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2014年1月

2014年1月30日 (木)

『AKIRA』に浸った一カ月

今日は、仕事の帰り、渋谷の「まんだらけ」に出向いて、古本の『AKIRA CLUB』を買ってきてしまった。

思えば、年末にDVDをまとめて借りるとき、一週間レンタルにするのにあと一本何がいいかなと思って通路を歩いていたところ、『AKIRA』を見つけたのだった。

結果的に、他に借りたものより、これがいちばん尾を引いた。年末の紀伊国屋でBlu-ray版を買った。
新年になり、鉄雄のフィギュアを買ったり、漫画本の「AKIRA」を全巻そろえたりした。

ジュンク堂、Project1/6、BOOK・OFF、まんだらけ、にはお世話になった。
ふだん、古本屋にはほとんど行かないのだが、古い本やコミック、DVDのなかにいると、商売をしている場所というより、別次元の世界に入り込んだようで、飽きることがない。

Blu-rayで10回以上、Special Edition のDVDは1回、漫画のほうは、6巻通しで3回読んだ。

今まで全く手の付いていない分野でもあるので、今頃になって新鮮さを感じる。
これらを当時読んだ人からすれば懐かしいということなのだろうが、自分の場合は、初めての経験であり、大仰に言えば、新たな世界が開けたという感じだ。

あのころ、いろいろ教えてくれる友人がいて、『AKIRA』の第一巻が出るとか、『童夢』にはヤラれた、などと聞いていて、記憶の隅にそれらの名前は残っていたのであるが、特に注目もしなかった。
しかし、いま思えば、記憶の隅に残っていただけよかったのだ。

ひとりの作家としての大友氏自身が作り上げた世界であるのは事実なのだが、内容が日常から出発しているせいなのか、どうも、現実を飛び越えた非現実の話とだけは言えないようにも感じる。

漫画といえば、当時の友人に、趣味で少女漫画を描いている女の子がいた。いつも『ぱふ』を持ち歩いていた。
その子自身が、少女マンガの主人公のような容姿をしていた。

『タッチ』『めぞん一刻』などもいいけど、こういうのもあるのよ、と言って勧めてくれたのが、山岸凉子『日出処の天使』、萩尾望都『トーマの心臓』『メッシュ』、吉田秋生『吉祥天女』、高野文子『絶対安全剃刀』といった作品であった。

この何とも、どろどろとした日常世界に、そこと紙一重の非日常や狂気が描かれた世界というのには、いたく興味が引かれた。
彼女同様、私も心理学や精神病理学などに関心があったからだ。

こういうものに比べると、ど根性ものや冒険ものなどは見なくてもいいだろう、たいしたことはない、話のスジはどこでどうなるかだいたいわかる、そもそもマンガなどというのは勉強嫌いのヒマ人がヒマをつぶすための道具に過ぎない、…
などとタカをくくっていた。

今でもそういう傾向は自分にあるが、よくなかったのは、そのついでに、SF的な世界や未来志向のテーマも、いっしょに封印してしまったことであった。

自分ではふだんから全く年齢の自覚がない。からだも今のところ元気である。
それでも、年を経るにつれて、現実が徐々につまらなくなってきたのは事実だ。
そのせいなのか、もともと好きなせいか、映画はやはり楽しい。

肉体をもってこの世にあるかぎり、現実からは逃れられないのではあるが、映画にしろ漫画にしろアニメにしろさまざまな音楽にしろ、それらは楽しい世界へと自分をいざなってくれる。
そして、現実のほうでは、確実に「死」というものに近づいている。

今後も、『AKIRA』を、スジを追いながら自分勝手に解釈して、そのストーリーを楽しんでいくだろう。

絵もまた、すばらしいのだ。精緻に描かれた絵というのはすばらしい。この精緻さ、精密さというのは、日本人だからこそのなせる技かもしれない。
銅版画のアルブレヒト・デューラーの精緻さを思い出してしまう。

今年はまだ始まったばかりだが、今年の出来事のベストには、『AKIRA』との出会いが入ることは間違いない。

結果的に、この作品が私をして、ささやかな幸せを授けてくれたことは確かだ。

来週は、秋葉原の「まんだらけ」を冷やかしに行ってみようかな…。

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2014年1月20日 (月)

行政代執行法とは (2014年1月20日)

以下の二つの法律は、ある意味、大変恐ろしい法律ではある。
直接的な国家権力の行使になるからだ。

行政代執行法は短い法律だ。
憲法29条の考えのもとに、土地収用法の以下の部分が成立しており、それが難航した場合、難航しそうな場合には、行政代執行法を使えるというわけだ。

新幹線を通すための土地買収は、土地収用法によってなされたところもある。
成田空港開港に向けて、土地収用法に基づく行政代執行がおこなわれた。

強制法であり、あくまで国益のために運用される法律で、国家の恣意的運用は、厳に慎まれなければならない。
しかし、真の国益実現のために、いつまでもそれがはかどらないことで行政が停滞し、各方面に悪影響を及ぼすのであれば、こういう法律を使うのもやむを得ないだろう。

