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2014年5月

2014年5月28日 (水)

課題としての右翼思想の練磨 (2014年5月28日)

(mixi日記より転載)

昨年12月2日に、「霞食う獏」という日記を書きました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1917114166&owner_id=48430274

私のツイートに、珍しく自称サヨクが食ってかかってきたわけで、タイトルは「霞食うバカ」でもよかったのですが、婉曲に、夢を食う獏になぞらえておきました。
以下Aは、そのときのヤツのツイートです。

A:天皇の地位が国民の総意によるなら、天皇が必要か否かと言う事と、もし必要な場合は天皇にするヤツを誰にするかを国民投票で決めなければ嘘になりますね。【国民の総意】イコール【国民投票の結果】です。

@taka0511ilikesp というこのアホのツイッターを、久しぶりに見てみましたが、そのときトップにあった文言は以下Bのようなものであり、それは今は消えていて、Cのようになっています。
Bは「動」で切れています。
Amebaにも似たような自己紹介をしていましたが、AmebaのURLは今ではトップにありません。

B:【天皇を敬愛する君へ】天皇は君の身近にいる家族や親友、恩人よりも大切な存在なのか?もし君が天皇や皇族と何の人間関係も築いて無いのなら、天皇は君にとって赤の他人である。君と人間関係がある分けでも無く、何か特別な偉業を成し遂げた分けでも無い人物を敬愛するのは非常に不自然な事である

C:只今拡散中なので同じ方に何度かツイートするかも知れませんがよろしくです。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20140318-00033661/ (2015年4月現在、閲覧不可)… 拡散希望 拡散希望 現職の自衛隊の方々と入隊希望の若者達よ…この現実を直視して欲しい…この現実と向き合って欲しい…戦争動

今年3月23日に、

「拡散希望 拡散希望 現職の自衛隊の方々と入隊希望の若者達よ…この現実を直視して欲しい…この現実と向き合って欲しい…戦争動員を誘発する様な映画で感動してる場合では無い!」

というツイートを繰り返ししているのを最後に、以降更新されていません。このヤフーニュースは、とっくに期限切れで、もう見れません。

現在、私が自動ツイートにしているものに、次のようなものがあります。ときどき字句を替えています。140字という字数制限もあるので、すべて言い尽くせているわけではないのですが、もう二年ほど続けています。

◆反日の特徴:①礼儀と言葉遣いを知らない。②物事の順序や秩序に無知無頓着。③刹那優先で全体像や将来像を見通した視野をもてない。④歴史認識と、AゆえにBであるという論理性に欠ける。⑤提案・代替案を出せない。⑥同情・共生を通じ横に群れ、そこにしか自己のアイデンティティを見出せない。

◆反日と愛国者の問答をツイッターで見かけるが、全体にブサヨは歴史認識に欠け、物事を前向きにとらえようとせず、暗く卑屈で、常に、今という刹那に終始した議論だけで、将来を見据えた視点がない。答えに窮すると、代替案もないため、乱暴な言葉遣いで屁理屈を並べるか、一行ツイートを繰り返す。

◆今の日本に、国を憂える左翼などいない。在日朝鮮人ヤクザ、住所不定無職の前科者、不良崩れの日雇い人夫、保険証もない自称フリーター、放校学生、浮浪者などの吹き溜まりだ。これをシンパとして、金と住居斡旋で支援し、ギブ&テイクで応援を請う政治屋売国奴がいる。民主・社民など売国政党である。

何が言いたいのか。

上に引いたヤツも同じで、つまり、あるときだけ刹那に燃えて噛みついてきたりするものの、長い時間で見ると、尻すぼみになって、あのときの威勢の良さはどこかに消えてしまい、存在そのものも消えてしまうのです。

ツイッターを途中で中断する理由は、誰にもいくらでもあるでしょうが、アノ威勢の良さで声高らかに反日をツイートしていた人物が、二ヶ月あまりも、手段としてのツイッターで何もしないというのは、前後関係からして不釣り合いなのです。

自分にとって、たまに同調できるニュースがあると、それを拡散するだけして、頭にくるツイートには噛みつくだけ噛みついて、最後は自分が勝った勝ったといって、自己満足に浸る・・・肝の据わった左翼でも何でもありません。要するに、ヒマ人にとってのヒマつぶしに過ぎないのです。

先日も、原発稼働はできないとする判決後、勝った勝ったと言ってはしゃいでいた元総理のバカがいましたが、上に引いたヤツも同じで、自称サヨクの連中には、こうした手合いが多く、サヨクの共通点とも言えます。

敵だとはいえ、戦後から高度経済成長、石油危機後の低成長時代くらいまでには、一応ながらも国家を憂える革新政党、左翼なるものがいたのですが、特に今世紀に入ってからは、ただ反対反対ばかりで、軽薄なヤツらが左翼の名を語り、表舞台に出てきました。

といっても、かつての社会党も、ただ反対反対と叫ぶだけで、犬の遠吠えと言われ、いつも代替案なるものは持ち合わせていなかったのです。
本来、サヨクというカタカナ書きも、実に軽薄で、もともとそんなものはないのです。

保守に対しては革新しかない! 革新と名乗れないのなら左派ではない!

今の自称サヨク、平和活動家…ヤツらはいったい、何を理想とし、何をうったえているのでしょうか。こうした名称は、すべてマスコミが作り出したネーミングであり、便宜上使われているだけです。

政治や制度にかかわる日々の選択には、その人それぞれの経験、生きざま、価値観、性格、環境、人間関係などが作用します。
しかし、思想というものには、刹那主義やそのときの都合や自分にとっての有利不利にかかわらず、一貫性がなければならない、と思うのです。
そして、定規のように、真ん中というのは、思想にはないのです。

左翼か右翼か!

かつて、ある人から、いまの時代、右翼対左翼という軸や名称は、ふさわしくないと聞きました。
が、私はこの軸はやはり、譲れません。

時代にふさわしいかどうか・・・
ある政党が、時代にふさわしい立法や政策を実現する、といったような表現はあるでしょうが、人間の集団で成り立つ国家というものには、いつの時代にも左翼と右翼がいて、よりよき国家を実現してきたと思います。その名称も、そのままありつづけてきました。

国を憂える左翼が、新たに登場してくるなら、それもけっこうですが、どうもその気配はないようです。
マスコミの演出により、テレビカメラの前で、刹那の騒音やお祭り騒ぎをする連中ばかりで、売国政治屋ともども、この国に左翼なるものは存在していません。

そのようにしてきたのは、保守側の政治家なりこれを支援してきた国民です。しかしまた、自民党のなかにも売国志向の連中はたくさんいます。

愛国を主張する国民それぞれとしては、これを注視しながらも、自らの保守思想・右翼思想を、さらに練磨していく必要があります。そして、情報の共有、後進の育成を怠ってはならないと思うのです。

2014年5月27日 (火)

