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2013年7月

2013年7月31日 (水)

揺るぎなき愛国の道

ココログのアクセス解析を見てみた。(平成25年7月31日(水)午前2時現在)

「日教組への道順」<2012年12月22日 (土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-137c.html
4396ツイート

「社民の議席増とひめゆりの塔事件」<2012年12月31日 (月)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-fd1f.html
4162ツイート

「活動家養成段階に入った過激派」<2013年1月6日 (日)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-cdf9.html
5512ツイート

「国旗国歌法改正案としての提案」<2013年2月16日 (土)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-b3c3.html
3786ツイート

「迷える子羊を、保守愛国に振り向かそう」<2013年5月 1日 (水)>
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-b3e6.html
2304ツイート

これらは、昨年12月の衆院選自民圧勝を受けて、参院選もこの調子でいってほしいと、mixi日記からココログに書き起こしたものである。

参院選が終わって十日経った。すでに、懐かしくもある。

ツイートのうちいくつかはリツイートされると思うと、素直にうれしく思う。
これがどの程度役に立ったかはわからないが、愛国者や保守層の人々が、みな、同じようなことをしていたはずだ。
それが、ひいては、参院選の勝利に結びついたのだろう。
ネットの時代は、危険もあるが、やはりありがたい。

他にも参院選向けのものがあったのは、以前日記にしたとおりである。
役目も終わったかと、そろそろ繰り返し自動ツイートは終わりにしようかと思ったが、上の五つは、まだしばらく、そのままにしておくことにした。

たった一人でも、こうしたブログで、目を覚ましてくれる人物が出てくれば、と思うからだ。
特に、若い人、学校で偏向教育を受けた人、などに呼んでもらいたいと思う。

ツイッターなどを見ると、愛国中学生や高校生の嘆きを知る。
地方の中学や高校では、相変わらず反日的な授業が存在し、まだまだ日教組なども健在のようだ。

ブログの言論は、筆者から独立して宙を舞い、見知らぬ人を結ぶ糸となる。
彼らの嘆きに、励ましで答えたい。

愛国の精神に、一点の曇りもない、迷いもない。
今後も、断固として、肯定的に、この道を進む。

2013年7月26日 (金)

靖国参拝を躊躇しないでほしい

(mixi日記より転載)

ハムレット風にいえば、予が参拝するかしないか、それが問題だ、ということだ。

予とは安倍首相である。
自身で、参拝すると言っているのだから、いつかはするのだろう。

今年の春季例大祭には、首相は真榊を奉納した。
例大祭は、神社の祭事(恒例祭)である。

おととしの秋の例大祭に参列した。寒いなかではあったが、おごそかに神事が進行し、祭神を慰霊する。

春季秋季例大祭や、先だってのみたままつり、11月23日の新嘗祭などと並び、恒例祭(靖国神社としての祭事・儀式)には、神前幕は紫となる。

今年3月30日、特攻隊合同慰霊祭に出席した。今回再選された佐藤正久議員もいた。戦没者慰霊祭は、多数人による昇殿参拝という形式になる。恒例祭以外の慰霊祭は、靖国神社としての祭事ではないとして、神前幕は白色である。終戦の日も同様だ。

私が思うに、残念ながら、安倍首相は、当分の間か、または首相在任中は、結果的に、参拝しないだろう。

率直に言って、一般保守層からすれば、例大祭で真榊を奉納するより、自身の身柄をもって、拝殿参拝か昇殿参拝してほしいというのが自然の心情だろう。私も同じだ。

終戦の日でなくともよい。人々は、総理大臣・安倍晋三が、神殿の前で参拝する、という構図を待ち、またそれをありがたいと思うのだ。

小泉首相は、靖国に参拝すると約束したから、在任中、一年に一度、きちんと参拝した。その弊害の大きさを、身をもって知っている安倍首相だから、同じ過ちを繰り返さないように配慮しているに違いない。
二期目であるという強烈な自覚もあるだろう。

しかし、志位和夫が行かないというなら、話もわかるが、自民党の総裁が行かないというのでは困る。
しかも、二度の国政選挙という洗礼を受け、国民多数が支持していることが明らかになったのである。

246万6千余柱の英霊に感謝するのに、その手段に甲乙はない。
実際、東京から遠隔の地にある人々からすれば、たまに行こうとするだけでも大変な準備が必要だろう。足腰の悪くなったお年寄りは、自宅の神棚に参拝するということで、その感謝の念を表わすこともできよう。

それだけに、東京在住の総理には、何としてでも在任中に、参拝してほしいと願うのである。

総理大臣という立場の人間として、その苦衷は察するが、在任中に、一度も参拝しなければ、それはそれで、保守層の人心が、離れていってしまいかねない。

保守層の人心とは、そんなもんですか、と反論がきそうだが、どんな層であれ、人心などそんなものである。民主党政権を誕生させたのは、保守層であった。

保守層の人々の多くは、神社について専門知識があるわけでもなく、個別の政策に関する首相の判断を、理論的にフォローするわけでもない。政治に詳しいわけでもない。
もっと単純明快なのである。

警備上の問題もあり、何も、終戦の日のように混雑する日に行く必要もないと思う。
年を越さないごくふつうの平日、神前幕が白の日に、しっかりと参拝されてはいかがだろう。
そう期待する。

多くの政策や基本理念で、支持を受けた自民党であり、安倍総裁である。
靖国参拝がなければ、画竜点睛を欠くことになる。

たかが参拝、という向きもある。
しかし、参拝は、愛国者か否かの踏み絵でもある。

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2013年7月24日 (水)

日本共産党の躍進 (平成25年7月24日)

自民の勝利、ねじれ解消、民主・社民の惨敗、山本太郎選挙違反問題の陰に隠れてしまった感があるが、今回の参院選挙で、ニンマリとほほえんだ政党があったはずだ。

日本共産党である。
都議選での躍進を、参院選への吉兆ととらえていたのは、自民党だけではなかった。ツイッターの利用頻度も、自民党と共産党支持者が多かったという。

日本共産党は、比例代表で515万4千票、選挙区で564万票を獲得して8人が当選した。敵ながら、かつてない快挙である。

目標として掲げた比例5議席を獲得した。目標達成である。
京都では西田昌司に次いで倉林明子が当選し、大阪でも4議席目は辰巳孝太郎であった。

自ら「赤旗」で誇らしげに書いているように、国政選挙では15年ぶりの「大躍進」となった。

東京では、当選5人のうち、吉良佳子が70万票を集め、3位で当選した。
共産党として12年ぶりの選挙区での議席獲得である。31歳の元OLが当選したのは、父親が高知県議会議員であり、参議院議員・田村智子の秘書を務めてきたからである。

田村智子も1期目だが、6月に厚生労働委で、ブラック企業の代表として、渡辺美樹のHPと経営姿勢を取り上げ、その実態を追求したひとりでもある。
田村は選択的夫婦別姓制度導入、永住外国人への地方選挙権付与に賛成している。

この女性参院議員二人は、ともに早稲田大学を出ており、田村は民主青年同盟の出身であるから、両者とも真っ赤っかであるということだ。

吉良が当選の喜びのなかで、書いている。

「私が街頭で反響を感じたのは、就職氷河期世代の代表として雇用問題、とりわけブラック企業を許さないとの訴えです」
「何よりも選挙の中でひろがったのが、安倍政権の暴走のストップ役は共産党、東京選挙区では吉良佳子という声です」
「都議選で日本共産党が躍進してから、非常に強くなりました。選挙直前、国会が終わった日、雨の中の新宿駅東口で訴えていたら、声援をかけてくれる人が後を断ちませんでした」
「ツイッターでも、選挙の中盤から「共産党支持者じゃないが、改憲をはじめとした暴走をくいとめるために共産党に投票します」という声が広がりました。」

吉良は、首相官邸へのデモにも参加している。
今後、得意芸である同志からの資料収集を重ね、国会で質問の場に立つだろう。

「赤旗」には、瀬戸内寂聴や加藤登紀子ら著名人が寄稿している「反原発」の特集もある。
著名人に登場させ、論陣を張っているつもりであるが、決して、政策論争にはなっていない。東北大震災が起きて初めて、原発は危ないものだと気付いた、という論調が多い。それまで、原発を増やすべきだと言っていた人が、自ら「反省」して寄稿しているものもある。
いずれも、エッセイ程度の発信である。

