2017年1月 8日 (日)

映画 『水の中のナイフ』

監督:ロマン・ポランスキー、脚本:イエジー・スコリモフスキ、ロマン・ポランスキー、撮影:イエジー・リップマン、音楽:クリシトフ・コメダ、1962年、94分、モノクロ、ポーランド語、原題:Nóż w wodzie

アンジェイ(レオン・ニェムチク)と妻クルィスティナ(ヨランタ・ウメツカ)は、湖でヨットを浮かべて休暇を過ごすため、車を走らせている。
しばらく行くと、青年(ジグムント・マラノウッツ)が前に立ちふさがり、注意したものの、車に乗せる。青年はヒッチハイクしていた。
湖に着くと、夫婦は自家用のヨットを出す準備をするが、アンジェイの招きで、青年はいっしょにヨットに乗り込む。……

ポーランド出身のロマン・ポランスキーによる、28歳にして初めての映画作品だ。

ポランスキーといえば、妻のシャロン・テート殺害事件で有名になったが、『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』『戦場のピアニスト』で知られる鬼才だ。

タイトルにあるように、ナイフは出てくるが、途中で海に落とされてしまう。それでも、そこまでにときどき出てくる青年の持ち物である一本のナイフは、道具としてのナイフを超え、象徴的な意味をもたされている。

映画全体の印象としては、若い監督の作品によくあるように、低予算でありダイナミックな展開があるわけではない。この作品も、画面上ではひたすら淡々と話が進むため、ダイナミックな展開を期待していると、裏切られるかもしれない。

やや倦怠期にあるような夫婦は、妻のほうが若く、豊満な肢体をもつ。夫の仕事などは一切語られないが、ある程度の社会的地位と財産があるようだ。
一方、ヒッチハイクの青年は、その名前も出てこず、アンジェイにガキなどとも呼ばれるが、そこまで子供ではなく、といって大人になりきっている年齢でもない。一度、19歳というセリフが聞かれる。

夫は、帰ろうとする青年を、無理やり誘い、自慢のヨットに乗せた。カネのない若造に、いいとこを見せてやろうというくらいの気持ちがあったからだろう。だから、ヨットの操舵に素人の青年に、ああしろこうしろと、船長よろしく命令する。

青年は、命令されるのを不愉快に思いながらも、それに従い、そのうちヨット乗りも楽しいと思うようになる。その間、妻の作る料理を楽しんだりし、妻はひとり泳いでワニの形をした浮き輪と戯れている。
ヨットが浅瀬に乗り上げて動かなくなったその日の晩も、船底のへやで、三人で子供じみたゲームなどをして楽しむ。

あすは5時に起きようと言って、目覚まし時計をセットしたものの、その前にすでに妻は起きて甲板でタバコを吸い、そこに青年も起きてくるが、あとから起きてきた夫に甲板掃除を命令され、掃除しているうちに、ちょっとした口論から、青年は水の中に落とされてしまう。

責任を感じて青年を探しに湖に飛び込んだ夫は帰らず、それをブイの陰で見ていた青年はヨットに泳ぎ着く。泳げないと言っていた青年は、泳げたのだった。妻はそれを知り、ヨットに上がってきた青年にビンタを加えるが、その直後、青年と妻は…。

この映画は、大人の男と青年との対比を描いているのだろう。そう見るならわかりやすい。
ヒッチハイクをしている青年がナイフを持っていてもおかしくない。実際、森のなかでは役に立つんだ、というセリフもある。


青年が大人に刃向かうとき、文字通り、このナイフを持つことでバランスがとれる。権力、財産、社会的地位、…そうしたものをもつ大人の男に対して、それらの何もない貧乏な青年は、ナイフをもつ。このことは象徴的だ。

アンジェイは、そうしたものをすでに手に入れている壮年の男だ。だから、ナイフのかわりに、高級車や自家用ヨットを持つ。
だが、船上という閉じられた空間で三人しかいないのでは、青年の所有するナイフは不気味であり、5時前に起きた時、夫は、テーブルにあった青年のナイフを、自分の着るガウンのポケットにしまって甲板に上がり、青年に掃除を命令する。
まさに、そのとき、青年がナイフを返してくれと言ったことから、揉み合いになるのだ。

妻は、熟年の夫であっても、その実、小心さや意気地のなさ、そのかわり、それを隠そうとして高慢にふるまうような態度に辟易している。
それは、ファーストシーンで、車を交互に運転する夫婦のツーショットからも、はっきりわかる。
夫と青年の間にあって、夫の身勝手さをなじりながら、青年にはその幼さを指摘する。ただ、夫がいなくなったところで、青年とは過ちを犯す。

音楽にはサスペンス調のジャズが使われるが、ヨットでの週末の休暇という図式でありながら、雰囲気として決して陽気なものではなく、どこか常に不安やサスペンス感を漂わせるこの作品に、よくマッチしている。

ある船乗りの話が、途切れ途切れに出てくる。酒瓶を割って床に飛び散った破片の上を、誤って踏んでしまったという。ところがその男の足は皮が厚かったので、足裏にはけがをしなかった。それどころか、これは実は俺の芸のひとつでわざとやったんだと言ったという。
このエピソード風の話は、夫の心理や性格と並行して時折出てくる。

この映画には無駄がない。映像もシャープであり、いろいろな苦労も想像できる。映像のあちこちに出てくる「尖った物」が、この映画をまさにシャープなものにしている。編集もうまいが、何より、フレームを切り取り方がいい。この映画も、どんな教科書より、カメラの勉強をするにはもってこいである。

後の、ポランスキー特有のサスペンスタッチではあるが人間ドラマである、という個性が、すでに萌芽として見られる作品だ。

2017年1月 7日 (土)

映画 『顔のない眼』

 監督:ジョルジュ・フランジュ、主演:ピエール・ブラッスール、アリダ・ヴァリ、エディット・スコブ、1959年、88分、フランス映画、モノクロ、原題:LES YEUX SANS VISAGE
 