映画 『2001年 宇宙の旅』

製作・監督:スタンリー・キューブリック、原作 アーサー・C・クラーク、 脚本:スタンリー・キューブリック、アーサー・C・クラーク、撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット、編集:レイ・ラヴジョイ、主演:キア・デューレイ、1968年、141分、原題: 2001: A SPACE ODYSSEY

製作費は、約1050万ドルに達し、当時の円に換算すると、1971年までは固定相場制だから、約37億8千万円だ。
また、撮影時は、宇宙からの地球の生の姿は撮影されておらず、公開翌年の1969年にアポロ11号は月面着陸を果たした。

今からすれば、映画技法や宇宙船の形態など、いろいろな限界や物理学的な誤りを指摘されるのは当然で、当時、CGなど無論ない時代に、これだけの映像や創造物を生みだしただけでも、キューブリックのイマジネーションとそれを裏付ける映画技法・撮影技法には頭が下がる思いだ。

ストーリーとしては、これほど、百家争鳴の議論を呼んだ映画もない。訳あって話をはしょったとも、意図的にそうしたとも言われ、何を言っているかわからないとされることでも有名だ。
この映画の一種のみごとさに心奪われる人以外は、ただひたすら睡魔に襲われるというのも頷ける。

いずれにしても、1968年の段階で、ここまで最新の近未来を、現実的な宇宙船・ユニフォーム・計器類などを含めて描写したことは驚きであり、キューブリックがカメラや撮影技術に詳しいため、いろいろな試みをおこなっている映画でもある。彼の他作品に通じるセンスも見てとれる。

1999年、人類が月に行くことは、それほど難しくなくなっていた。
フロイド博士は、宇宙ステーションを経由して、月のクラビウス基地に向かう。月面のあるところで起きた不可解な現象を探るためである。現場に行くと、そこには、黒い板のようなものが、地面に立っていた。

その18カ月後2001年、デヴィッド・ボウマン船長(キア・デューレイ)、フランク・プール( ゲイリー・ロックウッド)ら5人の研究者を乗せた宇宙船ディスカバリー1号は、木星をめざしていた。あとの3人は、現地で活躍するため、冬眠状態にされカプセルのなかで生命を維持していた。

ディスカバリーには、超ハイテクの人工知能HAL(ハル)9000型コンピュータが搭載されており、ディスカバリーはすべて、ハルの制御下にあった。ハルは言葉を発し、人間と会話することもできる。HAL9000型シリーズは完璧であり、いままでエラーを起こしたことは一度もなかった。

ある日、ハルが、船外のある部品に異常があると告げる。プールが船外からはずしてきた部品を検査しても、特に異常はなかった。二人はハルの判断能力に疑念をいだく。
ふたりはハルに知られぬよう、電源を切ってハルが見聞きできないようにして、密かに相談を始める。もしハルが誤っていたとすれば、ディスカバリーをこのままハルの制御にゆだねたままにはできない。そうなれば、ハルとの接続を切って、他の手段で任務を続けなければならない。

しかし、二人のくちびるの動きから、自らの接続を切られると知ったハルは、二人に復讐する。部品を取り付けに行ったプールを、ユニットの腕で宇宙空間遠くへ突き飛ばし、ようやくプールを確保して戻ってきたボウマンのユニットを、船内に入れないようにしてしまう。

非常手段を用いて、何とか船内に戻ったボウマンは、ハルの頭脳に当たるスイッチを、ひとつずつ切っていく。
すると、そのとき意外にも、モニターにフロイド博士の録画が映り、ディスカバリーの真の目的が語られる。

月に立っていた黒い板のようなものからは、木星に向けて、強い電磁波が出ていたというのだ。その原因究明が木星探査の目的であった……

この2時間を超える映画で、中心となるストーリーらしきものに絡む会話が行われるのは、このディスカバリーでの一連のシーンのほか、宇宙ステーションでフロイドが他の国の研究者と会話するシーン、クラビウス基地でのフロイドを中心とした研究者首脳による会議のシーンくらいである。

宇宙時代につながる前は、人類の夜明けとタイトルされ、サルがフガフガ言っているだけだが、ある日、サルたちの前に黒い板のようなもの(モノリス)が立っており、サルたちはそれに触れることで、骨という道具を使い始めることになり、骨を武器として、他の生き物を殺して食べることができるようになり、敵を殺すことも覚える。

モノリスはいわば、知恵の象徴でもあり、宇宙からの啓示、としてシンボライズされている。
サルが放り上げた骨が落ちてくると、途端にそれが宇宙船になっている。実に心憎い演出だ。

ボウマンはハルとの一件のあとも自動的に木星へと向かうが、やがて光の洪水に襲われ、ようやくそれをくぐり抜けた先には、年老いた自分の姿を見るのであった。
さらにそれは寝たきりの老人になってしまうのであるが、ベッドのそばに現れたモノリスによって、老人は赤ん坊に変わり、その赤ん坊は、スターチャイルドとして、宇宙空間に輝くのである。

モノリスがサルに伝えた「道具の発見」という啓示は、何万年もの時を経て、2001年には、人類に対し、いわば「輪廻転生を授ける」ことになったのだ。
このあたりの論理的飛躍と、そうとらえていいのかどうかという躊躇を観る側に与えることが、この映画をして難解な映画と言わせている。

この映画では映像美を味わうことができる。迫力をそのまま感じるには、やはりスクリーンで観るべきなのだろう。

さまざまなくふうによって、誰もいない地上の地平線までの風景、宇宙空間の美しさが味わえる。
宇宙ステーション、ディスカバリー船内、白とライトで囲まれた年取ったボウマンのへやなど、キューブリックらしいデザインをふんだんに味わえる。インテリアひとつとっても、どれも宮殿のゲストハウスのようにすばらしい。他のキューブリック作品に通じるカラーは、あちらこちらに見てとれる。

当時は米ソ冷戦時代であるが、宇宙ステーションでは、フロイドがソ連の女性研究者らと歓談するシーンもあり、宇宙開発は国境を越えたところでおこなわれているかのような印象だ。

その宇宙ステーションに着くと、奥に行くためフロイドが受けるのは、声紋識別である。まさに時代の先をゆく映画だ。
この声紋識別では、言語を入力するボタンもあるが、6言語のうちのひとつに JAPANESE が入っているのはうれしい。すでに、この時代、アメリカに次ぐ経済大国として、日本は国際的な発言力も増していたのだ。

宇宙空間に遊泳する人間をどう撮っているのか、浮遊しているだけなら何とかわかるが、倒れて浮いている人間を、ポッドの腕が抱きかかえる。
ディスカバリーの中の円形の通路、女子スタッフが転回して歩くシーンなど、キューブリックが観客の驚く顔をにやにや眺めているようすが目に浮かぶ。
ペンが浮遊しているシーンの撮り方は、3年前くらいに知った。

