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2013年5月

2013年5月31日 (金)

体制批判イコール左翼とは限らない

一般通説として、歴史的な意味からも、国語的な意味からも、左翼と呼ばれる集団はラディカル思考であった。また、そうであるべきであった。

これは各国とも事情が同じで、保守伝統派に対し、革新的改革をめざす立場は、一様に左翼と呼ばれてきた。

日本の場合も御多分に漏れず、保守は自民党であり、革新は社会党と共産党であった。特に、戦後かた55年体制を経ることにより、この対立軸は鮮明となった。

高度経済成長から、石油ショック後の低経済成長にいたるまで、この傾向ははっきりと続いてきた。この長い間の対立構図により、保守=自民、革新=社会・共産という対立軸は、決定的に世間に浸透していた。

経済成長期には、政治から企業まで、この構図が浸透していた。保守与党対革新野党、使用者側対労働者側、といったぐあいだ。

しかし、その経済成長が国民の思考や価値観を変えた。自民は、その長期政権のうちに、汚職も噴出したが、層の厚い人材が養成されていったことも事実である。国民の要請に応え、野党のやるべきこともおこなった。次第に、野党の出る幕はなくなった。その間、紆余曲折があり、自民が信用を失った時期もあった。

国民はわがままである。自分の利益を代弁してくれる方に加担する。となれば、政権が動くということは、有権者が選ぶからという以上に、政権を選んだのは国民の側の責任によるといってもいい。

三年前、民主に一票を入れた有権者は、その後の失政に失望しただろう。皮肉にも、民主の三年が、汚職の記憶があろうとも、自民の意義を国民に再認識させた。そもそも汚職などというのは、どの政党が政権を担ってもありうるのだ。民主でも、追求されず頓挫しただけで、厳密にいえば汚職だらけであった。

政権を批判するのは、野党だけではない。政権批判は、与党側、すなわち、保守派のなかにあっても可能である。完璧な政権も政党も政治家もありえるはずないのであるから、同じ保守側にいて、保守政権を批判してもかまわないのだ。よりよい国家にするため、という大義名分のもと、批判するべきは批判してよい。

しかし、いま現在の政治状況からすれば、保守派は一致団結する必要がある。都民は都議選で、次いで、国民は参院選で、衆院選と同じかそれ以上の自民勝利を目指さなければならない。

この二つの大きな節目となる選挙を前に、再度、保守対革新の構図が現われるだろうか。

私は、現れない、と思う。

革新という言葉が死語になってしまったように、本来の左翼というのは死に絶えたも同然だ。歴史の推移が何よりの証左だ。社会党が社会民主連合となり、また社民党になっても、国民からの支持は大きくなかった。

何回も書いたように、従来の意味で言う左翼なる集団は、日本には既に存在していない。社民も共産も、その議席の数が物語っている。数年先はわからないとしても、また、民主政権が誕生したときのように、国民が思いっきりハンドルを、今度は右に切ったからにしても、しばらくは安定した保守政権が維持されるだろう。

このへんの事情は、私のような一介の人間でさえ思うところなのだから、政府はもちろん考えが及んでいるところであり、国民がただ右に切ったハンドルだったかもしれないとしても、そこに価値があるということを実際的に見せていくのであれば、国民としても、保守政権を選んだ責任を妥当なものとして、政治家といっしょに背負っていく覚悟ができるはずだ。

時計の文字盤にたとえるなら、1時の方向でなされた政策を7時の方から批判するのはたやすい。そして今度は、7時の方向でなされた政策を、1時の方から批判する。こうした批判は愚の骨頂で、ツイッターなどで、民主党が高校生にさえバカにされるのは、こうした戦術の幼稚さに対してである。

高校生でも見抜く愚かさを、大のおとなが気付かぬわけがない。民主は社民とともに、墓穴に向かって進んでいる。

いろいろとかまびすしい出来事が多々あるにせよ、大勢に影響を及ぼすような動きはほとんどないと見る。
たしかに、選挙というものは蓋を開けてみないとわからない。担がれて出てきた愚かな反原発候補が、落選したとはいえ数万票も得票するのが、残念ながら、いまの日本の現状だ。

それでも、保守愛国の人々の日夜の情報拡散や、保守系統のサイトの活躍により、今や、反原発=在日朝鮮人=放校学生…といった図式が周知されつつある。山口県の参院補選の結果、反原発が、仮に真剣な議論であるにしても、それだけをもって選挙の最大の争点とはならず、有権者がそこだけを見て投票したわけではない、ということも明らかとなった。

本当に少しずつであるが、日本を取り戻す、というスローガンにより、国民が、自ら日本人であることを再認識し、日本という国を誇りに思うという心意気を、改めて自覚しはじめたようだ。

この心意気に目覚めたなら、日本民族は強い。眠れる獅子とはかつて清のことを指したが、いまの日本国内にあっては、保守愛国派の人々の各層での活動により、どっちつかずの人間が目覚めつつあるたとえにしてもよいくらいだ。

政権批判は、同じ保守側にあってもいいと言った。俗に言うサヨクなる集団が、犬の遠吠えを上げるだけに成り下がり、ノイズを撒き散らすことしかできなくなり、ノイズが出せなくなれば爆弾でもしかけようとするだろうことまで予想できるようになった。

問題は、同じ保守側にあって、「いま」政権を批判するような動きが出てくることだ。公明との分裂は望ましいが、自民のなかで政権に異を唱える者が多数出てくれば、ただでさえネタの切れた野党には、政権批判の格好の材料を与えることになる。

権力側を批判するのは、左翼の任務といってもいい。がしかし、いまの日本に左翼なるものは存在しない。民主のプランは、ほとんどが空虚なものであった。現実的な政策やプランもなく、ただかまびすしくしていても、一部地域や一部ファンが追従するだけで、大勢に影響はないだろう。
反日新聞や反日放送局が、虚偽や捏造、誤解されうる記事を垂れ流していることも、ある程度周知されてきた。

次期参院選で、自民が公明を尻目にするほどの勝利を収めるためには、保守内部から、サヨクや野党を喜ばせる材料を提供しないように、思想・政策・見解を、同じ方向に収斂させておくことが肝要だ。

2013年5月29日 (水)

映画『スピード』

監督:ヤン・デ・ボン、脚本:グレアム・ヨスト、音楽:マーク・マンシーナ、主演:キアヌ・リーヴス、デニス・ホッパー、サンドラ・ブロック、1994年、115分、原題:SPEED

映画ファンのみならず、広く人口に膾炙した映画だ。
身代金を奪うために路線バスに爆弾をしかけた犯人と、そのバスに乗り込んだスワット警官との対決を、スリリングに描いたノンストップアクション映画だ。

俗に、アメリカ映画には、カーチェイス・爆発・セックスという3つの定番シーンがある。人目を引くのに欠かせないシーンである。
この映画にはセックスシーンはないが、チューのシーンはラストに用意されている。
危機的状態で知り合った男女の仲は長続きしない、などと唐突なセリフが出てくるのも、ラストに向けての伏線である。

高尚なテーマがあるわけでもないかわりに、万人に共通のシンプルな要素に徹して、ここまで徹底的にアクションにこだわると、かえってその特化のしかたに感嘆する。
次々にハラハラする要素を連続させ、手に汗握るシーンをイヤミなく連続させ、興行的にも大成功した。

アクションは、他の映画より、さらに捨てるフィルムが多い。カネをかけて長回しで撮っても、編集の際にには、そのほんの一部のカットだけが使われ、それをつないで出来上がるのだ。
特に、モノが主役の映画ではなおさらだ。同じ型のバスも10数台用意されたと聞く。

ストーリーは単純であるが、メインの舞台がバスというのも変わっている。列車や飛行機の乗っ取りはよく使われるが、バスというのはあまりない。
この映画は、かつてレビューした日本の『新幹線大爆破』をモチーフにしたとされている。一定の時速以上を維持しないと爆破するというアイデアは、それまでの爆弾脅迫映画にはなかった逆転の発想だ。
出来てしまえば、どちらもそれなりの国柄が現われているところが興味深い。

本題に入る前、エレベーターでの騒ぎがあり、そのステップがあるために、バスの一連のシーンが締まってくる。終わりには地下鉄の暴走まであり、最初から最後まで、サービス精神旺盛な映画だ。

ヤン・デ・ボンは『氷の微笑』でも撮影監督をしている。カーチェイスのシーンは、あそこだけ見てもかなりきわどい撮影だ。これまでのこうした経験が、カメラにフルに生かされている。

突っ込みどころもないわけではない。
身代金をゴミ箱から奪う寸前、救急車から降りたアニー(サンドラ・ブロック)がハワード(デニス・ホッパー)に騙されて連れて行かれるなど、ストーリーつなぎとしか思えない。第一、ジャック(キアヌ・リーヴス)とアニーという二人のケガ人を載せた救急車が、なぜそのまま身代金受け渡し現場にいなければならないのか、ジャックはともかくもアニーは病院へ急行されるのではないのか…

しかし、それを感じさせるヒマもないほど、緊迫した展開で、ラストまで運んでくれるのだ。

これだけの事件を起こしたサイコ野郎には、それにふさわしい死がなければならない。そこが中途半端であれば、映画のなかでのバランスを欠く。
案の定、このイカれた犯人には、ストーリーにふさわし死に方が用意されていた。

こういう映画を観ると、モノを使ったアクションは、アメリカ映画にかなわないと再認識させられる。カネもかかっているし、見たこともないような車輌も登場する。映画のエンタメ性は余りあるほどだ。

それでも、あえて比較するなら、『新幹線大爆破』のほうに軍配を上げたい。
『スピード』に人間性の表現などを要求するのは無理というものだが、邦画はアクションといえども、そこに人間そのものや、のっぴきならない人間の関係というものまで必ず描かれる。時として、社会的背景まで盛り込まれることも多い。

邦画には、派手さはなくても、どこかに美意識を見るのだ。そこが、野蛮で利己的な爆弾の国と、忍ぶことを知る誇り高き刀の国との違いなのだろう。

牛鮭定食

月島と違い、今度の職場である御茶ノ水は、楽器屋をはじめ、明治大学や駿台予備校、大学付属病院、などが集中していて、若者はもちろん、いろいろな人種を見かけることができる。坂を下ると、連合会館まである。

何より助かるのは、食い物屋がたくさんあるということだ。マックとサブウェイ以外のファストフード、蕎麦屋、プロントのスパゲティなど、この半月でいろいろ知った。ただ、ラーメンだけは避けている。

この仕事は、休憩が午後3時か4時なのだが、午後2時から5時までは休む、などという店は、当然ながら、ない。ちょうど空いている時間帯に当たるのでよかった。

喫茶店は、よいところを見つけた。少し歩けばドトールもあるのだが、駅の近くに、昔風の喫茶店を見つけた。穂高という名前のその店は、昔ながらの木を活かしたつくりで落ち着く。ご主人が山が好きだったのだろう、穂高岳の写真やランプなども飾ってある。小さい店だが、お気に入りになった。

最近は、吉野家か蕎麦屋で食べてから、穂高かドトールに移動している。
吉野家はずいぶんと御世話になったが、ここ数年は入ってなかった。もともと嫌いではない。というより、腹ペコのときはうまいと思う。先日、六義園に入る前も、駒込駅近くの吉野家に寄った。

昔から吉野家では、よく牛鮭定食を食べる。量的にもちょうどいい。たまに、それにサラダが付いたものも食べる。店内に清潔感が感じられ、店員の動きや声がきびきびしていてよい。

牛鮭定食は、盆に載って出てくる。左手前にご飯茶碗、その右におみおつけ、その右にお新香、左向こうに鮭、その右に牛皿と並ぶ。
小さいことだが、大きな老舗でなくても、こうした並びを厳然と守っているところも好感をもつ一因だ。

これはほとんどあたりまえのことであるが、そのいろいろなあたりまえのことが危うい状況になりつつある現在の日本では、言ってみれば、こうした伝統様式を守り抜くというのは大事なことだ。

単価が安くても、チェーン店であっても、小さな盆に食器を並べるとき、これをパターンとして徹底させる店の方針には好感をもつ。

今では、こうした牛丼屋も増えてきたが、やはり吉野家は昔から知っているだけに、なじみがある。

こんな自分にも、かつて、カネに困ったときがあった。自炊は好きだが、冷蔵庫が空っぽのときは、最寄りの吉野家に通っていた。辛くても、開き直って生きていた。そんなとき吉野家を思い出した。

初めは正直、吉野家か、と蔑視した気持ちがあったが、それでも、何度となく行くうちに、感謝する気持ちが生まれてきた。その当時も、触ると開くドアであった。

どん底生活のとき、牛丼並盛に救われた。紅ショウガをいっぱい乗っけた。時として、それが何日か続いた。みじめだと思ったが、食うものがないよりはいい。そういうなかでも奨学金は返していた。

それよりだいぶ前、都営新宿線馬喰横山に勤務していたとき、その近くにあった店はどうしようもなかった。入ると客がいないのだが、そういうとき、店員は客席でスポーツ新聞を広げて読んでいた。いらっしゃいませ、の声もなかった。
こうしたヤル気のなさは、少しずつ改善されていったのだろう。

吉野家にもいろいろな危機はあったが、客が離れなかったのは、空腹のときの牛皿のおいしさと、値段の安さがあったからだろう。
サラリーマンだけでなく、手元が不如意のときに、吉野家に救われた客が多く、そのときの感謝の気持ちもあって、また入ってみたくなるのかもしれない。それが吉野家存続のカギなのだろう。

批判はいくらでもある。
安い肉を払い下げてきているのだろう、肉は冷凍で運んでくるのだろう、など。
それでもいいのだ。

触ると開くドアから、碗の並べ方まで、以前と変わらない吉野家には愛着がある。その並べ方も、日本の伝統に従っている。店のカラーにも大きな変化がない。

二度と入るものかと思った吉野家であったが、後々こうした縁ができるとは不思議である。
吉野家も存続し、自分も生存しつづけたから、ありえたことだ。
そのうち、吉野家にメールでも送ってみよう。

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2013年5月28日 (火)

映画『家族ゲーム』

監督・脚本:森田芳光、原作:本間洋平、主演:松田優作、宮川一朗太、伊丹十三、由紀さおり、辻田順一、1983年、106分。配給:ATG、製作:ATG、にっかつ撮影所など。

沼田茂之(宮川一朗太)は、父(伊丹十三)、母(由紀さおり)、兄・慎一(辻田順一)との四人家族で、港の淵にある高層団地に住んでいる中学三年生。高校受験に向けて成績が上がらず、父は家庭教師を頼むことにする。

