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2013年3月

2013年3月31日 (日)

特攻隊員「大石清」は捏造 (2013年3月31日)

数年前より、不可解に思っていたことがあった。
それは、YouTubeでもよく知られる、特攻隊員・大石清についてである。「静ちゃんへの手紙」で知られる人物である。

昨年mixiにおいて日記に書いたのだが、5か月後、実在していなかった根拠を示してブログを書いている方があり、やはりこれは架空の人物である、と確信した。
それでもなお、実在したという人がいるならば、以下を読まれて、その根拠となる資料を示していただきたく思う。
当然のことだが、特攻隊の如何を論じているのではない。真偽を確認したいだけである。

******************************

以下(▼▼▼~▲▲▲)は去年6月19日のmixi日記です。
「大石清という特攻隊員は実在したか」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1853244759&owner_id=48430274

   ▼▼▼

以前より疑問に思っていることがある。ここにいう特攻隊はいわゆる神風特攻隊のことである。

おそらく大正末期か昭和初頭に生まれたにしてはすっきりとした名前のこの特攻隊員は、はたして実在したのか、という疑問である。

結論からいえば、いま現在、私の知る限り、この人物についての記録はない。

特攻隊の行動をどう感じても自由だし、その姿に涙してしまうのは私とて同じなのだ。ただ、偽物の特攻隊員が作り上げられているとしたら、そういう捏造は許されないし、それを情報として受け取る人をだましたことにもなるし、第一、特攻隊に対して失礼である。

特攻隊のことも調べていくうち、YouTubeなどもよく見てきた。出撃シーンや戦闘シーンに、女性の歌声をかぶせた、いかにもお涙頂戴的な映像は嫌いだが、それで関心をもつ人が増えるなら、編集した動画投稿もいいだろう。大石清のYouTubeもあり、65万回以上再生されている。

具体的に名前の挙がっているものについては、そのつど資料を照合したときがあった。ニュースフィルムなどは、その凛々しい姿や水杯を受ける光景などに、アナウンスがかぶさる。むしろ、この人はこんな顔をしていたんだと確認できる。

多くの特攻隊員は、そういう運命として飛び立つのだから、当然、出撃基地に出撃した日時が記録されている。死亡そのものの時刻と場所の特定は難しいし不可能だ。特に沖縄に向けての特攻は、戦死場所が沖縄周辺洋上、沖縄本島付近など、目指した方向から記録されるだけで精いっぱいだったろう。途中で不時着して自害した者もいるかもしれない。
しかし、出撃基地と日時は記録されている。ほとんどが出撃日=戦没日である。

かつて、ヤフー知恵袋で、このことを質問したことがある。
特攻隊のことは静かにしておいてあげましょう、などというとんでもない回答があった。それとこれとは別だ。
ある回答に出てくるのは下記の本で、これに書いてあるから実在したはずだという。日本史のカテゴリーでいちばんまともな回答がこの程度だったので、教養カテに替えて、それまでのことを踏まえてさらに質問した。いくつか回答があって、これを一応ベストアンサーにしたが、もうこれ以上続けても無理だと思ったからである。

訳はわからないが、特攻であることを、親類や知人に知られたくない事情があり、名前を変えていたのではないか、という回答であった。

特攻隊が名前を変えるということはありえない。というより、軍人となる入口と過程からして、そんなことはありえない。朝鮮人の特攻隊員もわずかにいた。彼らは日本名をもっている。出撃名簿にも日本名で載っている。日本人として生きているからで、名簿だけからではそれが朝鮮人かわからない。
別途資料をみつけたことがあったのでチェックしたところ、大石清が朝鮮人の通名であるという隊員はいなかった。第一、そういう名前が見つからないのだ。
もし仮に名前を変えていたとして、その理由は何だ?そんな理由があるはずがない。天皇のため国家のため家族のため死ぬ覚悟をした若者が、なぜ偽名を使う必要があるのか?逆に、正々堂々と真の姿で死ぬのだろう。

一度、ある情報が、戦争世代の人に書かれると、それをそのまま信用し、それをもとにいろいろな人がそれを引用し、またそれが引用されていく。大石清を引用したブログもYouTubeもみな文言は同じになる。引用の恐ろしさはこういうところにある。どのブログにもYouTubeなどにも、次の資料に出てくる文章以上のものはない。

知恵袋の回答に、伍長の世話をした飛行機係という人の証言もあるので事実だろう、というのがあったが、特攻隊に関しては、出撃日・戦死日・戦死場所(向かった先)をもって確証とするのがふつうだ。親兄弟でさえ、出撃日に当人がどこにいるのかはわからず、相当あとになって親兄弟宛ての遺書の消印などで知るのである。その中にも、今どこにいるかを書いている場合は少ない。

神坂次郎著『今日われ生きてあり』(新潮社)

この大石清という人に関する話は、以下に限られ、どこを見ても、これ以上の資料がない。つまり、これを出典として同じものが使いまわされているということだ。それは一向にかまわない。情報を拡散し、こんな感動秘話があったというなら、それを知らしめるのはむしろ歓迎すべきだ。

では、この大石清は、どの基地から、何月何日に、出撃したのか?
そのいちばん肝心なところが、どこにも出てこない。他の隊員のものはきちんと書かれている。

以下は上記図書より(▼~▲)

陸軍特別攻撃隊員大石清伍長は、昭和20年(1945年)3月13日、深夜から翌日未明に掛けてのアメリカ軍B29爆撃機274機に依る大阪への無差別戦略爆撃、第1回大阪大空襲で父を失い、続いて重病であった母も亡くした。

小学生の妹、11歳の静恵ちゃんが一人残されて、伯父の許(和歌山県新宮)に引き取られていた。妹思いの彼は、給料の殆どを静(しい)ちゃんに送ったという。

大石清伍長は、昭和20年(1945年)5月20日、知覧特攻基地の補助飛行場として、西へ約15kmの吹上浜に面する位置に急造された万世特攻基地《=終戦直前の昭和20年(1945年)3月から7月までの約4ヶ月間に、201人の特攻隊員が万世飛行場から沖縄に向けて出撃》に到着、その後数日を置かずして出撃、散華された。 終戦まで、後僅か3ヶ月であった。

年齢は定かでないが、中学三年で陸軍飛行学校入学とすれば、
推定17~18歳ではなかったかと思われる。

【妹への手紙】

静ちやん お便りありがたう。 何べんも何べんも読みました。
お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。
神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも
買つて、つかつて下さい。
兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふことも
ありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、
毎月おくります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく。
                         兄ちやんより

【妹への遺書】

なつかしい静ちやん!
おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なは(縄)の海に散つてゐます。
思ひがけない父、母の死で、幼ない静ちやんを一人のこしていくのは、
とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であづけてゐた
いうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが
女学校に上るときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。
これも木下のをぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。
兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが
大じなのです。

もうプロペラがまはつてゐます。
さあ、出げきです。
では兄ちやんは征きます。
泣くなよ静ちやん。がんばれ!

【大野沢威徳氏からの手紙】(万世基地にて)

大石静恵ちやん、
突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。
わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。
そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。
おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう
(特攻人形《マスコット》)を大へんだいじにしてをられました。
いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。
ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)
の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がる
と可哀さうと言つて、おんぶでもするやうに背中につつてをられました。
飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらと
すがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのと
すぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。
同行二人……仏さまのことばで、さう言ひます。
苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。
いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。
けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの“仏さま”になつて、
いつも見てゐてくださることと思ひます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当りされました。
静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、
元気を出してべんきやうしてください。さやうなら

5月21日以降の万世からの出撃記録には、大石清という名前はない。万世からの出撃は、3月28日から7月14日まで断続的に行われているが、その中に名前はない。万世を含め、死亡が確認されたすべての特攻隊員の名簿を載せている『特別攻撃隊全史』(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)にも名前はない。

万世から出撃した特攻隊員に関する資料を集めた『陸軍最後の特攻基地-万世特攻隊員の遺書・遺影-』では、万世からは計200名が出撃していることになっている。残る1名は宮川一郎軍曹で、万世から第104振武隊として出撃したものの、機体不良で引き返し、その後知覧から出撃、6月6日に戦死している。宮川を入れると201名となる。

生年月日も出撃基地も出撃日時も、そろって丸ごと記録に残っていない特攻隊員などがありうるだろうか。

マイミクさんに、もししっかりした根拠をもっている方がいたら、出撃基地・出撃日時と、それを確認した資料の名前をお知らせいただければと思います。

他のこと以上に、特攻隊員の死というものには厳密を期しておきたい、ただそれだけなのです。

   ▲▲▲

以下(▽▽▽~△△△)は去年11月3日のmixi日記です。
「やはり特攻隊員・大石清は捏造であった」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1878943419&owner_id=48430274

   ▽▽▽
大石清という特攻隊員に関するお涙頂戴物語は、数年前より、胡散(うさん)臭いと思っていました。

YouTubeには、特攻隊に関するものが山ほどあり、それはそれでありがたいのですが、顔や名前のある隊員は、海軍・陸軍とも特攻隊員の名簿ですべて確認できていながら、この大石清という人物だけは、私の手持ちの資料をかなりよく調べても、こういう名前の人物は出てこず、それゆえ特攻隊でありながら、出撃基地・出撃日さえ出てこなかったわけです。

最近、更新されたある方のブログにより、この人物については捏造であると断定されていました。

B29にも体当たりをしたという震天隊のニックネームで呼ばれる、調布の陸軍飛行第244戦隊を調べているときに、この戦隊について詳しく書かれている方の資料に出会いました。そのなかに、以下の資料がありました。

ほとんど専門家に近い方の研究資料なので、その方が否定したということは信用していいでしょう。私も書かれていることをよく読みましたが、筆者の推量は正しいと思います。

「背中の静ちゃん」(2012年10月29日)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/kyouware.htm

書き始めは、こうなっています。

<神坂次郎著『今日われ生きてあり』(新潮社)の中の第14話「背中の静ちゃん」は、事実と受け止めるとあまりに出来すぎた話だと感じます。
 「大石清伍長」の「日記」がベースになっているのですが、この日記、具体的地名は大阪(実家)、和歌山(親の故郷?=著者の出身地と同じ)そして最後の万世しか出てこない、部隊名も一切ないという不思議な日記です。>

筆者は最後を、次のような文で結んでいます。

<以上を総合すれば、万世基地から出撃した特攻隊員として「大石清伍長」の実在は確認できず、架空人物である可能性が高い。またその日記等にも不審な点が多く、捏造だと考えるのが妥当であろうとの結論に達します。>

つまり、神坂次郎著『今日われ生きてあり』(新潮社)は、架空の人物を登場させた虚構ということです。

これで、数年来、訝(いぶか)ってきたことがひとつ消え、すっきりしました。

特攻隊員を作り上げ、それをもとに素人読者に実在を信じさせ、その話が拡散して動画にまでなってしまいました。

著者が最初から架空の物語を真実らしく作り上げ、読者やその伝聞を耳にした人が、いつのまにか真実そのものと勝手に解釈したなら、著者には責任がないようにも思えますが、しかし、内容が内容であり、基地や地名、軍のしきたりやシステムなどについて、戦後の人間は、上のような研究者でもないかぎり素人であり、それを承知で、真実と区別のつきにくい美談を捏造したことは問題だと思いますね。

   △△△

【追記】

いままで、このブログに反論する者が何人か現れましたが、それなら、とにかく、それに該当する隊員名・出撃日時・それを載せてある資料を示せ、というと、何も言ってきません。反証を挙げないで反論してもムダです。

※コメントをいただいたので、参考までに貼っておきます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11118959726

2013年3月30日 (土)

特攻隊合同慰霊祭(3月30日)

(公益財団法人)特攻隊戦没者慰霊顕彰会主催による、「第34回 特攻隊合同慰霊祭」に参列してまいりました。

久しぶりに、東京は、寒い日となりました。
今週日曜に満開だった桜は、もう花びらが散り始めています。

昨年は来れなかったので、2年ぶりです。いつも今頃の時期に執り行われます。

国歌斉唱のあと、修祓(しゅばつ)、献饌(けんせん)、祝詞(のりと)奏上、祭文(さいもん)奏上、献吟、奉納演奏、全員斉唱、昇殿参拝、玉串奉奠(ほうてん)、と続き、本殿をあとにし、お杯とおさがりをいただいて終了です。

奉納演奏は、「さくら」と「我(わ)が戦友(とも)よ」「同期の桜」、全員斉唱はいつものとおり「海ゆかば」です。

本殿は、よく昇るところでもないので、こういう日はまた、格別の気分になります。
すべて新しい下着と白いワイシャツ、参道で購入した菊のご紋のカフスとネクタイピンに、ふだんあまり着ないスーツで出かけてきました。

何となくですが、参列者の数が、少なくなったように見えます。

参道は、千代田区観光協会主催の「千代田のさくらまつり」が開かれていて、みたままつり並みの混雑であり、能舞台からは太鼓の音がしており、うしろには参拝者の拍手が間断なく続きますが、心なしか寂しい気もしました。

