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2013年1月

2013年1月30日 (水)

若い世代の保守愛国回帰に寄せて (2013年1月30日)

少し前、こんな日記を書き、ブログに転載した。カレンダー機能を使って、毎日ツイートしている。
できたら読んで、覚醒してほしいからである。リツイートしてくれる人が少しずつ増えてきてうれしい。

きっかけはどこにでもある、若者たちの思想的覚醒
http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-7c0b.html

先週、渋谷のある店で買ったTシャツには、旭日旗と日本列島、patriotismという文字が、赤いラインストーンで打ってあった。109当たりはもともとが不良系スタイルの発祥地だが、さすがにああしたデザインのものは、いままでなかったそうだ。
店員によれば、リクエストが多かったとのことで、他に銀と金のラインストーンのものも置いていた。人気も高く、私の買ったものは、あのサイズのものはラストの一枚であったと言う。

昨日の産経ニュースには、このようにあった。

靖国参拝 保守層からの期待高まる
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130129/stt13012901100002-n1.htm(以下、途中まで引用▼~▲)

   ▼
安倍晋三首相は28日の所信表明演説で靖国神社への参拝については言及しなかったものの、首相を支持する保守層からの参拝を求める声は強まっている。産経新聞社とFNNの合同世論調査では自民党や日本維新の会、みんなの党の支持層を中心に49・3%が「参拝すべきだ」と回答した。反対は37・5%だった。

参拝の是非を支持政党別にみると、維新支持の61・8%、自民支持の58・7%が「参拝すべきだ」と回答。みんな支持では半数、公明支持と無党派層で4割、民主支持で3割がそれぞれ参拝に賛成の考えを示している。

年代別では、男女ともに20~30歳代の若年層と60歳以上の高齢者層に参拝すべきだとの考えが強い。特に多いのは20歳代女性(60・3%)と60歳以上の男性(52・0%)で、50歳代女性(38・7%)が最も低かった。
   ▲

安倍さんはいずれ参拝に出かけるだろう。
まだまだ政権としては先が長いので、焦って今すぐ行って揉めの種を撒くことはない。ここは、自民に一票を入れた保守層有権者も、どんとかまえて、今は経済の復興に懸命な安倍政権を応援しないといけないだろう。

いずれ在任中に、時の閣僚全員で参拝するだろう。まず参院選で勝利を収め、その後で、且つ、外交・内政の環境が整ったときに、参拝すればよいのだ。
それでも何か言ってくるのが中韓だが、そうした発言がとても無意味であり空虚であり、むしろ中韓の国益を損なうような環境を狙えばいい。

きのう、村山が中国に行き、面会した中国の首脳が、日本の若い世代は戦争を知らない、安倍政権のもとで右傾化に走ることを懸念する、などと発言したようだ。それは半分は村山に対するねぎらいというものだろう。あとの半分は、鳩山のときと同じで、村山を、飛んで火にいる夏の虫と扱っているだけのことだ。

上の世論調査だけでは断定できないものの、男性や高齢者に参拝要請が強いのはわかるが、女性や若い世代にそれが多いのは、若干うれしい驚きである。

上のブログでも引用したとおり、靖国神社には、ふだんから多くの若い世代の参拝が目につく。人に言われてやってきたようには見えない。きっかけはそうであっても、自らの意志で参拝している。でなければ、行かないだろう。

山口二矢が供述していたように、真の日本人であれば誰にでも、心の奥底に日本人的精神が宿っているはずだ。

「環境によってのみ思想的影響を与えるとう考え方は、いわゆるユダヤ的唯物論から見た考え方で、間違っていると思っております。
私には日本人の血が流れており、唯物論では到底割り切れない、持って生まれた日本精神という唯心論的なものがたぎっており、天性からこういう人生観、思想などが形成されたと思っています。
尚、本当の日本人であれば、私のような人生観、思想というものが、心の奥底には、必ずやあると思います。」

こうした日本的心持ち、日本的精神は、理屈ではない。あるきっかけで、そこに火がつき、改めて自覚の念をもつに至るということだ。
多くの日本人の心にある、いわば大和魂なるものが、少しずつでも覚醒することを期待する。

遠隔地に住まう人々は、最寄りの護国神社でいいと思う。英霊への感謝という尊崇の念に変わりはない。外出できない人は、家庭の神棚への朝夕の参拝でもよいと思う。

むしろ、こうした傾向と真逆な一部の若者たちの付和雷同をこそ恐れる。我らが怖がるという意味ではない。彼らが気付くべきものに気づかないまま、安易にサヨクに走ってしまうことを懸念するということだ。

若い世代を諌めるのには、本当は同じ若い世代がふさわしい。それをサヨクも狙っているわけだが、保守愛国に目覚めた若者は、やはりその方向で、日本のよさを取り戻すために、保守愛国の仲間を募っていってほしい。

一部の大学では、ようやくそうした動きも見られてきた。さまざまなSNSでも、こうした流れは認められる。
こうした流れを見守っていくのは、中高年の役割と思う。

目下、大学受験が進行中だ。晴れて大学生になったフレッシュな若者たちを、サヨクの餌食にしてはならない。四月の入学式から、私学なら五月のGW明けの履修届を出すくらいまでの期間は、サヨクも勧誘に余念がないだろう。サークルへの勧誘、募金活動、署名活動と、人やカネを集めるのには、出入り自由で規制の少ない大学のキャンパスは恰好の舞台だ。

どんな日本人にも、日本人的魂は宿っていると信じたい。
それでも、先の衆院選の落選候補を見たって、何万票という票が入っての落選なのである。また例えば朝日新聞はたしかに購読者数を減らしているが、朝日新聞デジタルは、この3月までに会員10万人になると予想されている。新聞紙がPCに変わっただけでは朝日は倒れない。

こうした傾向に歯止めをかけるには、国家の指導や法律改正は無論大事であるが、昨今では、SNSなどに対する日夜に渡る監視体制と、日本の本来あるべき姿を常に啓蒙提示していくという愛国側の努力が必要なのだと思う。

しんどい部分もあるのだが、我らは日本国国民である。

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2013年1月29日 (火)

後に続くを信ず~若林東一中尉 (2013年1月29日)

かつて大日本帝国陸軍に、若林東一(わかばやし・とういち)という中尉がいた。
昨年11月の戦史検定にも出題されていた。

香港攻略戦は、ハワイの真珠湾攻撃と同時、12月8日の未明に始まった。広東方面から国境を越えた第23軍は、まず九龍半島の制圧を図った。目標は九龍半島の要塞の中核、225高地であった。

イギリス軍のトーチカの数は予想の半分以下であることが判明、翌9日には九龍要塞に迫った。所属の第38師団は一気に香港を陥落するため、英軍のスキを見て夜襲をしかけることにした。

歩兵第228連隊の連隊長・土井定七大佐の命を受けた第3大隊は、若林東一中尉率いる第10中隊を斥候としてイギリス軍陣地に突入させ、これを奪取した。佐野師団長はそこまでにして後退を命じたが、若林中隊はさらに前進し奥深くの高地まで占領した。

酒井隆23軍司令官は、この土井連隊長の独断専行を聞き激怒したものの、こうなったからにはこの機会に乗じて香港島へ一挙に挺進すべしと判断、その英断正しく、イギリス軍の主要な砲兵陣地をすべて制圧、11日にはイギリス軍は香港島への撤退を発令した。

こうして九龍半島での掃討戦は13日までに終了してしまった。開戦前は数週間を見込んでいた九龍半島攻略は、開戦後わずか6日でその目的を達成した。
やがて香港島へ上陸した部隊は多少の膠着状態に陥るものの、25日には英軍のほうから降伏を申し入れてきたのだった。

土井連隊長の独断専行について軍法会議に付すべきとの声もあがったが、若林中尉が、前線を偵察中に、偶然、敵の兵力配備の欠陥と警戒のスキをついて敵陣地に突入しこれを奪取したこととなり、若林中尉には、処罰どころか逆に、感状が授与されることになる。

若林中尉は土井連隊長の命を受けて、危険を顧みず、自らの中隊を指揮し、九龍半島制圧の中心的役割を負った。若林は下士官あがりだが努力家で、学問的にも優秀でありながら、前線では冷静な判断と分析力を活かし、決断したあとは不言実行の人であった。部下に対し、常に思いやりをもって接した軍人だったと言われる。
勇み足とも見える専行が、感状を受ける誉れある行動と受けとめられたのである。

香港占領後、若林を含む第38師団は、第16軍下に入り、昭和17年9月には、ジャワ島スラバヤに集結していた。その後11月にはガダルカナルへ島の上陸を命じられる。

この時期すでに、ガダルカナル方面の制海権・制空権はほぼ連合軍側に移っていた。師団の輸送船はことごとく爆撃を受けて壊滅し、丸腰同様の隊員2000名ほどが、ようやく上陸できた。
といってすでにまともな武器もなく、待ち受けていたのは米軍に加え、飢えとマラリアであった。

若林はマメなことに、そんな戦闘下でも、ほとんど毎日、日記をつけている。
昭和18年元日には、みずからの第10中隊の陣取る、通称見晴台で、上官に向けて手紙を書いている。その末尾にはこうある。

元旦や 糧(かて)なき春の 勝ち戦(いくさ)

若林にも、ガダルカナルの戦いは、もはやこれまでという思いが頭をよぎっていたのだろう。
その後若林は、塹壕の壁に、自らの信念を三つ、紙切れに書いて貼り出した。

    信念

私は神国日本の天壌無窮を信ず

私は大東亜戦争の必勝を信ず

私は後に続くものを信ず

(※天壌無窮(てんじょうむきゅう)=天地の存在するかぎり長く繁栄しつづけること)

これを見て驚いた部下に、これは遺書ではないぞ、と若林は言ったという。後に続く者がたくさんいると考えるとうれしくなるではないか、と部下に説いたそうだ。

米軍はいよいよこの見晴台まで激烈きわまる攻撃をしかけてきた。ついに30名ほどになってしまった中隊に、若林はもはやこれまで、と、突っ込むぞーと叫びながら、全員で敵陣に向かって疾駆突撃した。……

後に続く(者)を信ず、とは、その後有名になった言葉であるが、この若林東一の書いた紙片に由来するとされている説が有力である。戦時中のことであり、確たる証拠があるわけではない。しかし、名文句だ。

若林は中隊とともに、昭和18年1月14日、ガダルカナルの山の中で果てた。享年30歳であった。
ガダルカナルの功績で、帝国軍人としては稀に見る、二度目の感状授与を果たし、戦死後、大尉に進級している。

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2013年1月27日 (日)