成田では、一度の代執行で、過激派とぶつかった機動隊側から、三人の殉職者を出している。行政代執行に、どちらの側にも死傷者が出る。

執行する側に死者が出るのは理不尽である。成田のときも、機動隊が一定の武器を使えていれば、三人も死者を出さなくて済んだはずだ。

この法律は伝家の宝刀であり乱用は許されないが、国民世論の多数を得、しかもそれが将来の日本の国益に通じる政策実行であるならば、これを妨害する勢力に使われるのはいたしかたないことだ。

<行政代執行法>全文

第一条  行政上の義務の履行確保に関しては、別に法律で定めるものを除いては、この法律の定めるところによる。

第二条  法律(法律の委任に基く命令、規則及び条例を含む。以下同じ。)により直接に命ぜられ、又は法律に基き行政庁により命ぜられた行為(他人が代つてなすことのできる行為に限る。)について義務者がこれを履行しない場合、他の手段によつてその履行を確保することが困難であり、且つその不履行を放置することが著しく公益に反すると認められるときは、当該行政庁は、自ら義務者のなすべき行為をなし、又は第三者をしてこれをなさしめ、その費用を義務者から徴収することができる。

第三条  前条の規定による処分(代執行)をなすには、相当の履行期限を定め、その期限までに履行がなされないときは、代執行をなすべき旨を、予め文書で戒告しなければならない。
○2  義務者が、前項の戒告を受けて、指定の期限までにその義務を履行しないときは、当該行政庁は、代執行令書をもつて、代執行をなすべき時期、代執行のために派遣する執行責任者の氏名及び代執行に要する費用の概算による見積額を義務者に通知する。
○3  非常の場合又は危険切迫の場合において、当該行為の急速な実施について緊急の必要があり、前二項に規定する手続をとる暇がないときは、その手続を経ないで代執行をすることができる。

第四条  代執行のために現場に派遣される執行責任者は、その者が執行責任者たる本人であることを示すべき証票を携帯し、要求があるときは、何時でもこれを呈示しなければならない。

第五条  代執行に要した費用の徴収については、実際に要した費用の額及びその納期日を定め、義務者に対し、文書をもつてその納付を命じなければならない。

第六条  代執行に要した費用は、国税滞納処分の例により、これを徴収することができる。
○2  代執行に要した費用については、行政庁は、国税及び地方税に次ぐ順位の先取特権を有する。
○3  代執行に要した費用を徴収したときは、その徴収金は、事務費の所属に従い、国庫又は地方公共団体の経済の収入となる。

<土地収用法による代行と代執行>

(土地若しくは物件の引渡し又は物件の移転)
第百二条  明渡裁決があつたときは、当該土地又は当該土地にある物件を占有している者は、明渡裁決において定められた明渡しの期限までに、起業者に土地若しくは物件を引き渡し、又は物件を移転しなければならない。

(土地若しくは物件の引渡し又は物件の移転の代行及び代執行)
第百二条の二  前条の場合において次の各号の一に該当するときは、市町村長は、起業者の請求により、土地若しくは物件を引き渡し、又は物件を移転すべき者に代わつて、土地若しくは物件を引き渡し、又は物件を移転しなければならない。
一  土地若しくは物件を引き渡し、又は物件を移転すべき者がその責めに帰することができない理由に因りその義務を履行することができないとき。
二  起業者が過失がなくて土地若しくは物件を引き渡し、又は物件を移転すべき者を確知することができないとき。
2  前条の場合において、土地若しくは物件を引き渡し、又は物件を移転すべき者がその義務を履行しないとき、履行しても充分でないとき、又は履行しても明渡しの期限までに完了する見込みがないときは、都道府県知事は、起業者の請求により、行政代執行法 (昭和二十三年法律第四十三号)の定めるところに従い、自ら義務者のなすべき行為をし、又は第三者をしてこれをさせることができる。物件を移転すべき者が明渡裁決に係る第八十五条第二項の規定に基づく移転の代行の提供の受領を拒んだときも、同様とする。
3  前項前段の場合において、都道府県知事は、義務者及び起業者にあらかじめ通知した上で、当該代執行に要した費用に充てるため、その費用の額の範囲内で、義務者が起業者から受けるべき明渡裁決に係る補償金を義務者に代わつて受けることができる。
4  起業者が前項の規定に基づき補償金の全部又は一部を都道府県知事に支払つた場合においては、この法律の適用については、起業者が都道府県知事に支払つた金額の限度において、起業者が土地所有者又は関係人に明渡裁決に係る補償金を支払つたものとみなす。
5  第二項後段の場合においては、物件の移転に要した費用は、行政代執行法第二条 の規定にかかわらず、起業者から徴収するものとし、起業者がその費用を支払つたときは、起業者は、移転の代行による補償をしたものとみなす。

<日本国憲法>

第二十九条  財産権は、これを侵してはならない。
○2  財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3  私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

2014年1月13日 (月)

美なるもの

かつて、興味があって、「かわいい」とは何ぞや、ということで、それを定義してみたことがある。「かわいい」は形容詞だ。

「それ自体がそれをかかえる背景全体に対し明確に区別される優越的一部分を構成し、相対的に、面積として小さく、時間経過として短く、重量感として軽く、一部または全体に曲線または円に近いシルエットを含み、単色または淡い色彩からして純潔無垢なイメージを想起させ、そのため不特定多数の視線が注がれる可能性をもち、そうした特徴から、脆弱なイメージを伴う客体として突如現れたような錯覚をいだかせるため、反射的につい手をさしのべて守ってあげなければならないと思い込ませ、最初の印象において受動的追従的付随的価値を任意に付与してしまわざるをえなくするような、実体としての存在であるだけに、支配可能と思わせる~」

