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2013年11月

2013年11月29日 (金)

人種差別の実験動画から

たまたま見つけたのだが、下に引用した二本の動画は、差別に関する社会心理学の実験の映像だ。

日本では「理論」が優先しがちだが、予算も充分に取れるアメリカでは、「理論と実践」の両輪を学ぶべく、一般人を使ってのこんな社会実験までも、よく行われているようだ。
何しろ、ある港湾でカモメが繁殖して魚を食べてしまうということで、その対策を研究することになり、カモメをみな同性愛にするにはどうしたらよいか、という実験に、まともに予算を組む国柄である。

動画はいずれも、黒人差別を扱っている。
ひとつは、黒人女性がブティックに入ってくるが、白人の女性店員らから差別的な言葉を吐かれるというものだ。
もうひとつは、住宅街にある一戸建ての中古物件が舞台で、その中にいる不動産屋の婦人が、黒人らに差別的発言をするというものだ。

いかにも実験らしく、差別する側には、決まったようなフレーズしか出てこない。また、言葉もシンプルである。

解説にあるように、どちらも、すぐ隣のへやにスタッフが構えていて、それら差別的発言に対するまわりの人間の反応を観ている。
店員や一部の客は、すべて実験側の俳優やスタッフである。

黒人女性が国務長官になり、黒人男性が大統領になるような今の時代に、まだ黒人差別があるのか、と思うが、聞くところによれば、そういった差別は、いまだに根強く残っているらしい。

映画『野のユリ』で、シドニー・ポワチエが、黒人初のアカデミー男優賞を受賞したのは、1963年のことであった。キング牧師の名演説も同年のことであり、翌年ノーベル平和賞を授与されている。
こうした時代からさらに半世紀を経ているにもかかわらず、差別というものは、なかなか一掃されない。

それぞれの動画には、かかわりになりたくないからと見て見ぬふりをする者もあり、それが実際にはいちばん多いようだ。他方、少なからず、店員に抗議する者もいた。

差別されている人間の性別・年齢・話し方・外見などや、差別を目の当たりにする人間の性別・年齢・性格・話し方など、さらに、店内の雰囲気、場所の設定、曜日・日時などにより、いろいろな可能性があっただろう。

これらは、単なる実験の域を出ないが、極力、現実的なシチュエーションを作り出して実験しているからには、実際の現場でも、似たような現実を見ることができるのだろうと思う。

知らんふりをする人もいれば、抗議する人もいる。どちらがよいという問題でもない。こういう現実があり、黒人だからとそれだけで「差別」することがどういうことであるのか、他人同士のやりとりを目の当たりにして、あなたならどうしたでしょう?、というのがテーマだ。

あるコメントがある。
黒人問題を解決したければ、それに触れないことである、と。

先日、『区別と差別』という日記を書いてみたのだが、「触れない」ことが、差別一般に通じる「解決法」なのかもしれない。しかし、それだけで根本的に解決はできない。
触れないということは、口に出さず、態度につゆ表わさず、ということだろう。

根本的に解決できないから、なおのこと、触れないでおくのがよい、…こうした消極的な前進しか望めないのかもしれない。

余計なことを考えさせず、カルピスのトレードマークに、自然に黒人が使われて、誰も何も違和感をもたない、というのがいちばんよいのだろう。

それにしても、カルピスのビンに黒人が使われていたころ、少なくとも日本で、差別意識をもって見ていた人は多かっただろうか。……

あなたならどうする?~人種差別の実験~(字幕付き)
http://www.youtube.com/watch?v=eM1odxhILnY
<externalvideo src="YT:eM1odxhILnY">

あなたらならどうする? ~人種差別・不動産屋編~ (字幕つき)
http://www.youtube.com/watch?v=xwfPvS-69qw
<externalvideo src="YT:xwfPvS-69qw">

ちなみに、以上の話と、「在日朝鮮人差別問題」とは、別である。
そもそも「問題」ではない。「問題」にしたい勢力があるだけである。
少なくとも日本人社会の日常生活において、「差別」があるわけでもない。