このたびは、来賓参拝者として、参議院議員佐藤正久防衛大臣政務官のお顔もありました。他に、名簿では、元連合艦隊司令長官小澤治三郎氏ご息女である大穂孝子氏などもいたようです。
戦史検定の笹幸恵さんもいましたが、笹さんはこちらの顕彰会では一理事でもあるので、お年寄りの席案内などをしていました。

この会の会員も、入会している人もいますが、それと同じくらい他界する方もいるので、会員数はほぼ一定です。

献吟で詠まれた歌です。

いつの世も 国守るものは 若人の
止むに止まれぬ 大和魂        
          (第76振武隊隊長 岡村 博二
           昭和20年4月28日 沖縄周辺洋上で戦死)

若鷲は 南の空に 飛び立ちて
還(かえ)るねぐらは 靖国の森
          (第1神雷攻撃隊 棚橋 芳雄
           鹿屋南方の機動部隊所属
           昭和20年3月21日 戦死)

神饌(しんせん)のおさがり、顕彰会の御供物とも、いつもと変わりありません。

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参道には、東北復興支援の店も並んでいました。

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桜は、もう、花が散るばかりです……

2013年3月29日 (金)

日本が誇る行進曲の名曲

何度聴いても飽きませんね。

日本が誇る行進曲の名曲
http://www.youtube.com/watch?v=-OBL8vZ1leY
<externalvideo src="YT:-OBL8vZ1leY">

軍艦行進曲
http://www.youtube.com/watch?v=fUdKEaTLl_c
<externalvideo src="YT:fUdKEaTLl_c">

陸軍分列行進曲
http://www.youtube.com/watch?v=lmErWkD4RrM
<externalvideo src="YT:lmErWkD4RrM">

君が代行進曲
http://www.youtube.com/watch?v=MQuwr6NBwBw
<externalvideo src="YT:MQuwr6NBwBw">

愛国行進曲
http://www.youtube.com/watch?v=2CpcztEOSrs
<externalvideo src="YT:2CpcztEOSrs">

陸軍伍長・吉川廣美の話

(「英霊にこたえる会」靖国カレンダー・平成24年より引用)

昭和19年10月18日、大本営陸海軍部は捷一号作戦発動を命令、フィリピン方面に陸海軍の主力を集中し、決戦をおこなうこととした。

南方軍総司令部が、米軍の攻撃を避けるため、マニラからサイゴンに移る際、その船団に同行した。

吉川伍長は第三航空軍司令部要員として、輸送船「白鹿丸(はくしかまる)」に乗船したが、マニラ南方海上において米軍より雷撃を受け、同船は沈没し吉川伍長は戦死した。

吉川伍長は神奈川県出身、第三航空軍司令部所属、享年17歳。

白鹿丸は戦前を代表する大型の貨物船で、国家総動員法に基づき、大東亜戦争中、陸軍に徴用された艦船の一つである。
同日、米潜水艦ブルーギルに雷撃を受け沈没。乗員のうち25名が死亡。この中には、『立派な兵隊』などで知られる作曲家で陸軍軍楽隊隊長の大沼哲(おおぬま・さとる)少佐もいた。

吉川伍長が出発を前にして、家族に宛てた手紙が残されている。

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 出發を前に一言所見を述ぶ
 凡そ皇國に生を享け男子として戰陣に臨むは無上の光栄光榮なりと信ず。
 宜しく母姉の志を體して戦場を馳逐し皇恩に報いん事を期す。
 我戦場にある間何卒心配無用。母上様には、ご老體を無理し御病気等にならぬ様。必ずや母上様の御恩に報い、折につけ母上様を思ひ勇猛心を振ひ起こさん。
 母上様には色々と御苦勞をおかけせり。我儘を云ひ大病に患ひ、何とお詫びしてよいやら唯々有難さに胸迫るのみ。
 姉上様には色々お面倒有難う。我征きたる後は母上様をお願ひ致します。
 必ずしも嫁入りせずして孝養をたのむに非ず早く結婚して母上様を安心させん事を望むなり。我も一日も早く姉上様の幸福を祈るなり。
 では最後に皆様の御健康と御幸福を祈つて止みません。

     八月四日  廣美

母上様 姉上様

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軍艦だけでなく、多数の民間徴用船も沈没し、多数の生命が失われたを、忘れてはならない。

それにしても、簡潔でありながら意志の凝縮した文章に感嘆する。
戦時中とはいえ、このような高潔な愛国心をもって、親や姉宛てに手紙を書ける気概というものに敬服する。

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2013年3月26日 (火)

礼の国、日本

マイミクさんやツイッターフォロワーの方が、アップしていた映像です。

平成25年3月11日の東日本大震災二周年追悼式のもよう全編です。
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg7684.html

NHKでは、時間の関係なのか思想的な傾向なのか、全編は中継していなかったそうです。
同じ日本人が、不慮の災害により、多数死亡したのです。他の番組を差し置いても、全編流すべきだったでしょうね。それが日本放送協会の使命というものでしょう。

私も、(音は消してましたが)この全編を見て、まことに荘厳で、格式の高い追悼式だったのだなと、感激を新たにしました。

ニュースなどではほとんど映りませんが、カメラが引いて、舞台全景が映ると、白菊の飾られた祭壇が左右に大きく開かれているのがわかります。同時に、その上に、清らかに凛然と国旗が掲げられているのもわかります。
開式の挨拶のあと、すぐに、陸上自衛隊音楽隊の伴奏により国歌が斉唱され、そこに国旗が大きく映ります。

畏くも天皇皇后両陛下のご臨席により、日本国国家をあげての追悼であるという意味が、会場や、そこに参列できず中継を見ている人々に、共有されたのではないかと思います。(この意味でも、NHKは、献花の終わるまで全編放映してろ!何のために受信料とってるんだ?)

この映像を見ているうち、各国来賓の方々による献花のあたりから、目頭が熱くなりました。多くの人が、一礼し、献花し、慰霊塔を見つめ、また一礼し、去っていく…。中には、手を合わせる人もいました。日本に馴染みの深い大使館・公使館の関係者も多いのでしょうが、大変行き届いています。

世の中の儀式のなかで、最も厳粛なるものは、葬儀や慰霊の式でしょう。しかも、日本人の尊い生命が多く失われてしまったことに対する慰霊であり、すべてにおいて細やかな配慮が行き届いており、日本国の格式の高さを感じます。

専門ではないのだけど、常々言ってることですが、日本の世の礼儀というものは、およそ、皇室に由来するものと理解しています。礼儀から、さまざまな作法、ものの順序や秩序、世間にある位階・序列・順位・公私の別などが生まれてきたものと思います。
それらの基本は、まず、こうべを垂れるということから始まります。

先日、靖国神社や千鳥が淵の桜を見て、日本人であることを誇りに思いましたが、この式典を見ていて、同じことを思いました。

未来ある赤ちゃんや小学生まで亡くなったことを思うと、痛恨の極みですが、同じ日本人としてできることをできたら、と思いました。仮に寄付などできなくてもいい。現地でがんばっている人々に、いっとき静かに座って、思いを馳せるということでも、しないよりはいいと思うのです。

話が急に俗っぽくなりますが、先日あるサヨクのブログをつぶやきに上げました。同じ人物がいろいろ書いています。
自分らが復興に向けてやってきて協力するからには、被災地の方々は安心してください、そして、足りないところは政府の責任だから、自分らがそのパイプ役として国をせっついてあげます、といったような趣旨のものもありました。

コメントの二つめに、10代と思われる子供が感想を述べていました。自分らは親や友達とすでに毎日がんばっている、だから、あなたたちは邪魔しに来ないでください、といった趣旨でありました。

大飯でも同じ、宜野湾でも同じ。現地の人々が、サヨクに助けを請うているのではないのです。国民は、いろいろな形で、人間として、援助・協力することができます。それは、被災地の人々が、自存を目的として、日々営んでいる生活に組み込まれていくものです。

現地の人々は、あえて、サヨクや朝鮮人を呼んで、お祭り騒ぎを望んでいるのでもないし、それによって左傾新聞が記事にするのを望んでいるのでもありません。
被害を受けた人々は、黙々と、急にではないが、元の生活を目標にして、静かにではあるがたくましく生きているのでしょう。

本当の悲しみや苦しみは、部外者には理解できないものでしょう。それなら、なおさら、無関係のサヨクなる者どもが立ち入ってきて、あたかも、自分らの辛さ苦しみを、軽々しく代弁するのはよしてほしい、と願うのは当然です。

この式典中にも、近場でシュプレヒコールをあげている愚か者がたくさんいたそうです。

礼をわきまえない人間は、もはや、思想を語ることはできません。ただの駄々っ子と同じです。
思想の表明は、どこかを占拠して威張り散らすことでも、火炎瓶を投げて憂さ晴らしをすることでもありません。

彼らにはいずれ、天誅が下るはずです。

2013年3月24日 (日)

陸軍伍長岸田盛夫~その血書と遺書

岸田盛夫伍長は、第六十四振武隊の隊員として、昭和20年6月11日、特攻隊として沖縄に向かい、散華している。振武隊というのは陸軍である。

大正13年、京都に生まれ、少年飛行兵第13期で、10年先輩の渋谷健一大尉の僚機として万世飛行場より九九式襲撃機で出撃し、沖縄本島付近で、米船団に突入した。満二十歳であった。その後、四階級特進で少尉となった。

万世飛行場は、幻の基地と呼ばれた陸軍の秘匿飛行場であった。今の鹿児島県南さつま市加世田にあった。薩摩半島吹上浜の松林を切り開いてできた基地である。
ここから20km離れた知覧は有名だが、万世からも多くの部隊が出撃した。そのほとんどが十代から二十代の若者であった。

知覧は大刀洗陸軍飛行学校の分校として設備も整い、米軍の地図にも載っていた。特攻部隊増援のため、敗色濃くなった昭和20年3月に、急遽つくられたのが万世基地であった。
そのため、滑走路などは充分に地ならしをする余裕もなかった。また一般の軍隊にも機密として扱われたため、同じ陸軍でさえ万世のことは知り得なかった。
今でこそ、万世特攻平和記念館ができているが、当時は限られた関係者しか知らず、同年7月末までしか使われなかった、まさに幻の陸軍基地であった。

苗村七郎氏編著の『陸軍最後の特攻基地-万世特攻隊員の遺書・遺影-』より、岸田盛夫の血書・遺書を紹介します。
文字は本人の書いたままです。

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<血書>

天皇陛下 萬才
必死轟沈

     岸田

<遺書>

   悠久の大義に生んとして

唯今より大君の御為に敵の船団を求めて攻撃に向わんとす。長の御世話感謝の外なし、御父様御母様決戦下愈々身体に注意されて増産に御励み下さゐ。
姉さま短い間の姉さまでしたがありがたう。峰山の伯父様にもよろしく、久次の春枝姉さま昌代ちゃんを大切に、盛夫は死しても国家隆昌の中に生きて居ます。しっかり増産に励んで下さゐ。
鈴ちゃん睦ちゃん和ちゃん宣ちゃん、兄さんは唯今より、天皇陛下の御為に攻撃に出ます。元気でしっかり勉強して下さゐ。兄上には便りのせんなきも誓って我守る。
国家の隆昌の中に永久に生くかなしみあるべからず。
喜び勇み元気旺盛出発す。さらば。

若櫻 異境の空に 果つるとも
 守らで止まむ 大和御国を

<遺書>(※6月11日付の新聞に墨書で残したもの。この日は岸田の出撃の日であると同時に散華した日でもある。朝刊に書き残したのだろう。)

何モ出来ザリシ我御許下サイ
陛下ノ御為我最大ノ力ヲ発揮シマス

◎若櫻 異境の空に 果つるとも
  守らで止まじ 大和皇国を
 
      岸田盛夫

<遺書>

思ひ出すのは幼い頃の
 母の背中よ 水色星よ
蛍飛ぶ飛ぶあぜ道の
 遠い祭の笛タイコ

思ひ出すのは兄弟けんか
 父に叱られ 小藪のかげに
我が家なつかし思ひ出の
 呼んだやさしい母の声

思ひ出すのは門出の朝の
 母のあのかお 小さい姿
ふった日の丸思ひ出の
 手柄立てずに死なれよか

<遺書>

俺には靖国神社に弟が待ってゐる。
道案内は弟に頼むんだ。羨ましかろう。

(※予科練にいた弟は昭和19年12月に戦死している。)

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

岸田盛夫隊員については、小学校のときの恩師に宛てた手紙も紹介されています。
伊崎ウメという恩師に宛てた手紙で、家族など身近な者以外への手紙があるというのは、そんなに多いほうではありません。一枚の巻紙に、大文字の血書から書き始めています。

出撃前夜と書いてあります。特攻隊員が出撃前夜に、恩師に手紙を書いている…まさに、仰げば尊しの世界ですが、本来教育とはこういう姿をしていなければならないと痛感します。