だいぶ手直ししたものの、まだ不充分な気がする。

そもそも定義なるものは、定義したとたんに、そこから溢れたり、そこに何か欠けていたりすることが明らかになる行為なので、たとえ国語辞典であっても、一応そう言えるだろう、という線に落ち着けばよしとする程度のものだ。

特に、こうした感覚的な言葉については、定義はことのほか難しい。
定義が難しいのだから、それを人に伝えることは、さらに難しい。

しかし、大部分の人がそれを、「かわいい」だの「美しい」だのと表現するからには、その対象に、何か共通するものがあるに違いない。
それとて、時代や場所が変われば、一様に当てはまらなくなるのもまた事実だ。

知る限り、古今東西を問わず、大の哲学者たちが必ず追求し、あるいは、あえてその泥沼にはまらぬようにと意図的に避けてきた対象に、「時間」と「美」の問題がある。
特に、近代に入って、存在論などが優勢になる以前は、古代ギリシアから始まり、「時間」と「美」とは、思索の対象であった。
「時間」は、言い換えれば、「記憶」の問題である。

「記憶」は、いずれ死する存在である人間にとって、思索に値する対象であった。
哲学者だけではない。死する運命をもった人間誰しもが、かかわり合うことになる問題なのだ。失恋の経験、身近な人間の死とて、思索としては重要な「記憶」の問題となる。

これに比べれば、「美」というものは、生きるか死ぬかの問題というほど、人間にとって根本的な問題ではない。
それだけに、哲学者たちよりはむしろ、「美」とかかわらざるをえない仕事をしている人々、すなわち、芸術に生きる人々にとって重要なテーマであった。

ただ、「芸術的なもの」はやはり、血の通った人間であるかぎり、心のどこかに宿っているわけで、何かを見て「美しい」と感じるのは、普遍的な現象である。
第一、「美しい」という言葉じたいは、少しも特殊な言葉ではない。

日本でも、いろいろな作家や評論家が書いている。すなわち、この花は「美しい」、とは言うが、花の「美しさ」などというものはない、と。
むろん説明言葉としてこれを使いはするが、実体としての「美しさ」などは存在しない、と言うことなのだろう。

昨年も、桜の季節に、靖国神社参拝の折りに、皇居のお濠端に咲き乱れる桜を見た。相当の年数を経た多くの桜の大木が、その枝をみごとに広げ、千鳥ヶ淵の小道からお濠の水際まで淡い色の花々で覆う光景は、まさしく桜花爛漫の絵姿だ。
これを、多くの人々が「美しい」と感じ認識し、写真に収めたり絵に描いたりする。

窮極の美には、おそらく、人を沈黙させる力がある。
その力が昂じれば、人は圧迫を感じるか、従うかの選択を迫られる。
政治家や軍人が、美を利用しようとするのは道理である。象徴としての美は、そうした権力の修飾に援用されたこともある。

個人レベルでもこれは同じことだ。『金閣寺』の主人公、吃りの青年僧は、金閣の美に憧れ、自己を金閣に重ねながら、同時に金閣から圧迫も受けていた。美による抑圧と支配に耐え切れず、放火という人間の力で、美に復讐したのである。

桜も金閣も、それ自体に「美しさ」を孕んでいるのではない。それを見る人間が、「美しい」と感じるのだ。「美しさ」が独り歩きしているのではなく、それをある日ある所で見たとたんに、「美しい」と感じ入るのだ。
対象を見て「美しい」と感じる、…これこれは、ああ美しいと思う。「美しい」という語が叙述表現であることに一致している。

おそらく、外国に行けば、そこにある宮殿や庭園、建築物、彫刻、絵画を見て、美しいと思うのだろう。
日本にある庭園などはこれに共通する。

しかしまた、上に述べたように、「美しい」と感じるかどうかは、時と所によって変わるものでもある。あるいは、感覚的なことであるからには、微細な部分では十人十色の感じ方があるに違いない。さらにまた、あるときは何でもなかったものを、違うときに見たら「美しい」と感じることもあろう。その逆もまたあるだろう。

「美しい」は、ふつうよく「きれい」と言い換えられている。「きれい」は、ヨリ日常的な言葉だ。「きれい」という言葉はよく口をついて出てくるが、「美しい」という言葉は耳にすることは少ない。
それだけに、「美しい」というのは、「感じる」作用の一環なのだと思う。口に出てこないほどに、感動し沈黙を強いられるのである。

ところで、日本には、「粋(いき)」という概念がある。九鬼周造のいう『「いき」の構造』なるものが、日本人の心の根底にある。「いき」の反対は、無粋(ぶすい)である。
「いき」は「意気」に通じていると九鬼は言っている。ごろ合わせのようだが、そう思えないこともない。

「いき」とは、「美」の一範疇だと思う。色っぽさ・艶っぽさもそうだ。汚いもの・穢れたものが、「いき」であるはずがない。
同様に、「凛とした」というのも「美」の範疇であり、これが昂じると、静かさ・冷たさに通底する。

「美しい」のは、visual なものばかりには限られない。audible つまり、音楽を聴いて、音色が美しい、と感じることもある。ある楽器の音色にしろ、旋律にしろ、調べの美しさに身をゆだねられるというのは至福のひとときだ。

