2016年8月22日 (月)

親米保守とは、一線を画す (平成28年8月22日)

 私は、さまざまな政策に関し、根底では、アメリカという国を信用していません。
というより、まず、感覚的に嫌いなのです。
 
これは、戦争の現場だからお互いさまですが、歴史の因果に一切触れずに言えば、事実として、若く優秀な親類が米軍の攻撃を受けて殺された、ということが原点にあります。
 
古い価値観を背負ったままでいると非難されそうですが、この事実を消すことはできません。簡単にいえば、ヤンキーゴーホームという心理が、いまだに心のどこかにあるのです。
ロシアを露助、中国をチャンコロと呼ぶように、私にとってアメリカは毛唐なのです。
 
かつて、小泉内閣当時の終戦の日に、アメリカ人が靖国神社の神門手前で、小泉総理賛成と書いた札と、アメリカ国旗を持って、参拝者の注目を浴びようと立っていました。そのこと自体が、場所柄や日柄をわきまえない、大変低能なことと思います。動画にもアップされていました。
 
一部の日本人の年寄りがこの男と握手などしていましたが、私にはとても不快な光景です。
ところがその直後、右翼の青年たちなどが来て、そのアメリカ人に文句を言い始めました。そこに「毛唐!」という言葉も聞かれ、すっきりした覚えがあります。
騒ぎを聞いて駆けつけた警察官により、この男は靖国通りの反対側に連れていかれました。
 
その混乱のなか、靖国神社の神官も寄ってきて、いいことを言いました。
「あなたは、もうお参りしたのですか?」
もみくちゃにされていたので、音声は聞き取れませんでしたが、おそらく参拝などしていなかったでしょう。
こういうお祭りバカには、靖国の参道にさえ、入ってきてほしくないものです。
 
日常的にアメリカの映画や製品を享受しているとはいえ、まず、感覚的に、国家としてこの国を「好き」にはなれません。
 
歴史的にも、結論は同じです。
 
アメリカは実に、利己的な勢力拡大政策だけをとってきました。
多かれ少なかれ、どの国も自国の利益を優先させるのは当然ではあっても、その勢力の拡大のためには、正義も法もなかった、というのが、アメリカの歴史です。
 
戦前戦後から、資源や物量と広い国土ゆえの大国だっただけです。それを基盤とし、自由を尊重する大国としてさまざまな発明・発見があり、能力的にも秀でた人材をもつ国家であるというのは認めます。
一方で、イギリスからの逃避と独立、その後のフロンティア精神という美名のもとでのインディアンなど先住民族の駆逐、フィリピン争奪のためのスペインとの戦争やハワイの占領などは、まさに現在、中国がチベットやモンゴルでおこなっていることと軌を一にすると思うのです。真珠湾攻撃のとき、ハワイはまだアメリカの州ではありませんでした。
 
帝国主義の時代のイギリスやオランダの動きを見て、遅れをとるなと思ったのは理解できます。人道主義の一面もあり、相手を尊重して議論することもできます。民主主義の成熟した国家をめざしてきたことも事実として認めましょう。
 
しかし、そのアメリカ自体にも問題は山積しており、国内の問題は、そう簡単に解決はしていません。
 
国際機関といわれる国際連合についても同様です。
 
第一次世界大戦後、世界の平和と進歩のために、まずは、日本も常任理事国として加盟した国際連盟ができましたが、アメリカは議会の承認を得られず、結局、不参加となりました。
第二次大戦後、国際連合なるものができ、日本も参加しましたが、国際連合とは名訳で、United Nations ですから、米英側連合国の結束を、そのまま世界平和を希求する国家間の結びつきに衣替えしただけです。
 
柔軟な思考をもつアメリカが、国連に関することにだけは、何の変革も求めず、アメリカに次いで拠出金の多い日本については、いまだに非常任理事国のままにして、中国に大きな顔をさせたまま、拱手傍観の体を崩していません。
ましてや、核を持ちながら、核縮小に向けての発言を繰り返すなど、矛盾しています。
 
国家間の協力と、国家間の独立とは、別です。
独立した国家が、相互に協力し合うなら、それは初めて国家間の協力となるでしょう。
 
ちょうど、保守回帰の機運が高まってきました。
憲法改正を初めとして、アメリカが講じた占領政策の「恩恵」からは、いい加減に足を洗わなければなりません。仮にアメリカが、恩を返せというなら、もう遠の昔に返し終わっていると思います。
 
憲法改正やアメリカからの乳離れと、日米安保や在日米軍基地とは矛盾しません。
独立国家が、防衛面で協力するのは、今後アジアにおいてもよく見られることになるでしょう。
 
しかし、ずっと遠い将来、アメリカの世話にならずとも、防衛面で、日本がひとり充実した国家となる方向を目指すべきです。
そこから、インド、ベトナム、フィリピンなどアジアの国々や、洋上の島国などとの、新たな協力関係や行き来が生まれてくるものと考えます。
 
いずれにしても、アメリカの国益を優先させるために日本が犠牲になる、という図式からは、少しずつ脱却していかねばなりません。

2016年8月16日 (火)

難関大の文系学部は、英語と現代文が、合否を左右する !!!