そして、恩師に手紙を書いた岸田隊員の心中を思うと、察してなお余りあるものがあります。
文字は本人の書いたままです。〇〇のところは二字不明です。血書以外は墨書です。

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<血書>

伊崎先生へ

大君の御楯となりて征く我は
空に散り行く 若櫻花

<遺書>

先生

過ぎし数年の間色々と御世話下されありがたう御座居ました。
唯今岸田男子一生栄ある特別攻撃隊員の命を受け、唯今出撃致します。今我が気持喜びと感謝で一杯です。此の世に男として生を享けたるる此の上なき喜びで胸一杯です。

過ぎし小学校の二年三年時代が眼前に彷彿と回りどうろの様です。

二年の時でしたか劇をせよと云われていやがった。我亦先生と一緒にスキーを練習した日、元気一杯運動場をかけ回った日、遠足の日、山登りの日等様々な想ひ出のかずかずです。見事に咲いた桜の花もいさぎよく散って行きました。大和男子の姿此処にあり。

私も見事敵艦に体当りを敢行、鬼畜の艦兵共にあの世の道ずれとして行きます。愉快愉快此の上なし四月十六日最後の別れに帰省致しました。先生にお会ひして御礼に参上致すべく考へて居ましたが、留守の為後に心を残しつつ任務につきました。一回漸く成長せし姿を見て戴き安心して戴きたかったです。田中富男君一人のみ同級生は残って居ました。

而し我等今肉体はほろぶとも生命は永遠に生きて皇国を守らん〇〇と共に生きて行きます。そして永遠に栄ゆべき皇国を守って行きます。

どうか十分身体に御注意されて、御教育に御専心下さい。
乱筆にて最後の便り、失礼致します。

出撃前夜 振武隊

                陸軍特別攻撃隊渋谷隊員

                   陸軍伍長 岸田盛夫

先生へ

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最期の「出撃前夜 振武隊」と「先生へ」は大きく書かれています。

以上が封に入れられ、京都府中郡に住む、伊崎ウメ宛て出されています。
封書の裏には、

    特別攻撃隊
      渋谷隊
                
        岸田盛夫

と書かれています。

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2013年3月22日 (金)

陸上自衛隊土浦駐屯地と『予科練ものがたり』

昨年3月27日に、初めて、茨城県土浦市の陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校に行きました。
帰ってきてからの日記二日分(27日・31日)をひとつにして、再掲します。

今年も行けたらいいなあ…。

陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校オフィシャルHP
http://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/
駐屯地見学のご案内
http://www.mod.go.jp/gsdf/ord_sch/03_visit/visit.html
駐屯地広報地区(雄翔館等)のリニューアルオープンに関するお知らせ   平成25年4月6日(土)、広報地区(雄翔館等)をリニューアルオープンいたします。
このため、3月1日(金)から4月5日(金)までの間は、雄翔館改修工事のため広報地区全ての見学を一時休止させていただきます。

見学時間は、従来どおり 9時30分~16時30分です。

4月6日(土)及び4月7日(日)のご見学について
◎4月6日(土)及び4月7日(日)のご見学につきましては、駐屯地一般開放 のため、事前のご予約は必要ありません。
多数のご来場を心よりお待ちしております。

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火曜というのにせっかく休みをもらったので、早起きして茨城県土浦市まで行ってきた。
予科練平和記念館と雄翔館・雄翔園を見るためである。一度、あの二人像は、じかに見ておきたかった。
ちょうど晴れてよかった。

予科練平和記念館はフォトにしたとおり、意外にも美術館のような建物だったのにはびっくりした。
予科練の生徒らが、倍率の高い試験を通ったあとの学習や訓練のようすなどが思い浮かぶ。机やいす、吊り床などのほか、貴重な写真や遺書もあった。
雄翔館は小さな建物であるが、遺品類や親に宛てた手紙など多数の資料が展示されていた。

予科練平和記念館のパンフレットには次のようにある。

「予科練」とは、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧米列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練を行って熟練の搭乗員を育てようと、昭和5年にその教育を開始しました。14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の約1万9千人にのぼりました。

行きは各駅停車だったので、帰りは記念に、特急フレッシュひたちに乗った。土浦を出ると柏しか止まらず、終点上野に着いた。

『予科練ものがたり』

これは、茨城県阿見町と予科練平和記念館が編集・発行している図書だ。

昨年3月27日に、記念館の売店で求めた。
写真や挿絵が多く、子供が読んでもいいようにか、漢字にふりがながふられている。

フォトにもアップしたのだが、日課や授業の一例がわかる。カッターというのは14人乗りのボートである。

午前6時の起床から、21時の就寝まで、分刻みのスケジュールである。今でいう高校に該当するとはいえ、午後9時に就寝、それもあの吊り床で、静かに眠るのだ。

自習とあるが、任意のものではなく、義務的な学習で、しなければならなかった。記念館の説明によると、本来は「温習」と呼んでいたとのことだ。

自習が終わると、吊り床で黙想し、海軍五省(ごせい)を静かに唱えた、とある。

ちなみに、現在でも、江田島で学んでいる海上自衛隊第1術科学校及び海上自衛隊幹部候補生学校の学生たちは、旧海軍時代の伝統を受け継ぎ、現在でも兵学校時代と変わらぬスタイルで、毎晩自習終了時刻の5分前になると、五省の唱和により、自分を顧み、日々の修養に励んでいる。

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2013年3月21日 (木)

英霊が見守るかぎり…

桜が開花し始めました。

靖国神社の標本木の桜や、職場近く隅田川のほとりにある桜の写真をアップしましたが、お互いにイイネ!を付け合ったりと、桜の写真には、感動します。
これからマイミクさんの桜のフォトを見るのが楽しみです。去年を思い出します。

特に、桜の咲き始めというのは、春の訪(おとな)いを告げる風景として、満開のとき以上に、ほのぼのと、そして、穏やかな気持ちをもたらしてくれます。
毎年のこととはいえ、ようやく寒い冬から解放されるという気分になるからでしょう。

ところで、マイミクさんを含め、われら保守愛国の人々は、それぞれの持ち分で、それぞれの活躍をしています。ツイッターや自身のブログやその拡散、あるいは電話やメールなどの直接行動、それに街宣などです。

ここへきて、この一年以来思うところとして、三つの点で、世にある保守愛国の人々のなかにも、微妙な温度差があるのがわかりました。

原発、TPP、在特会に関してです。
その他諸々のテーマについては、ほぼ同一路線かと思います。

簡単にまとめれば、原発は全く推進する、原発を急に停止することには賛成しないが徐々に脱原発のほうへ進むべし、…いずれも反原発ではないのです。

TPPについては、基本的にすべてに反対する、品目・分野ごとに区分けして扱う、…いずれも全分野賛成ではないのです。

在特会については、その会員として現に活躍している、会員ではないがその活躍ぶりには一定の評価をする、方針には賛同するが手段を改めるべきだ、…いずれも、全くすべてを否定するというわけではないようです。

私の現在の考えは、手短に言うと、こうなります。

原発は、推進します。せざるを得ないから、というやや消極的な発想ですが、現状追認で推進する、といわざるを得ません。

TPPについては、不用意なTPP参加には反対します。品目ごとに区分けした上で、将来、日本の国益に反するような内容については反対せざるを得ません。
どんな品目にも、賛成反対がありえますが、米国の思惑どおりに進められるのだけは願い下げです。
といって、日本が、特にアジア地域で、経済的に出遅れるのは、これもまた将来的な国益に反します。
舵取りが難しいところですが、ここは政府を信じるしかありません。

在特会は、すでに存在して活躍しているので、だからその存在を認めざるを得ないから、彼らの活動に賛成というわけではありません。過去にいろいろな出来事があったことは、それなりに承知しているつもりです。
しかし、彼らの直接行動や街宣活動によって、知らないことを知らされたこともあり、彼らの活躍により事態が是正されていったことも多いです。
愛国のひとつのありかたとして、私のようなサラリーマンではできないことを、積極的にやっていることは認めたいと思います。

年末から二つの懸念がありました。在日特権は民主党が始めたことではありません。自民党政府が認めてしまったことであり、河野談話もそうでした。戦前より引き続き、戦後も自民党と韓国とは太いパイプがあります。ここは対シナとは大きく異なるところです。
安倍内閣の発足により、在特会の本命である在日特権廃止の動きが鈍るかと思っていましたが、それはないようなので、このほうの懸念は消えました。

もう一つは、所帯が大きくなると、必ず反対勢力ややっかみ勢力が出てきます。おそらく幹部の方々はわかっているのでしょうが、今は過渡期としても、そうした勢力によって、相手と同等次元に留まることを強いられる、という事態には注意されたほうがいいと思います。

それぞれが思うところを主張することで、一向にかまわないと思います。ですから、ここのコメント欄に、私はコレには賛成だ反対だ、というたぐいのものは、私に対するものでも書かないでください。それは各自の日記で展開していただければと思います。

大きな視野に立てば、今は保守系・愛国系の勢いは増しているように感じます。それだけに、これを快く思わない者も増えてくると思われます。
それでも、やがて、反日マスコミやNHK、左傾新聞は、少しずつではあっても、販売部数を減らし、視聴率も減っていくでしょう。

一例をあげれば、朝日新聞も急激に部数を減らしました。それを予想してか社の方針としてか時代の要請するところとしてか、デジタルのほうは、この3月で10万人の会員を集めたと言っています。まだ3月は終わってないのですけどね。
ダブっている人もいるでしょう。差引を計算しても、いわゆる朝日から離れている人間は多いということです。

ここで、初めの桜の話に戻ります。
全く非論理的ではありますが、保守愛国者のなかに、テーマによって多少の温度差や考え方の違いはあっても、246万余の英霊が見守っているからには、日本は全体的には、決して妙な方向には行かないと思うのです。

天下泰平な考えと言われればそれまでですが、別に呑気に構えているわけではありません。
17日の日曜日に靖国神社に参拝したときも、日曜にしてもなお、ふだんよりは多くの参拝者がありました。日曜に拝殿前に横4列で縦に17列も人々が並んでいるのを見たことがありません。
暖かくなり、桜の開花宣言があったことも影響しているでしょう。彼岸入りということもあるでしょう。それにしても、大変な人出でした。

民主党政権時、英霊は今の日本を見てどう思っていられるだろう、嘆いていられるに違いない、といった悲観的な言葉があちこちに見受けられました。

今はそうではありません。
英霊が見守っているからこそ、日本を本来の姿にするべく、主張すべきは主張しなければ、という気概が、心ある日本国民の間に、みなぎっているように感じられます。
世論は、首相官邸周辺や日比谷公園にあるのではありません。選挙の結果として現れるのです。時間的にも、刹那の現象によって動くものでもありません。

最近は、参拝して感謝の誠を捧げるだけでなく、そこから愛国の情熱をいただいているような気がします。それを自分の活躍に活かしていくべきと思っています。

英霊は、サヨクがどうのといった次元とは無縁の、気高いところに存在していると思うのです。彼らの死するとは、大義であったはずです。

俗世間に今を生きるわれわれは、とても大義の死とはいきそうにありませんが、それに近い志は持ち続けていきたいし、持ち続けていくべきと考えます。

あるマイミクさんが私のフォトに、こんなコメントをしてくれました。
桜が咲くと、おかえりなさい、と言いたい、と。

桜の花の咲くところで、英霊と会話できたとしたら、…こんな崇高な時間があるでしょうか。

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2013年3月18日 (月)

サヨクに乗じ跳梁跋扈するシナ人の暗躍(沖縄)

沖縄のマイミクさんのFBより拡散します。

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【CAUTION】 アメリカ軍人及び、軍属、関係者の皆様へ

この沖縄には多くのシナ人が観光客を装い入域し、県内各地の米軍施設周辺に出没しています。
最近、嘉手納飛行場で撮影されたF22の写真を購入していたのも、シナ人でした。

今は厳しくなっていますが、以前は米軍人の間で、基地の中に観光客をゲストとして招きいれ、料金を取るバイトが流行しており、その中に日本人観光客に扮したシナ人が数多く紛れ込んで、基地内の様子を写真に収めていたことがありました。

マスコミ総出での反米、反基地、反オスプレイ闘争の真の目的は、住民の安全などではなく、アメリカを沖縄から追い出すことです。
直接手を下せば戦争(Hot War)になる、そうなればシナは世界的に孤立します。
だからこそいま、情報戦(Information War)を積極的に仕掛けているのです。
わが国は情報に関するセキュリティと法整備が非常に立ち遅れた国であり、各国のスパイの草刈場と化しております。

私は、住まいだけではなく、平素立ち寄る飲食店、自動車修理工場、家電店なども、確実に情報収集の場として狙われていると感じています。
シナ人と手を組めばカネになる、と思い込んだ輩が数多くいるのが沖縄です。
普段反米を叫ぶ公務員や教職員が退職後に軍用地を買い漁っているという話もあります。

私は以前から、米軍関係者や家族、恋人達が安心して利用できる店を指定しようと米軍側に提案してきました。
それは復帰前の琉球政府時代にあった、Aサインを復活させることです。