この映画では、音楽が雰囲気づくりに重要な位置を占めている。
冒頭、月・地球・太陽が一直線に並ぶ圧倒的なタイトルバックでは、リヒャルト・シュトラウスの「ツラトゥストラはかく語りき」のファンファーレが鳴り響くほか、ハチャトゥリアンやリゲティの現代音楽のうち、不安で神秘的な音が使われ、あたかも宇宙空間で生じた未曾有の出来事を演出するのにふさわしい。

しかし何と言ってもヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」のワルツのメロディは功を奏した。フロイドが宇宙ステーションに向かうときと、そこから月面に向かうときに、ほとんどフルで使用されている。
音楽担当の作曲家に依頼してこの一連のシーンの曲を作らせておきながら、やはりシュトラウスでいくと無断で決定し、後にそれを知ったその作曲家が怒りまくったというエピソードは有名である。

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2014年5月13日 (火)

『美味しんぼ』は廃刊にすべし

『美味しんぼ』とは、料理漫画として名前だけは知っていたが、その作者が売国奴の団体の共同代表をしており、内容に反日的な言葉が並んでいるのを知って、驚いた。
今の時代だから、こうした情報の広がりをもてたのだろう。

情報を知り得てよかったと同時に、これを読む子供たちや一般読者が、反日的内容を鵜呑みにしてしまうのではないかという懸念も生まれた。

言っていることが正しいのかどうか。
当初、、「漫画つぶし」ならやめたほうがいいくらいに思っていた。
ところが、政府の官房長官や自治体の責任者が抗議するに及び、事態は一漫画では済まない深刻なものとなってきた。

ここへきて、いよいよ放射線医学の専門家らが発言するにいたり、雁屋の書いていた鼻血の件は、嘘であることがはっきりした。
そういう事実を知らないで書いたのだろう、という好意的な意見もあるが、本人は地道な調査をして上で描いたと言っている。
嘘を書いて、読者を扇動し、被災地で努力している人々を侮辱し、世間に風評を撒いたことになる。

「美味しんぼ 福島の真実編」抗議相次ぐ 「科学的にありえない」(産経新聞) - Y!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140513-00000112-san-soci(5月13日(火)7時55分配信、以下全文引用▼~▲)

京都医療科学大学の遠藤啓吾学長(68)=放射線医学=の話「低線量被曝が原因で鼻血が出ることは、科学的にはありえない。大量被曝した場合は血小板が減少するため、血が止まりにくく、鼻血が出やすくなるが、血小板が減るのは(がんの死亡リスク上昇が確認されている100ミリシーベルトの10倍にあたる)1千ミリシーベルト以上の被曝をした場合であり、それ以下の被曝では影響がない。住民も福島第1原発で働く作業員も、事故で1千ミリシーベルトを超える被曝をした人はいない。住民の被曝線量は大半が10ミリシーベルト以下。原発作業員の中に、白血球や血小板の数値に異常がある人がいるとは聞いていない。もし低線量被曝の影響で鼻血が出るのだとしたら、一般の人々より被曝線量の高い放射線技師や宇宙飛行士は鼻血が止まらないことになる。福島の人たちは過剰な不安を抱くことなく、安心して生活してほしい」

美味しんぼ男「責任は100%日本にある。謝罪しなければ中韓は許してくれない。戦犯を逃れた昭和天皇の分まで謝罪しなければならない」 - ニダアル速報+ http://nida-aru.com/archives/3950454.html

反日サヨクの集会所「のりこえねっと」http://www.norikoenet.org/representative.html … … 住所は新宿区大久保2丁目7−1、つまり通称コリアン通りのはずれ。共同代表に、上野千鶴子、宇都宮健児、「美味しんぼ」作者・雁屋哲も。

美味しんぼの鼻血デマが酷すぎて非難殺到!!!反日漫画家雁屋哲がフルボッコに!!!福島県・大阪府・安倍内閣閣僚が相次ぎ批判!!小学館に厳重抗議!!!これスピリッツ廃刊にしないと騒ぎ収まらないぞ… - 中国・韓国・在日崩壊ニュース http://www.news-us.jp/article/396864277.html @NewsUs1さんから

いろいろなサイトなどを見てわかったことだが、雁屋が反日的内容を描いているのは、鼻血のことだけではない。天皇陛下や韓国併合などについても、独断をもって作中人物に語らせている。
一応、愛国者的な発言も出しながら、それに反論するかたちで、反日発言を引き出している。

およそ出版社といのは、体制批判から生まれてきた。体制批判者を、「紙による抵抗」で結びつけようとする存在だ。
新聞社然り、雑誌社然りで、講談社、小学館、なども、多かれ少なかれそうした側面はある。

今度の件で、出版元の小学館に責任はないのか。
内容は必ずチェックされるはずだから、どんなものができるかは、前もってわかっているはずだ。
誤った内容とわかっていながら、ゴーサインを出していたのなら、小学館も同罪だ。

雁屋は自身のブログで、意見は小学館にではなく自分のブログに言ってきてほしいと書いている。しかし、一定のアドレスから来たものははねかえすようにしてあるとも書いている。これでは、小学館に抗議が行ってもしかたない。
そもそも出版元に抗議しても、少しもおかしくない。

小学館は、次回号などを見ていって判断してほしい、と言い、雁屋は、2~3回あとの号を経てから、まともな反論をする、などと開き直っている。

雁屋哲は、反日売国奴である。
小学館は、雁屋との連載契約を破棄し、『美味しんぼ』を廃刊し、全国の書店店頭・倉庫から回収すべきだ。
責任は出版社にもある。

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2014年5月10日 (土)

映画 『危険なプロット』 (2014年5月10日)

監督・脚本:フランソワ・オゾン、原作:フアン・マヨルガ、撮影:ジェローム・アルメーラ、音楽:フィリップ・ロンビ、主演:ファブリス・ルキーニ、エルンスト・ウンハウアー、2012年、105分、ブランス映画、フランス語、原題:dans la maison (=in the house)

著名な監督の映画ということで観たのだが、サン・セバスティアン国際映画祭で最高賞であるゴールデン・シェル(英語版)と審査員賞(脚本賞)、トロント国際映画祭では国際映画批評家連盟賞のスペシャル・プレゼンテーションを受賞している。
つまり、フランス系の映画祭では絶賛されたということだ。

ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は高校の国語の教師として、新たな気分で新年度を迎えたが、妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)の前で、提出された生徒たちの課題作文を読んでいるうちに、ほとんどの者が文章もろくに書けないことを嘆く。
ただそのうち、クロード・ガルシア(エルンスト・ウンハウアー)の文にだけには興味を示す。文章としてよいわけではないが、内容とその展開の可能性に関心をもったからだ。

クロードは数学の不得手な友人ラファの家に行き、そこで勉強を教えていて、ラファの家庭の中のようすを題材に、自分の想像力を織り交ぜて、作文を書いているのであった。
ラファには両親がおり、彼らとも顔なじみとなるにつれ、両親のようす、特に母親エステル(エマニュエル・セニエ)のようすを、写実的に書くようにになる。