☆難関大の文系学部は、英語と現代文が、合否を左右する!!!

 


<入試一般について>

 

◆国立大学は、理系・文系にかかわらず、数学が相当できないと合格は難しい。

◆難関私大は、理系・文系にかかわらず、英語が相当できないと合格は難しい。

◆難関国立私立文系は、国語、特に現代文が相当できないと合格は難しい。

◆以上に言う「できる」とは、その科目の好き嫌いにかかわらず、「得点できる」という意味である。

◆難関大学制覇のための受験勉強は、緻密な作業と労働であり、持続的な職人芸に近い。つまり、ことの是非は別として、勉学に関し、緻密さと持続性が要求される。

 

 

<英語・国語の長文読解問題の特徴>

 

◆国立大学と私立大学とでは、問題文・作問の形式に、顕著な差異がある。

◆国立大学と私立大学とでは、問題文の内容とレベルに、顕著な差異はない。

◆問題と選択肢の文章は程度が高いが、それだけに悪質な問いはなく、良心的な問いが多い。

◆解答への要求水準は高いが、緻密に積み上げた経験的努力によって太刀打ちできないことはない。

◆選択肢の文が長い場合も多い。根気と処理能力が要求される。

 

 

<英語で高得点をとるための心がけ>

 

※これは受験直前までに実行しなければならないカリキュラムである。

◆5文型・関係代名詞・to不定詞に精通する。

◆文の要素として、名詞(単語・句・節)、形容詞(単語・句・節)、副詞(単語・句・節)とそのかかりぐあいに注目する。

◆文中にある単語のアクセントの位置、派生語は、その場で調べ、覚える。

◆単語・英文は音読する。

◆接頭語・接尾語を征服し、見知らぬ単語に出くわしたときの対策にする。

◆接続詞・前置詞は長文読解の助っ人となる。

◆どういう立場で書かれた文章か見抜くため、キーワード・キーセンテンスをチェックしつつ、大意をつかもうとしながら読む。文章のメリハリをつかむ。

◆英語の歌・音楽・雑誌に親しむ。英字新聞は不要。



<選択式問題の特徴>

 

入試問題の多くは、選択枝問題である。これは、中学入試・高校入試でも主流である。

大学入試では、選択肢の文そのものが長いが、センター入試については、全問正解したい。

 

記号式4択または5択が多い。記号選択式問いは、最後には二者択一となる。その二者が、どちらも正解のように見え、どちらも誤りのように見える。

 

問いになっている傍線部の前後をよく読み返す。

それでも判断できなければ、本文全体の趣旨に立ち返る。

選択肢文中の語や表現のなかに、手がかりとなるものを見つけ、やむを得なければ消去法でも一つに絞っていく。

 

消去していく選択肢の文章:

 ある用語が間違い。

 文のある一節が間違い。

 全体には筋が通っているが、本文からそこまで言えない。

 

 ②は見つけやすい。③に引っかからないようにするには、多くの問題に当たるしかない。

 

選択式問題は、あまり考えすぎると、設問に対し近視眼となり、かえって戸惑うことになる場合も多いので、明らかに誤っている選択肢以外の選択肢を、上記のとおりにやり直してみる。

 


<論理的文章に対する慣れ>

 

論理的文章であれ、小説・エッセイであれ、受験生にしてみれば、学校の授業や宿題・課題、予備校のテキストで訓練してきた以上の内容が出題される。

その点では受験生全体に平等であるが、やはり難題となる出題が多い。

受験対策というより、以下のような条件を満たす受験生には、やや有利かも知れない。

 

*論理的文章を読みなれており、各段落を一気に読み、論旨の展開を追うことができ、筆者の意図や立場を、読みながらにしてうすうす把握していくことができる。

*論理的文章であれ、小説であれ、文章というものにアレルギーがなく、また、偏見なく読むことができる。

*小説に関しては、時代にかかわらず、純文学も読んでいた。



<できる対策>

 