士魂部隊・池田末男連隊長の活躍

千島列島・占守(シュムシュ)島は、静かに終戦の日を迎えた。

占守島は、カムチャツカ半島南端のロパートカ岬に向き合う、千島列島最北端の島である。夏は15°、冬は-15°になり、夏は濃霧、冬は吹雪に視界が遮られる。
この地から帰還した兵士が語るYouTubeもある。

南方やシナと違い、それまで大きな戦闘もなく、糧食はかなり豊富に残っていた。ただ、そういう地域であったから、一個師団が列島に散在させてあるだけだった。戦車も馬も相当多く配備されていたというわけではない。

戦況好転しないなか、満洲から転属されてきた戦車第十一連隊は、大陸では優れた活躍をみせていた。十一を一字にして士の字とし、通称、士魂部隊と呼ばれていた。その連隊長は池田末男という男である。
もともと騎兵の出身で、騎兵学校の教官も務めた男だから、馬ひとすじの軍隊生活であった。部下の信頼も厚かった。

玉音放送のあった翌日、隊員に対し訓示した。
「諸君は今日まで、規律正しく労苦に耐え、よく健闘してくれた。指揮官として心から礼を言う。今日の壕掘りはもう中止するから、充分休養をとれ。」

敗戦という屈辱のなか、むしろ、一人として部下を失わず、それを誇りとした訓示であった。

管轄の第五方面軍司令部からは、こういう趣旨の打電が届いていた。

「18日16時をもって停戦とする。これから軍使を派遣する。武装解除の準備を進めるように。なお、万が一、敵が戦闘をしかけてきたときは、自衛のための戦闘は妨げない。」

ここにいう敵とは、無論アメリカのことであった。そこで、島の北方の竹田浜に大砲が設置されたが、一応の用意をしただけであった。

ところが、18日午前2時、その竹田浜より、敵が上陸する。それは何とソ連であった。21日まで続くいわゆる占守(シュムシュ)島の戦いの始まりである。

終戦三日後の深夜に、彼らにとっては思いもよらぬ戦闘が始まったのである。……

この急転直下の状況に面し、池田は部下に訓示する。
「我々は、大詔を奉じ、家郷に帰る日を胸にして、ひたすら終戦業務に当たってきた。しかし、事ここに至った。そこであえて諸君に問う。諸氏は赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。」

池田以下士魂部隊は、四嶺(しれい)山を舞台に、山の両側からソ連軍を追い詰め、カムチャツカ半島に追いやり、大和民族の防波堤となった。
その戦いのなかで、池田は死亡する。戦車の中で立ったままの姿だったという。

一方、戦闘に巻き込まれないよう、日魯(にちろ)漁業で働く女子従業員ら約2500名を、管轄の第91師団は、霧のなか船に乗せて、北海道へと避難させた。

ポツダム宣言受諾の終戦詔勅のあとに、なお日本領土に攻め入るソ連は卑怯千万である。それより前、日ソ中立条約がいまだ有効の段階で、裏取引きをしたからには、米国に取られてなるものかと、広島への原爆投下の二日後に一方的に宣戦布告し、満洲にも入り込んできた。
突如、千島列島になだれ込んできたソ連は、それだけでも許せないし、野蛮人そのものである。強姦したいのに、女はいず、ケダモノのようなソ連軍には逆に多くの犠牲者を出す。

日本軍の死傷者800名前後であるのに対し、ソ連軍のそれは3000名以上とも言われる。イズベスチア紙は、ソ連にとっては満洲、朝鮮における戦闘よりも被害甚大であり、8月19日はソ連人民にとって悲劇の日となった、としている。

しかし、当時、そんな政治的現実を知らず、とにかく、日本領土を守るためだけに、終戦の詔勅が流れたあとでさえ、池田末男連隊長以下各隊員、師団の将兵は、身を挺して戦った。彼らに深い感謝の気持ちを捧げすにはいられない。

もしかしたら、彼らの戦いがなければ、北海道内地にまでソ連が土足を踏み入れたかもしれないからだ。実際、水晶島まで乗り込んできている。

北方領土については、いまだ明確に解決されていないものの、本土防衛のため戦った彼らの存在があったということは、決して忘れてはならない事実だろう。

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2013年1月26日 (土)

おばあさん先生が指導してくれた「君が代」斉唱 (2013年1月26日)

ツイッターを始めたころ、何をツイートしたものかと迷い、思い出の抽斗(ひきだし)から一つ、こういうのを載せました。字数制限いっぱいです。

   ▼

小学校低学年の頃、音楽の授業で、おばあさん先生がオルガンを弾きながら「君が代」の詞の意味を教えられ、「さざれ石」だから「さざれ」と「石の」で切っちゃだめですよ、と注意された。それで「さざれ石の」のところにくると、みんな息を吸い込んで歌っていた。こういうのを教育というのだろう。

   ▲

ツイッターでは、その後これをツイートすると、だんだんリツイートする人が増えてきて、お気に入りに登録してくれる人も増えて、いわゆる望外の歓びってヤツを感じました。

東京都町田市立町田第二小学校が母校で、たしか3年生のときだったと思います。高学年では、メガネの男の先生になったのを覚えているので、たぶん2年か3年のときでした。

そのころから私が愛国ということでもなく、家庭にもそんな雰囲気はなかったのですが、この音楽の授業のことだけは、よく覚えているのです。

ふだんはハーモニカを吹いたり童謡を聴いたりしていましたが、何かの儀式の前ころになると、この授業になりました。

当時の公立小学校ですから、壁も床も木造で、掃除の最後は、冬はバケツに冷たい水を汲んで、みんな手を真っ赤にしての雑巾がけでした。そんな時代ですよ。

黒木久子という先生でした。まったく普通のおばさん先生です。おばあさん先生と書いてますが、小学生から見たらそうなので、もしかしたらもうちょっと若かったかもしれません。

小柄でちょっと太っていて、髪をひっつめて、後ろに束ねていました。いつもグレー系の事務のおばさんみたいなかっこうでした。

当時はどの教室にもオルガンがありました。半分壊れかかったようなオルガンです。ふだんは担任がすべての授業をしていましたが、式の前だけこの先生が来て、歌の練習をしました。
オルガンの伴奏で、みんな歌ったのです。

君というのは天皇陛下様だと言われていました。テンノウヘイカサマが誰なのか何なのか、みんなわからなかったでしょう。。「式で歌う歌」という認識しかありませんでした。

大事な式で歌うのですからね、ということで、歌い方を何回も練習しました。
先生が一節ずつ歌っては、生徒にあとを付いてこさせるように指導されていました。

今では動画にもあり、何度でも聞けるようになりましたが、かつては、「卒業式や入学式で歌う歌」という認識でした。
よく歌ってみると、息継ぎや音程の飛びがあり、子供にとっては、けっして歌いやすい歌ではありませんでした。いわば難曲の部類かもしれません。大人でもおなじことです。

この授業が直接、自分の人生に影響したということはないのですが、その後ときどき、折に触れて思い出すようになりました。
今となっては、あの授業があったことに感謝しています。

個人的には、見ず知らずの人が斉唱している光景が好きです。歌曲ではないので、声のきれいな高校生や歌手が単独で歌うより、老若男女問わず大勢の人が声を合わせている歌声のほうが好きです。

そして、「君が代」は国歌となりました。遅いくらいでした。

国歌の歌えない人間、国歌を歌わない人間は、日本人ではありませんね。

初めから歌える子供はいません。
やはり、順番として、小学校で指導しなければ、頭や心に残りません。

黒木先生のような先生が、日本各地にいることを信じたいです。
先生は愛国でも右翼でもない、ふつうのおばあさんでした。近所では祝祭日の国旗掲揚は日常茶飯の一部でした。

そういう時代になってほしいものです。

黒木先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(歌詞つき)http://www.youtube.com/watch?v=GtDc8NGKYvs

(歌詞なし)http://www.youtube.com/watch?v=h0j5lClcdmU

2013年1月19日 (土)

先の戦争に関し、韓国は日本に対し、何の賠償請求権も存在しない

敗戦に関し、在日であると否とにかかわらず、韓国人は、日本に対し、何らの賠償請求権もないのは確実である。

在日朝鮮人が、日本領土において生活するのであれば、日本と日本人に対し、また日本人の祖先に対し、敬意を払い、他の外国人同様、平穏に合法的に生活するしかない。台湾の人々に代々伝えらている、日本に対する考え方を見習ってほしい。

すなわち、このことに関しては、日本人はむやみに韓国人朝鮮人に頭を下げる必要など全くなく、本当は他虐史観にむしばまれた韓国人にこそ伝えたいところだ。

日本は、およそ自分の国土となった国民には、教育の機会を平等に与え、そこが本土でなければ、本土並みの教育水準にするという使命感があった。いわゆる皇民化政策の一環である。

明治43年(1910年)の日韓併合時に寺子屋程度のものしかなかった朝鮮に、昭和19年までに、小学校を5213校、生徒総数239万人という初等教育を実現した。最終的には就学率61%となった。当時アメリカの植民地であったフィリピンの35%などに比較し、大きく上回った。
ソウルには帝国大学が創設され、身分が低くとも、努力次第で平等な試験を受け、高等教育を受けられるようにした。

併合後、大正10年までに1億4千万本の植林を行ない、昭和5年前後までに、耕地面積を246万町歩から449万町歩に増やし、灌漑設備も整えた。鉄道についても近代化を行なった。今のソウルとプサンを結ぶ京釜線をはじめ、半島内3827kmにわたる鉄道網を張り巡らせた。
鴨緑江などのダム建設と水力発電の設備、日本窒素による肥料工場の稼働など工業政策も小まめに行なった。

明治42年の国家予算は約5億2千万円だったが、そのうちの5.77%に当たる3千万円を、半島のインフラ整備、田畑の耕作、小学校の建設と児童の就学という国家の基本要素に充当している。
このころ日本の東北地方は作物の生育もままならず国内からも反論があったようだが、朝鮮半島を近代化し成長し少なくとも日本本土と同等くらいにはしたかったのである。
もちろん、ロシアやシナが背後にあるという地理的条件は大きい。むしろそうだからこそ、半島の近代化は急務だったのである。

こうしたインフラストラクチャ-の整備が土台にあるからこそ、韓国の経済は戦後発展してきた。朝鮮戦争をはさみ、みずから努力を放棄し、屁理屈を主張し、日本の政治家に脅迫を加えながらとはいえ、著しいとは言えないにしても少なからず経済発展を遂げ優秀な人材や有力な企業が生まれてきたのは、こうした日本が作り上げた有形無形の土台があったからにほかならない。

