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2014年10月

2014年10月23日 (木)

映画 『偽りの人生』

監督・脚本アナ・ピーターバーグ、撮影・ルシオ・ボネッリ、音楽・ルシオ・ゴドイ、フェデリコ・フシド、主演:ヴィゴ・モーテンセン、ソフィア・ガラ、2012年、117分、アルゼンチン映画(スペイン語)、原題:todos tenemos un plan(我々にはみな計画がある)
南米の都市部といなかの川沿い地域が舞台。
しっとりした風景と静かで控えめな音楽でできた、言わばおとな向けの映画だ。
アグスティン(ヴィゴ・モーテンセン)は小児科医であり、妻クラウディア(ソレダー・ビヤミル)と一見穏やかな生活を続けていた。二人には子がなかった。
妻の発案で養子をとることになり、病院に行き、引き取る赤ん坊の顔まで見たが、土壇場になってアグスティンは養子はもらわないと言い出す。
その後クラウディアが数日家を空けた隙に、アグスティンとは瓜二つの弟ペドロが、突然現れる。
ペドロという双子の兄(ヴィゴ・モーテンセン二役)は、片田舎の川沿いにある掘っ立て小屋のような家に一人暮らしをしており、若い娘ロサ(ソフィア・ガラ)に手伝ってもらい、細々と養蜂を営んでいる。そこは二人の故郷でもあった。
しかし、彼の周辺にいる人物はゴロツキのようなクズばかりであり、人殺しも平気でするような連中であった。ゴロツキのひとりは、二人の幼馴染みでもあった。
ペドロは自分が癌であることを知り、それを伝えに、久しぶりにアグスティンの家を訪れたのである。
テーブルに拳銃を置き、これで自分を始末してくれと頼む。
アグスティンは無論そんなことはできないと思ったが、ペドロが入浴中、いっしょに話しているとき、ペドロが咳込んで血を吐いたのを見て、頭を押さえつけ、そのまま溺死させてしまう。
日々の退屈な日常に飽きていたアグスティンは、思い立って、残りの人生を、ペドロに成り変わって生きていくことにし、ペドロの着てきた服を着て、川沿いのペドロの住居に向かう。・・・・・・
タイトルとパッケージに誘われて観た。
いわゆる一般受けする映画ではないが、狙いそのものはよかったと思う。
のんびりと流れる濁った川があり、住民はボートで移動する。川の両脇に、洪水時のことを考えてか、木を組んだ二階部分が住居の家が、ところどころに並んでいる。カメラのとらえた自然の姿は美しい。
冒頭からしばしば養蜂の作業が映されるのもうれしい。防護服を着て二人は作業する。なかなかお目にかかれないシーンもあり興味がそそられる。
ペドロがアグスティンの家に着いたとき、土産がわりにと、自分の作った蜂蜜のビンを差し出す。なぜかとてもうまそうに見える。
そうしたのどかな風景のなか、ペドロの周りには悪いヤツらしかいない。ペドロは積極的なほうではないが、近隣からは悪の一味と思われている。
そのペドロは肺癌を病んでいるにもかかわらず、ひっきりなしにタバコを吸い、酒を飲む。そして余命わずかとなった今、アグスティンを訪ねるのである。
映像、カメラ、雰囲気、少ないセリフ・・・しっとりとした映画が出来上がったが、何か足りない。というより、どこかリアリティに欠ける。
映画といえども、リアリティがないと入り込めない。
原因はやはり脚本だろう。
アグスティンは現在の日常に飽きており倦怠のさなかにいる。その状況が伝わってこない。
さらに、ちょうどよかったとばかり、瓜二つの病身の兄を殺して、その兄に成りかわって生きて行こうとする動機が伝わらない。
これほど重大な決心が、いとも簡単にできてしまうのが不思議だ、と観る側に思わせてしまうのだ。
故郷だからという理由もあるだろうが、それなりの愛着なりが描かれていないので、やはり唐突な感は否めない。
もちろん、こうしたことを長々と頻繁に入るモノローグや、会話で済ませるのは簡単だったろう。しかし、言葉にだけ頼った映画は映画ではないと酷評される。私もそう言うに決まっている。
といって、例えば、こういう批判は映画だから括弧に入れてもいいとは思う。ロサはペドロとは懇ろであり、一瞬疑うシーンもあるが、アグスティンをペドロと思い込んでいる、いくら瓜二つでも村人の誰も見抜けないのか、アグスティンほどの男と21歳の娘が恋愛になるのは不釣り合い、ペドロの交友が悪い連中と知って、なぜ逃げ帰らなかったか、など。
最後にアグスティンは仲間ともトラブルで瀕死の状態となり、ロサとともにボートで上流に向かう。
永遠に愛してくれるか、と問うアグスティンに、永遠に愛する、とロサは答える。
ロサと見つめ合うなか、アグスティンは死ぬ。亡骸をわきに、ロサはボートを走らせる。
アグスティンは、献身的な妻を置き去りにし、ペドロの遺体をバスタブに置き去りにし、いまの倦怠を打破すべく、偶然転がり込んできた運に賭けた、…つまり、わがままな男とも言えるが、その男は若い娘と恋愛関係に陥る。兄の女と寝て平気なのである。そして、永遠の愛を誓われて死んでいく。
なぜ、自分の安定した生活をうっちゃって、故郷といえども悪い兄のかわりに生きることにしたのだろうか。
終わりよければすべてよし、なのか。ムードはあるが、何とも消化不良になる。
こんな映画である。
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2014年10月22日 (水)