◇常日頃、活字に接し、文章や、文章による表現というものに、アレルギーをもたないようにしておく。

◇どうせ難しいに決まっている、だから自分には太刀打ちできないだろう、といった先入観やあきらめをもたない。

◇論理的文章では、論旨のメリハリをつかむ。

◇小説・エッセイでも、「論理的に読む」習慣をつける。

◇選択式問題では、ひとつの回答にいたるまでに勇気がいる。しかし、正解の選択肢には、それが正解であるという根拠(理由)がある。

 

 

<学習上の心構え>

 

☆どんな単語、問題文、長い文章が出てこようが、平然としていられる度胸をつける。

☆勉強にかかわる羞恥心を捨てる。

☆勉強と勉強の合間を、12時間以上空けない。

☆偏差値の近い者同士では、誠実に勉強している浪人生のほうが実力がある。

☆入試に不合格は付きものである。

だが、落ちるかもしれないという不安から逃げずに、これを受け留めて進む。

☆予備校や塾のために勉強するのではない。予備校や塾は、利用するのである。

☆受験は、親や教師や仲間との闘いではない。おのれとの闘いである。




 


2016年8月12日 (金)

そろそろ mixi 卒業かな・・・ (平成28年8月12日)

平成24年年2月13日(月)より mixi を始めたので、今日で丸三年半・・・

正確には、これが4回めの mixi スタートでしたが、いちばん長く続きました。

前回の mixi 同様、映画のレヴューから入りましたが、始めるときの覚悟として、思想的なことをできるだけ書きたい、というのがありました。

映画と思想の両輪でやってきて、一昨年からは、アニメの話も時折書いてきました。

いろいろな出会いがあり、去っていく人・ブロックした人などさまざまでした。

三人のマイミクとは、直接会うことができ、一人とは靖国参拝や山口二矢の墓参りもしました。初め会ったときは独身でしたが、その後結婚されました。

もうひとりの当時高校生とは、原宿で会ってラーメンを食べたりしました。その後大学生になり、彼なりの愛国活動を続けています。今でもFBでつながりがあります。

三人目の彼も、その後大学生になりましたが、靖国参拝を含め、いろいろな話をすることができました。サバゲーに誘われたこともありましたが、慣れないことをしないほうがいいと思い、断りました。こちらはツイッターもしています。

あと二人、語り合おうと言いつつ、実現しないままとなっています。
原則的に、SNSで出会った人とは、実際には会うつもりがないので、以上は極めて例外的な出来事だったと思います。

さまざまな情報をいただきながら、なかなかマイミクさんの日記などのすべてを読めず、そこだけが心残りです。

ツイッターも当初、みんながやってるからぼちぼちやってみようか、という感じでした。
その後、ある一件で、ツイッターの拡散力・威力を知り、あちらがメインになりました。

ある一件とは、・・・・・・

2012年暮れの衆院総選挙の直前、たまたま渋谷を歩いていると、ハチ公側の駅の案内板の裏に、安倍総裁を誹謗するポスターが貼られていたのを発見したので、それを写メして流しました。
選挙直前に、誰がこんなことをしたのか、という写メ付きのツイートは、瞬く間にRTされ、ちょっとした手がかりから、皆が協力して少なくともそれを描いた作成者を突きとめることができたのです。

ある人々は地元警察に連絡し、ある人々は自民党本部に伝えました。
警察や自民党への連絡は、たしかに電話番号もメールアドレスもあるのでいくらでも可能なのですが、正義のために、多くの人がごくふつうに、実際にそうした行動に出られる、ということに痛く感動しました。

三日後、そのポスターは撤去され、テープの跡もきれいになっていました。

調子に乗っていたせいか、しばき隊のチビが、私を凍結させようと、あちこちの仲間に触れ回ったり、2ch でいい加減なことを書き立てられたり、SEALDs の女子をバカにしたら、しばき隊の弁護士が、私を告訴すると言っている、という情報が回ってきたり、と、その拡散力も両刃の剣になるとを知りました。

しかし、結果的に、凍結もなく今日に至っています。
この一年に、二回ほどアカウントロックがかかりましたが、それなりの手順で解消しています。いずれも、アカウント乗っ取りを察知したツイッター側の処置でした。

mixi で知る情報、特にそのURLをツイートすると、やはり、ありがたい情報・時事的情報は、少なからず拡散されます。
あれこれと探し回らなくても、マイミクさんの上げる情報は、そのまま使え、たいへんありがたく思っています。