医師ジェネシエ(ピエール・ブラッスール)は皮膚移植の権威であるが、交通事故で、顔の両目以外の部分を損傷した娘クリスチアヌ(エディット・スコブ)のために、同い年くらいの同じような容貌の娘を、助手のルイーズ(アリダ・ヴァリ)に誘拐させては、自宅に連れて来させ、地下にある手術室で、ルイーズとともに、クリスチアヌに移植手術を施す。
 
この2回目の手術でクリスチアヌは美しい素顔を見せるが、それも実は失敗したことがわかると、二人は第三の犠牲者を探すことにする。……
 
ホラー映画監督の黒沢清が賞賛するように、まさにフランスでヌーベル・ヴァーグがもてはやされていた同時期に、実はこんな作品がひっそりと生まれていたことは注目されてよい。このささやかな作品は、その後、サスペンスやホラーなどのジャンルに、大きな影響を与えたからだ。
 
白黒であるから、ライティングと影をうまく使うのは当然と言えるが、ストーリーの展開も一定の速度を保ち、省けるところは省くなど、シーンやセリフも最低限となっていて見やすくなっている。
 
顔の移植というと安倍公房の『他人の顔』を思い出すが、それと違い、この映画には、顔に関する自我との葛藤などという哲学的課題は出てこない。
もっぱら、失った娘の顔を取り戻そうとする父親の執着心と、それを受動的に受け入れながらも自家撞着に陥る娘本人の物語としてのみ描かれている。
 
手術台で眠らされている被害者の顔に、鉛筆で剥がす線を書き入れたり、メスで皮膚を切って鉗子で押さえ、その後それを剥がすシーンまで入るが、それほど生々しさが感じられず、手術シーンも二体目のこのシーンだけである。
 
クリスチアヌは登場しても、初めは後ろ姿だけしか映さない。ルイーズが持ってきた仮面をかぶると、ようやく顔が映される。まるで『犬神家の一族』の助清のようであるが、こちらは少女であり、仮面の姿そのものもかわいらしく美しくみえてしまう。
 
手術のあと素顔を表わすが、もともとそのような容姿の少女のせいか、仮面をつけていたときと全く同じ顔である。目の大きなかわいらしい顔つきではあるが、黙っているとそのかわいらしさは、どこかまた不気味である。
 
クリスチアヌが自宅の大きな屋敷の階段や地下の通路を歩くときなど、大きな空間や高い天井に対して、仮面をつけたクリスチアヌが、はかない存在に感じられ、痛々しくもあり不気味でもあり、あるいはまた、いとおしくもあり、これらクリスチアヌの無言のシーンは、サスペンス・ホラーというより、実に芸術性が高い。
 
ジェネシエが行なっていることは、所詮犯罪であり、結果的には帳尻を合わせて終わるが、クリスチアヌだけは生き残る。
 
クリスチアヌは手術するたびに失敗することで落胆していたが、やがては、よその娘を犠牲にしてまで手術を受けることじたいに嫌気がさし、最後は、父親の手先となっているルイーズを殺してしまう。
地下に飼っている何頭もの愛犬を檻から出すと、犬たちは、ちょうど帰宅した父ジェヌシエを襲って噛みつく。
クリスチアヌは、犬たちとともに飼われていた白い鳩も放す。父親が横たわるわきを、平然と真っ暗な木々のほうへ向かってさまよい歩く。周囲には鳥たちが飛び交っている。
このラストシーンは、物悲しいと同時に、映画ならではのメルヘンであり、サスペンス調の映画のラストシーンとしては異色である。こういうラストはあまり見たことがない。
 
当時『リラの門』などで有名なフランス映画界の重鎮ピエール・ブラッスールに加え、ルイーズ役のアリダ・ヴァリは『第三の男』で有名であり、『カサンドラ・クロス』にも老眼鏡をかけた老婦人の役で出ていた。
 
クリスチアヌ役のエディット・スコブという女優は初めて見たが、今なお現役のようである。とにかく彼女は愛らしくかわいい。美人系統ではないかもしれないが、目が大きく青く、全体にほっそりと小作りで、この女優なくしては、この映画は成立しなかっただろう。
 
実際、この子の顔をテーマとした映画だからである。この容姿の娘で、自分が皮膚移植の専門医なら、やってみたくなるという気がする。
 
顔の移植にまつわるサスペンス調の映画でありながら、常に三拍子のBGMも手伝ってか、観終わっても、どこかすがすがしささえ感じる異色作だ。
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2017年1月 4日 (水)

好きな映画一覧

<作品名>(平成29年1月4日更新)