ジェルマンはクロードに文才があると見込んで、さまざまなアドバイスをほどこし、クロードの作文は、そのつど「続く」で終わりながら、ラファ家のプライベートなことにまで言い及びつつ、延々と続いていく。
やがて、クロードは、現実のなかでなのか虚構のなかでなのか、エステルに惹かれ始める。……

元々この監督は、現実と虚構をない交ぜにして、ある世界を創り出す作品が多いのだが、この映画もそうであった。

クロードの作文は、当初、ラファの家にいることにより、それを元に、そこに見えるものをそのとおりに写実していくという、陳腐なものに過ぎなかったが、ジェルマンの忠告にしたがって書きすすめるうちに、自らの想像力で書くようになり、やがてラファ家の人々にも、そしてジェルマン夫妻にも、迷惑をかけるような事態を、引き起こしてしまうまでになる。

フランス映画のある流れには、かなりセリフで語らせるものが多く、この映画も、ほとんどのシーンにセリフがあり、クロードあるいはジェルマンのモノローグが流れる。DVDには吹替えもなく、詩人や小説家の名前などもポンポン出てくるインテレクチュアルな作品でもあり、内容からしても一般受けするものではないだろう。

ただ、カメラを固定にしたまま延々と語り合うようなシーンはなく、セリフも短めで、セリフごとにカメラも動くので、疲れることはない。

冒頭、校舎の前に、ひとりクロードが立っていると、登校する生徒たちが徐々に増えてきて、カメラは早回しとなり、生徒の群れが一気に校舎内に消えていくというのはおもしろい。
それ以外にカメラワークには特筆するものはない。

ただ、ラストで、落ちぶれたジェルマンとクロードが公園のベンチに座り、目の前のアパルトマンを見て、そこに住まう人々についてアレコレ言う。そのまま夜になりアパルトマンのそれぞれの部屋に明かりが灯り、人々の暮らしをフレーム一杯に見せる。このアイデアは、この物語のラストとしてふさわしかった。

友人とはいえ、人の家のなかを覗くような感覚で書かれたクロードの文章は、それ自体美しい虚構であっても、現実とはまた別ものであることを暗示している。

このほとんどあたりまえのことを、一本の映画に、プロセスとして描き出した監督の手腕は、たしかに評価されていいと思う。
一種サスペンス調の作品であり、多くが室内劇であることからして、ふと思い出すのは、ミヒャエル・ハネケの『隠された記憶』である。この作品は、あそこまでエグいものではない。

一高校生がその特異な才能を、その教え手に対しても挑戦的に発揮するという視点はあまり例を見ず、ジェルマンにとっては自ら撒いた種により、いわば自らの現実世界の崩壊を招いたことになり、職を失い妻は去ってしまい、それはそれで悲劇であるにもかかわらず、じめじめさせないで終わるところも一つのセンスだ。
作中のコトバをもじって言うなら、虚構という水面(みなも)で、かろうじて踊り続けるのが現実なのだろう。

カメラワークそのものに特別なものはなくても、やはりパリが舞台でもあり、ジェルマンの妻ジャンヌの経営する画廊の風景や、ラファの家に飾られた絵など、映画全体の雰囲気醸成にひと役買っている。
画廊に並ぶ奇妙な作品が映るシーンでは、思わず噴き出してしまう。

ビジュアル的にも、クロードを演じたエルンスト・ウンハウアーは、知的な表情をもつ整った顔立ちをしており、このみずみずしい雰囲気を漂わせる少年だからこそ、書き継がれた文章にジェルマンは興味をもち指南してしまう。
しかしまたクロードのジェルマンに対する意地の悪さにも納得してしまう。

これに対し友人のラファはお笑い芸人のようなおもしろい顔をしている。
ある意味、主役クロードという少年のキャスティングにも左右される内容で、これが頭の悪そうな醜男(ぶおとこ)では、作品として成立しなかっただろう。

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映画 『迷宮物語』

監督・脚本:『ラビリンス*ラビリントス』…りんたろう、『走る男』…川尻善昭、『工事中止命令』…大友克洋、原作 眉村卓、音楽:ミッキー吉野、制作:角川春樹、マッドハウス、アルゴス、配給:東宝、この順の三作品からなるオムニバス・アニメ、1987年(劇場公開1989年)、50分。

タイトルロゴにフランス語 Manie-Manie という語が乗っているが、マニとは、偏執・奇癖・狂気の意味という。

ひとつひとつの作品に内容上のつながりはなく、二話・三話は第一話で出てくる少女サチとその飼い猫が見る映画という流れで、第一話が、二話・三話を挟むような構成になっている。
しかしこの構成にそれほど意味はなく、三話全体がオープニングとエンディングで出てくる口のなかの物語世界になっている。

『ラビリンス*ラビリントス』

少女サチのイマジネーション世界を描く。ストーリー性はほとんどない。
サチは飼い猫とかくれんぼをするうち、見知らぬ世界に足を踏み入れる。そこはまさにラビリンス(labyrinth、迷宮)であり、サーカス小屋のなかに入ったようでもあり、ピエロも登場するが、狭い路地のシーンでは、幾通りもの異形と遭遇する。

サチは台所の流しの下にいたかと思えが、猫とかくれんぼするなど神出鬼没に描かれ、その奔放な想像力によっていろいろな世界をさまよい、いろいろな人やものと出会う。

幼い子の見る一種ファンタスチックな夢世界とでもいえるが、きれいなもの一辺倒ではなく、目の付いた触手など薄気味悪いものも出現し、おどけた映像もあり、一筋縄ではいかない描写が連続する。

シーンは常に全体に右に左に動き、その勢いで、サチたちは扉を開け未知の世界に立ち入ってしまうのが自然に見える。

『走る男』

夜のカーレース会場が舞台。選手権でずっと王座を占めている男ザックの物語。ザックを知る記者ボブの姿とモノローグも入る。

今日もレースに出たザックはぐんぐんスピードを上げ、他のマシンがクラッシュして脱落するなか、やはりひとり勝ち抜き、堂々とゴールを通過する。

しかしザックはスピードを緩めることもなく、さらに疾駆しつづける。亡霊のようになったライバルたちの青白いマシンが、ザックの左右を追い抜いていく。
ザックのマシンはついに、前を走るその青白い一台と一体化するが、その瞬間火の玉となって、ザックもろとも粉々に砕け散る。

『工事中止命令』

部長の命令で、杉岡は、熱帯にあるアロワナ共和国の奥地で進む都市開発計画を中止するため、ボートで先を急いでいた。

社運をかけたプロジェクトで、すべてはロボットによって自動的に工事が行われていた。しかし現地で政変があり、この大工事は中止になったのだ。

杉岡が現地に着くと、ひとつの人型ロボットが案内してくれた。翌日から杉岡は視察に出るが、案内してくれたロボット(杉岡はデクロボットと言っている、木偶の坊からきているのだろう。)はインプットされたとおりにしか動かない。
やがて杉岡は、このデクロボットを破壊する。

