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2012年11月

2012年11月19日 (月)

2030年代に原発はなくなっているか

2030年として、あと17年後だ。なくなっていないだろう。

水力・火力では到底追いつかない電力需要に応えるために登場したのが、原子力であった。1986年(昭和61年)4月のチェルノブイリの原発事故があり、原子力発電所の事故が、いかに甚大な被害を生むか、事故後も長きにわたって、人々の生活や経済に大きな影響を与えるかが知らしめされた。

一昨年の地震による事故でも、いまだに16万人近い住民が避難生活を強いられ、6万人以上は故郷を離れ、県外に引っ越しした。
住民が元の土地に戻るには、土壌除染作業が不可欠であるが、除染により排出される土をどこに保管し処理するのかが問題となっている。がれき受け入れでさえガタガタ騒ぐ人々がいるのだから、排出土の廃棄ということになれば、一層の騒ぎが起きるのだろう。

かつて、東京都で出るゴミが都内で処理しきれなくなり、近県にゴミの処理場をつくろうとしたら、近県住民が猛反対したことがある。それはそれで筋が通る。よって、都内に処理施設をつくり、自分の出したゴミは自分で始末することになった。世間では、再処理やリサイクル、ゴミの分別が始まり、社会のそうした動きと一致して、ゴミ問題は次第に収束していった。

福島第一原発は東京電力のものであり、ほとんどが東京への供給である。地震直後に、福島県民が憤るのは無理もない。不可抗力の責任をどこにとらせるか。
原発内で社員が津波に巻き込まれて死亡するなど、東京電力側にも悲劇はあったが、不可抗力の責任はとらせることは不可能であっても、損害に対する補償をしてもらうのは当然だという流れになり、そのためにも政府は1兆円を貸し付けて、事実上、東電は国営企業となった。ついでに原子力規制委員会という名前の役所をつくり、環境省のもとに置いた。

いわゆる事故の事後処理をおこなう機関という位置づけならそれもいいだろう。台風などと同じく、日本国民が自然災害で被害を受けたのなら、多少の補償は必要となる。事故後の東電の不手際などがあるにしても、地震が起きるまで、東電は安全第一に原発を運営してきた。チェルノブイリのように、それ自体の実験中に事故が起きたのではない。原発がいかなるものかは、プロである東電の関係者がいちばん知っているだろう。

この地震を契機として、反原発運動なるものが持ち上がってきた。これにはさすがに野田前総理も面食らった。節操のないのは鳩山くらいであった。
純粋に、ごく単純に考えて、何に対して反対しているのか、正直わからないのだ。

自然エネルギーへの転換と簡単に言うが、ちょうど鉄道の駅舎工事と同じで、毎日の利用客の足を確保しながらでなければ、転換ということは不可能だ。太陽光エネルギーはそのなかでも規模が大きくなりつつある。メガソーラーも各地につくられてきた。風力・地熱エネルギーも今後ますます開発されていくだろう。

風力発電では中国が、その需要の26.2%をまかなっているが、これは大平原があるなど地理的な要因も大きい。日本は1.1%だ。供給先に近いが騒音を考えて選ぶとなるとなかなか難しく、茨城県神栖市のように海の中に設置しなければならない。太陽光は7.1%まできたが、ドイツの35.4%、イタリアの18.3%に比較すると、日本は7.1%で、まだまだ低い。電力会社による買い取り制も始まった。

原発がダメだから、自然エネルギーに移行しよう、という発想は間違っているのではないか。エネルギー源はいくらあってもいいので、出来過ぎたら、保存が可能なら保存すればよいし、供給量が多くなれば値も下がるだろう。

多様なエネルギー源を確保するという考え方からなら、自然エネルギーの開発は進めていっていいと思うが、すべてを原発の代替にするというのは、よくわからない。曇りや雨が続いたら、風が弱ければ、…といった心配もある。

国民のひとりひとりが、そういったことに神経質になれるだろうか。なれないだろう。スイッチを入れれば、ほとんどあたりまえのように電気がくる。今日は電気が少ないから、みなさん零時には灯りを消して寝ましょう、仕事は終わりです、ネオンも消しましょう、という具合にはいかない。

2030年代までに原発をなくすか減らすのには、三案あるという。
徐々に減らすがある程度は原発に依存する案は、自然エネルギーへの依存度の数値が違うだけであり、使用済み核燃料は地下に廃棄するが再利用もありうるという考え方だ。
これに対し、原発を全くゼロにする案は、自然エネルギーへの依存率を、それまでに35%にし、それ以外は火力発電によるというものである。この場合、使用済み核燃料は、すべて地下に埋めることになる。ガレキの受け入れでさえ騒がしい一部の連中が、自分の自治体に使用済み核燃料を廃棄埋没するとなったら、受け入れるのだろうか。また、高レベル放射性廃棄物同様、場所の確保も問題だ。

全国11ヶ所で行なわれた政府による意見聴取会では、7割近い人が原発ゼロに賛成したという。福島県の住民だけではないだろう。福島県やその近県の人々が言うならまだわかるが、他県の人間が聴取会だからといって、いとも簡単に原発反対・原発ゼロを叫んでいいものだろうか。