在日の人間は、たしかに中国や韓国からの帰化が多い。官報の記事を紹介もするが、帰化人であることだけをもって、差別などするつもりはない。

ただ、これだけは言える。
反日・売国勢力があるからには、いかなる攻撃をするのもやむを得ないだろう。そこに差別的表現が入ってもいたしかたない。

一定の時と所において、反日・売国の人間を、そのことをもって攻撃することに対し、その表現に使われた用語だけを取り上げて、ヘイトスピーチだとあげつらうのは、いかにも本末転倒であり次元の低い話だ。

もし、言葉の一部がヘイトスピーチに当たるとしても、愛国者の主張の次元はそのような軽薄なものだけでは終わらない。

在日朝鮮人であろうと日本人であろうと、反日・売国勢力を、ヘイトスピーチなどに依存することなく、信念をもって、私は差別する。

2013年11月14日 (木)

映画 『刑事(デカ)』

監督:ゴードン・ダグラス、原作:ロデリック・ソープ、脚本:アビー・マン、撮影:ジョゼフ・バイロック、音楽:ジェリー・ゴールドスミス、主演:フランク・シナトラ、リー・レミック、ジャクリーン・ビセット、1968年、114分、カラー、原題:The Detective

ニューヨーク市警の刑事ジョー(フランク・シナトラ)は、マンハッタンで起きた殺人事件の現場に来た。被害者は同性愛者であり、捜査線上にある男が浮かび、海辺のホテル近くで逮捕する。
どうにか自供に追い込み、男は精神錯乱のようすもあったが、死刑が執行される。

そのころ、ノーマ(ジャウリーン・ビセット)という女性が現われ、夫の会計士が競馬場で自殺したが、どうも腑に落ちないとして、再捜査を依頼してくる。
自殺そのものには疑いの余地がなかったが、この男からは各界名士にカネが流れていることが判明する。

ジョーには、あるパーティで知り合ったカレン(リー・レミック)がいて、ようやく結婚することになるが、カレンは浮気性の一面を持っていた。……

原作のロデリック・ソープは、『ダイ・ハード』の作者でもあり、この映画は、のちの大ヒット映画につながる原点である。
また、署内では上司を含め敵が多く、社会の腐敗に立ち向かっていく姿勢など、一匹オオカミのデカが登場したことで、のちの『ダーティ・ハリー』シリーズのさきがけとなったとも言われる。
これらの映画の源泉にあたる映画ということでは、貴重な価値をもっている。

音楽は、この2年後に『トラ・トラ・トラ!』を担当するジェリー・ゴールドスミスであり、ロマンチックで甘美な音入れは『氷の微笑』のほうを想像させる。
そもそも、マフィアと近く、アメリカ政界とも交わりがあり、プレイボーイとして知られる歌手のフランク・シナトラが、硬派の刑事役で主演、ということからしても失笑もので興味深い。

この映画、よく言えば、実によく練られた作品であり、タイトルを刑事としただけに、刑事の日常の仕事や私生活を含め、一刑事の生活を丸ごと描いている点で、誠実なつくりであるが、他方で、エンタメ性に乏しく、映画としてのおもしろさという点では、受けはよくないだろう。

ジョーが追い込んだ犯人は、会計士自殺の再捜査の過程で、実は別人であることがわかるのだが、大いにジョーは落ち込む。その反省もあって、カネを受け取った署内の人間や議員を告発するためにも、ジョーはバッジを返上する。そのほうが社会の敵に向かいやすいということだ。ただこれは、そう決心してパトカーを運転するシーンで終わるので、暗示で終わることになる。

カレンとの出会いや、いくつかのエピソードは、今のシーンがぼやけて回想シーンになって語られる。ほとんど病気とも言えるカレンの浮気症を承知のうえで結婚するまでのやりとりなどもあるが、別居後の現在でも、カレンはまだジョーを愛していると言う。しかしジョーは、これ以上はついていけないという態度だ。