沼田家に来たのは、三流大学に七年在籍している吉本(松田優作)という男であった。……

森田芳光を有名にした映画であり、伊丹十三がまだ俳優として活躍している。
ATG作品らしいこじんまりとしたつくりとなっているはいる。家族の家はいかにも団地にあるような広さと間取りであり、その大きさがそのままストーリーのサイズとして、功を奏している。

この映画の特徴は、ブラックユーモアなど滑稽なセリフややりとりのおもしろさ・おかしさ・支離滅裂さで、さらには、家族四人が横に並んで食べる長い食卓、ボートに乗って沼田家に来る吉本など、設定もおかしい。

まさにその長いテーブルで、最後には吉本を加え、五人がジュウシマツのように犇(ひしめ)いて食事をとるようすもおかしい。ここは長回しワンシーンで、最後にはカオス状態になってしまう。

当時、ウォシュレットが新製品となったころで、そのCMに出ていた戸川純が、トイレットペーパーをかかえて由紀さおりと挨拶するあたりもおかしい。

受験に向け、茂之の成績は徐々に上がり、みごとに難関校に受かるが、学校でのクラスメイトとのやりとりやいじめ、兄・慎一のエピソードなどにも話が及ぶ。そこを、あまりネチネチ言葉で語らせず、カットをつないでわからせるというのも斬新であった。

森田は自身の映画づくりのスタンスについて、何を描いたのかではなく、どう描いたかが大事だ、と言っているように、受験生をもつ家庭の日常を、その日常からわずかに脱線させてストーリーやシーンを組み合わせ、話や映像、演出が、微妙なバランスをとりながら成り立った作品である。

日本映画には喜劇の歴史もある。その喜劇性は、とっくに消え去ってしまった。笑いが堂々とした明朗なものから、斜(はす)に構えた陰険なものにまで、広がりをもったからだろう。

笑いをテーマとする映画制作に取り組む人々がいることは頼もしいのだが、単純明快にして滑稽な趣をもった作品には、なかなか出会わない。

そういう意味では、この映画や伊丹十三がこの後つくる『お葬式』『マルサの女』などは、一定の評価を受けたが、その後これらに続く作品群はないようだ。

仮に類似の作品があったとしても、観ていて少しも、おもしろくもおかしくもないのである。

映画監督が若くなるにつれ、妙に優等生だったりサラリーマンだったりで、おかしみ・滑稽さ・ユーモアといったものにまで追い付けていないのかもしれない。もちろんそれは、サスペンスなどを作るより、はるかに難題だ。

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2013年5月23日 (木)

映画『県警対組織暴力』

監督:深作欣二、脚本:笠原和夫、音楽:津島利章、主演: 菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫、1975年、100分。

久しぶりに、楽しい映画に出くわした。これが映画ってもんだ!
東映の仁義なき戦いシリーズの延長線に出来た作品。

とにかく、テンポよく、ストーリー展開よく、セリフよく、演技よく、アクションよく、観始めてからラストまで、ぐいぐい引っ張られる。

関西の某所にある倉島市という架空の街が舞台。倉敷市だろうか。
刑事と暴力団と市議会議員などが、みな持ちつ持たれつの関係にあるところへ、かつて仲間割れしたグループ同士の抗争が起きる、という話。

菅原文太が刑事、松方弘樹が組長、梅宮辰夫は後半からの登場だが、本部から来たエリート刑事と、キャスティングがすでにありえない。

本当にあったならとんでもないことであるのに、映画ではストーリーとしてエンタテイメントになってしまう。その脚本がすばらしい。
初め、いろいろ人物が登場するが、混乱はない。

カメラもよい。深作の円熟の境地とでもいうべきか。カット、切り返し、編集、シーンの転換など、そのときそのときのシチュエーションと画面やカメラの動きが、ピタッと一致している。

単に任侠ものではなく、この刑事と組長には、過去に、二人しか知らない秘密がある。この映画では、警察も暴力団みたいなもんだ。アクションがタイムリーに入るのだが、そのタイミングがまたいい。

この三人だけが目立つのではなく、刑事の仲間、組長の手下などに、おyく知られる顔の俳優が配置され、それぞれが堂々たる演技を披露している。
金子信雄、山城新伍、成田三樹夫、佐野浅夫、汐路章、藤岡重慶、鈴木瑞穂、遠藤太津朗、室田日出男、成瀬正孝、田中邦衛、川谷拓三、野口貴史、小松方正、安部徹、女優では池玲子、弓恵子、中原早苗など、わかる人にはわかる懐かしい顔ぶれだ。
 
その後、ほとんど主役など張ってないが、成田三樹夫、成瀬正孝、川谷拓三、室田日出男は、それぞれきちっとしたシーンが用意されていて、俳優冥利に尽きるだろうなと思う。田中邦衛はわずかな出演だが、気色悪いヤクザの役で、思わず笑ってしまう。

そう、いい映画というのは、シリアスなものでも任侠ものでも、どこかにクスッと笑ってしまうところがあるものだ。だから楽しい。

こういう映画はもうできないだろう。
検索すると、いまこの映画は高知県のある映画館で上映しているようだ。
こういう楽しい映画が、日本中を回って、スクリーンで見られるというのはすばらしいことだ。

刑事の仲間に、いつも同じことを言う老刑事がいる。暴力団なんかまだかわいいもんだ、アカをやっつけるほうが先だ、といったセリフだ。
こういうセリフが平然と入っている。

文太がエリートづらした梅宮に言うセリフもいい。戦後まもなく、ヤミの食い物をあんたも食っただろう、そのあんたがきれいごと言えるんか、といったセリフだ。

関西弁、しかも、巻き舌で吐き出されるセリフは、ドスが効いていてヤクザ映画にはぴったりだ。歌舞伎町を舞台とする映画などを観たことがあるが、セリフ回しやカットの切り返しなど、関西舞台の映画には遠く及ばない。

それにしても、役者の演技がなければ成功しないジャンルだ。映画の楽しさを自ずと知らせてくれる映画だ。楽しい映画というのは、常にフレームのなかが溢れんばかりに充実している。

きのうつぶやいたつまらない映画『まだ、人間』の28歳の監督など、こういう映画を観ているのだろうか。言葉だけのやりとりばかりで、カメラもほとんど動かず、それで2時間越えはないだろう。
言葉のやりとりは小説でやることなんだよ。

たしかにテーマは全く別物だ。しかし観念だけで撮られた映画は、だいたいつまらない。よく49分まで観たと思う。他人はどうか見てみたら、やはりみなさん星ひとつだったよ。

それにしても、室田日出男、古尾谷雅人の『人妻集団暴行致死事件』(田中登監督、1978年、96分)だけが、いまだDVD化されていない。昨今、リクエストがあるせいか、かつてのロマンポルノなどが相当復刻版で出ている。新宿紀伊国屋にもたくさん並べられている。
タイトルはどぎついが、映画として秀作だ。何しろ、ポルノ系でキネマ旬報第9位とベストテン入りした作品なのだ。日本アカデミー賞優秀監督賞も受賞している。

ここ数年で、かつて観た映画のうち、まさかと思うようなこのまで復刻しているのは、本当にうれしい。もう出ないだろうな、と思っていた作品が、DVDで出るのは本当にうれしい。
『私は殺される』『マドモアゼル』『ディーバ』・・・

あと出ていないのが、この『人妻集団暴行致死事件』と『ラ・パロマ』という映画だけになった。

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2013年5月20日 (月)

映画『エクスペンダブルズ 2』

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監督:サイモン・ウェスト、脚本:リチャード・ウェンク、シルヴェスター・スタローン、音楽:ブライアン・タイラー、出演:シルヴェスター・スタローン、ジェイソン・ステイサム、ジェット・リー、ドルフ・ラングレン、チャック・ノリス、テリー・クルーズ、ランディ・クートゥア、リアム・ヘムズワース、ジャン=クロード・ヴァン・ダム、ブルース・ウィリス、アーノルド・シュワルツェネッガー、2012年、102分、原題:THE EXPENDABLES(消耗品)

監督は『メカニック』でジェイソン・ステイサムと組んだサイモン・ウェスト。

アルバニアの鉱脈の地下に眠る、膨大な量のプルトニウムの埋蔵場所のデータを積んだ飛行機が墜落した。そのデータは機内の金庫にあり、それを奪い返すことがエクスペンダブルズに依頼された。

ようやくデータを手に入れたところへ、武装ギャング「サング」の親玉ヴィラン(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)一味が現われ、見張りに出ていたビリーを人質に、それを渡すよう迫る。しぶしぶ手渡したが、結局ビリーは殺されてしまう。

プルトニウム奪還と、ビリー殺害の復讐もあり、メンバーはヴィランたちのいる街に向かう。……

前作とほとんど同じ長さで、ムダなく、メリハリをもった作りとなった。

データを手に入れる前に、いわば序盤戦として、中国奥地に捕えられたトレンチ(アーノルド・シュワルツェネッガー)救出がある。
ファーストシーンからいきなり派手なアクションが繰り広げらる。冒頭から戦車を爆走させながら撃ちまくるシーンなど圧巻つづきだ。前作を意識して、いきなりのサービスときたもんだ。
本題に入る前に、戦車、水上艇、ボートなど総出で、アクションも出尽くしてしまうのではないかと思うほどだ。

前作と違うのは、墜落した飛行機の場所を案内するために、マギーという暗号解読のプロである中国女が入ったことだ。終盤ではアクションもこなしている。

プルトニウムの採掘現場など、どうやって見つけたかと思うようなロケ現場であり、巨大な河川を行く彼らの水上艇のシーンなど、今まで見たこともないような映像で楽しませてくれる。

終盤で、バーニー(シルヴェスター・スタローン)とヴィランがタイマンを張るところがある。ヴィランが弾を撃ち尽くすと、男同士の戦いだ、リスペクトされる男になるにはおまえも素手で勝負しろ、と言い、バーニーも身に付けた武器を全部捨て、素手で殴り合う。

こういう場を作り出すことも含め、ストーリー運びだけではない脚本の円熟味を感じる。

アクションのハウ・トゥはもちろん、アクションシーンのカットや編集はキレがよく、今回は、仲間の一人が殺され、その埋葬シーンまで入れるという運びながら、ラストに向けてブレず、ビシッと決まった出来となった。

アクションだけでなく、その雰囲気を壊さぬ程度に、シンプルなストーリーが出来上がっていて、安心して楽しむことができる。
信頼する仲間だからこそ通じるジョークや皮肉も聞かれるところもよい。

中国女だからというわけでもないが、この紅一点はいらなかったなあ。女がらみは、パリにいる恋人を思うビリーの話だけで充分だった。

何しろ最初から最後まで、さまざまな武器が出てくるのだが、専門でないとわからない。武器に詳しい人には、もっと楽しめるに違いない。

これはやはり、スクリーンで観る映画だ。

2013年5月19日 (日)

映画『悪の教典』

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監督・脚本:三池崇史、原作:貴志祐介、撮影:北 信康、音楽:遠藤浩二、主演:伊藤英明、二階堂ふみ、染谷将太、2012年、129分

蓮実聖司(伊藤英明)は、ある高校で英語を教えている模範的教師。生徒からの信望も厚く、職員会議でも他の教師をリードするような存在だ。

娘がイジメにあっていると言って乗り込んできた父親との対応にも冷静であった。その生徒の家は、庭の周囲に水で満たされたペットボトルがズラリと並んでいた。
ある日その家が火事になり、父親は死んでしまう。……

最近観た学校ものは『桐島、部活やめるってよ』だったが、それとは全く別な味つけの映画で、いわゆる三池ワールドの祭典といったところだ。
ただ、三池作品としても、よくない方に転んだ作品だろう。

後半は、過去にトラウマのある蓮実が、猟銃で片っぱしから自分のクラスの生徒を殺しまくるシーンが中心で、15禁であるのは納得だ。

三池は常に、エンタメ性ということを忘れないから、ところどころにおもしろおかしいシーンも多く、くすっと笑ってしまうところは多い。

『海猿』シリーズの伊藤英明が全く違う役どころを演じ、その表情や立ち回りもいいのだが、ストーリー上での各登場人物や各状況が、因果関係ではかろうじて結ばれていても、映画の内容として有機的に絡んでいないので、後半に向かい、蓮実の残虐性が高揚していっても、観ているこちらはほとんど高揚しない。
映像上のカラフルさや派手さはあっても、ストーリーに、進行させていく牽引力がないので、かなり興ざめである。

数学の問題にたとえるなら、一つの文章題を、基礎的公式から経験上の解法まで、さまざまなアイデアを使って解いていくような楽しみかたができない。
数字だけを変えた平易な例題を次から次へと解いていくような、平板で刹那的な楽しみしかない。
この点、エンタメ性というものを取り違えているようだ。あるいは、15禁でありながら、客層のターゲットを10代に絞り込んだような稚拙な展開である。

いろいろなエピソードが散りばめられているのは楽しいが、蓮実が幼少期より引きずってきているものと、いま現在との因果が説明されていないため、映像で凝っていても、ただただ軽薄なのである。

蓮実の心中は、冒頭より多少暗示されるが、そのへんが曖昧なため、多くの生徒や教師たちの登場人物の中にあって、いろいろな出来事を蓮実がどうとらえているかが明らかにならない。
タイトルにある悪の教典らしきものが出てくるには出てくるが、上っ面を撫でるような出し方である。

この蓮実の深層心理こそこの映画のテーマの底流であろうに、そこをあまり丁寧に描いていないので、物語としての牽引力が希薄となり、単に暴力シーンの連続だけに終わってしまっている。

後半のライフルシーンにもっていくための前半の置き方が弱かった。ただし、前半そのものは展開としてよかった。常にゆるやかな横移動のカメラも、この映画のテーマに沿っていて好感をもてるし、二羽のカラスのメタファーも、ファーストシーンから効いている。

三池お得意のカオス的世界・虚構の世界の描写も、さすがにこの学校ものにはほとんどマッチしておらず、『桐島…』のように、設定が高校でなければならない理由が見えない。

自分の生徒を撃ち殺すという内容はよろしくない、というのはハネケの『ファニーゲーム』がよろしくない、というのと同じである。
映画というのは、とりあえず何でもありだ。

とはいえ、単にサディスティックでスカッとする映像を撮りたいというのが彼のエンタメ性だったとしても、なお、ストーリーの脆弱さと牽引力のなさは指摘されてもしかたないだろう。

