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2012年12月

2012年12月31日 (月)

社民の議席増とひめゆりの塔事件 (2012年12月31日)

今や沖縄県は、日米の激戦地ではなく、愛国対反日の激戦地の様相を呈している。
昨日の沖縄県議選で、知事派の保守系は伸びず、野党が票を伸ばした。
投票率が大変低いのは政治的無関心の証拠であるが、それを同じ条件として、民主が議席を少なくしたのは当然であるにしても、48議席のうち社民が6議席とったというのは驚きだ。今もって、戦後自虐史観、日教組の暗躍、過激派の誘導が、沖縄の若い世代に浸透している証明だ。沖縄に知恵をつけたのは、ほとんどが県外からの引っ越し組である。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201206/2012061000246&g=pol(2015年4月現在、閲覧不可)

ところで、私たちの世代は、ひめゆりの塔の事件をよく覚えている。昭和50年の事件であり、私自身も20歳であり家庭でもいろいろあった年であったが、

皇太子ご夫妻に、過激派が火炎瓶を投げつけた、

という前代未聞の事件で、政治的なことにまだ詳しくなかったにしても、こんなことをする同世代の野蛮人がいるんだ、とたいそう驚いたものだ。

このときの犯人のひとりが、おととし、最下位とはいえ名護市の市議選で当選した川野純治という男だ。

川野は、天皇陛下が皇太子時代の昭和50年7月、美智子妃とともに沖縄県を訪問された際、糸満市内でご夫妻の列車に空き瓶やスパナ、鉄パイプを投げつけて襲撃し、公務執行妨害容疑で逮捕、懲役1年6月の実刑判決を受けた人物だ。

前科を隠して立候補したのだろうとされたがそうではなく、いまだに左翼の集会に出席しては、この事件のことを自慢している。米軍普天間飛行場の移設計画をめぐって、内地から反米・反日活動家が辺野古に集結しているが、川野という名字は沖縄にはもともとない。ある保守系議員によれば、選挙前にそんな話は聞かなかった、報道もされていない、市民は経歴を知りようがない、知っていたら結果は違っただろう、とのことである。

川野は27番目、すべり込みで最後の議席を獲得した。熊本生まれ鹿児島出身。地縁・血縁はなかったが、一貫して基地建設反対を訴えた。沖縄タイムズという新聞などは、過去の経歴には触れず、川野が当選すれば名護市は生まれ変わる。稲嶺市政を支えて基地問題を解決したいと意欲満々だ、などと、川野を持ち上げ、善人の代表のような扱いをした。

このよう重大な過ちが起こった背景には、沖縄県教祖による長年の反日教育、左傾化マスコミの情報隠匿、そして米軍基地問題を混乱させたオタンコ鳩に原因を求めることができる。

沖縄の一部の人々の間には、いまだに、もっと早く戦争終結に向け日本政府が動いていれば、すなわち天皇がそのように決定していれば、沖縄戦は防げたはずだ、とする夢想が蔓延している。また、そう蔓延させたのは戦後の日教組教育であろう。

昭和50年当時、宮内庁では、現段階で皇族が沖縄を訪問されれば、不測の事態を招きかねないという懸念はあったようだ。しかし皇太子ご夫妻はみずからのご意志で、戦没者追悼のため沖縄を訪問されることを決心された。

両殿下の沖縄訪問が決まると、沖縄の左翼たちは記念碑や公共施設の壁にペンキで「皇太子は来るな」と書きまくり、連日デモ行進を行い、機動隊と小競り合いを繰り返した。懸念されたように、ご夫妻の車列には、道路わきの病院のベランダから、患者と見舞い客を装って潜伏していた左翼が「皇太子は来るな!天皇制反対!」などと叫びながら、石やスパナを投げつけた。それでもご夫妻の意志は固く、途中で引き返すなどということは一切なく、予定通りに行事は進行する。

ひめゆりの塔は、沖縄戦当時、兵士の救護などに当たった女学生による、ひめゆり学徒隊を慰霊したもので、慰霊碑、納骨堂、そしてその真ん中に、ひめゆり学徒隊が毒ガスをまかれて、多数の死者を出した洞窟がある。
両殿下はそこに花をささげられ、一礼したところに、一週間前からその洞窟に潜んでいた過激派二人が出てきて、殿下の足元めがけて火炎瓶を投げつけた。両殿下は避難されたが、まだ参拝の途中だったとして、騒ぎの収まったころすぐに現場に戻り、深く哀悼の意を表された。そして、両殿下の案内役をしていた、ひめゆり学徒隊の生存者の老人に歩み寄り、「お怪我はありませんでしたか」と声をかけられた。

この過激派の一人が知念功という左翼である。
知念は、両殿下ご訪問の一週間前、洞窟に入った。まだ警備が敷かれる前のことで、さすが過激派もベテランとなると、いつごろから警備が敷かれるかもよく知っていたものと思われる。

その後、知念功ら二人は現行犯逮捕され、後に懲役2年6ヶ月の実刑となる。服役中、日本赤軍が日本航空の飛行機をハイジャックし、バングラディシュのダッカ空港で、日本で服役している9人の同士の釈放と身代金を要求する事件が起きた。日本政府は、時の総理福田赳夫が、「人命は地球より重い」とし、日本赤軍の要求を受け入れた。この釈放を求められた同士の中に知念が入っていた。しかし知念は、日本赤軍とは政治的・思想的な一致点はなく、出国の意思はないとしてこれを拒否している。沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであるというのが彼の信念だという。

<externalvideo src="YT:uJkPdpJ-qYs">(2015年4月現在、閲覧不可)

沖縄県には、およそありとあらゆる左翼の組合や学生団体が集結している。共産党や社民党が県議会の議席をあれだけ占めるというのは、他県ではあまり見ない状況だ。
沖縄県のことは県民の意志を尊重しなければならないが、米軍基地問題、地理的位置などからしても、バカンスや旅行先としてばかり見ずに、サヨクの根拠地くらいに思っていたほうがよいと思う。一年中気温が高ければ、サヨクにとっても移動しやすい地域だろう。

きっかけはどこにでもある、若者たちの愛国思想への覚醒 (2012年12月31日)

国会議員だけじゃなかった 若者が続々靖国参拝
http://news.infoseek.co.jp/article/25gendainet000177340?__from=mixi
以下、全文転載(▼~▲)。


国会議員だけじゃなかった 若者が続々靖国参拝- ゲンダイネット(2012年10月25日10時00分)
 
 先週、自民党総裁の安倍晋三をはじめ、国会議員がゾロゾロと靖国神社を参拝。海外メディアから〈隣国との関係を破壊する〉と散々たたかれていたが、ある野党議員は、「20代、30代の参拝客が多いのに驚いた」と話していた。

 靖国には年間600万人が訪れるが、関係者によると、最近、確かに若者の数が増えているという。記者も21日行ってみたが、2、3人連れの若い男女を次々と見かけた。どうせ観光気分だろうと思って聞いたら、「日本人として一度ぐらいは」なんて真面目な答えが返ってきた。

 何を信じてどこに参ろうが、それは個人の自由だが、ここ数年「若者の右傾化」が騒がれているだけに、気になる。

 「ネットの影響は無視できないでしょう。〈ネット右翼〉という言葉があるように、ネットの掲示板で目立つのは、右寄りの過激な書き込みです。それに今、若者に最も影響力のあるニュース媒体は新聞でもテレビでもない。〈ヤフーニュース〉です。アクセス数は、新聞社系サイトの10倍以上といわれる。そのヤフーニュースは、産経新聞の記事掲載が突出して多い日があります。無関係とは思えません」(IT業界関係者)

 それでなくても、ネット上では一方向に流れがちだ。ITジャーナリストの井上トシユキ氏がこう言う。
 「発言の質より数が多いほうが〈主流だ〉と錯覚する若者は少なからずいます。実際、ネット上の過激な右寄り発言を支持する若者、とりわけ若い女性は明らかに増えています。一気に右傾化してもおかしくないムードが醸成されつつある。そう感じますね。靖国を参拝する若者が増えたと聞いても、さもありなんという印象です」

 若者が靖国参拝や右傾化をファッションのようにとらえているとしたら、危ない兆候だ。

危険な兆候?危険なのは、現政権だろうが?だからオマエらはアホ記者って言われるんだよ!

まあね、小沢を評価したり自民をあげつらったりとその時々の好き嫌いで記事を書くレベルの新聞だから目くじら立てるほどのことでもないのだが、文字として公表するからには責任があるだろう。

最後の井上などという人間の発言にしても、若者たちに失礼だ。ネットユーザーの若者らが、みんな大勢に流されるという前提だ。

何でもそうで、最初はみんな、対象に興味・関心をもつというところから始まる。親の影響もあるだろう。先生の話もあるだろう。偶然出会った図書からもあるだろう。また、生来の感覚が呼び覚まされるということも大いにある。

やがて、本当に自分がそれに取り込まれていったり、それに批判的になったり、相反するものを並べて比較したり、また、自分の生活や経験から、ある方向に進んでいったりするものだ。

愛国にしても、生涯、趣味で日の丸を振ってるようでは情けないと思うが、何かのときに日の丸を手にして、何でこれが問題になっているんだろう、オリンピックで見るとすてきじゃないか、など考えるきっかけに、少しでも自分の思考や感覚と刷りあわせていくことになるのなら、それはそれでけっこうなことと思うのだ。

また、逆から言えば、初めから、全くまわりに流されずに自己を確立していった人間などいない。特に、思想・思潮とはそういうものだ。
小泉首相が律儀に参拝している姿を見てから初めて、靖国のことを考えはじめ、いままで自虐史観の教育を受けてきたことを後悔し、自分なりの考え方をもっていった40代の女性もいた。これはほんの一例である。

記事のような風潮は、私も実際にそう感じる。靖国にいけば、チャーターバスから降りてくるお年寄りばかりではなく、20代・30代の若い世代が多く参拝しているのを目にしていることは、いつも日記にも書いているとおりだ。
この記者は21日に行ったそうだが、日曜日でなくても、私のよく行く水曜日でも、若い人は多い。

あえて若者らに問うとすれば、では、なぜ、いまこうした風潮になっているのか、自分や周囲が、いわゆる「右傾」のほうに関心がいくのか、を考えてほしいということだ。

きのう、池袋のジュンク堂書店を歩いてきた。時事問題のコーナーには、中国・韓国に関する書籍が目白押しだ。その半数近くが、おそらく在日と思われるが、中国人・韓国人が、中国人・韓国人のありさまを批判しているものであった。思うに、彼らこそおそらく、真に自分らの国に対し愛国心をもってる人間たちなのかもしれない。

時代は変わりつつある。若者たちを含め、国民はバカではない。いつまでも盲目でもない。そして、どの国にも言えることだが、真の売国奴は、自分の国の側にいるということを忘れないでほしい。彼らは同じ国にあって、国を売ろうと企むのであるから、文字通り、売国奴なのである。

2012年12月30日 (日)

22歳金沢大生、護国神社にて自決 (2012年12月30日)

【from Editor】切腹した大学生 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/121229/crm12122907340000-n1.htm
(以下に全文転載▼~▲)

  ▼
【from Editor】
切腹した大学生
2012.12.29 07:33 (1/2ページ)[from Editor]
 昨年12月8日朝、石川県金沢市の石川護国神社で、22歳の金沢大生が切腹自決した。彼は北海道出身で金沢市に住む大学4年生、Sさんであった。警察が調べたところ、腹部と首に深い刺し傷があり、近くにはナイフと透明のビニールシートにくるまれた日章旗があった。

 Sさんはナイフで腹を十字に切った後、自ら頸(けい)動脈を切って自決したものと判明した。この日は小雨が降っており、国旗を濡らさないようにビニールに包んだものと思われた。彼は黒のスーツにワイシャツ姿で、靴は脱いでそろえておいてあり、同日未明に人知れず自決したものとみられた。

 彼が切腹した場所は、護国神社の境内でも奥まったところにある清水澄博士顕彰之碑の前であった。清水博士は慶応4年、金沢市の出身、東京帝大出身の憲法学者で、大正天皇、昭和天皇に憲法を講義したこともあった。その後、枢密顧問官などをへて、昭和21年から最後の枢密院議長を務めた。戦後の新憲法施行に反対し、施行の年の昭和22年9月25日、「幽界より国体護持と皇室安泰、今上陛下の御在位を祈願す」との自決の辞を残し、静岡県の熱海の海岸で投身自殺をした。その後、出身地の石川護国神社境内に顕彰之碑が建てられた。

昨年の12月8日は、昭和16年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦から70年。Sさんは大学で安全保障問題ゼミに属し、日頃、ゼミ仲間らに、日本の安全保障の在り方について、熱っぽく語っており、自決のかなり前から、政府がきちんとした安全保障政策をとらないことに絶望する発言をしていたという。

 彼が自決した前年には、中国の漁船が尖閣諸島の領海で海保の巡視船に衝突、民主党政権が船長を釈放してしまうという失態を演じており、領土問題があらためてクローズアップされていた。

 この事件は大学生の単なる自殺事件として処理され、地元メディア以外はほとんど報道されなかった。だが、平成生まれの青年が、日本の安全保障政策に絶望して、切腹という手段で死を選んだ意味は決して小さくない。

 小雨降る中、暗い神社の境内で、靴を脱いで正座し、人知れず十字に切腹して頸動脈を切るというのは、なまなかな覚悟ではできない。これは国家、政府、国民に対する諫死(かんし)であり、憤死でもあろう。一周忌に当たり、あえて記した。(編集委員 大野敏明)
  ▲