三作品とも、27年近く前のものとも思えない。
それは描写力であり、それによってもつ絵のうったえかける力だ。

大友作品は、地下通路やビル群など『童夢』や『AKIRA』に通じる絵世界が見られる。ちょうどその時期の作品でもあるので自然とそうなるのだろう。杉岡の顔も、鉄雄がメガネをかけたような感じだ。話に皮肉も込められている。

一作目はひたすらイメージ世界が現れ続けるという点で、それほどおもしろみはないのだが、細やかな作画はプロの味わいと思う。

最も印象的なのは第二作『走る男』だ。
ザックはレーサーとは言えぬような恐ろしい風貌をしており、最後には鼻や耳から血を噴き出す。
この風貌やマシンの破壊シーンは見どころで、コックピットの計器類が少しずつ破壊され、ザックの顔から血が噴き出し、目がは充血し白目に変わり、やがて炎のついたままの破片が四方八方に飛び散るシーンなど、ほとんど神業だ。

夜空の下、レース会場の全景やマシンが動くようすがすばらしい。多くのライトの煌めくようすも美しい。作画の何と繊細なことよ!
しかし言わんとすることは、すこぶる硬派である。

全編で50分ほどの作品であり、あなたも狂気のような迷宮を旅してみてはいかが・・・?

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映画 『ウォッチャーズ』

監督:モーガン・J・フリーマン、脚本:ケイティ・L・フェッティング、音楽:ピーター・ナシェル 、ジャック・リヴジー、主演:ミーシャ・バートン、マット・ロング、ジェシカ・ストループ、2009年、95分、原題:Homecoming(帰郷)

小さな田舎町に、大学1年の終わりに、マイク(マット・ロング)が、恋人エリザベス(ジェシカ・ストループ)を連れて帰ってくる。マイクは、フットボールがすべてというようなこの街で、クオーターバックとしてスター扱いされていた。

しかしこの街のしがないドライブイン兼ボーリング場には、かつての恋人シェルビー(ミーシャ・バートン)がいた。彼女は家庭の事情で、マイクとは別れ、マイクとともに大学に進学できず、店もぼろい自宅も差し押さえられる寸前になっていた。

シェルビーはマイクを今でも恋人と思っていたが、店に寄ったマイクにエリザベスを紹介された直後から、エリザベスを恨むようになる。
マイクはそのままエリザベスを両親に紹介しようとしていたが、それを知ったシェルビーは、親しげなふりをしつつエリザベスに強い酒を飲ませ、エリザベスはその夜マイクの両親に会うことをあきらめる。

マイクのいとこのアイデアで、マイクはモーテルにエリザベスをひと晩泊めることにし送ってきたが、ひとり残されたエリザベスは、この時期帰省客でモーテルが満室であることを知り、しかたなく数キロ離れたモーテルまで、夜道を歩くことになる。

悲しみに打ちひしがれたシェルビーは、泣く泣く車で帰る途中、不注意でエリザベスを轢いてしまう。シェルビーはエリザベスを自宅に連れて帰り、傷の手当をするが、これを絶好の機会と踏んだ彼女は、足まで負傷したエリザベスをそのまま自宅二階に監禁し、知らぬ顔でマイクに近付き、マイクの心を取り戻そうとする。……・

といったところが導入で、本題はこれより後である。
シェルビーの嫉妬心や恨み節が炸裂し、執拗なまでにエリザベスを攻撃する。
だがマイクの心は動かず、ラストで悲惨な結果を迎える。

マイクは、連絡してもなかなか携帯にも出ないエリザベスを、必死に探そうとしないとか、ひとり恋人をモテルの前まで送るが、確実に宿泊できることまで確認せず去っていくとか、突っ込みどころは満載だ。

そもそも、小さな街とはいえ、街中に名が知られているフットボールのスターにしては、容姿も体格もイメージにそぐわず、ミスキャストと言われてもしかたない。
ミーシャ・バートン級の女が、果たしてこんな男に夢中になっていたのか、と不思議に感じられてしまう。まあ、このあたりは、過去の恋人同士だったころのツーショット写真が頻繁に使われて、この不釣り合いな印象を解消しているとも言える。

ミーシャ・バートンは長い金髪で目のくりっとした都会的美人であるが、この田舎町のぼろい飲み屋で、何とか生計を立て、いとしの恋人を長い間待っていたのに裏切られた娘という役柄には、少し違和感がある。

こういうわけで、この映画は、評価が高くないが、何回か観ている。

なぜ二人は別れてしまったのか、マイクはなぜすぐ新しい恋人を作ってしまったのか、その恋人が行方不明になっても、すぐ必死に探そうとせず他力本願でいられるのはなぜか、エリザベスは銀行の人間が来たとき、窓ガラスを割ってでも助けを求めようとしなかった、などなど、それぞれがそのときそうなるに当たっての原因となる部分については、ほとんど説明がないかさらりとセリフで終わらせており、ストーリーが弱い。

脚本も稚拙で、キャスティングも不充分で、全体にかる~い仕上がりのサスペンスではあるものの、それだけに、現実的にこんなこともありうるだろうという点では、そんなに嫌いな作品ではないのだ。

シェルビーが、おためごかしにエリザネスを看病しながら、実は睡眠薬を投与している。このあたり、といってもほとんど初めからそうなのだが、シェルビーの報復が始まる。
この映画は、このシェルビーのエリザベスに対する報復がテーマなのだ。
watchers という邦題も、監視役、看病する人、という意味からくるアイデアだったのだろう。なぜ複数形にしたのかはわからない。

特段残忍な手段やシーンがあるわけでもなく、元カノが今カノを監禁したら、いかにもありそうでリアルな責め方なのであるが、ここがまたメリハリをなくしている点でもある。
観ている側は、シェルビーとあまりに一体になりすぎてしまうのだ。

観ている側を、快く裏切ってくれるよう、シェルビーのなすことが、観客の一歩先を行くような展開、あるいは、観客の予想を裏切るような展開がなされていれば、より締まりのある作品となったであろう。

ラストでは、ようやくエリザベスの居所がわかったマイクがシェルビーの家に来て、三者が乱闘になる。たまたま床に落ちてきたシェルビーの宝であるマイク愛用のヘルメットを、エリザベスが拾い上げて、何度もシェルビーの顔を殴りつける。
血まみれになったシェルビーは、ようやく意識が戻り、目を開ける。
借金も多く家も店も取り上げられ、恋人もとられ、すべてがパアになるわけで、みじめな姿である。

本作には、一貫して同じようなメロディーの音楽が流れている。ちょっと哀感を帯びたようなサスペンスチックなメロディは功を奏している。

監禁モノとして有名な『ミザリー』と比較すれば、すべてにおいてこちらが劣っている。ただ、その作品でアカデミー主演女優賞を取った42歳のベテラン、キャシー・ベイツと比較するのは、23歳のミーシャ・バートンが気の毒だ。演技がいいとまでは言えないが、体当たりで演じているのは評価したい。
映画のよしあしは、俳優だけのせいではない。すべての責任は監督にある。