「美しい」と感じうる対象は、その対象の大小、姿かたち、ときとところ、によって、ひとそれぞれに変わってくるのだと思う。
だから、「美しい」と感じろ、と命令はできない。

ただ、これだけは言える。
何かを見るなり聴くなりして「美しい」と感じた経験のない人間は、その心において不毛であろうということだ。

人間、生きていれば、多忙な時間もあり、桜や金閣どころではないという状況もある。それでも、対象を求め、感じ入るという心がけがあれば、必ずそういう心境にになるときが訪れると思う。

そして、特に日本においての「美」、和の世界・様式・文化といったものに、思いを馳せ、「日本の美」を見いだすことのできるような感性が養われれば、と思うのだ。

感動とは、驚くことである。ああ美しいと感じることも同じである。
驚きを知らぬ子供は、だいたいにおいて打算的かつ自己中心的である。驚く・感じ入る、という心の作用に、どこか「無私」の世界を見るのである。

2014年1月12日 (日)

『AKIRA』の個性

モンタージュというのは、もともと映画の言葉であった。

セルゲイ・エイゼンシュテインのサイレント映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)の終盤に出てくる「オデッサの階段」での乱射シーンがそのルーツとされる。

ある現象を撮るのに、カットをつないでいくことで、その状況を映し出すのだ。
そう、今では何でもないことだ。あたりまえのように使われる技法だ。

屈強な一人の男Aが、もう一方の気の弱い男Bを殴るシーンは、それ全体を撮れば、それとわかる。が、それではおもしろくない。

Aの怒った顔、Bの引きつった顔、横からツーショットで二人のにらみ合い、Bの肩を後ろからナメて(肩をフレームの隅に一部入れて)向こうに立つAを撮る、Bの小刻みに震える手のアップ、頭を後ろにそらせるAの全身、Bの恐怖におびえる目の巨大なアップ、一挙にBに駆け寄るAの後ろ姿を足元から、・・・

例えば、こんなカットをいくつか撮って、それをあとで編集する。
フレームやカメラワークがまともであれば、映画づくりの醍醐味は、まさにカットと編集にある。そして、それがそのシーンの出来不出来に影響する。

バイクに乗った金田を正面から、少し離れた場所にいてバイクに乗った鉄雄をやはり正面から、間に金田の側の状況が描かれ、次に鉄雄と山形のシーンへ、…

あるシーンとあるシーンを、映画で言うカットバックを使いながら交互に描き、いままでの主たるシーンが、カットバックで挿入される従たるシーンに取って変わられ、次第に従たるシーンが主たるシーンになる、あるいは従たるシーンにそれまでの主たるシーンが統合される、というあたりも映画の撮り方にそっくりである。

同じ視点から何度も描かれると、しつこくなる。それを目的とするなら別だが、こうしたカット割りとそのシークエンスは、漫画にも通じているようだ。
というより、『AKIRA』のようなスケールをもつストーリーの場合、一定のテンポも必要であり、こうした映画技法はそのまま、漫画におけるシチュエーションの再現に援用されていると思う。

原作を見ると、このモンタージュ技法が好んで使われているのがわかる。テーマをもったシーンそれぞれが、決してしつこくない。逆に、ここは力説したいというところでは、そのショット内の対象を大から小へ、あるいは小から大へと何回か繰り返して描く。
この使い分けもよくできていると思う。

これに関して、決定的なシーンを省くというのもよく見られる。そこは描かなくても、前後から想像できるだろう、というわけだ。
しかしこれも、強烈な印象を残したい場合は、リアルに描写している。

読者が想像しているのと違った展開になっている場合もあり、その予想を裏切った展開がさらに読者を次のページへと引っ張るのである。
上のシーンで言えば、てっきり山形が勝ったと思いきや、実は鉄雄に有利な展開となっている。その後山形は、鉄雄の念力で金田のほうに吹っ飛ばされて即死する。

絵の描き方以外に気付くのは、大東京帝国という言葉や大覚様(=アキラ)というネーミングである。
アニメは1988年製作でり、これは昭和63年だ。昭和が終焉を迎えると予知して、昭和のネーミングを好んだのであろうか。

大友本人がどんな思想の持ち主か知る由もない。しかし、人物であれ何であれ、名前は最後まで出てくるものであり、何も考えずに付けたとは言えないだろう。

『AKIRA』は『鉄人28号』へのオマージュとされるが、苗字で出てくるのは主人公の金田ほか山形、甲斐であり、鉄雄は島鉄雄と出てくる以外は「鉄雄」である。ナンバーズも、25号、26号、27号は順に、カタカナ書きでキヨコ、タカシ、マサルで、28号がアキラである。
他にも、竜、ケイ、チヨコ、カオリ、ミヤコなど、タイトルのアキラをはじめ、日本人にはよく見られる名前ばかりだ。

原作・アニメ両方に出てくる、金田たちのたまり場は「春木屋」である。また、金田らは暴走族にしては、派手な髪型ではない。
それだけに、変身を遂げていく鉄雄のかっこよさが際立ってくるのかもしれない。
着ているものにしても、高校生という設定もあるだろうが、それほどとっぴな模様のものではなく、アニメでも、金田のバイクスーツのように色彩は派手であっても、形は突拍子もないものではない。甲斐は、足首の見えるズボン姿で、当時からして、先のファッションを取り入れているのはこれくらいだ。