映画 『ローラ殺人事件』

監督・製作:オットー・プレミンジャー、原作:ヴェラ・キャスバリー、脚本:ジェイ・ドラトラー、サミュエル・ホッフェンシュタイン、エリザベス・ラインハルト、撮影:ジョゼフ・ラシェル、音楽:デイヴィッド・ラクシン、編集:ルイス・R・レフラー、主演:ジーン・ティアニー、ダナ・アンドリュース、 クリフトン・ウェッブ、1944年、88分、モノクロ、原題:Laura

新進気鋭のコピーライター、ローラ・ハント(ジーン・ティアニー)が、散弾銃で頭を吹き飛ばされ殺害された。た惨殺死体となって自宅で発見された。

担当の刑事・マーク・マクファーソン(ダナ・アンドリュース)は、ローラを引き立てた恩人であるコラムニスト、ウォルド・ライデッカー(クリフトン・ウェッブ)の家を訪ねる。
ウォルドは、居間にある浴槽に浸かったままマークを招き入れ会話を進めるうち、マークをローラの婚約者であったシェルビー・カーペンター(ヴィンセント・プライス)に引き合わせるという。

女たらしであるシェルビーはローラと付き合いながらも、 アン・トリードウェル(ジュディス・アンダーソン)という女性とも親しくしていた。

しかし、いずれにしても犯人特定の決め手がないなか、マークは意外な事実に直面する。・・・・・・

ストーリーとしては、ローラの生前の交際関係などから証拠や証言を求めていく殺人犯追求のお決まりの展開であるが、そこに恋愛を絡めたフィルム・ノワール作品だ。
それも、殺人を起こしうるほどの愛を通底音として絡め、豪華な調度品などを配置し、有名になった甘美なテーマソングとともに、愛憎からの殺人ドラマを、珠玉の作品にしている。

まさに調度品のひとつである置き時計は後半で大きな意味をもつし、ローラの登場も、初めは、額に入れられ飾ってある肖像画としてである。

それぞれのキャラクターも際立っており、冒頭のウォルドの登場のしかたも唐突で、浴槽に浸かりながら、原稿に目を通したり、初めての来客に応対したり、そこを出てガウンをはおうなど、売れっ子のコラムニストでありながら、初めはローラの申し出も受け付けないようなスノビッシューな一面もある。

ジーン・ティアニーは、このころ活躍したエヴァ・ガードナーやリタ・ヘイワースなどのような派手な容姿ではないが、こうした都会派ドラマにはうってつけのエレガントな魅力を放っている。どちらかというと、アン・バクスターと同種の女優である。