『死刑台のエレベーター』『ディーバ』『カサブランカ』『望郷』『モロッコ』『街の灯』『メトロポリス』『M』『靴みがき』『自転車泥棒』『道』『鉄道員』『赤い風船/白い馬』『紅塵』『ローラ殺人事件』『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『汚れた顔の天使』『窓』『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『深夜の告白』『『呪いの血』『私は殺される』『拾った女』『荒馬と女』『十二人の怒れる男』『第三の男』『必死の逃亡者』『陽のあたる場所』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『去年マリエンバートで』『顔のない眼』『めまい』『サイコ』『北北西に進路をとれ』『鳥』『裸足の伯爵夫人』『穴』『非情の罠』『2001年 宇宙の旅』『マドモアゼル』『クリスマス・ツリー』『特攻大作戦』『水の中のナイフ』『帰らざる夜明け』『レマゲン鉄橋』『チャイコフスキー』『大地震』『カサンドラ・クロス』『ベニスに死す』『ラ・パロマ』『シャイニング』『ストリート・オブ・ファイヤー』『激突』『π』『普通の人々』『殺しのドレス』『レオン』『ミツバチのささやき』『マリリンとアインシュタイン』『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』『青いドレスの女』『ミスト』『天使』『ラルジャン』『遊星からの物体X』『トワイライトゾーン』『暴走機関車』『サン★ロレンツォの夜』『ボーイズ・ライフ』『評決』『キャビン・フィーバー』『刑事ジョン・ブック/目撃者』『ミザリー』『氷の微笑』『ステイ』『隠された記憶』『ファイナル・デスティネーション』『白いリボン』『倫敦から来た男』『テキサス・チェーンソー』『ゆりかごを揺らす手』『レミング』『不眠症 オリジナル版インソムニア』『ヒート』『THE WAVE  ウェイヴ』『エクスペンダブルズ1・2』『コロンビアーナ』『アンチクライスト』『メランコリア』『引き裂かれた女』『メカニック』『わたしを離さないで』『ドラゴン・タトゥーの女』『偽りなき者』『危険なプロット』『鑑定士と顔のない依頼人』『悪童日記』『トラ・トラ・トラ!』『安城家の舞踏会』『日本のいちばん長い日』『明治一代女』『どぶ』『にごりえ』『羅生門』『歌行燈』『祇園囃子』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『剣』『白い巨塔』『浮雲』『女が階段を上る時』『鍵』『悪名』『女系家族』『長崎ブルース』『約束』『鬼の棲む館』『飢餓海峡』『人間の條件』『戦争と人間』『少年時代』『仁義なき戦い』『華麗なる一族』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『砂の器』『新幹線大爆破』『県警対組織暴力』『人妻集団暴行致死事件』『泥の河』『AKIRA』『ツィゴイネルワイゼン』『家族ゲーム』『鬼龍院花子の生涯』『犬神家の一族』『マルサの女』『疑惑』『極道の妻たち』『TOMORROW  明日』『天城越え』『渚のシンドバッド』『顔』『CURE』『失楽園』『MEMORIES』『青の炎』『トウキョウソナタ』『カミュなんて知らない』『男たちの大和/YAMATO』『女はバス亭で服を着替えた』『明日の記憶』『象の背中』『ライフ』『宮城野』『白夜行』『冷たい熱帯魚』『一枚のハガキ』『11.25 自決の日』『パレード』『はやぶさ 遙かなる帰還』『桐島、部活やめるってよ』『渋谷』『SHORT PEACE ショート・ピース』『迷宮物語』『言の葉の庭』『共喰い』『そこのみにて光輝く』・・・など。




2016年12月14日 (水)

映画 『にごりえ』

 監督:今井正、原作:樋口一葉〔1872(明治5年)~1896年(明治29年)〕、脚本:水木洋子、井手俊郎、主演:第一話・丹阿弥谷津子、第二話・久我美子、第三話・淡島千景、1953年、130分、モノクロ、第一話・約31分、第二話・約36分、第三話・約63分。
 
樋口一葉は、五千円札に描かれた女流作家である。とはいえ、24歳で結核により他界している。
これは、明治期の小説家・樋口一葉の短編小説を三本合わせたオムニバス映画である。ほとんど、原作に忠実と言われている。
一葉の見た明治のこの時代における、若い女たちの悲しい物語である。
 
映像は、内容を自然にそのままを描いているものの、毅然とした姿勢で撮られており、定点長回し、モンタージュ手法、クローズアップ、スポットライトなど、映画の基本的技術だけでありながら、こうも神々しい絵ができあがるものかと驚嘆する。
 
それぞれの話に、それぞれに薄幸な娘が出てくる。
 
第一話。
身分の高い男のもとに嫁いだ女・せき(丹阿弥谷津子)が、夫に身分の低さをはじめ、いろいろと蔑みを受けるので、耐えきれなくなって実家に戻ってくる。最後は両親に説得されて戻るのであるが、夜道だからと人力車を拾うと、その男は幼なじみであった。車を止めて、他愛のない話をしたのち、男は車を引いて去り、女は歩いて別れる。
 
第二話。
料理屋に奉公している娘・みね(久我美子)は、伯父夫婦から、大晦日までに返さなければならない金があるから、何とかならないかと頼まれる。大晦日まで言い出せず、当日も忙しいあまりに女主人に言い出せないところへ、勘当同様の先妻の道楽息子が帰ってくる。金をせびりにきたのだったが、両親から大枚を無心すると、帰っていく。
たまたま、女主人がある業者から取り立てた金を、掛け硯(フォト)にしまったのはみねであり、こっそりそこから二円を盗ってしまった。
しかし、あとでその掛け硯の抽斗を開けると、一切の金がなくなっており、息子の文字で、ここにあるものももらっていく、という手紙が入れてあった。
みねが二円を失敬したことは、誰にも知られなかった。
 
第三話。
遊郭で働くお力(淡島千景)は、その店一番の美貌と客あしらいで知られていた。そこへある晩、きちんとした身なりの男が現れる。何度か男が足を運ぶうちに、お力はその男に思いを寄せるが、ある夜、身の上話をする。
女郎のお力にも、かつて好き合った男がいて、いまは別れていた。だが、男のほうは、ときどきお力に会いに、その店の前に現れるのであった。お力にはすでにうっとうしい存在であった。
その男は、妻子がありながら、甲斐性もなく、働きもせず、女房になじられる日々が続いていた。夫婦喧嘩の末、女房は小さな男の子を連れて、そこを出ていく。
 
三話のあらすじはこういったところである。
 
これら儚くも悲しい、若い娘たちの日常のありさまや苦労が、映像になることで、文字以上に見るだによくわかる。
三つの話の共通するのは、背景に身分の違いが鮮明に描かれているところだ。
 