この映画には、当時まだ珍しかっただろうが、同性愛が出てくる。最初の被害者もそうだが、死刑になる男もそうであり、そして実は、自殺した男もゲイの傾向があった。
映画中では、gay ではなく homosexual という言葉が使われているが、バカにするときは fag となる。当時のアメリカでは一層、ゲイに対する差別や侮蔑があったろうが、そういう意味でも大胆であり、先駆的内容だ。
ゲイのたまり場である港近くでの聞き込みにしても、他の刑事が若いゲイにものを尋ねるときなど、そうした態度が出ている。
このあとにヒットする『刑事コジャック』シリーズでも、一話だけゲイにかかわる話があった。

いずれにしても、ストーリーとして楽しめるような要素はないが、至って真面目に作られた一刑事の物語として評価できる作品だ。
シナトラの表情がいいが、共演者にも注目したい。

リー・レミックは『オーメン』でも知られるが、この映画の4年前の作品『酒とバラの日々』での名演技は、ジャック・レモン共々絶賛されてよいだろう。

『十二人の怒れる男』でスラム出身の陪審員を演じたジャック・クラッグマンもよい。このころはまだ、硬い役柄が多かったが、のちにTVシリーズ『おかしな二人』ではコメディアンかと思われるような軽妙な演技を見せ、日本でも日曜の朝のドラマとして人気を得た。

『ゴッド・ファーザー』『地獄の黙示録』最近では『アウトロー』で元気な姿を見せているロバート・デュバルも、ジョーとはライバルになる刑事で出ている。

『大空港』『オリエント急行殺人事件』のジャクリーン・ビセットも、この映画ではショートカットであり、最初のシーンが突然現れるシーンであり、その現われ方でも得をしている。

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2013年11月13日 (水)

映画 『秘録・太平洋戦争全史 1』

製作:㈱日本映画新社、監修:今日出海、草柳大蔵、五味川純平、構成:小笠原基生、音楽:木下忠司、ナレーター:江守徹、1975年(昭和50年)、122分、㈱日本映画新社、戦記映画復刻版シリーズ。
シリーズのうち、この1が全史で、2以下はテーマごとに編集されている。

靖国神社・遊就館で発売されています。税込3990円。

以下、ケース裏の説明を転載。

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昭和15年、戦争に向う日本は、映画法によって、それまであった数多くのニュース・記録映画の製作会社を一つにまとめ、社団法人日本映画社(「日映〕)を誕生せた。

開戦後「日映」は、戦地にカメラマンを派遣、歴史的な記録映画を次々に発表した。全国の映画館は鈴なりの観客であふれ、勝ち戦の報に酔いしれた。

世紀を超えた今、これらの映画は我々の眼にどう映るのか。
「日映」製作の戦記映画が遂にDVDで登場。

戦後30年。二百数十万人の犠牲者を出した太平洋戦争の「戦後」はまだ終わっていない。戦争中「日本ニュース」が撮影したフィルム、アメリカ国防総省の戦闘記録フィルムを集め、交戦国双方の映像資料を集大成した。

終戦30年を記念して制作された長編記録映画で、当時、全国東宝系劇場で公開され話題を呼んだ。

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さらに、この年から38年が経過した。

大東亜戦争当時の事実を、一部ではあるが、記録フィルムでじかに見られるというのはありがたいことだ。

戦史検定を受ける方は、基礎中の基礎となる資料となるだろうが、多くの日本人が見なければならない記録映画であろうとも思う。

これを見て、さらに何を思うか、それは見た人各人、千差万別であろう。

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2013年11月10日 (日)