かつての暴走族から「右」へ走った者は多いという。暴走族が旭日旗の鉢巻を巻いて走っていたこともある。
アニメでは、山形のシャツとバイクには、富士に旭日がかかる絵がプリントされている。
赤のマント(元はカーテン)をまとった鉄雄と対峙する戦車には「士魂」の文字も見える。

鉄雄が連れ去られたあと、金田たちやガールフレンドがいるシーンでは、BGMに、いかにも昭和の歌謡が流れるが、これは、暁(あかつき)テル子の「東京シューシャインボーイ」である。
芸能山城組に頼み込んでできた数々のみごとなテーマソングがありながら、この歌の出現にはびっくりするばかりだ。

未来の予知や、宇宙の再現といった壮大なテーマをもちながら、そこに介在するのはどこにでもいる少年たちであり、寝るヒマもなくアクティヴに動き回っている。

決闘シーンや狂乱シーンもありながら、そこにひっそりと挿まれる、鉄雄とカオリのふたりだけのシーン、幻想のなかで鉄雄がカオリと向き合うシーンもあり、それまでのストーリーの流れのなかで、そのわずかなシーンが実に効いている。

6巻の終盤は、まさに圧巻だ。
アニメではいまひとつ釈然としないはっきりしないラストだが、原作を見れば、ストーリーとしてそれなりのケジメをつけていることがわかる。

金田がケイを乗せてバイクを走らせると、かつていっしょに走り回っていたときの山形と鉄雄の姿が、左右に幻影となって現れる。
これにはちょっとホロリときてしまった。

2014年1月11日 (土)

『AKIRA』原作と劇場アニメ『AKIRA』

実写映画化は、本物の人間の俳優を使って作る映画のことで、これはまだできていない。アメリカでできるという話もあったようだが中断しており、まず製作できないのではないかと思う。

それでよい。

小説の映画化についてはどうか。

本来はやはり、しないほうがよい。

ただ、それを読んだ製作者や監督がいて、これをどうしても我が手で映像化したいと思う。世間の需要があり、資金のメドも立てば可能となる。

小説でも絵画でも、出来上がったものが作品であり、言ってみれば勝負となる。

原作を「元にして」作ったものなら、それなりの脚本なり演出がなければ、原作に負けることは必至だ。

私は、原作を読んでいたとしても、映画は別ものとして観る。
映画がそれなりによい出来であるなら、それもいいのだ。

例えば、以前日記にしたことがあるが、谷崎潤一郎の『鍵』という日記形式の小説がある。これを「元にして」、市川崑が映画『鍵』を作った。(http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=48430274&id=1848255714

脚本は原作どおりではないが、原作の雰囲気をまことにみごとに掬い上げ、全く別のジャンルの作品としてしまった。
映画としても秀逸である。

これに対し、原作を「忠実に再現しようとして」作ったものは、ほぼ失敗に終わっている。
上のように、一旦原作をまるごと噛みしめて「作り直す」ということではないからだ。
文字で書かれた原作を、「忠実に再現」したところで意味もなく、映画として失敗するのは目に見えている。

監督や製作者が、どちらを選ぶかによって、初めから作品としてのできばえは、ほぼ決まってしまっていると言えるだろう。

漫画とその映画化については、その両方を知る作品がほとんどないので、偉そうなことは言えないが、少なくとも『あしたのジョー』の実写化が大失敗に終わったのは、これもかつて日記にしたとおりだ。(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1826065910&owner_id=48430274

ただ、劇場アニメ化するのであれば、同じ原作者が作るかぎり、同じようなものができるはずであり、これはむしろ期待できるのではないか。

このたび、かつて途中で読むのをやめていた『AKIRA』を、全巻手に入れて一挙に読んでみた。

これを、原作者以外の他人がアニメ化しようとすればエラいことになっていただろう。著作権者がそれを許すとも思えない。
読んでいない人も多いはずなので、わかっている人間だけの会話にするのは最低限にしたい。

同じ原作者・大友克洋が、要請もあっただろうが、おそらくその個人の願望もあって、漫画のほうの連載を中断までしてアニメ化した。

原作は、実に多くの要素が盛り沢山で、ある意味とりとめのない広がりをもっている。
膨大な原作に比べれば、これを2時間に縮めたアニメのほうは、たしかに省略してあるところが多い。
それだけに、ちょっとつかみにくいところもあるのだが、しかしアニメはアニメで上出来であり、原作の言わんとするところは同じである。
絵が細かいことに圧倒されるが、ストーリー運びについても、進行のダイナミズムをよく心得ている。

例えば、カオリの出し方についても、アニメではほとんど使い捨てのような感じで気の毒だが、原作では後半に登場し、かなりの役回りを与えられている。
ミヤコという新興宗教の教祖も同様だ。原作では、進行上、かなりのウエイトを占めているが、アニメではほとんど付けたしのような存在だ。

こうした大胆な改変をおこないながらもなお、アニメはアニメとして完璧に近いものになっている。

実際、アニメは、ほとんど全く別の作品と言ってもいいくらい、話の流れが変わっている。しかし、同じ作者が作ったものであり、声優により肉声も入ることから、原作にはない言葉のやりとりも付け加えられ、映像シークエンスとして立体感が生まれている。
逆に、同じようなシーンでも、アニメには使われていない言葉も多い。