私たちのような民間機関にて、申請を受けた店舗の調査を行い、英語対応力、店主、店員の思想、反米活動への参加の有無、盗聴等の工作の有無を厳しく調査し、基準に合格した店舗を米側に「推薦」するというものです。
米側からも推薦を認められた店舗には、Aサインのプレート及び許可証を交付し、店の入り口と店内に掲げていただく。
そうすれば、利用する側も安心して店を利用できるというものです。
初めての店へ入店し、変な酒やクスリで前後不覚になり事件へと誘われる確立も劇的に軽減するでしょう。

すでに、ここ沖縄では情報戦の真っ只中といえます。
民間であっても、国益を守ることへのお手伝いが出来るのであれば、私は喜んであらゆる手法を提案、実行したいと思います。

軍人とご家族の皆さん、そして恋人の皆さん。
彼らは野嵩や大山ゲートで車両のナンバープレートと運転者の顔を撮影しています。
それが何に使われているかは判りませんが、最悪の事態に備えることが危機管理というものです。
基地外の店舗のご利用は、信頼のあるお店でお願いします。

沖縄米兵自宅に中国スパイが仕掛けたと推測の盗聴器見つかる(2013.03.04 07:00)
http://www.news-postseven.com/archives/20130304_174683.html

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2013年3月17日 (日)

海軍・木村昌福少将の話

昭和18年(1943年)5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、山崎保代(やまざき・やすよ)大佐以下の部隊が玉砕した。大東亜戦史で初めて玉砕という言葉が使われた。
その東に位置するキスカ島に、まだ米軍は現れていなかった。

キスカも時を経ずして同じことになる可能性があり、大本営は、島にいる陸軍約2400人、海軍約2800人の合わせて約5200人の将兵全員を撤収させることと決定した。

この撤収作戦は、当初潜水艦でおこなう予定であったが、アッツ島玉砕に伴い米軍も空と海からの警戒を厳重にしてきたため、二隻の潜水艦が消息不明となり一隻が擱座(座礁)するなどの被害があり、島は孤立の危険があり、アッツに次ぐ玉砕が懸念されていた。

やむをえず、駆逐艦を使い、海上での引き揚げが決定され、6月10日、その任を仰せつかったのは、第一水雷戦隊の司令官・木村昌福(きむら・まさとみ)少将であった。キスカ撤収作戦の始まりである。
この作戦はケ号作戦とも言われる。ケ号のケは、捲土重来のケを意味する。木村昌福は立派な髭を生やしていたため、髭のショーフクとも呼ばれていた。

木村は海兵(海軍兵学校)出身ではあるもののあまり成績も芳しくなく、駆逐艦の道ひと筋に、地道な努力を続けてきていた。木村は撤収敢行の準備を周到に整えると同時に、特別に気象士官の配属を強く要求した。
アリューシャン列島付近は天候が変わりやすく、濃霧が発生しやすかったからである。しかしこの気象の専門家の配置は、艦隊航行の安全確保のためだけではなく、撤収作戦に活かすためでもあった。
すなわち、駆逐艦で海上から撤収することは、昼でも夜でも米軍から視認されてしまう。そこを、濃霧の発生に紛れて撤収しようというわけである。濃霧であるから、自分らの艦隊じたいも、慎重に航行しなければならなかった。

いよいよ7月1日に作戦が開始され、木村率いる艦隊が出動した。濃霧は10日は続くという予想であったが、キスカに着く寸前晴れてしまい、途中で引き返せざるをえなかった。次に10日に出動したところ、折悪しく米軍の哨戒機の姿を発見、またもや引き返すことになる。大本営はいら立ちを隠さず、木村を批判するが、木村は泰然自若として、霧の発生するのを待ちに待った。

ようやく22日、濃霧の予想を信じ、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻などで、三たび出動した。29日、濃い霧のなか、船隊は静かにキスカに近づき、木村座乗の軽巡「阿武隈」などが、将兵の集まる湾の入口に停泊することに成功。午後1時49分であった。
このとき米軍も攻撃をしていなかったわけではないが、濃霧に遮られたのと、艦船の燃料補給のため、たまたま島の封鎖を解いていたことが後にわかっている。

駆逐艦「島風」などから降ろされた大型発動機付き舟艇が砂浜に乗り上げ、拡声器で知らされ集合していた将兵を、手際よく乗り込ませ、午後2時35分にはすべての将兵を積んで出港した。
これら舟艇には大型発動機が付いており、通称、大発と略され、その後のダイハツ工業となる。
わずか55分で、駆逐艦などに分散し、約5200人が一挙に引き揚げたのである。
二日後の31日、救出艦隊は、カムチャツカ半島の幌筵(ホロムシロ、パラムシル)島に、無事帰投した。

木村昌福の念の入った計画と頑固なまでの信念、霧が晴れたら残念に思えても引き返す勇気、実行中のそのつどの冷静な判断が、短時間での大規模人員の撤収を成功させたのであった。
キスカに向かう艦隊が、濃霧によって互いに衝突するという事態も起きたものの、損傷した駆逐艦は戦列から離れるよう指示するあたりも帝国軍人らしい。

この名誉ある撤収作戦の成功は、後世に語り継がれ、三船敏郎主演で映画化されている。

木村昌福の指導力は、後に、1944年12月のフィリピンにおける礼号作戦でも発揮される。ミンドロ島沖にいる米軍艦隊への攻撃作戦である。
木村が選んだ艦艇の動きとよく練られた作戦が功を奏し、帝国海軍最後の勝利と言われている。

1944年11月、中将に昇進している。

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2013年3月16日 (土)

沖縄のとんでもない実態 (2013年3月16日)

マイミクさんのFBより拡散します。

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【新聞記事】 自衛隊誘致は違法 賠償請求 2013/03/16 琉球新報

自衛隊誘致を議会・町長が決めたから、賠償しろとは?
沖縄では、自分達の気に入らないことが進められると、なぜか裁判に打って出て、それを妨害するだけではなく、賠償しろ、と手をクレクレをする連中が必ず出てきます。
裁判所は、「防衛は国の専決事項であり、地方行政の意図に左右されるものではない」と、ビシッと跳ね除けるべきです。
こんなものがまかり通ると、自衛隊の航空機が頭上を飛んだだけで、
自衛隊員の制服姿を見ただけで精神的苦痛を受けたと、謝罪、賠償を求める魑魅魍魎がどんどん跋扈することでしょう。

実際、軍用飛行場のあるところでは、爆損訴訟と称し、一人当たり7万円ほどの裁判費用を負担すれば、100万円帰ってくると住民に囁き、人数を集め国を提訴する裁判が相次いで提訴されています。
そして100万円を手にしてほくそ笑む方々が現実にいるのです。
この裁判を担当する弁護士さんたちにとって、訴訟費用、そして成功報酬だけでも莫大な利益になるでしょう。
これを沖縄では、「反戦ビジネス」と呼ぶ場合もあります。

さて、この件も賠償を求めていますね。
国家の防衛よりも、私的な賠償を優先させることが大きく報道される。
これが沖縄の現実なのです。

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2013年3月15日 (金)

反天連という名の烏合の衆 (2013年3月15日)

反天皇制運動連絡会という偉そうなわりにインチキ臭い名まえの略称が、反天連である。実際、インチキ集団である。

以前も引用してこきおろしたのだが、その後反天連のブログは何回かしか更新されていない。公に開示するHPで更新が少ないのは、あまりセオリーの基盤が成っていない証左だと思う。

それぞれのブログには、俺たちは巨大で怖いんだよとでも言うのかモンスターという語が付いていて、[集会報告]、[今月の暴言]、[主張]など趣旨によって分かれている。そのうち[主張]なるものが、他のものよりしっかりとした文章で長めに書かれてはいる。ここで、まだ他よりマシな論理武装を展開している。つまり、この[主張]ブログが、彼らの根本的考えかたを披露する場なのである。

この[主張]は、今年(2012年)に入って5回しか書かれておらず、こういった部署を固める人材の不足が原因だろう。順に、1月12日に中村ななこ(反「昭和の日」行動実行委員会))、2月16日に桜井大子、3月20日に上平学、4月15日に北野誉、6月22日に鰐沢桃子なる人物がそれぞれ書いていて、この5人を調べる限り、有名人ではなく、それどころか生業にさえついていないような気がする。上平学というのは、全く放置したままのFacebookでは、職業欄に、あ~~仕事きら~い、と書いている。桜井大子と北野誉はどう見ても50歳以上で、ときどき仲間を集めては小さな講演会をしているようだ。このうちいちばんペンを走らせているのは北野誉で、サヨクの会報「市民の意見30の会」にも寄稿している。

以下(▼~▲)は、そのいちばん最近の6月22日のブログである。
長いが、ところどころコメント(★~★)を挟んでみる。

ところが、このブログだけ、その後消されている。以下のように、突っ込まれやすい書き方だったため、反天連内部の意志として削除したのだろう。
せっかくなので、ほぼそのまま転載する。


反天連(反天皇制運動連絡会)ブログ

2012/06/22モンスター28号[主張]

沖縄と原発、私たちの〈当事者性〉

私たち反天連のGWは、4・28~4・29「植民地支配と日米安保を問う」(反安保実行委員会+反「昭和の日」実行委員会主催)連続行動からスタートした。28日の「沖縄デー」には写真家で沖縄NGOセンター代表の新垣誠さんと民族問題研究者の太田昌国さんの講演集会。29日は13の運動グループから発言してもらった。限られた時間の中で、どうなることかとハラハラしたが、各自八分という短い時間ゆえにギュッと「旨味」が凝縮され、今後の運動の活力となるような栄養価(?)の高いスピーチであった。連続行動で発言していただいた皆様、本当にありがとうございました(詳細は報告参照)。

近年の運動報告が、その内容より弾圧と暴力に関することに終始してしまう現状が続いていた。が今回、会場外からの大音量の雑音を気にせず、集中して発言者のことばに耳を傾けることができた。デモも、在特会や街宣右翼の罵声の中を進むことなく、彼らの姿を見ることなしに行うことができた。この間の暴力のエスカレートに対して、私たちはそのつど抗議声明を出し、警備当局に公開質問状を提出してきた。このことが一定の功を奏したと言えるだろう。しかし一方で、警察権力の匙加減ひとつでどうにでもなることが露呈したともいえる。今回、これ以上社会問題化することを恐れた警察の判断があったことは間違いないだろう。

かたや、いつも通りの光景もあった。私たちのデモは「非暴力」の立場で、「思想・良心の自由」の表現という当然の権利としてなされている。にも関わらず、デモの間中、参加者に向けられる警察によるビデオ撮影にはいったいどんな法的根拠があるというのだろうか。私たちはこれからも、不当なことに対し声を上げ続けることをやめない。そして、ひとつひとつの事柄に根気強く、粘り強く抵抗する姿勢を示すしかないだろう。それは実にしんどいことだが、しなやかに続けていきたいなと思うのだ。新垣さんの報告では沖縄での運動シーンを撮った写真がたくさん紹介された。その闘いは大変きついものだろうが、誤解を恐れずにいえば、沖縄県庁に座り込む人々の姿には、人の心を和ませるものがあった。私たちのデモが出発して行動参加者が誰もいなくなった会場の敷地内に、右翼街宣車が6台乗り入れて騒いだということを、後日知る。

★すぐにサヨクが口走る法的根拠…ならデモ規制法ができたら従うんだな?警察は職務としてやっているだけだ。騒ぎを起こしたヤツがいたら、あとで特定しやすいように、アリバイの有無をはっきりさせるために、おこなっているだけだ。それは右翼が相手でも同じである。写されるのがイヤならそこにいなければいい。★

5月5日に日本における原発がすべて止まった。福島原発事故以降、全国で反原発、脱原発のデモが催され、多くの人々が「原発いらない!」の声を挙げ、意志表示をした。原発推進派は懸命に再稼働を試みたが、さすがにこの声を無視することは出来なかった。マスコミの報道の仕方も微妙に変化を見せている。また、経団連内部からは不協和音が聞かれ、同友会は「縮原発」を表明している。状況は変わりつつある。原発なしで夏を過ごすことが出来ることが証明されることを避けたい推進派に、私たちは「原発いらない!」と言い続けよう。

★原発なしで日常生活・社会生活を営めることが出来ることが証明されたのか。代替エネルギーについての論及はないのか。ただ反対するのは簡単である。各地域そして日本国経済の停滞の問題は、どこの誰が補償するのか。★

同時に、国策として進められてきた原発によって、生活の糧をそこから得るしかなかった人々のことも、問題にしなければならないであろう。現地の方のそうした訴えに、あるいは子どもを被ばく労働で亡くされた母親の無念の声を聴く時、自分が彼女、彼らたちの立場そのものに立つことが出来ないと私は思わざるを得ない。3・11の震災以降、この〈当事者性〉についてたびたび思いをめぐらす。季刊『運動〈経験〉』25号の刊行のことばで天野恵一は記す。「当事者としての距離に自覚的ではない自己欺瞞は自分に許してはいけない。(中略)『連帯』と『共有』は、自分が〈当事者〉であり続けているテーマの方から、自分のこだわりをバネに生みだされていかなければと考えている」。