それこそ、高校生あたりが作った投稿YouTubeを観ているようで、美術や編集にカネをかけただけの甲斐がない平板な仕上がりとなった。

興行収入は伸びたようだが、つまらない作品であった。

映画『渋谷』

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監督:西谷真一、原作:藤原新也、脚本:市川豊、音楽:谷口尚久、主演:綾野剛、佐津川愛美、2009年、78分。

水澤(綾野剛)は、渋谷に棲み、カルチャー誌の売れないカメラマン。渋谷の街中にいる女の子の写真を撮り、それを元に記事を書くことになっていた。

応募してきた履歴書に、履歴欄など空欄で、写真を貼るところにイラストの貼ってあるものがあった。よく見ると、下のほうに「わたしを、さがして」とある。

一方、街に出ると、駅前交差点付近で、母親らしき女性とケンカをしている女の子に出くわす。二人が去ったあと、そこに落ちていたペンダントを拾った水澤は、女の子を追うと、ある風俗店に入っていった。

このユリカという子をテーマにしようと、水澤は店内に入り、この子を指名して、へやに入った。……

低予算であり、時間は短いが、長く感じられる作品。冗長であるからでなく、わりと内容が濃いので、そう感じるのだろう。

あらすじを書くと上のような感じであり、このような作品は辟易するほどあるのだが、作品ごとの味つけやアプローチに真摯なものがあれば、それはいい映画たりうると思う。

話だけをするにしても、いま会ったばかりの男に、風俗嬢がいきなり深まった話をするわけでもなく、水澤は半ば愛想を尽かされて帰ることになる。

帰って事情を話すと、編集長(石田えり)に注意・激励されて、またすぐに、同じ店に戻り、ユリカを指名する。初めはぎこちなかったが、水澤がいろいろ話の水を向けると、ユリカは問わず語りに、自分の過去や、ここにくるまでの気持ちの移り変わりを話してくれた。
水澤も、初めは仕事のつもりであっただ、話すうちに徐々に、自分の生い立ちのことなどを話すようになる。

二度目の出会いはシチュエーションがシチュエーションなだけに、二人の会話のシーンが、長回しも含め大変長い。が、これはやむを得ないものがあり、カットや編集が多くなると、シーンとしての緊迫感や臨場感がなくなる。

ラストは突然やってきて、別れ際は何とも空しい雰囲気となるが、こんな出会いだったがゆえに、こんな別れになるというもので、合点はいく。二人は別に恋愛をしたわけでもなく、風俗の店内でセックスしたわけでもない。

ユリカを演じた佐津川愛美の演技力がすばらしい。彼女の名前『宮城野』という作品で知った。取り立ててかわいいというわけでもないが、いかにも庶民的で親しみやすい。こういう内容には向いている。

内容柄、勢い、アップと長回しが多くなるのだが、涙を流しながら心の葛藤を話していくシーンはみごとだ。

綾野剛は、優しさジトジトのこういうフニャけたキャラは、いつもお似合いだが、彼なりにしっかり演じている。

風俗店の受付は、前年に『蛇にピアス』に出たARATA、セリフはないが、ユリカの母には、相変わらずブスな松田美由紀、歩道橋で声をかけてきて、ちょっとしたエピソードを生むアクセントシーンに大島優子が出ている。斎藤工は何のために出てきたのかわからない。

タイトルは『渋谷』と大きく出たが、たしかに渋谷の一面は押し出されている。渋谷だけの雑踏や夜景のカットが挿入され、それに対して、風俗店の狭い個室やシャワールームでの切実でつぶやくような対話は、次元として好対照でありながら、それもまた渋谷という街の片隅での出来事であり、「渋谷という現実」なのである。

2013年5月17日 (金)

奨学金の趣旨を取り違える奨学生

奨学金の未返還者が増え続ける理由とは? | 週プレNews http://wpb.shueisha.co.jp/2013/05/16/19108/ … @shupure_newsさんから

相変わらず、こういう甘え発信が横行している。
奨学金貸与ということの趣旨を取り違えて、借りてしまえばいい気になって、返すときのことを考えていない。つまり、本来の趣旨を考えず、安直に借りるから、後々こういうことになるのだろう。

貸すときの審査が甘いという指摘もあるが、申請時には、相当程度の書類、たとえば、戸籍抄本、親の年間収入証明、研究テーマを要約した小論文、院なら指導教授の確認書、誠実に研究に取り組むことを約束する誓約書など、かなりのものを用意しなければならない。それだけの覚悟で借りてくださいよ、ということである。

審査時にはそれ以上のことはできないくらいの書類提出があり、期間も一週間であった。貸す側に手落ちがあるとは言えないだろう。

免除や猶予という制度もある。本来は、研究職や教員など、免除職につけば、返還はしなくてもよくなるようになっているのだ。
それを、どんな誘惑があったか知れないが、一般の企業務めに就くから、こういう事態になる。

一般の学部学生への貸与は、家計の苦しい学生に貸し出すのであるが、では、誓約したように、誠実に勉強しているのかどうか。できるものなら成績表を公開していただきたいところだ。

記事の下に男子学生の発言もあるが、大学院にいれば、そこにいながらにして、そんなことは承知できるはずだ。となれば、それでも自らの研究を続けながら、中学の先生になるなどして、いつかは研究職につこうと努力すればいいし、中学の教員が楽しくなれば、それを続行していけば、返済はなくなるのだ。

奨学金のこうしたシステムを紹介しないから、一般の人はすぐ、同情ファシストとなり、こうした雑誌が書き立て、サヨクが利用するということになる。

まるで、そこだけを取り上げて批判する死刑制度反対論にそっくりだ。

後々、返済に苦しまなければならないと予想するなら、一般のアルバイトをすればいいのだ。
アルバイトして、社会勉強も同時にしていこうというくらいの気概があってもいいではないか。

まあ、それにしても、毎日毎日、腹の立つことが多いことよ!

以下、ガタガタ言っている連中に、読ませたいよ。
自分のケツは自分で拭きたまえ!

「借りたものは返してから言え」(既出ですが全文転載▽▽▽~△△△)
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-582e.html

   ▽▽▽

奨学金制度のブラックリスト 厳しい取り立ても〈AERA〉
dot. 12月7日(金)7時10分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121207-00000000-sasahi-soci
(以下全文転載▼~▲)
   
   ▼
 学生生活を支えるはずの奨学金に苦しんでいる人たちが増えている。大学卒業後も正規雇用に簡単に就けない中、厳しい回収が始まる。

 この不況下、卒業しても奨学金を簡単に返済できない人もいる。大卒でも非正規雇用が珍しくないという状況。11年度だと、滞納者は約33万人、滞納額は876億円。数字の上では、滞納者は全体の11%弱に過ぎないが、無理して返済している人も少なからずいるだろう。

 もちろん、救済策は用意されている。例えば、最長5年までの返還猶予。昨年からは、返還年数を最大で30年まで延ばし、回当たりの返済額を減らす「減額返還制度」も始まった。12度以降の利用者には、1種に限り、年収によって返還を猶予される「所得連動返還」制度も新設された。障害などによる就労不能者には返還免除も用意されている。

 問題なのは、それが機能しているとは言い難いことだ。奨学金ホットラインを設けた首都圏なかまユニオン相談員の伴幸生(ばん さちお)さんは説明する。

「例えば、返還猶予制度は当初、機構のホームページにも載っていなかった。細かい字がぎっしりの内規の文書に載っていたのを07年に私たちが見つけて仲間とともに機構に訴え、やっとネットで周知されるようになったのです」

 猶予にも問題はある。5年を超えての適用がされないことだ。それを補うために、機構は昨年、減額返還制度を設立したが、延滞金のある人は利用できないのである。

 もう一つの問題点は、厳しい回収制度にある。

「特に、10年度から始まったブラックリスト登録はひどい」

 こう訴えるのは、支援機構労働組合の岡村稔・書記次長だ。

「まず3カ月連続の滞納で、返還者は民間金融機関などが多重債務者対策などに用いる個人信用情報機関に登録されます。これでクレジットカードが持ちにくくなる。滞納3カ月から8カ月目までは回収業務が民間サービサーに委託され、滞納が9カ月続くと、機構が一括払いを求める『支払督促』を送付し、それでも応じない場合は給与の差し押さえや提訴が実施されます」(岡村さん)

※AERA 2012年12月10日号
   ▲

単純に言えば、甘ったれてんじゃねえ!ってことだ。
借りたものは返さなくちゃね。

自分もかつて院生時代に、奨学金のお世話になったことがある。当時で毎月65000円が貸与される。支給の基準を満たしていなければならず、申請期間が短いうえに、申請時に、いろいろな書類をそろえなければならない。
返す必要のない奨学金をもらったこともある。これは額は多くないが、審査は厳しくなる。

支給の基準のうち基本的なものは、その実家の年間収入で、その収入証明が必要だ。
それとともに、どういったテーマで研究をしていくのかを、原稿用紙20枚に書いて提出しなければならないが、それはみな得意としているところなので問題ない。あとはそれまでの成績や健康状態で決められるようだ。

その年度では、同じ研究科では自分ひとりしかもらえなかった。大学が大きいせいか、各研究科ひとりずつだと聞いたことがある。平等に配分していたのだろう。
院生が終わると、学部の学生への貸与となる。

申請が認められると12ヶ月分は貸与されることになる。領収証の提出など何に使ったのかの報告義務はない。一年ごとの申請で、一年だけだったが、それでもトータル78万円になる。
当時から5年間の猶予期間はあった。免除職という職種に就けば、毎年、返済額が軽減され、15年で完済と同じ扱いになる。

免除職は研究者や特定の期間の職員、学校の教員などで、要するに専門的職業に就くことで、それ継続従事していれば、返済額は軽減されていく。自分は15年経つ前に、免除職でない一般の会社員になったが、返済額はほとんどわずかになっていたので、その後一括で返済した。もし15年かかって返そうとしても、月々4333円だ。
奨学金制度が、根本的におかしいとは思わない。

このように、本来、奨学金を貸与するというのは、将来、その専門性を活かす仕事に就くことを前提にしている。そのために、図書やコピー代に使うためとして貸与するのが趣旨だ。専門性が高くなればなるほど、専門書は一冊当たりが高価になり、洋書となるともっと高い。図書館にない書籍もたくさんある。学会で国内に移動する交通費もバカにならない。

学部学生も基本的に同じ趣旨である。家計にゆとりのない学生を対象に、その学部の勉強をしっかりやってもらうために、貸与するのだ。だから誰でもパスするわけではないし、そういう学生にはありがたい。

これをタテマエだけと履き違えて、審査にパスしたらそれでおしまいという邪(よこし)まな考えの学生もいるのだ。こういうヤカラは、奨学金を飲み食いに費やしてしまうものなのだ。

しかも、その後、免除職に該当しない民間企業を選り好みするから、余計にこういう問題も起きるのだろう。それでもまじめな学生は、当たりまえだが、猶予期間に関係なく、返済を始める。猶予期間をフルに使っても、6年目から返済を始めればよいのだ。

こういう条件の下に借りた奨学金を、だんだん返すのが億劫になって、結局返済できなくなり、返済を督促されたからといって、本来なら何もいえないはずだ。

ところが、最近は、返済できないと、何でも行政のせいにする風潮がある。
かつてYouTubeなどでも見たが、上の記事と同様な動画が何本かあって、返済できない窮状を嘆き、同情を買おうとする。私は大変なんですよ、みなさん、というわけだ。
見ていて、言いたくないが、では画面に映っている20インチはあろうかというテレビ、パソコン、きれいな服、そういったものを買うカネはあるのに、と思ってしまう。一部節約するだけで月々の返済くらいできるのだ。
こういうものを買うなとは言わないが、同時に少しずつでも返済も進めたら、そんな動画を作ってアップする必要もなかろうに。

小さい字で書いてあるかどうか知らないが、上の記事のようなことは、申請時の書類には全部書いてある。借りる前に読めるのだ。借りることになったときにも説明はある。
契約を交わした貸与金で、いつまでも返す意志が見られなければ、返済を迫るのは当然だろう。本人が無理なら、契約時に書かれた連帯保証人や保証人のところに督促が行ってもしかたがないだろう。5年間の猶予期間は、それで充分だと思う。アルバイトをすることもできるのだ。

返済できないと、すぐ、その制度がよくないと批判する。その制度によって、奨学金を借りられたんだろう。全部返してから、言いたいことを言ってほしい。

上の記事やYouTubeでは、やたらに行政が悪い、当局が悪いとする姿勢が目立つが、組合の元をたどれば、当然行き着くべきところに行き着くというのは想像に難(かた)くない。

返すべきものも返さないで、クレジットカードなんか作る資格はない。どうしても返済できなければ、自己破産するしかないだろう。

こういう甘ったれの陰で、きちんと毎月返済している人もいた。実際、9割がたの人はきちんと返済している。当然のことだが、けなげな姿だ。
また実際に免除職などにポストの空きがなく、待たされてしまうということもあるだろう。これにはある程度同情するが、ある段階で、見切りをつけて仕事を選ばなければ、滞納者になってしまうだろう。

しかし、そうでないケースについては同情できない。卑しい根性が見え隠れしていて、そういうへ理屈ややゴネ得やの発想は嫌いなのである。
彼らはよく言う、奨学金を返す必要のない国もあると。ここは日本だ。その日本で、その制度と約束ごとのもとに借りたのだから、これはへ理屈以外の何ものでもない。

やがてここから、市民運動なるものの一員になる者が必ず生まれてくる。こういう連中にかぎって、自分の怠っていることは棚上げして、自らの権利だけを主張する。

   △△△

2013年5月16日 (木)

愛国主義の原点から (mixi日記より転載)

水曜と日曜が休みの自分にとって、平日水曜の休みは格別だ。
日曜は日常的な雑事に追われる可能性があるので、水曜こそ本来の休みなのだ。

たぶん、ビール党の人が、帰ってから一気にビールを飲み干して、頭がキリッとなるように、この二日間は、帰ってから音楽を聴いて、すっきりさせていた。バッハの「G線上のアリア」やリストのピアノ曲「マゼッパ」「ラ・カンパネラ」、マーラーの「アダージェット」、ドビュッシーの「月の光」などなど、だいたいこういうときに自分の聴く曲は決まっている。

YouTubeからアップしようと思ったが、好きずきがあるので、日記にまですることもないと思った。

それでも、ツイッターは繰り返しツイート以外にも、多少ツイートしていた。これは、ツイッターが、左右両派の最も肝心な啓蒙ツールになっており、自分としてもわずかな活躍の場であると認識しているからだ。