原発については、その技術や数値は専門領域ということもあり、素人が口を出す以上は、しっかり調べてからにしてほしい。
国民は大部分素人なのだから、誤った情報を提供して扇動するのは卑怯である。

「赤旗」のあるページに、こうある。

*「ブレない共産党だからこそ、いまの政治を打開できる」と日本共産党への期待がふくらんでいます。共産党の躍進で若者の声が届く新しい政治ができます。

*世界のどんな変革も若者が先頭にたってきました。自民党の古い体制がゆきづまり、新しい社会に代わる“激動の時代”の参院選で若者と日本共産党が力を合わせ、政治を大きく動かしていきしょう。

これらはきのう今日に始まった文句ではなく、以前より続けられてきたスローガンのようなものである。そして実際、かつて自共対決の時代は、まさしく左右の対決でもあった。

いろいろな政党が誕生し雲散霧消していったが、もとをたどれば、その多くは自民党に由来する。
その意味で、共産党は、政治的提携や協力はしても、どこにもなびくことなく一線を画してきたのは認めよう。

自民党の古い体制がゆきづまり、とあるが、それは、古い歴史をもつ共産党にも言えることだ。古い体制を改革しそびれたから、徐々に党員離れが進んだ時期もあったのである。解党は決してありえない政党だが、ギリギリわずかな議席を保ってきた。

どんな変革も若者が先頭に立ってきたかどうかは確かでない。若者が混じっていることは事実だが、若者だけの力には限度がある。
東大闘争、三里塚闘争(成田闘争)の結果はどうであったか。
そのやりどころのない憤懣というエネルギーの一部が、それぞれの闘争のあと、過激派を生み、やがて三菱重工爆破やひめゆりの塔事件などを起こしたとも言える。

今回の参院選でも、山本太郎は若者によって支持された、とする人も多い。しかし、選挙中の山本の写真をざっと見るかぎり、若者だけの支持票が集まったともいえないのではないか。

当選候補に対し、年齢・性別・地域ごとの詳細なデータが出れば、ある程度読み解けるとは思うが、印象だけで若者だけの支持があった、とするのは早計だ。

さらに、今の若者にはサヨク化が進行しているという説にも疑問がある。何か具体的なデータを出してもらうとわかりやすい。
若者のサヨク化があるから、保守側も勝って兜の緒を締めよという論法なら、それはいただけない。若者=サヨク、40代以上=保守愛国、という図式は、共産党のスローガンそのものである。

保守はそれ自体から保守を生むのだ。
実際、若者に保守愛国者もたくさんいる。

もし、仮に、若者だけが山本なり共産党なりを支持して一票を入れたのなら、そんなに大きな勢力や基盤にならないと思うのだ。政治活動は日々続き、長丁場だ。若者は気心も移ろいやすい特徴がある。

共産党については、躍進のあとは、また停滞、という繰り返しであった。若い候補や女性候補を立て、党内の論功行賞もきちんとおこなってきているにもかかわらず、国政レベルになると、全体的には人気がない。
共産主義国家の運命は、だいたい決まっているという認識も、国民のなかに浸透してきている。
しかし、いつの時代にも、少なからず、一定の支持者がいるという点では、これも自民党に似る。

共産党は、憲法改正反対、集団的自衛権反対、国防軍創設反対、TPP反対、ブラック企業公開、原発反対、などとしている。
尖閣諸島帰属は日本領土であるとし、TPP反対、ブラック企業公開は、一部自民と共通する。

本格的な自共対決が実現するのなら、それもよいではないか。

共産党も、ようやく、本来の議論を、(民主・社民に盗られずに)自分の土俵でできるようになったと、気合いを入れていることだろう。

議席は少ないとはいえ、敵が気合いを入れている以上、自民党も負けてはいられない。同時に、共産党の活動や資金集めに関して、公安の仕事も徹底するよう指示しておいてほしい。

2013年7月23日 (火)

参院選を終えて (平成25年7月23日)

メディアに、圧勝という言葉は、ほとんどないようだ。

充分、圧勝であるゆえ、かえって、反日メディアとしては、ことさら圧勝などと表記するのも悔しかったに違いない。

しかし、個人的にも、圧勝を望んでいたものの、その言葉を使う気がしない。

自民単独で過半数になるような結果であれば、文字通り圧勝と言いたかった。
ねじれは解消し、参院でも与党が多数を占めたのはよかったが、公明党との連立を考えると、すなおに圧勝とは言えない気分だ。

多くの地方選挙区で、自民の候補者が踏ん張って議席を獲得した。
ごくろうさまでした、と素直に言いたい。今後、地元と国政に、力を発揮してほしい。
象徴的な売国奴も落選しており、つばぜり合いを制した勝利に対しては、謙虚に祝いたい気分だ。

一方で、沖縄、岩手など一部の選挙区では、残念な結果になった。
東京でも、ノータリン山本太郎に入れた有権者が67万人近くもいるということは信じられないが、これが現実なのだと受け止めるしかない。

これらの出来事もあり、自民圧勝で大喜び、とはいかなかった。

共産党は民主が倒れたところで得をした感があるが、本来、民主主義の大敵は共産主義であるから、半端な売国奴より、筋金入りの日共のほうが、昔からの感覚からすると、妙な言い方だが、ある意味、落ち着く。元に戻ったな、という感じだ。

日本を取り戻す、というとき、その敵が共産党なら、やりがいもあるというものだ。
その共産党にしても、都議選のようなわけにはいかなかった。共産党の強いのは、やはり都市部であって、そのとおりの結果が出たというだけだ。驚くに値しない。
すべてに完璧を求めても無理である。人の世は、思うような結果ばかりとは限らない。

安倍内閣が、保守愛国の政策を促進しようとするとき、経済・財政問題については、自民・公明両党にそれほど大きな隔たりがあるとは思えない。

公明党も、政党としては、中小企業の活性化や雇用問題という、社会構造の基盤を固めていくという方向では、自民党に近いところもあり、大企業優遇の政策に陥りがちな自民の政策を、よい意味で牽制しているなら、その点はその存在意義を認めてもよい。
言い換えれば、議席の協力は必要とされても、その考え方にさほど変更を迫る必要がない、ということだ。

むしろ、政治思想のほうに問題がある。思想的な考え方の違いは、いかんともしがたい。
これは、憲法改正、集団的自衛権、国防に対する考え方に、如実に表れている。

率直に言って、公明党には、思想なるものが見えないのだ。
なぜ、これら自民の提案に、ことごとく反対するのか、わからない。
はっきり言って、公明党には思想がない。いい悪いは別として、個人の生き方にかかわる議論や発信は多いが、国家観は見えない。やはり、宗教政党なのだろう。

根本にやはり、売国的な発想がある、としか考えようがない。そして、公明党は、売国政党の一面をもつ。
むしろ、この売国的一面が、自民のなかの売国的な一部と結びついていると言える。

自民のなかにもいろいろいる。
しかし、大勝した政党として、ここは安倍首相のリーダーシップに従い、一枚岩の団結を示してほしい。安倍総理や官邸側には、リーダーシップを発揮しつづけなければならない、という重責がある。

愚かな足の引っ張り合いだけは、国民としては願い下げだ。隙を見せれば、どこからか必ず虫も飛んでくる。

昨年暮れの衆議院選挙直前、自民党が勝利することを予想して、その場合、外交と教育の遅れを取り戻してほしいと書いた。
今回も同様だが、それにマスメディア対策を加えたい。

貿易立国として、近隣諸国との良好な関係は重要だ。
中国や韓国は、大きな口を叩いているが、その実、警戒していることの裏返しである。日本が両国に、こちらの言うことを聞かせる、というスタンスで環境づくりを進め、貫いてほしい。
そして、終戦の日にとは言わないが、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、心ある日本国民の総意である。

教育再生には、さらに徹底した愛国精神を盛ってもらいたい。
国歌を歌えない子供がいる、といった現実を直視して、どうしたらよいのか、具体的に手を打っていってほしい。教科書検定や教員のありかたに、メスを入れてほしい。これは検閲ではない。思想の具体化である。
まだ全体の25.8%はいると言われる組合教員への処遇も考えなおすべきときだ。

保守愛国の人は、みな気付いている、あとは、具体的な政策として、法律・条例をつくり、改正して、これを実行することだと思う。
国旗国歌法の改正もおこなってほしい。情けないことではあるのは承知だが、最高裁でさえ、反日教師を赦してしまうようなご時世だ。
初めから、きちんと書いておけばいいのだ。裁判所は法律にしか基づかない。

この程度のことも、サヨクからすると、ファシズムだそうだ。
ファシズムどころではない。言いたいことを言って、国家に拘束されず、天皇陛下や首相を小ばかにする歌をガナっても逮捕されない、…これほど自由で寛容な国家が、どこにあるのだ?