アンを演じるジュディス・アンダーソンは、ヒッチコックの『レベッカ』(1940年)で、ダンヴァース夫人をみごとに演じた舞台出身の女優で、登場シーンは多くなくとも、存在感を残すのはたいしたものだ。

カメラの動きもみごとだ。撮影のジョセフ・ラシェルは、この作品でアカデミー撮影賞を受賞している。ライティングに注意し、白黒の陰影をみごとに活かしている。のみならず、手前から近づいていくシーンや、逆にカメラが遠のいていくシーン、俯角・仰角など、それぞれの状況にマッチしている。

室内劇を中心としたこのころのアメリカ映画は、会話の密なシーンも多い。それでも疲れないなと思ったのだが、その理由は、クローズアップが限られているからだろう。

最近の日本の映画のように、何でもかんでも俳優の顔をアップするような下品な撮り方はしない。実に効果的に使うだけで、全身・バストショットと合わせ、顔のアップもそのなかのひとつの手段に過ぎないことを示している。顔のアップが頻繁に出てくると、観る側は疲れるのだ。

このへんは、カメラというより、鬼才プレミンジャーの演出の力が大きいのだろう。
一定の距離感をもって、映画を観ることができる・・・これは年季の入った監督のなせるわざである。といっても、オットー・プレミンジャーは、本作が38歳にしての初監督作品である。

甘美なメロドラマ風な雰囲気と、殺人という二つの軸を据えて、よくありがちな方向に堕することなく、実に締まった逸品となっている。88分の映画とは、こういうものだろう。

もちろん捨てたフィルムは多いだろう。が、何でも100分~140分の映画にすることはないのだ。
信念ある監督が作ると、単なる恋愛殺人事件も芸術の域に入るのだ。

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2014年10月14日 (火)

映画 『鑑定士と顔のない依頼人』

監督・脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ、撮影:ファビオ・ザマリオン、編集:マッシモ・クアッリア、音楽:エンニオ・モリコーネ、主演:ジェフリー・ラッシュ、2013年、124分、イタリア映画(英語)、原題:The Best Offer(最高の申し出、付け値と掛けている)

『ニュー・シネマ・パラダイス』『海の上のピアニスト』など秀作で知られるジュゼッペ・トルナトーレが監督し、この二作品でトルトナーレと組み、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『遊星からの物体X』などで知られる大御所、御年84歳のエンニオ・モリコーネがタッグを組んだとなれば、観ないわけにはいかない。

しかし、たったそれだけの情報で観たので、まさかこの作品が、ゆるやかなどんでん返しを招くミステリータッチの映画だとは思わなかった。

熟年の域にいるヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は、実力派の骨董品鑑定士であり、日々、オークション会場で、競売人として活躍していた。
高級レストランでも手袋をとらずにグラスを手にし、携帯電話もハンカチで覆って持つなど、潔癖な一面がある。
生涯独身であるが、暗証番号を押して入れる秘密の奥のへやには、四面の壁一面に、美しい女性の肖像画が掛けられており、毎晩そのなかに身を置くことで、くつろぎのひと時を送るのであった。

実はここにある肖像画は、友人ビリー・ホイッスラー(ドナルド・サザーランド)と結託して手に入れたものであった。すなわち、これはと思う作品がオークションに出されると、決まってビリーが競売に参加し、ビリーが最高額の値を言ったところで、競りは終わり、ビリーが競り落とすのである。
そのビリーには手数料ほどを払い、ヴァージルが高価な作品を、一個人のものとして自分のへやに持ち込み、飾るのである。

ある日、ヴァージルの元へ、骨董の鑑定を依頼する電話が入る。
用心深い彼は、初め秘書のふりをして応対しており、いきなりの依頼は断っていたが、しつこくかかってくるその女性クレアの依頼に心動かされ、ついにその屋敷に足を運ぶ。
しかし、約束の時間に行ってみると、門は閉ざされており、応答もなかった。巨大な屋敷を前に、彼は帰らざるをえなかった。