明治という時代の底辺には、たくましくけなげに生きる貧しい女たちがたくさんいた。その一葉の日記風に綴られた小説は、みごとに映像に置き換えられている。
 
内容はそれとしても、映画としての品格を失わず、話にむだもなく、流れるようなカメラと演出である。いまだに、邦画の代表作に数えられるのも当然かと思う。
 
しかし、やはり、悲しい物語には違いない。
 
第三話で、お力の回想シーンがある。
貧乏な家の娘であるお力は、寒い晩に、お金をもらって、おかずを買いに行く。そのおかずといっても、おからである。
小さなカゴにおからを抱いて帰る途中、雪道で転んでしまう。少女は、雪と泥のなかに散らばったおからを、両手で掬ってカゴに戻す。
しかし、もうそれは食べられず、その場に立ちすくんで泣きじゃくる。そこへ、母親が迎えにくる。
 
この一連のシーンにセリフはない。転んでおからをカゴに戻す少女の姿と、その泣き顔のアップだけである。
このシーンは、全く何でもないように見えて、実に悲しいシーンだ。
 
これでもかこれでもかという不運の末に、なりたくもないのになってしまったのが女郎だった、というわけである。おまけに、最後は心中するのだ。
 
出演者でわかるとおり、その後有名になる俳優が、たくさん出ている。そういう俳優たちの若い頃を見られるのも楽しい。
 
YouTubeにも、全編アップされています(平成28年12月14日現在)。
Troubled Waters Imai Tadashi, 1953 https://youtu.be/BsSuuE-5SDY @YouTubeさんから
 

2016年12月12日 (月)

アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年12月12日)

<平成28年12月12日(月)現在>

前回→アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年8月5日) http://bit.ly/2aKlXh9 @syuya_yui

初めて見た順:

*全部見たもの

総合評価・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・小

*まだ続いているもの

総合評価・期待度・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・期待度・小

媒体は、見た順。
試しに見たが2~3話で挫折したものは載せていないので、ほとんどが高評価になっています。
特記ある場合以外は、アニメ=テレビアニメ。
ツイッターで知ったもの、mixi時代にマイミクさんに教えていただいたもので、見ていないものもたくさんあります。

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『AKIRA』     コミック・劇場アニメ   ★★★★★

『交響詩篇エウレカセブン』   アニメ  ☆★★★★

『ハイキュー!!』     コミック・TVアニメ  ★★★★★

『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談。』  コミック  ★★★★★

『迷宮物語』  アニメ  ☆★★★★

『弱虫ペダル』   アニメ  全シリーズ  ☆★★★★

『さよなら絶望先生』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『氷菓』       アニメ・コミック  ★★★★★

『言の葉の庭』  アニメ  ★★★★★

『東京喰種』    アニメ・コミック  第二期二話で挫折  ☆☆☆★★

『黒子のバスケ』  アニメ  ★★★★★

『ワールドトリガー』  コミック  7巻で挫折  ☆☆☆★★

『進撃の巨人』  アニメ  第5話で挫折  ☆☆☆★★

『バケモノの子』  アニメ  ☆☆★★★

『ばらかもん』  アニメ  ☆★★★★

『雲のむこう、約束の場所』  アニメ  ★★★★★

『残響のテロル』    アニメ  ☆★★★★

『坂道のアポロン』  アニメ  ★★★★★

『四月は君の嘘』  アニメ  ☆★★★★

『デュラララ!!』(起承転結)    アニメ  ☆★★★★

『ハリガネサービス』  コミック  ★★★★★

『亜人』   コミック  8巻で挫折  ☆☆☆★★

『屍鬼』  アニメ・コミック  ★★★★★

『カーニヴァル』  アニメ  3話で挫折  ☆☆☆★★

『鬼灯の冷徹』  アニメ  ☆☆★★★

『東のエデン』  アニメ  ☆☆★★★

『文豪ストレイドッグス』  アニメ  ☆☆☆★★

『ダイヤのA』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『おおきく振りかぶって』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『はじめの一歩』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  アニメ 全シリーズ  ☆★★★★

『心が叫びたがってるんだ。』  アニメ  ☆★★★★ 

『僕だけがいない街』  途中で挫折  ☆☆★★★

『ReLIFE』  アニメ 全シリーズ  ☆★★★★

『チア男子!!』  アニメ  途中で挫折  ☆☆★★★

『DAYS』  アニメ  途中で挫折  ☆☆★★★

『アルスラーン戦記』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『君の名は。』  アニメ   ☆★★★★

2016年12月 3日 (土)

去勢された日本的大義を取り戻すために (平成28年12月3日)

三島由紀夫によれば、戦後制定された現憲法には、日本人の魂が盛られていない、ということになる。そのとおりだ。

三島は、この憲法が、実は、日本人の魂に対しては大いなる制約をもち、人権尊重以上の理念を日本人にもたせないように縛り付けている、と鋭く指摘した。

この指摘はまさに卓見であり、憲法の三大原則を、子供のころから教えられ、また、教師になって何の疑問ももたず生徒に教えてきた身としては、大いに自己反省しなければならないと痛感した。

現憲法の大原則は、今でも変わらず、国民主権主義、基本的人権の尊重、平和主義の三つの柱である。

戦争を反省し、日本を平和国家にするという名目の陰で、米国は日本に憲法を制定させたが、それによりわれわれ日本人は、人権や自由であることを保障されたかに見える一方で、その実、古来より綿々とつづく日本人の魂なるものを去勢されてしまった。

現憲法下では、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないということに、日本人は非常に苦しんでいる、と三島は説いた。しかし、心ある日本人は、少なからず、戦後間もなくから、きっとどこかで、米軍に知られぬようにして、その魂を解き放そうと、試行錯誤を繰り返し、もがき続けてきたに違いない。

ヒューマニズムとは人道主義のことである。人道主義の根本には、人命尊重主義の考えがある。
人命はもちろん尊いものであり、二つとないものだ。不用意にそれが消えていく状況は、社会的にも許されない。

しかし、ヒューマニズムは万能ではない。一分(いちぶ)の例外もなく、ただ生命あるゆえ、これを尊重しなければならない、というのであれば、日本人の魂は、そこにおのずから、制約を感じることであろう。