これらに加え、マスメディアに対しても、政府はもっと指導力を発揮すべきだ。
NHKその他反日売国放送局や新聞社には、その免許や認可において、制限をつけるべきだ。
マスコミは第三の権力と言われるように、その影響力は大きい。
だいぶ国民は賢くなってきた。それでも、糸数慶子や山本太郎の当選には、このマスコミの煽情がひと役買っている。

NHKについては、放送法を廃止し、受信料制度そのものを廃止すればよい。戦後の混乱期に出来上がった法律は廃止するか、受信料既定の条文を削除すべきだ。
民放や反日新聞もこれに準じる。

まっとうな政策批判は、マスコミの役割として認めよう。ただ、一方的に反日的な番組を編成し、放送を垂れ流すことが問題であり、罪深いのだ。

法治国家は、思想も改革も、立法というかたちで結実する。
保守愛国の気運は、高まっている。
引き続き、心ある国民の後押しが必要なようだ。

2013年7月13日 (土)

愛国心の片鱗もない最高裁決定

本日の最高裁の決定は、全くもって不見識きわまりない。

そもそも、一審・二審の判決が正しかったのに、最高裁(最高裁判所)が高裁(高等裁判所)に差し戻ししたから、おかしくなったのである。

最高裁の差し戻しとは、簡単にいえば、最高裁は高裁の判決に同意できないから、判断をしなおせ、という意味だ。

高裁は上級裁判所に拘束されるから、最高裁の希望に近い判断をすることになる。その判決に不満で再上告しても、今度は最高裁の思うとおりになっているから、その上告は棄却される。または上告そのものが受理されない。

こういう例はよくあるのだが、今回の件については、いただけない。

今度は自分らに都合のよい判決になったからと、再審理せず、上告を「受理しない」というところが傲慢である。
これでは、初めから、最高裁に「ある意図」があって、その道筋に沿わなければ、何でも差し戻しになってしまう。

山口県光市の母子殺人事件では、無期懲役では軽すぎるとして、最高裁は高裁に審理を差し戻した。その結果、被害者の夫や検察の期待したとおり、高裁で死刑判決が出て、最高裁も、被告からの上告を棄却し、死刑が確定した。
これは妥当な差し戻しであった。妻子を殺された夫の強いはたらきかけがあったからだろう。

今回のケースは、証拠も豊富な刑事事件ではない。いわば、思想犯罪といってよい。その犯罪者に、目こぼしを許すとは、もってのほかである。

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君が代不起立、初の賠償確定=都の上告受理せず―最高裁
時事通信 7月12日(金)18時28分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130712-00000125-jij-soci

 入学式や卒業式で、国旗に向かった起立と国歌斉唱を義務付けた東京都教育委員会の職務命令に従わず、停職処分を受けた都立養護学校元教員の女性(63)が、都に300万円の損害賠償などを求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(小貫芳信裁判長)は12日付で、都の上告を受理しない決定をした。都に30万円の支払いを命じた差し戻し控訴審判決が確定した。
 女性側代理人によると、君が代不起立訴訟で賠償命令が確定したのは初めてとみられる。
 一、二審は女性の訴えを退けたが、最高裁は懲戒権者の裁量の範囲を超えているとして停職処分を取り消し、賠償請求について高裁に審理を差し戻した。
 東京高裁は、処分について都の過失を認めた上で、「停職中、教壇に立てないことによる精神的苦痛は、支給されなかった給与の支払いでは回復できない」として、都に賠償を命じていた。 

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他方で、最高裁は、今年4月、次のような判断を下している。

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教員らの敗訴確定=君が代不起立の情報収集-最高裁
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201304/2013041900342&rel=&g=

 神奈川県教育委員会が入学式や卒業式の国歌斉唱で起立しなかった教職員名を収集していたのは県個人情報保護条例に反するとして、県立高校の教職員ら25人が県に情報の削除などを求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は17日付で、原告側の上告を退ける決定をした。原告敗訴とした一、二審判決が確定した。(2013/04/19-11:06)

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東京都の公務員という身分をもつ教員が、都の指導に従わない場合、一定の処分をするのは当然だが、その裁量権を超える、とは、どれほどのことをいうのか。

一般人の感覚からすれば、その行為の「次の日」に「退職にする」と言ったら、裁量権を超えた乱暴な仕打ちであろう。
しかし、それまでの実績などを踏まえて、就業規則や過去の例にもとづいて、一定の範囲内で処分するのは裁量権の範囲内だ。

特に、この元教員は、教師として、それまでに特別な実績などはなく、通常の業務をおこなうどころか、数々の反日行為を繰り返してきた札付きである。

都の裁量として、停職であっても、軽いくらいだ。

それくらいの処分で済んだことをありがたいとも思わず、訴訟まで起こすとは、究極のカス教師と言わざるをえない。

思想に関する最高裁の判決には、靖国訴訟に見られるように、揺れがあって統一性がないが、国旗・国歌に関する限り、これらは日本国の象徴であり、その日本国の公務員であるからには(私学でも同じ)、式典などで、掲揚された国旗に向かい、起立して斉唱するのは当然なのである。

靖国訴訟も、これと同種で、総理大臣が参拝するのが違法だなどとする判決は、反日裁判官が訴訟指揮をとっているとしか思えない。

こういうカス教師が子供たちの指導に当たっていいのか。教師への入口を規制する必要もある。
教科書検定の見直しと平行して、教員採用や研修のありかたも、見直していく必要がある。

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それにしても、昨日日記にしたNHKの判決や、今日の最高裁決定を見るにつけ、一個人がmixiなどで日記に書いたところで、何も変わらないのかなあと弱気になりそうだ。

NHKも最高裁判事も、それらを法律や選任方法でコントロールできるのは、行政しかない。
何としてでも自民党に圧勝してもらうしかない。

もしそうなったら、例えば、以下のようなアイデアを実行してもらうしかない。

放送法64条といった条文を廃止するか、戦後まもなく出来上がった放送法など、一旦廃止する。
視聴者の自由意志で契約できるように、法律を改めるか、国営放送というなら、それなりの内容の番組にして、国民には無料で提供するようにすべきだ。

最高裁判事も同様だ。
国民審査で×をつける、などと幼稚な手段は廃止する。その手段がわかりやすくて続行するなら、それもいいが、×の多い順に、多いほうから3人までの判事は罷免する、…これくらいのアイデアをみんなが出して、それを実行させるように、政府にはたらきかけていく。

さらに、国旗国歌法の改正が必要になってくる。

国旗国歌法改正案としての提案
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-b3c3.html

2013年7月12日 (金)

裁判所が、代わりに受信契約締結するだと?