ここ数日でも、いくつか注目したニュースがあった。
高市早苗さんの発言が波紋を呼んだということに対し、政府として事態収拾をはかったという。
彼女は何ら間違ったことは言っていないし、安倍総理も実のところ、同じ見解で、しかもそれを少し前に表明しているのだが、今はしばし待て、というところだろうか。

川口順子さんの委員長解任につづき、参議院では今年度予算案が否決されたということで、愚かな民主党やそれに付く金魚の糞のような野党は、してやったりと喜んでいるのだろうが、衆議院の優越により、さきほど午後10時過ぎ、予算案は成立した。

してやったりどころか、これらは全く逆効果で、この二つの件だけについても、まともな有権者は、野党によるみっともなく幼稚なあがき方に、さらに辟易し呆れ果て、やはり野党は決定的に意味がない、いや、存在じたいが害悪である、ととらえたであろう。
参院選に向け、表向きな形式だけでも、勝利を収めたかのようなジェスチャーが必要だったのだろうが、同じ手がまともになった有権者に、再度通用するはずがない。

むしろ、二件のこのような次元の低いことをしでかしたことで、より一層、まともな有権者は愛想を尽かしたのであり、皮肉にも、結果的には与党の側に追い風を起こしたといっていいだろう。

今日は、庭の湯でサウナと湯につかったあと、満洲ラーメンでいつものように、エビチャーハンと餃子セットをとり、その後、青山に出て山口二矢の墓参りをし、靖国神社に参拝してきた。

この時間の参拝は、たぶん初めてだったかもしれない、遊就館、靖国会館、お守り授与所、いずれも閉まっており、境内は閑散としていた。拝殿や社号標も逆光となり、うまく撮れなかった。近くの学校の生徒が、参道を通って下校を急いでいた。

今月は初めてであったが、遠隔地ならともかく、都内に住んでいながら、そんなことではまずいと反省した。
スーパードライを大当たりさせたアサヒビール元会長で、今は日本会議の委員など保守系団体で活躍する中條高徳(なかじょう たかのり)さんは、靖国の近くにお住まいとはいえ、毎朝6時の開門と同時に参拝されている。

都内のところどころに、すでに都議選に向けてのポスターも貼りだされている。豊島区なら、男の候補に小池百合子さんが応援しているといった構図だ。

6月23日の都議選は地方選挙ではあるが、参院選の前哨戦として、東京都の有権者がどちらを向いているかを判断する材料となる。サヨクが比較的強いのは、昔から人口密集地域である。

現在は民主の議席が自民より多い。自民としては、惨敗はもちろん後退もあってはならないが、どれくらいの勢力で勝つか、という点が注目される。ふつうに勝つのではなく、圧勝が求められる。

今日は、自分なりに心身をリフレッシュしたあと、二か所を参拝したことで、参院選を事の始めとして、やはり、原点回帰して、再度、生きるべき思想というものを再確認できたように思う。

自分でときどきプロフィール欄を見る。いまのところ、付け加えたり削ったりしたいところはない。
同じ保守愛国の立場にも、微妙な温度差というものは常にある。マイミクさんのなかにも、ここは違うとする人も当然いるだろう。それでいいと思う。

年々、どちらかというと、表現はおかしいが、穏やかな思考から、言うなれば、極右的な思考に移ってきているような気がする。

前に少し書いたのだが、個人としてアメリカは、最も嫌忌している相手である。帝国を敗れさせた力のことではない。自分を棚に上げ、帝国を追い詰めたということはある。
しかし、そういうことよりむしろ、あの野蛮性、自分の利益を露骨に優先する個人主義的思考が嫌いなのである。

どんな主義主張にも長短がある。その、よいほうだけでなく、悪いほうも受け継ぎ、むしろその悪い方にどっぷりと漬け物にされて今日まできたのが、今の日本だと思っている。そもそも日本という国柄に、個人主義などはふさわしくない。

さきほどあるマイミクくんもつぶやいていたが、平和主義ひとつとっても、その概念なりそこへの思考回路は、日本本来の平和希求の考え方とは、かなりズレている。
これは憲法の話になるわけだが、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という憲法の三つの柱については、学校で教わり、教師になってからは公民や政経の授業で、今度は生徒に教えた。
いま思うと、日本本来の未来に進む点線とは、かなりズレたところに実線が引かれてきてしまったものだなあと思うのだ。

その意味では、昭和30年代初めころ「今はやむを得ず、共産党や社会党といった左翼を追っ払うために、地理的な理由からも、国力の点からも、まだ子供である日本は、大人であるアメリカと組んでおかなければならないのだ」という愛国党の基本的理念は、すっきりと美しく、すとんと胸に落ちるのだ。

赤尾敏にしても山口二矢にしても、もろ手を挙げて日米安全保障条約に賛成していたとは言えない。

かつて、こんな話をしたとき、ある知人から、そんな古い人々の話を持ち出して、などと苦笑いされたが、思想に古いも新しいもない。
たしかに人間はいつしか死ぬ。しかし思想は生き抜く。

そのときの「いま」にふさわしい思想を「新しい」と呼ぶのであるなら、「古くからある」思想も、日々にまた「新なる」萌芽をはぐくんでいるのである。

以下、プロフ欄からのコピペです。********************************************

◆日本の歴史・伝統・礼儀・秩序・日常の習慣は、すべて皇室を起源にするものと考えています。皇室の存続と、天皇陛下はじめ皇室の方々の日々の安寧をお祈り申し上げるとともに、皇統として男系男性天皇の系譜が踏襲されるべきと考えます。

◆国家の真の独立と、国家間の協力とは別の話です。国家の三要素(領土・国民・主権)が十全に満たされてこそ、独立国家と言えます。

◆英霊らは靖国で会おうと言いつつ散華されました。新たな国立の戦没者追悼施設建設など、歴史を知る者からすれば、全く意味がなく、徹底して反対します。
 天皇陛下の靖国神社親拝と、三権の長・各自治体の長・防衛省はじめ国家機関の幹部・民間企業の長たる者、および各国大使・公使の靖国神社参拝、を願うものです。

◆現日本国憲法の破棄もしくは大幅改正または新たな日本国憲法の制定、国旗国歌法の改正、日本国主権回復の日制定、を切望するものであり、外国人への参政権付与には反対です。

◆竹島、尖閣諸島、北方領土は、歴史的に視て、日本国固有の領土です。
 我が国の側には、靖国「問題」、竹島「問題」、尖閣諸島「問題」、北方領土「問題」、慰安婦「問題」、戦後補償「問題」といった「問題」は、ひとつもありません。

◆我が国は将来的に、核武装、徴兵制に準じた制度の制定、教育勅語の復活を目指すべきです。

◆自虐史観、及び、日教組、民主党、社民党とそれらの下部組織、これらに準ずる反日売国思想をもつ会派・団体は叩きつぶさなければなりません。日本において、反日売国行動を繰り返す日本人・外国人も同様です。

◆朝日新聞・NHK・電通など反日売国メディアの洗脳によって築かれてきた悪弊を打破し、自らの郷土と同じように、自らの国家を愛する日本人を育成するため、教育制度や教科書を改め、日本の良き伝統と慣習を築き上げ、定着させていくべきです。

◆著名な大学などの学府に巣食う、反日教授や反日学生の詭弁、そのサークルやキャンペーンの勧誘に注意するべきであり、大学当局はこれらを構内から排除すべきです。

◆反皇室制度、反公共事業、反原発などに名を借りた反日売国奴、生活保護不正受給で安穏と生活し続ける寄生虫どもは、日本国の発展を阻害し国益に反する存在として認めるわけにはいきません。

◆その他のスタンス:原発推進、不用意なTPP参加反対、死刑制度存続、少年法を廃止して刑法へ統合する、公共の場所では日本語と英語のみを表記する。

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2013年5月11日 (土)

顕著になった現米政権の及び腰 (2013年5月11日)

【緯度経度】「尖閣」揺れるオバマ政権 - MSN産経ニュース (2013.5.11 10:35) http://sankei.jp.msn.com/world/news/130511/amr13051110360008-n1.htm

(最後の部分を引用)「中国との協調を優先させ、同盟国への誓約を曖昧にするということなのか。万が一にもオバマ政権が尖閣諸島を有事でも守らないという方向が明らかになったとき、日米同盟の歴史はその瞬間に変わるだろう。」

この論説のとおりと思う。私にも、尖閣に対する米国の態度表明には、いつも隔靴掻痒の感があった。
尖閣に関して、どこまで米国を信用できるのか。それは日米安全保障条約、そして、9条改憲の問題にかかわりをもってくる。

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日本独自の核武装へ歩を踏み出せ[2013年2月13日(水)](以下、ブログより全文転載)
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-86bf.html

北朝鮮が核実験を実施しました。対外的には、成功だと発表しているようです。
何もこれを後追いすることはありませんが、この事実がまくても、日本もそろそろ核武装について考察を進めるべき時期に来ていると考えます。

単純に言って、北朝鮮くらいができることを、日本ができないわけはありません。問題は、国民のコンセンサスと為政者の決断次第にかかっています。

昨年4月のあまり報道されなかったニュースです。ほとんどのマスコミは取り上げていません。

インドが長距離ミサイル「アグニ5」の発射実験に成功
http://www.afpbb.com/article/politics/2872575/8812649
(以下、全文転載▼~▲)


【4月19日 AFP】インドは19日、東部オディシャ(オリッサ、Orissa)州沖のウィーラー島(Wheeler Island)で長距離弾道ミサイルの発射実験に成功したと発表した。発射されたミサイルは核弾頭1トンの搭載が可能な「アグニ5(Agni V)」で、軍事上のライバルである隣国の中国やアジア外の国々も射程圏内に入る。

アグニ5は、核弾頭1トンの搭載が可能で、中国全土が射程に入ります。

以下は、昨年11月6日につぶやいたことです。

日本の核廃絶決議を採択=英も共同提案国に-国連総会委
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201211/2012110600103&g=pol&__from=mixi
(以下、全文転載▼~▲)


 【ニューヨーク時事】国連総会第1委員会(軍縮)は5日、核兵器廃絶へ向けた共同行動を国連加盟国に呼び掛ける日本提出の決議案を賛成159、反対1、棄権12で採択した。核保有5カ国のうち米英仏ロが賛成し、中国は棄権した。反対は北朝鮮。12月初旬に改めて総会本会議で採決される見通し。

 核廃絶決議の採択は19年連続。決議は包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効、兵器用核分裂物質生産禁止(カットオフ)条約の交渉開始などを訴えるとともに、北朝鮮のウラン濃縮計画や今年4月に衛星打ち上げと称して実施したミサイル発射に懸念を示した。

 共同提案国は最終的に、米国を含む97カ国に上り、今回初めて英国が加わった。これについて天野万利軍縮大使は「わが国の主張する段階的、現実的な核廃絶アプローチへの理解が広がってきた」と述べた。インド、パキスタン、イスラエルは棄権に回った。 (2012/11/06-07:23)

コメント⇒持てる国はニンマリですね。19年連続決議というが、どこの持てる国が廃棄しましたか?廃絶したいのなら、まず持てる国から廃棄を始めたら?隗より始めよと言いますから。そりゃインドは棄権ですよ。

ついでに、中国も棄権ですよね。それはそれで筋が通っているとみていいでしょう。いまさら廃絶に向けて動けるか、ということです。

インドと中国、事情が違っても、棄権というのは、反対も同じです。

イギリスは初めて共同提案国になっただけで、米仏ロともども、廃棄の動きは緩慢としています。そもそも19年も前から各廃絶の決議がなされながら、5大国に廃絶しようという積極的な動きは見られません。決議はするが、それは道徳的・感情的に歓迎されるからであって、政治的に廃絶するなどということは、とてもとても難しいという表われでしょう。

1990年代初頭、退任した元英首相マーガレット・サッチャーはワシントンを訪れ、なぜ、ソ連崩壊後も核保有なのか、という記者の質問に答えています。
サッチャーは、以下三つの理由を挙げています。

(1)1947~1991年の冷戦期に、米ソが直接、軍事衝突しなかったのは、核兵器のおかげてある。
核兵器の破壊力があまりにも強いため、米ソ両国は、彼らが支配する第三世界の衛星国に代理戦争させることはあったが、核武装した米ソ同士の直接の軍事衝突は注意深く避けた。
この事実を見ても、核兵器に非常に強い戦争抑止効果があることは明らかだ。
もし核兵器が存在しなかったら、米ソ両国は冷戦期に正面衝突して、数千万人の戦死者を出すような大戦争が起きていたのではないだろうか。

(2)イギリスは中型国家であり、その軍事予算は限られている。
この限られた予算を使って最大限の戦争抑止効果を得るためには、通常兵器に投資するよりも核兵器に投資したほうが、高い抑止効果を得られる。
核兵器への投資は、限られた英国軍事予算の生産的・効率的な使い方である。

(3)現在の国際社会は、核兵器を持つ国が支配している。
そのことが良いことか悪いことかは別として、それが国際政治の現実である。
もしイギリスが常に最新型の核抑止力を整備しておかなかったら、イギリス政府は国際社会で独立した発言力を失ってしまう。

核兵器を所有することが、いかにイギリスの国益に貢献してきたか。そして、イギリス政府の核兵器保有政策を批判する者が、いかに間違った感情的な議論をしてきたか、を熱心に解説しています。

この考え方が活きているかぎり、イギリスが率先して廃絶に向けてリーダーとなるということは、まずありえないでしょう。
これは米仏ロにおいても同じことで、結局、いくら国際機関で上のような決議をしても、核保有という事実は、このまま存続していくのです。

要するに、抑止力としての核保有は、外交政策・経済政策に不可欠であるということです。小国には政治的なツールとして大きすぎ不必要であっても、大国には必要なのです。

具体的な方途や予算の問題はあるにしても、日本には核を保有するだけの技術はあると言われています。
よく議論したうえで、核問題についても、国会の場で審議される日が来たらいいと思うのです。対中・対北朝鮮という点からも、緊急のテーマだと思います。

原発反対派は、なぜ東日本大震災で事故が起きるまで騒がなかったのでしょうか。原子力を使うといったときから、一貫して反対しているのは共産党だけです。さすがに、論理一貫性という点では、仮に現実を無視していても、一応、面目躍如といったところです。その共産党でさえ、このことについて最近は声を大にしなくなっています。