95分の映画でもあり、肩肘張らないサスペンスとして、気軽に楽しめる作品と言えるだろう。

まあ、ミーシャ・バートンは、かわいい女ですね。

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映画 『軍鶏 Shamo』

監督:ソイ・チェン、原作:橋本以蔵、たなか亜希夫、脚本:橋本以蔵 、セット・カムイェン、撮影:フォン・マン・ユン、編集:コン・チー・レオン、音楽:パトリック・ロー、主演:ショーン・ユー、魔裟斗、2006年、105分、香港映画。

石橋凌や魔裟斗のセリフも広東語に吹き替えられている。
映画の原作に、たなか亜希夫の名前はクレジットされていない。

橋本以蔵(はしもと・いぞう)は、映画『AKIRA』で大友克洋といっしょに脚本を手がけた人物だ。

有名私立高校に通う16歳の成嶋亮(ショーン・ユー)は、ある日突然、食事中に妹もいる前で、両親をナイフで刺し殺してしまう。

亮は鯵ヶ崎少年院に送られ、先にいる札付きどもや院長(石橋凌)から、いやがらせの暴力を受ける。
やがて亮は、囚人でありながら少年らに空手を教えに来る黒川健児(フランシス・ン)を師と仰ぎ、鍛錬を重ねた結果、名実ともに武道のわざを身につけていく。

社会復帰したあと、この世に生き残るために、ファイターとして訓練を積み、リーサル・ファイト(L・F)と呼ばれる選手権に出ることを望むようになる。
そのL・Fの最高実力者は菅原直人(魔裟斗)であり、亮はその菅原を倒そうと心に誓う。……

軍鶏(しゃも)とは、黒川が痛めつけられても粘り強く刃向かってくる亮を、そう呼んだところからきている。

あるきっかけで原作を読み始めた。長大な漫画であり、最初の壱之巻(フォト)を読んでみて、それなりのものがあれば読み進めて行こうと思ったのだが、壱之巻で終わってしまった。
もっと先を読めば、盛り上がってくるのかもしれないが、だいたいの雰囲気は掴めたからいいだろう。
しかし、登場人物の顔は、好きになれない。何でみんな口が大きく、下顎と下唇が出ているのだろう。目も好きでない。ただ、手の描き方はすばらしいと思う。

漫画版の実写ということになるのだが、そもそも映画化することじたいが難しい原作だと思う。
このめぐまれた家庭に育った少年が、なぜ両親を突然殺害しなければならなかったか、…これは少なくとも壱之巻だけではわからないのだが、こうした屈折した心理は、回想シーンなどにも現れない。
回想で出てくるのは、食卓で突然死亡する両親の姿と、それに驚く妹・夏美の表情だけだ。

頭はいいがひ弱であった亮が、空手に一生を賭けるようになる心理的変遷は、原作のほうではわかる感じもするが、映画のほうではわかりにくい。
この漫画は、おそらく、格闘技を、正義や修練の延長線上にではなく、自らを守るためのやむをえない暴力の延長線上に置いている。

娑婆に出ると、金髪となり、女とも交わる。権威あるL・Fを知り、自分の腕試しのつもりで、菅原を倒そうと必死になるが、そのあたりは亮としてはすでに方向が決まっているので、その延長線上にありうる出来事として納得はできる。

この映画も、いわゆる香港映画のある流れのなかに生まれ、格闘技によるアクションを圧巻として作られた気がする。
映画では、やはり菅原が勝利を収め、それでもようやく亮が立ち上がって、ファイターとしての維持を見せるところで終わっているが、原作はまだまだ続く。

竹藪における黒川と亮の試合の前哨戦のような戦いや、リング上での亮と菅原の壮絶な戦いぶりなど、撮影と編集の苦労は報われていると思うが、亮という人間、つまり原作にある人間世界の暗黒への切り口は、映像にはついに現われじまいであった。

しかし、単純な格闘映画、あるいは暴力映画としていないところでは、原作の意を活かそうという努力もみられるのだ。
原作でも、黒川から、武道に対する真髄のような言葉が、ときおり出てくるが、映画でもその出し方は同じである。

映画という手段がありながら、もっと亮や黒川の心理をうまく描写することができなかっただろうか。

番竜会総帥・望月の策謀家としての一面はわかりやすく描かれているが、これもフィクサーのような猛者として外側から描かれるのみで、空手に対する思い入れや、なぜ菅原を一位にさせておくのかといった深謀遠慮には触れられていなかった。

原作を初めのほうだけとは言え、少し見ているから雰囲気などで比較してしまうのかもしれない。
映画は映画として観る、というのが自分の信条だから、映画としていいのなら、それでいいのだ。

ところが映画としては、後半に行くにつれ、つまらなくなってくるのだ。緩急をたくみに操るメリハリもなく、全体に一本調子であり、2時間も必要であるのか…さらに言ってしまえば、顔のアップが多すぎる。
顔のアップは、ここぞというときに入れると効果絶大なのだが、特にこうした全身運動する人物を撮るのに、顔のアップが多すぎる。とてもしつこい。

監督としては、亮の心の状態を、必死な顔つき、悔しさに狂った表情、闘争心に燃える目つき、として表わしたかったのであろうが、それは裏目に出た。
手を抜いたと言われてもしかたのないその撮影態度では、こうした心理劇を伴うドラマは撮るのが難しいだろう。

何しろ、タイトルが<軍鶏>なのだから、その存在の異様さや成り立ちを描き切らなければ、ただの鶏で終わってしまう。
撮影技術はあっても、映画のドラマ性を描いていけるのか、…今後に期待したい。

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2014年5月 8日 (木)

研究論争から法廷闘争へ? (2014/05/08)

(mixi日記より転載)

STAP論文 画像「不正」確定へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=2872689

「論文盗用の責任のとりかた(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1923142451&owner_id=48430274)」で指摘した通りになってしまった。

気の毒だが、やはり退職ということになりそうだ。
今日までの流れからすれば、ここは潔く先に自ら退職届を出すべきだろう。
研究してきたことに自信があるのなら、他の機関できちんと実績を挙げていけばよい。

(「疑義は晴れず・・・小保方晴子会見(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1924622055&owner_id=48430274)」)
疑惑があるなら、どうして、科学的な物的証拠をぶつけて、反論しないのか。
それが、同様の研究をしている学者たちからの批判であり疑問であった。素人の人々にも、どこか煮え切らない雰囲気だったのは感じ取れた。

理研側の発表では、二件の画像を不正流用したことがいちばんの問題であるとされる。
あくまで「論文中の2件の画像」であるが、その画像は他の人物の論文中に使われていたものであり、「論文の一部盗用」であることに変わりはない。

不服申し立てをするなど、道義的感情的に不満だというのは理解できるが、調査委に渡した2冊以外にもあるとしていた実験ノートなどは、提出されなかったという。
これがもっとも強い、事実による反証になるはずであるのに、提出されなかった。