原発は地域差別や被ばく労働など差別構造抜きにはなりたたない。豊かさには一定の犠牲も必要だとの前提で成り立つ社会に私たちは「NO!」と言う。日本においてはこの差別構造の中心に天皇制がある。天皇制を問うことは、差別構造を再生産してきた戦後日本国家そのものを問うことと考える。そこに、「原発」も「沖縄の基地」もあるのだ。その意味において私たちは自身の〈当事者性〉と向き合うことになる。アキヒト、ミチコが火葬への変更を要望し、宮内庁が墓所簡素化や合葬もふくめ検討する方針だ。天皇は心臓のバイパス手術後、赤坂御苑での春の園遊会をはじめ、積極的に公務をこなしている。5月16~20日の日程で訪英準備も進められている。Xデーを見据えた最終章に天皇自ら取りかかっているといえよう。天皇制を問い続けることが、私たち反天連の〈当事者性〉なのだ。

★文章を書いていたからわかるが、要するにこの鰐沢という人は、この最後の段落に一番言いたいことを書いている。しかしそれは、論理ではない。もしそうだとしても実に脆弱(ぜいじゃく)で、愛国の論客から突っ込まれたら何も言えなくなるだろう。論理的整合性というものが全くない。私が小論文の試験官なら、これは落第にする。

「差別構造」という言葉は、組織社会と同義で、単なる言葉遊びに過ぎない。要はマルクスのいう階級闘争に重ねて、自己主張をしたいのだ。資本主義を否定しようとする意図はありありだ。つまり共産主義の考えだ。

「豊かさには一定の犠牲も必要だとの前提で成り立つ社会に私たちは「NO!」と言う」のは勝手だが、そんな国も地域も、どこにもない。理想郷を描きたければ、絵や小説で展開すればよい。

「日本においてはこの差別構造の中心に天皇制がある」のではなく、国家の存立の根幹に天皇があるのだ。天皇の系譜というものが、秩序・礼儀・作法の価値の有無、公私の区別、男女の美徳などを決定してきた。もし差別構造なるものが誤っているというなら、そこを変えればよいのではないか。

「天皇制を問うことは、差別構造を再生産してきた戦後日本国家そのものを問うことと」同じではない。理由は上に書いたとおりで、また、天皇のありかたは、より広範な思想や文化という文脈で問題になるのであって、経済という文脈で出してくるところに無理がある。
まるで、戦後日本が多くの人びとの努力で今日に至っていること自体を、気に食わないとでも言うのか。そのために天皇家が尽力されてきたことを余計なことと言うのか。それとも、戦後の日本は終戦の日のまま時間を止めておきたいとでも言うのか。
要するに、何とか天皇制に結びつけたくてしかたないのであろう。この程度のブログ一片で、天皇制はビクともしない。

「そこに、「原発」も「沖縄の基地」もあるのだ。その意味において私たちは自身の〈当事者性〉と向き合うことになる」
そこに、とは、どこだ? なんとおおざっぱなもっていきようだ?

「Xデーを見据えた最終章に天皇自ら取りかかっているといえよう。天皇制を問い続けることが、私たち反天連の〈当事者性〉なのだ」
天皇に亡くなってほしいと願っているわけだ。〈当事者性〉というのも何を言っているのかわからない。
前の段落で、「自分が彼女、彼らたちの立場そのものに立つことが出来ないと私は思わざるを得ない。3・11の震災以降、この〈当事者性〉についてたびたび思いをめぐらす。」とある。被災者当事者の立場には到底立つことはできない。だからこの当事者の立場になって、いろいろ考えてみたい…それは勝手だ。
しかしこの〈当事者性〉と、「天皇制を問い続けることが、私たち反天連の〈当事者性〉なのだ」に言う〈当事者性〉と、どんな関連や類似性があるのだろうか。被災した方が、天皇に亡くなってもらいたいと思っている、とでも言うのか。★

(鰐沢桃子)
時刻: 17:47  メールで送信BlogThis!Twitter で共有するFacebook で共有する
ラベル: ”モンスター”主張

「天皇制を問い続けることが私たち反天連の〈当事者性〉」とのことだが、
その当事者は、どういうヴィジョンをもって、何をどうすれば天皇制に代わる国家あるいは国家観を提案してくれるのだろうか。

それとも、特定の日時だけに有効な当事者なのであろうか。

かくして、何度も言ってきたとおり、彼らに論理というのはないも同然である。いちばん真剣に書かれたブログの、いちばん真剣に書かれたはずの主張でさえ、このザマなのだ。おそらく怠け者が集まって憂さ晴らしをするために、天皇が持ちだされているに過ぎない。しかし、天皇などという言葉を軽々しく口にするのは、礼儀以前の問題でもある。

彼らの胸の内を翻訳しよう。ホンネはまあこんなところだろう。

→<天皇一家は、あんなに広大な土地にのうのうと何もしないで暮らしている。働かなくても生活していける。外国にも行ける。全部タダだ。実に憎たらしい。あんなヤツらは死んじゃえばいいんだ。俺らも何にもしないで暮らしていけりゃいいのに。だから、戦争責任でも在日でも原発でも靖国でも、口実は何でもいいんだ。ぱーっと一晩二晩、ストレス解消できるだけまだいいかなあ…。俺らがワアワアやってりゃ、誰か付いてくるだろ。日本人は皆、バカなヒマ人に成り下がったんだからさ。>

彼らのなかに、生活保護不正受給者がいるのではないか。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

このあとブログは、以下のよう(▼~▲)に続く。

その合間に、彼らの会報に当たる「運動」や配布パンフレット「モンスター」などの発行宣伝が入る。
デモ開催に関して、その主張を簡単に展開したり参加を要請するような案内文はあるが、いわゆるブログらしいブログは、2月12日の主張だけである。
長くなったので、これはもう転載しないが、関心があれば反天連のHPで読まれたらいいと思う。

そして、この2月12日以降、パンフの宣伝もなく、更新されていない。

  ▼
2012/07/26
 排外主義をうつ!7.28討論集会& 『靖国中毒』上映

2012/08/06
 排外主義と天皇制を問う 8.15反「靖国」行動
●2012年8月15日(水)/13:10開場、13:30開始 16:15~デモ出発
●場所:在日本韓国YMCA・9階ホール(JR水道橋駅徒歩6分、御茶ノ水駅徒歩9分、地下鉄神保町駅徒歩7分)
●お話:山田昭次さん(歴史研究者、著書『植民地支配・戦争・戦後の責任━挑戦・中国への視点の模索』創史社)
(*ここに約2100字の声明文あり)

主催:排外主義と天皇制を問う8.15反「靖国」行動実行委員会
呼びかけ団体:アジア連帯講座、沖縄を踏みにじるな!緊急アクション実行委員会、キリスト教事業所連帯合同労働組合、国連・憲法問題研究会、市民の意見 30の会・東京、女性と天皇制研究会、スペース21、立川自衛隊監視テント村、日韓民衆連帯全国ネットワーク、命どぅ宝ネットワーク、反安保実行委員会、「反改憲」運動通信、反天皇制運動連絡会、「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、ピープルズ・プラン研究所、靖国解体企画、靖国・天皇制問題情報センター、琉球センター・どぅたっち、連帯社、労働運動活動者評議会、
賛同団体: 荒川・墨田・山谷&足立実行委員会、差別・排外主義に反対する連絡会、山谷労働者福祉会館活動委員会、争議団連絡会議

2012/11/06に、次のようなデモの案内
 基地づくり! 海づくり? 天皇の沖縄訪問反対! 緊急行動 銀座デモ!
日時:2012年11月17日(土)15:00集合
 呼びかけ:アジア連帯講座、井上澄夫(沖縄・一坪反戦地主会・関東ブロック)、上原成信(沖縄・一坪反戦地主会・関東ブロック)、沖縄を踏みにじるな!緊急アクション実行委員会、立川自衛隊監視テント村、日韓民衆連帯全国ネットワーク、命どぅ宝ネットワーク、反安保実行委員会、反天皇制運動連絡会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、古荘斗糸子(うちなんちゅの怒りとともに!三多摩市民の会)、靖国・天皇制問題情報センター、吉田正司(沖縄・一坪反戦地主会・関東ブロック)、琉球センター・どぅたっち、労働運動活動者評議会

2012/12/09 反天連集会のお知らせ
 戦後国家(象徴天皇制)の正体
お話:佐藤泉さん(青山学院大学教員/日本文学)
   武藤一羊さん(ピープルズ・プラン研究所)
   天野恵一(反天皇制運動連絡会)
日時:2012年12月23日(日) 午後2時半より
場所:日本キリスト教会館4F(地下鉄東西線早稲田駅3b番、2番出口から徒歩5分)
主催:反天皇制運動連絡会
(*ここに約820字の案内文あり)

2013/01/29
 安倍改憲政権を許すな! 2・11反「紀元節」行動
●3.11追悼式典と責任問題・・・Uさん(福島原発事故緊急会議)
●憲法改悪問題・・・国富建治さん(反改憲運動通信)
●沖縄基地問題・・・一坪反戦地主会関東ブロックから
●さまざまな弾圧について・・・のむらともゆきさん(反天皇制運動連絡会)
[日 時]2013年2月11日(月・休) 午後1時開場 / 
集会後デモを予定
[場 所]日本キリスト教会館4F(地下鉄東西線早稲田駅3b番、2番出口から徒歩5分)
[資料代]500円
[主 催]反「紀元節」行動実行委員会
[呼びかけ団体] 立川自衛隊監視テント村、連帯社、アジア連帯講座、「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会、労働運動活動者評議会、反天皇制運動連絡会、靖国・天皇制問題情報センター、キリスト教事業所連帯合同労働組合
(*ここに約580字の案内文あり)

2013/02/12
【反天連声明】 
国家による原発責任回避のための儀式 天皇出席の3.11「東日本大震災追悼式」に反対する
(*ここに約2880字の声明文あり)           
  ▲

2013年3月13日 (水)

歴史に目をつむるサヨクたち

ここ数日、サヨクによる東北大震災犠牲者慰霊祭に対する非道非礼の動きや、NHK動画削除、宋文洲の開き直りツイートなど、非人間的非人道的非社会的な言動が多く見られ、人のツイートやブログ、動画を見て、憤りままならぬ状態が続いていました。

ツイッターは私たちのサイドにとっても有益な武器であり、その拡散力は相当のもので、動画削除問題には多くの人の憤りの波を感じたし、裏アカから見ると、宋や時浦のところにもかなりの激しいツイートが寄せられていることがわかります。

それにしても、同じ愛国者の大人がきちんと書くのは普通と思いますが、ここにきて、高校生のツイートが多く見られます。自分のところでは、記憶では20人くらいはいると思いますが、実際に稼働しているのは、いつかの桑名市の中学生を入れて5人くらいです。

学校や勉強があるため、ツイートの時間は限られているようですが、それでも、間違いは間違いとして、大人のサヨクに噛みついていくという姿勢には、頼もしいものを感じます。
若いだけに、純真で一途であり、かえってそうやって突っ込まれると、ヘタレサヨクは、途中でやりとりを放棄して終わっています。決して粘着なのではなく、真正面から繰り返しぶつかっているだけなのです。

こうしたやりとりを見て、常日頃思ってきたことをまとめてみようと思いました。

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今の日本には本格的な左翼なるものは存在しないと考えている。あるとすればぎりぎりのところ日本共産党くらいだ。
今あるのはカタカナ左翼つまりサヨクでしかない。彼らは論の基本たる「原因と理由」を説明できない。だから「主張」ということができない。前提がないから、相手が高校生でも、正面から論破されると、それ以上論を進めることができず、すぐ破綻する。

そもそも、歴史とは、「因果の連鎖」である。地上において、いろいろな出来事が起きる。それは、原因があって、それが不規則に枝分かれして展開し、ある結果をもって終わる。
その結果はまた、次の原因でもある。元の原因は、あることの結果であった。

サヨクには初めから「原因とその理由」という構図が念頭にない。実に浅はかである。もしくは、あえて、見て見ぬふりをしている。「原因とその理由」を考えないから、「原因」から発生する「結果」にまで考慮ができない。または、考慮しなくてよい、と考える。もしくは、そんな結果はそうでもよく、「いま」がよければいい、と短絡する。

つまり、彼らには、歴史観がない。だから、歴史に関心がない。または、あっても関心に、目をつむる。

そのサヨクがよく、保守愛国派に対し、料簡が狭いと揶揄・批判する。これは詭弁である。保守愛国派が料簡が狭くないと、自分たちの主張の前提が体(てい)をなさないからである。彼らサヨクには、常に、議論の前提になるものがない。だから、即席で、何かを見つけて、前提とするのである。

