。「0」は何かの象徴だ。いろいろ想像や解釈はできるが、それが映画からはっきりとしたメッセージとして伝わってこない。

私たちのもつ特攻隊のイメージ、海軍軍人のイメージとは、全く正反対の宮部久蔵なる人物が主役である。
平和な日本の現在を生きる若者が、自分らの祖父であるというかぎりにおいて関心をもち、その人物像と当時の生きざまを知ろうと思い立つが、戦友から語られる祖父の像は、予想に反し、やはり特攻隊という言葉のもつイメージとは別のものであった。

およそそうした従来のイメージとは異なった軍人を主役に据えることで、大東亜戦争を織り込む映画としては異色な作品となっている。

宮部は常に、本土に置いてきた妻と幼い子の写真を持ち歩き、部下にもそれを自ら見せている。宮部には、この二人にとって、自分は決して死んではならない存在だとする強烈な意志がある。
そのため、部下からも怪訝なまなざしで見られ、上官から殴られることもある。

現代風の好きだの愛してるだのといった言葉ではなく、戦時下の前線において、自分が死ぬのが怖いから死を避けるのではなく、家族のためにこそ生きていなければならないという信念が、彼の愛情の表現である。
結果として、負傷を負った部下にも、自分自身にも、生きることのほうを選択させるのである。

しかし、後輩や部下たちが多数死んでいく戦局を目の当たりにして、宮部は特攻を志願する。家族のためにこそ生きていなければならないという信念の持ち主に、百八十度決心を変えさせた要因は何だったのか。
おそらく、日々の戦争という前線の現実のなか、自分だけが生きることがあってもよいのだろうかと考えを変えたのか、軍人としてあるべき姿を全うすべきと考えたのか、戦友にもわかりかねるところのようだ。

大東亜戦争を舞台とし、ゼロ戦操縦の妙手・宮部久蔵という人物を設定しながら、ここに描きたかったのは、おそらく戦争そのものやゼロ戦での戦闘以上に、戦争の最前線にいる若い軍人の開戦から特攻までの生き様の心理的精神的変化であるように思える。

比重は後半に置かれ、そこに描かれるのは、いよいよ日々決死の状態にあるなかで、およそ当時としてはありえそうもない若い軍人の志や信念であっても、劣勢となった戦局や味方の死を前にして、あたかも軍人精神が再び頭をもたげたかのように、特攻へと自らを決意させる心理的収斂にあるようだ。

これは戦争映画というよりは、そこに身を置いた軍人の心理ドラマであるとみた。命を大事にするという信念をもちながら、最後に特攻を志願するまでになる、心理の変化、または苦渋の選択が描かれたものだろう。そこに日々身を置き続ける者の、限られた選択肢としか向き合えない無念さをも描いている。

どの小説の映画化も同じだが、言葉で言い表わしたものを、すべて映像に置き換えるのは困難であり、あるいは不可能である。
この映画も、なぜ・どうして、という疑問が、すべて片付けられて終わっていない。しかし、時間が迫ってくる、選択肢が決まっている、…そうした状況で、信念も理想も未来も括弧に入れて、いま・そのとき、を生きざるを得ない人間は、たくみに自らを納得させて、敵艦に突っ込んでいったとしか解釈のしようがない。

心理ドラマであるとすれば、映像化じたい困難になる可能性がある。困難を承知で製作したのであろうから、挑戦しがいのある作品であったろう。
監督はVFXの達人でもあり、戦闘シーンなど、ハイレベルなCGを駆使している。
テレビ局の協賛がないので、カネをかけたところをなるべく残すというような編集処理もされていない。そうした点は好感をもてる。

この好感をもてる誠実な製作姿勢は、かえって、映画としてのエンタメ性を失わせてしまっている。
率直に言って、観終わって、よかった、おもしろかった、という感想をもてないのだ。
どんなシリアスなドラマでも社会派ドラマでもサスペンスでも然り、おもしろかった、楽しかった、と感じられなければ、映画としては価値がないと思う。それは人さまざまかもしれないが、おおかた生き残ってきた作品には、エンタメ性がある。