原発を廃棄するのはいいとして、日々の膨大な電力需要に対する代替案、推進派をも説得するだけの筋の通った現実的な代案はあるのでしょうか。

核についても、同じレベルでの論争は必要だと思います。核戦争の映画を見て、これは反対というなら、それは映画鑑賞者の一感想にしか過ぎません。

次なる課題は、日本が、いかにして核武装に向けて動いていくか、ということです。
原子力発電の維持推進路線は、ほぼ固まり、このまま踏襲されていくでしょう。原発反対派などは、その実、泡のようなヒマ人が集まっているだけの烏合の衆で、メディアも好んで取り上げるだけに、各々いっとき耳目を集めるものの、国是たる一貫した潮流にはなっていかないでしょう。

むろん多少の時間もかかるでしょうし、成田闘争レベルの騒動は起きうるでしょう。しかしこれは、避けては通れない道なのです。

サッチャーの言うことはもっともです。これは核武装派の人は、その後ほぼ容認している考え方です。
国会質疑でも、石原慎太郎は故中川昭一の言葉を引用しながら、核武装のシュミレーションくらいはやれと言いました。これももっともな話です。

世界で唯一の被爆国でありながら、原爆を落とされた広島・長崎の人々だけが核廃絶を叫ぶのは滑稽です。両市の市民が瞬間に殺戮され、後遺症に悩まされていることは、戦後世代のすべての人にさえ承知されているが、その現状は到底他人の他者経験とはほど遠い経緯をたどっていることでしょう。

しかし、核武装は、ほぼサッチャーに代表される考え方にしたがい、実行に移すべきと思います。広島・長崎のいまを生きる人々が、戦争の惨禍を繰り返してくれるな、というなら、少なくても筋は通りますが、反対派の多くは、地元民ではありません。また、終戦直後からしばらくの間であれば、そのことの意味が、まだ明瞭であったとも思います。

その後、世界情勢は変わりました。さらに変わっていくでしょう。そうした変化に応ずるためには、戦後まもなく意味をもった言質は、もはや意味をなさず、効果的でありません。どうしてもというなら、より包括的に議論してその最後に、ゆえに核反対だと述べるべきでしょう。

核をもつは悪、もたざるは善、こうした区分けは偏見です。日本国内の一部では通じるかもしれないですが、国際舞台に立つときに通用する尺度ではありません。

イランを例にとるならば、イランという国の国家体制を、好きでも嫌いでもなく、また詳しくもありません。ニュースなどで仄聞するだけですが、ウラン濃縮について国連安全保障理事会は、いままでに何度もそれをやめるよう勧告してきています。が、イランは聞く耳をもちません。いつでも駐日イラン大使は、これは平和利用するためだと理解してほしい、と弁明しています。

IAEA(国際原子力機関)が核開発につながるイランの諸活動を報告書にまとめて公表したり、今年1月に、その調査団がイランの関連施設を立ち入り調査もしましたが、イランの態度は一向に変わりません。そのたびに、原子力の平和利用を目的としているだけとする声明を発表するのみです。

イランはイランなりに調査した結果、同じ中近東に位置するイスラエルは、核を保有しているということを把握しました。戦後アメリカの尽力でようやく独立したこのユダヤ人国家は、中近東のなかでは、先進国の部類に入る国家です。イスラエルがもっているなら、イランがもってもいいではないか、アメリカは保有しているのに核不拡散とはおこがましい、これが単純明快なイランの思考でしょう。

イランは、さらにアメリカが圧力をかけ、内政干渉するのであれば、ホルムズ海峡を封鎖するとまで言い出しました。ホルムズ海峡はペルシア湾の出口であり、イランをはじめ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタールなどからのタンカーが往来するところで、ここが封鎖されれば、日本への原油輸入の8割が滞ると言われています。日米安保を念頭に置いた発言です。

核不拡散条約(NPT、Nuclear Non-Proliferation Treaty、Proliferation=増殖)は、米国・ロシア・中国・イギリス・フランスは核を保有していてよいが軍縮に向けた努力義務を負う、これ以外の世界の国々は、核兵器をもってはならないが、原子力の平和利用なら認める、というものです。この基本的理念に基づいて、世界の190カ国が加盟しています。インド・パキスタン・イスラエルは未加盟のままであり、北朝鮮は2003年に脱退しました。脱退するということは、核保有に進むということであり、事実そのようにしてきています。

2010年、IAEAは、査察を受けるようイスラエルにも求めましたが、イスラエルはこの要請を拒否しています。これらの点からもイスラエルが核兵器を保有しているのはまず間違いありません。

このイランに見習って、核兵器を保有すればよい、とは言いません。国柄も歴史も異なる国家の施策をマネするわけにはいきません。といって、全く参考にならないというわけでもありません。
いくらアメリカやIAEAが勧告し圧力をかけても、イランの姿勢は一向に変わらないのですが、一度決めたらその後変わらないという一貫性なら、マネしてよいと思います。

つまり、中国は核兵器保有国である、という一点においても、日本は核保有の方向へ動き出すべきです。
核の保有非保有は、尖閣諸島の領有権争いなどとは次元が違います。核保有非保有については、資源を狙ってくることにより生ずる国家間の緊張関係ではなく、国家の存立基盤そのものの対峙というスケールの問題だからです。

そのときアメリカがどう出るか、いろいろ議論されているとおりです。独立孤高を貫き通せる資源大国イランとは、ここが違います。日本には資源が(いまのところ)少ないのであり、独自に資源外交を進めれば、ロッキード事件にはめられた田中角栄の二の舞になるでしょう。

アメリカは民主主義の世界代表という顔の裏で、自国の国益でしか動かない国家です。インディアンを追いやりフロンティア精神という美名に変えて、北米大陸を支配しました。ハワイも同じで、大東亜戦争が始まったころは、ハワイはまだアメリカの州ではありませんでした。スペインを追っ払ってフィリピンを占領したのも、フロンティア精神の賜物でした。

いざというときに、アメリカだけを頼みにするというのは、独立国家として危険だし情けないことです。民主党政権時には、尖閣問題にしても突っ込んだ見解は聞かれませんでした。安倍政権になって、尖閣諸島は日本の領土だと再確認されました。以前日記にしたように、米国の識者のなかには、何かあればアメリカは日本を救う、とはっきり言わなければいけない、という意見もありましたが、去年の段階で、オバマもクリントンも、そうした意味での突っ込んだ見解を発表していません。かろうじてその周辺の人物や学者が、そういうコメントを出しているくらいです。

私の想像ですが、これはアメリカが中国には一目置いているからであろうと思います。それはかつては大日本帝国の敵同士として大東亜戦争で援助した国であったからでもありますが、今では核兵器をもつ仲間としてです。同じもてる国として、礼儀を心得なければなりません。互いに安全保障理事会の常任理事国であり拒否権をもっている国同士です。また、アメリカの国益にとっても、中国はとても大事な国なのです。

インドもパキスタンも、核保有についてはそれぞれに理由があります。イランとイスラエルにおいても同様です。

2013年の今日、日本が核をもたなくていい理由はどこにもありません。核をもつ理由はあります。

さらに、中国相手・北朝鮮相手だけでなく、一国家として国際的発言力と国際的信用を得るためにも、現実的な運びには多少の困難は予想されますが、これは円熟した国家をめざし世界をリードしていく国家になるために、通過しなければならない関門であると思います。

道を極めると書いて、極道となります。信念をもってやるべきことをやっていけば、極道をくぐる可能性があります。しかし、日本の将来を憂えるなら、清濁合わせ飲んででも、貫くべきを貫くべきです。

日本国がいったい、どこの国に・どの民族に、気兼ねし遠慮する必要があるでしょうか。
核保有は悪である、とは、詭弁にしか過ぎません。

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安倍夫人、韓国ミュージカル鑑賞の件(mixi日記より転載)

安倍首相夫人である安倍昭恵さんが、韓国のミュージカルを鑑賞した件は、ほんの一部に報道されたくらいで、いま現在は大きく取り上げられていない。今後も「結果として」大きくニュースになることはないだろう。それでいいと思う。

首相夫人フェイスブックに批判=韓流公演を鑑賞(▽~△)
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-130510X258.html
2013年5月10日(金)14:42
  ▽
 安倍晋三首相の昭恵夫人が9日夜、インターネット交流サイト「フェイスブック(FB)」で韓国のミュージカルを鑑賞したことを紹介すると、批判的なコメントが殺到。夫人は10日、FB上で「全ての人や国と仲良くしたいというのが私の思いです」と理解を求めた。

 夫人が鑑賞したのは、男女の恋愛を題材に東京都内で公演中の「カフェイン」。FBに「楽しかった」と書き込むと、10日午前までに70件を超えるコメントが寄せられ、多くが「首相夫人として軽はずみな行動は謹むべきだ」といった批判的なものだった。夫人は「批判覚悟で載せました。理想に向かっている私なりのアクションの一つだとご理解ください」と訴えた。 
  △

以下は、安倍夫人のFBからのコピペである(▼~▲)。これには、123件のコメントが寄せられた。それに対してまた返信がなされているものもある。(以上、11日午前1時13分現在)。

  ▼
安倍昭恵
22時間前.韓国のミュージカル「カフェイン」を観ました。
楽しかったです。
(ここに、ポスターとその脇に立つ婦人の画像)
シェア97件
2,099人がいいね!と言っています。

安倍昭恵 沢山のご意見ありがとうございました。真摯に受け止めます。
毎日の行動は全部FBに載せているわけではありません。
このミュージカルを観たことも載せないという選択肢もある中で、批判覚悟で載せました。
どんなに甘いと批判されようが、すべての人や国と仲良くしたいというのが私の思いです。
理想に向かっている私なりのアクションのひとつだとご理解ください。
ご批判はいつでも、何なりとお受けします。
よろしくお願いします。
いいね! · 返信 · 290 · 18時間前 (携帯より)
返信22件
  ▲

ちなみに、ニュースを載せたヤフーでのコメント欄の上位はこんな感じである(▽▽~△△10日午後11時54分現在)。

  ▽▽
コメント数:2911件平均投稿数:324.2件/時投稿人数:2045人

2013年5月10日 14時46分かんちゃん4719(vwz...)さん.

私もそう思う11,675点 私はそう思わない1,338点.

韓国大統領による理不尽な言動がある現状においては総理夫人としては好ましくない。

2013年5月10日 14時51分悪魔が来りて笛を吹く(sat...)さん.

私もそう思う11,397点 私はそう思わない1,209点.

最悪だわ。
オバマ夫人がアルカイダのミュージカルを見てるようなもんだ。
それが異常だって気付けよ。

2013年5月10日 14時46分わかな(ndw...)さん.

私もそう思う10,298点私はそう思わない1,108点.

>韓国のミュージカルを鑑賞したことを紹介すると、批判的なコメントが殺到
当然
   △△

ツイッターのほうは、批判が少しで、特に問題なしのほうが多いようだ。そのアカウントをチェックすると、安倍支持者だから反対もあり、逆に安倍支持でも特に問題なしもあり、さまざまである。夫人はなかなか面白い人だ、というなかには、反原発や自称ミュージシャンなどもいた。

夫人のFBのコメント欄には、賛否両論であるが、特に問題なしとするほうが若干多いかなという気がする。

ニュースヴァリューとしてそれほどのことでもないし、たしかにニュースにするほうがおかしいという意見はいつでもあるが、ニュースというのは、事実がそのまま報道されるなら、何を報道してもいいと思う。ヴァリューがあるのかどうかは、発信する側が序列をつけるにしても、現れたその情報を受け取る側でそのヴァリューの有無如何が決定される。

そういう前提からすれば、これを知った人が、賛否両論の意見を述べることまで否定するのは間違いだろう。
そもそも、夫人が、批判を承知でSNSに書き込んだ、というオープンな事実があるのだから、それに対し、読者や二次的に知り得た人々が何を書こうとかまわないのだ。

そして、もうひとつ、われわれ一般の国民は、夫人のFBによく現われる、夫人の取り巻きや友人ではないので、その一挙手一投足や24時間のなりゆきまで知りえないわけだから、ある端的事実をもって、賛否を語ってもかまわないのだ。

ただ、自分の感触として、全体的には「静か」なのである。このmixiにしても、常に稼動中のマイミクさん100人近くのなかで、この話題に触れているのは数人である。

思うに、この数人の方々は、「明確に」観劇は問題だとするからつぶやいているのだろう。そうでない人のうち、「つぶやこうと思ったがつぶやかないでいる人」は、支持する安倍総理の夫人のことであり、わざわざ騒ぐこともなく静観しておこうという人が半分、本当はつぶやきたいが、批判すれば容認の側から批判されることが予想されるので、ここは黙って通り過ぎようという人が半分、といったところかと思う。容認の人はつぶやかないだろう。

もしこの仮定が当たっているとすれば、これらの全員が「明確に」とは言わないまでも、内心、実は、「多かれ少なかれ」観劇に反対しているということになる。

私も、上のような危険を冒して、こんな日記を書いている。
観劇を批判すれば、それをまた批判されるだろう。逆に、観劇を容認すれば、それもまた批判されるだろう。
いわゆる、コメントなどで突撃して、行くべきでなかった、という意見も多いし、たかがミュージカルなのだから、好きなときに好きなものを観ていいのではないか、という意見も多かった。

私は、行くべきでなかった、と思う。申し訳ないが、少なくとも、今、行くべきではなかったと思う。

こう言うと、総理夫人にだって、私人の自由というのはあるはずだ、とすぐ返ってくるのが常である。

そうではない。総理夫人だからこそ、自由が拘束されるのだ。

喩えが悪いが、無名の女優が徐々に有名になってくるにつれ、プライバシーがなくなってくるのと似ているかもしれない。
そして、周囲やファンから、一定のイメージを求められ、行動も考えもモラルも、そのイメージに沿っていくことを求められる。それは、その立場に、おのずから周囲が愛着をもち敬意をもつからこそ生じてしまう現象なのだ。

その現象が、現実のものとしては、拘束すなわち行動の規制となって日常生活に影響を及ぼすことになる。また、それを避けては通れない立場なのだ。

かつて、池田勇人首相の夫人・満枝は、業者によく、自分の名刺を出して、陰から池田を支えた。それは手段としては好ましいものではない。しかし、総理夫人というのは、そういうこともできうる立場なのだ。直接、法的権限はなくとも、そうでないだけにかえって、権力の威光を発することができてしまう。
これは極端な例としも、そういう影響力があることは否定できない。だからこそ、夫婦で外遊中にも、首相夫人たる者は夫人として、夫人外交なるものを展開できるのだ。