映画では有名な次のセリフは、原作にはない。(http://www.youtube.com/watch?v=1TKRRkQG81k

鉄雄「金田ぁ~~~!」
金田「‘さん’をつけろよ!デコ助野郎!」

原作にある次のセリフは、映画にはない。

金田「ヨタヨタのジャンキーどもになめられてたまるかよ
   俺達ァ健康優良不良少年だぜ」

「大東京帝国」というコトバも原作にはあるが、アニメでは、文字として書かれた「大覚アキラ」としてしか出てこない。

もしかしたら、同じ作者がマンガをアニメ化して、失敗したものもあるのかもしれない。

本来、出来たものは出来たものとして味わうべきなのだろう。
文字は文字として、絵画は絵画として、画は漫画として、映画は映画として、そのジャンルに生まれた意味があり、それを他の方式で作り直すのは邪道なのだ。

それでも、そこに出来上がったものがあり、それを楽しむということであるならば、そういうエンターテイメントは否定できない。

原作があるものでも、映画として成功しているなら、それは評価したい。原作と比べてどうか、というのは、もともとハンディのあることでもあり、そのことだけをもって非難するのはどうかと思う。

しかし、別作品として観ても、評価に値しないのであれば、正面から批判されてもしかたないのだ。

映画 『ヒート』

監督・脚本:マイケル・マン、撮影:ダンテ・スピノッティ、音楽:エリオット・ゴールデンサール、主演:アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、1995年、171分、原題:HEAT(デカ)

ニール・マッコリー(ロバート・デ・ニーロ)は、仲間クリス(ヴァル・キルマー)、チェリト(トム・サイズモア)、タウナー(ダニー・トレホ)、仲間入りしたばかりの男ウェイングローとともに、白昼堂々、現金輸送車を襲った。…
現場には輸送車の三人が射殺されて倒れており、肝心の現金は手をつけられず、高額の債権類がなくなっていた。

刑事・ヴィンセント・ハナ(アル・パチーノ)は、警察のリスポンスタイムを計るなど、現場の状況から、明らかにプロの手口と判断し、さっそく徹底的な捜査に着手する。…

この映画は、年に一度は見ている。そう決めているわけではないのに、不思議と見たくなるのだ。
3時間に及ぶ映画であるが、退屈になることがない。この映画には、こうしたアクションものとしては珍しく、最大級の賛辞を与えたい。

内容は、犯罪のプロと捜査のプロとの対決であり、後半のハイライト、街中での銃撃戦を含めアクションシーンもあるにはあるが、それだけではない。
主役ふたりの個人的ドラマ、心理描写までも、映像で描き切っているところが他の追随を許さないものになっている。

ニールとヴィンセントのそれぞれの人間性や、ニールと恋人の恋愛模様、ヴィンセントと今の三度目の妻との愛憎、義理の娘ローレン(ナタリー・ポートマン)との信頼関係までが、映像と心理の流れのダイナミズムの流れのなかで、タイムリーに描かれるところがよい。
それも言葉でベラベラと説明するのではなく、フレームのなかにいる俳優の演技や立ち位置に対する演出でこなしているからいい。
言葉で説明したら映画でなくなる。

これはカメラについても言えることで、カメラワークにも充分な演出が効いていることが、そこここにうかがえる。カメラがかなり大胆に横に動くシーンもあるし、さりげないのだが普通はあまりこうは撮らないだろうというシーンもある。

ヴィンセントは妻にほとほと愛想を尽かされている。それくらい、寝ても覚めても仕事一途で、家に寄り付かないからだ。情報屋とも気脈を通じてネタをもらっており、立ち居振る舞いからしてもプロのデカなのである。

一方、ニールは、これも犯罪プロであり、つまらぬ強盗ではなく、このあとも貴重品倉庫を狙ったり、銀行を狙ったりと、大胆不敵である。
ニールは、黒幕ネイト(ジョン・ヴォイト)と連絡を取り合っており、本業を知った恋人をも説得して海外に高飛びしようとするが、銀行襲撃が失敗に終わり仲間が殺された原因が、元の仲間の裏切りによるものと知ると、せっかくの高飛びの寸前、空港わきにあるホテルにいるその男を、わざわざ殺しにいくのだ。
これがもとで、ニールは高飛びもできなくなり、ついに、空港奥の空き地で、ヴィンセントとタイマン対決を迎えることになる。

脚本がすばらしい上に、内容を把握したカメラの動きがやはりすばらしい。顔のアップからヘリによる空撮まで、横移動からクレーンまで、遊び心を知っているベテランスタッフが集結しないと、こうはならない。カメラのくふうは、ここに書ききれないほどたくさんある。

内容は日本でいえば任侠映画である。任侠映画に恋だの愛だのを交差させると、とかく失敗する。お笑いならばそれでもいいが、こうしたシリアスドラマにあっては油断は禁物だ。
これは義理と人情の物語というより、むしろ義理と男のロマンといったほうがいいかもしれない。