書きたいことのほとんどは、日記に書いてきました。
思想的な主張については、言い残したことがないと思います。そのため、日記の頻度も下がりました。日記のほとんどは、ココログブログに移してあります。

映画もアニメも際限がなく、政治的には、衆参二回の選挙で、政権側が圧勝しました。都知事選も、したたかで縦横に情報網の広い保守派の女性が選ばれました。

日本全体としては保守傾向が定着していくでしょう。
心配なことも多々ありますが、先々のことは、またそのとき、考えましょう。

今すぐに退会するつもりはありませんが、放置は好きでないので、年末までのある時点で、予告して退会することになると思います。

こんなひねくれ者につき合っていただき、今まで本当にありがとうございました。
謹んで御礼申し上げます。

2016年8月 6日 (土)

アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年8月5日)

<平成28年8月5日(金)現在>

*全部見たもの

総合評価・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・小

*まだ続いているもの

総合評価・期待度・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・期待度・小

媒体は、見た順。
試しに見たが2~3話で挫折したものは載せていないので、ほとんどが高評価になっています。
特記ある場合以外は、アニメ=テレビアニメ。
ツイッターで知ったもの・マイミクさんに教えていただいたもので、見ていないものもたくさんあります。

*****************************

『AKIRA』     コミック・劇場アニメ   ★★★★★

『交響詩篇エウレカセブン』   アニメ   ☆★★★★

『ハイキュー!!』     コミック・TVアニメ  ★★★★★

『弱虫ペダル』   アニメ  全シリーズ  ☆★★★★

『さよなら絶望先生』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『氷菓』       アニメ・コミック  ★★★★★

『東京喰種』    アニメ・コミック  第二期二話で挫折  ☆☆☆★★

『黒子のバスケ』  アニメ  ★★★★★

『ワールドトリガー』  コミック  7巻で挫折  ☆☆☆★★

『ばらかもん』 アニメ  ☆☆★★★

『残響のテロル』    アニメ  ☆★★★★

『坂道のアポロン』  アニメ  ☆★★★★

『四月は君の嘘』  アニメ  ☆★★★★

『デュラララ!!』(起承転結)    アニメ  ☆★★★★

『ハリガネサービス』  コミック  ★★★★★

『亜人』   コミック  新刊8巻で挫折の可能性  ☆☆☆★★

『屍鬼』  アニメ・コミック  ★★★★★

『カーニヴァル』  アニメ  3話で挫折  ☆☆☆★★

『鬼灯の冷徹』  アニメ  ☆☆★★★

『東のエデン』  アニメ  ☆☆★★★

『文豪ストレイドッグス』  アニメ  ☆☆☆★★

『ダイヤのA』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『おおきく振りかぶって』  全シリーズ  ★★★★★

『はじめの一歩』  全シリーズ  ★★★★★

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  ★★★★★

『心が叫びたがってるんだ。』  ☆★★★★ 

『僕だけがいない街』    ☆☆★★★

『ReLIFE』  ☆★★★★

『チア男子!!』  ☆★★★★

『DAYS』  ☆☆★★★

『アルスラーン戦記』  ★★★★★

2016年8月 4日 (木)

映画 『けものみち』

監督:須川栄三、原作:松本清張、脚本:白坂依志夫、須川栄三、撮影:福沢康道、編集:黒岩義民、音楽:武満徹、主演:池内淳子、池部良、小沢栄太郎、1965年(昭和40年)、150分、モノクロ。

成沢民子(なるさわ・たみこ、池内淳子)は、割烹旅館・芳仙閣で住み込みの女中をしていた。
夫は脳軟化症で寝込んだままであり、帰った民子に悪態をつき、しかも醜い情欲の権化となっていた。

ある日、かつて相伴した常連客・小滝(池部良)から誘われ、小滝が支配人として勤務するホテルに赴く。
そのバーに、小滝に遅れて、秦野(伊藤雄之助)という胡散臭い弁護士が到着する。

貧乏で先の見えない境遇から逃れようと、小滝の誘いに乗り、秦野の言われるままに、ある仕事を引き受ける。
それは、政財界のフィクサーと言われる鬼頭洪太(小沢栄太郎)の屋敷に入り、鬼頭の身の回りの世話をしつつ欲望の相手を務めることであった。・・・・・・

俳優陣も、当時活躍中のベテラン勢をそろえ、ストーリーに厚みを増している。
民子を追う刑事・久恒に小林桂樹、ほか、芳仙閣の先輩女中に千石規子、鬼頭邸で半ば民子の敵となる米子に大塚道子など。