ヒューマニズムの強制のもとでは、人を殺してはならぬ、自ら命を絶ってはならぬ、人のために生命を犠牲にしてはならぬ、…といった具合に、いかなるときにも、いかなる場合にも、いかなる職業の人々も、自他ともに、まずは人命を尊重しなければ「ならなくなった」のである。

災害や不慮の事故、強盗や通り魔事件において、人の命が奪われることは、いかなる主義主張・信条・信仰に身を置くとしても、望ましいことではないだろう。
こうした事件の被害を防ぐようにするのが人命尊重主義なのではない。それは、一行政の任務に過ぎない。

問題は行政のありかたといった表層のできごとではない。
日本人の魂という唯心論的なものである。
だから、これはまた、soul とか mind とか mentality などという西洋単語に置き換えられるような単純なものでもなく、ニュアンスも異なる。

人命尊重には一理あるものの、人命尊重主義というヒューマニズムが、「魂を持たぬ」日本人を増殖させ、日本人固有の精神の翼を捥(も)いできたことも事実であり、それが問題なのだ。
そして、「持たない」が、いつの間にか「持てない」に変化することが、恐ろしいのである。それはもはや、飼いならされた愛玩動物に等しい。

非常にごく最近ではあるが、「持てないことはないだろう」と、一部の日本人が目覚める方向になってきているのはうれしいことだ。

人命尊重主義が、社会の究極の摂理になってしまえば、外形的にも内面的にも、武士道は認められることはなくなる。むしろ、それは、異端であり狂気であるとレッテル貼りされる可能性もある。

絶対的人命尊重主義の考えは、極めて西欧的な「平和思想」に根ざしている。これは、宇宙倫理にかなうものでもあり、それだけに普遍性をもつ。その普遍性は、他方でまた、得てして侵略性を伴う。
平和は人倫にかなう、だから、それをあなたの土地にも広めたい…これが侵略の真実である。宗教や左翼に見られる折伏(しゃくぶく)も、これに似ている。

この「平和思想」は、武士道とは真っ向から対立する。武士道は、そもそも、常日頃におこなう「戦いの準備」だからだ。

武士道は死んだかに見えるが、脈々とつづく日本人の血というものは、そんな簡単に、「他人の血」に変わりうるだろうか。

血というものは、本来、排他性を帯び、同じ血同士で結びつくのではなかったか。
国際化というものにしても、良きことなり、という暗黙の絶対的性善説は危険である。「他人の血」との融合は、良きことばかりではない。

三島は、今でも一部の動画で見られるが、戦後民主主義体制において、大義という考え方は消えてしまったが、これは、民主主義が大義を必要としない国家形態であるから、無理もないことである、と言っている。

武士道の根幹には、大義がある。武士道における大義とは、誰かのために自己を犠牲にする、という考え方、あるいは、信念、あるいは、生き方そのものである。

天皇主権のもとでは、誰に向けても堂々としていられる大義があった。天皇の御稜威(みいつ)に従い、これがために身を捨てる、すなわち「海ゆかば」の世界観である。
民主主義は、三島のいうように、たしかに、天皇に対する意味をもって、大義を言うことには難がある。

しかし、本当に、民主主義体制において、大義はありえないろうか。両立しないだろうか。
大義というものの考え方も、武士道といっしょに、戦後の憲法下で、完全に、露のごとく消えてしまったのだろうか。

もし、現代の日本において、大義というものが失われてしまっているのであれば、むしろ、西欧的米国的民主主義を、一旦取り去ってみてはどうだろうか。
そうして、日本人が伝統的に培ってきた文化やその思想・教育観を盛り込んで、日本固有の「民族憲章」なるものを産み出すべきである。

こうした観点からしても、現憲法は、一度、廃棄せざるをえないと考える。

2016年11月30日 (水)

練習機での特攻 (平成28年11月30日)

海陸の特攻では、徐々にまともな戦闘機などもなくなり、セコハンものの航空機を総動員しても間に合わず、ついには練習機として使われていた機体までも使うようになった。
特に最終盤である沖縄特攻では、それが顕著である。練習機だけは、あちらこちらの基地にたくさん残っていたのである。...

練習機は通称「赤とんぼ」(※)と言われる複葉機であった。満洲事変から太平洋戦争に至る間で、複葉機で戦闘したのは、重慶におけるシナ空軍くらいであった。当時、最新鋭機として登場した零式艦上戦闘機が重慶爆撃にも使われた。
(※海軍九三式中間練習機。練習機の多くはオレンジ色で複葉なのでこう呼ばれた。特攻の際は、濃い色に塗り替えた。練習機といえども性能はよかった。)

零戦飛来の噂を聞きつけたシナ軍は、さらに奥地へと逃げ込み、業を煮やした零戦隊は、引き上げると見せかけてUターンし、猛スピードでシナ複葉機を追いかけた。大人と子供の喧嘩であった。まさしく鎧袖一触(がいしゅういっしょく)であった。
シナ軍の複葉機はそれなりの戦闘機であったが、沖縄特攻での複葉機は練習機だったのである。

航空機の練習機は二人乗りで、前席の操縦席に練習生が乗り、後部に教官が乗る。特攻のときは、教官はいらないわけだから、一人で乗った。

かつて「特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」の読者投稿欄に書いたことがある。秘密特攻基地といわれた万世などは、村人たちも手伝った急場しのぎのでこぼこ滑走路しかなく、そこから使い古した特攻機で沖縄に向けて飛び立った。せめて特攻くらい、整地された最良の滑走路から飛ばせてあげたかったなあ、と。

同協会の会報『特攻』より、「赤とんぼ特攻隊」の記事を転載します。
掲載は平成21年11月号、庭月野英樹という方からの投稿です。
文中の予備練(予備練習生)は、予科練(予科練習生)や飛行科予備学生ではありません。