先月6月27日、横浜地方裁判所相模原支部で、ある判決があった。

NHK未契約世帯でも受信料、支払い命じる判決 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130627-OYT1T01235.htm?from=tw(▼▼▼~▲▲▲)

   ▼▼▼
NHKが放送受信契約の締結に応じなかった相模原市の男性を相手取り、契約を結んで受信料を支払うよう求めた訴訟で、横浜地裁相模原支部(小池喜彦裁判官)は27日、男性に契約締結と受信料約10万9000円の支払いを命じる判決を言い渡した。

NHKによると、同様の訴訟で、被告側の反論がないまま、NHKの請求通りの判決が出たケースはこれまでに5件あるが、裁判所が双方の主張を踏まえ判断を示したのは初めて。

判決によると、NHKは2009年1月、テレビが設置されていることを確認したが、男性は契約に応じず、「東日本大震災でテレビが壊れた」などと主張していた。判決は「放送法は、利用状態とは関係なく、テレビを設置した者から一律に受信料を徴収することを認めている」と指摘。契約を拒否する設置者に対しては、裁判所の判決を得ることで契約を締結させることができるとの判断を示し、男性に09年2月~13年1月分の受信料支払いを命じた。

(2013年6月28日08時23分  読売新聞)
   ▲▲▲

要するに、テレビ受信機を設置していれば、放送法64条1項にもとづき、受信料を払わなければならない、ということだ。

NHKに訴えられたこの被告人が、NHKの偏向報道に対抗するために払わなかったどうかはわからない。裁判は、一件一件の事案について、法律に基づいてなされるだけだからだ。

NHK受信契約は、唯一、この放送法64条1項に基づいている。しかし、強制法規ではなく、罰則もない。
従来は、「まじめな」番組を提供するNHKに対し、受信料を免れるというのは、ズルとしてやっていた場合が多かった。
だから、払うのは自明の理という風潮があった。

その後、特にこの約十数年、NHKの偏向ぶり・反日ぶりに対し、見ないのだから払う必要はない、という考えが生まれ、テレビがあっても、ズルではなく、明快な意図をもって、受信契約をせず、受信料を払わないとする人々が増えてきた。

しかし、裁判というのは、とにかく法律にもとづく世界だ。放送法に書いてあるから、そのとおりにしろ、と言われると、一般市民はなかなか反論できない。

裁判記録によると、原告のNHK側は、弁護士9人を動員している。敗訴したから法律上当然なのだが、訴訟費用は被告人負担である。
計約11万円が惜しくて、契約せず払うのを拒んだのではなく、原告はすべて承知で、あえて払わず、裁判の道を選んだのだろう。その後、控訴したかどうかわからない。

NHK視聴者については受信料負担は平等でなければならず、放送法に則って出された判決じたいは、賛否以前に、ごくあたりまえの結果であった。

ただ、被告側は、民法414条2項但し書きを出されるとは、思いもよらなかっただろう。

414条2項但し書きとは、以下<参考>の「ただし、法律行為を目的とする債務については、裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる。」のことである。

ニュース文面にあるように、債務(契約により支払わなければならない義務)を履行していない者には、裁判の判決それ自体をもって、債務を履行することを約束したのと同じになる、ということだ。

つまり、受信契約をせず、受信料を払っていない者には、裁判所の判決をもって、契約をし、それゆえ且つ、受信料を払わなければならないという義務を、その者にもたせる、ということだ。

いわば、契約をしたのに払うべきものを払わないという、悪質な債務者一般に対して、債務を免れないようにするための条文であるが、この被告は、それほど悪質なのだろうか。

裁判の判決が、イコールそのまま、被告が契約をし受信料を払うということを認める、と代弁しているわけだ。

被告には控訴という手もあるが、ここまで踏み切った判決を受けるくらいなら、他の手段で払わない意思表示をしていたほうがよかったと思っただろう。気の毒だが、まさに、藪蛇であった。

敗訴の判決が、あたかも自分が契約し受信料を払います、という意志表示になるとしたら、裁判をになるのを恐れ、相手が偏向反日NHKであっても、しぶしぶ契約し、支払ってしまう視聴者が増えてしまうかもしれない。

<資料> 民法

第2節 債権の効力
第1款 債務不履行の責任等

(履行期と履行遅滞)
第412条 債務の履行について確定期限があるときは、債務者は、その期限の到来した時から遅滞の責任を負う。
2 債務の履行について不確定期限があるときは、債務者は、その期限の到来したことを知った時から遅滞の責任を負う。
3 債務の履行について期限を定めなかったときは、債務者は、履行の請求を受けた時から遅滞の責任を負う。

(履行の強制)
第414条 債務者が任意に債務の履行をしないときは、債権者は、その強制履行を裁判所に請求することができる。ただし、債務の性質がこれを許さないときは、この限りでない。
2 債務の性質が強制履行を許さない場合において、その債務が作為を目的とするときは、債権者は、債務者の費用で第三者にこれをさせることを裁判所に請求することができる。ただし、法律行為を目的とする債務については、裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる。
3 不作為を目的とする債務については、債務者の費用で、債務者がした行為の結果を除去し、又は将来のため適当な処分をすることを裁判所に請求することができる。
4 前3項の規定は、損害賠償の請求を妨げない。

【追記】

この被告は、平成21年1月13日に、NHKに対し、テレビ受信機の設置の連絡を自らしている。

ところが平成23年3月11日の震災の影響で、マンション10階にある自宅のテレビが壊れた。それで、どうしてもち言うならそこまでの受信料は払うが、それ以降、訴訟の起こされた今年1月分までは払えない、と主張している。

判決は、受信機を置いた翌月の平成21年2月から今年1月までの受信料を、すべて払えというものである。

判決では、テレビの故障が今年1月まで継続していたとは認めておらず、テレビを設置した期間=受信料を支払うべき期間、と認定した。

2013年7月10日 (水)

自民の勝利は見えたが、売国奴だけは当選させるまじ

今年は、みたままつり(今月13~16日開催)の日の並びが悪く、日曜しか行けないので、今日、ゆっくり参拝してきました。

みたままつりの日は、参道に出店が並び、人手が多く、それだけ参拝者も多いのでいいことですが、終戦の日並みに混雑します。

境内は、大型献灯・小型献灯を掛けている最中で、まつりの準備はほとんど終わっていました。

第一の鳥居の脇には、おばけやしきまで準備されていました。これは初めての試みですね。

今日も大型バスが並び、猛暑にもかかわらず、大勢の参拝者の姿がありました。午後3時ころでしたが、今日は関東近県のナンバーが多かったです。

東京都心では、午後2時前に35度を記録したようですから、まさに猛暑のさなかでした。

☆-☆-☆-☆-☆

池袋で期日前投票をしました。入口に、もさっとしたNHKが腕章巻いて立っていました。出るときは、人のよさそうなご婦人が餌食になってましたね。
このNHKは、おそらくアルバイトでしょう。

その後、新宿で用を済ませて、西武新宿線で高田馬場に出て、地下鉄東西線で九段下まで行ったのですが、馬場での乗り換えのとき、山本太郎を見たのです。

いつも使わないBIG BOX側の出口に出たので、たまたまその前で演説していた山本に遭遇したわけです。

きのう御茶ノ水で見かけたのと同じで、支援者はピンクのキャップにTシャツという出で立ちで、ウチワやパンフを配っていましたが、通行人は足を止めません。
テントが一台つくられて、机の上に、二つ、カンパの箱が並んでいました。

混んでいたら、どさくさに紛れて写真でも撮ってやろうと思いましたが、きのうの準備の時と違い、支援者が両脇に立ってウチワを配っていて、絡まれると面倒なので、チェックだけして通り過ぎました。

山本は声もあまり出ておらず、心なしか元気がないようでしたね。驚いたのは、右側頭部に、かなり大きな円形脱毛症があったことです。
演説者としては、聴衆がいないんじゃ、熱も入りませんね。

言ってることも、中学校の生徒会の選挙みたいです。「放射能で人が死んでるんです」「弱者いじめをする政治を見逃していいのでしょうか」・・・

話になりません。

投票を済ませ、靖国神社参拝に向かう間に見た光景でしたが、ピンクの山本陣営は、小さく小さく思えました。

しかし、なぜ、御茶ノ水や高田馬場なんかで演説しているのでしょう。
もちろん、それぞれ1時間くらいしかいないのでしょうが、どちらも駅前は狭いところです。
東京ならやはり、新宿西口・東口、渋谷ハチ公口、池袋東口、あるいは浅草・雷門前あたりが定番ですよね。まだ公示期間があるので、あと10日のうちに、そういうところも回るのでしょうか。

学生街や予備校街でやっても、あまり意味はないと思います。おそらく、民主党勝利をまねて、若者受けを狙っているのでしょう。
若い有権者も、そうそうバカじゃないと思いますよ。
ましてや、きのうは、前進社が応援しているというニュースまで流れ、一気に拡散しているのですから。

きのうもマイミクさんが批判していましたが、ピンクという色は、選挙戦カラーには向いていないですね。
ピンクは難しい色です。それじたいがきれいな色なので、それ以外の部分が汚く見えてしまうおそれがあります。ピンクの服を着るとき、みなさん、それなりに注意していると思います。