小滝の言うまま、夫を焼き殺してしまってからの民子のメイクはやや濃くなり、眉のかたちも変えている。音楽は、当時注目されだした現代音楽の武満徹が担当しており、その音が演出にも効いている。

鬼頭らのセリフにはっきり出てくるが、自分のような政界の黒幕が全国のヤクザ連中をも束ねているのは、左翼が騒ぎ出したときに頼りになるのは連中なのだ、という。
しかし、国を憂える黒幕も、その死とともに、同じ側にいながらライバルである反対勢力に、とって変わられる。それもまた、非常な政治の現実なのだ。

この映画を第一作として、後にテレビで三回リメイクされている。
松本清張の小説は、それ自体に抑揚があり映像化してもほぼ成功する。この映画もまた、その一つだ。

欲に駆られて、「けものみち」に立ち入ってしまえば、そこから逃れるすべはなく、自分の意志で生きることさえできないのである。しかしその数奇な運命を、映画では堪能できる。
最後まで生きるのは、先を見て、したたかな選択を実行した者のみなのである。

2016年8月 2日 (火)

映画 『ぼくたちの家族』

監督・脚本:石井裕也、原作:早見和真、撮影:藤澤順一、編集:普嶋信一、音楽:渡邊崇、主演:妻夫木聡、池松壮亮、原田美枝子、長塚京三、2014年、117

 

決して派手な映画ではないが、誠実なつくりに好感をもてる映画だ。

これもまた、邦画のよき歴史を現在につなぐたぐいの映画であると思う。

 

若菜玲子(原田美枝子)は、最近ときどき、もの忘れをするようになっていた。

長男・浩介(妻夫木聡)の妻・深雪(黒川芽以)の懐妊を祝おうと集まった両家の食事会でも、深雪の名前を間違えたり、ずれたことを言い放つため、夫・克明(長塚京三)は、別に住んでいる長男・浩介(妻夫木聡)を呼び、玲子を病院に連れて行く。

 

検査の結果、脳に腫瘍があることがわかり、余命についての医師の話に、克明、浩介ともに混乱してしまう。

都内に住む大学生の次男・俊平(池松壮亮)を呼び、三人が玲子のために何ができるか話し合うことになる。・・・・・・

 

監督はまだ33歳の石田裕也、撮影監督は、私は高評価の『カミュなんて知らない』を撮っている、66歳のベテラン、藤澤順一である。

見ていて、すぐにカメラがいいなと思ったのだが、さもありなん、という感じだ。

 

監督が脚本を兼ねると、削りたいセリフを詰め込みすぎて、往々にして失敗するのだが、この映画では、それをよく承知のうえか、抑制が効いており、文字通り映像でそのセリフの部分を補うことに成功している。

内容からしても静かなトーンの映画だが、カメラの経験と力量が発揮されている。

 

出来事の中心は、母・玲子であるが、次第にそれは他の三人に移っていく。

かつては一時ひきこもり気味であった長男・浩介は、会社勤めをしながら実家の出来事に翻弄される。

さらにまた、そこに不幸がのしかかる。

玲子の入院費はバカにならない。

 

父・克明は小さな会社の経営者であるが、経営はうまくいっておらず、母・玲子がサラ金を利用して生活費に当てていることも、実は承知している。

次男・俊平からも、もはや自己破産しかないと言われるが、家のローンの保証人を浩介にしているため、踏み切れない。

 

数々のプレッシャーに押しつぶされそうな浩介が、母の不治の病を契機に、妻の懐胎という事実を添えて、何とか逆境に立ち向かっていこう、というのが、本筋となっている。

 

どちらかというとダメ親父の克明、奔放に生きる俊平が、それに巻き込まれるかたちで、家族「四人」が、生きる方向を模索していく物語である。

 

投げられたテーマは悲劇であるが、それでもカメラは落ち着いて静かに進んでいく。効果音や音楽も流れるが、映像やキャラクターの心理の動きの邪魔はしない。

 

冒頭からすぐわかったのだが、やはりカメラがいい。

ベテランであればあるほど、奇異な撮り方をしなくても、充実したシークエンスを生むことができる。次はこういうアングルでくるかな、と思うと、果たしてそのとおりの撮り方をしている。

 

話が話なだけに、撮る場所は限られてくる。自宅、病院、病室が中心であるが、そこを飽きさせないよう、アングルを変え、アプローチを変えて撮っている。

自宅はセットではなく、本物の空き家を使ったという。窓から入る光がまぶしい、室内が暗い、といったところも、かえってこの家族の日常に触れる感じになっている。

 