世代も変わり、韓国人とて、過去の恩恵に対し、ペコペコすることはない。ただ、いま現在も将来も、日本で暮らすからには、こうした事実を忘れないよう、子孫にきちんと伝えてもらいたい。
そのうえで、日本国内では、謙虚に平穏に生活してもらいたいということだ。

もし、韓国が国家として日本に対し刃向かうのであれば、過去において日本帝国主義の象徴だからとして朝鮮総督府の堅牢な建物を破壊したのと同様、以上すべての設備を破壊し、学校を廃止し、耕作地をはげ山に戻し、すべてを無に帰してから刃向かってくるのが筋というものではないか。

従軍慰安婦問題、強制連行問題にしても、そんなものはもともと存在しないのである。
大もとをたどれば、従軍という装飾をつけキャンペーンを貼ったのは朝日系の雑誌であったとされる。つまり造語である。うしろにつく問題という言葉も、問題としているのは韓国と日本のサヨク連中や反日メディアだけである。
竹島問題や尖閣問題というのと同じで、便宜上使うのは今となってはやむを得ないものの、正式な用語として使うべきではない。言葉のイメージは強く、言葉には残像現象というマジックがある。

戦後補償については、1965年(昭和40年)6月22日、日韓基本条約が締結され、この条約の発効と取り決め実施によって、すべて片付いている。
日本は韓国に対し、今からすればそんなにすることもなかったろうにと思うが、それまでに戦後以降の経済協力金は1兆円を超えており、そのうえでさらに、無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款3億ドル以上という莫大な経済協力を約束し、それをもって両国が統治時代にかかわる一切の請求権を放棄した。
これはその後すみやかに実行されている。

言うまでもないことだが、無償供与とは、ただであげるということだ。有償も借款も融資だが、返済条件は緩い。この合計8億ドルとは、現在の価値に換算すると4兆5千億円に相当する。

当時の韓国の国家予算は3.5億ドルだったから、事実上3年分の国家予算を日本が払ったも同然である。日本の外貨準備高は当時18億ドルだから、その27.78%が韓国一国への有償無償の供与ということになる。
これが大きな礎となり、韓国は京釜高速道路などのインフラ開発に象徴される、いわゆる「漢江の奇跡」なるものを実現させた。

条約交渉中、日本は、韓国が徴用者名簿を渡してくれれば直接当人に支払うと言ったのに対し、韓国は個人補償は自国で行なうので一括して韓国に払ってほしいと主張し、そのとおりになった。
また、朝鮮半島に残した日本の固有財産や日本人の個人資産計約53億ドル分は米ソに接収されており、その返還も課題であったが、日本はこれを完全に放棄した。事実上、韓国と北朝鮮にそのまま贈呈したということになる。

この供与の用途は、大韓民国の経済発展に寄与するようにしなければならないとされていた。韓国国内でこれをどう有効利用するかは、韓国の内政の問題である。
しかし、経済発展名目とはいえ、韓国政府が軍人などの遺族補償に充当した分はわずかであり、無償協力金の5.4%に過ぎず、その他の協力金のほとんどの部分を、インフラ整備や企業投資に回した。

終戦後死亡した軍人らの遺族、傷痍軍人、原爆被害者、在日韓国人、サハリンなどに在住の在外韓国人、慰安婦らは、この補償の対象からはずされた。
このうち、在日韓国人や慰安婦が、もし仮に純粋に戦後補償を求めること自体が正当な請求だとしても、戦時における賠償請求は国家間でのこの条約締結で解決済みであり、日本からの経済供与の配分は韓国政府がその判断で行なったことであり、どちらにしても彼らが日本に賠償などと言う名目で請求するということは、もはやできないのである。

その後もいろいろな賠償請求が彼らから起こされたが、2009年8月のソウル行政裁判所の情報公開を伴う判決により、個別補償や徴用による未払い賃金は、仮に請求するにしても、日韓基本条約の趣旨からして、その相手を日本政府とするのは筋違いで、相手は韓国政府であるとし、これを時の韓国政府も公式に確認している。韓国政府は正式に、対日補償の要求はすでに終了している、と発表している。

最近は韓国最高裁でもそれとこれとは違うといったような判決も出ているが、仮にも国家間で取り決めたことについては、いわゆる統治行為に該当するので、司法が容喙(ようかい=口出し)するべきことではないと考える。

今から言ってもしかたないが、この日韓基本条約は、韓国が日本から合理的に金を取るだけが目的の条約であり、韓国だけに一方的に有利にして偏った内容であり、到底賛成できない。
他に、朝鮮半島に残る個人資産や国有財産は戦前戦後にかかわらず日本の所有なのであり、その返還を求めていない、竹島の帰属を明らかにしていない、などの理由からも反対である。このとき竹島の領有を主張するなら、金はびた一文出さんぞくらいの気構えがあってもよかった。

当時の政府には、この条約や内容に、たしかに異議を唱える者がいた。それだけまだ日本政府は健全であった。当時左翼も反対したが、それは北朝鮮を置き去りにし大韓民国だけ相手にしているからという理由からであって、今日の様相とは異なる。

慰安婦も強制連行も、言葉の表現に過ぎず、慰安婦とは戦地ではいずこにもある色街での売春婦で、自ら志願した者が主であり、どこの国にもあったことだ。これについては、彼女らが高給だったという証拠の写真もあるし、退役軍人の証言もある。
看護婦その他の仕事では安月給であったので鞍替えしただけのことである。本来なら人前に出てきて訴訟を起こすということ自体が恥知らずなことなのだ。日本だけでなく、アメリカでも喧伝している。
強制連行は、戦時下での通常の徴用のことで、特に朝鮮人にだけ強いて何かをさせたということはない。戦時下では、日本人と同様に、朝鮮人だけでなく、台湾人であれ捕虜となった敵国兵士であれ、みな徴用されている。

こういうわけで、在日韓国人・戦時在日であった朝鮮人には、日本政府に対し、日本統治下であったことに起因する事柄に関しては、彼らは一切の賠償請求権もないのである。

2013年1月18日 (金)

貴様、何様?俺様は大坂市長である!僕は偉いんだからね!

受験生に罪ない・夢摘むな…橋下市長に抗議噴出
(読売新聞 - 01月18日 07:19)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2291965

(以下全文転載▼▼▼~▲▲▲)

   ▼▼▼

大阪市立桜宮(さくらのみや)高校の2年男子生徒(17)が体罰を受けた翌日に自殺した問題を巡り、橋下徹市長が同高体育系2科の募集中止を市教委に求めたことに対し、「無関係の受験生を巻き込むのはおかしい」などの抗議が相次いでいる。

橋下市長は17日も持論を曲げず、教育現場の困惑がますます広がっている。

市教委によると、橋下市長が今春入試での募集中止の意向を表明した15日以降、113件のメールや電話があり、うち95件が「受験生には罪がない」「子どもの夢を摘むのか」などの反対意見だった。市のホームページなどにも意見が200件近く寄せられた。

17日の記者会見で橋下市長は「(桜宮高は)子どもを迎えられる態勢ではない」などと述べ、「(それでも反対なら)選挙で僕を落とす手段が与えられている」と話した。

さらに、橋下市長は、市教委が2科の募集中止を拒否した場合、対抗措置として「予算執行権をきちんと行使する」と述べ、市立高の今年度の入試関連予算の残り約130万円を支出しない可能性に言及した。

あわせて要求している、桜宮高の全教員約70人の異動についても「最低限、体育会系のクラブ活動顧問の入れ替えが必要だ。春に顧問が残っているようなら、体育教師分の人件費を出さない」と述べた。市教委によると、同高で運動部に関わる教員は56人を数え、人件費は年間約3億9000万円にのぼるという。

市立中学の校長会は17日午前、「影響は非常に大きい」として、2科の募集実施を求める要望書を市教委に提出した。橋下市長は、こうした動きについても、「そういう校長はいりません」と、ばっさり。受験生の声をくみ取ったものでは、との記者の質問にも、「一番重要なのは亡くなった生徒のこと。(受験生は)生きてるだけで丸もうけ。またチャンスはある」と反 論した。

   ▲▲▲

そもそも、橋下が市長に当選しているという現象じたいが、遠いところにいる人間からすると摩訶不思議なわけで、大坂地域というのは、日本という国民性の相似形縮小版なのかなあ、と思ってしまう。

コッチがダメなら、一挙に、正反対にあるアッチを選ぶ。
コレがダメだから、一刀両断にして、一挙にその正反対にあるアレを選択する、などなど。何かにつけ、そんな印象をもつ。

市民による市長選択にしても、その支持をバックにした橋下の大胆不敵(に見える)発言やその態度にしても、思想的なものはほとんどなく、あっても矛盾しており、そのときどきの雰囲気や威勢のよさで、いかなる方向にも進みうるという特性を感じてしまう。
あるいは、市長くらいだから、これでも通じているのかもしれない。それを承知で、橋下も、自らのサイズに見合う大きさの行政のなかで、「生きがい」を感じて日々を送っているのだろう。

地方自治体のよさは、その地域の個性や伝統を重んじて司(つかさど)られるものではあろうが、何かにつけ中途半端な印象しかもてない傍目(はため)からは、大坂市民は、本当にこの人物を信じて一票を入れたのかと疑いたくもなる。
もちろん、反対票を入れた有権者も多いはずで、内心忸怩(じくじ)たる思いで、次の市長選を待ち望んでいることだろう。

生徒の自殺は、市政にとっては偶発的な出来事であったが、橋下は、待ってましたとばかりに、年末から今日にいたるまで、市長を演じて見せてきた。

今日の発言にしても、「一番重要なのは亡くなった生徒のこと。(受験生は)生きてるだけで丸もうけ。またチャンスはある」と言ったようだが、筋違いもいいところだろう。

亡くなった生徒の不幸はあるにしても、体育科志願を含む一般受験生らに、死去した生徒の負い目を追わせるのは、筋違いだろう。それにより、一般受験生に、生きてるだけマシだから、受験校がなくなったって、他を受ければいい、人生にはこれからもいろいろある、と言っても、納得がいくはずがない。受験生にとっては、たとえ不勉強でもアホンダラでも、その時々が関門なのである。

これが大坂市民の多くが、一挙にハンドルを切って選んだ人の発言であり、その選ばれた人は、同じように、一挙にハンドルを切って、方向を転換していこうとしている。
一挙にハンドルを切るのは、応援団からすればカッコよく見えるのだが、事故る率も高い。

橋下に、本当に体罰をなくし、体育科を廃止していこうとする強い政治的意志があるのなら、年間の計画を立てて、いろいろな調査をおこない、少なくとも一年先での実施というくらいのタイムスパンで進めていくのが最適だろう。
しかし、橋下はおそらくそんな芸当はできない。何でも短兵急にしか運べない頭脳には不可能である。