それゆえ、サヨクの議論には、代替案というものがない。代替案を提示できないというのは、サヨクの特徴である。そのときの思い込みだけでモノを言うので、「では、どういうヴィジョンをいるのか」という問いには答えられない。反対するだけという点で、万年野党であったかつての社会党そっくりである。

もうひとつのサヨクの特徴は、いろいろ問題を提起したような姿を見せながら、それにしてははなはだ呑気である。彼らをお花畑という所以であろう。

彼らは、自分たちの活動をビデオにしYouTubeに大量に映している。それは愛国派も同じであるが、サヨクの活動のようすを見ていても、声や群衆はあっても、そういう動画から、本格的な危機感なるものが感じられないのだ。
ピクニックの風景のようだ。ただ、ムキになっているだけで、根本に論をもたないから、光景として浅はかに映るのだろう。
それなら、映画や音楽でも鑑賞しているほうがよい。

集会の模様などアップしたところで、世論は日比谷公園や明治公園にあるのではない。世論は選挙の結果である。

安倍総理は、あたりまえのことをあたりまえに言える人間であった。そういう首相をもつ政府自民党には支持者も増えているようだ。
逆に言えば、これを歯ぎしりするような思いで日夜眺めているサヨクが、大勢いるということになる。

歴史観がない大人連中には、今更何を言っても始まらないだろう。教育の問題として政府が取り組んでいくことを注視したい。
だが、いまいる有象無象(うぞうむぞう)のサヨクどもには、その場その場で対処していくしかないのだろうと思う。

マイミクさんによる沖縄の実態など、紹介されて知ることも多い。情報として知ってはいても、現場からの声というものは、切実にうったえてくるものがある。
正確な情報の共有は、相手がたを一斉に論破しうる武器となる。

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2013年3月12日 (火)

成り上がりシナ人・宋文洲の横柄ツイート (2013年3月12日)

宋文洲のツイートなど、自分のブログに載せるのも不愉快ですが、みなさんに見ていただこうと思って、ここにコピペします。

きのうの宋のツイートには、やはり相当数の常識的な人たちから批判があったようですが、これに対しても、宋はせせら笑いながら、開き直っています。

ドアを壊して倉庫に入れば、死ぬことはなかった?

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宋 文洲 ‏@sohbunshu  (3時間経過)
あまり一所懸命を強調すると、兵隊と職人ばかり育っちゃうよ。大局を見るには、一歩引かないと。

宋 文洲 ‏@sohbunshu  (6時間経過)
教育の廃頽をいつまでも日教組のせいにする人達。持てない男はいつまでも親のせいにするようなものだ。自分達の無能無策の証拠だと気付かない。

宋 文洲 ‏@sohbunshu
今日も職場を観察してみて下さい。必死とか懸命とかよく言う奴はだいたい仕事できないはず。それから残業でそれをアピールする奴がもう最低。

宋 文洲 ‏@sohbunshu
一か所に命を懸ける(一所懸命)か、一緒に命を懸ける(一緒懸命)か、どれも無責任だ。命を懸けたら後始末は誰がするの?子供達は誰が育てるの?

宋 文洲 ‏@sohbunshu
「必死」は「必ず死ぬ」という意味だ。死ぬが目的になっている。仕事から逃げているだけ。

宋 文洲 ‏@sohbunshu
「必死」、「一所懸命」、「頑張る」。なんか暗い言葉だ。

宋 文洲 ‏@sohbunshu
「一所懸命」や「頑張る」などの精神論は嫌いだ。誰でも気軽に使う言葉だが、仕事しないことへの言い訳になっている。

宋 文洲 ‏@sohbunshu
お父さんと言うものはね、死んで子供を守るものではない。自分も生きながら子供を守るものだよ。

宋 文洲 ‏@sohbunshu
北海道に13年間も居た俺が、真冬にもよく遠く出かけた(彼女とね)。お前らよりずっと経験を積んでいるよ。北海道は無人の地ではなく、道路沿いに使っていない倉庫や民家は点在する。ドアを壊して入れば死ぬことがなかった。

宋 文洲 ‏@sohbunshu  (7時間経過)
今朝ツイッターを見たら、反発の多さにびっくり。悔しい思いになぜこんなにも反発の声が?美談は美談だが、教訓を覚えないと。精神構造が単純だな。

宋 文洲 ‏@sohbunshu  (20時間経過)
北海道のお父さん、娘さんを庇って凍死した話が涙を誘ったが、少しでも工夫すれば二人とも安全だった。最低限の生き延びる工夫はなぜできないだろう。

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2013年3月 8日 (金)

団塊世代サヨクの好例 (2013年3月8日)

ある高校生が、このような投書を写メして、批判ツイートしていた。
今週月曜の朝日新聞投書欄とのことだ。

「外国の要人が靖国神社におとずれているのを知らないのかな。わだかまりなくと言うが、それは左翼が勝手に作り出したものであって国の責任ではない。あと、世論調査で朝日でも半数以上が総理の靖国参拝に賛成してるから。どこの国民感情なのでちゅかw」

まあ最後は皮肉ってるわけだが、このジジイを検索すると、東京新聞などいろいろなところに投書している。ヒマなのであろう。まあそれはいいのだ。

他の投書でははっきりとサヨクめいたものはないが、この投書内容は明らかに反日であるから、サヨクである。

戦没者慰霊のためになら、国立の追悼施設など要らん!また、あってはならない!

過去の経緯を考えず?…コレはある意味、おのれが無知で・バカで・知ろうと努力していませんよ、と宣言しているようなものだ。

大震災犠牲者と靖国神社合祀の英霊とは、全く訳が違う。靖国神社のもつ意味を知らないか・考えていないか・あえて考えようとしないのか、のどれかであろう。
災害犠牲者の遺族にしたら、新宿という一カ所に集められたら迷惑だろう。

純粋な心ってなんだ?純粋に考えれば、戦没者も災害犠牲者もいっしょくたに集めるという発想は出てこないだろう。つまり、ジジイよ、あなたの心の奥に不純があると言わざるをえない。

よくもまあ、こんな恥知らずを披露できるものと思う。
さらに、これがどこの新聞かわからないが、これを載せるほうもおかしいのだ。投書というのは、思想的なものは、得てして自分の新聞社のそれに合致したものを載せようとする。

新宿御苑などと、いかにも反対だけでなく代案を出して得意げがっているのがわかる。俺のはただのアイデアじゃないよ、具体的なことまで考えているんだよ、と言わんばかりだ。

御苑をつぶそうというのか?顔貸せ!このスットコドッコイジジイ!

小さくまとまって、ボクすごいでしょ?的な偽善笑いの爺さんよ。
正体バレてるよ。

たぶんどこかの左翼教師だっただろう。小平市在住も、ある意味、納得だ。

断言する。コイツは東京にいながら、靖国神社には一度も参拝していない。

そして、団塊の世代である。

※追記1:

やはりサヨク教師でした→http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/entry/671443/ 

※追記2:
そして創価でした^^→http://plaza.rakuten.co.jp/kyounosk/diary/200610010002/

※追記3:こんなことも言っている。

「朴大統領、日本は歴史直視を 被害の立場は千年不変/産経新聞、ざまぁとしか。日本人の神様は「世間の目」。「世界の目」ではないw不完全な神だな。加害国としての教育がほとんどない。もうちょっと世界標準にならないものか」
  ↑
 マジキチ

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2013年3月 6日 (水)

殺意の認定

吉祥寺強殺、騒がれるので強く刺した…少年供述(以下に全文転載▼~▲)
(読売新聞 3月5日(火)8時10分配信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130304-00001641-yom-soci

   ▼
東京・吉祥寺の路上で先月28日、近くに住む飲食店従業員の山田亜理沙さん(22)が刺殺された事件で、警視庁に強盗殺人などの容疑で逮捕されたルーマニア国籍の無職少年(17)が「中途半端に刺すと騒がれるので、強く刺した」などと供述していることが捜査関係者への取材でわかった。警視庁は殺意を裏付ける重要な供述とみている。

 捜査関係者によると、山田さんは背中2か所と腕を刺されるなどして失血死しており、致命傷は背中から肺に達する傷(深さ17センチ)だった。無職少年は、事件前日に2人でゲームセンターで遊んで金がなくなったので強盗を思い立ち、「脅すより刺した方が騒がれず簡単」と考えて国立市のスーパーでナイフを入手したと説明。あえて強く刺したと言いながらも、「死ぬとは思わなかった」と、戸惑いもみせている。
   ▲

人を殺したら殺人犯である。
罰条は刑法第199条にある殺人罪とその刑罰である。

刑事事件は検察官が国民の代わりに犯罪者に罰を与えるため、有罪の証拠をそろえて裁判を起こす。裁判所に訴えを起こすから、起訴という。検察は犯罪を証明しなければならない。起訴されると、容疑者は正式に、被告人となる。
起訴するまでもない軽微な犯罪であれば、起訴を猶予する。起訴するだけの証拠が収集できなければ、不起訴となる。

殺人罪も他の犯罪と同じで、強制されないで(任意に)なされた本人の証言と、それを補強する証拠が必要だ。これには目撃者など関係者の証言も含まれる。

(事例)
被害者Aが路上で腹を刺されて死亡していた。その脇にB所有の包丁があり、Aの腹の傷の形状や深さとその包丁の形状や大きさがぴったり一致していた。その包丁にはBの指紋しか付いておらず、Aが被害に合ったころのアリバイ(alibi)がBにはない。逮捕されたときBの上着にはAの血液が飛び散っていた。血液も指紋も科学的に証明されている。Bは過去2年間、Aから借りた金の催促を執拗に受けており、今度返せなかったらBかその家族を殺してやるとAに脅迫されていた。その今度という晩に、この事件は起きた。

この事例では、誰がどう見ても、BはAに対し殺人を犯しているようだ。だから、B本人がすべて供述すれば問題はない。
ところが、本人が黙秘している場合や、結果には同意しても、殺すつもりはなかったという場合がある。こうしたケースでは黙秘しても証拠物件はそろっているので、黙秘しているとかえって検察の言うがままになってしまうことから、殺意の有無で争う場合が多い。

殺人罪で有罪にする場合、判決文には必ず、「殺意をもって」という文言が入る。それが、裁判所が殺人罪を認定したという意味である。

本人が任意に自白すればことは簡単だ。自白のない場合、何をもって殺意があったと証明するのか。

外形的事実が単純な場合は、いくら殺意を否定しても無理である。
すわなち、拳銃をこめかみにあてがって発砲した、ナイフを心臓めがけて突き刺した、首にロープを巻いて締め上げた、などは、容疑者が否定しても、ふつうはこれだけで殺意ありとなる。

そうでない場合が難しい。思いっきり殴ったら反応がなく、救急車を呼んで慌てて病院に連れていったが、すでに死亡していた、しばらく食べ物を与えないでいたら翌朝ぐったりしていたので、救急車を呼んで病院に連れていったが、すでに死亡していた、など。

殺すつもりはなかったということは、容疑者自身で立証しなければならない。検察は、殺すつもりだったからこうなった、と立証するからである。

上の二件の場合は、傷害致死になることもあるかもしれない。起訴は罪名を決めてからおこなうので、検察にとってはどの罰条にするかは、証拠に照らして慎重に選択する。起訴した以上、その罪名で有罪にするのが検察の仕事だからだ。

殺そうと思っていたのに、人が通りかかって殴るのをやめたところ、一命を取り止めた、というのであれば、殺人未遂になる。
逆に、あわよくば死んでくれたらいいと思っていた、というのは殺意と見做される。

殺意が認定されても、刑罰は別だ。情状をどれくらい酌量するか、つまり、環境や生い立ちを含め被告人にどれくらい同情の余地があるか、それまで誠実に社会生活・学生生活を送っていたか、それまでにどれくらい善行があったか、事件に対し反省があるか、前科があるか、などによって、刑の種類と刑期が決まる。

「中途半端に刺すと騒がれるので、強く刺した」と言う。
スーパーで売っているようなナイフであれば、果物ナイフとして、刃渡り10cm前後だろう。包丁でも17~20cmくらいだ。ナイフというなら、刃渡りの長い果物ナイフかもしれない。傷の深さが17cmなのだから、刃渡りがその長さかそれ以上のナイフだったのだろう。

刃渡りは別にしても、深さが17cmというのは、ふつう殺意の証拠となる。試すわけにもいかないが、その辺に売っているナイフを人体に刺そうと思っても、普通の力では17cmも入らない。
一度腕を引いて思いっきり刺さなければありえない深さなのだ。

刺すことが、被害者の生命にどのような影響を及ぼすか、わかっていて刺したと立証されれば、殺意があったことが証明される。
他方で「死ぬとは思わなかった」とも言っている。殺意はなかったということだ。それでも、太ももや腕でなく、臓器のある部位を刺しており、傷の深さが刃渡りと同じであれば、殺意は認定しうるだろう。刺すとき、手加減をしていないことになるからだ。

強盗も加わっているので、いずれにしても重罰に処せられるだろうが、傷害致死では、被害者が浮かばれない。

2013年3月 5日 (火)