静かな進行であるにもかかわらず、この映画にメリハリを生んでいるのは、室内以外では、かなり効果的に室外を収めているからだ。

病院への坂道、最寄の駅前、浩介と俊平が駆け上る急な階段など、いくつかの外での食事シーン、移動の電車内などとともに、うまくストーリーにはめこまれている。

 

といって、カメラの王道にのっとったやりかただけでもない。

冒頭は、玲子の画面いっぱいのクローズアップから始まる。これは衝撃的な「入り」である。

そして、終わり方もまたいい。

 

監督は、自ら、演技のしっかりした俳優を選んだという。

ベテラン、長塚京三、原田美枝子は、うまく役回りを演じている。

 

妻夫木聡も、最も難しい演技を必要とする役を、背伸びすることなく好演している。この家族の一員、長男の責任、夫としての立場と母の病気への対応など、シーンごとに見せる表情は、妻夫木の演技の幅を広げていくだろう。

 

池松壮亮はこの映画でも、いくつかの賞を得ている。

数々の作品で演技が光っているが、この映画でも、役柄をよく理解し、うまく演じている。やあhり、全身のすべてで演技できる俳優というのは伸びる。本人もそれを自覚して、日々精進しているはずだ。目がいい。いろいろに変化する。

 

カメラのよい映画というのは、それだけで好感をもてる。

いちいち書かないが、その実力はさまざまなシーンに現われている。カメラの動きに注目できる映画であって、映画を勉強している人間は、こういう映画を見たらいいだろう。

 

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2016年7月31日 (日)

映画 『残穢(ざんえ)-住んではいけない部屋-』

監督:中村義洋、原作:小野不由美、脚本:鈴木謙一、撮影:沖村志宏、編集:森下博、主演:竹内結子、橋本愛、2016年、107分、松竹

原作は、『屍鬼』を書いた小野不由美、監督は、『予告犯』などの中村義洋、脚本は中村の大学の後輩に当たる鈴木謙一。

「私」〈小松由美子、竹内結子〉は小説家であり、最近、読者からの投書を元にして、サスペンスものを雑誌に連載している。

あるとき、久保さん〈久保亜紗美、橋本愛〉という女子大生からの投書を見て興味をもつ。久保は、新しい賃貸マンションに越してきたが、夜間、勉強中に、隣の寝室から、妙な音を聞こえる、という。それは、あたかも、女性の帯が畳にこすれるような音であると言う。・・・・・・

歴史的背景をたくみに絡ませたホラーものとでも言うのだろうか。血や死体を見るわけではないだけに、純粋に和風の恐怖映画となっている。

たぶんこれも、原作のほうが、つまり、文字の積みかさねのほうが、恐怖を惹起しているのではないかと想像する。あるいは、ストーリーとして、まっすぐに進行しているのだと思う。
ここでも、原作本の脚本化が難しいことを思い知らされる。

怪しげな物音は久保のへやだけではなく、やがて「私」と久保の関心は、マンションのある土地自体に向けられ、その土地に代々住んだ人間の人となりについての情報を集めまわるうち、福岡での炭鉱事故へと歴史を遡る。

びっくりどっきりさせる怖いシーンや不気味なシーンは、それはそれとして映画でなければ表せないものであるにしても、歴史を遡りつつ明らかになる土台部分のストーリー展開が、冒頭以来の小説家と学生の日常という「高さ」と変わらず、均等な幅と奥行きといった重みで語られていくため、途中から飽きがくる。

人物がたくさん出てくるのであるが、それらのしたことも、ほとんど「私」という一人称の語りになり、映画それ自体に立体性がなくおもしろくない。

見方を変えれば、オーソドックスな路線を踏襲した「優等生的展開」に終始するので、映画として落ち着いて観られると言える。

もうひとつ言えることは、カメラが全然外に出ていない。これがこの映画をつまらなくしている主因だ。
久保のマンションは外観を何度も撮られるのに、それ以外のシーンは、ほとんどスタジオ撮影である。

「私」や久保が最後に訪れる「現場」は、圧巻となるシーンのはずだ。そこの描写も貧弱だ。
「現場」を訪れるというセリフがある、タクシーで乗り付ける、福岡某所とテロップが出る、・・・それだけで、この一連の出来事のルーツに当たる部分を描写する「入り」にするには無理がある。
ここは、この映画のクライマックスに当たるのだ。映画として盛り上がっていかないのだ。

竹内結子のいかにも現代の小説家らしい演技はよかった。
住職役で上田耕一が出てくる。この悪役専門で馴染み深い俳優が坊さんの役というのはおもしろい。とても坊主に見えない。