さすがの産経新聞も、当時は取り上げなかったわけだが、どこも取り上げなかったのは残念だ。いずれにしてもさまざまな影響に配慮したのだろう。

大学生が一人自殺したくらいなら全国ニュースにもなるまいが、これは明らかに自決であり、それは時と所が選ばれていることからもわかる。

こういう青年の行為が、世間や政治家を、どれほど諌めることに効果があるのかわからないが、そういうことを予断せず、まっすぐに自決した行為には注目しておきたい。

生きて一票を投ずることはできなかったのか…、少し早すぎたのではないか…、いろいろ批判はできよう。
この記事からだけでは、檄文や遺書があったのかどうかわからない。

しかし、彼は、この日この場所で、完成したのである。
その覚悟に、素直にこうべを垂れるしかない。

ツイッターでは2500件近くツイートされている。多くの人が、驚いたと同時に、君の志を無にしないと謳っている。

(※この記事は、平成25年4月21日現在、10200ツイートされています。)

2012年12月29日 (土)

朝日の凋落を望む

ある方の今年8月2日のブログです。
なかなか各新聞社の発行部数をそろえたものって見つからないんですね。

世界の新聞発行部数ランキング 読売新聞など日本が上位占拠
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-2021.html

一部引用してみます。(▼▼▼~▲▲▲)

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2011年世界の新聞発行部数トップ10

順位 新聞名 発行部数
1位 読売新聞(日本) 1000万部
2位 朝日新聞 (日本) 750万部
3位 The Times of India(インド) 380万部
4位 毎日新聞(日本) 350万部
5位 参考消息(中国) 310万部
6位 日本経済新聞(日本) 300万部
7位 The Sun(英国) 295万部
8位 Bild (ドイツ) 290万部
9位 中日新聞(日本) 280万部
10位 Daiinik Jagran (インド) 275万部

(出所)WAN‐IFRA“2011 World Top 10 Newsapaper”
<注>発行部数は棒グラフから筆者が目算した概数

出処は「世界新聞・ニュース発行者協会(VAN‐IFRA)」が2012年4月17日に発表した“World Press Trends 2011”の「2011年世界の新聞発行部数トップ10」で、発行部数は棒グラフからの目算だそうですので、正確なものではないでしょう。
まあ、大雑把な相対比較と順位であれば、これで十分です。

いやーさすがに新聞王国日本。いわゆる五大全国紙で、

1位 読売新聞(日本) 1000万部
2位 朝日新聞 (日本) 750万部
4位 毎日新聞(日本) 350万部
6位 日本経済新聞(日本) 300万部

と上位を占拠してしまっています。

で、さらにすごいと思うのは五大全国紙じゃないところまで……。

9位 中日新聞(日本) 280万部

日本の新聞紙の層の厚さを感じさせますね。

……ん?

あれ、五大全国紙が四紙しかないじゃん。
 
いないのは、産経新聞。

どこ行った?と探しても出てくることはないわけで、「そうか、そんなに読まれていないんだ……」ってことですね。

ちなみに中日新聞はもちろん全国紙ではありません。東海地方を中心とする地域で発行する日刊新聞です。すげぇな、中日新聞。

私はこの「五大全国紙」という理解で、検索すれば「五大全国紙」あるいは「全国五大紙」(こっちの方が多い?)という言い方は見つかります。

しかし、Wikipediaの全国紙では違う分け方も載っていました。
日本では、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞の五紙が全国紙と称される。それぞれテレビ局のキー局と密接な資本関係若しくは提携関係を持ち、日本経済新聞以外はスポーツ新聞をグループ会社もしくは本体より発行している(日経は経済紙なのでスポーツ新聞社を持たない)。

また、このうち三大紙は読売新聞・朝日新聞・毎日新聞の3紙を指す。しかし、近年では毎日新聞に代えて、国内の最高級紙である日本経済新聞を三大紙の一つとする向きがある。
産経新聞は東京都を主とした関東地方と大阪府を主とした近畿地方を主な販売領域としていて、それ以外での読者は少ないとされる。
また各紙とも、沖縄県ではほとんど購読・販売はされていない。これは沖縄県では全国紙の印刷工場がなく多くは東京本社及び福岡県の西部本社(※産経新聞は西部本部※沖縄県は産経新聞大阪本社※日本経済新聞は西部支社)から空輸されていたが朝刊であっても午後、ないしは夕刊配達時でないと新聞が配送されてこないためである。
ただし日本経済新聞は全国的な地方紙との提携の一環で(日本経済新聞社#印刷工場の項を参照)、2008年11月より琉球新報へ委託して現地印刷を開始するようになった。

なお新聞自体の発行主体ではないが地方紙を主体とした加盟報道機関により組織される共同通信社はニュースを全国の加盟報道機関に配信することから、ここで述べる全国紙と同等のメディアと扱われることが多い。

ん?共同通信社は入るけど、時事通信社は仲間はずれなのか。何かかわいそう。

あと、産経新聞って関東と近畿、特に東京と大阪だったのか。へー、変わっていますね。

だから、読者も少ないし、地方の取材力がないと言われるんでしょうね。

"日本では首都である東京に取材の拠点を置いているため国政の動向や国際情勢、大企業に関する記事が多い。このため、東京だけの視座に陥って地方都市や村落の視座を軽んじていると非難されることもある"という批判もありましたけど、産経新聞は逆にその被害が少ないですね。

ところで、新聞社は一貫して否定しており、存在が証明されていないものの、日本の新聞紙には「押し紙」という誰も読まない新聞紙を発行して、部数をかさ上げしていると言われています。

押し紙は初期の頃にちょっと書きました。

■「押し紙」問題と新聞広告費
■押し紙問題、進展あるか?

「進展あるか?」って書いていますけど、特にありませんでしたね。

しかし、実は引用記事のメインは中国の押し紙的なものの話であり、数字が怪しいのは日本だけではないようです。

興味のない企業にまでノルマを決めて強制的に買わせているそうですから、中国の共産党系新聞紙(“党報党刊”)は日本以上です。

5位 参考消息(中国) 310万部

また、たとえ押し紙があったとしても、日本が世界的に異常なほどの新聞紙好きということに変わりありません。

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これほどに日本人が新聞好きなのは、識字率が高いということと、それらを材料にして、ものをよく考える材料に使っているからだろう。あとは、かわら版と言われた時から、新聞は社会生活において歴史上最初に現れた情報伝達手段であり、その伝統が生きているためなのだろう。

それゆえ、なおさら、新聞社や報道機関は、読者に正確な情報を提供しなければならず、スポンサーあっての企業とはいえ、おのずから節度というものがあるべきだ。

昨日の中日新聞の下品な紙面は、いったい何を訪どうしたいのかわからず、社説のような論もなく、単に子飼いのカタカナサヨクにペン乞食になってもらったにすぎないようないたずら書きであった。
これにより、新聞社自身の記者は書かなくて済み、記事が載ったほうは、みな目立ちたいだけの一発屋サヨクばかりで、品もなく、落ち目の終わりかけの人が、ようやく売名の機会にありついたようで、みじめで見苦しいかぎりだ。

これが芸能三流紙ならともかく、世界でも第9位に入っている地方紙とは驚き千万だ。

ツイッターはみなさん互いにRTの連続となり、あちこちで電話やメールの嵐になったようだ。私もメールした。
まさかこれが、駅での一部売りを伸ばす手段ではないだろう。注目されるのが目的なら、一応の目的は達成しただろう。しかしマイナスイメージでの達成となった。

中日新聞を知らない人々には、中日の政治的な紙面では、こんな品性下劣な記事が載るんだと驚いたに違いない。自分もそうであった。
安倍批判というより、確かに公衆便所の落書きみていとはよく言ったものだ。

これに慣れている人や中日の読者は、ああまたか、と思ったのだろうか、いっしょになって笑いでもしたのだろうか。政治はギャグではない。頭の固いのも問題だが、すべてを戯画化して平気でいられる庶民感情は危険である。

かつて一時期、東京新聞をとっていたこともあった。こちら特捜部という特集が、週一度2ページ見開きで載る。社会科の参考にもしたことがある。その親会社がサヨクや新韓ではどうにもならない。

徹底して、不買を通すか、契約している人は解約するがいい。ただ、解約した場合、愛知や岐阜に、これよりマシな新聞があるのか心配だ。
また、読みなれたものを解約するのは難しい。

子供のころから家では既に毎日をとっており、やがて学生になって一人暮らしを始めたときに朝日を購読したことがある。子供心に(大学生といえども今からみれば子供)、どこか違和感を感じ、東京新聞にし、何年か後、読売にした。東京新聞も読売新聞も、それほど違和感なく読めたが、やがて、新聞そのものに、特にこうした発行部数の多い全国紙に興味がなくなってきた。

経営基盤の安定のため、32ページあっても、そのうち3分の1は広告であり、記事の文章もおもしろくない。自分より年下の人間が書いているとわかると、なんだか幼稚に見えてきてしまう。次第に社説だけを読むようになった。

やがて、タイトルだけで、ほぼ何をどう書くかが、読まなくてもわかってしまい、そうなると、毎日来る新聞は、単なるリサイクル品にしか見えなくなる。

新聞を広げて偉そうに読むのが、いっぱしのサラリーマンだ、活字を読めるというのは肉体労働者とは違う、社会人になったらまず新聞を読め、学生たる者朝日を読むべし、という風潮もあったと思う。その時代はその時代だ。

今でもたまに買うことはあるけど、つまらないし、何の刺激にもならない。より一層幼稚に見える。だいたい30~40代の記者が書いているのだから、文面(文のつなぎかた、持ち上げ方や落とし方)じたいが、私からすると幼く見えてしまうのだ。

新聞を読むな、とは言わない。むしろ徹底的に読む時期があっていいと思う。一時期、徹底的に読んで、そこを突き抜けて、新聞を卒業するべき、と思う。新聞なんかいつまでも読んでいるから、忘れるという習慣も身につきやすいのだ。
あとは批判の目をもって、たまに駅売りを買って読めばよいだろう。
新聞紙やインクの匂いが好きという人は、また別だ。

ところで、朝日新聞はかつて、発行部数850万部位あったと記憶しているが、だいぶ減ってきたものだなあと思った。
これがあと100万部も落ち込めば、経営陣は安穏としていられないだろう。主筆も首を差し替えなければならなくなるだろう。

それも一興だが。

朝日新聞の基本データ
http://adv.asahi.com/2012/chapter_1.pdf#search='%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E+++%E8%B3%BC%E8%AA%AD%E8%80%85%E6%95%B0'

何だか、朝日が非常に優れていると言わんばかりのデータが並んでいるが、朝日自身において改竄したり捏造したりはしていないのだろうな。
発行部数に捏造は見られない。なら真実の姿か。

今では、朝日の不買が進むことを望む。

朝日新聞については、またいつか書きたい。

2012年12月27日 (木)

法改正で在日特別在留資格を廃止せよ

これは、世論と政治家が本気になれば、そんなに困難なことではないと思います。
しかしその、世論と政治家が問題なのです。
今までの世論にも責任があります。無関心・不作為という点で責任があります。歴代政府にも責任があります。
だから、さまざまな横暴や捏造が罷り通ってきたのです。

世間や文献には、いまだに、朝鮮人は、常に強制連行の対象とされて、日本で強制労働させられていた、という誤った認識が蔓延しています。
強制連行と戦時徴用とは別物です。というより、戦時の徴用という語ですべて表わされるわけで、強制連行という言葉自体がおかしいという感覚をもたなければなりません。
ちょうど、慰安婦つまり売春婦なるものはどこにもいたわけで、従軍慰安婦という言葉が意図的に作られた造語というのと似ています。

もし強制連行という言葉が当てはまる事実を、いまの世界から指摘するなら、中国の兵隊がライフルで脅してチベットの僧侶を隔離施設に送るというのは、これこそ強制連行と言っていいでしょう。

李承晩による横暴で理不尽な政治ができたのは、もちろんそれを応援する朝鮮人世論が背後にあったからです。その世論とは何でしょうか。

大東亜戦争終結までは、朝鮮人は大日本帝国の軍隊や政府の指示のもと、当時日本の主権が及んだ朝鮮半島や満洲を含め、あたかも日本人として徴用されていましたが、この戦時徴用は、日本人自体にもなされたことであって、戦時中ということを考えれば、朝鮮人を奴隷のように差別したわけではなく、言い方を変えれば、日本人に準じて連合国と戦う人員として考えられていたということです。
大戦中は若い朝鮮人は日本人名をもち、ガダルカナルや沖縄特攻で亡くなっています。台湾出身の高砂族でさえ日本人として戦い、ニューギニアやレイテ島などで亡くなっています。(ちなみに、台湾からは、見返りを求めるような要求はなかったと思います。)

戦争とはそういうものなのでしょう。朝鮮人だけが悲惨なのではなく、戦争というのは、みんなに等しく悲惨なことなのです。
そもそも朝鮮人が日本人のもとで徴用されるのが屈辱的だという思いが根底にあっても、残念ながら戦争中というのはそれぞれに犠牲者も出るし、支配するかされるかの関係にならざるをえず、残念ながらやはりこれはそれまでに寄ってきたる歴史の帰結として致し方ないことです。
敗戦により、日本が米国の指揮下に入り、その新たな民主化のもと、民主主義のよさも享受していきますが、他方、それがまた今日の自虐史観に通じる源にもなりました。戦争というのは往々にして、そういうものなのです。行きがかり上、勝者が敗者の行く道を敷いてしまうのです。

日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮人は、「望んでいたように」念願の日本人支配から抜け出ることになりました。前途多難とはいえ、祖国の半島に帰って、祖国の土を踏み、それぞれ自分の暮らしをすればよいだけのことです。