内閣という枠組みを考えるとき、総理をはじめ各大臣や官房長官はじめ政府高官の妻や子供・孫には、一定の網がかかってくる。これはしかたないことなのだ。

安倍夫人は、趣味も広く人柄も慕われている。観劇にしても、このミュージカルだけを何回も観ているわけではない。

しかし、彼女の取り巻きや友人と違い、一般国民は、「その事実」だけに注目がいってしまう。
つまり、どうしても、首相夫人が、このいろいろと反日的問題を国内外で起こしている韓国、その国が主催するミュージカルを観に行った、という事実だけに注目してしまいがちだが、一般国民の目線というのはそれでいいと思うし、それ以上を推察することは不可能に近い。

夫人に幾多の深謀遠慮があるようには思われない。すなわち、わざと韓国の劇を観に行って、人々の反応を見たかったとか、このことでサヨクを喜ばせて、かえって愛国者の結束を強くしようとかいった深い考えである。

単純に、このミュージカルを観たかったから、あらかじめチケットを買っておいて、予定どおり観に行っただけだろう。FBに書くかどうかも迷ったに違いない。書かずに後で情報が洩れれば、それこそ韓流好きな首相夫人などとゴシップ記事にされるのは予想できる。だから、自分から、他の話題を並べていくなかに、ふつうに書いたのであろう。

それにしても、なぜ、批判を覚悟で、観劇したことを書いたのか。上の本人の書き込みからすれば、ただ、楽しかった、と書いた時には、すでに批判がくることは百も承知であったわけである。

つまり、あたりまえだが、彼女には首相夫人という認識が、常にあるのである。ならばなおさら、今回は、韓流の観劇は、避けておくべきであった。

ところで、コメントのやりとりに、こんなふうなものがあった。夫人を批判したコメントに対し、あなただってギョウザくらい食べるでしょ?…
こういうコメントは滑稽だ。

初めて言うかもしれないが、私は、韓国・中国以上に、アメリカという国は嫌いである。はっきり言って、今でも毛唐だと思っている。それでも歴史的経緯と国際的情勢からして、日米安全保障条約には反対しない。

そしてまた、アメリカ映画は観る。ジャズも聴く。コーラも飲む。アメリカという国が好きだからではない。日常の選択肢のなかに、小さい時からそれらは混然と入り込んでいたのであり、それを選択してきた結果として、自分が今ここに生きているということだ。
それを、文化と政治は別ものだ、などと苦し紛れに答えることもないと思う。
たとえ愛国者にキムチ好きがいても、おかしくはない。
ついでながら、政治と文化は裏表である。別ものではない。どうして分けられようか。

それにしても、私は一般国民のひとりである。安倍昭恵さんは、現首相夫人である。
完璧な政党も総理もありえないから、完璧な総理夫人もありえないだろう。
それでもなお、このたびは行かないでほしかった。

こういう劇団は、また近いうちに来日するに決まっている。その折に鑑賞していただきたかった。

2013年5月 9日 (木)

映画『犬神家の一族』

監督:市川崑、原作:横溝正史、脚本:長田紀生、浅田英一、日高真也、市川崑、音楽:大野雄二、主演:石坂浩二、高峰三枝子、昭和51年(1976年)、146分。

2006年版は同監督によるこれのリメイク版。

昭和22年、信州のある町の名家・犬神家では、その当主・佐兵衛が最期のときを迎えんとしていた。
その遺言を聞くために、三人の娘(松子・高峰三枝子、竹子・三条美紀、梅子・草笛光子)とその子つまり佐兵衛の孫(佐武(すけたけ)・佐智(すけとも))らが集まっていたが、長女・松子の子・佐清(すけきよ)だけが不在のため、遺言書は開封されず、七か月後に佐清が復員してきたので、初めて遺言状が公開されることになる。そこには、一族とは血縁のないはずの珠世(たまよ)(島田陽子)もいた。

一族の弁護士・古館(小沢栄太郎)が読み上げた遺言状は、佐兵衛のすこぶる独断と偏愛に満ちた内容であり、その内容をめぐって、殺人事件が起こる。

古館に協力して事件を解明していく探偵は金田一耕助(石坂浩二)で、リメイク版でも石坂が演じている。

多くの人が知っている作品だと思う。湖面から突き出た死体の両脚でも有名だ。

子供のころから、国語辞典は角川書店のものを使っていた。発行者は角川源義とあった。その息子の春樹が、映画製作に乗り出した第一号作品である。
この映画では横溝本人と同じく、春樹自身も数カ所で、刑事の一人として登場し、セリフもある。

当時観たとき、どこかで見たストーリーだと思った。昭和45年に日本テレビの夜8時から「蒼いけものたち」という番組をやっており、それとあらすじが同じだったのだ。あとで、原作が同じと知って、やはりと思った。
酒井和歌子が珠世に当たり、三人の姉妹は、雪子・沢村貞子、月子・千石規子、花子・市川寿美礼と、雪月花であった。

実はこのとき、千石規子という女優を初めて認識した。気色悪いババアだなくらいに思っていただけだったが、後に、かつて黒澤映画に重要視されていることを知り、女優というのは、そのキャリアを見ないと語れない、と反省したものだ。それからは、女優に限らず俳優というものは、そのキャリアから今を見るようにしている。

この「蒼いけものたち」のほうを先に知っており、しかも当時の有名俳優が出ているので、そちらの印象が強く、この映画のほうは、はっきり言って、当時そんなにおもしろいとは思わなかった。

やがて、キャリアで見るという観点で、やはり監督を見ていくと、市川崑というのはまさに映画職人であることを知り、大好きな『鍵』などを経て、再度この映画を観ると、原作のおもしろさはあるが、さらに映像的にさまざまな演出がほどこされていることがわかったのだ。

複雑怪奇なストーリーは過去に遡って初めて明らかになるが、そこはどうしてもセリフが長くなる。そのへんを、うまくカットと回想で切り返して、飽きのこないように続けている。

原作の「よき(斧)・こと(琴)・きく(菊)」という犬神家の家宝に事寄せて事件が起きるが、血なまぐささを最小限にして、それぞれの描写も日本的で美しく描き出している。

監督が大物か駆け出しかは、さりげないシーンに差が出る。
こういう監督は、まったく何気ないシーンを、そのまま簡単には撮らない。

一例を挙げれば、復員してきた佐清が、母親に伴われて初めて、犬神の屋敷に入るシーン。大きな屋敷のなかの薄暗く長く折れ曲がった廊下を、母と佐清が歩いてくるところだ。

全く何気ないシーンなのだが、天井に近いほどの高さから、二人をやや見下ろすように、カメラは手持ちで後ずさりしながら映している。カメラを床に置いて撮ることもできる。ふつうの高さはもちろんありうる。固定でとらえることもできる、二人を後ろからとらえたカットを正面からのものとつなぎ合わせてもいい。

しかし、それらを一切せず、自宅であるにもかかわらず、母はあたりをうががうようにそそくさと歩き、佐清は自宅に戻ったうれしさなど見せず、まるで母の飼うスパイのように、母につき従い、忍び歩く。
カメラと二人の距離は、常に一定で、長回しのまま映るのは、こちらに向かって歩いてくる、画面内ではずっと同じ大きさの母と子なのだ。

つまり、これが、この壮大なるサスペンスの始まるきっかけであることを、しっかり暗示させてくれているのだ。

さらに、市川崑らしく、サスペンスでありながら、随所にユーモラスな演出やセリフが入るのも見逃せない。

映画は、二度見たら、二度目の発見がある。三度見たら、三度目の発見がある。だから、飽きない。ただし、プロが集まって作った映画なら、ではあるけどね。

佐武を演じているのは、昨年亡くなった地井武男である。

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2013年5月 7日 (火)

マナー違反の集積するところ

すなわちそれは、公共の場所だろう。マナー違反は顰蹙を買う行為だ。

私生活や仕事場でも、だらしがない人もいよう。そういう人にマナー違反は多い。だが、私的生活や職場ではきちんとしている人でも、一歩外に出ればマナー違反という例も多いようだ。

すなわち、誰しもが、マナー違反の一つや二つ、経験してきているのだろうとは思う。

だが、電車やバスなどの公共の乗り物や、映画館、レストランなど、多数の他人同士が集まるところでは、暗黙にして一定のルールというものが出来上がっていて、それに従っていることで、世の秩序は保たれているわけだ。

しかし、その暗黙のルールは、小学校以来の学校という集団生活や家庭でのしつけなどではぐくまれるわけで、その最大公約数的なところで、なんとか秩序を保っているというのが、社会なのだろう。
その意味では、残念ながら、マナー違反者はいつもいる、ということになる。

町田に住んでいたとき、新宿から小田急線に乗る。
子供のころは、新宿駅のホームにランプを掘ってなかったが、あるとき、車輌のドアに当たるところに、黄色いランプが二つ掘られ、点灯しているところは次の急行、すぐ隣の点滅しているところは、次の次の急行に乗る人が並ぶところとなった。

九官鳥のように、その意味が毎時のようにホームにアナウンスされ、人々はそのとおりに並ぶようになった。何のアナウンスもなく、人々がそうなるのに、2年くらいかかったと思う。
似たようなことは日本中の鉄道ホームでおこなわれ、今ではほとんど秩序ただしい。規律正しい日本人ならではかもしれない。言い換えれば、そういう日本人でさえ、それくらいの時間がかかったのだ。

人々に、マナーを習慣として学ばせようとすると、これだけの時間と労力が必要だという好例だ。

しかし、電車の中に注意を移すと、その時代からだいぶ経つのに、相変わらずマナーの悪い者が多い。

私は毎日、地下鉄・東京メトロ・有楽町線を利用している。
帰りが午後10時過ぎになるが、有楽町線の終点は新木場で、そこから京葉線で、デズニーランドのある舞浜へ二駅だ。

下りの地下鉄は、土日、たまに平日でも、ねずみの袋を持った連中でいっぱいだ。そして、そういう連中にかぎってマナーが悪いのである。疲れたのか足を前に投げ出したり、ほどよく混んでいるのに足を組んだりしている。
仮に空いていたなら、まだ赦そう。

この無神経さは、どこから来るのか。入試問題より難しい問いだ。
こういう光景を毎日のように見せられると、デズニーランドに行く人=マナーのできていない人、という図式が出来上がってしまう。現に、そう思っている。特に、デズニーランドなど、一度も行ったことがない私としては、簡単にそう思うようになってしまう。

そういったマナーの悪い姿勢でさらに、ぐったりと互いに寄りかかり合っているのは、若い連中だけではない。親子連れでも同じザマなのには呆れる。

それ以外にも、平日に多いのだが、特に車輌のつなぎめの席に座り、脇の窓の桟に、缶ビールを置き、せんべいなどボリボリ食いながら新聞読んでるオヤジもいる。それがネクタイをゆるめたサラリーマンである。

隣の豊洲から乗ってくるに違いない。豊洲にはIT関連という得体の知れない会社が多い。何が関連かわからないが、いわゆるIT関連という会社に勤めている連中は、見ればわかる。若いのでもオッサンであっても、オタクの顔をしていて、年齢に関係なく、頭髪を真ん中から分けているのが多い。ここまでくると好き嫌いの部類になってしまうが、男の中分けほど気味悪いものはない。

ITにはお世話になっているし、髪の中分けだけなら我慢もしようが、マナーの悪いのにかぎって、顔を見るとそうだから、やはり先のイコールの図式が出来上がってしまうのだ。

その他、空いた電車に多いが、向かい合った座席同士で放談する、周囲にかまわず声が大きすぎる、隣のヤツが居眠りして寄りかかってくる、など。
これらは、年齢・性別に関係ない。

今日は静かな車内だなと思ってしばらくすると、シャカシャカという音が大きく聞こえる。同じ列に座っているオバハンだ。オバハンに多いのだが、袋の中に何やら小分けされたレジ袋の中身を、移し替えているのか位置を変えているのかわからないが、レジ袋と格闘中だ。レジ袋の音は、静かな車内だとけっこう耳障りだ。まあ、これもマナー違反というのは厳しいとは思う。

携帯で話すのは、しょっちゅうアナウンスがあるため、あまり見なくなった。
やはり、繰り返し言われていると、守るようになってくるのだと痛感する。まさに、教育と同じなのだ。

親類の家に行くため、町田からはよく、横浜線で桜木町まで乗った。今ではもうないが、当時はチョコレート色の電車で、時に、窓が三枚窓の車輌もあった。桜木町事件ではそれが乗客の脱出を妨害して、焼死者が多くなったと言われる。

ドアから乗ると、中央に、床から天井までの手すり、つまりポールが立っている。そこにもつかまることができる。そのポールのわきで、男の子がウンチしているのを見たことがある。どうしても我慢できなかったのかもしれない。そう思いたい。シナや韓国といっしょと思いたくない。日本は駅にはだいたいトイレがある。
好んで母親がそうさせたとは見えず、とても恥ずかしい風ではあった。
これをもって、マナー違反とはいえないだろう。

マナーとは、人さまの迷惑や不快な思いをさせないよう配慮することだ。その迷惑や不快感に最大公約数があって、その公約数からはずれると、マナー違反となる。最大公約数が見つかりにくいところでは、マナーなのかどうなのか、見解が分かれるものもあるのは致しかたない。

マナー違反を見つけて、ビシッと叱る人もいる。向かいの席のオヤジが、しゃかしゃか音を出しながら、新聞のページをめくったり折ったりするから、けっこううるさかった。隣の人もそう思っていたのだろう。
そのオヤジが下りるとき、新聞を座席に置いて行こうとしたら、隣のオッサンがでかい声で、おい、自分の読んだものは持っていきなさいよ!と言った。

子供のマナー違反は私もときどき叱るが、相手がジジイやオヤジだと面倒くさいので黙ってしまう。これからはやはり、注意しないといけないと思ったな。

マナーというなら、最後に言いたい。
電車を降りて、少なくとも改札を出るまでは、携帯やスマホを見るな!と。

あの画面を見ながら歩いているから、歩くのがのろい。早く歩けとは言わないが、見てなければ、もっとふつうに歩ける。画面を見るなら、どこか隅に寄って、立ち止まってやってればいい。

そもそも個人的には、駅の改札の内側では、携帯などは禁止していいと思う。携帯各社は、駅構内や地下でも電波が通ることを競い合っているが、そんなことはやめて、駅構内では携帯使用不可、ということにすればいい。

かつてはなかったツールなのだから、何も不便はないだろう。
どうせ、ロクな会話してないから、駅構内では電波は飛ばなくても、さほど困らないだろう。ゲーム関係は改札を出てからやればいい。

というか、個人的には、ゲームなんかやってないで本読め!と言いたいね。

そう、マナー違反の原因を突き詰めると、「読み書きをしない・考えることをしない生活習慣」が背景にあることに行き着く。

少々独りよがりでしょうかね・・・^^

2013年5月 6日 (月)