翌日同じ女性から電話があり、失礼を詫びると共に、再度鑑定を依頼したいと言う。骨董品そのものと、若い女性の声に半ば誘惑されたヴァージルは、再度その屋敷に向かう。

しかし、クレアとはその屋敷内にいても携帯電話でしか話せなかった。
屋敷の下僕によると、彼女は、十代半ばでのある事件をきっかけに外出ができなくなり、自分のへやからも出ないということだった。他人が誰もいなくなると、ようやくへやから出るというのだ。

いろいろな骨董品が転がっている古びた屋敷の床に、ヴァージルは錆びた歯車を見つける。彼は興味をもち、それをこっそり持ち帰り、友人である若い機械部品屋ロバート(ジム・スタージェス)に、何の部品かを尋ねる。
彼によると、おそらく由緒正しい何かの作品の一部であり、まだ屋敷のどこかに他の部分があるかもしれない、と暗示するようなことを言う。

鑑定士としての予感もあり、ロバートの言葉もあり、クレアの再度の来訪依頼を受けて、ヴァージルはまたも屋敷に足を運ぶ。……

こういうわけで、巨大な屋敷に住む若い女性クレア・イベットソン(シルヴィア・フークス)が姿を現すのは、ようやく中盤に入ってからである。タイトルの所以である。
その間にも、彼は日常の鑑定の仕事をこなしながら、少しずつクレアに関心をもっていく。

あるとき、屋敷から出るふりをして、大きな彫像の陰に隠れると、あたりを見回しながらクレアが現れ、遠目に初めてその顔と姿を見るのである。

この映画については、さすがに詳細を書かないほうがいいだろう。
クレアとひと晩を過ごすまでになった老齢のヴァージルは、最後、ゆるやかに裏切られてしまうのだ。
独身を貫き何点もの美しい女性の肖像画を愛の対象としていたヴァージルは、その多くの高級な肖像画に替えて、ようやく実在する若く魅力的なひとりの女といっしょに棲むようになったのも束の間、外国出張中にもののみごとに女は姿を消し、秘密のへやの肖像画はすべて持ち去られてしまうのだ。

ラスト近くは、すべてを失って、心虚ろになり半ば精神の崩壊したようなヴァージルが現れ、何ともミゼラブルな姿で、気の毒に思ってしまうくらいだ。

おじさんよ、いい気になるなよ、上ばかり見ていると足元の大きな穴にはまりまっせ、と言わんばかりの声が、スクリーンの奥から聞こえてきそうな結末だ。

似た傾向のミステリアスな作品は他にもあるに違いないが、この作品には、さすがに華麗なる作品を生み出してきたトルナトーレらしい個性がある。

骨董品、古美術品、絵画などを初め、それにふさわしい机、衣装、建物、レストランなどが、常に画面にあり、高級感を高めてくれる。
内容柄だろうが、曇った空や雨のシーンも適切に配分され、屋敷内なども全体に暗さを保っている。その屋敷も、巨大な牢獄のようであり、いくつもの窓があるほかは特徴もない。庭に草は生え放題で、むしろ巨大な廃墟のような様相を呈している。

そうして出来上がった舞台に登場するのは、一見何でもない登場人物たちであるが、終わり近くになると、それぞれが一挙に、真の姿を現す。ただスクリーンには現れない。ストーリー展開として、観る側が、そうだったか、と真の姿に気付くのである。

観ていくうちに、よくよく観ていれば、いや、ふつうに観ていても、あれ?と思うようなシーンが出てくる。
あの下僕は、あの屋敷で長い間働いているのに、それでもクレアの姿を見たことがないと言う。
屋敷の向かいにあるバーは、ヴァージルが雨宿りをきっかけによく寄るようになるのだが、入口にはいつも、手足の短い不具の女性がいて、意味不明の数字を呟いている。