ところが朝鮮半島も日本本土と同様、荒れ果ててしまっていました。敗戦国日本自体が都市部も焦土と化し経済も麻痺している状態で、途方に暮れるというのは理解はできます。しかも、日本人としての国籍も失いました。流浪の民の始まりです。
だから、流浪したくないために、日本政府の帰国斡旋も拒否して、日本に住み着いたのです。
そこで、おとなしく日本人と協力して、戦後復興のために努力し、日本が潤うということはつまり、自分たちの生計も潤うという発想であるとして努力したならば、それこそ仲良く過ごせたかもしれません。

しかし、実態は随分と違いました。多少の例外はあっても、日本人はその勤勉さと器用さによって、官民あげて何とか敗戦の荒廃から立ち直ろうと努力しましたが、朝鮮人は自暴自棄になり、鉄道の駅や人口密集地の繁華街など都合のよいところを、やくざの縄張りよろしく、飲食店やパチンコ店や連れ込み宿などを作ることで、日本に居ついたわけです。

これは土地の売買・賃貸など不動産にも手を染めていく下地にもなりました。そういうどさくさに、朝鮮人に殺された日本人も多かったのです。今は主に在日4世~6世の世代ですが、彼らの親や祖父母の仕事は、ほとんどこの三種に行きつきます。たしかに、それくらいしかできることはなかったでしょう。これらはまた、日本人あるいは人間に共通して本能や享楽を満足させるものでもありました。

日本側は、日本の命令で日本といっしょに戦ってくれたのだから、日本も大変だけど、多少は面倒みましょう、という好意を示し、実行しました。その好意に甘えるだけ甘えたのが朝鮮人たちです。彼らは動物的に、日本人は情けに弱く、お願いすれば断れない律儀な人種だということを知っていました。それは実は、お願いだけでは終わっていません。

朝鮮戦争が起きたときも、本来なら、今度は自分の祖国のために、朝鮮人として戦わなければならないのに、命が惜しくなり、地理的に近いということもあり、日本での人脈もあり、密航などによりこぞって日本にやってきて、朝鮮人でないという資格をもとうとします。朝鮮人でない資格とは、日本人であるという資格を意味します。

韓国政府自体も似た方針でした。朝鮮人は解放されたのだからみな祖国に返します、と言ったら、犯罪者ややくざは日本に置いたままにしてくれ、と言うのです。そんなヤツらは韓国に戻ってきてもらっては困る、というわけです。
彼ら犯罪朝鮮人が「おつとめ」を終えて出てきても、祖国に帰ることもできず、日本では何もすることができない。としたら、生きていくためには、他人の物でも何でも取って食え、というザマになるのは明らかです。そして実際、それをやったわけです。その勢いを増長させたのは、韓国本国における、日本に対する他虐史観教育です。

その彼らが、さきほどの三種の業界に君臨するということになります。やがてその延長線上に、不動産業や貸金業が加わります。しかしそれはあくまで表の顔で、こういう表の仕事が繁盛するにつれ、その裏では、薬物の取引などが活発に行われ、それを元手に、政治的な発言権を増していったのも事実です。政治的発言権というときれいですが、実態は脅しや強要です。

食い物をくれ、銭をくれ、仕事をくれ、資格をくれと、くれくれ一点張りのゴリ押しが始まる原点です。よく永住権と言いますが、権利ではありません。永住する権利、というものはありません。永住する「資格」のことです。いわば、「なりすまし」日本人が大量に出現する源です。

こういうわけで、戦時徴用と強制連行は次元の違う話だし、戦後強制連行されて、日本の復興のために働かされた、というのも間違いです。彼らは「自ら進んで」日本に来たのです。祖国に帰れば、という提案や斡旋を断って日本に住み着いたのは、彼らの勝手で、日本のせいではありません。

勝手に居ついたのだし、勝手に戻って来たのだから、何も手厚い保護など要りません。敗戦国であり自分もぼろぼろなのに、それでも日本はできるだけのことは彼らにしました。本来彼らは、日本にいる合理的理由もなく、いなくてもいいわけで、勝手に居ついたのだから、法律を改正し新たな法律まで作って、後生大事にする必要もありません。
それでももし、どうしても日本の領土で生活したいなら、郷に入りては郷に従え、ということになります。彼らを甘やかしたのは、歴代政府と、利権がからみ彼らの存在がありがたくてしかたない党派や政治家たちです。
民主党の一部は、もともと自民党から分かれた歴史があります。当然、この流れを受け継ぎたい輩がいても、理屈上はおかしいことでもありません。

帰化してまともに働いている人やその子孫もいることでしょう。ただ、そういう人はやはり、生活上それを選択したに過ぎないのであって、日本人そのものになることは不可能です。民族性の違いというものが厳然とあって、それを超えて両者が溶け合うのは永遠に無理であろうと思います。

在日に対するいわゆる特別待遇や例外措置はかなりの数に上ります。ここまできて急に一刀両断に来年何月何日をもって廃止するというわけにはいかないでしょう。在日特権も立法で実現したからには、やはり改正を含む立法をおこなって、徐々に特権を廃止していくべきときに来ています。

今となっては北朝鮮とは区別した韓国人に問いたい。彼らに祖国を愛する気持ちがあるのか、あこがれの日本に住みついているにもかかわらず、なぜいつまでも不平不満を垂れ流すのか。

日本に住んでいながら、日本の経済・文化・安全・商品を享受しながら、なぜ日本に対して不平不満を述べるのか、日本が嫌いなら、なぜ出ていかないのか。

韓国が以前より豊かになり、ある程度の進歩がみられる現在、在日の数も多少減ってきているようですが、生活保護の問題その他で、突出して圧倒的に優遇されている実態を無視するわけにはいきません。数が減ってきたということとは別です。

私たちまともな日本人は、日本が嫌いという在日韓国人に対し、祖国に帰れというだけの正当な歴史的理由をもっています。

同時に、日本の側にも、こうした甘えを助長する勢力があることを忘れてはなりません。歴史を知らず、何でも情とお願いに屈する日本人がいるかぎり、今後も状況は変わらないということを肝に銘じておきたいものです。

今日、新内閣が発足しましたが、在日特権の問題についても、長期的展望に立って解決すなわち廃止に向け、動いていってほしいものです。
ただ、実際問題、在日特権が廃止されるのためには、やはり国民世論が起きないと実現は難しいと思われます。

現実的には、特権の見直しや条件付きにして改定する、などの手段が精いっぱいなのかなという気もします。

* 日韓法的地位協定は失効しても、間断なく「入管特例法」が制定されたので、在日の人間は、なし崩し的に、永久に日本にいられる資格を得てしまいました。この法律によって日本に定住する在日を、特別永住者と呼びます。彼らには多くの優遇措置がとられています。

特別永住者とは、平成3年(1991年)11月1日に施行された日本の法律「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により定められた在留の資格をもつ者をいいます。
厳密に言えば「資格」であって「権利」ではないのですが、両者が混同され、この資格は特別永住権とも呼ばれています。

** 平成22年2010年12月末現在で、日本にいる在日韓国・朝鮮人の総数は、565989人、うち特別永住者395234人、一般永住者58082人。

平成23年(2011年)末時点での特別永住者の実数は、前年より1万近く減少し38万9083人。国籍別では「韓国・朝鮮」が99%とほとんどを占める。大阪・兵庫・京都の近畿3府県に約45%が集中する。

他の外国人のように、おとなしくありがたく生活しているのなら、そこは我慢しますが、しかし、特定の国にだけ有効なこうした制度は、そろそろ見直しか廃止の段階にきています。
私達の税金が彼らのわがままや怠慢に対して支払われつづけ、将来もそう続いていくことを考えると、この上ない理不尽を感じるのです。
脅しまがいに決まって行ったようなものとはいえ、ルールとして日本がつくり認めてしまっているからには、出て行けと行っても、あなたがた日本がそれを認めたんでしょ、と言われれば、悔しいかな、そうだとしか言えません。

いい加減にここらあたりでケジメをつけてもいいでしょう。もう充分過ぎるほど、かの国にはよくしてやってきたと思うのですが。

不法滞在者を本国に返すのは、あたりまえのことです。不法でなくても、本国に帰ってもらうような法整備が必要になると考えます。

2012年12月26日 (水)

「特攻烈士を忘れない」

以下は、特攻隊戦没者慰霊顕彰会(旧・特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会)のHPから入れる投稿欄に、かつて投稿した文です。

タイトルは、「特攻烈士を忘れない」

日時は、2009年8月18日19:18となっています。

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母方に特殊潜航艇で真珠湾において亡くなった者がいる関係で、靖國神社にしばしば参拝してきました。遊就館にも何度となく入りました。
ここ数年は大東亜戦争の前後の歴史を自分なりに調べてきました。終生続けることになるでしょう。

仕事柄、特に若い命が失われたということ自体にやりきれない思いがします。『陸軍少年飛行兵史』やこちらの『特別攻撃隊全史』、その他の特攻関連の資料や図書を調べてきました。DVDやYouTubeも見ました。

ある時期の陸軍少年飛行兵などは、47倍の最難関であり、頭脳・体力を測定するそうした試験を突破し、突破すれば今度は、各学校で厳しい訓練を受け、朝鮮や中国を含む国内外の基地をあちこちと動かされ、結果的にフィリピンや沖縄沖で、空母もなく陸地から発進して何時間という遠距離を飛行し、特攻で散華した英霊たちの運命には、出撃直前に書かれた遺詠や血書とともに、やりきれない思いと義憤を覚えます。

時期を分けるのは不謹慎ですが、特に昭和20年3月下旬以降、米軍が沖縄慶良間(けらま)列島に上陸したあたり以降の特攻は、彼らの生きてきた人生や豊富な訓練と悠久の大義に殉ずる決意を知るとき、出撃用の戦闘機・襲撃機にはもっと最新の機体で飛んでいってほしかったし、立派に整備された基地から飛び立っていってほしかった…せめてもの思いです。

頭脳優秀で技量卓抜の若者たちが、国のため愛する人のため散華したことを、決して忘れません。仕事もあって遠方に慰霊に出かけることができなくて残念ですが、そのためにも靖国神社での慰霊を精一杯つづけていきます。
参拝の日はJR飯田橋駅から歩くか、地下鉄東西線の九段下駅から歩くかして、気合いを入れて、必ず第一の鳥居から進み、退きます。そうしないと、先輩たち英霊に礼を失するような気がするからです。

かつて、多くの陸軍の歩兵部隊も、戦地に赴く前、東京駅や上野駅から、徒歩行進でここまで至り、第一の鳥居をくぐりました。

あなたがたのおかげで、日本は植民地にならず、戦後の復興を遂げてきました。国民ひとりひとりがこのことを肝に銘ずべきです。烈士らは必ずや、天から日本の行く末を見守っていることと思います。
また来週、お会いしに出かけます。

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特攻隊の慰霊顕彰は、その多くが年齢的には若い人々であったゆえに、一層気持ちがこもります。つまり、人生の可能性を、大義のためとして、そこに凝縮したからです。
彼らは、戦争という大きな歴史の渦のなかにあって、帝国のため、天皇陛下のため、家族のためとして、潔く出撃していきました。そのひたむきさがあるからこそ、静かに冷静に、感謝の誠を捧げたいのです。また、そうあるべきです。

特攻のシーンをそこだけ切り離してたり編集したりして、そこに、女性の歌声や短調の曲をかぶせて感傷的になるというのは嫌いです。そうした見方すべてを否定はしませんが、そこだけ見て涙する人の多くは、やはりそこだけ見て戦争や特攻について語りたがります。
そういうシーンだけ見て、私なら特攻は反対する…などと平気で言える人が世間にはたくさんいます。

そういう人たちには、まさに英霊の言の葉など、遺書や遺詠を読むとよいと勧めています。それらと合わせて、出撃シーンなどから、勇気や覚悟のほどを見てとれればいいと思うのです。

特攻であっても、日本の歴史のひとこまという観点でとらえるべきです。感傷的なドラマのひとコマとしてだけ見る見方は避けたいところです。

2012年12月25日 (火)

古関裕而の曲~「栄冠は君に輝く」など

古関裕而(こせき・ゆうじ)は「若鷲の歌」「嗚呼神風特別攻撃隊」「長崎の鐘」の作曲者です。本当に品格のあるメロディと思います。

お気に入りの曲を集めてみました。

▼オリンピック・マーチ▼

作曲:古関裕而   1964年(昭和39年)

演奏:海上自衛隊東京音楽隊

https://youtu.be/F3ZGwt9aQxc

▼栄冠は君に輝く▼(全国高等学校野球大会の歌)

作詞:加賀大介  作曲:古関裕而   1948年(昭和23年)

https://www.youtube.com/watch?v=A3pd2U_6Fxk

雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に答え
いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く

風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)れ
ああ 栄冠は 君に輝く

空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
ああ 栄冠は 君に輝く

▼愛国の花▼

作詞:福田正夫  作曲:古関裕而  歌:渡辺はま子  1938年(昭和13年)

銃後を守る婦人の思いを桜、梅、椿、菊にたとえて歌っている。

https://www.youtube.com/watch?v=cAJZMNv3BJo

真白き富士の けだかさを
こころの強い 楯として
御国(みくに)につくす 女等(おみなら)は
輝やく御代の 山ざくら 
地に咲き匂う 国の花

老いたる若き もろともに 
国難しのぐ 冬の梅
か弱い力 よく合わせ 
銃後に励む凛々しさは
ゆかしく匂う 国の花

勇士のあとを 雄々しくも 
家をば子をば 守りゆく
優しい母や また妻は
まごころ燃ゆる 紅椿
うれしく匂う 国の花

御稜威(みいつ)のしるし 菊の花 
ゆたかに香る 日の本の
女(おみな)といえど 生命(いのち)がけ
こぞりて咲いて 美しく 
光りて匂う 国の花 

2012年12月22日 (土)