映画『桐島、部活やめるってよ』 (2016年5月22日)

監督:吉田大八、原作:朝井リョウ、脚本:喜安浩平、吉田大八、音楽:近藤達郎、主演:神木隆之介、橋本愛、大後寿々花、東出昌大、2012年、103分。

脚本の喜安浩平(きやす・こうへい)は、アニメ『はじめの一歩』で、主人公・幕之内一歩の声を演じている。

とある高校が舞台。ロケは高知県にある複数の高校となっている。
放課後の部活など、高校では日常的なありふれた光景のなか、バレー部の桐島という生徒が、部活をやめたらしいという噂が流れる。

桐島は、バレー部の活躍だけでなく、彼女もおり、友達グループもあり、勉強面でも運動面でも、クラスの人気者である。
その桐島が部活をやめるということは、周囲にとっては青天の霹靂であった。
桐島に、友達や彼女が連絡をとるが、メールも返ってこない。

しかし、そんなこともありながら、日々の高校生活は、またあすを迎える。……


桐島という生徒は、映画には登場しない。それらしいフェイントのかかるところがあるが、まともには一度も登場しない。

部活の実力者として、恋人として、友人として、無意識に交流がつづいていた人物が、忽然と姿を消し、連絡も途絶える。
その影響は、彼女だけでなく、部活の同輩後輩から、同じ塾に通う友人にまで及ぶ。

映画は、時系列で進まず、桐島が部活をやめた金曜日から翌週火曜日までを、それぞれの曜日のエピソードを重ねていくことで、畳みかけるように進行する。
特に、はじめの金曜日は、ほぼ同じ時間帯を四様の角度からとらえ、ラストの火曜日も繰り返される。
生徒による校内ライフル銃撃事件を素材にした『エレファント』と同じ手法である。

高校生ころの細やかな感情をきちんと拾ったセリフややりとりには共感できるし、セットなども実際の高校の教室や校舎、屋上を使っているので、現場の光が入り、望遠で撮られた景色や運動場も、映画が日常のひとこまであることを示すようになり、リアリティがあってよい。世紀の駄作『告白』とは雲泥の差である。

いくつかの賞も受賞しているようだが、いままでにあまりない製作のしかたや、高校が舞台であるのに、明るく朗らかで活発な日常ではなく、どこかサスペンスの香りをさせる演出もよかった。


いわゆるお涙頂戴でもなく、恋愛に照準を絞ったものでもなく、進路や受験の悩みをかかえることを描くわけでもない。
桐島は現れないが、桐島の存在からはいちばん遠くにいる、つまりその退部や失踪でいちばん影響を受けていない前田(神木隆之介)が事実上の主役となっている。
この設定はおもしろいし、ストーリー展開の基本を主軸として支えている。この作品を成功させた主因だろう。

舞台は高校であり、ロケを使いながら、それ自体が一種の虚構のように感じられる演出が功を奏したものと思われる。

これは、屋上で前田らが映画部の映画を撮っていたところ、桐島を見たということで集まった生徒たちがどやどややってきて撮影ができず、両者が格闘寸前になり、その状況を撮ることで、そこがそのまま、部員たちが集まってきた生徒たちに襲いかかるゾンビの映画になってしまっていることからもわかる。

皆を翻弄し心配させた桐島は、ついに現れず、その後周囲がどうなっていくのか、ということまでは説明されず、映画は終わる。

桐島といちばん親しかった宏樹(東出昌大)が、その事実をあらためて認識してか、涙ぐむシーンは、ラストとしてよかった。
このシーンは、さっきの騒動でとっ散らかった屋上を宏樹が去る時、前田の使っていた8ミリのレンズカバーを拾って、すぐ戻ってそれを前田に手渡すところからひとつの流れとなっている。

宏樹はそのカメラを手にして前田を覗き込むが、逆光だからと言って今度は前田が持って、宏樹を撮る。そのカメラの映像のなかで宏樹は涙ぐむ。
カメラを向けられて、つい感情が高ぶるということはよくあることだろう。

宏樹は桐島とは正反対の位置にいる生徒だ。野球部に属しながら幽霊部員であり、何かにつけあまり主体的に動いていくほうでもない。でありながら、桐島とは親友であった。彼は桐島から、何も聞かされないし知らされない。

その宏樹をラストで、8ミリを介して向かい合うのが、桐島からはいちばん遠くにいる前田であった。このラストは想定しにくいが、それだけに、観る者を快く裏切ってくれている。

ある生徒が部活をやめたということから、これだけの話を紡ぎ出した原作と、あまり見ない時系列並列の脚本がよかった。

そしてやはり神木隆之介くんであろう。子役のときは、よくテレビで見ていた。もうこんなに大きくなったのだなあと思う。
セリフやしぐさが役に成り切っていて、実にうまい。セリフを言っていないときの演技もうまい。

ある人が、他の配役は替わりがありうるとしても、この前田は神木しかできないだろうとコメントしていた。
そのとおりと思う。

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映画『遊星からの物体X』

監督:ジョン・カーペンター、原作:ジョン・W・キャンベル『影が行く』、脚本:ビル・ランスター、撮影:ディーン・カンディ、音楽:エンニオ・モリコーネ、主演:カート・ラッセル、1982年、109分、原題:The Thing(もの)

何度観ても飽きない想い出の作品。一応、1951年の『遊星よりの物体X』のリメイク版にはなるが、全く独立した作品である。これほど何回も観た映画もないかもしれない。当時、友人からの紹介で、期待せず映画館に出かけたのを覚えている。

なんだB級SFホラーか、暇なとき見てやろうか、とバカにしていた者が観てみて、異口同音に、あのまま見ていなかったら損してた、と驚きと感動を口にする映画だ。

当時二週間前に公開された『E.T.』の正反対をいく映画で、希望もなく悲劇的でおぞましい。そのためか結局、興行収入も伸び悩んでしまい、製作費ととんとんというありさまであった。たしかに、映画は希望や夢を与える娯楽が本道で、そういう内容のものにアメリカ人は弱いようだ。

しかしその後人気を集め、映画ファンなら誰もが知る映画となってしまった。今やホラーとしてはA級作品と言ってよいだろうし、個人的にはホラーを超える映画と思っている。

登場人物は、冒頭ですぐ死ぬノルウェー人を除き、男だけ12人で、女性は登場しない珍しい映画だが、女性にも人気がある。厳寒の南極という閉鎖された設定もよかった。

ストーリーがきちんとできており、モンスターの登場が突然で、登場頻度と間隔もちょうどよい。
何回も見ていると逆に笑えるシーンも多いが、おぞましい怪物の登場シーンに、初めて見る人は仰天するばかりだろう。

広大な南極の雪原を、一匹の犬を追ってヘリが飛んでいる。やがて犬は、アメリカの南極観測隊の基地に逃げ込む。それを撃ち殺そうとヘリで追ってきたのはノルウェーの隊員で、言葉も通じず、アメリカの隊員と撃ち合いになり、彼らはみんな死んでしまう。
犬は仲間の犬といっしょに犬小屋に収容されたが、夜中に異様な変容を遂げ、隊員たちに焼き殺される。

実はこれは犬ではなく、犬のカタチに変わった「もの」であった。調べたところ、その「もの」は、生きている生物に触れるとそれを吸収し、それを終えるとすぐ変形しその生物そっくりに成りきってしまうというのだ。人間に入り込み成りきってしまうと、ホンモノの人間なのか、「もの」が宿った人間なのか、外見からは区別がつかない。

隊員たちにもその危機が迫り、一人がある夜、「もの」に取りつかれてしまう。変形の最中に見つかったので、これも焼き殺されるが、こうなると、いつ誰が「もの」に襲われて人間に化けているのかホンモノの人間のままなのかわからず、隊員相互に疑心暗鬼が募る。
隊員のうち一人がパニックに陥り、通信設備をすべて破壊してしまい、ヘリも破壊されたので、外部との連絡は不可能になってしまった。……

火だるまになるスタントや調教されたシベリアン・ハスキー犬の使い方など、わずかなシーンにほど膨大な費用と時間がかけられ、厳密に編集されているのがわかる。
特に、前半に出る犬の演技はみごとで、このハスキー犬の存在がなければ導入部もありえず、話が始まらず、登場人物の一人と言ってもいい。まさにこの犬が最初に、変形を遂げるからだ。ちなみに、この犬の変形シーンでは、ホンモノの犬とダミーの犬を混ぜて使い、カットを重ねて全部ホンモノのように見せている。触手が伸びたり、触手が犬にからみつくシーンは、もちろん逆回しである。

SFX担当は当時22歳のロブ・ボッティンだ。彼の名をこの映画で初めて知ったが、その後いろいろな映画でおぞましいものを作り上げていることも知った。ホラーの出来は、特撮にあると言ってもいい。後のモンスター作成、SFXなどに、大きな影響を与えた。あの『氷の微笑』にも彼の名は出てくる。さて、そんなシーンがあったかどうか、わかった人はよく見ている人だと思う。

変形する犬のシーンだけは、時間の関係から、当時無名のスタン・ウィンストンが手掛けている。後に『ターミネーター1・2』『エイリアン2』などの特殊メイクで活躍した。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』や『ニュー・シネマ・パラダイス』などで知られる巨匠エンニオ・モリコーネが音楽を担当しているのも意外で、不気味な雰囲気醸成にひと役買っている。

ラストで、マクレディ(カート・ラッセル)の息は白く映るが、チャイルズ(キース・デイヴィッド)の息が白く出ないなど、話題を呼んだシーンもある。生存者はついにこの二人だけだが、寒さの中でどっちみち長くは生きられず、二人でウィスキーを飲みかわす絶望的なシーンで終わりとなる。

できればブルー・レイで観るといいでしょう。

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2013年5月 3日 (金)

江川紹子の真の狙いは、改憲論議の封鎖(2013年5月3日日記)

改憲バスに乗る前に(江川紹子) - Y!ニュース(2013年5月3日 0時9分)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130503-00024690/

5月3日ということもあり、ネット上でもあちらこちらで憲法論議が盛んである。
江川紹子の短い評論があったので、読んでみた。

こういうのをサヨクの煽動という。危険を煽れば、誰も近づきたくなくなる。論議はしていいのに、改憲論議そのものから、人々を遠ざけようとする意図がみられる。

(※いつか消されるので、全文転載しておきます。読み飛ばしていただいてかまいません。)
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安倍首相は、念願の憲法改正に向けてテンションが高まっているらしい。外遊先でも、改憲を夏の参院選の争点にする意向を改めて示し、「まず国民投票法の宿題をやる。その後に96条から始めたい」と述べた。

サウジアラビアでスピーチする安倍首相(首相官邸HPより)第96条は、憲法改正の手続きを定めた条文。改正の発議のために必要な「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」を「過半数以上の賛成」にして、改正を容易にしようというのが、今回の改正の狙い。ただ、「96条から」との発言からも明らかなように、これはほんのとば口に過ぎない。では、ゴールはどこにあるのか。

自民党は、昨年4月に「日本国憲法改正草案」を決定している。マスメディアでは、この問題となると、第9条を書き換えて軍隊である「国防軍」を設置することばかりがクローズアップされがち。確かに、それは重要なテーマではあるが、自民党が目指すゴールは、そういうレベルの(と敢えて言うが)ものではない。まさに「革命」に匹敵するほどの価値観の変容を、国民に迫るものとなっている。

<「個人の尊重」が消えて…>

まず注目すべきは、「個人の尊重」の消滅。
日本国憲法第13条は、まず最初にこう書かれている。

〈すべて国民は、個人として尊重される〉

一人ひとりの「個人」が等しい価値の存在として尊重される。一人ひとりが、自らの生存と自由を守り幸福を追求していく権利を有する。その権利もまた等しく尊重されなければならないーーこれは、憲法の土台であり出発点であり、憲法全体を貫く価値観と言えるだろう。

これによって、立法その他の国政は、個人の人権を最大限に尊重しなければならない。人権と人権がぶつかり合う場合などは、「公共の福祉」の観点から調整し一部の権利が制限されることはある。だが、それは「個人」より「国家」が優先される、という類の発想とは本質的に異なっている。

ところが、「草案」ではこうなっている。

〈全て国民は、人として尊重される〉

国民は、一人ひとりの違いを認め合う「個人」として扱われるのではなく、包括的な「人」というくくりの中に汲み入れられる。違いよりも「人グループ」としての同質性に重きが置かれる。しかも、その人権には、「公益及び公の秩序に反しない限り」という条件がついた。ここには、明らかに「人権」より「公益及び公の秩序」、「個人」より「国家」を優先する発想がある。

「公益」や「公の秩序」に反すると認定されれば、「個人」の言論や思想の自由も認められないことになる。ツイッターやフェイスブックなどが普及した今、表現の自由は、多くの人にとって、情報の受け手としての「知る権利」だけでなく、発信者としての「言論の自由」に関わってくる。

戦前の大日本国憲法は、表現の自由に「法律ノ範囲内ニ於テ」という条件をつけていた。この旧憲法下で、様々な言論が制約され、弾圧が行われた。曖昧な「公益」「公の秩序」は、国家の方針やその時の状況によって、いくらでも恣意的な規制や制約ができそうだ。

表現の自由に限らず、「個人」より「国家」を尊重する。「人権」は「公益及び公の秩序」の下に置かれる。これが、自民党「草案」の基本。日本国憲法と似た体裁をとっているが、まったく別物であり、その価値観は天と地ほども違うと言わなければならない。

<憲法が国民を縛る>

憲法の役割も、180度変えてしまおうとする。現行憲法は国民の権利を謳い、平和主義を宣言し、国の統治機構を定めた後、こう締めくくっている。

〈第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。〉

憲法が縛るものは…天皇陛下が即位直後に、「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と誓われたのは、この条文を意識されてのことだろう。

憲法は、この条文によって、政治家が法律を作ったり、公務員などがそれを執行する時に、憲法で定めた国民の権利を侵害するようなことがないよう、釘を刺しているのだ。つまり、憲法は、国民を縛るのではなく、政治家や公務員らの行動を縛るために存在していると、ここで念押している、といえる。

では、自民党「草案」はどうか。

これに当たる条文のまず最初に、こう書かれている。

〈全て国民は、この憲法を尊重しなければならない〉

憲法を「国民」の言動を律するものに変えよう、というのである。

ちなみに大日本国憲法は、「臣民」が「憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フ」としていた。自民党「草案」は、この点でも明治憲法に先祖返りしている。