我々青年士官ガ頑張ラナクテハ、他ニ誰ガ元ノ日本ニ戻ス事デセウ

靖国神社崇敬奉賛会会報『靖国』今月号、「三月社頭掲示」より全文転載。

******************************

御父母上様

私ハ此ノ様ナ拙文デモ、今度戦地ヘ出タラ再ビ御出会出来ヌモノト思ヒ、真心コメテ書ク事ノ出来ル資格ニナッタカト思ヘバ、本当ニ感謝ノ念デ胸ガ一杯デアリマス。

中学以来航空ニ志シ、父母ノ了解ヲ待タズ色々ナ心配ヲカケ、決戦ガ血戦ヲ生ンデ、昨夏全学徒ヨリ飛行予備学生ガ募集サレルヤ、小生ノ応募ヲ許シテイタダイタ時ノ喜ビ、先祖代々ヨリ伝ハル至誠尽忠ノ赤キ血ハ躍ルヲ覚ヘマシタ。

而シテ時ハ早クモ一年ハ流レ、艦爆隊士官トシテ、近ク決戦ノ大空ヘ飛立ツ事ト相成リ、本ヨリ生還ハ期セズ。

(中略)

想フニ此ノ年マデ私を教育シテ下サレ、父母ノ慈愛ノ下ニ過シタ生活ハ、私ハ本当ニ幸福デアリマシタ。
私ハ此ノ恩返シハ、只々一身ヲ国ニ捧ゲテ立派ナ死ニ方ヲスレバ、御両親モサゾカシ喜ンデ下サル事デセウ。

一史戦死ノ報ガアリマシテモ、決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ。一史ノ写真ニ只一言「良クヤッテ呉レタ」ト言ッテ下サレバ、私モ大手ヲ振ッテ靖国神社ヘ行ケマス。

我々青年士官ガ頑張ラナクテハ、他ニ誰ガ元ノ日本ニ戻ス事デセウ。

想ヒ出ハ尽キズ。又、想ヒ出セバ想ヒ出ス程胸ガ一杯デス。
何卒、今マデノ不孝ヲ御許シ下サイ。
御両親様モ御体大切ニ、余生ヲ御送リ下サイ。

昭和十九年八月二日

          午後四時半   於 書院

御両親様ヘ

   出陣ニ際シ

               海軍少尉   天野 一史

海軍少佐  天野 一史 命

      昭和ニ十年三月十九日
      九州東南方海面にて戦死
      奈良県吉野郡黒瀧村出身
      二十五歳

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「決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ」というタイトルが付けられているが、それ以上に、今の日本の実情をも考慮し、靖国神社としては「我々青年士官ガ頑張ラナクテハ、他ニ誰ガ元ノ日本ニ戻ス事デセウ。」という一文を披露したかったのだろうか。

「大手ヲ振ッテ靖国神社ヘ行ケマス。」
御両親に宛てたこの言葉を、決して忘れてはならない。

会報『靖国』「靖濤」より

靖国神社崇敬奉賛会会報『靖国』今月号、「靖濤」より全文転載。

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この冬は全国的に厳しい寒さが続き、関東地方は年明け十四日に大雪に見舞われた。東京では珍しく一時吹雪にもなったが、こうした日は北辺の地で戦われた数多の御祭神の姿を想起させられる。

一年の内、晴天の日が十日程といわれる酷寒の島アッツ島。昭和十八年五月、日本軍守備隊二六五〇名は、上陸してきた米軍一一〇〇〇名と十八日間の激戦を繰り広げ、同月二十九日には山崎保代大佐率いる陸海軍の生存者三〇〇名が最後の突撃を敢行した。
山崎部隊長は守備隊の先頭に立ち、右手に軍刀、左手に日の丸を握りしめ米軍の陣地に向け進撃、敵弾に二度三度と倒れたが、怯むことなく気力を振り絞るようにして立ち上がり肉薄したという。
この戦いでは、敵の圧倒的な火力により玉砕を余儀なくされたが、米軍の戦史には「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術がなかった」とその勇戦が讃えられている。

昭和十七年六月のミッドウェー作戦の敗退から太平洋上の制海・制空権を失った日本軍は兵站に苦慮し、アッツ島やガダルカナル島をはじめニューギニアなどの南東方面では、補給支援が途絶える中で熾烈な戦いが繰り広げられたのである。

遊就館では、これらの戦場において民族の誇りを懸け死力を尽くして戦った先人たちの至誠をお伝えするべく、詳細な解説とともに御遺影や御遺品を展示し、今月十六日から十二月八日までの間、特別展「大東亜戦争七十年展Ⅱ」を開催する。この機会に是非御拝観の上、英霊の御心を感得して戴きたい。

昨年来の寒気の影響であろうか、境内梅林の梅は平年より半月以上遅く開花した。春告草(はるつげぐさ)の異名がある梅ではあるが、やはり春の温もりを実感するのは桜の開花時期であろう。当神社では、例年四月の第一週がソメイヨシノの見ごろとなる。崇敬者各位の御参拝をお待ち申し上げる。

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団塊世代左翼の功罪 (2013年3月5日)

団塊とはもともと、鉱物などのかたまりのことである。

ふつう、戦後約10年ほどの間に出生した世代を指し、厳密には1947~49年の3年間に出生したベビーブーム世代の人々を指すこともある。これによれば、彼らは現在64~66歳であり、幅広くとれば、現在60代の人々ということになる。年齢別人口分布では他の世代より人数が突出して多い世代であり、同時に戦後の民主教育なるものをゼロから叩き込まれた世代でもある。

私なりの考えでは、子供時代からのその成長過程で親や社会から受ける影響や、彼らが逆に他の世代に対してもった影響力などからして、さらに幅を広げ、5年~10年ほど上に増やした世代も含めたほうがよいと思っている。

つまり団塊の世代とは、いま現在では60代半ばから70代くらいまでの世代の人々、特に男を指していう場合が多い。80代の半ば以上は戦中世代であり、それにつづくこの団塊の世代は、戦後まもなくには、すでに物心がついている年齢でありながら、兵隊には採られていない世代である。

例えば、昭和20年に10歳であれば昭和30年には20歳になっており、当時圧倒的に多かった高卒中卒世代なら、既に働き始めている。昭和40年には30歳で会社の第一線で後輩を従えて働き、昭和50年には40歳で中間管理職となり、昭和60年には50歳で幹部管理職の末席を汚(けが)し、平成7年には60歳だから、経営陣の仲間に加わるか退職して余生を送るか再就職しているかといったところだ。そして今年78歳になる。

これを見てわかるとおりで、彼らの働き盛りの年齢は、日本のまさに高度経済成長の時代に一致している。だから、団塊の世代という言葉は、イコール高度経済成長を支えた人々の世代と言う意味でしばしば使われる。
ちなみに、60年安保を25歳で目の当たりにし、東京オリンピックは29歳、石油ショックは38歳で経験している。
感受性の強い20代で、安保闘争やオリンピックを目の当たりにしたのだ。

神武景気で言われた三種の神器(白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機)が、オリンピック景気で3C神器(カラーテレビ・クーラー・カー)に変わりつつある時期を、自分の収入や生活の変化に並行して味わっている。
昭和40年前後の団地ブームに乗り、この世代の新婚世帯は、当時庶民の夢であった団地住まいを経験する。DKという言葉が生まれ、一度2DKの団地に住み、その後一戸建てに移るという夢を、パターンのように確実に実現していった世代である。また、そうできた時代である。

この世代は職場にも若干残っているし、今までの経験や人々の話から、私自身はこういうイメージをもっている。
他方、功罪のうち罪に当たる二つを挙げるとこうだ。

一つは、その所以(ゆえん)のない自信と態度の尊大さである。

免許や資格がなくても、企業が高校や大学を回って三顧の礼をもって迎えた世代ということもあり、一般に態度が尊大であり、怖い者知らずである。
企業の成長やひいては日本の経済的繁栄は、自分たち世代の能力によって達成したというゆがんだ誇りをもっている。ただそれは事実でもある。

作れば売れる時代に育ち、たしかに毎晩午前様の帰宅で子供の顔も見ることなく、彼らの自慢げに言う、まさに馬車馬のように働いた世代だ。
ただし、その作ったものは手で触れるものであり、サービスや情報・知識ではない。保険や銀行業などより、メーカーに在職していることが、労働者としての誇りだった。

こういう人に多い特徴として、まず声が大きい。デリカシーや細やかな配慮などはほとんどない。親方気取りである。目が怖い。要するに、自らには能力や資格がないのに、部下を指導しなければ自分の成績にも影響することもあり、表情の怖さと声のでかさを売りにするしかない。いわゆる睨みをきかせるということだ。

その実、一皮むけば、上には従順なイエスマンであり、オリジナリティの必要な分野には見向きもしない。自分らの作り上げてきた無形財産、すなわち彼らの住む環境である砂の城が壊され、無価値なものとしてみなされるのを、彼らはいちばん警戒しているのだ。

もう一つは、自虐史観に浸かったままであるという点だ。
戦後、進駐軍による制度の民主化と民主教育を、子供時代からもろに受けているため、その後自虐史観に染まっていった者が多い。自虐教育を受けたのは、もちろん彼らの責任と言えないが、そこから抜けきれず、それを無反省に次の世代に垂れ流しているという点については、厳しいかもしれないが、彼らの責任とみてもよい。日教組など組合幹部やかつての国鉄の国労、動労にもこうした手合いが多い。

成人し、働きはじめ、家庭をもつという人生行路を忙しく通り過ぎ、まことに教科書のように順番に体験してきた世代には、自らがそこに置かれた制度や教育について考えてみたり省みたりする心理的余裕もなければ関心さえなかっただろう。朝早くから夜遅くまで働いたり上司に付き合ってご機嫌をとったりするのに忙しく、そんな時間的余裕もなかっただろう。

しかし、大人になってまで、そうしたことに全く無反省なままというのは、愛国の立場からすれば、大変困ったことだ。もちろん、40代50代にして、自分の受けた教育、つまり偏向的な日教組教育を批判し、改めて、日本という国家や故郷や英霊を思う心に目覚めた方々が大勢いるのも知っている。
それは例えば、靖国神社遊就館の出口にある来館者ノートへの年配者や中年の人々の感想からも見てとれる。

こういう自虐史観どっぷりの世代は、それでもなぜその考えを改めたり、少なくとも距離を置いて自分自身の考えをもとうという気にならないまま歩んで来れたのか。これは一つの仮説であるが、こういうことは考えられる。

それは、戦後から70年安保自動延長くらいまで、日本は常にいたる分野で、左右対立という構図があったからである。米ソ冷戦のもと、資本家と労働者、保守政党と革新政党という、みごとなまでの対立構造が、世間を支配していたからである。
そして、知る限り、表向きは、左派のほうに視覚的なダイナミズムがあり、運動しているかぎり夢をかなえられるような感覚があり、実際多少はかなえられていた。そもそも20代30代の連中には、生理的な発散の場としても、からだの動きを伴う行動のほうが親しみやすかったのだろう。

右派は伝統や格式を重んじ、それなりの存在感はあったが、それらはイコール右翼や暴力団などと同一視され、あまつさえその頃はカビ臭く胡散臭いイメージをもたれており、右派ではないほうに自己を同一化しやすかったと思われる。
まるで乗り物に乗るように、左側に乗っていれば済んだのであり、それが彼らの青春でもあった。青春という言葉が死語になっておらず、むしろ生き生きとした輝きを象徴していたのである。

団塊の世代といっても十人十色で、こうした特徴が一概に当てはまるとは限らない。しかし、大方こんなイメージをもっきてこのかた、こうしたイメージを変えてくれる団塊の世代の人間に会ったことがない。

こういう手合いと付き合わなければならなくなったとしたら、5せるを実行するしかない。すなわち、食わせる・飲ませる・着させる・抱かせる・いばらせる、である。特に最後の「いばらせる」が効果的である。
ゴマもする、お世辞も言う、…逆にいえば、それくらいで手のひらに乗っけられる単純な人種なのだ。

価値観においては、貧乏な時代を過ごした経験から、盛られた物はすべて食べるなどしつけ的にはよい反面、何でもモノやカネで解決しようとする傾向があり、即物的である。それが高じると拝金主義・拝物主義となったり、寄らば大樹の陰を信奉したりすることになる。
一方、新規なものに対しては常に排他的である。それは自らの陣地がなくなる恐れへの裏返しである。

会社にひとり、団塊の世代がいた。退職しても数年、顧問という肩書でうろうろしていたが、今月一杯で名実ともに引退する。
直接もうわれわれとは何のかかわりもないのだが、まず間違いなくサヨクだったろうと思う。あの世代にして早稲田大学を出ているが、在学中演劇に夢中になり脚本も書いたことがある。就職先は出版社であったが10年ほどで辞めて、ある塾に入り、そこの幹部となり、転職して15年前にここに来た。今では非常勤だが顧問をしている。学生当時は、ずっと中央線沿線に住んでいたことも判明している。