日教組への道順 (2012年12月22日)

都内JR総武線市ヶ谷(いちがや)駅は、地下鉄東西線九段下駅、JR飯田橋駅と並び、靖国神社に行くのに鉄道を使う場合、よく利用される駅である。

市ヶ谷駅を最寄駅とする学校には、靖国通り南側に、大妻(おおつま)女子大学、千代田女学園中高、女子学院中高などがあり、靖国通り北側には、三輪田(みわだ)学園中高、白百合学園中高があり、周辺には日本大学の本部や私学会館もあり、旧陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地、現在の防衛省にも最寄駅となる。

周辺は学校とオフィスビル中心の街だから、日曜のこのあたりは閑散としている。

その三輪田学園の隣には法政大学がある。多摩キャンパス(東京都町田市)や小金井キャンパス(東京都小金井市)もあるが、この市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)が本拠である。ちなみに、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)本部は富士見2-14-15で、白百合学園の裏手にある。
靖国神社の社頭に立つと、右のほうに背の高いビルが見える。法政大学のボアソナードタワーと呼ばれる建物で、27階建てである。ボアソナードはフランスの法律学者であり、明治初期の日本での国内法規の整備に尽力した。

私が学生だったころ、大学構内にはどこの大学にもまだ、立て看板が残っていたが、看板が多いほど荒れていて、看板のみならず構内の汚さといえば、当時すべての大学に入ったわけではないが、この法政大学と和光大学はひときわひどかったのを覚えている。
看板のみならず、壁に直接絵の具で文字が殴り書きされており、清掃員によってトイレも用を足すにはきれいなのだが、構内の壁同様、いたるところに掲示物が乱雑に貼られていた。

汚さと左翼の温床であることとは、どこか比例しているようで、いかにもこれが革命前夜の自由とでも言いたげな雰囲気があった。少なくとも、教える側にそれら学生運動をリードしたりシンパとして資金を提供している者がいたのは、当時公然の秘密であった。
法政や和光だけではない。京都、東北、広島などの国立大学をはじめ、全学連の根付いている大学は全国的にいくつかある。全学連の組織の一つである革労協がサークルと称して活躍している大学には、4月に爆弾騒ぎで入学式が中止となった宇都宮大学や、福井大学などもある。
もちろんこれらの大学を巣立ち、保守愛国の道を進んでいった人もたくさんいる。

それらの左翼の‘伝統’は、今日まで引き継がれ、民主党政権になってからは、一層その動きはかまびすしくなってきている。大学当局も苦労しているようだが、もちろん公安当局も動きはフォローしている。

全学連(全日本学生自治会総連合)の委員長は元法政大学の学生である齋藤郁真という24歳の男で、その指導のもと、今月(4月)19日に大学近くでデモを行うと予告している。
齋藤は学生運動により無期停学処分を受け、その後退学処分となっている。法政大学内では、文化連盟(法政大学文化連盟、文連)の委員長でもあり、学生運動の新左翼旗手と言われる(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E9%83%81%E7%9C%9F)。

全学連は現在、正式には中核派全学連で、親組織である中核派は正式には革命的共産主義者同盟全国委員会と言い、本部は東京・江戸川区にある前進社である。
これらは、先の選挙で、東京8区・山本太郎候補に71000票を集めるのに、いくばくかの貢献をしている(http://www.zenshin.org/index.htm?_gwt_pg=1)。

日教組や朝鮮総連と同じく、これら学生団体は権利能力なき社団である。民法上、権利が制限されている。

こういう流れからして、彼らの運動は、大学横断の形をとっていても、騒ぎを起こしたり、当局の取り締まりに対し激しく抵抗したりして、何となく派手ではあるが、昭和30年代後半から40年代にかけての頃のそれとは違い、それ自体は大きなうねりとはなっていない。

ただこれが、大学当局側のシンパ教授や、そこから派生して日教組や朝鮮総連、社民党・民主党と結びつきを強めると厄介になる。(共産党ははなっから彼らの支援母体であり論理基盤である。)
これはまるで、かつて満洲で、紅槍匪が共産匪に吸収され変わっていき、関東軍が手を焼いたのに似ている。

内申書裁判で少年のころから有名であった保坂展人(ほさか・のぶと)も、千代田区立麹町(こうじまち)中学校在学中(麹町駅は地下鉄有楽町線で市ヶ谷駅の隣)、校内に全共闘をつくり左翼運動を指揮し、そのため高校受験時の面接試験で思想的質問が集中して、その希望の全日制高校に入れなくなった。
このことから、いわゆる内申書裁判を起こし、最高裁までいって敗訴になったものの、時流に乗り、社民党の衆議院議員にまでなってしまった。時流に乗っただけという証拠に、その後落選を繰り返し、今はようやく昨年から世田谷区長を務めている。
保坂は鳩山内閣のとき、原口総務大臣に請われて総務省顧問を務めている。鳩山は保坂を認めていたわけである。

一旦時流に乗ると、こんな赤少年が、有権者の一票を集め、国会議員になってしまうという一例である。菅直人とて同じである。

世田谷区・杉並区をはじめ、都下中央線沿線の立川あたりまでは、いわゆる過激派のアジトが多くあったことで知られる。ちょっと奥に入れば、一方通行だらけの住宅街でアパートも多く、互いに無関心だ。もちろん若い過激派が転居しミーティングを開くようなことのできる背景には、団塊の世代に当たるサヨクどもが、何かと便宜を図っているのは、容易に想像がつく。

民主党政権のだらしない大臣どもや三代の総理のヤル気のなさも非難されるべきであるが、同時に、教育関係のこうした動きにはさらに注意していきたいものだ。

国会でも追及されていたが、日教組の入るビル、日本教育会館(東京都千代田区一ツ橋2-6-2)には、組織内候補として日本民主教育政治連盟(日政連)所属の複数の国会議員の事務所が入居している。
野田ブタ以下、質問に呼ばれた当人たちも、それとこれとは関係ない、と言っていたが、李下に冠を正さずということがわかっていない。いや、もちろん、輿石ゾンビの指図と了解のもと、わかっていてやっていることに間違いない。

やはり日教組は叩きつぶすべきであり、その萌芽となりうる学生運動も、遠慮なく取り締まってほしい。学生が教職免許をとり、教師になるからだ。
そのためにはやはり、まともな人間による世論が、声を発し続けなくてはならない。教員免許のありかたにもメスを入れなければならない。
やはりここでも、根本法である憲法の改正が緊急の課題となる。

教師になろうとする動機はさまざまであり、それなりにやりがいのある仕事でもある。ただ、その志望理由に、他の職業より自由になれる時間がとれる、だから自らの考えを披露しサヨク活動に精出せる、などと考えるのは本末転倒だ。
特に、児童・生徒を犠牲にしてまでおこなう組合活動に、何の意味があろうか。

最近は、mixiに限らずTwitterその他でも、保守愛国の高校生らが増えているのは頼もしい。政治に関心をもち、思想に芽生えるのは、本来この年頃なのだと思う。
歴史を知ればおもしろい。もっと掘り下げたくなる。そういうときに、そうした話に向き合える教師がいないとは、何と悲劇的なことであろうか。

教師になることが目的であって、なってしまえば組合活動に専念するなら、即刻辞表を出すべきだ。子供たちの将来を考え、多かれ少なかれ子供に影響を与えうる仕事に、もっと前向きに取り組んだらどうだろう。

大学とて同じことだ。世の中でいちばん自由な時間をもてる者が、訳も追究せず、単に付和雷同のサークル感覚で、政治運動などに首を突っ込むでない。たとえ浅くても広範にわたる研鑽を積まずして、拙速に声ばかり上げても、やがては自分を見失うに決まっている。

2012年12月21日 (金)

真の左翼はとっくに死んだ (2012年12月21日)

昨年3月11日日曜日夕刻、池袋西口の街宣車の上で演説していた右翼の男は、自らを右翼と呼んでいた。だから日記にもそう引用した。彼曰く、

「俺は右翼の人間です。人からそう言われたのではなく、自分たちは右翼です。そのことに遠慮なんかしません。むしろ誇りに思って日夜活動しております。
震災の現場に行ってきました。今日は国立劇場で、天皇皇后両陛下もお出ましになられ、東日本大震災で犠牲者になられた方々の追悼式が行われていたのですが、その周辺に左翼がいて騒ぎよるんです。みなさん、どう思いますか?…」

この左翼が、新左翼と言われる反天連であった。

右翼左翼という言葉や定義も大事だが、定義したところで第三者がそれを定義するので、言葉上ははなはだ曖昧なままである。

学校で習ったとおり、イギリス議会で向き合う席の位置から、保守的な立場を右翼、革新的な立場を左翼と言った。
日本でも、戦後20~30年くらいは、実に明確に、保守と革新は区別されてきた。山口二矢の浅沼稲次郎刺殺も、ある意味そうしたわかりやすい二つの相剋(そうこく)の中で起きた。敵はわかりやすかった。

60年安保の後も、学生運動や労働者運動が盛んになるなど、賛同するかどうかは別として、一定の強烈な連携によって、対保守政党、対資本家、対支配当局に対峙してきた。日本を取り巻く国際的状況も、冷たい戦争のなか、対ソ親米として明瞭であった。

やがてソ連共産党は一応の解体を迎え、ベルリンの壁も壊され、東西ドイツは一つになった。日本では中曽根総理をもとに、土光敏夫を参謀役として行政改革が進み、NTTやたばこ産業、そしてJRが誕生した。
社会党の母体となる労組の骨抜きは、確実に実行された。私個人とてずっと労働者の立場であるが、親方日の丸をいいことにしたストライキの連続には辟易していたので、そのこと自体には賛成であった。大方の国民もそうであった。
国際的にも、政治というのは何かをやれば必ず批判はつきものであるが、それでも、米国のレーガン、英国のサッチャーと、大国のリーダーは小さな政府を標榜し保守派的改革を進めていった。

日本人の技術力やアイデアにより、さまざまな新製品があらゆる分野で開発され市場に出回ったこともあり、その改革の恩恵に浴し、その社会のなかで、左翼もまた満たされていった。
それまで対保守政党、対資本家、対支配当局というスタンスが明確であった左翼連中は、思想運動より他の方向に興味をもち情熱を注いだ。社会運動のようなそんなダサいことには関心もなくなっていったのである。(しかしこれは保守側にも言えることである。)
成田闘争も下火となり、難産の末、成田空港が開港したのも、その便宜性以上に、政治的な一応の決着を見たかのようであった。

その間、自民党に内部抗争が起きれば、村山などというとんでもない首相が誕生したこともある。過去の戦争に対する村山談話などというもっともらしいコメントを出して耳目を引いたが、それでも国旗・国歌は、やむなくではあったが、日章旗・「君が代」であることを認めざるをえなくなった。それまでの保守の歴史の積み重ねがそうさせたと言えるだろう。

便宜上、右翼左翼という言葉は確かに存在しているが、いわゆる本来の左翼なるものは、実はもう、どこにもないのではないだろうか。
右翼であれ左翼であれ、一国の将来を憂慮すればこそ、自分らの信念を通そうと戦い合ってきたのが、日本の戦後の歴史である。

右翼の存在(エセ右翼は別)は、例えば上の例のように自らをそう呼んではばからない活動家がいる限り、その活動がネット上のことであれ街宣行動であれ、その存在は実体として存在している。これらの運動は、日本人であれば、本来心に宿る愛国または憂国の情のひとつの表現である。
右翼の中でもいろいろな騒動や問題があるのは情報としては知っているつもりだが、左翼であれ結社というものには、とかくそうしたゴタゴタはつきものと知っておくしかない。赤軍派リンチ事件などもあった。すなわち、結社の帯びる排他性である。
最近は新右翼なる呼称もあるが、愛国という一点では伝統的な右翼と同じ根をもっている。

身びいきはないつもりだが、右翼・愛国の人は、自分たちで考え、多少とも学ぶということに素直である。さらに、バランスのとれた心身を鍛えるべく、一定の肉体運動にも励んでいる。それにより、純粋な魂が維持され、侠気に通じるまっすぐな精神性が養われる。また、右翼思想は脈々と受け継がれ共有され、世代の交代が進んでいるようだ。

一方で、左翼ほど実体のわかりにくくなったものはない。国を良くするために信念をもって発言・行動しているようには、とても思えない。

この原因は、あくまで想像であるが(といってヤマ勘ではないよ)、連中は底辺に日教組教育があり、ヒマなとき集会などに行き、そこにいた同世代の連中や同じ大学の先輩などから刷り込みを受ける。知的レベルはそれほど低くはないが(頭でっかち)意外にも歴史嫌いで歴史には無関心である。
男の場合に多いと思うが、結果的に身も心もいつまでも誰にも開かず純潔のまま持ち越してきたので、受験が終わるとそのはけ口として出会ったそれら友人知人にマニアックとも言える精神的熱意をもって接し、いきなり敬意を払い、また従う。
もって自分たちのことの周囲は見渡せても、いつまでも思想・国家などという観点に立てない、それは逆に言えば自分たちの立場や存在を客観視できない、ということになる。

現在、左翼や新左翼などとレッテルを貼られている連中は、国を思うということより、火事場に集まる烏合の衆のような野次馬に見えてしかたない。
連中のブログなどをたまに見ても、相変わらず、論理的飛躍と我田引水が目につく。

連中は歴史的な意味を帯びる左翼とも言えず、表記上サヨクくらいがいいとこだ。連中には自分たちしかない。日本人という自覚はない。歴史観がない。国防という観点がない。
さらに由々しい問題は、これらエセ左翼の口車に乗って、無知蒙昧の徒が連中に付き従っていくことだ。

個人で考えもせず、ただ付和雷同で動く。こんな便利な世の中になりながら、自分のやるべきこと・知るべきことを、意図的に放棄している。そして、米つぶと理屈はどこにでもくっつくと言わんばかりに、何にでも屁理屈をごねては反対する。言うことは一人前の口を利く。

そういう連中の一人ひとりに、一つずつ聞いてみたい。

以下は知識の問題である。思想とは関係ない。

大東亜戦争の始まりと言われる真珠湾奇襲攻撃が行われたのは、昭和何年何月何日ですか?この真珠湾とは、どこにありますか?