靖国神社参拝~北の丸公園散策

今日は、マイミク・二矢(おとや)さんが靖国参拝に上京したので、いっしょに参拝してきました。

雨の予想がありましたが、何とか降られずに済みました。

遊就館の零戦わきで待ち合わせし、その後、九段下の喫茶店で、最近の政治状況など話しました。

二矢さんから、桜新聞の今年9月10日の号外(「これで尖閣諸島が守れるか」)と10月19日の号外(「日本解体装置NHKを国民の手に取り戻せ!」)を何部かいただいたので、心ある人に配りたいと思います。

私のほうは、所属する特攻隊戦没者慰霊顕彰会が年4回発行する会報「特攻」の、今年5月号と8月号を差し上げました。

帰りの新幹線まで少し時間があるということなので、その後、田安門から北の丸公園に入り、武道館のわきを通り、お濠側の道を歩いて、東京国立近代美術館工芸館まで散策し、竹橋に出ました。

今年は暑かったせいか、まだ、一部の木々しか色づき始めていません。

二矢さんはケーキ職人であり、手作りのバウムクーヘンを頂戴したので、お供えしたあと、いただきました。甘味がちょうどよく抑えられ、卵の黄身をふんだんに使った、キメの細かいバウムクーヘンでした。

<靖国神社~竹橋>の地図

<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="https://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=35.69296,139.750514&spn=0.009323,0.021136&t=m&z=16&brcurrent=3,0x60188c6ce385430f:0xcf1700c0e8f772a2,1&output=embed"></iframe><br /><small><a href="https://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=35.69296,139.750514&spn=0.009323,0.021136&t=m&z=16&brcurrent=3,0x60188c6ce385430f:0xcf1700c0e8f772a2,1&source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>

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2013年11月 8日 (金)

保守愛国というありかた

対象者や対象団体に、電話やメールやFAXをし、各戸にポスティングをし、街宣やデモに参加し、国内の山河を巡り歩かなければ、保守愛国者ではない、という者がいる。

保守愛国はまず、認識から始まるのであり、そこにとどまっていてさえ、保守愛国のありかたであることに変わりはない。

2013年11月 5日 (火)

区別と差別 (2013年11月5日)

これは大きなテーマなので、簡単にまとめられないが、それでもいつかまとめてみたかったテーマだ。

国語辞典的な意味も踏まえて、だいたいこんなふうに使い分けられているようだ。

区別=便宜上の区分け

差別=差をもってする区分け

区分けすることに変わりはないが、差別は、何らかの差を設けて、それを基準に区分けすることとなる。

しかし、国語的な意味合いでなくなるところに、これらの使い分けが大きなテーマになる原因もある。
そして、区別と差別は、全く別個のものでもない。人間がおこなう以上、単純な区別といっても、どこかしらに差別的な要素が入り込んでいる場合も少なくない。

同じ日本酒でも、利き酒をして、その銘柄を当てる、などというとき、その対象の酒は、味や香りにおいて、区別されている。

区別は、モノを区分けするにあたり、日常、自然におこなわれている。

同時に、区別は、人間に対してもおこなわれる。
教室にいる児童のうち、窓側から一列目の生徒は、今週が教室掃除、二列目の生徒は中庭の掃除、とすることに、何も差別はない。

これらの区分に、とりあえず、優劣の基準は、正面切って入り込んでいない。
これに対し、優劣の基準が中心にあってする区分けは、いきおい差別ということになる。

たとえば、自衛隊施行規則に基づく訓令によれば、男子自衛官は身長155cm以上、肺活量3000cc以上、女子自衛官は身長150cm以上、肺活量2400cc以上が合格基準とされ、身体検査について女子の場合は、肛門・陰部の検診までおこなうことになっている。

ここに出てくる数値や基準は、自衛官になろうとする者とそうでない者とを区別する基準だ。これを差別と呼ぶことはできない。

試験を受けて一定の身分を得られることについては、一切が便宜上の区別である。大学生になる、医師になる、教師になる、公務員になる、…こうしたことは、単純に区別であって、誰しもが意識無意識に認めている。

ところが、アルバイトの面接のため、集められた履歴書の学歴欄を見て、それだけをもって、ある大学の在学生だけを採用し、その他の大学の学生を採用しなかったら、これは差別となる。