まるで、言うことを聞いてくれない生徒を目の前に、中学の生徒会長がヒステリーを起こしたような感がある。

まあ、公式な市長たる者の発言だから、記憶に留めておき、お手並みを拝見していこうと思う。

悔しいし、一度口に出しているから、撤回とはいかないだろうが、結局は、妥協点を見つけて軟着陸を図ることになるのではないか。

2013年1月16日 (水)

サヨクの甘い誘いに乗ってはいけない (2013年1月16日)

恋人を山奥の村に置いてきた青年は、その彼女とときどき文通をしながら互いの意志を確認し合ってきた。
やがて、彼女からの手紙の回数が減り、そのうち来なくなった。帰省したとき青年は両親にことの次第を尋ねた。
彼女はすでに結婚していた。結婚相手は、青年からの手紙を彼女に届けていた郵便配達夫であった。…

よく聞く話であろうと思う。作り話と言い切れない話だ。手紙の交換より、顔を合わせるほうが、引きつけ合う力は強くなる。
ただ、互いに関心がないかどっちかにしか関心がなければ、ゴールインには至らない。彼女にも郵便やさんにも、惹かれ合うものがあればこその話である。そして、この郵便やさんの配達テリトリーに、彼女の住まいがあったという条件が付く。

朝日新聞東京本社の所在地は東京都中央区築地5-3-2で、そこに東亜日報東京本社やニューヨークタイムズ東京支局が入居している。読売新聞東京本社の所在地は東京都千代田区大手町1-7-1で、そこに韓国日報東京支社が入居している。TBS東京本社の所在地は東京都港区赤坂5-3-6で、そこに韓国聯合が入居している。
ちなみに、日本教育会館の所在地は千代田区一ツ橋2-6-2で、そこには、日教組を構成する政治組織・日政連(日本民主教育政治連盟)所属から推薦された組織内候補である、民主党文教関連議員の事務所が入居している。

韓国の三大新聞には朝鮮日報、中央日報、東亜日報があり、朝鮮日報はやや右寄りと言われているが、東亜日報は左派系で、朝日と同居するというのも納得だ。

無論、先進国のマスメディア同士がその相手方の本部や支局に、自分たちの支部や支局を置くことは、仕事柄の合理性や機能性の便宜からすればありうることである。日本のような巨大なマスメディアだからこそ、他国の支社や支局が同じビル内に入居し、一刻を争う取材や報道という姿勢からすればやむをえないとも言える。

が、一方、やはり、瓜田に履(くつ)を納(い)れずということもある。
日常的にEVどころか、互いのへやに出入りすることができれば、技術協力や情報共有以上に、さまざまな影響を互いに与え続けることができるだろう。
それが高じて、報道内容の優劣や順位まで「互いの了解のもと」に決定され実行されるとしたら問題だ。「互いの了解のもと」ニュースソースを隠匿することだってありうるかもしれない。

報道の自由・取材の自由は、憲法にも保障されているし、それ以前に尊重されなければならないだろう。それだけに、図に乗っていい気になるのでなく、中韓から影響をもらうような取材・報道はなくすべきだ。つまり、今更の感もあるが、偏向報道を慎むことである。

マスメディアそのものが、そのあり方として、権力批判の立場、言うなれば社会的弱者の側に立つ。それはそういう成り立ちがあるからしかたない。
問題は、憲法の保障を笠に着て、付和雷同を煽ったり、事実を報道しなかったりすることである。信念を失った新聞やテレビは、もう誰も読まないだろうし見ないだろう。今更、社会の木鐸になれとまでは言わないが、記者というのはペン乞食になったら最後だ。ある意味、人間のクズにもなりかねない。

朝日新聞の購読者数が、この3年で27万部も減った。朝日新聞じたいが公表している。特に、ここ2年間の減り方が激しい。これは何を意味するのか。朝日の内容以上に注目されていい事実である。

偏向的・迎合的な記事を書いて、それにより読者受けを測り、洗剤やゴミ袋など生活用品をエサに戸別訪問して、購読者を募る…新聞勧誘員と称するヤクザまがいが販路拡張員として日夜活躍する…こういう時代は、すでに終息に向かっている。

インターネットやその他の手段で、正確な情報を手に入れ、情報の出所・根拠を探ることも可能になった。情報の受け手側は少々神経を使うが、愛する自分の国の行く末のなめなら、この程度の苦労は背負ってもしようがない。

ここ数年、学生運動は、ほとんど大きくは取り上げられていないが、それは、いつものことだから取り上げないのではなく、規模的に注視し報道するに足りないからである。しかも民主政権のときは追い風であった。

しかし、安倍政権の誕生と、すでに周知されている堅実な政策実行により、いま表沙汰になっていないが、水面下でさまざまな「用意」がされ始めていることは、容易に想像がつく。彼らはいま、追い詰められたネズミである。窮鼠(きゅうそ)、猫を噛むという。追い詰められたネズミは、ネコをも噛むことがある。

ターゲットの時期は、4月(入学式)と8月(参院選)である。社民党も暗躍を始めている。

2010年11月初め、菅政権下、内閣事務官が恐喝未遂で逮捕されていた。前代未聞であるが、首相官邸にも警視庁の捜索が入った。他の共謀した男もつかまり、結果的にこの事務官は懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の判決を受けた。
この事務官がたまたま昭島市在住で、同じ町名に朝鮮総連の支部(西部支部、東京都昭島市東町(あずまちょう)2-4-12)があったことから、真相はどうなったかがSNSレベルでは騒がれたが、そのままニュースそのものが立ち消えてしまった。このニュースはほとんど報道されもしなかった。

最近の飯島氏の発言で明らかになったが、民主政権時、左翼と言える連中が、官邸に出入りしていた。鳩山と違い、学生時代から左翼運動をしてきた菅直人の周辺には、そうしたキナ臭い人物が多い。
できればこれら左翼と言える人間の氏名を公表してほしいが、おそらく、菅政権の時代に集中しているのではないか。
菅が招いたに決まっている。鳩山はただのボケナスの目立ちたがり屋だが、菅はかろうじて議席を獲得し、表立っていないだけに陰で左翼を指揮しているに決まっている。

どこの職場でもいろいろな人間がいて、何がしか事件・事故は起こるものだが、官邸の事務、すなわち国家機密を扱う部署であり、どういう採用をしているのか明確にすべきだった。この事務官は同時に風俗店の経営もしており、金銭トラブルからこうなったとあったが、採用に関して、どういう調査をしていたのだろう。

人をよく見極めないで採用するのは民主党特有の現象だ。事務官から大臣まで、同じことが言える。長い自民党政権時代にも、たまに閣内不一致はあったが、そんな場合だいたい罷免された。
民主党の場合は、適材適所とは口だけで、失言大臣や質問にまともに答えられない欠陥大臣、閣内不一致大臣ばかりであった。それでも、そのときの内閣には必要な、党内の事情があるのだろう。しかし、それはわれわれ国民の知らないところで決められるし、迷惑千万な話であった。

招かれたいと思っているところへ、招待状が来たら、出向くのがふつうだろう。招かれたいほうも、必死にアピールしている姿が想像できる。

民主党政権下での日韓・日中とて似たところはある。
仮に、貿易や観光での往来は通常国家間にあるにしても、思想的なところへ突っ込むというのは、手引きする者がいるからである。
招く側は、自虐史観の完成形として、これら相手国に「償う」ような気持ちで接し、償わなくては「ならない」と信じ、心を「広く」開き、自らのほほえみと思いやりに「自己陶酔」している。
招かれる側は、「涙ながらに」感謝の喜びを装いながら、腹の底では、いつ「盗んで」やろうかと、その機会を虎視眈々と窺(うかが)っているのである。

我々国民の多くは、ついに、友愛やら共生やらなどという、いかがわしい言葉に騙されつづけられることなく、保守政権回帰を望んだ。そして実現した。

新聞・テレビ、サヨク人間の「言葉」と、それによる「表現」だけに依存する体質は、視聴者・読者・聞き手を迷わせ、扇動する。彼らサヨクの真髄は、「言葉と表現だけ」が頼りなのだ。それはいわば、むき出しにされて提供されるから、品もなくなり、周囲への迷惑も考えない。

言葉と表現の力は、たしかに強い。だからこそ、真実の見極めが要求される。

窮鼠、猫を噛むという状態は、断じて避けなければならない。

2013年1月15日 (火)

濡れた階段は、要注意!

2011年9月21日は水曜だった。休みだったけど、出かけるのにはふさわしくない天候だった。
大きい台風が来ていて、前日から都内は嵐同然だった。夜更けに中心からはずれたのだが、まだ雨と風が残っていた。

昼過ぎ、雨が小降りになったのを見て、自転車でスーパーに行こうとした。大体のものはあるので、その日はその日のものだけ買えばいい日だった。
いつもならついでに駅の反対側のレンタルショップにも行くのだが、見ているうちに大雨になると困ると思い、出たらすぐ帰るつもりだった。

まだ暑いし、雨なので裸足で、ズックを履いて玄関を出た。マンション内もあちこち濡れているので、用心していたつもりだった。なのに…

2階から階段を下りようとした一歩目を、踏み外してしまったのだ。
一瞬、天井がほとんど真ん前に見えた。そして、そのまま落ちた。仰向けで、階段に叩きつけられたということだ。

幸い頭は打たなかったが、階段の端が、背中の左やや上と、左の尻っぺたの真ん中よりちょっと上でちょっと右あたりに当たった。

生まれて初めて、こんな痛みを経験した。
直後は何が起きたのかわからなかったが、しばらくして、尻に激痛が走った。すぐには動けなかった。
そういうときでも、誰かにこんなぶざまな姿を見られはしないか、と気遣ったが、幸か不幸か誰も通らなかった。もし誰かが通り過ぎても、落ちたかっこうのまま動けなかっただろう。

もうこうなると、腹が減ったことなどどっかへ吹っ飛んでしまった。
ようやく這うようにしてへやに戻った。

尻のいろいろなところに指を当ててみたけど、尾骶骨は痛くなく、打っていなかった。左尻が痛いのだが、ようやく屈伸や片脚ずつの脚伸ばしなどをしてみた。尻の痛い以外は大丈夫なので、骨関係ではないと判断した。

直後に尻を鏡で見ると、ちょっと赤くなっているくらいだった。
今度は買い物の目的がはっきりした。マツモトキヨシが近くにあるので、よたよた歩いて、湿布の張り薬を、初めて買ってきた。しばらくもつだろうと、二種類買ってきて、打ったところに張った。