終戦の日は、昭和何年何月何日ですか?

いわゆる東京裁判で、唯一、日本の無罪を主張したのは、なんという判事でしたか。

靖国神社参拝に反対のようですが、およそ何人の人の霊があそこに祀られていますか?

国歌「君が代」の歌詞を、すべて書いてください。

ここに日本列島とその周辺の地図を示します。尖閣諸島はどの辺ですか?

以下、もし思想について尋ねていいなら聞いてみたい。

誰もが参拝できる新たな国立の戦没者追悼施設建設に、なぜ賛成なのですか?

外国人に地方参政権を与えることに、なぜ賛成なのですか?

人権救済機関設置法の制定に、なせ賛成なのですか?

なぜ、天皇の存在に反対なのですか?また、天皇を廃止したあと、どういう国家づくりを考えていますか? 

なぜ、憲法改正に反対なのですか?具体的に一つの条文を例に挙げて答えてください。

おそらくまともな解答は得られないだろう。

2012年12月20日 (木)

左傾新聞など読むに値せず

安倍政権:「女性宮家」撤回へ にじむ保守色
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20121220k0000m010047000c.html
(以下全文転載▼~▲)

  ▼
自民党の安倍晋三総裁は、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」創設を新内閣では検討対象としない方針を固めた。民主党政権下で進んだ「女性宮家」創設に向けた議論をいったん白紙に戻す。安倍氏は連立を組む公明党に配慮し、来夏の参院選までは保守色を可能な限り封印する構えだが、男系維持へのこだわりの強い皇室問題では独自色を出す。

 政府が検討してきた「女性宮家」は一代限りの皇族となる前提で、子どもが生まれても皇位継承権はない。しかし、保守派には「将来なし崩し的に子どもにも皇位継承権が与えられ、女系天皇が誕生する懸念がある」として、根強い反対論がある。毎日新聞のアンケートでは当選した新議員の59%が女性宮家創設に反対し、自民党に限ると反対は74%に上った。

 女性宮家の検討を中止するのは、こうした保守層にアピールし、安倍氏の「保守色封印」への不満をなだめる狙いがある。

 ただ、「女性宮家」創設は、自民党政権下での検討も踏まえたうえで出てきた案だ。小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が05年11月にまとめた報告書は、当時、天皇陛下の孫の世代に女性しかいなかった状況を踏まえ、女性・女系天皇の容認を提言した。民主党政権は、世論が割れる皇位継承問題には踏み込まなかったものの、この報告書を議論の下敷きにしている。
  ▲

悠仁さまがご生誕されたのも、小泉内閣のときで、審議中に首相がそのメモを渡されたシーンもあった。
その後、女性宮家の議論が、一気に下火になったのも明らかだ。

男子皇族が誕生しない前提で出てきた女性宮家の話は、それ自体、皇族に対しては失礼に当たるだろうが、政局を担うものとして皇室典範を改正するかどうかは議論しなければならなかったのだろう。

悠仁さまご生誕という状況変化で、また格別の議論へ推移していくのもまた、政局を担う者として、当然のことなのではないか。

この議論は、そう単純ではないので、今後も政治家には、日本の将来を見据え、真摯に議論を積み重ねていってもらいたいものだ。

これはたまたま毎日新聞が配信しているのだが、マスメディアはどうしていつもこういう書き方しかしないのかと、疑問に思うより憤りを覚える。

反自民・反安倍など保守愛国に対する根も葉もない捏造もあり、ねこパンチさんの挙げていた動画にも現れているように、民主にはいいとこどりの報道を行ない、不祥事には目をつむり、自民については実績をほとんど報道せず、揚げ足取りばかりをおこなって視聴者を扇動する。

それに加えて私が言いたいのは、マスメディアは常に「後ろ向き」であるということだ。

一例を挙げれば、地震により原発で事故が起き、大きな被害がでた、それなら、原発について、より一層研究し、事故のない原発や、万一の場合に被害を最小限にするにはどうしたらよいか、そうして東南アジアの国々をエネルギー事情で牽引していこうじゃないか、…といった前向きの方向に進まない。

一事が万事こういう姿勢で、これら新聞社やテレビ局で実際に記事を書き番組を制作している、おそらく20~40代の人間は、精神的奇形児ばかりなのではないかと疑いたくなる。

マスメディアは、事実を伝えることが使命であろう。それに色彩をつけるなら、読者・視聴者が、前向きで考えていこうという姿勢を与えてしかるべきではないか。

共同通信もそうだが、地方の新聞の社説などを見ても、つぶやきで時折示すように、朝日・毎日に右へ倣えの姿勢ばかりで、そこの住民・読者に、あすへの活力や勇気を授けるようなものはほとんどない。

何も時の政治に迎合する必要はない。批判すべきは批判すればよい。
しかし、堂々とした批判など見たことがない。ほとんどが下劣な芸能リポーターレベルである。

姑息で、そのときだけの一発屋で、書いたことで自分が社内で評価され出世できるだろうか、などということばかりを気にしているよな論説が目立ちすぎる。

暗い、後ろ向き、広い視野の欠如、…こんな新聞・テレビ報道は、視聴に値しない。

2012年12月18日 (火)

自民党憲法改正草案に対する感想 (2012年12月18日)

意見とするほどまでに専門家でもなく、また、意見とするとどれにもより優れた対案を出さなければならないと思うので、感想ということにしました。

そもそも私は、憲法の改正については、平成18年12月に成立した教育基本法のように、名目上はやむなく改正という文言を使っても、実質的に全文廃止・新規制定が望ましい、というより、そうあるべきだと考えるので、自民党案のように、現憲法の条文を活かしながら、文字通り国語的な意味で改正するという手続きには、あまり賛同していません。

それは、時系列からして、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が名実ともに主権を回復した日より以前に制定された現憲法は、主権者である日本国民の総意に基づいていると言えないからであり、またその内容についても、よく知られているように、当時のGHQが、戦後の日本占領政策を念頭に置いて、米国の信ずる自由主義思想を中心に盛り込まれたものだからです。
日本を、ある意味、骨抜きにして、米国に従順な国家を再建するためだけに制定されたようなものです。

そして、現憲法があるかぎり、どんな優れた改正案でも、改正までのハードルが高く、成立までの手続きに相当の時間がかかるか、廃案になってしまうことも予想されます。
そういうわけで、現憲法の改正だけは、全文廃止・新規制定が望ましく、その次からの改正では、部分の改正にすればよいと思います。

ただ、そうは言っても、米国のみならず、先進国でならどこの国でも信奉する内容については、最高法規として尊重するべき部分も多く、過去に一度も改正されずに今日まで存続してきたというのも厳然たる事実として、今更認めないわけにはいきません。
日本国の最高法規として、今の憲法下で、それに基づいて様々な法律がつくられ、施行されてきました。この憲法下で法が整備され、判例が積み重ねられ、これに基づいて衆議院の解散や予算や法律自体が通過成立しているということも事実です。

こういうわけで、改正という言葉のイメージを払拭する程度の全面的な見直しであるなら、手続き上は改正であっても、全く新たな憲法が生まれるということになれば、手続きがどうあれ、それでよいと考えます。
あまり方法論にこだわり過ぎず、現実的に新たな憲法が生まれることのほうが大事です。

今回の改正案には、追認的な改正点と創造的な改正点とがあります。
追認的改正は、もはや現憲法では時代遅れになっているところを、文言・表現・内容にわたり、時代に即するように手直しする改正のこと、創造的改正は、現憲法成立時には予想できなかったような時代の流れや歴史の要請からくる新たな追加改正のことです。

今回の改正案で、いちばんよくなったのは、前文と地方自治についてです。いずれも極めて平易な言葉遣いにして、且つ要点を押さえた表現で、最高法規にふさわしいと思います。

全く新たな創造的改正点では、日本国民の総意を盛り込むことになる、以下の点は評価できます。
公務員の選定に日本国籍をもつことを条件にしたこと、地方自治においても同様な条件をつけたことで、外国人参政権を排除しようとする意志が明確です。
国民の責務として自由と権利には責任と義務が伴うことを明記したことで、自由と権利だけが尊重されるような憾(うら)みのあった現憲法を軌道修正しています。
平等に関する規定で、障害の有無という文言を入れ、より徹底的に平等ということを謳っています。

それ以外の多くの部分については、今までに行われてきたことを、よしとして認めていく内容であり、創造的改正というよりは、いままでの流れや現状に合わせるという意味での追認的改正です。ただ、これも改正として、文言として定着させておく必要があるという点では重要です。

国旗国歌法がすでに制定されているので、前後が逆になりましたが、憲法で特に国旗及び国歌を規定したことは、個人的にはいちばんうれしいことです。天皇と皇位継承に次ぐ第三条にこれを置いたということ自体も優れていると思います。
国旗国歌は、日本国民を象徴する存在として位置づけられたものと評価します。

天皇を元首と呼ぶには、保守派のなかでも賛否両論があるかもしれませんが、諸外国からはすでにそう認識され、そのように扱われてきているので、対外的な意味合いとして元首が落ち着くとは思います。象徴という言葉も残され、日本国最高法規の第一条として充分にふさわしいと思います。

この追認的改正と創造的改正が混じって、大幅に改正されたのが第二章の安全保障と第九章の緊急事態のところです。

戦争の放棄から安全保障と章名を変えたのはよいです。第九条一項で、従来通り平和主義を謳い、そのあとすぐ二項では、自衛権の発動を妨げるものではないとして、平和を維持するためなら自衛権を発動できるという、積極的な意思表示が見てとれます。この創造的改正により、専守防衛の枠ははずれました。

第九条の二として国防軍の規定が五項までありますが、従来の自衛隊のありかたなどを追認規定したもので、任務遂行の際の国会承認やその役割を総括しています。これはほとんど追認的改正ですがその明文化に進展を見ます。

領土等の保全等として第九条の三が独立して明記されました。この創造的改正は、草案としてはかなり画期的で、いかにも追認的改正に見えながら、領土、領海、領空という言葉を並べ、主権と独立を守るためにそれらを保全し、資源を確保していかなければならないと定めており、ある意味では最も今日的な話題を包含するものでもあり、この改正草案の実は最も注目されてよいところと思います。

国防軍という呼称は、最後にきて谷垣総裁が決定したとのことで、草案の出されるひと月ほど前に使われていた自衛軍よりは、一歩進んだ言葉になっていますが、ここは是非、対外的な意味合いにおいても、日本国軍としていただければと思います。
実力や装備の点では自衛隊はもはやとっくに軍隊なわけですから、どれを選んでも大同小異です。であるならば、ごく単純にわかりやすさもあるので、日本国軍という語が、憲法に載る言葉としてふさわしいのではないかと思います。
日本軍は、旧帝国陸軍・旧帝国海軍を後世から指すとき、しばしば使われる慣用的表現です。どれも大変近いのですが、憲法表記上は仮に国防軍でも、慣用的表現として日本軍または国軍を定着させていくのがいいと思います。
国防軍というのは、現憲法を強く意識して出てきた言葉のようです。今回の圧勝により、名称を再考するようお願いしたいものです。

第九章の緊急事態については、たしかにそのとおりではありますが、憲法なので、緊急事態の宣言と効果のみ簡潔に記載し、その余は別に定めるものとする、ということでいいのではないかと思います。

環境保全の責務や個人情報の不当な取得の禁止など、最高法規にして現代的な課題を取り入れると同時に、日本伝来の優れた思想的傾向、すなわち、家族や自治体の相互協力を盛り込むなどの点で、全体的には作成者たちの気概にあふれた改正案と思います。

今回の選挙中、憲法改正の賛否を立候補者に問うて得たアンケート結果のうち、当選者の数を集計すると、自公で3分の2以上になったと言います。
これはすなわち、彼らに一票を投じた有権者の意志でもあるわけです。この機運が高まっているうちに、すみやかに改正手続きが進むことを期待します。

2012年12月15日 (土)

藤井一中尉の特攻

藤井一(ふじい・はじめ)中尉は、陸軍第45振武隊隊長として、以下12名で二式双発襲撃機(二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の改変型)に搭乗し、沖縄に向かい、隊員ともに昭和20年5月28日に散華している。

少し先に逝った妻子を追うように。

藤井は少候出身であり、陸士、つまり陸軍士官学校出の士官候補生ではない。
少候とは、少尉候補学生のことで、下士官から一定年限の勤務の後、受験を経て将校になる予定の者である。少年飛行兵出身者も多かった。
いわゆる士官出のエリート軍人ではない。わかりやすく言えば、たたき上げのような軍人である。

彼の所属していた少候21期は、昭和16年7月に繰り上げで卒業、結果的に戦没者73名、うち4名が特攻戦死者で、藤井はそのうちの1名である。

藤井は歩兵からの転科であるが、卒業後昭和18年には熊谷陸軍飛行学校の生徒隊中隊長として着任し、少年飛行兵の教育・訓練に当たった。
昭和18年といえば、ガダルカナルからの撤退、山本五十六の撃墜死、アッツ島での玉砕、絶対国防圏の決定など、米軍の猛攻が力を見せ始め、一気に日本軍が追い詰められていく年である。