この住職はこの話のキーパーソンでもあり、エンディングで、問題の「絵」とともに映っている。いわくありげな住職として、悪役・上田耕一は適役であった。

この映画は、英文法の点はとれても、英語が話せない優等生を思い出させる。

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2016年7月29日 (金)

新たなサヨクの指南役・岡原正幸 (平成28年7月29日)

近眼且つ学の素養のない有田芳生のアホがミスタッチしていたが、岡原正幸・慶大教授が言っているのは、「ヘイトクライム」についてである。

フォトは28日付・東京新聞に載った岡原の原稿だ。ヨシフは、ここからの一部を、自分のツイートに引用した。前後を読めば、ヨシフのツイートは、自分にとって都合のいい「いいとこ取り」だということがわかる。

岡原は、27日付フェイスブックで、こう書いている。
(岡原正幸 https://www.facebook.com/masayuki.okahara

   ▼
今朝の報道、ワイドショーでも、一部「ヘイトクライム」との指摘はあったが、依然として、狂った個人の物語に収斂させようとしている。

しかし、これは思想による犯罪なのだ。優生思想が思想と言われる所以は、それが個人的なものではなく、ある意味で公的社会的だということだ。優生思想はいまも色々な形で生きている。出生前検診の結果で、障害ある胎児にいかなる態度がとられているか。母体保護法での経済事由はいかに運用されるか。植物状態への議論など、優生思想のある部分は今も形を変えこの間、生きられている。

この国では思想を刑事犯罪には問わない。しかし、それを間違っている、この国の方向は違うとは、言えるのだ。首相個人の見解でもいい。表現の自由の圧殺ではない。

この間、生活保護受給者への締め付け、生かされているだけの末期患者に対してこれでいいのか、という指摘、などなど、実は、公的に庇護すべき弱き存在への風当たりを強くしたのは、どの政府だ。
容疑者が自分を認めてくれるかもしれないと陳情書を書きその宛先にしたのは、なぜ大島議長で安倍首相なのか。
彼は狂った個人ではない、大義を果たし、国士として、連行される車内で振舞っているじゃないか。

国のリーダーにはすべきことがある。
またワイドショーでも、彼のこの思想を、狂っているのではなく、間違った思想として取り上げてほしい。このままでは彼の思想が全国にばら撒かれるだけになるかもしれないじゃないか。
   ▲

東京新聞の肩書きでは、かれの専門は「障害学」とある。なんだ?それは?

どちらにせよ、岡原の専門の中心は、常に、社会的弱者であり、それも特に、障害者の目線で社会を捉えることにある。
障害者が登場する事案については、それが加害の立場であろうと被害の立場であろうと、目が輝くのだ。

今回の事件に関し岡原が言いたいのは、

キチガイが行った凶行だ、として簡単に片づけるな!
こういう人間をこしらえたのはほかならぬ国家そのものである!
国家はそれなりの対応を示せて初めて、国家たりえる!

ということだ。

典型的なサヨク思考である。

院生時代、机を並べた関係で、岡原正幸の人となりは、よく知っているつもりだが、今後メディアへの露出が多くなればなるほど、その発言はサヨクに与(くみ)するものとなろう。これは、マルクス主義者でありフェミニストとしてサヨクを指南してきた上野千鶴子以上の影響をもつだろう。

といって、おそらく、簡単に・頻繁に、メディアに現れるヤツではない。
「仕込み」がうまいので、その点かえって、要注意なのである。

<参考>

A君は、なぜサヨク教授になったか (2016年3月29日) http://bit.ly/1qdSoLV @syuya_yui

A君とは、岡原正幸である。

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2016年7月17日 (日)

映画 『ラルジャン』

監督・脚本:ロベール・ブレッソン、原作:トルストイ、主演:クリスティアン・パテイ、1983年、84分、フランス・スイス合作、フランス映画、カラー、原題:L'Argent

アルジャンとはお金のこと。英語なら、The Money だ。ブレッソンの遺作である。

少年二人が写真店で偽札を使う。だまされたと知った店の夫婦は、給油しにきた燃料店の従業員イヴォン(クリスティアン・パテイ)に、その偽札を混ぜて支払いをする。イヴォンは食事の代金に、偽札と知らずそれを使い、店員に断わられるので、店員を突き飛ばしてしまう。
イヴォンは警官といっしょに写真店に来て、事情を話してくれるよう店の人間に頼むが、イヴォンとは会ったこともないというばかりである。イヴォンは帰って妻に話すが、会社はクビになる。……

