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2014年5月10日 (土)

映画 『軍鶏 Shamo』

監督:ソイ・チェン、原作:橋本以蔵、たなか亜希夫、脚本:橋本以蔵 、セット・カムイェン、撮影:フォン・マン・ユン、編集:コン・チー・レオン、音楽:パトリック・ロー、主演:ショーン・ユー、魔裟斗、2006年、105分、香港映画。

石橋凌や魔裟斗のセリフも広東語に吹き替えられている。
映画の原作に、たなか亜希夫の名前はクレジットされていない。

橋本以蔵(はしもと・いぞう)は、映画『AKIRA』で大友克洋といっしょに脚本を手がけた人物だ。

有名私立高校に通う16歳の成嶋亮(ショーン・ユー)は、ある日突然、食事中に妹もいる前で、両親をナイフで刺し殺してしまう。

亮は鯵ヶ崎少年院に送られ、先にいる札付きどもや院長(石橋凌)から、いやがらせの暴力を受ける。
やがて亮は、囚人でありながら少年らに空手を教えに来る黒川健児(フランシス・ン)を師と仰ぎ、鍛錬を重ねた結果、名実ともに武道のわざを身につけていく。

社会復帰したあと、この世に生き残るために、ファイターとして訓練を積み、リーサル・ファイト(L・F)と呼ばれる選手権に出ることを望むようになる。
そのL・Fの最高実力者は菅原直人(魔裟斗)であり、亮はその菅原を倒そうと心に誓う。……

軍鶏(しゃも)とは、黒川が痛めつけられても粘り強く刃向かってくる亮を、そう呼んだところからきている。

あるきっかけで原作を読み始めた。長大な漫画であり、最初の壱之巻(フォト)を読んでみて、それなりのものがあれば読み進めて行こうと思ったのだが、壱之巻で終わってしまった。
もっと先を読めば、盛り上がってくるのかもしれないが、だいたいの雰囲気は掴めたからいいだろう。
しかし、登場人物の顔は、好きになれない。何でみんな口が大きく、下顎と下唇が出ているのだろう。目も好きでない。ただ、手の描き方はすばらしいと思う。

漫画版の実写ということになるのだが、そもそも映画化することじたいが難しい原作だと思う。
このめぐまれた家庭に育った少年が、なぜ両親を突然殺害しなければならなかったか、…これは少なくとも壱之巻だけではわからないのだが、こうした屈折した心理は、回想シーンなどにも現れない。
回想で出てくるのは、食卓で突然死亡する両親の姿と、それに驚く妹・夏美の表情だけだ。

頭はいいがひ弱であった亮が、空手に一生を賭けるようになる心理的変遷は、原作のほうではわかる感じもするが、映画のほうではわかりにくい。
この漫画は、おそらく、格闘技を、正義や修練の延長線上にではなく、自らを守るためのやむをえない暴力の延長線上に置いている。

娑婆に出ると、金髪となり、女とも交わる。権威あるL・Fを知り、自分の腕試しのつもりで、菅原を倒そうと必死になるが、そのあたりは亮としてはすでに方向が決まっているので、その延長線上にありうる出来事として納得はできる。

この映画も、いわゆる香港映画のある流れのなかに生まれ、格闘技によるアクションを圧巻として作られた気がする。
映画では、やはり菅原が勝利を収め、それでもようやく亮が立ち上がって、ファイターとしての維持を見せるところで終わっているが、原作はまだまだ続く。

竹藪における黒川と亮の試合の前哨戦のような戦いや、リング上での亮と菅原の壮絶な戦いぶりなど、撮影と編集の苦労は報われていると思うが、亮という人間、つまり原作にある人間世界の暗黒への切り口は、映像にはついに現われじまいであった。

しかし、単純な格闘映画、あるいは暴力映画としていないところでは、原作の意を活かそうという努力もみられるのだ。
原作でも、黒川から、武道に対する真髄のような言葉が、ときおり出てくるが、映画でもその出し方は同じである。

映画という手段がありながら、もっと亮や黒川の心理をうまく描写することができなかっただろうか。

番竜会総帥・望月の策謀家としての一面はわかりやすく描かれているが、これもフィクサーのような猛者として外側から描かれるのみで、空手に対する思い入れや、なぜ菅原を一位にさせておくのかといった深謀遠慮には触れられていなかった。

原作を初めのほうだけとは言え、少し見ているから雰囲気などで比較してしまうのかもしれない。
映画は映画として観る、というのが自分の信条だから、映画としていいのなら、それでいいのだ。

ところが映画としては、後半に行くにつれ、つまらなくなってくるのだ。緩急をたくみに操るメリハリもなく、全体に一本調子であり、2時間も必要であるのか…さらに言ってしまえば、顔のアップが多すぎる。
顔のアップは、ここぞというときに入れると効果絶大なのだが、特にこうした全身運動する人物を撮るのに、顔のアップが多すぎる。とてもしつこい。

監督としては、亮の心の状態を、必死な顔つき、悔しさに狂った表情、闘争心に燃える目つき、として表わしたかったのであろうが、それは裏目に出た。
手を抜いたと言われてもしかたのないその撮影態度では、こうした心理劇を伴うドラマは撮るのが難しいだろう。

何しろ、タイトルが<軍鶏>なのだから、その存在の異様さや成り立ちを描き切らなければ、ただの鶏で終わってしまう。
撮影技術はあっても、映画のドラマ性を描いていけるのか、…今後に期待したい。

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