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2013年10月16日 (水)

映画 『サテリコン』

監督:フェデリコ・フェリーニ、原作:ペトロニオ・アルピトロ、脚本:フェデリコ・フェリーニ、ベルナルディーノ・ザッポーニ、美術:ルイジ・スカッチアノス、撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ、音楽:ニーノ・ロータ、主演:マーティン・ポッター、イタリア・フランス合作、カラー、1969年、128分、原題: FELLINI-SATYRICON

ペトロニウスの著した紀元1世紀ころの文学『サテュリコン』を、映画化した作品。
タイトルの意味は、サテュロスの如く好色で無頼な者たち、の意。
サテュロスとは、ギリシア神話に登場する半人半獣の自然の精霊で、自然の豊穣の化身であり、欲情の塊でもある。この名称は、ギリシア語で男性器を意味する言葉に由来しているとされる。

簡単にいえば、サテリコンとは、自らの欲望の赴くままに生きる人々、ということになる。性別として男であるが、美しいものを追うという点で対象が女とは限らず、男である場合もあり、子供であることもある。

実際、この映画では、男色のエンコルピオ(マーティン・ポッター)が、美少年を追うところから始まり、男同士の結婚のシーンも出てくる。男色家が主役なのだから、そういうアクセントがあらゆるところに出てくる。
しかしまたエンコルピオは、さまざまな身分や階級の女とも交合する。

ついつい、三島由紀夫の『仮面の告白』や『禁色(きんじき)』を思い出すが、この映画では、男色家であることを材料として、何をかうったえるというものではない。
この映画発表の翌年1970年(昭和45年)11月25日に自決した三島は、はたしてこれを観ていただろうか。日本での封切は1970年9月19日であるが、一節によると、観ていたようである。

学生であるエンコルピオは、美少年ジトーネを追うが、結局ジトーネは、同じ学生仲間のアシルトのものとなる。
そのジトーネを追うと、ある劇団の主がさらったことを知り、そこからジトーネを奪い返すのだが、それをきっかけに、エンコルピオは、さまざまな出来事に巻き込まれていく。

エンコルピオの行くところ、紀元前ローマの退廃ぶりが描かれる。法律も秩序もなく、詩人は芸術を追究するが、社会は力のある者により支配されており、また部族同士の争いごとも起きている。

奇妙奇天烈な芝居、酒池肉林の宴、奴隷船、神の子の拉致、悪党との対決、女神との交合など、エンコルピオはその意志に反し、数奇な運命を辿って行く。

フェリーニ映画の特徴であるが、象徴的なシーンで屋外の広範囲な風景が映される以外は、シーンのほとんどが、スタジオでの巨大なセットに依っている。『そして船は行く』(1983年)では、故意にセットを使い、自らの意志を実現している。

冒頭から続く浴場は、銭湯や温泉といったたぐいのものではない。浴場そのものが宮殿のようで、上層階へと広がり、巨大な吹き抜けをもつ。
古代ローマの大浴場とは、本当にこんなものだったのだろうか。

格闘シーンは屋外であるが、そこに巨大なコンクリートの建物を作っている。もちろん当時コンクリートなどはないから、土を固めたように見せている。

工作物の圧巻は、奴隷船である。その外観、奴隷のたむろする内側など個性的で、こんな船を作り出したフェリーニや美術担当の想像力は並大抵ではない。

登場人物老若男女のそれぞれ、実にひとり一人が着る衣装、化粧、装飾品なども個性的であり、各シーンでの背景のセット、書き割り、壁絵もユニークそのものだ。

ラスト近くでは、人肉食いまで出てくるほどに(食べるシーンは口を動かすことで暗示される)、全体的に、今から見れば、不道徳であり退廃的な物語である。その物語も、次から次へと飛躍し、ストーリーだけ追うと、必ず飽きがくるだろう。
ライバルであったアシルトが、あるエピソードで唐突に登場することからもわかる。

ラストは、船旅に出たエンコルピオの姿が静止画になったと思うと、そのまま、石に描いた絵になる。そこには、エンコルピオ以外に、各エピソードでの主役の姿も描かれている。それらの石は、広い海を背景に、佇んでいる。

この時空を駆け巡ったいくつもの巨大な逸話が遠い過去のものであることを示しながら、古代ローマに、こんな人間たちが蠢いていたこと、今からすればこんなとんでもない出来事があったのだということを語り継ぎたいかのようだ。

神の子が出てくる挿話では、その色白の子はどう見ても男子であるが、やや発達した乳房をもっている。両性具有の象徴であろう。
フェリーニの映画には、巨大な乳房をもった女性が出てくることが多い。生命力、性欲、存在の証明と言われる。

また、他作品にもちらちら出てくるが、小人も登場する。フェリーニ映画に限らず、イタリア映画には、ふつうに小人が登場する。
そして登場人物はいつでもほとんどが半裸であり、汗を表わすオイルが塗られており、多人数のシーンでは、常に猥雑な雰囲気を保っている。
白人、黒人、デブの男女、醜い男女など、各エピソードでの主役級以外には、醜悪な男女が用意されている。誰でもいいわけではない。ブスやデブが必要なのである。これはフェリーニのバランス感覚である。

そういうわけで、各挿話の主役級の男女はみな美しいが、そうでない者はみな不細工である。ちなみに、ジトーネは個人的に美少年とは思えないが、映画全体の主役であるエンコルピオ役のマーティン・ポッターは、化粧のせいもあるが、美しい男であると思う。

以前のレビューでは、こんなふうに書いたことがある。
この作品の言わんとするところがわからない、『道』のように、大人になり経験を積んでくれば、わかる映画ではなかった。大人になってもわからなかったのである。
若いときに『道』を観て、少なくともストーリーはわかるように、初めて観たときから、話はわかっている。ただ、映画全体で言わんとするところがわからなかった。

時に退屈を感じながらも、映像から伝わってくるパワーは否定できない。単につまらぬ映画なら、それでおしまいである。だがこの映画については、そのパワーの源泉をたぐりたくなるのだ。

これだけのセットや衣装、装身具をつくり、絵を描き、土を盛り、船までつくって海に浮かべている・・・これだけの巨費を投じて、フェリーニはいったい、何を言いたかったのか。

今回久しぶりに観て、セットがメインでありながら、実に壮大なスケールの映画だということを改めて実感した。こんな酒池肉林の世界、こんな理不尽な世界が、かつて自分の生まれた国にあったかもしれず、なかったかもしれず、しかしある原作を元に、壮大な叙事詩を映像で謳い上げようとしたのだけは間違いないようである。
フェリーニ49歳のときの作品である。

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