女にもてるロバートは、仕事を依頼にくる若い女性客には、別れ間際にそのつどキスをするほどで、複数の女の子と付き合っているように見えるが、本当の恋人は最初に出てくる黒人の女性である。
こうしたロバートの存在は、単にヴァージルの仕事仲間を越え、ヴァージルに、若い女性との付き合いを勧めるような雰囲気を醸し出すよう作用している。

几帳面で潔癖な老紳士は、何とも大掛かりな罠にはまってしまった。
憐れむべきか、滑稽なことと笑い飛ばすか、…観た人によってさまざまだろう。

時計や歯車だらけの奇妙な喫茶店の奥に座り、おひとりですか、と聞かれると、もうひとり来る、と答える、給仕はテーブルに、もう一人分の食事の用意をして去る。

まだクレアの登場を夢見ているような、あるいは、それはありえないとわかっていながら、あたかも不在の恋人と食事をするかのようなヴァージルの姿から、徐々にカメラは引いて、ラストとなる。

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2014年10月 8日 (水)

映画 『永遠の0』

監督・VFX:山崎貴、原作:百田尚樹、脚本:山崎貴、林民夫、音楽:佐藤直紀、主演:岡田准一、三浦春馬、2013年、144分、東宝。

司法浪人を続ける佐伯健太郎(三浦春馬)は、祖母の死後、姉のフリーライター慶子(吹石一恵)から、二人の母・清子(風吹ジュン)の実の父親・宮部久蔵(岡田准一)について調べようと誘われる。
宮部は特攻隊に志願し、散華していた。

開戦の年、宮部と結婚した祖母・松乃(井上真央)は、宮部の死後、清子を連れ子として、戦後、二人の祖父である賢一郎(夏八木勲)と結婚したのであった。

二人は、念のため賢一郎の了解をとりに行くと、賢一郎は、むしろ調べてほしい、と言ってくれた。
慶子と健太郎は、わずかな手がかりをもとに、祖父とかかわりのあった、まだ存命の戦友数人を訪ねることになる。

しかし、特攻隊として亡くなった祖父について戦友らの語る宮部の人間像は、二人の予想を裏切るものであった。なぜなら、彼らは一様に、宮部は臆病者で、常に死を避ける男であった、と言うのだ。・・・・・・

描きたいことはわかったが、映画として楽しめたかというと、そうでもなかった。
映画を観て、正直なところ、『永遠の0』の「0」の意味がわからない。まさかゼロ戦そのものではないだろう。「0」は何かの象徴だ。いろいろ想像や解釈はできるが、それが映画からはっきりとしたメッセージとして伝わってこない。

私たちのもつ特攻隊のイメージ、海軍軍人のイメージとは、全く正反対の宮部久蔵なる人物が主役である。
平和な日本の現在を生きる若者が、自分らの祖父であるというかぎりにおいて関心をもち、その人物像と当時の生きざまを知ろうと思い立つが、戦友から語られる祖父の像は、予想に反し、やはり特攻隊という言葉のもつイメージとは別のものであった。

およそそうした従来のイメージとは異なった軍人を主役に据えることで、大東亜戦争を織り込む映画としては異色な作品となっている。

宮部は常に、本土に置いてきた妻と幼い子の写真を持ち歩き、部下にもそれを自ら見せている。宮部には、この二人にとって、自分は決して死んではならない存在だとする強烈な意志がある。
そのため、部下からも怪訝なまなざしで見られ、上官から殴られることもある。

現代風の好きだの愛してるだのといった言葉ではなく、戦時下の前線において、自分が死ぬのが怖いから死を避けるのではなく、家族のためにこそ生きていなければならないという信念が、彼の愛情の表現である。
結果として、負傷を負った部下にも、自分自身にも、生きることのほうを選択させるのである。

しかし、後輩や部下たちが多数死んでいく戦局を目の当たりにして、宮部は特攻を志願する。家族のためにこそ生きていなければならないという信念の持ち主に、百八十度決心を変えさせた要因は何だったのか。
おそらく、日々の戦争という前線の現実のなか、自分だけが生きることがあってもよいのだろうかと考えを変えたのか、軍人としてあるべき姿を全うすべきと考えたのか、戦友にもわかりかねるところのようだ。