<嗚呼壮絶「赤トンボ特攻隊」 14期海軍飛行科甲種予備練>

 先の大戦で愛機の胴体の下に爆弾を抱いて、飛行機ごと敵艦船に体当たりの「特攻攻撃」を敢行した戦闘機や攻撃機など、2400余機、3800余人の若人達が、肉親、同胞、祖国を護るために自らの命を捧げました。

 その中に、帆布張り、張り線付き(上翼と下翼の間に数本の張り線があった)、木製プロペラ、二枚羽根の「赤トンボ練習機」が、7機あったのです。終戦の17日前、昭和20年7月29、30日深夜に宮古島基地を飛び立ち、沖縄の敵駆逐艦に見事体当たりをして撃沈しました。

 現代の航空機に搭載されている方向指示器、レーダー、無線通信機、機銃も積んでいない練習機で、月夜とはいえ、目標の見えない太平洋を、250キロもの重い爆弾を積んで、深夜の海を飛んでいきました。

 選抜された優秀な若者達でした。終戦がもう少し早ければこの人達も生き残り、官庁や民間で立派な仕事をしたであろうことを思えば、本当に残念でなりません。戦争は、二度としてはなりません。

 一緒に征くはずだった私は、同期の玉井上飛曹、特乙一期の島内二飛曹と共に、6月20日に千葉県木更津の彩雲特攻隊に転勤、訓練を終えて、8月15日出撃予定でしたが、終戦により生き残りました。たまたま3人は長男でした。

 この特攻隊は、昭和20年5月に台湾の虎尾海軍航空基地で編成されました。それまで私達は、昭和19年4月から沖縄、石垣島で1年間、敵の潜水艦哨戒任務に就いていましたが、951航空隊石垣島派遣隊の二式哨戒機を連合軍の空襲で消失しました。そこで、予備練同期の三村、玉井、小生及び特乙一期の島内二飛曹と一緒に、この特攻隊に編入されました。

 先着組の零戦搭乗員による第一次8機、第二次7機は、いずれも天候その他で、途中の与那国島に不時着、大破して中止となりました。
 第三次は、私達3名が転勤してから7月27日に、三村上飛曹(水偵出身予備練)、庵一飛曹(丙飛6期)、甲飛12期の佐原、川平一飛曹、原一飛曹、近藤一飛曹、松田一飛曹により編成されたとのことです。

 米軍の記録によれば、駆逐艦キャラハンを撃沈、同じくブリシット、カッシングヤング、高速輸送艦ホーレス・A・バスに命中して、損傷を与えたことが報告されています。練習機7機で4隻の敵艦に損傷を与え、250キロ爆弾で1隻を撃沈したのですから、素晴らしい戦果でした。
 
このキャラハンは、特攻に撃沈された最後の米国艦艇だそうです。米軍側にも油断があったようですが、この帆布張り、低速の特攻機は、レーダーが捕捉できず、VT信管の対空砲火も効果がなかったとのことのようです。
このように、帆布張り、張り線付き二枚翼、木製プロペラ、拙劣な計器にも拘わらず、深夜の太平洋を、最後の最後まで、強固な意志で突撃した隊員達の勇気には、深甚の敬意を捧げたいと思います。

(私達予備練14期は、昭和19年4月15日、姫路海軍航空隊の九七艦攻操縦課程修業、即日充員召集、一飛曹に任命され、沖縄海軍航空隊付、19年8月現役編入、19年11月上飛曹、20年3月15日石垣島派遣隊、20年5月台湾虎尾基地龍虎特攻隊、同年6月10日723空彩雲特攻隊。)

2016年11月10日 (木)

映画 『THE WAVE ウェイヴ』

監督:デニス・ガンゼル、主演:ユルゲン・フォーゲル、2008年、108分、ドイツ映画、原題:Die Welle(英=The Wave

『エクスペリメント』などに似た、実験をテーマとした映画。それの高校生版とでもいえる。アメリカで実際に起きた事件をモデルとしドイツで作られた。

高校教師ライナー・ベンガー(ユルゲン・フォーゲル)は、校長から月曜から土曜の一週間の選択実習講義で、「独裁制」をテーマに指導するよう依頼される。

生徒たちにはディスコで踊り狂ったり、ドラッグを使っていたりするような連中もいた。テーマがテーマだけに、解説だけではわかりにくいと感じたライナーは、身をもって独裁をわからせるため、発言するときは立たせたり、自分に敬称をつけてベンガー様と呼ばせたりしながら、独裁の本質について授業を進めていく。


生徒たちは、次第に興味をもち始め、ライナーは三日目から、このクラスの統一感を出すために、全員が白いシャツを着てくることを指示する。

もともと生徒たちに人気のある教師であったため、日を追うごとに、生徒たちもベンガーの個性に憧れ、ベンガーに敬礼したり、みずから挨拶の手振りを考え出したり、クラスのロゴを考え出したりし、ついにクラスは‘Die Welle’(波)という名称までもつようになり、あたかもベンガーを独裁者とする集団が出来上がってしまう。

 

生徒の中には、さまざまな者がいるのも確かで、一日ごとの授業とは別に、それに多かれ少なかれ影響を受けながら、彼らの日常やクラスメートとの人間関係も、少しずつ変化していく。

マルコは水球部の中心メンバーであり、カロというガールフレンドもいるが、カロは白いシャツを着ていく日に赤い服を着ていき、まわりから疎遠にされ、途中からは、Die Welle に反対するポスターも作ることになる。

ティムは裕福な家庭の子であったが友達もなく、ヤクを仲間にあげて友達をなり、Die Welleにいることで、ようやく自分の存在意義を見出す。このティムが最も熱狂的に従順となり、ベンガーの警護まですると言い出す。

 

初めの三日ほどは、独裁指導がクラスの団結を増し、よいほうに作用している描写もあり、クラスメート同士の協力や真剣みを増すための特効薬のはたらきをしているのも事実だ。

