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2014年6月27日 (金)

映画 『脳男』

監督:瀧本智行、原作:首藤瓜於(しゅどう・のりお)、脚本:真辺克彦、成島出、音楽 今堀恒雄 、ガブリエル・ロベルト  脚本:真辺克彦、成島出、主演:生田斗真、松雪泰子、江口洋介、二階堂ふみ、2013年、125分。

富山県富山市、氷見市、射水市などでロケやカーチェイスのシーンが撮られた。

あるターミナル駅で、発車したばかりのバスが爆発炎上する。
刑事・茶屋(江口洋介)らは捜査を開始し、現場に残る決定的な証拠から犯人の棲み処を割り出す。
倉庫のような建物に着くと、女の悲鳴が上がり、火災が発生する。茶屋が中に踏み込み、白い服を着た男(生田斗真)を捕える。

取り調べのようすから、精神鑑定が必要と判断した茶屋は、知人の精神科医
・鷲谷真梨子(松雪泰子)に鑑定を委ねる。
鷲谷はこの男の反応がいままでに経験したものでなく、また知能が高いようすから関心をもち、この自称・鈴木一郎と名乗る男の生い立ちを洗い始める。

やがて、この鈴木は、本名・入陶大威(いりす・たけきみ)という田舎の大富豪の一人息子であったことを知る。大威はその父親(夏八木勲)に、子供のころから異様な教育を仕込まれてきたことがわかる。
大威の主治医だった藍沢(石橋蓮司)によれば、大威は恐ろしいほどの記憶力を備えるなど知能が著しく高く、いざというときに強烈な力を発揮することもできる人間であるという。彼はこれを脳男と呼んでいた。

一方、女の舌を切り取るなど異常な嗜好をもつ緑川紀子(二階堂ふみ)と、彼女を慕う水沢ゆりあ(太田莉菜)も、この男を追っていた。……

史上最低のクソ映画だ。エンタメ性なく、色気なく、サスペンス色なく、きれいでもなく、何もかもが中途半端な映画だ。
終始流れるBGMも、使い方にメリハリがない。

『桐島、部活やめるってよ』などと並び、いつもレンタルショップの邦画ベストに置かれているので、いやな予感はしたが、一応観ておくかということで借りた。
先日観た『共喰い』はかなり自重しながらもある水準に達した佳作であっただけに、それに続いて観た映画がこれほど駄作だとショックであり、この2時間を無駄にしたような気分になる。

ちょうど『あしたのジョー』が駄作だったのと同じように駄作なのだ。
冒頭に、日テレのマークが堂々と出る。この段階でもうダメだな、と予測した。
テレビ局がカネにモノを言わせて、小道具からCGまですべての制作、ロケ地との交渉、人脈紹介などを一切取り仕切ったはずである。
この二つの作品に共通するのは、テレビ局がカネを出して主導権を握っている点である。この映画も12億7千万の製作費がかかっている。テレビ局主体の映画に、ロクなものはない。

小説の映画化であり、緑川などは性別が逆になっている。それはそれでいい。映画としてどうかということだ。

全体の印象として、真剣みがない。ちょっと進むと、それを映画のメリハリと勘違いしているようだが、必ずずっこけたお笑いが入る。シリアスドラマなら、その線で徹底すべきで、焦点がぼけてしまい、ビールの水割りのようだ。

それ以上に問題なのが、ストーリー内容で、問題-プロセス-解決といった流れがない。問題は提示されるが、それへのアプローチが甘い。結末らしきものが出てくるが、それは時間の経過とともに「やむを得ず」作られたようなもので、この映画の主題の結果として、視聴者を納得させるものがない。

脚本がまずい。脚本の成島出が監督した『聯合艦隊司令長官 山本五十六』も、映画としては視点を変えただけのふやけた出来であった。

脳男が主役であって、彼は幼少時より、父親から、悪いヤツなら殺してもかまわない、と教え込まれてきた。その男を巡って「映画で」何か描き出したいのなら、もっと他の手段があったのではないか。
その男を利用する者が現れたとか、一層のことコメディにして作り変えてしまうとか。『ダーティ・ハリー2』(1973年)もテーマとしては同じではないか。

それが無理なら、カメラの使い回し、色使い、俳優への演出などで、映画としてもっとエンタメ性を盛り込むことができたはずだ。

男がなぜそうなったかは父親の回想で語り、男の現在は「無表情のつぶやき」と態度の急変で描写し、映像としてのおもしろさは爆発シーンだけ…膨大なエキストラを動員し、自治体に掛け合って道路を通行止めにまでして、この監督はいったい、何を描こうとしていたのか、さっぱりわからない。

ストーリーとしての序破急はなく、主役も脳男なのか茶屋なのか鷲谷なのかもわからない。皆が均等にたくさん出てきて、爆発もあり、舌をちょん切るところもあり、生田斗真、江口洋介、二階堂ふみを見たいといったような低レベルの観客にしか評価されないだろう。

映像もたいして見るところもない。カメラワークで興味深いところもない。「ふつう」なのだ。
『共喰い』も、ある意味「ふつう」だったが、カメラの基本に則(のっと)った上で、それがシークエンスになったとき一定の効果をもつようにしている。

この映画の撮り方は、学校で習うとおりの「ふつう」なのだ。だからおもしろくない。『告白』といっしょで、機械を使っているのでなく、機械に使われている。必要だから使うのではなく、機能があるなら使ってみるというやりかたで、携帯電話ビギナーが機能の全部を使わなくちゃといった扱いをするのに似ている。

あえてよしとしたい点を挙げるなら、鷲谷が仕事を通じて、最も大切にしていた少年・志村昭文(染谷将太)との二度にわたる対面シーンくらいであろうか。だがこれも、副次的ストーリーとしてほとんど生きていない。すべてを会話で終わらせ、映像が出てこない。

こういうところに回想シーンなどを畳み込むことだけでもだいぶ違う。同じカネをかけるなら、こういうところだろう。サブが生きてこそメインテーマも生きるのだ。

映画というのは、最もカネを使ったシーンが、編集により、非常に短くなる場合が多い。この映画は、最もカネを使ったシーンと、あまり使わなかったシーンが、シーンの長さにおいて、きれいに比例している。
カネを使ったシーンは削りたくないのだ。つまりそれはテレビ会社の経営という発想からくる意向であって、映画監督のとる態度ではない。

映画が駄作だからどうでもいいのだが、松雪泰子はミスキャスト。その母親役で出てくる婆さんも、ふつうの形の人でよかっただろう。
それにしても、何もつかめないまま演じなければならない俳優たちは気の毒であり、まことにお疲れさまでしたと言いたい。

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