それだけに、髪の毛のボサボサのオッサンやら、姉ちゃんやら、ロン毛をうしろにまとめているアンちゃんが、ピンクを着ると、汚らしく見えるのです。イメージダウンですね。

まあ、山本陣営のことだから、どうでもいいのですが。

☆-☆-☆-☆-☆

参拝の折、感謝の念とともに、自民が圧勝するよう、念じてしまいました。
僭越な祈念でしたが、そうなるだろう、という声が聞こえたような気がします。

しかし、自民が勝利しても、山本や売国奴が当選するのは避けたいところです。
山本は東京選挙区だから、当選したら、やはり、都民の恥になることに変わりありません。

こんなのが参議院に入って、国会でバカな質問をすることにでもなれば、それに応じる大臣も、仕事とはいえ、煩わしいでしょうし、第一、時間のムダです。
コイツが歳費を使うということも気に食わないわけです。歳費は国民の納めた税金です。議員特権を使うことも不愉快です。
そのうち、当選に導いてくれたとして、サヨク過激派とつるむのは、火を見るより明らかです。

何としてもコイツは落選させなければなりません。

自民が有利になっている現在、山本を、頭全体が脱毛坊主になるまで、心理的に追いやり、山本支援者になりそうな有権者を、保守側に加担するよう仕向けなければならないと思います。

2013年7月 7日 (日)

靖国神社の扇子

前のが傷んできたので、買い換えました。

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2013年7月 5日 (金)

花を失った最近の映画(ラスト)

主に、1.と2.の理由で、映画がつまらなくなっている。

そして、その根本は、彼ら彼女らが、寝る間を惜しんででも、勉強をさぼってでも、映画を観ることをしていない、というところに原因がある。

毎日、寝る前に一本、休みの日に二本観ればいい。これを一年貫いたら、400本は観られるだろう。
20代の1~2年は、そういう年があってもいいのだ。

それをやるだけでも、相当な財産になるし、腹にエネルギーが蓄積される。それが製作意欲に変わっていく。義務や仕事や売名ではなく、熱意をもって作ることができるはずだ。
数多く観たことを自慢して言いふらすのはアホだ。秘かに自分のエネルギーにしていけばよい。

仲間と酒を飲んで、ああだこうだと議論をたたかわすヒマがあったら、その時間に映画を観るほうがよい。
映画制作にかかわろうとする人間が映画を観ないのは、小説家やエッセイイストをめざす人間が、先達の小説やエッセイを読まないで書くのと同じである。

いずれにしても、わざわざ、カネをかけ、時間を費やして、フィクションの世界を構築しようとする試みなのだ。思いっきりやればいいのだ。

せっかくなら、エンタメ性のある作品を作ってほしい。
ジャンルを問わず、エンターテインメント性がなければ、観客にアピールしないし、もう一度観てみたいという気にもならない。
もう一度観てみたい、というのは、おかしなたとえだが、もう一度会ってみたい女と似ている。何か惹かれるものがあるのだ。

脚本にメリハリがなく、カメラが横着にしていたのでは、とてもじゃないが、エンタメ性の創造は難しい。
しかし、そこをクリアしてこそ、プロの映画人というものだろう。そうやって、何人もの人が、すばらしい作品を、世に送り出してくれてきた。

蛇足だが、いい映画かどうかの判断の基準を書いておきたい。むろん個人の考えである。(いい映画が、必ずしも好きな映画ではない。)

始まって、10分から20分前後で、あるシーンに区切りがつく。それでつまらなければ、その映画はつまらないだろう。

こういう映画は多い。今まで、だいぶレンタル料をムダにしてきた。これからもムダにすることだろう。再生停止という勇気も必要だ。
ただ、人に話したりレビューを書いてこき下ろしたりしたいのなら、そんな映画でも最後まで観るべきと思う。

映画は、最初の10~20分で決まる。
特に、ファーストシーンは、命である。

マイミクのなかにも、旅する映画館プロジェクトという企画を立ち上げて、よき映画の普及に努めているメンバーもいる。
大資本に依拠できないだけ、費用その他で苦労も多いと思うのだが、うまくアピールしながら、よい作品を作っていってほしいものだ。

何も、120分使えばいいってものでもない。古い映画には、90分や85分程度のものもざらにある。60分の短編でもいいと思う。

観てよかった~という作品が生まれるよう、私たちも応援したい。
しかし、批評は批評で、きっちりやっていいと思う。

(おわり)

(以上、mixiより転載)

花を失った最近の映画(4)

映画は映像である。言葉ではない。…これは私の映画観であり信念である。

絵や彫刻は、そこにある止まったものを鑑賞する。小説は、文字で読む。語句の前後のしかたや、言葉の選び方で、随分と表現も違ってくる。音楽は、音、旋律、リズムからなる。演劇は、舞台の上で、ナマで行なわれ、その芝居は一介だけだ。

映画はカメラに収めて、編集する。時間とともに進行するのは音楽と同じだ。

映画とテレビの違いは何か?

難しいところだが、カメラが外に出ることだろう。そういう風景を、スクリーンに取り込むのは、映画であり、同じことをテレビがやっても、スクリーンとは迫力が違う。
特に、アクションシーンは迫力が違う、ジャンル別でいえば、歴史ものや戦争ものは、スクリーンで初めて映像が生きてくる。

ヒッチコックはロケを好まなかった。たぶん、デブだったので、あまり動きたくなかったのだろう。ロケを敢行はするが、スタジオセットを好んだ。
ロケ現場を周到に写して、スタジオにそっくりのセットを作らせた。スタジオであれば、いろいろ作為ができるというのもあるだろう。

最近の映画の悪しき点がいくつかある。

1.セリフが多すぎる。

現代の映画は、言葉が多すぎる。セリフが多いということだ。
まるで、小説をそのまま映像化しているようで、再現フィルムのようだ。

たしかに、セリフがなければ話は進まないが、何でもセリフに頼るというのは、裏を返せば、監督が映像を観てきていない証拠であり、映像での表現に自信がないからとも言える。

映像には、俳優の動きや、カメラの動きも入るから、すわなち、監督に演出能力がないということになる。
映画は、カメラのフレームの中だけの世界である。そのなかをどれだけ充実させることができるか。そこに監督の手腕が発揮される。

言葉だけをべらべらしゃべらせるものは、映画でないと思っている。それは小説だ。映画は、映像で見せなければならない。

そのためには、カメラや照明、メイクが、監督の意を汲んで、縦横無尽に動いてくれないと、いい絵ができない。カメラは、それ自体が専門分野であるから、素人では限界がある。その素人がやがて、玄人になるのだから、研鑽が必要だ。

脚本は、映画の基本のすべてであると言っていい。脚本がよければ、大根役者でも、演技が気にならないくらいになる。
その脚本を基本として、どこをどう撮るか、は監督の裁量だ。

同じ人物のセリフが続くときでも、どこかで切って、別のアングルから撮ったりするのは、監督が決めることだ。それをあとで、カットして編集し、つなげてできたのが、映画なのである。
そのシーンにふさわしい映像やカット運びにするには、どうすべきか…、映画をたくさん観てきていなkれば、いい案がひらめかないだろう。

2.撮影が横着すぎる。

ある方向から撮り、その反対側から撮り、それらを組み合わせていくのは、まさにモンタージュといって、その臨場感、リアルさを醸成する技法である。

ところが、カメラは固定され、同じ向きのまま延々と映しっぱなしというのがよく見られる。
反対方向から撮って、あとで合わせるというのは、それこそ映画の基本なのだが、それをあまりやってない。

ただ撮ればいいというものでもなく、そのシーンにふさわしく、向きを変えて撮るということだ。

そういったマメさ加減がない、というのは、教えられた域を出ていっていないということだ。ズボラで横着な姿勢では、脚本がよくても映画にならない。

最近観たものでは、先だっての『臨場 劇場版』がいい例だ。元々は興味深い内容であるし、映画化するのには難しいストーリーで、一つの挑戦ともいえるのだが、何ともカメラワークが貧弱で楽しめない。
この監督は映画を観ているのだろうか。頭で作るから、こういうものになってしまう。
最後まで観たが、実は、最初の20分で退屈になった。