裁判では、被告人の発言は、検察側にも弁護側にも、それぞれ有利なように理解・解釈される。途中からは弁護士を立てて法律論でかわそうとしてきただけに、その弁護士からも提出を見送るようアドバイスされた可能性が高い。
小保方は、ふと気づいたら、自ら四面楚歌の状態に置かれており、恐怖をさえ感じるくらいであったろう。

一般的に、懲罰の一位と二位である懲戒免職と諭旨免職について、同じ免職でも、諭旨免職は退職金が付き、懲戒免職は付かないとされる。
小保方がどうなるかはわからないが、退職金をもらえる年限を継続勤務しているのであれば、それを失うのは、ヨリ不服だろう。

しかし、ここはカネの問題は区別させなければならない。
懲戒と名がつくのは、完全に、罰を受けるという意味合いである。

理研も名誉を失ったことでもあり、懲戒という選択肢もあるようだ。
しかしこれは想像だが、諭旨免職の可能性が高い。凶悪な刑事事件を起こしたわけではないというのもあるが、事件発生以来明るみに出た「諸事情」からして、小保方をひとり懲戒処分にすることはできないと思えるからだ。

理研と縁が切れても、人とのつながりは維持しようと思えば維持できるし、また新たな研究機関に勤めればよいだろう。
研究者としてはまだ若いのだから、今回の件をよく反省して、出直せばよいのである。
自身の研究に、それなりの蓄積と自信があるのであれば、ひと一倍努力して、STAP細胞発見という新たな分野で論文を発表し、成果を上げ、さらに実績を積んでいけば、著名な大学から声がかかることもあるだろう。

しかるに、私の予想するところ、そうはならないと思う。

一つには、文系と違い、理系のすべての研究というのは、一人では不可能であり、一定水準の研究施設やまとまった予算がもらえるような環境でなければ、研究というものを続けていくことはできない。また、理系の研究の大部分は、グループでおこなうものであって、単独では限界がある。

結果的に、彼女がそうした機関に就けるかどうかにかかってくる。教員の就職は、互いの大学教授の紹介であることも多い。実際には、厳しい審査や会議があるが、良くも悪くも、実力のある教授の紹介は、無視しにくい。
小保方を誰が紹介するであろうか。

そうなると、第二に、自分でその道を開拓していかなければならなくなる。
しかし会見などを見るかぎり、とてもそんなことを成し遂げていくだけの頑固さや、よい意味の依怙地が見られない。
彼女はそもそも研究者タイプではない、と言ってしまっては身も蓋もないが、研究者に不可欠の執着心や根気強さといったものが見られないのだ。

個人史において苦労していないし、苦労させられてもいない。世間知らずのこういう人間が、特に今度のようなことを引き起こしてしまったあとは、ただただ途方に暮れるだけになってしまいかねない。

「外部の科学者に検証してもらう形で再調査を依頼するのが、科学者としては正しいやり方だろう。科学の本質が議論できない状態は非常に残念だ。」とは、ニュースに引用されたある教授の言葉である。

理研の調査結果に対し、小保方側は、残念で、失望や怒りを感じる、と言っているそうだが、もし小保方本人がそう言っているのなら、筋違いもいいところだ。
他の研究者や研究機関に再調査をお願いすることもしなかった。たぶん、人脈も作っておらず、できなかったのだろう。すがったのは弁護士という、全く別世界の人間であった。
小保方は、何か勘違いをしている。

研究論争がついに、法廷闘争になるのか。

STAP細胞に向けられた世間の関心は、すでに立ち消えてしまった感があり、それはもはや、小保方晴子個人の素顔や今後の身の振り方に向かってしまっている。
彼女を揶揄するのはよろしくないが、学者としての凛とした姿勢が見られずじまいになっているところに、そうした隙を与えているかのようにも思う。

繰り返すのだが、小保方は、本人は取り違えと主張している画像の流用について、多くの疑惑のなかでは次元の低いミスくらいに思っているフシがあるが、はっきり言って、それだけでも実は、懲戒に値する事案である。

科学は厳密を基礎とする。
この人には、どう見ても、科学とは厳密な作業であらなければならない、とする自覚が見られない。

2014年5月 5日 (月)