もう何もする気にならず、横になったが、左尻が痛いので、右向きに寝た。
痛いので眠れるはずもなく、ごろごろしようにもできず、何でこんなことになってしまったのか…、と考えた。

いつもかかえて行くバッグに鍵をしまうところまでは、いつもと同じだった。

DVDのレンタルショップでは、ときどき割引回数券をくれる。一回100円引きなのだが、せっかくくれるのだから、使うことにしている。その回数券は財布にしまってある。
その日はそこに行くつもりはなかったけど、あと何枚くらい残ってたっけ、と、ほとんど考えるということもなく、歩きながら財布の中を見ていた。

階段に近づいたのはわかっていたが、その作業を続けながら、一歩を踏み出してしまった。きちんと左足が段に乗っていれば、問題はなかった。ところが、左足は、段のかどに降りて、ほとんどかかとだけが引っかかったのだろう。いや、引っかからないから、仰向けに倒れたのだ。
おまけに、階段は濡れていて、ズックは底が平らに近かった。

夕方になり、尻がどんなになっているか、鏡の前でからだをよじらせたところ、グロ画像のようになっていて、また驚いた。左尻の打ったところを中心に、赤というより黒い内出血になっていたのだ。その黒にも、よく見ればグラデーションがある。

…その後、一週間から二週間のうちに内出血は左尻の全体に広がり、ベルトの位置より上にも広がっていった。次第に、右の尻の肛門側まで、広がっていった。

痛みは打ったところにあって、内出血しているところは痛くない。仕事に行くにしても、見えないところだからまだよかった。自分でもキモいくらいだ。

おそらく引力のなせるわざか、ひと月くらいすると、今度は、左足の腿のほうに、広がっていった。血液だから下がっていくのだろう。理屈では納得だが、自分のからだとはいえ、とても気色悪い光景だ。

…12月の中旬ころ、ようやく尻の痛みも完全になくなり、尻はきれいになったが、そのころ左腿に下りた内出血は、とうとう膝の裏側の下にまで達していた。太腿の内出血のふくらみは、やはり痛みはないものの、触るとぶよっとする。余計な水分があるせいだろう。

この三ヶ月というもの、特に最初の一ヶ月、寝るときは右向きで、小さいソファーを左尻に敷いていた。床屋に行っても、事情を話して、右に向いて座った。電車でも、まわりからはわからないだろうが、左尻は上げている。
職場はアームチェアなので、袖なしのイスに変えて、これも右の尻だけで座っているという不恰好さだ。

年が明けたころには、ようやく膝の裏側の内出血も消え、それより先は黒くはならなかった。…

以上、2011年の危険な思い出でした。

<教訓>

階段を下りるときは、必ず足元を見るようにしよう!

99歳の向学心 (2013年1月15日)

99歳大学生、国際政治史の勉強に励む「世の中にはいろんな知らないことがあるもんな」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/household/621784/
(以下全文転載▼▼▼~▲▲▲)

   ▼▼▼
大阪府和泉市にある桃山学院大学。その教室で、10代、20代の若い学生たちに交じり、深い年輪のしわが刻まれた顔で、まっすぐ前を見つめる老人がいる。ピンと背筋を伸ばし、講義に集中する姿は、かえって若々しくも感じられる。この人は、大阪市東成区の自宅から同大学に通う村川信勝さん。なんと現在、99歳の聴講生だ。(中井美樹)

■最前列の真ん中が“指定席” 

大学では、国際政治史や国際法の講義を受講しており、週に2回、電車やバスを乗り継いで、片道2時間近くかけて通っている。

教室では、最前列の真ん中が、いつもの席だ。リュックの中から、小さな座布団を取り出し、いすに置いて着席。細かい文字を読むためのルーペやノートを準備して、授業の始まりを待つ。

講義の時間は約90分間。その間、常に集中する姿は崩れることはない。講師らの声にじっと耳を傾けメモをとり、板書についても一文字も漏らさないように書き写す。

授業用のノートのほかに、家には清書用のノートがある。

「分からない言葉は当て字で書いておいて、家で清書しながら調べる」

まさに、受験生も“顔負け”の向学心だ。

■家計が許さなかった勉強への思い

「勉強したい」という思いは、少年のころから抱き続けていた。
しかし、尋常小学校を卒業後、すぐに働きに出ざるを得なかった。「中学に上がって勉強したい」という願いは、家計が許さなかった。

 戦前だった当時、村川さんの周囲も含めて「みんな貧乏な時代やった」という。「わしはよくても、成績のよいやつはかわいそうでな。一緒に泣いたこともあった」

夜間学校なら進学させもらえるだろうか-と独学で勉強し、商業学校の編入試験に合格したが、父親は認めてくれなかった。

そして、太平洋戦争では、ビルマ戦線に衛生兵として送られた。敗走中に砲弾を受け、数え切れないほどの仲間の死も目の当たりにした。さらに、戦場は飢えとの戦いであったとも。「オタマジャクシも、ヘビでも、なんでも食べた」。餓死した仲間も多かったという。

「なんで自分が生き残れたのか分からない」。そう思うほど壮絶だった。

帰国後は、紳士服の縫製工場で勤め、退職後も技術指導などを続けていたが85歳でリタイア。93歳のときに同大学の聴講生になり、子供の頃からの「勉強したい」という夢を、ついに実現させた。

きっかけは、大阪府庁でたまたま見かけた桃山学院大学の聴講生のパンフレット。「大学生と一緒に勉強ができるんか」。胸が躍った。

■大学通いの支えは、尽きない好奇心

これまで、日本史や世界史、国際法などを受講。これらを学んできた理由としては、自らが体験したあの戦争がなぜ起こったのか-その背景を明らかにしたいとの思いがあるからだ。そして、勉強を重ねるごとに、国際的な対立は、戦争ではなく、外交的努力で回避すべきだとの思いが募っている。

「大阪・梅田の地下街でも、今はみんなきれいな格好して歩いているけど、戦争が終わったとき、子供らは真っ黒の顔をして地面にへたり込んでいた。それを見たら、戦争みたいなもんは、絶対アカンと思うわな」

一方で、自身の大学通いを支えているのは、尽きることのない好奇心だとも。そのひとつとして、英会話の講座にも挑戦したという。「最近は、広告も英語で書いてあって、何を書いてるか分からない。勉強したので、今は字引があれば、だいたい分かるようになった」

平成10年に妻を亡くしてからは、一人暮らし。子や孫もいるが、「一人のほうが気楽でええ」。

料理も自分でする。「失敗することもあるけど、まあ戦地のこと思ったらなんでもおいしく食べられる」と笑う。

大学の講義がない日には、趣味のカメラを楽しむ。この冬は、大阪湾に沈む夕日を狙うつもりだ。

そんな村川さんだが、12月で100歳になる。

「103でも、105になっても聴講生は続けたい。世の中にはいろんな知らないことがあるもんな」

■むらかわ・のぶかつ 大正2年12月生まれ。平成19年から、桃山学院大学で社会人聴講生として在籍。同大学の社会人聴講制度では、正課授業の一部で聴講を受け入れているほか、社会人向け科目が開講されており、24年度は約500人が在籍している。

   ▲▲▲

大正2年(1913年)12月生まれだから、今年の暮れには100歳になるわけだ。

とても勇気づけられる記事であった。こうした何気ないニュース、心にじんわりとくるニュースもまた、報道の使命というものだろう。こういうニュースも発掘して報道してこそ、全国紙の意味もある。

大東亜戦争勃発時、28歳であった。歴史上は著名な人物の偉業がもてはやされるが、この方のような一介の兵士が各隊の基盤をなし、そしていちばん多く死んでいったのである。

軍人とはいえ、やはり、戦前の教育が、骨身にしみて生きているのだろうと思う。その受けた教育と、勉強したくてもできなかった悔しさ、それらが一体となって、のんびり余生を過ごせばいいところを、新たな人生を歩み始めたのだ。
昔の軍人は、今の団塊の世代の一部と違って、何かしていなければならないという意識が強いように思う。

勉強したいのに家庭の事情でできない、というのは、ある種の不幸だ。一見信じられないように思うが、今の日本にもあるし、途上国などには、まだまだ多い現実だ。

こんなお年寄りがひとりでもいることは励みになる。はたで99歳だというほどに、ご本人は年齢を意識していないと思う。健康への留意だけで、また、何かしていることで、精神年齢は若いまま保たれるのだろう。

自分も13日に誕生日を迎えたが、あまり年齢というのを意識しない。周囲に見苦しくない程度に気を付けていれば、特に問題ないと思う。

しかし、そのちょっと下の団塊の世代の一部は、この村川さんとは比較にならないていたらくである。その世代の子がまた、精神的宦官となってしまっている。
教育は一日にしてならず、とはよく言ったものだ。

この村川さんは、学問に自らの生きる方向を見出した。勉強は、その人の覚悟次第で、いくつになってもできる。大学の聴講生でなくても、市井にあってこつこつ調べものをしている人もたくさんいる。

ドイツ語で Leben とは、英語でいう Life であるが、生活、人生、生、といった意味合いでよく使われる便利な言葉だ。
Leben ということでは、村川さんの Leben は、他のすべての人の Leben と同じであり、すべての人の Leben に通じる。

学生・生徒に限らず、学ぶという姿勢は、その対象から学ぶ以上のことを、もたらしてくれる。主産物もその副産物には、たまに驚かされ、それらはたまに感動さえ呼ぶ。
だからやめられなくなる。

村川さん、いつまでも元気で、しっかり学んでくださいね。

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2013年1月11日 (金)

体罰自殺事件の波紋

大阪市立桜宮高等学校の高校2年生が、先月23日深夜、自宅自室で首つり自殺した。その後、他の部活でも似たようなことがあり、校長は隠蔽したなどの事実が明らかとなった。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130110/waf13011013580026-n1.htm

今後も、周囲の知らなかった事実が、いろいろと露見するだろう。刑事事件に発展するかもしれない。
それに伴い、前日の顧問の平手打ちや叱責の言葉も、徐々に明らかにされていくだろう。

資料によると、この学校は1916年に開校されているから、公立高校としては歴史は古いほうだろう。
1980年には大阪府で初めて体育科が併設され、1999年にはスポーツ健康科学科が設置された。偏差値は普通科で46であるから中の下といったところだ。卒業生にはプロ野球選手や、柔道、水泳、バスケットの選手もいる。野球部も第54回選抜高等学校野球大会に出場している。

これらからすると、どちらかといえばいわゆるスポーツ学校であろう。スポーツ選抜クラスをもつ学校として、期待された結果を出し、スポーツ界にはある程度貢献してきた実績は認められる。