だが、やがて、独裁的団結の下に、スタンドプレーに走る者や、マルコのように、彼女と独裁のはざまに揺れる者も出てくる。

スポーツに芝居に恋愛に、純情に生きる高校生たちが、いかに容易に、信頼する教師からの洗脳・指導にのりやすいか、また、のめりこみやすいかが、わかりやすく描かれていく。

実際、端緒はこうして、古今東西の独裁体制も築かれていったはずと考えると、テーマの選択として、なかなか類似の映画は現れないだろうし、ドイツ映画であることも興味深い。

何人かの生徒に絞って、ベンガーや仲間との関係を描写したのがよかったし、ベンガーと同じ学校で教師をする妻とのやりとりも活きている。

最後に洗脳指導は解かれるのだが、そのショッキングなラストへと向かって、映画全体が一定のテンポで進んでいく。このテンポがいい。

脚本が丁寧に書かれている。カメラは手持ちが多いが、そんなに疲れない。なぜだかシーンごとの映像にくふうがあり、また、実にきれいである。

2016年11月 7日 (月)

映画 『窓』

監督:テッド・テズラフ(Ted Tetzlaff)、原作:コーネル・ウールリッチ、脚本:メル・ディネリ、撮影:ウィリアム・スタイナー、主演:ボビー・ドリスコル、アーサー・ケネディ、バーバラ・ヘイル、1949年、73分、モノクロ、アメリカ映画、原題:The Window
 
テッド・テズラフは、ヒッチコックの『汚名』などの撮影をしていたが、後に監督になっている。DVDのパッケージにラズラフとあるのはテズラフの間違い。
メル・ディネリは、『らせん階段』(1946年)などの脚本で知られる。
 
販売元はブロードウェイ。埋もれたフィルム・ノワールを発掘し、販売までおこなってくれる会社が出てきたのは、まことにうれしい。
ジュネス企画では、古い白黒の名作を出してくれた。こういう会社は、大事にしなければならない。
それぞれに、そういう需要が大きいということだろう。
 
冒頭に、イソップ物語の「狼と少年」の言い伝えが出る。
少年はいつも、狼が来た、と嘘をついていたので、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなかった、という話だ。
 
トミー少年(ボビー・ドリスコル)は、仲間の子供たちに、出まかせの話をするうち、会話の行きがかり上、2~3日中に引っ越すと、嘘を言ってしまう。それを聞いた近所の人たちが、翌日、引っ越すならここに住みたい人がいるから部屋を見せてくれと訪れてきた。
トミーは両親(アーサー・ケネディ、バーバラ・ヘイル)に叱られる。
 
その晩は暑かったので、トミーは非常階段で寝ることにする。上の階の外に当たるところでうとうとして目が覚めると、わずかな隙間から、その家の中が見えてしまう。そこでトミーは信じられない光景を目の当たりにした。
そのへやの住人、ケラーソン夫妻が、ある男を殺してしまったのだ。
 
翌朝、トミーは両親に話すが、嘘ばかりつくと叱られ、へやを出るなと言われる。
本当のことを黙っていられなくなったトミーは、非常階段から通りに下り、警察に行くが、やはり相手にされない。……
 
このDVDは当たりだ。わずか73分で、大きなテーマがあるわけでもないが、サスペンス映画としては秀逸だ。子供を主役にしたサスペンスであるが、出来はよい。
この程度の素材でも、作る人が作れば、立派な作品になる。
日本のサスペンス映画も見習ってほしい。
 
父役・アーサー・ケネディにしても、母役・バーバラ・ヘイルにしても、トップスターではなくても、このころ準主役級で活躍していた俳優だ。アーサー・ケネディはこの後、『必死の逃亡者』『ミクロの決死圏』などに出演している。バーバラ・ヘイルはこの後、レイモンド・バーと共演で、TVシリーズ「弁護士ペリー・メイソン」にレギュラー出演し、日本でもなじみの顔となった。
 
場所の設定がよかった。
このころのニューヨークの下町によく見られる、一般庶民のアパートが舞台だ。向かい合うアパートにロープを渡して洗濯物を干し、窓の外に非常階段があるおんぼろのアパートが舞台だ。その建物も老朽化しており、トミーたちの遊ぶところは、その建物の内側の空洞のようなところである。この老朽化しているアパートという設定が、このストーリーにはありがたい舞台なのだ。
 
脚本もすぐれている。
トミーが殺しを見たことを、両親も警察も信用しない。しかし、母親に連れられてケラーソンのへやに行くことで、逆にケラーソン夫妻は、トミーに犯行を見られたと確信し、トミーを何とかしなければ、と思い立つ。
 
前半では、トミーの目撃談を誰ひとりとして信用しないという徹底ぶりがある。後半でも、ひとりでいるトミーはケラーソン夫妻に連れ出され追い詰められていくが、三人いっしょに乗り込んだタクシーの運転手も、後部座席で喚くトミーを見て寄ってきた警官も、誰も疑惑をもたない。このあたりも徹底している。
 
つまり、トミーの話が真実であるのを知っているのは、観ているわれわれだけなのだ。それだけに、トミーが追われて屋上に逃げてからのシーンは、緊迫感が増す。
 
殺人を目撃した話はジョージ・サンダース、バーバラ・スタンウィックの『殺人目撃者』があり、子供が目撃するものには、ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック/目撃者』がある。後者は人間讃歌の側面もあり、この映画はむしろ、時代的にも前者に近い。それも、子供を主演にしたフィルム・ノワールだ。
 
カメラは特別なこともなく普通だと思うが、白黒らしい光と影を活かした描写はあるし、トミーの顔を二回に分けてアップにするという撮り方もある。母親に連れられてケラーソンのへやに行ったとき、応対したケラーソンの妻が、坊や、何を見たって言うの?というシーンでは、この女優がカメラを見て話している。カメラ、つまり観客が、トミーの目になっているわけだ。
 