映画 『インソムニア』

監督:エーリク・ショルビャルグ、脚本:エーリク・ショルビャルグ、ニコライ・フロベニオス、撮影:アーリング・サーマン‐アンデルセン、音楽:ゲイル・イェンセン、主演:ステラン・スカルスガルド、1997年、92分、ノルウェー映画、原題:INSOMNIA(不眠症)
2002年に、クリストファー・ノーラン監督・アル・パチーノ主演でリメイクされている。リメイク版(119分)は観ていない。評判では、このオリジナルのほうがよいようだ。
ある殺人事件捜査のため、刑事エングストロム(ステラン・スカルスガルド)は、スウェーデンからノルウェーのある町の警察に呼ばれる。そこで起きた女子高校生殺人事件の指揮をとるためだ。
その地域はちょうど白夜の続く時期であった。
遺体以外に証拠がないため、彼は、犯人を現場におびき寄せることにする。彼らは、被害者が現場に、自分のバッグを置き忘れていたと報道させる。
案の定、現場である海岸近くの小屋に、ひとりの男が現れたが、張り込みに気付いた犯人は、小屋から出てこない。エングストロムたちが中に入ると、容疑者は床に掘られたトンネルを使って、海岸に逃げていた。
犯人を追って、エングストロムたちも海岸に出、手分けして後を追うが、霧が立ち込めてなかで、エングストロムは誤って、同僚を射殺してしまう。
しかしこの不手際を、エングストロムは隠し通そうとし、弾丸を偽装して、犯人の撃った拳銃のものに見せかけようとまでする。
やがて、ある手がかりから、容疑者と思われる作家が浮かぶ。……
単に殺人事件解明がテーマの映画ではない。
そこに生ずるこの刑事の心理を負ったサスペンスタッチの作品になっている。ステラン・スカルスガルドの容姿と演技力あっての秀作だ。
とにかく、ストーリーにかかわる以外の会話もなければ笑いもないような映画で、シリアスひとすじで貫いている。突っ込みどころもあるのだが、それ以上に、この一貫したシリアスな展開により、最後まで一気に見せてくれる。92分という時間もちょうどよい。
タイトルはインソムニア、つまり不眠症のことであるが、医学的な意味でつかわれているわけではない。たしかに、白夜に近い地域に来て、滞在中のホテルのベッドでも、エングストロムはなかなか寝付けない。だがそれだけでなく、たまに幻想めいたものにも襲われる。
殺人事件の犯人とのやりとりや、自ら惹き起こした誤射事件とにさいなまれ、おちおち寝てもいられないという心理が、不眠症めいた状況にだぶってくる。
誤って同僚を射殺してしまったことを隠し通しながら、それを知られているような容疑者と取り引きをせざるをえなくなる。
この大筋に沿って、エングストロムの不安や焦燥が、映像として描写される。
これは、彼が画面に映っているシーンではステラン・スカルスガルドの表情などの演技によるのであるが、それは当然のことで、実はそういうシーンのフレーム全体の中やそのパンのしかたにも、細大の注意を払っているのがわかる。
たとえば、彼が自分のいるホテルの部屋から外出しようとする。ドアを開けると、外から人が来る気配があるので、半ドアにしたまま、その男が通り過ぎるのを待つ。このときカメラは、彼と、遠くにある曇りガラスに映った人影を同時にとらえる。
男が通り過ぎたので、彼はドアを開け、通路に出る。こちらに歩く彼の遠方には、さきほどの隣人が自室の鍵を開けようとする姿がボンヤリ映っている。その瞬間、彼は鍵を落とす。チャリンという音がして、男はそれを拾う。
まことにさりげないのだが、何も起きないシーンにも、ここまでの細やかな演出がみられる。
この種の演出はいたるところに見られるが、この例のように、気が付かなければ気が付かないで終わってしまう程度のものだ。演出が強すぎて、観ていて疲れるということはない。
エングストロムの他の同僚、被害者の恋人、友達、ホテルの受付の女の子などが、エングストロム自身からみた重要度で配置され、その登場回数やシーンの内容もそれに比例しているのもみごとだ。
特に、ホテル受付の女の子とは抱擁シーンもあるが、その終わり方も映画の方向に沿っている。この女性は、初めさりげなく登場してくるが、シーンを追うごとに髪型なども変わり、カメラが少しずつ容貌をはっきり映していっている。
海や港、道路など、外の景色も映されるが、場所柄なのか故意なのか、常に荒涼とした感じであり、この映画の個性を作り出すのにひと役買っている。
結果的に犯人は死ぬことになるのだが、警察に狙撃されたわけでも自殺したわけでもない。そして、エングストロムの誤射については、同僚女性刑事により、それが偽装だったことが判明したことを暗示しながら、彼が車を運転するシーンで終わる。
悪は殺され、未解決なものは解決して終わらせるという、いわゆるアメリカ映画の辻褄合わせはない。
かつて、デンマーク映画『偽りなき者』のレビューを書いた。あの作品も、事件がまだ継続することを暗示してラストとなる。
北欧という緯度にある地域性が、こういうつくりにさせるのだろうか。これを北欧的センスというなら、こういうセンスには共感する。
これと別に、日本の映画も、必ずしも善が残って悪が絶える、というストーリーばかりではない。
正義感が純粋に、社会と国家の財産であったころのアメリカ映画はすばらしかった。物量ではエンタメ大国であるアメリカも、微細なところに入り込むような作品には縁遠いようだ。
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2014年5月 4日 (日)

映画 『SHORT PEACE ショート・ピース』

監督:森本晃司(オープニング)、森田修平(九十九)、大友克洋(火要鎮)、安藤裕章(GAMBO)、カトキハジメ(武器よさらば)、 原作:大友克洋(武器よさらば)、 脚本:森田修平(九十九)、大友克洋(火要鎮)、石井克人・山本健介(GAMBO)、カトキハジメ(武器よさらば)、音楽:Minilogue(オープニング)、北里玲二(九十九)、久保田麻琴(火要鎮)、七瀬光(GAMBO)、石川智之(武器よさらば)、製作会社:ショート・ピース製作委員会、配給:松竹、2013年、68分

オープニングに続く「九十九(つくも)」、「火要鎮(火のようじん)、「GAMBO」、「武器よさらば」の4編からなるオムニバス・アニメ。
全体のタイトルは、大友克洋の初期作品集『ショート・ピース』からとったと言われている。オープニングには、『ショート・ピース』の表紙の女性の顔(「犯す」の扉ページ)もさりげなく出ている。
これは short piece だが、本映画では short peace となっている。言葉遊びだろう。

「武器よさらば」は大友克洋の短編を元にしており、監督・脚本は、大友に近い人物が担当している。
あらすじなど省略するので、こちらを参照してください。⇒http://shortpeace-movie.com/jp/
昨年7月20日封切で、宮崎駿『風立ちぬ』と同じ日であった。

オムニバス映画は、どこか統一感をもたせるだろうし、観る側もそういうものとして観るのだろう。
オムニバス映画として傑作だったのは、「最後の一葉」などオー・ヘンリーの五つの短編をひとつにした『人生模様』(1952年、117分)であった。これは、同じ作家の短編を集めた作品であった。短編である原作を、短編として映画化した。

本作品は、前三つが、古い日本の姿を見せるのに対し、「武器よさらば」だけは、都心における近未来の戦闘を中心にした内容である。
いずれも、作品のラストに、富士山が出てくるあたり、舞台は日本であることを強調しながら、他方、外国人を意識したつくりとも言える。

『人生模様』のように、原作という共通点をもたないが、大友がかかわったという点で、その精緻な作画、アイデア、演出、素早い動きなどに、大友の他の作品に通じるものを見てとれる。
そしておそらく、興行収入などをまず優先するようなポピュラーな内容より、現代の日本においてもまだ、職人肌で殴り込みをかけようとする各分野のアニメに対する純情と愛着、執着を、そのまま曝け出している作品なのだ。

一話一話に、ストーリーとしての完結性がない、と言われる。しかし、アニメの世界で、ましてや短編で、そうきちんと始まりと結論を描くことが必要なのだろうか。
一話一話の話の運びがわからないというならともかく、話の内容は誰でもわかる。

あるレビューによると、夏休みの封切であり、大きな映画館のロビーには親と来ていた子供たちが騒ぎまくっていたが、この映画が上映されるに及んで、満席の客席に、ほとんどさきほどの子供たちの姿はなく、周囲はみな静かに鑑賞していたという。
このあたりのことも、この作品の存在意味を示す現象だろう。

特にマニアックな視聴者を予想しているとも思えないが、セリフは極力排除されているため、観客に想像力を委ねているような点があるのは事実だ。これは、結論を観客に委ねている、というのとは異なる。明確に結末を描写しないのは、短編であるという特性を活かした、観客への褒美なのであり、作り手側からすれば、観る者たちへの願いなのだろう。

オフィシャルサイトの動画冒頭に、「アニメ」を失った大人たちへ、という文句が出てくる。
この映画は、まさに、そんな大人たちへのご褒美であり、観る側へのプレゼントになる。
職人たちの作り出す美しい映像と、精緻な作画と、ダイナミックなアクションシーンなどから、観る者は想像力を掻き立てられ、忘れていたものを思い出し、気付かなかったことに気付かされるのである。

エンディングに、「夢で逢いましょう」(「夢であいましょう」作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本スミ子)が流れる。
『AKIRA』でも、「東京シューシャインボーイ」を使っていたくらいだから、これは大友のアイデアだろう。
この曲の採用も、監督たちの以上のような願いを込めてのものなのだろう。

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