カルピスという飲み物は、かつて子供のころ、茶色のビンに濃縮液が入っていて、それをコップに1~2cm注ぎ、それを水で割って氷を浮かべて飲んでいた。そのビンは白い紙で覆われ、そこに青い水玉が浮かび、いかにも夏の飲み物であるという感じを表わしていた。それは今でも変わりない。

そのラベルの中央には、当時、顔のとがった黒人の絵が描いてあった。
いつしか、黒人を差別するのはよくない、という風潮が国際的なものとなり、カルピスでは、黒人のマークを消すことになった。
こういう例はざらにある。

日本人の子供として、単にラベルにあっただけであるのに、そのシンボルが消えたというのはキツネにつままれたような印象であった。

こうしたことからわかるように、差別という区別には、相当程度、歴史的背景やその時代の風潮が関係している。それを元に、優劣という差が生まれる。
この優劣という差は、相対的価値基準だ。相対的というのは、そのときどきの社会通念や風潮に影響されて、長い間には変わっていく、ということだ。

いや、それは、絶対的価値基準ではないのか、と反論されそうであるが、世の中に絶対というものがあるかどうか、…これは差別概念とは、また違う議論になる。

上の例で言えば、いまだに黒人差別や学歴主義の残る現実をみれば、優劣の差は、ほぼ絶対的なものに近い。
歴史という、消せない事実が基底にある以上、そう簡単には変わらないのである。

差別の基準は、一つに、区別が数値的区分・資格的区分であるように客観的なものではなく、多分に、歴史的背景からくる主観的な価値基準である。この主観性は一定の総和として存在する。

そして、その価値基準に照らして、優位にあるとする者が、劣位にあるとする者を、「あえて」区分けしたいと願うとき、差別が生じる。

他社との差別化を図る、というような場合も、自分の会社は優位になり、そのとき劣位となる会社を、あえて区分けしようとしているわけだ。

卑近な例では、あの子よりいい点をとって見返してやろう、という気持ちと同じだ。塾や予備校の能力別クラス編成は、そうした優劣の価値基準が後押しして出来上がった体系だ。

日本がコンピュターの分野で計算能力世界一をめざす、というのも同じで、劣位にあるとする者が、優位にある者に肩を並べ、やがてそれを追い抜こうとするのは、極めて健全な志向なのだ。
これは、自らを相手とした不断の努力という競争であり、必ずしも悪のレッテルを貼られるものばかりではない。

差別の結果、不平等が生まれる、「だから」差別は、「いけない」ことなのだ、…というのは誤っている。

もともと、人間の社会は、その人間の誕生した時点で、ひとりとして平等ではない。
人間の誕生は、三つの面をもつ。医学的誕生・経済的誕生・社会的誕生の三つだ。
こう言えば、顔かたちの違い同様、みなそれぞれに「差異」をもって生誕するのである。

それらの違いを、いっしょくたに平等に扱うことがそもそも不可能なのだが、制度という枠組み、特に学校という現場では、平等に扱わざるをえない。
そこに生まれるのが、平等を捨て去っていこうとする傾向、すなわち、不平等である。

人間社会は、不平等によって、かろうじて平等を保っている。
この意味において、不平等はあっていい。第一、それを嘆いても始まらないのだ。

勉強の好きな人間は国家試験を受ければよいし、音楽の才能のある者は音楽家になればよいし、運動神経のいい者はスポーツの選手になればよいのだ。

差別はなくそう、というのは、おかしい発想だ。好き好んで差別を作り出す必要もないだろうが、差別=悪、という図式はおかしい。ましてや、差別の結果としての不平等を嘆いても、全く生産的でない。食事をすれば排泄があるのと同じくらい当然のことだ。