ついでながら、私がいくつかの例外を除いてネタバレを気にしないのは、映画はあらすじだけではないと思っているからだ。あらすじなど書いたところで、その映画を観てみなければ、そのよさも悪さもわからない。百聞は一見に如かずということだ。

『殺しのドレス』の前半の話はこうなる。

ヒマでやや性的不満をもつ婦人が、ある美術館で見知らぬ男と知り合い、そのへやまで付いて行き、満足したひとときを過ごすが、帰りのエレベーターに乗ったところで、指輪を置き忘れたことに気付き、男のへやに戻ろうと、また上の階に昇り、エレベーターを降りようとすると、開いたドアの外から、いきなり背の高い女に襲われ、そこで死亡する。

これを読んで、映画を観たつもりになるのは間違いだ。ふ~ん、そんな映画か、そのうち観てみるか…で、いいと思う。

(つづく)

花を失った最近の映画(3)

映画を観てきていない人間が、大資本によって映画を作るとこうなった、という実例が、2011年の『あしたのジョー』であると思っている。
これも実は、わざわざ映画館まで足を運んだ映画である。

製作は「あしたのジョー」製作委員会であり、その構成は、TBS、東宝、電通、講談社、毎日放送、中部日本放送、OXYBOT、RKB毎日放送、TBSラジオ&コミュニケーションズ、北海道放送などとなっており、映画をヒットさせ興行収入という実入りだけに目がくらんでいるとしか思えない。

配給はもちろん東宝であり、山下智久、伊勢谷友介、香里奈、香川照之といった、人気のある有名どころを並べている。
そして、公開後、当初はよかったが、ひと月ほどで尻すぼみとなり、2月に公開され、同年8月中にはDVDを出す始末である。よい作品は、再度公開もできるので、テレビドラマではあるまいし、自信があればすぐにはDVD化しないのがふつうである。

おそらく、今から思えば、間違いなく、これは計算の上であったろう。一年以内に、二度儲けようと、最初から筋書きが出来ていたのである。根性が卑しいのだ。

要は、線香花火でよかったのだ。パッと売って、パッと儲けて、消えていく、ということだ、そんな姿勢の大資本に、よい作品が生まれるはずがない。
映画をいったい、何と心得ているのだろうか。
特段、高尚な芸術となでは言わないが、映画としてのエンタメ性のない映画は、いくら大資本が作ろうが、賞をもらおうが、二流作品なのである。

この曽利文彦という監督は、CGやVFXの専門で、ほとんどキャリアもなく、使いやすくいいなりになるからと、TBSのツテを頼りに連れてこられたのだろう。

一般に、テレビ局がカネを出す映画に、ロクなものはない。
映画だから儲けも必要だろうが、それだけであって、売れればいい、という発想である。
この映画も、カネで解決のつくところは、全く申し分ないが、映画はそれだけではない。

字数制限があったが、あるところにレビューしたので引用(▼~▲)してみよう。
ついついこき下ろしてしまった。

 ▼

脆弱さ丸出しの脚本と主役のミスキャスト

投稿日時:2011/09/13 21:03:17 役立ち度:13人

極力、一本の映画として作品として観た場合、大きな弱点が二つある。主演ジョーのミスキャストと、脚本の脆弱さだ。セットも豪華であり、拳闘シーンはさまざまな国内外の映画に見られるものを後追いせず、CGも最低限に抑えて効果的に個性的に仕上げた点は評価できる。

山下智久に顔の陰りや過去をひきずって今日がある、という雰囲気が全く感じられない。つまり、顔の表情の演技に乏しいのだ。IWGPのころのままそれは変化しておらず、ダイナブックや生茶など、モデルとしての才能を活かしていくほうが得策だろう。
香里奈はたしかに棒読みでこれも演技力がないが、多少同情できるところもある。

全般にキャラクター描写が弱く、書かれたとおりのキャラのサイズが演じられたキャラに一致するのは、うどん屋の夫婦くらいだ。過去と現在、現在からの脱却、相手への情熱の源泉など、それらをこの時間枠で描き切るには短すぎるかもしれないが、それをしてこそプロの脚本家といえるのではないか。プロはそれで食っているのだろう。脚本家の息切れが聞こえてくる。

香川照之でさえ、いつもながら演技力を発揮しているが、丹下段平そのひとのアイデンティティをつかみえぬまま、過激な役作りに迷った上で奮闘しているようだ。

倍賞美津子ら脇役陣も、その役目も果たしえないままで、それら俳優を起用した意味、その役はこの俳優でなければならないという意味、が感じられない。ウルフの存在感など全く感じられない。ただ猛者ボクサーがいるってだけの映像だ。

全体に、映画として、ストーリー運びと描写力に迫力が不足しており、それを映像と演技で補おうとしているフシもあるが、俳優や編集に迷いが感じられるというのは、根本的には監督の指導力のなさにいきつく。それはまたどこから来ているのか。雇われ社長の会社は勢いがないのと同じことだ。テレビ局丸抱えの映画製作にロクなものはない。

決定的にこの映画の弱点を象徴したのが、終盤、ジョーが力石との戦いでゴングに救われ、傷の手当てをしてもらいながら、過去を振り返るモノローグのシーンだ。このシーン、圧巻をすくるべき場所での、このふやけたシーンによって、この映画は少なくとも、脚本に関しては駄作を決定づけた。

今年2月11日祭日金曜に封切られ、当日・土曜と悪天候となり、客足が気になるなか、さらに追い打ちをかけるように、原作ファンその他から圧倒的な酷評が寄せられた。翌週以降は、それらの形勢を逆転せんとばかりに高評価や山ピーファンによる素人レビューが数にモノを言わせるかのように押し寄せ、しかし、配給会社や制作会社のさくらのしわざも疑われるような高評価ラッシュもむなしく、結果的には封切ひと月前後をもって上映を終了した。

先月からまた高評価のみが乱立するのは、DVDの発売の売れ行きを気にしてのキャンペーンレビューであろう。商売も大事だが、豪華なセットや美術と、貧弱な脚本と演技力が、アンバランスをつくったまま終わった凡作であった。
 ▲

脚本の稚拙さ、主役クラスの出演者の演技力のなさ、監督の力量不足(裏を返せば、それを承知でそういう監督を使うテレビ局の悪賢さ)、…これらを学習するには、もってこいの作品だろう。

日本の映画がつまらなくなってきたのは、映画製作に当たる者たちが、映画をほとんど観ていない、ということに尽きると書いたが、そのツケはすぐに、脚本や演技、演出のいい加減さとして、如実に現われるのである。

(つづく)

花を失った最近の映画(2)

映画の世界に生きようと決めたものなら、そこにいく過程で、いろいろなジャンルの映画を観ているに違いない。だからこそ、監督になりたい・俳優になりたい、と、その道を志すのだろう。

ところが、最近の映画では、そうしたキチガイじみた映画好きが、製作にかかわっているとは到底思えないのだ。
いろいろな試行錯誤は認めたいが、職人気質の映画人というものが、いるのだろうか。

今の40歳前後以下の若い監督は、おそらく、内外のさまざまな映画を観ていないように思われる。
ジャンルを問わず、いろいろな映画を観て、これはおもしろい!とか、なんだつまらねえなといった、ナマの感想を発することがないまま、技術的な教育だけを受け、しっかり勉強し、訓練を積んでいるだけのように思うのだ。

映画にもセオリーはある。セオリーがなければ、一本のまとおな作品は出来上がらない。だから、セオリーを貫く姿勢も必要ではある。しかし、味わい深い映画となると、セオリーの追求だけでは成り立たない。

例えば、ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞をとった、ダーレン・アロノフスキー監督の『ブラックスワン』という映画があった。日記には登場していない。つまらないからである。

この有名な映画を、ポートマンは好きなので、封切り後すぐに、映画館で鑑賞した。バレリーナの話であり、美しい映像も多いが、おもしろいとは思えなかった。つまり、映画に、花がないのだ。

この監督はハーバード大学まで出たが映画の道に入り、『π』という作品でデビューしている。数学の話も出てくるが、『ブラック・スワン』よりは『π』のほうがおもしろい。
『ブラック・スワン』は、映画のセオリーを優先させたために、豪華な映画のわりには、観る側からすると陳腐な作品になってしまった。