こうなると、その実績を維持しようとするのは当然の帰結だ。橋本市長の言うように、18年近くも人事異動がなされていなければ、赴任してきた校長は、ことスポーツクラスやその部活動にかかわることに口出ししにくいというのは一理ある。そもそも校長はそうしたことに無頓着であり無知でもある。

スポーツで名が上がれば、自然とそのときの校長にとっても名誉なことであり、いままで実績を積んできていないのならともかく、それなりの実績を出してきた顧問らに対し、その指導内容や指導方法には容喙できないし、また、しないのが得策である。
といって、校長たる者が、こうした学校で、部活で体罰があるかどうか知らないということはありえない。知っていても、ぎりぎりのところ必要悪として、黙認していたはずである。

この生徒は高校2年であり、部の主将であった。自身の技を上げていかなければならないと同時に、後輩にも指導する立場である。
その練習ぶりや試合ぶりから、常に体罰は受けていたと思われるが、おそらくこの生徒にしては、顧問の度を超した体罰や発言が、自らの責任をとりにくい立場に追い込んだのだろう。
それなりの統率力などを期待されて主将に選ばれたのか、この学年には他にすぐれた者がいなくて、やむを得ず彼が選ばれたのかわからないが、自殺の少し前までは、厳しい練習にもついていったようだ。
ところが自殺してしまったのである。

顧問による体罰や叱責の事実があり、それに関連する内容の遺書があり、体罰や叱責から自殺までの時間が離れていないことなどから察するに、自殺の直接的原因は、顧問の言動にあるのは容易に想像できる。
部活をやめたい、しばらく部活を休む、翌日の登校を拒否する、などの手段はなかった。そんな可能性は彼には初めから選択肢としてなかった。一方、顧問は自殺するなどとは夢にも思っていなかった。生徒は一挙に究極の選択に走り、実行してしまった。
まったく取り返しがつかない事態となった。

こうして書いていながら矛盾するのだが、およそ、いじめや体罰に起因するような自殺事件については、それぞれそこにまで至った経緯というのがあって、今度の場合も、自殺の直前までは、何とか顧問の指導に付いていったのであろうから、外部の人間があれこれと想像でものを言うのは、慎まなければならない。

方や、前にも書いたのだが、学校という場所に限っては、警察の捜査のように、物的証拠だけで物事を判断するのは危険であって、結果的に良い方向に転んでも悪い方向に転んでも、目に見えない現象や雰囲気も、彼らの環境に、意識・無意識に影響していることを考慮しておかなければならない。

要するに、現象やニュースとして、あれこれ周囲が感想を述べることはできても、ではどっちが良くてどっちが悪いと一概に片づけられず、死んだ生徒が弱かったと断言できないし、顧問がやりすぎだとも断言できない。

ただ、この生徒が翌日の登校を拒否したり、親に言って校長に顧問の仕業を伝えたり、という方向に進まず、一挙に究極の選択をしてしまったことに対しては、責任問題が生じるということだけは確かだ。
今後の親の出方にも寄るのだが、刑事事件としての立件や、民事での損害賠償など、法律的な責任追及はそのひとつだ。

それよりもむしろ、顧問やそれに準ずる立場の教師、あるいは、この生徒の担任らが痛感しなければならない責任というものがある。それは、人ひとりが自分たちの作為・不作為の言動によって、死んでしまったということに対する、いわば道義的な責任というものだ。
これはこれら教師が、自分たちが死ぬまで付いてまわることとして、刑事民事の責任以上に痛感し、一生この生徒の死を忘れてはならないという心理的拘束である。これは刑罰や賠償といった法律上の義務とは別物である。

もう一つの波紋は別次元に飛び火する。
自殺を図ったが未遂で終わったのなら、ここまで大きなニュースじたいにならなかっただろう。死んでしまった、ということで、重大なニュースとして報道され、学校関係者や、この高校の他の生徒や保護者、近隣の住民にまで、衝撃が走る。報道じたいは間違いではない。事実がまだあるなら、どんどん出してほしい。

生徒の自殺は、授業中の事故死などと違い、単純に法律という正義で片づけられない。死そのものの直後から、政治的状況を帯びる。橋本市長が何かするという意味ではない。人間社会は、水面下ではおよそ政治的状況で毎日が動いているが、そうしたところに、学校側の責めによる生徒の死が起きると、とたんに表だって政治的状況が色濃く生まれてくるということだ。

政治的状況とは、駆け引きであり、多数に従うということであり、外部からの圧力による何らかのダイナミクスである。外部からの圧力とは、マスメディアを含む世論ということ。同級生その他在学生やその父母、他の学校関係者、近隣住民を含む世論一般ということ。
善悪はさておき、どうしたら駆け引きをスムースに運べるか、どちらが従うべき多数の意見なのか、ダイナミクスが起き上がればかえってそれに乗ったほうが楽なんだが…、といった具合で、時々刻々とダイナミクスが形成されていく。
ここまで来ると、生徒の自殺そのものではなく、周囲の身の処し方のほうに比重が移っていく。

最もばからしいのは、どうしたら自殺を予防できるか、という議論への展開である。自殺そのものは非社会的現象だから、できれば少なくなったほうがよいに決まっている。
しかし、体罰は多かれ少なかれ、どこにもある。いっとき議論されても、また必ずやどこかで起きる。スポーツ界のみならず、踊りのバレー、歌舞伎、芝居など、およそからだを使うような世界には付き物である。表に出ないから知らないだけだ。だから推進せよと言うのではない。そうした伝統があるのなら、それに従うしかなく、そうやって一人前になるしかないのだ。それがいやならやめればいいことだ。
むろん、大人と子供では心理や思考方法が違うが、原理原則は同じところにある。

相撲でも類似の事件があった。角界は学校ではない。事情聴取後、比較的即座に刑事事件となり捜査のメスが入った。体罰に関して学校に捜査のメスが入るのは、原則的には歓迎しない。理想かもしれないが、学校に起因することは、学校で解決するべきだ。この学校には、在校生やその父母、その他多くの教職員も含まれる。

必要悪であろうとなかろうと、体罰は今後も起きうる。それを完璧に消去することはできない。できないことを予防することほどばからしいことはない。ということは、残念ながら結果的に、また、体罰を原因として自殺する生徒が発生する可能性はある。だから、その生徒の死について、一生、心理的に拘束を受ける教師もまた生まれつづけるということになる。

こうした繰り返しの陰で、それぞれの自殺した生徒に関し、いかなることが想像されても、生徒が自殺したという事実は、人々に記憶がある限り消えない。これだけは明白であり、政治的状況から隔絶された関係諸個人の心のなかで、いつまでも傷跡として残るだろう。

こういうニュースに接した第三者は、今となっては、この生徒の冥福を祈ることしかできない。

2013年1月 6日 (日)

活動家養成段階に入った過激派 (2013年1月6日)

さきほど知ったニュースです。去年の4月のものですが、私は見落としてました。
それと知らずに去年4月13日に以下のような日記を書いていましたが、現実にやはり、中核派がこんな勧誘をしまくっていたと知り、いっそう警戒をしなければならないと認識を新たにしました。

こうした動きは、サヨクメディアや社民党とも通じ、ひいては次の参院選にもかかわってくることです。
特に、今年の春の入学式などがターゲットになるのは明らかです。

何かあれば、そこへ行って暗躍するというのは過激派の常道ですが、地震のあった地域に行き、地元では権威ある国立の福島大学などを狙ってビラ配りをしたりカンパ資金を集めたりしているとは、被災者住民に対して破廉恥千万なあつかましさであり、被災による悲惨な結果を踏みにじる私欲行為です。

一昨年の地震を食い物に、こんな活動を行なってきており、しかも衆院選で大敗を喫したとなれば、これからの半年は、彼らにとっても、またもや必死な季節になるわけです。
こういった連中が確実に存在することを強く意識して、保守愛国運動を進めていかねばなりません。

公安・警察当局にもしっかり取締りをしてほしいと同時に、私たちの知った情報を、当局や自民党にメールなどで知らせることも必要なことでしょう。情報はダブってもかまわないのです。たくさん集まることのほうが、当局や自民党にとってもありがたいはずです。

過激派 福島大で暗躍、「反原発」で活動家養成 NPOで資金集め
(2012.4.5 01:07)(以下に全文転載▼▼~▲▲)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120405/dst12040501090000-n1.htm

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東日本大震災の被災地で、過激派「革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)」が、勢力拡大に躍起になっている。公安当局は「震災で吸引力を増した反原発やボランティアを隠れみのに勢力を拡大しようとしている」とみて警戒を強めている。

 4日、入学式が行われた福島大近くで、男が新入生に反原発集会への参加を呼びかけるビラをまいていた。

 この男は2月中旬、福島大の学生食堂で行われた学生有志による原発に関する勉強会で、「原発をなくすには行き過ぎた資本主義を改善しないと」と力説していた人物だ。机上のテキストは「共産党宣言」。プリントには「マルクス主義学生同盟中核派」と記載されていた。男は東北大の学生で、福島大の質問に「自分は中核派だ」と答えたという。

 公安関係者によると、勉強会の主催者はデモでの逮捕歴のある中核派全学連幹部で上智大の活動家だった。参加した学生は「原発事故で興味を持っていったが、団体名は伏せられていた」と話す。

勉強会の開始当初、テキストは「全原発を廃炉に」だったが、出版元は中核派の拠点とされる前進社。公安関係者は「いわゆる『オルグ』。受け入れやすいテーマから徐々に引き込む典型的な手口」と指摘。「反原発機運を盛り上げる段階から活動家養成段階に入ったといえる」と分析する。福島大関係者によると、昨年末には別の福島大生が「中核派に入った」と周辺に漏らしている。

 過激派が福島大で活動を始めたのは震災後で、福島大では約20年ぶり。学生も大学側も蓄積が少なく、立ち入り禁止などの強硬手段に踏み込めずにいるという。

 「オルグ」だけではない。前進社はホームページで子供用診療所の福島県内での建設を主張。別の公安関係者によると、NPO関係者が呼びかけ人の建設推進団体の事務局には中核派活動家が入った。公安関係者は「すでに自治体が診療しているのに不自然だ」として、NPOを巻き込んだ資金集めとの見方を強めている。
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去年4月13日の日記から全文転載(▽▽▽~△△△)

「必死な季節」

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全学連その他左翼系学生団体は、この季節、必死である。入学式当日から必死である。
なぜなら、新しい学生、新入生を勧誘し、員数を膨らませる絶好のチャンスだからだ。