思うに、差別という言葉の響きがよろしくないのかもしれない。差異化をめざす、とでもいえば聞こえはいいが、意味するところが同じなら、どちらでもかまわないだろう。

優位劣位というのは、人間の作り出した価値基準であり、次元が高くなるほど、歴史的な背景を土台としている。

優位にある者が劣位にある者に同情したり、優位にある者が劣位にある者の位置に引き下がったりすることがあれば、平等に近くなり、もって平和共存の世がやってくる、…これは日本的共産主義の思考である。共産主義は、実は差別の権化である。

差別というと、在日朝鮮人や韓国の問題がある。
劣位にある者なら、優位に立とうと自助努力をすればよいのに、いつまでも他力本願であり、そのためには不正や破廉恥な行為も辞さないのがかの民族だ。

自分らが、劣位にあると思い込み、あるいは思ってなくても、劣位にあるのだと喧伝して回り、同情を買おうとする。

優位にある者には、優位であることの矜持(きょうじ=誇り)があるが、劣位にある者にも、多かれ少なかれ、矜持がある。
それは朗らかな誇りではなく、自らが劣位にあるということ自体を「売り」にする疚しさの裏返しだ。

劣位にある者は、優位にある者を目標にするのがよいのだが、彼らはそうはせず、と言って、自分たちの劣位のところまで優位を引きずり落とそうとするでもない。
劣位にあることをもって、その立場を喧伝し同情を誘い世間の耳目を引くだけである。

こうした劣位者は、「差別されること(=被差別)」をもって自らの誇りと見做し、被差別があることをもって、それを生き甲斐にしないとやっていけないのである。

韓国は、日本に来る留学生のひとりひとりから、裁判所にいたるまで、国を挙げて、いま、この「被差別」という生き甲斐の中に熱狂し、自ら心酔している。
そうなればなるほど、国際的にも、増々、国家としての評判や品格を貶めているが、それに気付かない。このことに、別に日本は何の責任もない。

韓国や在日朝鮮人の多くは、自らを劣位にあると自らにレッテルを貼り、周囲にどうにかしてくれと喚くだけで、優位にあろうと努力することを怠っている。

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2013年11月 2日 (土)

国賊・山本太郎によるテロ行為は糾弾されねばならぬ! (2013年11月2日)

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秋の園遊会で、中核派の支援する山本太郎が、天皇陛下に直接、直筆の手紙を渡した。

招待客は、宮内庁の審査と承認に基づいて決定され、事前に名簿が作られる。

山本太郎を出席リストに入れて推挙したのは、参議院事務局である。
参議院副議長であり、参議院のドンとまで言われた輿石東が推したという説もある。

この件については、参議院と、事務的な処理のみで山本の出席を承認した宮内庁長官官房にも責任がある。

この矛盾だらけのバカ太郎には、最低でも、議員辞職勧告決議がなされることを期待する。

そして、山本に一票を入れ当選させた東京都の66万の有権者は、大いに反省すべきである。

さっそく、山本の行為を肯定する蛆どもが、あちらこちらに湧いてきているが、こういう蛆どもは踏み潰すしかない。

なお、今回、山本太郎のしたことと、ひめゆりの塔事件は、同一線上にあると思う。

今回の出来事は、まさに山本によるテロと呼んでもよい!

山本が、畏れ多くも天皇陛下に声をかけたときから、陛下が手紙を受け取らざるをえず、侍従にそれを手渡すあたりまでの、美智子皇后陛下の表情や右腕の動きに、その場の不穏で異様な状況が鮮明に現れている。

皇后陛下は、明らかに、恐怖を覚えている。一般客のほうに向きなおったときもなお、面食らった表情をされているようにうかがえる。全く予想に反する出来事に出くわされてしまったのだ。

山本の行為は、心ある有権者と日本国民から、強く非難され糾弾されなければならないだろう。

※参考

http://www.youtube.com/watch?v=uJkPdpJ-qYs
<externalvideo src="YT:uJkPdpJ-qYs:D"

社民の議席増とひめゆりの塔事件 (2012年12月31日) http://bit.ly/XLIO4J @syuya_yui

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