映画を観て感動するのは観客であるが、映画を撮ろうとする者は、驚きというものを財産にしなければならない。
何でもそうだが、驚くということのないところに、興味や熱意、執着といったものは生まれない。

現代は、カネと機材と人間がいれば、何とか製作できてしまう。そうしたシステムにも問題があるとは思う。
システムは、若い映画人には変えられない。ならば、それを、いいほうに利用していったらいいのではないか。

草の根的な映画作りが、地方自治体と映画会社のタイアップで実行されている。映画学校の出身者に限らず、真に映画を好きな人が、映画づくりに励めるような環境をつくることが大事だ。

日本映画学校などから輩出された映画人も多くいる。
日本の映画の危機は、今村昌平だけではなく、当時の映画人全体の共有する危機感であった。
その危機意識は、大資本が製作費を出し、配給会社と興行会社(映画館)がそれに応じ、映画興行という点では、申し分ないシステムを産み出すことで結実したと言える。

かつて、映画の配給についてひと言書いたのだが、思いは今でも変わらないが、配給会社はそれなりに、よくやっていると思う。

条件は十分に整っている。
それだけに、映画魂のある監督やスタッフが現われれば、かなりよい作品を作ることができるはずである。

(つづく)

《参考》

映画『ブラック・スワン』のレビュー
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id337733/rid1179/p0/s0/c0/

映画『π』のレビュー
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id85132/rid33/p0/s0/c0/

配給会社に期待する(1)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1854663171&owner_id=48430274

配給会社に期待する(2)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1854755232&owner_id=48430274&org_id=1854663171

花を失った最近の映画(1)

その昔、『ヒッチコック劇場』という番組があって、それをかつて日本でもテレビで放映していた。
最近、そのDVDが出ている。

そのころはまだ小さかったので知らないが、その後、再放送するころに見たのだろう、断片的に記憶に残っている。

番組の初めと終わりに、ヒッチコック自身が登場し、ひと言話す。
一話あたり25分のサスペンス風な物語が並ぶ。『世にも奇妙な物語』といった番組構成の原点だ。
ひとつだけ、よく覚えているエピソードがある。

ジッポのライターが連続して点くことを自慢する男が、ある紳士と賭けをすることになる。紳士が言うには、そのライターが連続して10回点けば、自分の高級車を与える、一回でも点かなければ、男の左小指を切断する、という奇想天外な賭けであった。

この話とシーンを覚えていたので、紀伊国屋に行ったところ、その第四集に入っていたので、それを買った。なんと50%割引であった。

帰ってから、すぐ、そこだけ観た。原題は、Man from the South で、邦題は「指」となっていた。結果として、指は切り落とされずに済んでいる。

ヒッチコックの作品を、いまだに、イギリス時代のものから全部観ているわけではない。観たもののなかでも甲乙はある。ただ、以前書いたように、彼の映画から、映画のつくりかたやおもしろさを知ったせいか、ここから映画の世界に入り、また批評することもできるようになったようなものだ。
教科書はつまらないものであるが、例外的に、教科書を好きになった一例だ。その教科書に、今では感謝している。

以前mixiでは、ほぼ毎日、映画の日記を書いていた。
今回も、数えたら、『青の炎』まで、182本の映画日記を書いている。つまらない作品のものは書いてないから、実際はそれ以上観ていることになる。

プロフィール欄に挙げた映画も、たまに追加しているものの、現在127作品となっている。自分が本当にいいと思ったものだけ挙げているのだが、それでもこれだけになる。
いずれにしても、最低一度は、過去に観たものが多い。最近のものも少しはあるが、ここに分け入って加えたい作品は多くない。

これらの作品は、多くが古いものであり、白黒も多いが、だからと言って、自分の生きてきた時間とリアルタイムではない。自分の子供のころや、生まれる前の作品もある。
古い作品だからと見向きしないというのは、映画ファンを自称するなら、邪道な考えであり、逆に、今日まで生き残ってきただけの何かがあるのだろうと、前向きにとらえる必要がある。

前にも書いたとおり、学生時代に、映画好きの後輩がいた。その所属する部活で、『殺しのドレス』を上映しており、それを観に行ったのがきっかけで知り合った。
悔しいかな、彼は後輩のクセに、すでに映画魂をもっていると認めざるをえなかった。コイツに負けるわけにはいかなかった。

映画評論家で食って行こうか、などと夢のようなことを考えたのもこのころであった。
こちらはたまにロードショーを観ることができたが、貧乏学生であった彼は、名画座をハシゴしていた。逆に、人をライバル視して、なかなか私の行けないヤクザ映画からポルノまで、幅広く観ていた。

ヤクザ映画やポルノを軽視していた自分が、そのつくりに一理あると思うようになったのは、彼のおかげである。

映画を観ることについてはライバルであり、いくつかの作品については、解釈が違って掴み合いまでしたことがある。互いに若かったし、酒も入っていたからしかたない。
ただ、映画に対しての根本的な考えは、不思議と一致することが多かった。

彼はその後、松竹に入社した。今は映像商品部というところにいるようだ。
できるものなら、映画を撮ってみたかったのではなかろうか…。

さて、ここからが本題だ。

最近の映画は、つまらないという人が多い。一応、日本に限って見ていきたい。

日本人であるからには、今となっては、やはり、邦画を応援したいことに変わりはない。
ところが、いつしか私も、あまり観なくなった。
それでも、始終、映画館の前は通るし、レンタルショップには行くので、ちょっとカンのはたらいたときは、そういうものを観るようにはしているつもりだ。

映画は本来、映画館で上映されることを前提に作られているのだが、半年もすればDVDとなって観られるので、そちらで観た限りの話ということになる。本当のファンが、自分の学生時代のように、パンを片手に映画館に行くべきではあろうと思う。

著名な監督の作品と、若い人の作品を比べて、後者が劣っているとはいえない。外国の例ではあるが、シドニー・ルメットが『十二人の怒れる男』を撮ったのは33歳のときである。ルイ・マルが『死刑台のエレベーター』を撮ったのは25歳のときである。(ルイ・マルをヌーヴェルヴァーグの一角ととらえるのは誤りである。)

なぜ、つまらなくなったのか。

映画製作に当たる若者たちが、映画を観ていないからである。結論はそこに行き着く。

映画を作るのに、映画を観ていないフシがある。
むろん、全部とは言わない。が、上に挙げたような作品、私が日記でレビューしているようなもの、プロフ欄に載せているもの、…これらのほとんどを、彼ら彼女らは知らないのではないか。
仮に、知っていても、観ていないのではないか。
みんな、DVDで買えるし、レンタルできるものばかりだ。

同じことが、監督や脚本、撮影、照明、衣装、メイク、そして俳優にいたるまで、全員に言えたとしたら、そうした連中によって作られた映画は、いったいどんな作品になっているのだろう。

世阿弥のいう「花」なるものは、微塵も見られないだろうということは、簡単に想像がつく。

(つづく)

2013年7月 3日 (水)