この映画は、硬派のまま徹底的に攻めまくる。映画のつくりとしてもそうなっている。
一例だが、ヴィンセント夫婦が最初に映るのは、ベッドシーンである。ただし二人とも、肩くらいまでが映るだけだ。つづくシャワーのシーンではヴィンセントが浴びるだけで、それも肩までしか映らない。そのわずかな演技によって、たまに愛し合うが、妻の心は仕事の鬼となっている亭主からは離れてしまっていることを、みごとに表現している。ここに妻のシャワーシーンはない。

銀行襲撃が失敗し重傷を負ったクリスが、ようやく治り、長かった髪を短くし、別人のようになってから、妻シャリーン(アシュレイ・ジャド)のもとに行くが、やむなく別れるシーンは格別だ。これも喧嘩ばかりの夫婦であるが、心底愛し合ってはいる。
警察の捜査の過程で、シャリーンは愛人でもあるその男友達とともに、あるマンションの上階に移り住む。そこには刑事たちがライフルまで持って隠れている。クリスを捕まえる罠だ。
それとは知らず、おびき寄せられたクリスは、車を降りて、ベランダに立つシャリーンのほうを見る。
シャリーンは、うしろに控える刑事たちに見えないように、手摺りの右手を、すっと左から右へと動かす。「来ちゃダメよ」という合図だ。クリスは引き返さざるをえない。クリスとシャリーンは、もう二度と会えない。
悪は必ずハンディを追う。

この映画のなかに、本筋とは直接関係のない話が挿入されている。
10代の黒人少女がカラダを売ったあと、ニールらから縁を切られたウェイングローに殺されるところだ。ひとりになったウェイングローの残虐さを印象づける狙いがあるが、このシークエンスは全体の進行のなかで、その後の流れに向けて映画を引き締めるポイントとなっている。

ハナの仲間の刑事ボスコを演じるテッド・レヴィンは、『羊たちの沈黙』で例の変態を演じていた俳優だ。
ほとんどたいしたこともない役にナタリー・ポートマンを使ったのは正解だ。『レオン』での強烈な印象を、光背効果として狙ったことはうなずける。ローレンの登場はあまりないが、ヴィンセント夫婦の鎹(かすがい)の役になっており、その意味では重要な立場にいるからである。

冒頭の空気感もよく、編集もみごとで、エンタメ性にも富んでいる。映画魂を知っている人々が集まって、こういうものができるのだろう。

飛行場で、ニールは、走行中の飛行機の前を横切る。市街の銃撃戦では、市の許可を得て、その撮影は一週間に及んだという。
都市部や空港での映画の撮影ということに関してだけは、やはりアメリカが先んじているようだ。

2014年1月 8日 (水)

2月9日都知事選投開票

ひと月後には、新しい都知事の顔が決まる。

宇都宮健児につづき、田母神俊雄が立候補を決めたことで、都知事選も俄かに活気づいてきたようだ。
しかし、東京全体が活気づいているとは言えない。あくまでメディアレベルのことだ。

目下のところ、自民党を含め、各政党とも、擁立すべき立候補者に頭を悩ませている。

国会野党がそろって宇都宮を支持し、与党がそろって田母神を支持するという構図ができれば、選挙戦としては興味深く、都民にとってもわかりやすい選挙になるだろう。

果たして、そうなるだろうか。

舛添要一の名前も挙がっている。

舛添は、大臣当時、国民年金などに関し、徹底的に仕事をしたことは評価できるが、政党人としてはどうか。
一匹狼として自由にさせておくかわりに、誰かの指揮下で活躍させるべき人物だろう。
わずか3年前に、自民党を強烈に批判し、離党届を出し、自民党から除名された人物である。

そういう人物を、自民党はまさか再び、支持・推薦するのだろうか。

東京は、山本太郎のような人物を参議院議員に当選させた不見識な有権者も多い。共産党も最近勢いづいている。

石原慎太郎にしても、十全な行政をおこなったとは言えない。首都銀行東京の破綻がいい例である。
しかし、愛国者として、多くの発信をし、尖閣諸島を買い上げるという勇断があったことも記憶すべきだ。

行政は、国防意識や政治理念だけではすまされない。財政面での見識や豊富な人脈も必要だ。
人間すべてに精通していることはありえないから、不得意な分野にはブレーンを置けばよいので、その選別を誤らないようにすることだ。

他の自治体もそうかもしれないが、東京の首長は元タレントでも務まった。
東京の顔、と言われるように、有権者の多くは、顔つき・キャリア・印象などで一票を入れてきた。さらに多くの有権者は投票にも行かない。

投票には行くべきだ。直前に陣営の選挙運動が功を奏して山本太郎が当選したのも、そこに勝因があった。

田母神が、東京都の有権者にどのような印象をもたれているのか。
何でもそうだが、好印象をもたれなければ「損をする」ことになる。

立候補表明やNHK前でのNHK批判の動画など拝見したかぎりだが、個人として話すぶんには問題ないものの、演説が上手とは思えない。猪瀬も同じだが、状況が全く違っていた。

演説は「聞かせる」ということが第一だ。

今後は周囲の人間が、ご本人にいろいろアドバイスするだろう。告示後はそのアドバイスを活かして、選挙戦に臨んでもらいたい。
現在名前が上がっている人物は、平気で多人数の前で話してきた人たちばかりだ。
弁舌を磨く必要がある。