原因はいくつかある。ひとえに脚本の責任だ。
現在と回想が交錯するのは、ストーリー柄やむを得ないのだが、ここで回想・ここで現在に変わる合理性がない。つまり、妥当なシーンでないところでシーンが変わるので、振り回される。

語り部たる戦友の数が多い。且つ、彼らがみな、一本調子のセリフ回しでおもしろみがない。
初めに出てくる老人(平幹二郎)は、カットしても困らないだろう。これに関して言えば、他にも原作の多くの要素を詰め込みすぎているところがあるのではないか。

戦友役の俳優は、ぞれぞれベテラン級であるから、もっとクセのある演出をするべきだった。みなほとんど同じように見える。監督が俳優に遠慮している。カメラも動いていない。
ベテラン俳優には、もっと演技させていい。言葉と表情だけだから、おもしろくない。この監督は、年配の俳優を使いこなせていない。井崎の現在を演じた橋爪功も、ミスキャストとは思わないが、メリハリがない話し方で、軽く感じてしまう。

そして、この映画に最大の欠陥があるとすれば、宮部久蔵とゼロ戦、が描かれていないことだ。
戦友の語りからして、ゼロ戦は当時最高水準の戦闘機であり、宮部はそのゼロ戦を巧みに操る妙手であった。

この部分が前半のどこかにどーんと置かれていないので、話全体に軸がなく、だからめりはりもなく一本調子になる。原作にないなら映画化したときに書き加えればよい。そうしても原作の基調は崩れない。

このゼロ戦あっての宮部という軍人であり、宮部はゼロ戦と一体化した存在であるはずなのに、そこが抜けているから、若い宮部は、まるで、遭難を警戒する熟練した山登りくらいの存在感しかもたないようなシーンもある。

宮部が誰かにゼロ戦の自慢をしたり、ゼロ戦について熱く語ったり、これさえあれば英米などどうってことないと豪語したり、ゼロ戦への愛着を語らせたり、…などといったシーンを入れるべきだった。

ラストには、健太郎のいる歩道橋の上を、ゼロ戦に搭乗した宮部が、飛び去って行く。ゼロ戦と宮部の紐帯(ちゅうたい、結びつき)を描いていれば、このシーンはなくてもよいし、あればあったでもっと効果的であったろう。

内容的に、この映画は、好戦的映画でもなく、軍国映画でもない。そういう批判は、ジブリや親韓の監督や評論家から出ているが、お門違いである。
むしろ、宮部という架空の人物を得て、新たな道筋や題材をもって、戦争そのものは避けるべき、と、あくどくない方法で語っている。

大東亜戦争そのものが大テーマではないにしても、個人的にいくつか疑問に思うセリフもあった。
戦友に語らせるのに、太平洋戦争、はないだろう。原作いかんにかかわらず、ここは大東亜戦争としてほしかった。仮に現実に、いま、大東亜戦争を太平洋戦争と呼ぶ戦争体験者がいても、ここは大東亜戦争とするべきだった。

靖国神社という言葉もなかった。この言葉があっても、内容に何ら影響はない。この言葉が誰かのセリフにあるからといって、即軍国主義とはならない。

カメラワーク・編集・音楽などを比較しても、総じて映画としては『男たちの大和』のほうが、一枚上を行っている。本来比較すべきものではないが、監督や脚本の力量の差は明らかである。

ただ、健太郎が、特攻と自爆テロは違うんだ、と口論して叫ぶシーンなどもあり、戦争を知らない世代には観てもらいたい作品だ。

蛇足だが、ヤクザになった戦友を演じた田中 泯(たなか・みん)は、『メゾン・ド・ヒミコ』で死と向き合う往年のゲイ・卑弥呼を演じた。健太郎と分かれるとき、彼を抱いて、「私は若い男が好きだ」と言う。ご愛嬌のつもりだろうが、特に挿入すべきシーンでもない。

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