好きな映画一覧

『死刑台のエレベーター』『ディーバ』『カサブランカ』『望郷』『モロッコ』『街の灯』『M』『靴みがき』『自転車泥棒』『道』『鉄道員』『赤い風船/白い馬』『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『ナイアガラ』『私は殺される』『深夜の告白』『拾った女』『第三の男』『必死の逃亡者』『顔のない眼』『めまい』『サイコ』『北北西に進路をとれ』『鳥』『裸足の伯爵夫人』『非情の罠』『2001年宇宙の旅』『マドモアゼル』『クリスマス・ツリー』『特攻大作戦』『レマゲン鉄橋』『大地震』『カサンドラ・クロス』『ベニスに死す』『ラ・パロマ』『シャイニング』『ストリート・オブ・ファイヤー』『激突』『普通の人々』『殺しのドレス』『レオン』『マリリンとアインシュタイン』『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』『青いドレスの女』『ミスト』『天使』『ラルジャン』『遊星からの物体X』『トワイライトゾーン』『暴走機関車』『サン★ロレンツォの夜』『ボーイズ・ライフ』『評決』『キャビン・フィーバー』『氷の微笑』『ステイ』『隠された記憶』『ファイナル・デスティネーション』『白いリボン』『倫敦から来た男』『テキサス・チェーンソー』『ゆりかごを揺らす手』『レミング』『THE WAVE  ウェイヴ』『エクスペンダブルズ1・2』『コロンビアーナ』『アンチクライスト』『メランコリア』『引き裂かれた女』『メカニック』『わたしを離さないで』『ドラゴン・タトゥーの女』『トラ・トラ・トラ!』『日本のいちばん長い日』『明治一代女』『どぶ』『羅生門』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『白い巨塔』『浮雲』『女が階段を上る時』『鍵』『悪名』『女系家族』『長崎ブルース』『鬼の棲む館』『飢餓海峡』『戦争と人間 第1~3部』『少年時代』『華麗なる一族』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『新幹線大爆破』『県警対組織暴力』『ツィゴイネルワイゼン』『家族ゲーム』『犬神家の一族』『マルサの女』『疑惑』『極道の妻たち』『TOMORROW  明日』『天城越え』『渚のシンドバッド』『顔』『CURE』『青の炎』『トウキョウソナタ』『カミュなんて知らない』『男たちの大和/YAMATO』『女はバス亭で服を着替えた』『明日の記憶』『象の背中』『ライフ』『宮城野』『白夜行』『冷たい熱帯魚』『一枚のハガキ』『11.25 自決の日』『パレード』『桐島、部活やめるってよ』『渋谷』など。

私のスタンス

(mixiより転載)

【思想信条】

亡き母の従兄弟に、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に搭乗し散華した海軍少佐、横山正治(よこやま まさはる)がいることもあり、定期的に靖国神社に参拝しています。

◆日本の歴史・伝統・礼儀・秩序・日常の習慣は、すべて皇室を起源にするものと考えています。皇室の存続と、天皇陛下はじめ皇室の方々の日々の安寧をお祈り申し上げるとともに、皇統として男系男性天皇の系譜が踏襲されるべきと考えます。

◆国家の真の独立と、国家間の協力とは別の話です。国家の三要素(領土・国民・主権)が十全に満たされてこそ、独立国家と言えます。

◆英霊らは靖国で会おうと言いつつ散華されました。新たな国立の戦没者追悼施設建設など、歴史を知る者からすれば、全く意味がなく、徹底して反対します。
 天皇陛下の靖国神社親拝と、三権の長・各自治体の長・防衛省はじめ国家機関の幹部・民間企業の長たる者、および各国大使・公使の靖国神社参拝、を願うものです。

◆現日本国憲法の破棄もしくは大幅改正または新たな日本国憲法の制定、国旗国歌法の改正、日本国主権回復の日制定、を切望するものであり、外国人への参政権付与には反対です。

◆竹島、尖閣諸島、北方領土は、歴史的に視て、日本国固有の領土です。
 我が国の側には、靖国「問題」、竹島「問題」、尖閣諸島「問題」、北方領土「問題」、慰安婦「問題」、戦後補償「問題」といった「問題」は、ひとつもありません。

◆我が国は将来的に、核武装、徴兵制に準じた制度の制定、教育勅語の復活を目指すべきです。

◆自虐史観、及び、日教組、民主党、社民党とそれらの下部組織、これらに準ずる反日売国思想をもつ会派・団体は叩きつぶさなければなりません。日本において、反日売国行動を繰り返す日本人・外国人も同様です。

◆朝日新聞・NHK・電通など反日売国メディアの洗脳によって築かれてきた悪弊を打破し、自らの郷土と同じように、自らの国家を愛する日本人を育成するため、教育制度や教科書を改め、日本の良き伝統と慣習を築き上げ、定着させていくべきです。

◆著名な大学などの学府に巣食う、反日教授や反日学生の詭弁、そのサークルやキャンペーンの勧誘に注意するべきであり、大学当局はこれらを構内から排除すべきです。

◆反皇室制度、反公共事業、反原発などに名を借りた反日売国奴、生活保護不正受給で安穏と生活し続ける寄生虫どもは、日本国の発展を阻害し国益に反する存在として認めるわけにはいきません。

◆その他のスタンス:原発推進、不用意なTPP参加反対、死刑制度存続、少年法を廃止して刑法へ統合する、公共の場所では日本語と英語のみを表記する。

【映画】

映画はDVD・BR鑑賞が中心ですが、たまに休みの日に、これはと思うものについては、映画館に出かけることにしています。

◆好きなジャンルは、フィルム・ノワールから、サスペンス、サイコ系、ホラー、パニックまで。洋画邦画を問わず白黒の古い映画も好きです。映像の宝庫です。

◆映画日記はすべて、内容、カメラワーク、特定のシーンなどに触れざるをえないので、何がネタバレかわかりませんが、ネタバレを極度に気にする人は、読まないでください。予告編やチラシも、ネタの一部です。

◆『情婦』のラストをバラしたらネタバレでしょうが、基本的にネタバレの有無に気を遣っていません。あらすじを聞いたからといって、映像を観なければ映画については語れません。映画は映像であり、セリフだけ追うような素人とは相容れません。

◆むろん映画日記やレビューは、あくまで個人の感想です。

【日常】

身の回りに起きたことや思うことなども、書き連ねています。
好きなパンや菓子、ファッション・アイテム、好きなスポットなどのフォトアルバムもあります。

まだまだ、いろいろな分野で、勉強し研究することが多いな…と痛感する毎日です。

【学歴・職歴】
慶應義塾大学法学部・文学部卒、同大学院社会学研究科博士課程修了、社会学博士(2004年)

大学講師、中学・高校六年一貫制の私立学校(社会科)、大学受験予備校(英語科)、中学受験塾(人事部)を経て、現在、家庭教師センター(教務部)に在籍。

【主な資格】

中学高校教員免許、普通自動車運転免許、英検2級、剣道初段、自衛消防技術認定、上級救命技能認定(自動体外式除細動器業務従事者)、戦史検定中級(大隊長クラス・聯隊長クラス)

【所属団体】
靖国神社崇敬奉賛会
⇒靖国神社http://www.yasukuni.or.jp/index.html
公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会
⇒http://www.tokkotai.or.jp/

【好きな街】
池袋、新宿、渋谷、横浜、鎌倉、函館、札幌、長崎、京都、金沢、松江

【管理コミュ】:「国旗国歌法の改正を!」
⇒http://mixi.jp/view_community.pl?id=5955999

Twitter
⇒https://twitter.com/#!/syuya_yui

ココログ
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靖国神社会報『靖国』より「拝観者の声」

靖国神社会報『靖国』(平成25年7月号)より、「拝観者の声」の一部を紹介します。

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上京するたびに、参拝と拝観させていただいています。
小学・中学のころは、「戦前、日本は、自国の利益のために亜細亜各国に侵略し人々を苦しめた」と、一方的な歴史観を事実だと思い、戦争を起こした責任は、すべて軍と政府にあると考えていました。
また、それゆえ、靖国神社には、あまり良い印象をもつことができませんでした。

しかし、海軍少尉の兄を亡くした祖母から、「兄は国を守るため、私たちを守るため、戦地へ行った」という話を聞き、今まで学校で教えられた歴史について、疑問をもったのです。
そして、高校の教師の勧めで、遊就館に来て、日本側からの歴史の視点に立つことで、客観的に第二次大戦をみることができました。また、当時の人々の思いも、知ることができました。

太平洋戦争も、最近の高校の教科書では、「アジア太平洋戦争」という表記に変わり始めています。しかし、戦前の日本の行動は、否認・否定されつづけています。
もっと日本人が、当時の人々の思いを理解し、公平な視点から、歴史や戦争をみることができるようになればよいと思います。
靖国神社や遊就館に来て、それがわかってよかったです。

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数年ぶりに、遊就館に来ることができました。
今月で4回目ですが、何回来ても涙が出てしまいます。

私は今年で三十五歳になりますが、自分より若い者が、しっかりとした文字と文章で書いてある手紙や遺書には、心をうたれます。
今の私も含め、若者たちにあのような文章が書けるでしょうか。勉強をいくらしたところで、書けるわけではないと思います。

妻や子供のことを思い、一方で、目の前にある死という恐怖のなかで、私がその場にいても、書けないと思います。

小学校・中学校などで、このような文章を見る機会をすくり、学べることができればいいなと思います。

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