福島県の聴取会では、政治家や官僚も福島に住んでくださいという声もあったが、政治家や官僚は、どの政党であれ、そうした状況で罵声を浴びるのが仕事であろう。言ったほうも、そんなことは実現しないことは百も承知で叫ばざるをえなかったのだろう。

YouTubeでは、福島県内のいろいろなところで放射能などを測定し、こんなところに来てはいけません、などど必死にうったえているアホが一匹いる。何のためにそんなことをしているのかわからない。

いままで、日本の原発は、安全であった。共産党以外で、一貫して原発に反対してきた政党はない。ここへきて地震の被害をいいことに、原発反対をうったえるのは姑息でないのか。将来のビジョンをもって主張しているのか。

弟夫婦は郡山に住んでいる。郡山はそれほどの混乱はない。昨年春、行ったとき、風評被害はだいぶ収まってきたとのことだった。しかし半年前、郡山市内の一部のコメから、規定を超える放射能が検出されたとのことで、市や県は対応に追われているとのことだ。しかしそれをバカ騒ぎに利用する人間は現れなかったそうだ。
こうした意味では、不安は多少ともしばらく続くだろう。そういうなかでの日常生活には同情する。

日本には原発が50基ある。地震の教訓は生かさねばならない。関西電力の大飯原発を稼動させたのは、もちろん経済界と商店街などであろうが、それを押した世論があったからだ。原発なしの経済などありえなくなってきているということだろう。

どこかに災害が起きれば、そこに犠牲が出る。本当に地震が疎(うと)ましいのなら、地震のない国に行くしかない。原発に依存したくないのなら、原発のない国に行くしかない。
善悪・功罪の彼岸に立ってこその先進国なのだ。

国旗国歌法の改正に向けて

国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)を改正すべきと思う。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO127.html

この法律は、1999年(平成11年)8月13日に公布・即日施行された。それ以来、一度も改正されていない。すなわち、いじられたことさえないのである。

たしかに、戦後半世紀以上を経て、ようやく「日章旗」(日の丸)が国旗、「君が代」が国歌と規定されたことは、遅きに失したとはいえ、法整備上の進歩であった。

しかしまた、国旗国歌を規定しただけで、その掲揚・降納、起立し斉唱などの項目が欠如のままになっている。意図的に国旗を破損した場合・掲揚を妨害した場合・起立斉唱を拒否した場合などに対する罰則も盛るべきで、国旗国歌尊重の義務とともに、国法としてきちんと整備すべきである。
なぜなら、言うまでもなく、国旗は日本国の象徴だからで、国旗は日本国を意味し、国歌は日本国を象徴する歌であり、どちらも日本国民を象徴しているからだ。

それゆえ、国旗を汚すものは日本国民を汚すのと同じであり、国歌を起立斉唱しない・歌えないというのは、過去から続く日本国民と現在の日本国民、また伝統に対する非礼であり挑戦であり、他方、みずから日本人であることを拒絶したのと同じなのである。

ようやく「日章旗」(日の丸)は国旗と規定され、「君が代」は国歌と規定された。ならば、改正してその運用まで整備するのが、法というものだろう。
立法までのいきさつにいろいろあったわけで、当時はここまでの立法が精いっぱいであったと思われる。
しかし、時代は下り、中国・韓国などの動きも活発である。日本において、日教組など彼らの手招きをしている輩(やから)も、必ずや存在する。

こういう時代状況を考えるとき、愛国心の基底となるこの法律を、単に規定法に終わらせず、運用法にレベルアップしていくことが、今を生きる日本人の使命であり、ひいては将来の日本人子孫の思想的環境の安寧確保につながり、また一方で、先の大戦までに亡くなった英霊に対するけじめになると考える。

また、改正により、いちいち裁判沙汰にならずとも、また、条例レベルで騒がずとも、問題教員や問題職員は排除される。
条例の制定は、その方向性じたいは誤りでないが、条例とは、この東西南北に長く気候風土の異なる日本列島で、各地域の特殊性や個性に鑑みて考えられた代物だ。国家レベルの課題には、やはり国家が対応しなければならない。

これはいますぐには無理である。特に、日教組を母体とする現政権では無理であろうが、いつの日か必ず実現させたい。

二枚の国旗を切り裂いて貼り合わせ党旗を作るような政党には、さっさと退いてもらいたいものだ。
国旗は日本国民の象徴であるからには、それを破損するというのは、すでに反日なのである。国家に対する尊崇の念が欠如しているのだ。
また、国歌を起立斉唱しないというのは、児童を含む日本国民全体に対する背信なのである。

以上のような趣旨で、国旗国歌法の改正がなされるとしたら、実際にはかなり先のことになるだろう。

しかし、この改正が実現したとき、日本は、現在とは大きく変わっているはずだ。これは単なる法改正ではない。この法改正がありうるとき、すでに憲法も変わっているだろうくらいの変革が実行されたときだろう。
それくらい大変な改正なのである。

憲法の改正と前後して、国旗国歌法、自衛隊法、海上保安庁法、また、学校教育法などが改正されることを強く望む。

世の変革は、最後には、法改正という結果として明らかになり、また実効力をもつからだ。

それだけに、改正を叫び続ける意義は深いと思う。

ご挨拶

由比周也(ゆい しゅうや)申します。

よろしくお願いいたします。

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