大東亜戦争を舞台とし、ゼロ戦操縦の妙手・宮部久蔵という人物を設定しながら、ここに描きたかったのは、おそらく戦争そのものやゼロ戦での戦闘以上に、戦争の最前線にいる若い軍人の開戦から特攻までの生き様の心理的精神的変化であるように思える。

比重は後半に置かれ、そこに描かれるのは、いよいよ日々決死の状態にあるなかで、およそ当時としてはありえそうもない若い軍人の志や信念であっても、劣勢となった戦局や味方の死を前にして、あたかも軍人精神が再び頭をもたげたかのように、特攻へと自らを決意させる心理的収斂にあるようだ。

これは戦争映画というよりは、そこに身を置いた軍人の心理ドラマであるとみた。命を大事にするという信念をもちながら、最後に特攻を志願するまでになる、心理の変化、または苦渋の選択が描かれたものだろう。そこに日々身を置き続ける者の、限られた選択肢としか向き合えない無念さをも描いている。

どの小説の映画化も同じだが、言葉で言い表わしたものを、すべて映像に置き換えるのは困難であり、あるいは不可能である。
この映画も、なぜ・どうして、という疑問が、すべて片付けられて終わっていない。しかし、時間が迫ってくる、選択肢が決まっている、…そうした状況で、信念も理想も未来も括弧に入れて、いま・そのとき、を生きざるを得ない人間は、たくみに自らを納得させて、敵艦に突っ込んでいったとしか解釈のしようがない。

心理ドラマであるとすれば、映像化じたい困難になる可能性がある。困難を承知で製作したのであろうから、挑戦しがいのある作品であったろう。
監督はVFXの達人でもあり、戦闘シーンなど、ハイレベルなCGを駆使している。
テレビ局の協賛がないので、カネをかけたところをなるべく残すというような編集処理もされていない。そうした点は好感をもてる。

この好感をもてる誠実な製作姿勢は、かえって、映画としてのエンタメ性を失わせてしまっている。
率直に言って、観終わって、よかった、おもしろかった、という感想をもてないのだ。
どんなシリアスなドラマでも社会派ドラマでもサスペンスでも然り、おもしろかった、楽しかった、と感じられなければ、映画としては価値がないと思う。それは人さまざまかもしれないが、おおかた生き残ってきた作品には、エンタメ性がある。

原因はいくつかある。ひとえに脚本の責任だ。
現在と回想が交錯するのは、ストーリー柄やむを得ないのだが、ここで回想・ここで現在に変わる合理性がない。つまり、妥当なシーンでないところでシーンが変わるので、振り回される。

語り部たる戦友の数が多い。且つ、彼らがみな、一本調子のセリフ回しでおもしろみがない。
初めに出てくる老人(平幹二郎)は、カットしても困らないだろう。これに関して言えば、他にも原作の多くの要素を詰め込みすぎているところがあるのではないか。

戦友役の俳優は、ぞれぞれベテラン級であるから、もっとクセのある演出をするべきだった。みなほとんど同じように見える。監督が俳優に遠慮している。カメラも動いていない。
ベテラン俳優には、もっと演技させていい。言葉と表情だけだから、おもしろくない。この監督は、年配の俳優を使いこなせていない。井崎の現在を演じた橋爪功も、ミスキャストとは思わないが、メリハリがない話し方で、軽く感じてしまう。

そして、この映画に最大の欠陥があるとすれば、宮部久蔵とゼロ戦、が描かれていないことだ。
戦友の語りからして、ゼロ戦は当時最高水準の戦闘機であり、宮部はそのゼロ戦を巧みに操る妙手であった。

この部分が前半のどこかにどーんと置かれていないので、話全体に軸がなく、だからめりはりもなく一本調子になる。原作にないなら映画化したときに書き加えればよい。そうしても原作の基調は崩れない。