田母神も、現役当時、部下に対しては多人数の前で話したという経験はあっても、「一票を入れていただく」有権者の前ということになると、まだ不慣れな印象である。
しかも今度は、同胞への演説ではない。どっちつかずの一般有権者が対象だ。

はなはだ残念であるが、東京の有権者の半分は、都知事など誰でもいいと思っている感がある。

ただ、安倍政権誕生以来、さほど政治に関心のなかった人間にも、(左右両方に言えることであるが)政治的覚醒があったと思う。
保守愛国に目覚めた人間も多い。同時に、安倍を倒せと目覚めた人間も多いはずだ。

今後も立候補者が出てくるかもしれない。
東京でも保守基盤を盤石なものにするために、保守系立候補者は、「用意周到な準備」が必要だ。
自民党の動きにも注目しておきたい。

2014年1月 7日 (火)

みなさんの関心はやはり、日教組・過激派・死刑

昨年7月31日、8月31日、10月7日、12月7日と、同じような日記を書いていますが、ひと月前とツイートの数を比較しながら、手を加えました。

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ココログのアクセス解析を見てみました。

*平成26年1月7日(火)午後5時45分現在。

『日教組への道順』<2012年12月22日 (土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-137c.html
4396→5230→6228→7560→8473ツイート

『社民の議席増とひめゆりの塔事件』<2012年12月31日 (月)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-fd1f.html
4162→4277→4294→4335→4347ツイート

『活動家養成段階に入った過激派』<2013年1月6日 (日)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-cdf9.html
5512→6459→7524→8922→9889ツイート

『国旗国歌法改正案としての提案』<2013年2月16日 (土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-b3c3.html
3786→4567→5454→6378→7308ツイート

『迷える子羊を、保守愛国に振り向かそう』<2013年5月1日 (水)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-b3e6.html
2304→2707→2717→2731→2735ツイート

『死刑制度は存続させるべし』<2013年3月1日 (金)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-33fa.html
1634→2959→3720ツイート

これらは、一昨年12月の衆院選自民圧勝を受けて、参院選もこの調子でいってほしいと、mixi日記からココログに書き起こしたものです。これらを含めて、ココログからさらに、フェイスブックにも転載しています。

これらがどの程度役に立ったかはわかりませんが、あのころ、愛国者や保守層の人々が、みな、同じようなことをして、保守政権再生への努力を惜しまなかったはずです。

たった一人でも、こうしたブログで、目を覚ましてくれる人物や賛同者が出てくれれば、ありがたいことです。
特に、若い人、学校で偏向教育を受けた人、などに読んでもらいたいと思っています。

ツイッターなどを見ると、愛国中学生や高校生の嘆きを見ることがあります。
地方の一部中学や高校では、相変わらず反日的な授業が存在し、まだまだ日教組なども健在の県が多いようです。これはしかし、東京都でも同じです。

そういう教育を受け成人した方々や、政治に無関心であった人たちのなかには、あるきっかけで政治に関心をもち、あるいは、保守愛国の道の意義に気付いた人もいます。

多くの保守系ブログと同様、私のブログも、そうしたきっかけになっているとしたら、とてもうれしく思います。

ツイート回数を見ると、相変わらず、過激派や日教組、国旗国歌法に関するブログのツイートが伸びています。

これは、参院選の結果や、終戦の日、そして年末には安倍首相の靖国神社参拝もあり、そうしたことへの関心が高いという証拠なのでしょう。

その後もツイートが伸びつづけているのは、保守政権が誕生したからといって、やはり、これらの問題が未解決のままになっているということに、読者が危機感を募らせていることを意味しているのでしょう。

社民関連のブログは複数あるのですが、どれももうお役目終了といったところでしょうか。他のものも伸びていません。
ただ、ひめゆりの塔事、三菱重工ビル爆破事件などは知っているに越したことないので、ツイートは続けていきたいと思います。

ブログの言論は、筆者から独立して宙を舞い、見知らぬ人を結ぶ糸となります。
偏向教育を受けた人々の嘆きに、ひとつでも答えられ、遅ればせながらでも政治に目覚めた人々の判断の手助けに、ひとつでも役に立つことがあれば、そして、これらの思考が将来を担う愛国高校生・中学生の道しるべとなれば、素直にうれしく思うし、書いた甲斐もあったというものです。

本年は国政上、そして我が願望としても、憲法改正、国旗国歌法改正、少年法改正に期待しています。

自民党も、公明党などから、足元を見られるような歩み寄りをせず、国家百年の利益と、日本国民の生命・身体・財産を第一に考える政策を実現すべきです。

他方、共産党は、地方議員の数は選挙ごとに減ってきてはいるものの、昨年の参院選・都議選で気をよくしており、組織固めや、若者をはじめとする党員勧誘に熱が入っているようです。
支持基盤からの資金も以前より豊富になった感があり、末端組織を上げて党を支持しようという傾向が見られます。

安倍首相が、国民のためになる政治をおこない、景気の回復が浸透してきてそれが実感として国民に伝わるかぎり、政治的無関心層からも支持を得ることになり保守基盤の裾野も広がるでしょう。

今年は都知事選もあり、マスメディアの反日ヒステリーもつづくでしょう。

本年は、日本国民にとって、保守愛国派にとって、日本の方向を決めていく年になりそうです。
昨年、今年という二点が、線(方向)となり、その太さや長さも決定していくことと思われます。

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