新入生は金の卵であって、どんなクラブや同好会も、列をなして新入生を勧誘する。チラシを配り、声をかけ、よかったら入ってくれ、と頼み込む。
そのなかには、クラブやサークルを装った全学連やその構成団体もある。立て看板やチラシの隅に、その名称が書かれているので、入るなら、きちんと意志をもって、後日入るのがよい。でないと、意志もなく力だけを貸すことになるからだ。しかしまた、力に、あとから意志がついてくることもしばしばだ。

初めから入部するクラブや同好会が決まっている者もいる。高校までサッカーをやってきたからサッカー部に入る、こういう学生は、そういったチラシには見向きもしない。
東京なら東京に、引っ越しをしてきて、その地の友達がいなければ、一人のほうが気楽と考える者以外は、いずれ何かの所属集団を求める。1年次の語学のクラスなど授業の仲間もあるが、偶然組みこまれたクラスより、少しは自分の意志で決めた集団に属したいと思う。

受験勉強を終え、新たな住居も落ち着き、親の干渉もなくなり、新入生としては、ある意味、天国となる。時あたかも春うららで陽気もよく、渋谷や新宿をうろついて都会を知り、何かバイトを始めようかといろいろ探し、男ならガールフレンドもほしくなってくる季節だ。しかも、講義以外の時間は自由であり、何を柱に大学生活を送ろうかと逡巡しはじめるのも、今頃の季節のことである。

そこに、昨年の地震にかかわる出来事が語られ、募金が行われ、やさしい論調で語りかけられると、そういうサークルのことは、少なくとも頭に残る。いい加減な遊び人学生は、それはそれで問題だが、それなりに自分のしたいことがあるので、あまり関心を示さない。いい加減でなく、適度にまじめでおとなしく、目的が見えにくい、…そういったタイプの学生は、「彼ら」の断固とした口調に耳を貸しやすい。言ってる内容より、まずは声音であり格好でありスタイルである。自分と同じような質素な格好をした先輩たちが、実は自分とは違って確固とした意志をもって人を熱く説得している…この姿は、受験勉強だけを目的にしてきて今や日常全般が冷めかかっている今の自分とは、別人に見えてしまう。

もういい年した立派な大人は、どっちにしろ考えが改まるわけでもなく、また教える必要もない。むしろ、これから社会人になっていく手前の、学生・生徒を引きずり込まなくてはならないのは、保守伝統派とて同じことである。

ところが、保守伝統派は、私が全体的に観るところでは、若い人への勧誘には、左系ほど熱心ではないのかなと思うときがある。というより、そのもって行きかたが難しいのだ。

その理由は二つあると思っている。
保守伝統のありかたそのものが自由主義を基盤とするため、強引な方法を取らない。特に、思想信条にかかわるものは、勧誘・強制するのではなく、自ら進んで動き出すのが本来の姿で、いわば、来るものは拒まず、という姿勢が中心にある。その中には、確固とした信念で来る者もいれば、種々の理由で他に行くところがなく来る者もいる。

もう一つは、こちらのほうが厄介なのだが、勧誘するにしても、その論理的説明がしにくいという点である。例えば、資本主義を否定するのに、共産主義の論理を持ちだして滔々と説明されれば、それらしい説得力がある。全く正反対の側から物事を批判するのはわかりやすい。
ところが、資本主義のなかにあって資本主義を批判することはできず、それならば改正・改良という動きと手続きを説明しなければならない。おのずからその説明は難しくなり、しかもプロセスを説明し納得させるわけだからわかりにくく、且つ、つまらなく聞こえてしまう。

これに似て、保守伝統のほうからすれば、思想的言動は日本人として全く当たり前のことと信じて行ない発言しているに過ぎないので、それをあらためて論理的に説明するということになると、難しく厄介であり躊躇してしまう。

一例を挙げれば、特に我々の世代からすれば考えられないことだが、「君が代」を斉唱しろ!日本人だろ!?、何で声を出さないんだ?、恥ずかしいと思わないのか?、と言われるより、どんな国歌がいいと思う?もっと歌詞やメロディーの明るいほうが歌いやすくない?みんなで力を合わせて新しい国歌を作ろうよ!、そのために君の協力が必要なんだよね!、と言われると、これらの中にある美辞麗句も相まって、どこか心が動いてしまうのである。

左翼は、1955年の保守合同以来、ほとんど中心になりえず周辺の存在であったから、批判のしかたや後進への口説き方は、保守よりうまくなってきてしまった。「彼ら」は長い間に、口説き方に長け、鍛えられてきたのである。

こうして、ヒマにはなったが頭の働きのよい新入生にとっては、とっつきやすさと論理的明快さという点で、「彼ら」のほうが目によく映り、そちらに走る可能性が高くなるのである。
知識に飢え、しかも、受験勉強という、理由もわからぬまま大人たちにお仕着せにされた枠組みを、自ら脱却した聡明な新入生には、マルクス主義のような唯物史観の考え方は、乾いた土地に撒かれた水のように、しっかりと浸透していく。特に家庭の事情で苦学して入学した者は、この考え方に傾きやすい。物質はそこにある、心や精神といったものは曖昧である、それらを規定していくのは物質である、心が物を規定するのではない、物が心を規定するのだ、…唯物論は、目的を失いつつある知的な10代後半の若者の思考を、簡単に虜にしてしまう。

やがて少しずつ、他の考え方や思想にも触れていくことになれば順当だと思うが、そこでもって自分たちの考え「のみ」が正しい、と短絡すると、何でも反対・現実無視・論理の飛躍に象徴される、いわゆる「サヨク」が出来上がってしまうのである。

全国の新入生が、「彼ら」の巧言令色に乗らないよう祈りたいし、またできることなら阻止したいものだ。
同時に、保守伝統の側にも、若者に対する論理的説明への工夫と努力が必要だ。
日本の現状なり正確な史実を伝えていくことくらいしか思いつかないが、しかしこれがきちんと浸透すれば、大和民族の血が流れているからには、必ずいろいろなことに気づきはじめ、自ら進んで発言・行動していく若い人たちは増えていくだろうと思うのだ。
これらにより、ひいては例えば自衛隊志望の青年も増えてくるのではないだろうか。

若い人でも、初めから保守伝統の立場に立つ人も多い。そういう人々が、同じ世代の人々に話すということも重要だ。左翼にできていることを保守伝統派ができないはずはないのである。

いずれにしても、後進を従えることのできない組織や団体は、短命に終わってしまう可能性がある。
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<参考>

日教組への道順 (2012年12月22日)

http://futa-forever.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-137c.html

「法政大学文化連盟」
http://08bunren.blog25.fc2.com/

「前進社」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%80%B2%E7%A4%BE

「前進社出版案内」
http://www.zenshin.org/syuppan/syuppan.htm

2013年1月 5日 (土)

サルの威嚇 (2013年1月5日)

男女ひとりずつを並べて、鎖でつながれた一匹のサルの前に立たせ、サルがどちらに飛びかかるかという実験があった。

サルは女に飛びかかった。

男女を別のペアに替えても、サルは女に飛びかかった。

サルは男女を区別して、やはり女のほうに飛びかかるのか。

そこで、男と同じくらいの背の女を男装させ、男を女装させ化粧もして並ばせた。

サルはやはり女に飛びかかった。

今度は、男二人を並べた。一回目のペアでは、どちらにも飛びかからなかった。続く二回目の男二人のペアでは、片方の男に飛びかかった。

サルは女だから飛びかかったのではない。性別による服装で左右されるわけでもない。男でも飛びかかった。唯一、男二人の最初のペアのときだけ、飛びかかるのをやめた。

報告によれば、サルは飛びかかる前に、実は一度、それとなく威嚇しているのだ。並んだ二人の間あたりに向けて、一度ぐいっと寄ってみせるのである。そのときは寄るだけで、何もしない。

そのとき、どちらかが一瞬、ひるんでしまう。ちょっと後ずさりするとか、顔を横に向けるとか、小さく声を出すとかいった、怯(おび)えた反応を示してしまう。
サルは、こちらのほうが襲いやすいと本能的に悟る。そして、ややあって、ひるんだほうに飛びかかる。

ひるんだほうは怖がったので、かわいそうだから、飛びかかるのをやめよう、などどいうことは、なかったそうだ。

男二人の最初のペア以外は、片方が一瞬ひるんだのである。サルはそのひるんだほうに飛びかかった。

この理屈でいくなら、ひとりだけサルの前に立っていても、威嚇にひるまなければ、サルは飛びかかってこないということになる。

本能で来るものには、泰然自若として立ちつくしていればいいというわけだ。それでも、本能で来る者は、予想しがたいところも多いが…。
しかし、この規則性を見つけたのは、サルではなく、人間のほうだった。

宦官が宮廷にはびこる特異な国家シナ

宦官(かんがん)とは、かつての中国・清の時代まで続いた、去勢された官吏のこと。宦官に類似した制度は、一時期アフリカでも見られたが、清(シナ)の宦官がひときわ有名である。

初期の宦官は、陰茎を切断し、そこに砂をぶっかけたという原始的方法で、不衛生どころか、化膿して数か月を待たずして死んでしまうのであった。阿部定もびっくりである。

フォト上のブレッソンの写真は、世界史の教科書や資料集などでも有名だ。これは中共の独立前年1948年に撮られたとのことである。シャレではないが、チンクシャの顔になる。

能力だけ(タマだけ)取り去った者や、アレごと取り去った者もいる。からだは女性的に丸みを帯びるともいう。しなをつくり歩き方も女になってしまうようだ。(フォト下は手術が成功した若い宦官。)

ちなみに、切り取った去勢の場合は、腐敗しないよう、それ(陰茎)を油で揚げて保管しておいたようで、当人が死ぬときに、いっしょに棺桶に入れた。
なぜなら、死ぬときにいっしょにして‘生前の姿’にしないと、来世でロバになってしまうという言い伝えがあり、恐れられていたからだ。

去勢されてから相当の年月が経つので、その間に家族が紛失した場合は、遺族が質屋に行って買い取ることもできた。

去勢手術は、古い時代のことでもあり、多少医学が進歩しても、全部が全部、成功するとは言えず、化膿が悪化して死んでしまった者も多かった。‘ブツ’の‘本体’が亡くなってしまうと、‘ブツ’には何の意味もないので、貧乏な家族はそれを‘から揚げ’にして、冷めたあと、質屋に持っていった。‘ブツ’は、今でいえば、抜いた歯と同じ程度の価値しかない。家族の他の者からすれば、そんな‘ブツ’など気色も悪く思い出の品にもならない。だから質屋に‘ブツ’が集まるのである。