このゼロ戦あっての宮部という軍人であり、宮部はゼロ戦と一体化した存在であるはずなのに、そこが抜けているから、若い宮部は、まるで、遭難を警戒する熟練した山登りくらいの存在感しかもたないようなシーンもある。

宮部が誰かにゼロ戦の自慢をしたり、ゼロ戦について熱く語ったり、これさえあれば英米などどうってことないと豪語したり、ゼロ戦への愛着を語らせたり、…などといったシーンを入れるべきだった。

ラストには、健太郎のいる歩道橋の上を、ゼロ戦に搭乗した宮部が、飛び去って行く。ゼロ戦と宮部の紐帯(ちゅうたい、結びつき)を描いていれば、このシーンはなくてもよいし、あればあったでもっと効果的であったろう。

内容的に、この映画は、好戦的映画でもなく、軍国映画でもない。そういう批判は、ジブリや親韓の監督や評論家から出ているが、お門違いである。
むしろ、宮部という架空の人物を得て、新たな道筋や題材をもって、戦争そのものは避けるべき、と、あくどくない方法で語っている。

大東亜戦争そのものが大テーマではないにしても、個人的にいくつか疑問に思うセリフもあった。
戦友に語らせるのに、太平洋戦争、はないだろう。原作いかんにかかわらず、ここは大東亜戦争としてほしかった。仮に現実に、いま、大東亜戦争を太平洋戦争と呼ぶ戦争体験者がいても、ここは大東亜戦争とするべきだった。

靖国神社という言葉もなかった。この言葉があっても、内容に何ら影響はない。この言葉が誰かのセリフにあるからといって、即軍国主義とはならない。

カメラワーク・編集・音楽などを比較しても、総じて映画としては『男たちの大和』のほうが、一枚上を行っている。本来比較すべきものではないが、監督や脚本の力量の差は明らかである。

ただ、健太郎が、特攻と自爆テロは違うんだ、と口論して叫ぶシーンなどもあり、戦争を知らない世代には観てもらいたい作品だ。

蛇足だが、ヤクザになった戦友を演じた田中 泯(たなか・みん)は、『メゾン・ド・ヒミコ』で死と向き合う往年のゲイ・卑弥呼を演じた。健太郎と分かれるとき、彼を抱いて、「私は若い男が好きだ」と言う。ご愛嬌のつもりだろうが、特に挿入すべきシーンでもない。

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2014年10月 5日 (日)

映画 『マルホランド・ドライブ』

監督・脚本:デヴィッド・リンチ、撮影:ピーター・デミング、 編集:メアリー・スウィーニー、音楽:アンジェロ・バラダメンティ、 主演:ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング、2001年、146分、米仏合作、原題:Mulholland Drive

よく難解映画と言われるが、『インランド・エンパイア』ほどではなく、それほど難解ということはない。

後半をだいぶ過ぎ、1時間55分あたりに、リタ(ローラ・エレナ・ハリング)により青い箱が開けられて、カメラがすーっとズームして箱の中に入り込んで暗転するシーンがある。
ここからベティ(ナオミ・ワッツ)の現実となる。
それまで抜群に美しく、健康で快活であったベティは、全く別人に変わり病人のような表情だ。

ここまでは、ベティとなっていたダイアンの白昼夢である。リタは、現実のカミーラである。
女優への道も閉ざされ、親しくなり恋愛対象(レズビアン)であったカミーラに、恋人であった映画監督アダム(ジャスティン・セロー)を奪われる。

二人に裏切られたショックは恨みへと変わり、殺し屋を雇ってまで、ベティは二人を殺す。やがて悪夢にうなされ、自ら拳銃で自殺する。

ベティの今の現実と、回想される過去と、憧れ夢見ていた幻想とが、きれいに分かれて作られている。青い箱のシーンまでは幻想であり、それ以降は現実と、そこから生じている過去だ。