藤井は、訓練のさなかにも、生徒たちに、「お前たちだけを行かせはしない。俺も必ず後から行く」と話しかけていたと言われ、自らの座右の銘「言行一致」のとおり、何度も特攻を志願していた。

ところが、大正4年生まれの藤井は、当時29歳であり、妻と二人の子供がいるため、血書までして志願を繰り返したものの、なかなか聞き入れられず、その熱意をもっぱら、飛行兵の訓練や精神教育に向けるしかなかった。

当時24歳の妻・福子は、飛行兵を養成する立場にある藤井が、自ら特攻を志願することには、二人の子をもつ母親としても、反対していた。
だが、日々の夫のようすから、その不退転の決意を知り、ついに自害を決意する。すなわち、妻子のあることが夫の出陣を妨げているからには、自分たちが亡き者になるしかない、と覚ったのだった。

昭和19年12月15日、熊谷市内の荒川で、若い女性と二人の幼子が、遺体として発見された。藤井の妻子と確認された。福子は4か月の次女をおんぶしたままの姿であり、2歳の長女の手は自分の手と紐で結ばれていた。長女には、めったに着せない美しい晴れ着が着せてあった。
妻子は厳寒の荒川に入水(じゅすい)したのである。

「…私たちがいたのでは、あなたにとって後顧(こうこ)の憂いになり、思う存分の活躍ができませんでしょう。ひと足お先に行ってお待ちしております。…」

藤井が帰宅すると、家にはこうした趣旨の遺書が残されていた

その後、藤井は訓練の場で、同僚部下らに話している、
「…私は常々、飛行兵に対する精神訓話で、死生観に徹せよと説いているが、私自身ここまで徹することはできなかった。…」

やがて再度の嘆願の末、特攻が認められる。
藤井に付く隊員たちは、藤井の家族のことを知り、より一層強固な団結を築き、猛訓練に明け暮れ、そして沖縄の海に散ったのである。

藤井は茨城県の農家に生まれ、昭和20年2月、当時の鉾田町が空襲に見舞われたときも、松戸の家を離れなかった。敵から逃げるということを、断固拒否したのである。

昭和20年2月8日、第45振武隊が特別攻撃隊として編成され、飛行隊教官となった藤井は、二式双襲の編隊で、5月27日(※)に、鉾田から知覧に移動、翌日250キロ爆弾2発をかかえて飛び立ち、米軍艦船に突入する。第45振武隊は12名のうち、藤井を含む10名が散華している。

(※この日付について、5月25日という説もある。)

2012年12月14日 (金)

真珠湾奇襲攻撃の際の特別攻撃隊

帝国海軍による布哇(ハワイ)の真珠湾攻撃の際、航空機だけでなく、5隻の特殊潜航艇も攻撃をしかけている。二人乗りの小型潜水艇である。

19年10月より始まるいわゆる特攻隊ではなく、「決死的ではあるが収容の方策も考えてあり必死隊ではない」ということで、開発研究が始められ、甲標的という暗号めいたことばでも知られる。山本五十六が当初反対したことでも有名である。

しかし実際には真珠湾攻撃の際、捕虜第一号となった1名を残し、みな散華してしまった。

このうちの一艘の艇長に、母の従兄弟に当たる軍人、横山正治(まさはる)がいた。出撃時、中尉であったが、戦死により二階級特進で少佐となった。22年と3週間足らずの生涯であった。

翌年2月11日付で、聯合艦隊司令長官山本五十六から感状を授与された際、日露戦争時の「旅順閉塞隊」に倣って「特別攻撃隊」と命名され、彼らの殉職に対しては、民間で使う「海軍特別攻撃隊」とか「特殊潜航艇」という名称を使わぬようにと、海軍からお達しがあった。機密保持の意味合いもあった。

このことは翌3月7日の東京日日新聞で明らかにされ、同時に新聞紙面では捕虜一人を除く9人を「軍神」と呼び習わすことになる。いわゆる「九軍神」の所以である。
つまり、この9名は、その存在自体が「特別攻撃隊」という固有名詞に等しいとされた。

終戦に近いほうのいわゆる特攻と異なり、本来は生還しうるはずのものが散華したという意味で、開戦当初のことであり、帝国臣民の士気を高揚するためもあり、武勲として最高の扱いをおこなったのだろう。
後に、東條首相も横山の実家を訪れている。

ここにあらためて、感謝の誠を捧げたいと思う。

2012年12月12日 (水)

災害の時、日本の空も、秩序正しき

昨年3月11日、地震発生前後の羽田空港の飛行機離発着のもようです。

管制官や各国機長の連携ぶりのみごとさが、よく見てとれます。他の空港に降りた飛行機もあったようです。

燃料を気にしながら関東平野上空を旋回しているようすなど、興味深いと同時に、それぞれが冷静な判断と、空のルールや仁義に忠実であることがわかります。

ひとつの事故も起きていないことに感動します。
事故というのは、起きると責任問題などで騒がれますが、起こさないように務めるというところにも注目したいものです。

http://www.youtube.com/watch?v=JGn4Qgn3HJ4

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2012年12月 8日 (土)

マレー進攻に尽力した日本人青年ハリマオ

(10月24日の日記を再掲します)

昭和17年(1942年)4月3日の読売新聞は、次のように題して、マレーのハリマオこと谷豊(たに・ゆたか)の死を悼む記事を載せている。(▼~▲)
適度に句読点を入れ、旧字と旧仮名遣いは現代語に直してあります。( )は私の注です。
 
 ▼
「翻然起(た)つ母国の急 義賊“マレーの虎(ハリマオ)”死の報恩 昭南に薫る」

どんな境遇にあっても、ひとたび祖国の急に臨んでは、決然起(た)って死に赴くのが、日本人の真の姿だ。あの輝けるマレーの大捷(たいしょう、=大勝)の蔭にも、日本人の知られざる人柱があった。
まだ激戦の跡も生々しい昭南(シンガポール)市の町外れ、戦跡訪れる人あれば、そこに一基「軍属 谷豊之墓」と記された墓標を見出すであろう。
暴虐な英官憲や反日華僑の魔手に心狂い、「ハリマオ王」(ハリマオはマレー語で虎の意)と異名をとって、悪の華を咲かした身ながら、ひとたび大御戦(おおみいくさ)の開かれるや、感奮蹶起一切を悔悟して、陰の大活躍に敵味方を驚倒させ、シンガポール陥落の報に、莞爾として三十二年の生涯を閉じた一青年が眠っているのである。
これはマレー作戦に活躍、このほど帰還した藤原岩市少佐が語る谷青年の尽忠秘話である。
 ▲

これに続き、谷の今日に至るまでの経緯や功績が書かれている。その一部。(▽~△)

 ▽
今から三十年前、彼の両親は、(福岡県筑紫郡から)二つになる彼を抱いて、コタバルへやってきた。彼はそこで、マレー人として成長し立派な青年となった。
満州事変後、華僑(シナ本国以外の地に居住するシナ人)の排日ボイコットは荒々しく、ある日、八つになる彼の妹を拉致し、付近の薮中で乱暴し、無残にも虐殺してしまった。英人官憲は、誠意をもって調査しないばかりか、侮辱の限りを尽くした。
谷青年の胸は怒りに燃えた。“今に思い知らずぞ!”

復讐の鬼となった彼は、その胆力と頭によって、強大な強盗団を組織し、グランタン・パハン両州を縦横に荒らし回った。三千の部下を駆使して、領民を奪わず、常に英人と華僑を襲撃した。金庫も金塊を積んだ列車も事務所も、この怪盗を防ぐ術(すべ)はなく、人々は彼を「ハリマオ王」と呼んで恐れた。しかも彼は、一銭んとて私(わたくし)しなかった(私的使用をしなかった)。……

四名の腹心を従えてジャングルに踏み入った彼は、常に皇軍に先立って敵中に挺身し、ゲマスでは千八百の敵マレー義勇軍を説伏して逃亡させ、要害ペラー河では、敵がダムに爆薬を装置したのを探知し取り除いたほか、マレー全土を舞台に、マレー・インド兵の宣撫(せんぶ)、鉄道破壊、後方攪乱(かくらん)等に、神出鬼没の活躍を続けた。
 △

不眠不休の奮闘が祟ったのか、やがて彼はマラリアに冒され、地元の簡素な治療施設から、ジョホールバルの病院に移される。
ある日、藤原少佐が、事情を知り両親が送ってきた手紙を、谷に渡した。手紙は、谷の母・とみさんからのものである。(▼~▲)

 ▼
「罪を清め、天子さまの御為働きいるとのこと、両親はこの上の喜びは無きにし候。靖国の御社へ祀られるような働きをなし、天晴れ(あっぱれ)日本男子ぞといわれるよう死ぬべく候。」

彼は高熱の身を揉んで、男泣きに、今や罪は贖(あがな)われた、日本人として立派に死んで行ける、“靖国へ”
殷々(いんいん)たる砲声が天地を揺する。マレーの四名の部下が止める手の下で、何度も彼は起き上がろうとした。
二月十五日、シンガポールは陥ちた。その翌日、「最後にシンガポールの地を踏みたい」という願いを容れられ、シンガポールに移った谷青年は、嵐のような勝鬨(かちどき)を聞きながら、藤原少佐の手を握り、「私は靖国さまへ行けますか」
と呟くと、にっこり満足げな笑みを頬に刻んで、死んで行ったのである。
 ▲

戦時中であり、しかも開戦二ヶ月で、日本軍全戦全勝のころのことだから、真珠湾攻撃のさいの九軍神と同様、こういう時期に死亡した軍人・軍属には、最大級の賛辞を送り、またこれによって、国民の戦意高揚を図るという傾向はある。終わりの部分は美的な創作という気もする。それでも、陸軍に貢献した何千人の部下をもつ若い男が死んだからには、多少の誇張は許されるというものだろう。

この谷豊は、マレーと日本を何度か往復しているが、マレーに棲みついてからはイスラム教徒となり、イスラム教には帰依(きえ)するが、イギリス・シナに対しては、強烈な恨みをもっていた。

谷が列車強盗などをはたらき、逃亡した先のタイで、藤原岩市と出会ったとされる。藤原は、開戦前の昭和16年9月より、イギリスの植民地であったインドで、インド人を日本側に寝返らせる秘密工作をしていた藤原機関、通称F機関の長。実際には、マレーまで進出していた。

谷はまた、満洲から来てマレーで対英諜報活動をしていた神本利男(かもと・としお)とも知り合う。初めは、妹を殺された復讐心と自暴自棄から強盗を繰り返していた谷であったが、神本に説得され、その情熱を、英軍打倒に向けるようになるのである。

いずれにしても、谷の仲間は、マレーシア人のものには手を出さず、イギリス人や華僑の家やものを奪ったとされ、それは貧しい仲間やマレー人に配っていたそうだ。さながら、必殺仕置人のような役回りである。

イスラム教徒になったとはいえ、彼は純粋な日本人である。藤原や神本に出会って話を聞くうち、日本人としての血が騒いだのかもしれない。
宗派が何であれ、日本軍軍属であるからには、手続きを踏めば、靖国神社へ合祀される。手続きは、谷の死後すぐに、藤原が自らおこなっている。

谷豊は、戦後英雄視されるが、当時は秘密機関と組んで働いていたこともあり、当時の一般の日本人は、どれくらいハリマオのことを知っていたのか定かでない。こうした新聞記事に接するまで、あまりよく知らなかったのかもしれない。

英領植民地で華僑に妹を強姦され殺害され、その復讐心を祖国大日本帝国のために活かし、マレー半島進攻とシンガポール陥落に寄与し、熱病に冒され30歳で死亡したハリマオこと谷豊。

早死にし、悪行にも走り、しかも陸軍の秘密機関の一員として活動したとなると、なかなか資料が見当たらない。
それでも、戦後。ハリマオをモデルにしたテレビ番組や映画がつくられ、人々の記憶をつなげているからには、当時の日本にとっては、価値ある働きをしたということなのだろう。

こうしたさまざまな個人の活躍ぶり、あるいは跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)ぶりがもっと明らかになってくるとよいのだが。

開戦記念日~日の丸弁当のルーツ (2012年12月8日)

『靖国暦』では、12月8日は、「大東亜戦争開戦記念日」となっている。
だからこの日は、ふつうに開戦記念日と呼んでいい。
ちなみに、8月15日は、「終戦記念日」となっているが、言葉にこだわるなら、記念日はおかしい。やはりせいぜい「終戦の日」だろう。通称としても「終戦の日」としたい。

昭和13年に公布施行された国家総動員法の具体策として、国民精神総動員運動が推進され、昭和14年8月8日の閣議で、毎月1日を興亜奉公日とするよう決定された。
したがって、初の興亜奉公日は、昭和14年9月1日である。

「戦場ノ苦労ヲ偲ビ自粛自省之ヲ実際生活ノ上ニ具現スル」として、料理店の営業時間短縮、ネオンサインの抑制、禁酒、中元・歳暮の贈答廃止、服装の簡易化、パーマネントの廃止など、具体的な励行目標が掲げられた。

第一回の興亜奉公日実施にあたり、例えば当時の東京市が作成配布した回覧板には、いくつかの項目が列挙されていた(▼~▲)。
ここにいう事変とは、満州事変以来の支那での戦線全体を指している。