こうした経歴からして、まず左翼に違いない。時代が証明している。警察署の裸電球の下で事情聴取くらい受けた経験はあるだろうと思う。
それが、世の中が豊かになり、自分なりの左翼としての出番もなくなり、アルバイトしていた塾の講師が、いつのまにか本業になったわけである。
世の中が変わったら、とっとと自分の思想まで変化させ、あるいは放棄し、モノとカネに囲まれた人生を選択したのである。

よく言えば、適応能力に優れているとも見えるが、逆に言えば、随分と器用に、自らの思想まで放棄して、晩期資本主義にしか生じてこないようなこんな業種にしがみついているほどに、彼らの思想なるものは軽々しいものだったのかと思う。

尊大で自虐史観どっぷりの連中が、世代の上のほうにたくさんいる。その子がそういう影響を受け、さらにその子へとそのままこれらが受け継がれる。
教師も同じで、自虐史観に浸かった子供が教師になり、その生徒を指導し、その生徒がまた教師になって自虐史観を生徒に教え込む。
以下それが繰り返されていくとしたら、ぞっとするのである。

あと20年近くで団塊の世代はほとんど消滅するだろうが、その「文化的教育的遺産と価値観」は、放っておけば、後世に引き継がれたままになる。

安倍政権になり、経済や外交のみでなく、教育にかかわる分野にも、ようやくメスが入れられてきている。
団塊の世代の人々の国への貢献は認めるとしつつも、負の遺産まで引き継ぐ必要はない。日教組の勢いを削ぎ、その参加人数を減らし、参加していないことで組合から白い目で見られるといった弊風を排除するには、相当の時間がかかると思われる。
しかし、日本を、本来の日本のよさをもった国に改めるには、これらを持続的に注視し、できることを実行していかなければならない。

2013年3月 1日 (金)

死刑制度は存続させるべし (2013年3月1日)

刑法第九条 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料を主刑とし、没収を付加刑とする。
刑法第一一条① 死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。
 ②死刑の言渡しを受けた者は、その執行に至るまで刑事施設に拘置する。

死刑は、科料、罰金などの延長として、その最高刑の位置を占める。科料や罰金が、一定の範囲内で裁判官の判断に基づいて金額が決められるのであれば、最高刑のほうも幅をもたせてもいいのではないかという意見に対して、生命を奪う刑罰である以上、それは厳粛に、絞首という一定の方法でしか執り行われないことになっている。

つまり、絞首だけで済むならまだいいほうだ、刃物で八つ裂きにしてやりたい、火あぶりにしてやりたい、被害者同様、生きたまま埋めてやりたい、など、被害者遺族の感情は、国家に託された厳かな法定手続きと厳粛なる刑の執行によって、歯止めがかけられている。

私が死刑制度(死刑を刑罰として用意する処罰の制度)の存続に賛成する理由は、三つくらいに絞られる。

1.死刑や体刑は、日本という風土になじんできた刑罰である。

他の国や地域と比較しても始まらない、算数の学力テスト比較ではないのだ。日本には死刑というものがそもそも伝統的に備わっていて、その論理たるや極めて明快である。人を殺したら、ソイツも死ぬのだ、という風潮が定着している。目には目を、は復讐の図式であるが、人を殺した者は、その本人も死してしかるべき、という考え方で日本社会に慣れ親しまれている。

殺人犯がテレビなどに映れば、どんなツラして出てきたんだ?と罵声を浴びせられる。しかたない、それだけのことをしたのだろう?オマエだけは平然と生きたまま、塀に囲われた安全地帯で生きていけるのだな、という非難も聞かれる。

2.死刑が用意されていることで、犯罪の凶悪さや頻度に、ブレーキをかける可能性がある。

職場や客相手の商売では、ぶっ殺してやりたい、などという状況は、誰しも経験するところだ。ましてや、個人間やプライベートな次元の話になれば、なおさらだろう。
仮にひっぱたいたり殴り倒したりしながら、殺すところまでいかないのは、教育上、生命の尊厳を学んでいることもあるが、人を殺したら死刑になるかもしれないから、という共通認識があるからだろう。
その認識のない者もいる。だが、無我夢中で人殺しをして、あとで我に返った者は、間違いなく逃走を図ったり、証拠湮滅(いんめつ)を図ったりする。

3.被害者遺族の感情と、被害者の無念の思いを考えたときに、どうしても加害者への刑罰を選択するのに、その生命を奪うという極刑が用意されている必要がある。

被害者はすでに死亡している。その無念の意を汲んで、検察官や弁護士と話すのは、遺族や身近な関係者だけである。何より、被害者は、生命という人間的尊厳の根本を、その意に反して剥奪されたのであり、殺人方法のいかんを問わず、他者の生命の尊厳を踏みにじった行為については、その理由なり状況なりに応じられるべく、最も妥当な刑罰を選ばなければならないわけで、刑罰の種類はなるべく多様に用意されていたほうがよい。
今更、死刑という罰条一項目だけをはずす、何の理由もない。

死刑は、強盗・強姦を含め、殺人を犯すと、それに呼応して刑罰の範囲に入ってくる。人を殺していなくても死刑になる場合もあるだろうが、人を殺していれば死刑になる可能性は極めて高い。

それでも、法廷での真実と、世間の思いとは、時折かけ離れてしまうことや、解釈に開きが出ることも多い。
当然死刑だろう、といわれながら、懲役20年の判決が下りましたなどと聞くと、耳を疑いたくなる事案もある。

被害者と加害者の間が顔見知りでなく、被害者のほうに何の落ち度もなければ、一人だけの殺人でも、死刑になる可能性が高い。両者が顔見知りであって、被害者のほうにも多少の落ち度があるならば、今までのかかわり合いや落ち度の程度に応じて、刑罰が決定され、必ずしも死刑になるとは限らない。同時に、犯行が計画的であればあるほど罪は重くなる。

働きもせず、一日中酒を飲んで、質草さえもうないと言う母の髪を引っ張って、家じゅうを引きずりまわしていた父親を、母親の悲鳴を聞いた十代の娘が、いきなり父を斧で叩き殺した、などという件では、明らかに情状を認めるべきであるが、それでも、尊属殺人の条文が残っていた当時、この娘は無期懲役を受け入れるしかなかった。なぜなら、削除された刑法200条(尊属殺人)には、死刑と無期懲役しかなかったからである。

この事案のほぼ正反対の事件が、強盗殺人であったり、強姦殺人であったりする。死刑反対論の人間は、例えば、山口県光市の母子殺人事件を思い出すがよい。公開されているかぎりの判決文を読むと、日常のありふれたある平穏な家庭に、いかに突然、残虐な出来事が繰り広げられたかがわかる。
判決文というのは、時としてグロ画像以上に生々しい。人に刑を言い渡すのに、きちんと説明しなければならないのが判決公判だからだ。

いきなり押し入って、母を何度も手拳で殴りつけ、倒れた母の抵抗を押さえつけるために、手のひらで首を床に押しつけてつぶし、更に両手で締めた(殺人の実行)。ぐったりしたところでも犯行をやめず、性欲のままに姦淫した。
そのさなか、異様な雰囲気を感じ取ったのか、泣き叫びながら母に近寄った乳児を、空いた片手でつかみ上げ、床に叩きつけた。行為の後、泣きじゃくるその赤ちゃんを向こう向きにして背後から両腕を掴み、何度も床に叩きつけてぐったりしたところへ、さらに首にコードを巻いて両端を思いっきり引いて殺害し(殺人の実行)、押し入れに投げ込んだ。そして財布を奪って逃げた。

普通の市民感情として、これが死刑に当たらないと言えようか。

全くこの母子に落ち度はなく、突然二人の生命が奪われたのである。それでも、法廷での審理は、少年法その他の法律やそれまでの判例に拘束されて、一審では死刑にならなかった。

こうして書いていても、今更ながらに涙が出てきそうな事案についても、死刑反対論者は、この犯人を死刑に処することに反対するのであろうか。

かつて日本では、どんな凶悪な殺人犯でも、二人以上殺さないと死刑にならない、前科がなければ死刑にならない、などと言われてきた。その風潮には、ここ10年くらいの間に、多少の変化が見られる。

永山事件(連続ピストル射殺事件)での第一次最高裁上告審判決(昭和58年7月8日)で、いわゆる死刑選択の基準が示された。それには、こうある。

死刑の選択が許されるのは、犯行の罪質・動機・態様、ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性、特に殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢・前科、犯行後の情状等を併せ考察したとき、その罪責が重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合である。

光市の事件にも、ここにいう「犯行の態様」と「執拗性・残虐性」は明確に認められるのに、一審では死刑にはならなかった。

(なお、私は少年法は廃止してよいと思う。少年法を、刑法のなかに発展的に取り込み、刑法改正という形をとるのがよいと思うのだが、これはまた別に書いてみたい。)

これの死刑判決では、一人の裁判官(宮川光治裁判官)が反対意見を述べ、それに対し裁判長が補足意見を述べている。全会一致でなく、死刑判決としては異例であった。

死刑に反対する論者の多くに共通する点は、四つくらいに絞られる。

1.死刑という実態を、そこだけ見て、ものを言う。

死刑だけをクローズアップして、そこだけ抜き取り、歴史的背景から学ぶことをせず、法制度という観点からのアプローチもなく、単に人が人に殺される、という一点のみしか見ていない。興味本位な極めて微視的視点でだけ、死刑に反対する。また、死刑は残虐な刑罰ではない。これは昭和23年の最高裁判決以来定着している。

2.諸外国では死刑をなくす傾向にあるから、日本でもなくせと言う。

では、諸外国が死刑に賛成なら賛成に回るのか。こういうのを付和雷同という。個人の学習能力や研究業績などのように、国を跨いでの共通する要素はない。制度というのは、その国の歴史や文化という背景をもち、他国のものを参考にすることはあっても、独自に展開されるべきものである。

かつて、死刑反対論議が高まったころ、オウム真理教の一連の事件が起きた。死刑反対論は一気に消えてしまった。反対論者の根拠に、確たる信念なるものは認められない。

3.加害者に対する過剰なほどの人権意識で、ものを言う。

彼らは言う、加害者も人の子であり、生い立ちや境遇に同情すべきところがある、加害者にはまだ人生が継続していて、その将来を考えるとき、生命を絶つというのは避けなければならない、…。

何でも境遇のせいにするというのは甘えを増長させる一因である。成人であれば、何でも生い立ちのせいにはできない。仮にそうでも、それは判決の際の情状酌量の部分で考慮されるべきことであり、裁判員も入るが専門家として裁判官がそれぞれの具体的事件ごとに判断していくべきことである。

被害者は加害者に殺されたのである。その被害者への哀悼のためにも、加害者をしっかり更生させようという言い方は詭弁である。

4.もし犯人が別にいたとなると、死刑が執行されたあとでは取り返しがつかない、と言う。

これも詭弁に近い。疑わしきは被告人の利益に、という考えは、義務教育を終えた者なら誰でも知っている。ところが、疑わしいどころか、確たる証拠や証言が法廷に提出され、判決が言い渡される。さらに不服であれば二週間以内に控訴・上告することもできる。

三審制をとっているのは、その誤りをできるだけ少なくするための制度である。かつて、戦後まもないころの事件で、死刑囚の再審裁判が開始され、無罪になった件が連続した。死刑反対論者は、鬼の首をとったように騒いだ。

その後、時代は科学捜査による証拠固めへと移った。警察や検察の専門家が物理的な証拠を挙げて裁判を進めるとき、その鑑定証拠は動かぬ事実を証明する。むろん、警察・検察の行き過ぎた捜査や、人間関係が捜査に及ぼす影響というものもある。

しかしこれらは、死刑を存続させるか否かという問題とは別の話だ。三審制という制度を準備している、これだけで、すべての刑事事件における万一の誤りを補おうとしている。完璧ではないにしても、法制度としてはバランスがとれている。(完璧な制度などというものはない。)別に死刑囚だけの話ではない。

なお、死刑に反対する人の中には、死刑より無期懲役にして、いつまでも自分のしたことを一生にわたり後悔させるべきだ、という考え方もある。

これは、まだ、死刑の存続を前提にしている。いわば、いきなり死刑に反対する立場とまではいえない、選択の余地を残すということは、死刑を残しておかなければできないことである。

しかしそれにしても、無期懲役にして(仮出所しても)、生涯後悔しつづけるなどということがあるだろうか。そのような性格や心境の変化があれば、自主したり捕まる前に自殺でもしたりしているのではないか。
これは人間性の領域に入ることで、単純には判断がつかないが、死刑を廃止するという理由づけにはならない。

制度として、この考えを、殺人犯全員に適用するのは難しいだろう。法廷審理のプロセスで、被告人の態度を見るなりして、裁判所が個別の事件ごとに法廷で判断していく部類のことで、生涯にわたり反省するという性善説に立つ発想は、多くの被告人や殺人犯予備群の連中にとっては、かえって好都合になるばかりではないか。

以上のような理由で、死刑制度存続を支持する。

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