女優志願でありながら、別の美しい女優に大役を奪われ、恋人までも奪われたベティは、その女優に復讐をすることとし、殺し屋をカネで雇い、その目的を遂げたと暗示されてエンディングとなる。
その美しい女優は、実はベティが内心では、そうなりたいと願う相手であり、レズビアンに似た感情をももっていた。その憧れの女優に、仕事も彼氏も奪われたのである。

ベティとリタは、ダイアンの幻想にあらわれてくる、ダイアンの理想である。カミーラには二重に裏切られたものの、リタという理想の友人兼恋人を作り出す。
この夢のなかで、ダイアンは幸せ一杯であった。

今は何を思っても取り返しがつかず、退廃的な生活を送っているダイアンにとっては、忘れがたい思い出であった。

冒頭に、まばゆいほどのライトを浴びて、ダイアンが両親と踊るシーンがある。
すると一転して、ベッドの上なのか、毛布の下でもぞもぞと動きながら、うなるような声が聞こえる。

このときダイアンは夢を見ていた。オーディションにも受かり、女友達もでき、恋人までできた順調な生活を回想していた。
夢はうちひしがれ、してもしかたのない復讐までした。それをまた後悔する自分がいる。

自殺する瞬間に、すーっと、この映画と同じ時間の空想が、頭をよぎったのであろう。

人物から小道具にいたるまで、多くの伏線らしきものが散りばめられている。それらがすべてきれいに回収されたとも言えない。レストランの裏に潜む、やけどを負ったような黒い顔をした男は、こうしてストーリー解明しても、ほとんど説明はつかない。

青い箱、特にその青いキーがまさにこのストーリーのキーとなっている。
ベティの恨み節とでもいえる悪夢を覚ましてくれるのは、あるクラブでの楽器の音や身につまされる悲しい歌詞の歌である。

そのとき何気なくバッグから出した青い箱から、現実が始まる。その箱をリタが開ける時、今まで目の前にいたベティが、突如消えている。
ラストシーンでは、そのクラブの二階席に座っていた青い髪の女が、静かに、と言い、幕となる。

悪夢や願望の映像化に成功しており、一個の映画として観る側に差し出されている。悪夢に出てくる多数の人物のなかでは、殺し屋の若い男がいちばんその実態を明らかにされていて、過去の殺しの現場がきちんと描かれている。しかしこれは、ベティの現実とは何ら関係がない。

それにしても、ラストでこの主役のベティが、ファーストシーンを再現した白いライトのなかで満面の笑みを浮かべているのは、いわば女優としても女としても最高に幸福であった象徴で、次にすぐクラブの歌手を映し、静かにと言わせるところに、この映画の内容が一気に凝縮される。

もしかしたら、この、静かに、というところまでが、あらかじめ彼女の悪夢に予想されていたのかもしれない。
なぜなら、冒頭、ダンスのあとに映る赤い布のなかから聞こえるベティのうなされ声は、自らの破局まで予想しているように聞こえるからだ。そしてこの身もだえが、現実となるベティに連なっている。

悪夢を描きながらも、細かいところまできちんと帳尻合わせができており、映像や映画そのものの遊びはないものの、よく計算されて仕上がっている作品だ。

ベティがオーディションで相手の男性と迫真のラブシーンを演じ誉められる。彼女の夢のなかで、唯一みずからを女優として女として誇れる、彼女としては最も満足のいくシーンなのだ。その花開かんとする夢のような未来は、別の女優カミーラの出現により、無残に打ち砕かれるのである。

冒頭に出てくるロスの夜景はよく見るなあ…『ヒート』でも二ヶ所で出てきていた。
ナオミ・ワッツは親しみのある容姿で、われわれ日本人にも人気が高いが、この正反対の状況を実にみごとに演じている。彼女の作品のなかでは代表作と言えるのではなかろうか。

サスペンスの香りに覆われながら、どこかセンチメンタルでもあり、どこかかわいい雰囲気のある映画だ。
ナオミ・ワッツだからありえた、ひとりの女の子の打ち砕かれた夢物語である。
役柄や状況を使い分けた彼女の演技は、絶賛に値する。

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