舞台は日常のなかにある場面で、上映時間も長くなく、ラスト近くまで、トミーには全く救いようのない展開で、サスペンスの基本を忠実に実現した、その意味で、背伸びをしない「誠実な」映画だ。
 
ファーストシーンで、街並が映り、トミーのアパートが映り、そのなかの一つの窓がアップされていく。次のシーンで、トミーが壁に隠れて、仲間と遊んでいるシーンとなる。
この、窓への近寄りは、ヒッチコックの『サイコ』(1960年)でマネされている。
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2016年10月30日 (日)

映画 『飢餓海峡』

監督:内田吐夢(うちだ・とむ)、原作:水上勉、脚色:鈴木尚之、撮影:仲沢半次郎、音楽:冨田勲、主演:三国連太郎、左幸子、伴順三郎、1965年(昭和40年)、183分、モノクロ、東映。

杉戸八重(左幸子)が東京に出て、女郎屋に身を落ち着かせるまでが前半、10年後、八重が舞鶴に犬飼太吉(三國連太郎)を突然訪ねるところからが後半で、映画の時間もほぼ二分される。

自分の一生の恩に、ただただお礼だけを言うために、健気に娼妓の仕事をこなしてきた女、過去を忘れ、新たな人間として生き、自分の故郷の貧しい村や刑余者のために、金銭を惜しみもなく寄付する男、…女は一度でいいから男に会って礼を言いたかった、男は過去に絡む女にはどうしても会いたくなかった、…やがて男はまた、殺人を犯してしまう。

いわゆる逃亡ものであるが、人間心理や人間の業にまで入り込んだ小説を、うまく映像化している。恐山の巫女の祈祷などいくつかのシーンで、ネガにして映す(ソラリゼーション)など、心理描写を演出するのにくふうしている。

全体的にも、16ミリで撮影されたモノクロフィルムを35ミリにブローアップさせる「W106方式」という撮影方式がとられており、古典的作品を映画化したときのようなしっとりした落ち着いた映像ではなく、ザラザラとした映像シーンが多くなっている。これは、時代の不安や人物の焦燥感を表わすのに功を奏している。

ふだんお笑い調の似合う俳優をシリアスに、あるいはシリアスな雰囲気で知られる俳優をお笑いの役に使うというのは、キャスティングとして効果的で、よく使われる手だ。

喜劇役の多い伴淳三郎を、執念の刑事役とし、風見章子をあまりものを言わない犬飼の妻にするなど、効果的である。後半、舞鶴の事件捜査では、まだ若い高倉健が刑事役として出てくる。

それぞれの現地での撮影を中心に、大掛かりなロケも敢行し、ロケ現場もカメラが広くパンし、薄幸な人間たちに対峙する環境や自然も、うまく取り入れている。
特に、東京で働く八重の店の近所で、かなり横に動くシーンがあるが、セットもよく作られている、当時の東京は、こんな風だったのだろう。

大まかなストーリーは上のとおりであるが、3時間の尺をもつのは、付随的なシーンまで、細やかにフィルムに収めており、作りも丁寧だからだ。
東映は一時、長すぎるとして、監督に無断で、短いヴァージョンを作ったが、監督の抗議により、元のままの長さに戻されたという逸話がある。

しかし、この映画全編を観て、くどいほどに観ている者にうったえかけてくるものは、背景に広がる戦後の日本と、そこで何とかしてたくましく生きて行こうとする、社会の底辺にうごめく人間たちの生きざまである。

八重は犬飼の置いていった金で、あこがれの東京に出てくるが、働く場所は、まだアメリカ人やヤクザが闊歩するドヤ街の一杯飲み屋であった。そこを出て、ある女郎屋に世話になるが、初めて訪れたその店で、そこに置いてもらうことになったとき、うれし泣きをする。

荷物を取りに帰り、あす朝にはこちらに来る、と言って去ろうとするときの、おかみのちょっとした言葉がきっかけである。「あ、ちょいと、電車賃あるのかい?」

どんなにあこがれて来た東京でも、結局は大湊でしていたことと同じようなことをしなければならないのに、ここに置いてもらうことができてうれしいんです、と言って泣きじゃくる。
貧乏のどん底で、厄介になる置屋がようやく見つかり、電車賃のことまで気遣ってくれる、・・・八重の気持ちは痛いほどわかる。このシーンは涙を誘う。

八重は、大湊の女郎屋で犬飼と時を過ごすなかで、犬飼の伸びた爪を切ってあげる。行方をくらました犬飼の思い出は、へやで偶然踏んだその親指の爪しかなかった。現金と同じように、その爪を懐紙にくるんで後生大事に持ち続けたのである。
女郎屋の自分のへやで、その金と爪を取り出し、犬飼さんと呼びながら、爪を自分の頬や首に当てて動き回る。この映画唯一の官能のシーンである。

犬飼も貧しい男だった。それでもとにかく生きて行かねばならなかった。後半は嘘つきで傲慢な紳士のように映るが、貧困のルーツは八重と同じである。その八重さえも殺してしまう犬飼は、本当の意味での畜生になってしまった。

犬飼と八重の出会いは、森林軌道の後ろにつながれた客車でであった。そこで八重は、昼飯のおにぎりを頬張るが、その一つを犬飼にやるのである。例のおにぎりのシーンである。八重がなぜそういう親切をしたかといえば、その直前、犬飼の近くにいる婆さんに、タバコをひと箱恵んでやったのを見ていたからである。その婆さんは初め、床に落ちている吸い殻に火をつけようとしていたからだ。タバコも貴重な品であった。
これがまさに、運命の出会いであった。

映画として渾身のできばえである。単に長い作品なのではなく、映画としての楽しさを見せながら、人間の心理の奥底、人間のけなげさ、善悪といったものにまで踏み込んで描き出した重厚な作品となっている。

そして、実に悲しい話でもある。

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