   ▼
「興亜奉公日」は事変の続く間は毎月一日に実施致します。

「興亜奉公日」は国民が挙(こぞ)って戦場の労苦を偲びつつ自粛奮起以て奉公の誓(ちかい)を立てこれを実際生活の上にあらわす日であります。

我等東京市民は深く自らを省み、弛(ゆる)もうとする心を引締めて強力日本の建設に邁進し、帝都市民たるの誇(ほこり)を全(まっと)うしなければなりません。

一、早起遥拝
  早起きして、一家打ち揃って宮城を遥拝すること

二、黙祷
  正午に行うこと(但し九月一日は震災記念日にも当たるので、震災犠牲者のために十一時五十分にも行うこと)

三、皇軍慰問並びに感謝
  前線に慰問文、慰問袋を送り、又傷痍軍人の見舞、出征軍人遺家族の慰問を行うよう努めること

四、勤労奉公

五、一汁一葉

六、禁酒禁煙

七、享楽抑制

八、節約貯蓄
  特に節約に努め必ず分に応じた貯蓄を実行すること

当日は以上の事柄を必ず一斉に実行して全国の模範となるような実績を挙げますと共に、この日を恒久実践の源として何時も緊張した戦時生活を続け七百万市民の心意気を力強く発揚するよう務めましょう。

   ▲

その後、昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発し、緒戦の快進撃により、昭和17年1月2日の閣議では、早くも、毎月8日を「大詔奉戴日」とするよう決定された。こうして「興亜奉公日」は「大詔奉戴日」へ、発展的に解消統一された。

この興亜奉公日に合わせ、戦場の兵士の労苦を偲び、この日だけは梅干だけをおかずにした弁当が奨励された。日の丸弁当のルーツである。

今から71年前の今日、連合艦隊機動部隊の航空機は、日本時間の12月8日早暁、午前3時25分(ハワイ時間:12月7日午前7時55分)、ハワイ・オアフ島のパールハーバーを奇襲した。

その1時間50分前ほど前(日本時間12月8日午前1時30分)には、英領マレー半島のコタバルに、山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍第18師団所属の精鋭、侘美(たくみ)浩少将率いる侘美支隊5300名が上陸する。

第18師団は久留米出身の九州男児によって編成されたつわものぞろいであった。それゆえ、通称号は「菊」の文字をいただき、菊師団と呼ばれた。
実に栄誉ある称号であった。

借りたものは返してから言え

奨学金制度のブラックリスト 厳しい取り立ても〈AERA〉
dot. 12月7日(金)7時10分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121207-00000000-sasahi-soci
(以下全文転載▼~▲)
   
   ▼
 学生生活を支えるはずの奨学金に苦しんでいる人たちが増えている。大学卒業後も正規雇用に簡単に就けない中、厳しい回収が始まる。

 この不況下、卒業しても奨学金を簡単に返済できない人もいる。大卒でも非正規雇用が珍しくないという状況。11年度だと、滞納者は約33万人、滞納額は876億円。数字の上では、滞納者は全体の11%弱に過ぎないが、無理して返済している人も少なからずいるだろう。

 もちろん、救済策は用意されている。例えば、最長5年までの返還猶予。昨年からは、返還年数を最大で30年まで延ばし、回当たりの返済額を減らす「減額返還制度」も始まった。12度以降の利用者には、1種に限り、年収によって返還を猶予される「所得連動返還」制度も新設された。障害などによる就労不能者には返還免除も用意されている。

 問題なのは、それが機能しているとは言い難いことだ。奨学金ホットラインを設けた首都圏なかまユニオン相談員の伴幸生(ばん さちお)さんは説明する。

「例えば、返還猶予制度は当初、機構のホームページにも載っていなかった。細かい字がぎっしりの内規の文書に載っていたのを07年に私たちが見つけて仲間とともに機構に訴え、やっとネットで周知されるようになったのです」

 猶予にも問題はある。5年を超えての適用がされないことだ。それを補うために、機構は昨年、減額返還制度を設立したが、延滞金のある人は利用できないのである。

 もう一つの問題点は、厳しい回収制度にある。

「特に、10年度から始まったブラックリスト登録はひどい」

 こう訴えるのは、支援機構労働組合の岡村稔・書記次長だ。

「まず3カ月連続の滞納で、返還者は民間金融機関などが多重債務者対策などに用いる個人信用情報機関に登録されます。これでクレジットカードが持ちにくくなる。滞納3カ月から8カ月目までは回収業務が民間サービサーに委託され、滞納が9カ月続くと、機構が一括払いを求める『支払督促』を送付し、それでも応じない場合は給与の差し押さえや提訴が実施されます」(岡村さん)

※AERA 2012年12月10日号
   ▲

単純に言えば、甘ったれてんじゃねえ!ってことだ。
借りたものは返さなくちゃね。

自分もかつて院生時代に、奨学金のお世話になったことがある。当時で毎月65000円が貸与される。支給の基準を満たしていなければならず、申請期間が短いうえに、申請時に、いろいろな書類をそろえなければならない。
返す必要のない奨学金をもらったこともある。これは額は多くないが、審査は厳しくなる。

支給の基準のうち基本的なものは、その実家の年間収入で、その収入証明が必要だ。
それとともに、どういったテーマで研究をしていくのかを、原稿用紙20枚に書いて提出しなければならないが、それはみな得意としているところなので問題ない。あとはそれまでの成績や健康状態で決められるようだ。

その年度では、同じ研究科では自分ひとりしかもらえなかった。大学が大きいせいか、各研究科ひとりずつだと聞いたことがある。平等に配分していたのだろう。
院生が終わると、学部の学生への貸与となる。

申請が認められると12ヶ月分は貸与されることになる。領収証の提出など何に使ったのかの報告義務はない。一年ごとの申請で、一年だけだったが、それでもトータル78万円になる。
当時から5年間の猶予期間はあった。免除職という職種に就けば、毎年、返済額が軽減され、15年で完済と同じ扱いになる。

免除職は研究者や特定の期間の職員、学校の教員などで、要するに専門的職業に就くことで、それ継続従事していれば、返済額は軽減されていく。自分は15年経つ前に、免除職でない一般の会社員になったが、返済額はほとんどわずかになっていたので、その後一括で返済した。もし15年かかって返そうとしても、月々4333円だ。
奨学金制度が、根本的におかしいとは思わない。

このように、本来、奨学金を貸与するというのは、将来、その専門性を活かす仕事に就くことを前提にしている。そのために、図書やコピー代に使うためとして貸与するのが趣旨だ。専門性が高くなればなるほど、専門書は一冊当たりが高価になり、洋書となるともっと高い。図書館にない書籍もたくさんある。学会で国内に移動する交通費もバカにならない。

学部学生も基本的に同じ趣旨である。家計にゆとりのない学生を対象に、その学部の勉強をしっかりやってもらうために、貸与するのだ。だから誰でもパスするわけではないし、そういう学生にはありがたい。

これをタテマエだけと履き違えて、審査にパスしたらそれでおしまいという邪(よこし)まな考えの学生もいるのだ。こういうヤカラは、奨学金を飲み食いに費やしてしまうものなのだ。

しかも、その後、免除職に該当しない民間企業を選り好みするから、余計にこういう問題も起きるのだろう。それでもまじめな学生は、当たりまえだが、猶予期間に関係なく、返済を始める。猶予期間をフルに使っても、6年目から返済を始めればよいのだ。

こういう条件の下に借りた奨学金を、だんだん返すのが億劫になって、結局返済できなくなり、返済を督促されたからといって、本来なら何もいえないはずだ。

ところが、最近は、返済できないと、何でも行政のせいにする風潮がある。
かつてYouTubeなどでも見たが、上の記事と同様な動画が何本かあって、返済できない窮状を嘆き、同情を買おうとする。私は大変なんですよ、みなさん、というわけだ。
見ていて、言いたくないが、では画面に映っている20インチはあろうかというテレビ、パソコン、きれいな服、そういったものを買うカネはあるのに、と思ってしまう。一部節約するだけで月々の返済くらいできるのだ。
こういうものを買うなとは言わないが、同時に少しずつでも返済も進めたら、そんな動画を作ってアップする必要もなかろうに。

小さい字で書いてあるかどうか知らないが、上の記事のようなことは、申請時の書類には全部書いてある。借りる前に読めるのだ。借りることになったときにも説明はある。
契約を交わした貸与金で、いつまでも返す意志が見られなければ、返済を迫るのは当然だろう。本人が無理なら、契約時に書かれた連帯保証人や保証人のところに督促が行ってもしかたがないだろう。5年間の猶予期間は、それで充分だと思う。アルバイトをすることもできるのだ。

返済できないと、すぐ、その制度がよくないと批判する。その制度によって、奨学金を借りられたんだろう。全部返してから、言いたいことを言ってほしい。

上の記事やYouTubeでは、やたらに行政が悪い、当局が悪いとする姿勢が目立つが、組合の元をたどれば、当然行き着くべきところに行き着くというのは想像に難(かた)くない。

返すべきものも返さないで、クレジットカードなんか作る資格はない。どうしても返済できなければ、自己破産するしかないだろう。

こういう甘ったれの陰で、きちんと毎月返済している人もいた。実際、9割がたの人はきちんと返済している。当然のことだが、けなげな姿だ。
また実際に免除職などにポストの空きがなく、待たされてしまうということもあるだろう。これにはある程度同情するが、ある段階で、見切りをつけて仕事を選ばなければ、滞納者になってしまうだろう。

しかし、そうでないケースについては同情できない。卑しい根性が見え隠れしていて、そういうへ理屈ややゴネ得やの発想は嫌いなのである。
彼らはよく言う、奨学金を返す必要のない国もあると。ここは日本だ。その日本で、その制度と約束ごとのもとに借りたのだから、これはへ理屈以外の何ものでもない。

やがてここから、市民運動なるものの一員になる者が必ず生まれてくる。こういう連中にかぎって、自分の怠っていることは棚上げして、自らの権利だけを主張する。

2012年12月 7日 (金)

原宿で愛国談義

きのう、高校生のマイミクくんと原宿で会い、食事した。

原宿あたりでは食べるところを知らないので、唯一知っている光麺に入った。池袋西口の店はよく行っていたので、いいかなと。

その後、あるビルの上にあるスターバックスに入り、ルーフバルコニーになっている客席で、少し話した。12月とは思えないほど暖かく、快適であった。

全く普通の高校生である。なぜ愛国思想に入っていったかといえば、中学一年のときの同級生にそうした友達がいて、感化されてとのことだ。その友達もマイミクになっている。

前に書いたとおり、初めから保守愛国になる人はいないだろう。
生まれた家の環境や、このように友人、先輩、先生らから知っていくというのが、いちばん多い気がする。あとは自身で調べていくしかない。

これは左翼でも同じことだろうが、一旦身に付いた思想的なものは、そう簡単に変えられない。
しかし、政治家の思いつき発言や、他国優先の発想に気づけば、おのずから自身の方向は決まり、、誤った方向であると気付いたなら、それを自ら修正していくこともできるはずだ。

昨日見た安倍氏誹謗のポスターにしても、先月下旬に渋谷界隈でおこなわれた反原発デモの名残りであろうと思う。
そのデモの模様をYouTubeで見たが、愛国派のようにうったえるデモと違い、一種のお祭り気分で、最後にはへたな歌を歌いまくり、ゴミが散乱している。
真に将来の国家のことを現実的に考えているとは、とても思えない。大飯のときと全く同じだ。

そこに、FBやTwitterで複数のアカウントをもつ韓国の青二才の絵描きまがいが、反原発のポスターをつくり提供している。原発のことをまともに考えず、お祭り気分でポスターを依頼し、それを作成し、公共の工作物(渋谷区の案内板)に貼って逃げる、…そういう手引きをする売国奴が、日本にはうようよしているという証しだろう。
必ずどこかの政党に属したヤカラのしたことに決まっている。個人的には社民という気もするが証拠はない。

選挙直前の10日間、特に若い人、20代前半の有権者は、、日本人としての自覚をもって、各報道に接し、投票してほしい。そして真偽を見極めてほしい。難しいことかもしれないが、日本人であるならば、その心性と感覚で、真偽を判断できるはずだ。

10代の人々は、今回の選挙における候補者の出自やキャリア、演説を、冷静に分析してほしい。結果だ出たら、その要因も考えてほしい。この間の世間のようすを、肌で感じるだけでもできるはずだ。そして常日頃、正確な歴史を知るように心がけてほしい。

2012年12月 4日 (火)

我々は武力解決の道を選択する~サッチャーに学べ

インド海軍 必要あれば南シナ海に部隊派遣
http://sankei.jp.msn.com/world/topics/world-14900-t1.htm(2012.12.3 20:07  以下全文転載▼~▲)
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インドのPTI通信によると、ジョシ印海軍参謀長は3日の記者会見で、中国海軍の増強に深い懸念を示し、南シナ海での航海の自由やベトナムとの共同資源開発を守るため、必要があれば艦隊を派遣する用意があると述べた。軍幹部が、南シナ海問題で強い姿勢を表明するのは異例。

 ジョシ参謀長は、南シナ海での偶発的な衝突の備えを問われ、中国海軍について、「近代化が実にめざましい。われわれの懸念の非常に重大な要因だ。取り得る措置と戦略について検討し、立案していく」と述べた。また、「(航海の自由や資源探査など)国益に関わる事態で必要があれば、現地へ行くことが求められるし、備えてもいる」とした。ただし、インド海軍は、南シナ海に十分な艦隊を展開する装備は持っておらず、発言は中国を牽制する狙いがあるとみられる。
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たとえ牽制でもいいではないか。いままで誰も言わなかったことを言ったこの軍人は立派だ。インド洋近辺ならともかく、南シナ海方面の艦隊装備はまだ充分ではないようだが、「取り得る措置と戦略について検討する」ぞ、と言ったことがいいのだ。