手術後‘ブツ’を家のどこかに置いたまま、当の宦官が死ぬときに見つからないと、その家族が質屋に買いにきて、‘完全なからだ’にしてあの世に送るというわけだ。質屋として商売が成り立つ。

宦官にも有名な人物はいた。前漢の時代の歴史家で『史記』の著者、司馬遷、後漢のときの紙の発明者、蔡倫、ほかに、清の最後の皇帝宣統帝溥儀の‘ホモダチ’王鳳池などが知られている。溥儀は必ずしも女だけ相手にしていたわけではない。両刀使いであった、というより、ああした閉鎖的世界では、女でも男でも愛を感じてしまうのである。どこの国の王室や皇室にもある話だ。

毎日同じ男が下僕として仕えているとなると、始終顔を合わせ言葉を交わしているうちに、年の近いせいもあり、そうなってしまうのである。それでも相手は宦官であるから、ホることはできてもホられることはないのだ。

もともとは宮中に仕えていたとはいえ、せいぜい飯炊きや掃除くらいのことしかさせてもらえなかった宦官は、有力な人物のそばにいるということから、やがて能力のある者はそれなりの地位を獲得していった。皇帝も孤独で、話し相手がほしかったのだろう。また実際に、優れたブレーン役を果たした宦官も多い。

宮廷の女とファックできないようにするために去勢したのが始まりというが、こうした‘思い切った発想’とその実行、そしてそれを顧みることなく伝統的に続けてきていた、ということも、シナに代々住む人間、それも権力の側にいる人間たちを理解する一助とすべきだろう。

通州事件に見られるように、殺してもなお、遺体に棒を刺したり抉(えぐ)ったり、男女ともに乳のまわりを切り抜いたり、皮を剥(は)いだりする傾向は、宦官なるものが何百年と続いてきたシナという国の特異性と、共通しているように思われてならない。

それら残虐とも思える行為は、勢い余って興奮したままやっているのではない。意図的に集団でやっているのである。そこに恨みつらみ以上の冷酷さを見てしまうのだ。

西太后も、ライバルの女の両腕両脚を切り落とした。しかも殺さずに、胴体の部分だけ甕(かめ)に入れて、そうなった相手を毎日見て楽しんでいたという。映画『西太后』にもそのシーンが出てくる。(フォト中は、宦官に囲まれた西太后。著作権が効いているので数日以内に削除します。)

シナには群雄割拠の歴史しかない。中国4000年の歴史などというのは作り話だ。4000年在り続けているのは、人間の血を吸った大地だけである。俺が支配する、私が支配する、という姿勢だけだ。真に国家を繁栄させ国民を豊かにするという意図からそうなるのならまだいい。常に、まずは領土の獲得から始まる。
だからこそ、国力(軍事力)が国境を決定する、という言い伝えが罷(まか)り通るのだ。

国名はころころ変わっても、そこに生き続けてきた民族は同じだ。今日でもこうした考え方、民族的メンタリティに大差ないだろう。
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2013年1月 3日 (木)

♪われは海の子♪♪里の秋♪♪蛍の光♪~改変された歌詞の復活を!

童謡には違いないのですが、戦後、軍国のイメージにつながるなどさまざまな理由で、本来ある歌詞の一部しか歌われなくなったり、一部を改変して歌われているものがあります。調べたらもっと出てきそうです。

もうそろそろ、元のままの歌詞で歌われてもいいような気がします。
ここに取り上げた歌も、それ自体は素直な歌詞で、勇ましく、今からすれば固い表現がありますが、国を愛し守るという基本を教えてくれるものと考えます。

現代からは言葉が難しいところもありますが、たくましく意志の強い日本人をはぐくむためにも、児童が歌って何ら差し支えない歌詞だと思います。

言葉が難しいなら、下のようにカナをふったり音楽の教師が説明すればよいだけです。

「われは海の子」

作詞・作曲者不詳  1910年(明治43年)   文部省唱歌

https://www.youtube.com/watch?v=hjoj0XfUFZg

われは海の子 白浪(しらなみ)の
さわぐ磯辺の 松原に
煙たなびく 苫屋(とまや)こそ
わがなつかしき 住家(すみか)なれ

生まれて潮(しお)に浴(ゆあみ)して
浪を子守の 歌と聞き
千里よせくる 海の気を
吸いて童(わらべ)と なりにけり

高く鼻つく 磯の香に
不断の花の かおりあり
なぎさの松に 吹く風を
いみじき楽(がく)と 我は聞く

丈余(じょうよ)のろかい 操りて 
行手定めぬ 浪(なみ)まくら
百尋(ももひろ)千尋(ちひろ) 海の底
遊びなれたる 庭広し

幾年(いくとせ)ここに きたえたる
鉄より堅き かいなあり
吹く塩風に 黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう) さながらに

浪(なみ)にただよう 氷山も
来(きた)らば来れ 恐れんや
海まき上ぐる たつまきも
起(おこ)らば起れ 驚かじ

いで大船を 乗り出して
われは拾わん 海の富
いで軍艦に 乗組みて
我は護らん 海の国

「里の秋」

作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実、歌:川田正子 昭和20年12月

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=e2vkuDPLqYo

1 静かな静かな里の秋
  お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は
  ああ母さんとただ二人
  栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい星の空
  鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜は
  ああ父さんのあの笑顔
  栗の実食べては思い出す

3 さよならさよなら椰子(やし)の島
  お舟にゆられて帰られる
  ああ父さんよ 御無事でと
  今夜も母さんと祈ります

※作詞者が初めに作ったのは昭和16年12月開戦直後のころで、戦後になるとふさわしくなくなり、特に復員を手助けする番組に使うには似つかわしくないということで、急遽、以下のような3番を上のように書き換え、4番をなくした。

本来は、下の3番4番のように、出征した父さんを思う母と子の歌であったが、敗戦による引揚者を探し出す歌として、父さんが無事に日本に戻ってくるよう祈る歌詞に変更された。

童謡としてよく歌われるが、元々の1番から4番まで通して、初めて意味が通じるのである。最近ではこの3番さえ歌われず、多くの人が『里の秋』は2番までの歌と思っている。2番までだと、単身赴任の父親か、相当以前に亡くなった父親を、母子が偲ぶような歌に聞こえる。

元々の詞

1・2は同じ

3 きれいなきれいな椰子の島
  しっかり護って下さいと
  ああ父さんのご武運を
  今夜も一人で祈ります

4 大きく大きくなったなら
  兵隊さんだようれしいな
  ねえ母さんよ僕だって
  必ずお国を護ります

メロディに合わせてこの3・4番を歌うと、じーんとくるものがありますね。

 

『蛍の光』も、戦後、3・4番は、略されて歌われています。

『蛍の光』  原曲はスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」

        作詞:稲垣千頴(いながき・ちかい)

        小学唱歌集初編・明治14年11月24日に掲載

https://www.youtube.com/watch?v=uSBzZyIxdak

1 蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)読む月日 重ねつつ
  いつしか年も 杉の戸を
  開けてぞ今朝(けさ)は 別れゆく

2 止まるも行くも 限りとて
  互(かたみ)に思う 千万(ちよろづ)の
  心の端(はし)を 一言(ひとこと)に
  幸(さき)くとばかり 歌うなり

3 筑紫のきわみ 陸(みち)の奥
  海山遠く 隔(へだ)つとも
  その真心は 隔てなく 
  ひとつに尽くせ 国のため

4 千島の奥も 沖縄も
  八洲(やしま)のうちの 護(まも)りなり
  至らむ国に 勲(いさを)しく
  努(つと)めよ我が背 つつがなく

2013年1月 2日 (水)

教育勅語を知っておこう (2013年1月2日)

敎育ニ關スル敕語(きょういくにかんするちょくご)は、明治維新以後の大日本帝国で、政府の教育方針を明記した勅語である。
ふつう縮めて、教育勅語という。
教育勅語そのものの復活を国家的施策として実現できるかについては難しい課題であるが、この内容を汲んで、日々の学校教育などの一助にすることは可能であろうと思う。

教育勅語は、明治23年(1890年)10月30日に発布され、敗戦後、昭和23年(1948年)6月19日、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が決議され、学校教育から排除・失効となり廃止された。明治以来の我が国教育の根幹精神が廃止されたのである。

それに替わる教育の根本法規として、間断なく昭和22年(1947年)には教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行された。

現在の教育基本法は、平成18年(2006年)12月22日に公布・施行された。旧教育基本法施行後、約60年を経て、全面改正されたものである。

教育勅語の現代語訳を併記している動画があったので、参考までに載せてみた。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=eo6DGUwzNPk
<externalvideo src="YT:eo6DGUwzNPk">

教育勅語の内容によく合っていると思うので、次の曲を再掲した。男女に交互に歌わせ、三番で斉唱しているところがすばらしい。
本当に、すがすがしく元気の出る歌である。

『愛国行進曲』

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=2CpcztEOSrs
<externalvideo src="YT:2CpcztEOSrs">

会報『靖國』より今月の社頭掲示

東京はやや風が出てきますが、例年より気温が高いようで、よく晴れています。午後の日差しが強いです。

靖国神社崇敬奉賛会の会報『靖國』より、今月の社頭掲示を転載します。
参拝の折り、境内で手にした方も多いでしょう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

元気でやっております
 
                      海軍少尉  束原 政春  命

                         昭和二十年一月二十日
                         台湾南方洋上にて戦死
                         青森県青森市大字栄町出身
                         二十五歳

四年目の正月を遂に、内地で迎へる事が出来ました。
正月早々、某方面へ出撃、又一働きする機会に恵まれました。

元気でやって参ります。
家の方もみんな元気で、土産ばなしでも待ってゐなさい。

荷物は、鉄道便で不要の物全部送ります。破れた靴下やシャツが入ってゐますから、修繕して使ってください。
大したものはないですが、何かの足しになるでせう。

荷物の中に手入してないものや、洗濯してないものがある予定ですから、よろしく御保存方御願ひします。

みんな体を大事に働き、勉強する事。
では又便りします。

                              不 備

                            束原 政春

束原 悦子 殿

酒の肴等送ってしまったのでしたら仕方ありませんがm
未送付なれば送らずに下さい。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

一旦内地に戻ったものの、故郷の青森には帰れなかったのだろう。この手紙の20日後に戦死した。妻とは会えなかったもようだ。

酒の肴は送らずにいて、ふるさとで愛妻とわずかなひと時を楽しむために、とっておいてほしいということだろう。その願いはかなわなかった。

戦時中、しかもこの時期、いちばんの働き手であるこの世代の軍人は、正月だからといって故郷に戻ることはほとんどなかったと思われる。

当時の軍属の生活も偲ばれる手紙である。

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