<戦争ができる国に>

そして、平和主義と安全保障の問題。
「草案」によれば、「国防軍」の活動範囲は、自衛のための活動のみならず、相当に広い。一応、「武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」としているが、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」ならOK。これによって、国連が武力行使容認決議を行っていない多国籍軍に参加し、戦闘行為、すなわち殺傷行為を行うことも可能となる。

また、「軍人」の職務実施に伴う罪や「国防軍」の機密に関する罪についての裁判は、「軍」内部に置いた「審判所」で裁く、とされる。いわゆる軍法会議の復活だろう。これについての問題点は、軍事ジャーナリスト田岡俊二さんの論稿に詳しい。

もう1つ見過ごされがちなのが、「草案」の第9章として新しく設けられた「緊急事態」。「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律に定める緊急事態」が起きた時に、内閣総理大臣が「緊急事態の宣言」をすることができる、とする。

とってつけたように「自然災害」が加えられているが、東日本大震災のような大規模な(しかも、原発事故を伴う)災害が起きても、日本では「公の秩序」が破壊されるような暴動など起きていない。法律や災害時の対応策をきちんと整備しておけば、憲法でわざわざ「緊急事態」の規定を置く必要はない。また、そのような「内乱」や「武力革命」が起きることも、日本では想定し難い。

要するに、「緊急事態」は戦争を想定した規定なのだ。現行憲法に規定がないのは、戦争をしないのが前提だから。9条の改変に加え、「緊急事態」の規定を入れることで、日本は戦争ができる国へと変貌する。

ひとたび「宣言」が出ると、内閣は強大な権限を持つ。法律と同じ効力を持つ政令を発することができる。つまり、国会抜きで国民の権利を制限することが可能。この「宣言」が発せられると、「何人も…国その他公の機関の指示に従わなければならない」とある。

まさに、総動員態勢で国民が総力を挙げて戦争に協力する態勢を作るための基礎を固めるのが、この「緊急事態」の規定と言える。

<バスに乗る前に必要なこと>

第96条改正の問題を考える時には、その先に、このような国家観、憲法観、人権などについての価値観が広がっていることを、まずは知っておく必要があるだろう。それを知ったうえで、自分の意見をまとめたい。

マスコミも改憲ありきの雰囲気になっているし、よく分からないけど96条だけなら変えてもいいかも…という人がいるかもしれない。でもそれは、行き先も確かめずにバスに飛び乗るようなもの。

バスに乗る前に、切符を買う前に、行き先と停まる停留所は確かめよう。

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私も自民党の憲法草案について、感想を書いたことがあった。(「自民党憲法改正草案に対する感想」
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-050b.html

現憲法の不完全な部分を、ほとんど洗いなおしており、いろいろな点で、バランスのとれた改正案だったと思う。

いろいろなところに論を展開する人間は、書き込むメディア、字数制限、対象読者の年齢・水準などを念頭に、わかりやすく解説する。
この評論にしても、右翼まっしぐらの脂ぎった人間が書くよりとっつきやすい。理系左翼は行動ばかりでモノは書けないのが多いし、文系左翼のモノは、一般の読者を意識して書かれたというより、自己陶酔に浸っているようなものが多い。

それだけに、こういうわかりやすい文章に接すると、ざっとコメントやツイートを見ても、「大変わかりやすく改憲の危険をまとめてくれている」「必読の解説」などと評され、多くの読者が肯定的に受けとめてしまう。あの札付ききっこまでも、おとなしく賛同している。

この江川もオウム事件のころよりテレビで有名になったが、今までから知る限り、ヨシフなどよりは頭がいい人ではある。丁寧な言い回しやたとえ話で、ソフトなイメージをもつ女性が上のように書くと、何も知らない読者は、ああ、そうなのかと思ってしまう。
安倍さんや自民党、保守・愛国のイメージは自然と悪者となり、憲法に触らないほうが安全であるという印象を植え付ける。

誰しも、危険なものには近寄りたがらない。
江川は、改憲そのものがイコール危険であるから、近づかないほうが身のためだ、という。

ところが、江川のホンネはそこにはないと思う。彼女のホンネは、こういうふうにして、改憲論議そのものをしないよう・改憲論議などが起きないよう、読者をいざなっているのだ。

これはまた、改憲論議?そんな難しいことは私にはわからない・俺には関係ない、という人々をも、「そのまま」にしてしまう。

ふつうなら、「そのまま」にしておくのは、どちらサイドにとっても同じように不利になるのであるが、今回は、「そのまま」状態は、あえて改憲に踏み出そうとする自民側に不利である。

政治的無関心層と、政治に関心があるが支持政党は特にない層つまり無党派層が、改憲護憲のどちらの態度をとるかで、参院選はじめ、憲法改正の進捗ぐあいが変わってくる。

今や二つにひとつである。改憲は愛国であり、護憲派は反日・売国である。憲法改正反対を標榜する政治屋が、みな売国奴であることからも明らかだ。

江川のいう3点については、サヨクの論法にありがちな飛躍と我田引水があちこちに見られ、とてもそのまま受け入れられるものではない。
よくもこれだけ、へ理屈を並べて、自分の都合のよいように解釈したと思う。
ここに逐一反論するつもりはない。初めから底意が見えているからである。

これがサヨクというなら、サヨクの論法そのものであり、愛国陣営とは、そもそも発想の出発点そのものが違うな、という感想をもったに過ぎない。

タイトルの比喩に乗っかるフリをするなら、バスは未来に向け走り出すのであって、乗り遅れた者をいつまでも待つ余裕はなく、待っていて殺されてもその死体さえ拾いに戻ることはありえない、ということだ。

今月の社頭掲示(「靖国」より)

更級横多神社社頭に於いての出征挨拶

                               陸軍大尉 望月重信命
                               昭和十九年五月二十二日
                               フィリピンにて戦死
                               長野県更級郡篠ノ井町出身
                               三十五歳

本朝はかくも早々皆様の熱誠なる御歓送をいただきまして、まことに感謝に堪へません。
私は皆様の御心に報ゆべく、必ず全力を尽して御奉公を致す覚悟であります。

今やこの非常時は、今までの戦争の様に、単に世界の地図が塗り変へられるといふ丈(だけ)のものではありません。世界人類の歴史の上に、数百年の大きな時代を画(かく)して、人類の人生観が、国家観が、世界観が、政治の上にも、教育の上にも、経済の上にも、芸術の上にも、宗教の上にも、その他一切に大ひなる飛躍をなさむとしてゐるのであります。新らたなる世界が、我が皇国日本を母体として生れむとしてゐるのであります。(中略)

戦死すると云ふ事は、人生本来の約束から観れば、それ程驚く可き事でも、またさして悲しむべき事でもありません。増してや、天皇の御為にこの一命を捧げます事は、日本男子の本懐であります。吾等は只、この生れては死に、死んでは生れてゆく悠久なる人生の連鎖に於て、如何にして永遠の生き甲斐に生き、さうして不滅の死に甲斐に死ぬかと言ふ事であります。(中略)

私は本日、大命を拝して勇んで戦線にのぞみます。もとより生還は期して居りません。
然し、私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、あとに残られた皆様の責任であります。今後まだまだ大なる、それこそ非常なる艱難(かんなん)が国家の上に、皆様の上に、必ず振りかゝって来るでありませう。その時になって、どの様な苦しい事があっても、皆様は決してへこたれたり、悲鳴をあげるやうな事があってはなりません。どうかこの事をこの社前におきまして、くれぐれもお願ひ致しまして出発のご挨拶と致します。終りにのぞみまして、村内皆様の御健康を祈ります。

                                                                                                            
                                             終り

昭和十四年五月一日                         

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社頭掲示も、時々の政治情勢などに照らして選ばれるようである。

昭和14年といえば、前年昭和13年4月には国家総動員法が公布され、シナでは徐州から武漢三鎮を占領、11月には近衛内閣が東亜新秩序建設の声明を出している。

翌14年には、ノモンハンでのソ連との衝突があり、7月には米国が通商航海条約破棄を通告してきており、顧みれば、大日本帝国が、その進むべき道をほぼ決定することになる年であった。

7月に国民徴用令が公布され、9月1日以降、毎月1日を興亜奉公日とし、その日は、前線にいる兵士を思い、特に慎ましく謹厳な生活をしなければならない一日とされた。
この日は国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝が奨励され、子供の弁当も「日の丸弁当」が望ましいとされた。

翌年からの量産に向け、零式艦上戦闘機の初の試験飛行も行なわれている。昭和15年は、皇紀2600年に当たる。

「私達をして死に甲斐あらしむるか否かは、あとに残られた皆様の責任であります。」

「今後まだまだ大なる、それこそ非常なる艱難が国家の上に、皆様の上に、必ず振りかゝって来るでありませう。その時になって、どの様な苦しい事があっても、皆様は決してへこたれたり、悲鳴をあげるやうな事があってはなりません。」

これらの言葉を残して、彼は戦場に赴いた。

こうした言葉を、小中高のすべての社会科教科書・資料集の巻頭に入れるべきと思う。道徳の授業が復活したなら、そのテキストに入れてもよいだろう。
靖国神社発行の社頭掲示集「英霊の言乃葉」は、いくつかの冊子にまとめられているので、いずれか5冊くらいを、常に、すべての公立図書館・学校図書館に蔵書として置くべきと思う。

2013年5月 1日 (水)

迷える子羊を、保守愛国に振り向かそう (2013年5月1日)

以下、上の三つは、5月1日午前0時半現在のツイッターでのフォロワーの数である。
アカウントを複数持っている者は、そのメインのもので、上の二つは、ツイッター認証済みアカウントになっている。

宋文洲 @sohbunshu  166497

有田芳生 @aritayoshifu 64162

山本太郎俳優 脱原発に60兆票! @yamamototaro0 205260

金明秀 KIM, Myungsoo @han_org 8668

参院山口補選 落選した平岡秀夫 129784票

これは、最近話題になった人物にすぎない。

ツイッターというSNSの世界であり、そのフォロワーにもいろいろな動機の者がいてフォローしているだろうし未成年もいるだろうが、それぞれ、これだけ多くの人数が、これらの人物をフォローしている事実に変わりはない。
言い換えれば、フォロワーの大部分は、そのシンパである。

政党に完璧を求めることはできない。完璧な政党などというものはない。
ただ、目下、日本を立て直し、従来の日本の姿を取り戻すには、現政権それも自民党を応援するしかない。

最近の報道を見ても、沖縄タイムスにしろ、TBSにしろ、姑息な動機が見え隠れしていることは明らかであり、それを見抜ける人は見抜いているわけだし、さまざまなサイトやブログがどこにあるかも知っており、そこから有益な情報をとることができる。

しかし、これらのありかさえ知らない人は多い。また、多いという前提で考えておかなければならない。

問題はやはり、無関心層や、半端な位置にいるが政治的に無関心ではない人たちの動向であろう。これらをひっくるめて、無党派層といっていい。
これらの人たちは、民法にいう「善意の第三者」である。法律でいう「善意」とは、「ある事情を知らない」ことをいう。

例えば、山本太郎はバカなお祭り男にすぎない。俳優といいながら、まともにその仕事をしているわけでもない。これはもう明らかだが、それは保守派愛国派からすれば、そういうコンセンサスが成り立つというだけであって、上のような数の人間が、応援・支援に付いているのは、れっきとした事実だ。

こんな男でも、先の衆院選では、落選したといえ7万票近く集めた。今回の参院補選の平岡秀夫も上のような票を集めることができた。これらは、われわれからすれば想像を絶する集票結果だが、これが現実なんだと思い知らされる。

宋文洲と金明秀以外は、政治にかかわっており、かかわっていこうと企んでいる。今度、少なくとも、参院選までにわれわれの戦う相手は、上のような有名人自身ではなく、それを支援・応援している何千何万という有権者のほうである。

といって、何ができるのか。結論はいつも同じところにきてしまう。それぞれの持ち分で、やれることをやるしかないと思う。

きのう4月30日、西新宿で、日本国神党など右翼民族派が、しばき隊に「宣戦布告」していた。短い動画であったが、彼らは警察がいようとも、常に一本筋の通った主張を繰り返しているだけあって、その怒声は痛快そのものであった。

もちろん、政府は政府で、それ自体が必死になって、さまざまな運動を展開していくのは当然だろう。反日メディアや売国団体、売国政治家など、われわれが見て知っていることは、当然当事者として、彼らも掴んでいるに決まっている。

ネットでの選挙も解禁となり、ネットでの選挙運動という、新しい形でのアクションの道が開かれた。どういうことになるのか、実際に始まってみないとわからない点もあり、興味津々ではある。

ネット住民でも、ネトウヨでも、呼称はどうでもいいが、ネットを含めその与えられた範囲で、保守愛国の人間がこまごまと動いていくことが、あたりまえではあるが、相当大事な結果を導くことになると思う。

そのなかで、無関心層や政治的関心はあるが支持政党を決めかねている人々を、少しでも多く、こちらのサイドに付くようにしなければならない。

上のフォロワーのような人間を切り崩せれば、なおよいに決まっている。
しかし、例えば、山本太郎を応援するような有権者は山本太郎と同レベルの人間であり、いまさら口説いたところで、カエルの面になんとやら、であろう。そんな無駄な労力を使うよりは、どっちつかずの有権者を呼び込むほうが、まだ可能性はある。

安倍政権は依然、支持率が高い。土日を返上してまで、ご本人や閣僚が八面六臂の活躍をされていることを、国民はわかっている。あたりまえのことなのに言えなかったことを、国会であたりまえに発言できるようになったことも知られてきた。
ただ、これも、そういう方向にアンテナを張っている人にはそう見えることであって、そうでない者には、その変化の意味さえわからないだろう。

6月の都議選は大きな崩れ方はしないだろうし、その調子で、参院選も好結果になろうとは思う。
ただ、選挙というのは、やってみなければわからない。

迷える子羊である有権者に、賢明な選択をしてもらうよう、期待したい。そうなるためにも。保守愛国派は、自分のできる範囲で努力していかねばならない。

そのために、ネット住民は、Twitter、mixi、Facebook、Amebaその他SNSやブログで、多くの迷える子羊に、影響力のある情報を、拡散しつづけなければならない。

敵も同じツールを駆使するだろう。誠実で熱意ある保守愛国派による正確な情報提供は、必ずや、迷える子羊の注意を引くことになるだろう。日本という国を愛する心情を、子羊たちに呼び戻さねばならない。

まずは、子羊たちをして、こちらに振り向かせることだ。
なかなか大変だが、英霊も見守る下、こんな千載一遇のチャンスを逃がすわけにはいかないのだ。

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