歴史も経済状態も異なっているとはいえ、日本の防衛省・外務省その他政府要人に、これに準じた発言は聞かれずしまいだ。
日本の場合はまさに日本海・東シナ海という近接領域での問題であり、しかもそこに、種類はともかく、中国籍の船が出入りしているのだ。

今から30年前の1982年3月から6月にかけて、フォークランド紛争という戦争があった。
南大西洋に浮かぶフォークランド諸島の領有をめぐり、イギリスとアルゼンチンが戦った(⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B4%9B%E4%BA%89)。
フォークランド諸島は、イギリスとは赤道を挟む地球の反対側にある島々である。ロンドンから直線距離で約12800kmのところにある。最近でこそ海底油田の埋蔵が噂になっているが、当時そんなことは認知もされていなかった。純粋に領土主張の対決であった。

当時は東西冷戦下でもあり、第二次大戦以降、大国のからむ西側諸国同士の初めての対決となった。それまでに至る両国の歴史もあるが、イギリスの領土であるフォークランド諸島に対し、アルゼンチン側が領有を主張し、現地にアルゼンチン国民が入りこんだことから緊張が増し、英首相サッチャーはこれに対する強制退去命令を出すものの、アルゼンチン側が無視、サッチャーは米国のレーガン大統領の強力も仰いだがアルゼンチン側は撤退しなかった。

イギリスはアメリカや国連を通じて平和的解決を模索したが、やがてアルゼンチン軍が上陸するに及び、サッチャーは、我々は武力解決の道を選択する、と宣言する。
国連でも、親子喧嘩のような戦争にアルゼンチンの勝ち目はないとされたが、結果的に、それぞれの国が世論に押されて戦いとなった。

紛争と訳されているが実態は戦争であり、当然、軍に死者や負傷者も出るし、予想どおり、地形を熟知したアルゼンチン軍の活躍には英軍も初めは手を焼いた。
特に秒速315mを誇るアルゼンチンの当時の最新鋭ミサイル・エグゾセが、英海軍駆逐艦シェフィールドを沈没させるなどは象徴的な出来事であった。

イギリスは艦船などに大きな損害も受けるが、最終的には勝利した。

5年後の1987年には、イギリス・ヨークシャーテレビにより「栄光の代償 兵士が語るフォークランド戦争」という番組ができ、イギリス・アルゼンチン両国で放映された。NHKでも放映された。いまはYouTubeでも見られる(⇒http://www.youtube.com/watch?v=hkRzZtvHoPg)。

戦争は政治の一部であるから、何かと批判はできるが、領土問題などというとき、いつも思い浮かべるのは、このフォークランド紛争のことである。

アルゼンチンからすれば、相手が軍事力で優っていようと、戦わないわけにはいかない。イギリスからすれば、自分の国土に外国の軍隊が駐留するなどという事実は排除しなければならない。先に乗り込んだのはアルゼンチンであり、武力で解決すると宣言したのはイギリスである。

鉄の女サッチャーだからできたのかもしれないが、この決断は優れていた。
航空機が乗っ取られ人質がとられても、日本とドイツでは対処のしかたが異なったことがある。今の政権政党が外交についてへっぴり腰であるのは、今や国民すべての周知の事実だろう。尖閣の漁船衝突事件に象徴されているが、その後に起きる外交案件への対処も、遺憾であるとか毅然とした態度で臨むとかの寝言ばかりを繰り返し、公式な抗議や実力行使というものができない。

日本は伝統のある国、円熟した国家であるという認識が、かえって足枷になっている。イギリスにしても30年前といえ、また、当時も国内にいろいろな問題を抱えていたにしても、それでも、外交に関する姿勢には筋が通っていたし、その決断を指示する国民がいた。

今は民主党だからダメだとあきらめ気分をもたないようにしたい。答弁その他を合わせれば、彼らも尖閣や竹島が日本の領土という当然の認識をもっているわけだから、総理大臣から発される抗議声明くらいは、マメに続けていくべきであった。

また、政治に無関心な一部の国民には、ぜひぜひ関心をもって、これらの問題について考えてもらいたいものだ。それでも、インターネットの発達により、それ以前よりは政治や外交に関心は高まっているとは思う。

さらに、都知事も言うように、尖閣に自衛隊を常駐配備するのは喫緊の課題でもあり、即刻そうしてほしい。何かと議院の同意や法律の改正を前提に進まなければならないものが多いが、大げさに言えば国家の存亡に関わることであるからには、国家あっての主権であるから、多少手続きなど省いてでも、現実に動くのが先決だと思う。
一般的防衛事項以外の緊急性をもった懸案については、例外的に天皇大権を復活させてもよいのではないか。

国家の三要素という定説がある。国家というのは、その成立の最低条件として、領土・国民・主権があり、この順で次のものがありうる。領土には領海・領空が含まれる。つまり、領土あっての国民であり、領土・国民あっての主権である。そして、領土とは国民の主権の及ぶ範囲の一切である。

尖閣諸島、竹島、北方領土に関し、日本としては本来なら何も問題はないし、日本固有の領土である。非合法にこれを支配する不逞の輩(やから)を排除するために、政治家はあらゆる知恵と武力を有効に活用してほしい。
外交・防衛は本来は政権に関係なく、超党派の決断で処理されるべき案件だろう。

ちなみに、この三要素が逆転したセオリーを(もっていればの話だが)もっているのがサヨクである。いつかの教壇を廃止した教師の話と同様、年齢も立場も関係なく、同じ高さに立って、それぞれ対等の位置から始まるのがサヨクの発想だ。

同じ高さに立つ限り、日本人も外国人も天皇も関係ない。同じ高さに立つからには、各人の経歴も収入も通ってきた道筋(各人の個人史=その集合体が歴史)は見られずじまいである。これは実に、自然科学「的」発想で(自然科学そのものではない)あり、根本に唯物史観がある。

初めにくる主権も、国民主権というより基本的人権としてのみ理解される。彼らには国民主権という考え方がわからない。主権という概念も国民という概念もわからない。国民主権とは、その国の国民の意志であるが、国民というものがわからない。

そんなことより、物理的に手で触れるもののほうが大事なのだ。そのほうは手がかりがある。熱い冷たいといった肌の感覚が大事なのだ。
つまり、生物体としての人間が最も大事で、そこに人権やら自由やらの概念が肥大化して宿っている。
その人権の集合体が仲間やサークルや地域社会というつながり(連合)として広がりをもつ。どこまで行っても国民というものが出てこない。

領土というものも、学校のテスト問題としては答えられても、実際にはわかっていない。彼らには、領土とは大地で、領海とは海原で、それらが連なって果てしなく続いているだけのことだ。
すべての垣根らしきものは破壊し、両方向からの交通にしようという発想が根本にある。

こういうわけで、極端な話が、彼らサヨクには、日本という国はない。
アメリカという国も韓国という国もない。みんな同じ高さに立つ平等な人間で、地面も海も続いている。
日本だのその象徴である日の丸だのという垣根のようなものは窮屈でしようがない。すべての垣根を取っ払って、無限の自由を得ようというのが目的だろう。

そんな、ありえない目的に向けて、彼らは彼らで日夜活動しているのである。
外交・防衛に対し、常に足を引っ張るこれらサヨクと呼ばれる人間を根絶するのは難しいだろう。コンクリートの割れ目に目を出した雑草こそ、根を張って引っこ抜きにくいのだ。
しかし、その勢いを削ぐことができる。

このたびの選挙により、日本国民の民度も試される。

2012年12月 1日 (土)

陸軍伍長荒木幸雄、大義に死す

若い特攻隊員の写真として、つとに有名である。
名前を荒木幸雄という。

戦前の徴兵適齢は満二十歳であったが、昭和18年末には19歳に引き下げられる。
徴兵への年齢に達しない少年は、自ら志願して軍に入隊できた。
海軍の予科練、飛行予科練習生と、陸軍の少年飛行兵であった。
ほかに陸軍少年戦車兵、海軍特別年少兵もあった。これら少年兵は、大東亜戦争が盛りになるにつれ、猛烈な訓練と教育を受け、多くが第一線で活躍し命を落としている。

海軍予科練は昭和5年に始まり、陸軍少年飛行兵の制度は昭和8年に導入された。少年飛行兵の数は、終戦までに、20期46000人に達している。

昭和18年3月5日、桐生市に住む荒木幸雄は、乙種飛行予科練習生の合格通知を受け取った。15歳の誕生日五日後に迎える日であった。両親からはユキと呼ばれていた。
5月1日、東京陸軍少年飛行学校には、学力・体力・気力と空中適性の難しい試験を突破した14~17歳の少年が、全国からぞくぞくと集まってきた。

荒木の属するこの期は、第十五期乙種生徒と呼ばれる、短期養成の生徒たちで8307人いた。身体検査・適性検査などを経て、操縦・整備・通信に振り分けられた。荒木は希望どおり操縦科に進み、2000名の短期養成操縦要員のひとりとして、10月には九州の大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校の甘木(あまぎ)生徒隊に入校した。その後日本本土や支那、朝鮮の各地に移動を繰り返す。

最後の陸軍少年飛行兵出身特攻隊員として、このうち少なくとも荒木を含む102名が祖国に殉じている。

国策上、兵員の不足を補うため、こうした短期養成の期が出現したのであったが、基礎教育を通常の三分の一の機関でおこなうのであるから、その訓練にはむだがなく、極めて厳しいものであった。
荒木幸雄はそうした猛訓練にしっかりとついていった。たまには教官から激しく注意され鉄拳を受けるときもあった。こうして短期養成制度に応え、優秀な操縦士になったのである。

荒木はほとんど毎日日記(修養録)を残していたが、昭和20年3月10日、17歳を迎えた翌日から5月17日まで、それを付けていない。その間に伍長に進級したせいもあろうが、訓練と睡眠とに徹底していたからだろうと思われる。
そして5月20日が最後の日記になった。

3月26日には、沖縄の慶良間(けらま)列島に米軍が上陸する。日本軍は天一号作戦を発動する。
やがて荒木も他の隊員とともに、特攻を志願する。が、親兄弟には伝えなかった。それは軍機であると同時に、家族を思いやったからである。

4月5日早朝、荒木は熊谷まで飛ぶ隊の飛行機と汽車を乗り継ぎ、実家のある桐生に降りた。空襲で各地の鉄道が破壊されている時期である。それは全く突然の帰省であった。軍服も凛々しく朝の光のなかに立つ幸雄を見て、当時19歳の兄・精一は、何かあったと察した。

食事のあと、幸雄が正座に直って静かにひとこと言った。

「大命が下りました」

当時、大命とは、天皇陛下の命令を意味する。
両親、兄弟、友人のそれぞれに宛てた封書を卓に並べ、「あとで通知が来たら開けてほしい」とだけ付け加えて言った。父親には、箱に入れて持ってきた懐中時計を上げた。時計の裏には、陸軍航空総監賞の文字が刻印されていた。学業でいう首席、つまり金時計と同じである。
桐生は戦災に合っていなかった。翌日、写真館に行き、家族で写真を撮った。

精一はこのあと、もう一度会いたいとして、岐阜県各務原(かかみがはら)の陸軍飛行場に幸雄を訪ねている。平壌の飛行場で訓練を積んでいた荒木たちは、自分らの乗る九九式襲撃機を特攻機用に改造するため、各務原に来ていたのである。軍指定の旅館で、兄弟水入らずで深夜まで話した。精一はようやく、幸雄の所属部隊名を聞き出した。

荒木幸雄伍長は、第七十二振武隊の一員として、来るべき特攻に向け、訓練と機体整備の日を送ることになる。

部隊編成後、荒木は隊長の僚機を務めている。隊長僚機は二番機で、隊長機の攻撃を補助し成功させるために、隊長機から離れず、敵の攻撃からは身をもって隊長機の盾となりながら戦うのが役目である。これには高度の飛行技術が身についていなければならない。
隊長がその技量を高く評価し、信頼関係がなければ、僚機にはなれない。上から見ると、隊長機の左側側面にやや後ろから飛行する。

第七十二振武隊は、佐藤睦男中尉隊長以下12名で構成された。このうち荒木を含む9名が少年飛行兵出身で、みな同期、15期生である。

5月17日に部隊に出撃待機命令が下り、隊長以下が大刀洗の目達原(めたばる)基地に集合し、出撃命令が出次第、鹿児島・万世基地に飛び、そこから沖縄に向かうことになった。部隊ではすでにこの日までに、支那での飛行移動中、徐州上空での米軍の攻撃により、一人が戦死、一人が重傷を負った。隊員は10名となり、九九式襲撃機も10機となったわけである。すでにこの時期にはセコハンとなっていた二人乗りの九九襲撃機に、みんな一人で乗り込んだのである。

菊水八号作戦・第九次航空総攻撃の一環となる5月27日の特攻で、このうち隊長を含む7名が戦死している。戦死場所は、「沖縄南部海面」とされる。
沖縄方面への特攻では、戦死場所はほとんど特定できない。「沖縄周辺洋上」がほとんどで、「沖縄本島付近」とされることもある。そうした中で、方角が書き込まれているだけまだマシで、「中城(なかぐすく)湾」など特定されているのは例外的である。

万世基地の近くにある西往(さいおう)寺で、荒木は白いハンカチにこう残し、銃後の人に渡している。

只一筋に征く

      特別攻撃隊員
       陸軍伍長 荒木幸雄

荒木幸雄は、こうして、悠久の大義に「生きた」のだった。

17年と二ヶ月余の、この世の生であった。

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