偽札が事件として犯罪映画のような通常の展開にならず、最初の一件を契機にイヴォンの日常が、不条理にも、悲劇的に変わっていくようすを淡々と描いている。
音楽が一切なく、後半に出てくる老人が弾くバッハのピアノだけだ。金にかかわるさまざまな人間の選択が出てくる。

イヴォンは店をクビになり、知り合いのツテでドライバー役として強盗の片棒を担ぐが、未遂に終わり、逮捕され服役する。その間に小さな我が子は病死し、妻も離れていく。独房に入ると、与えられた睡眠薬をためておいて、一気に飲み、自殺を図るが、直ってまた刑務所に戻る。3年の刑期を終えて出てくると、すぐに小さなホテルの経営者夫婦を殺し、やがて通りがかった夫人のあとを追ううち、その家に住みつく。白髪の混じるその夫人には、すぐ手の出る義父や車いすの息子がおり、つましい生活を強いられている。その家族をも全員殺してしまい、酒場で警官に、殺しを自白し連行されるところで終わる。ストーリーは単純ではあるが、観客がわかるだろうところは、大胆に省略して進んでいく。

この映画は、飛躍するストーリーと音を楽しむ映画なのだ。お札を調べるときの紙の音、手紙の封を切る音、扉の開閉の音、靴の音、杓子の落ちる音、グラスの落ちた音、小川のせせらぎの音、木の実を取る音、バイクの音、そして頻繁に出てくる車の走る音。
突き倒すシーン、殺すシーン、はたくシーンなどを直接映さず、その前後の映像のみでわからせる。

映像は、ほとんどが固定カメラで、観ていて疲れないが、レンズも同じままで、固定のままでも近づいたり遠ざかったりしない。対象と常に一定の距離をもち、カメラの動きは、抑制されたままである。
ストーリー同様、カメラも、説明ということをしない。シーンからシーンへと飛んだところを補うように観ろということなのだろう。

この映画では、登場人物やその背景、日常、出会い、意図、そして感情は、極端と言っていいほど、そぎ落とされている。さらに、カメラは、実行行為は映さず、他のところを撮っている。脚本は、わかる範囲で、省略され飛躍する。音楽もない。俳優もみな、本来の役者ではない。仕事としての演技というニオイを嫌っている。

こうして、通常の映画ならありえないことをすべて実行している。それにはこの長さが限界であったかもしれない。短い映画ではあっても、しかしそこに強い印象を残す映画だ。

映画 『第三の男』

監督:キャロル・リード、原作・脚本:グレアム・グリーン、撮影:ロバート・クラスカー、音楽 アントン・カラス、主演:ジョセフ・コットン、アリダ・ヴァリ、オーソン・ウェルズ、トレヴァー・ハワード、1949年、104分、白黒、原題:The Third Man

戦後まもないウィーンに、アメリカからホリー・マーティンス(ジョセフ・コットン)がやってくる。ホリーは売れない作家であり、それを知る長年の友人ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が仕事があると呼び寄せたのであった。
しかしウィーンに着き、ハリーの住むアパートに出向くと、そこの大家の男が、たった今10分ほど前に、ハリーはトラックに轢かれて死んだ、と言う。

墓地に行くと、そこに一人の女アンナ・シュミット(アリダ・ヴァリ)がいた。送ってくれた少佐でもある刑事のキャロウェイ(トレヴァー・ハワード)から、ハリーは実は、重大な犯罪の元締めをしており、事故死しても自業自得だと言われるが、それを信じることができないホリーは、舞台女優をしているアンナの楽屋に彼女を訪ねる。

二人で事故の真相を求めるうち、現場には、ハリーの遺体を運んだ二人以外にもう一人の男、つまり第三の男がいたことが大家の口からわかるが、再度その大家に確認しに行くと、すでに彼は殺されていた。……

いままで何回観てきただろう。サスペンスの危険な香り、先へ引っ張るストーリー展開、白黒を活かした光と影のライティング、多様なカメラアングル、チターの音色、戦争の跡の生々しい街並、心憎いばかりのラストシーン、と、ほとんど映画芸術の粋を凝縮した完璧な作品だ。高校の映画研究部で、毎年最初に観せる映画はこれであった。

実は、この映画についてレビューするのは、これは初めてなのだ。レビューとは多かれ少なかれ、批判的要素が入る。批判できる要素のある映画は、レビューが書きやすい。この映画については、最高、という以外に言葉がないのだ。

もうひとつには、映画としてすばらしい作品を、そもそもコトバで評するということは不可能に近いということだ。いいから観ろよ、と言っておしまいなのだ。それ以外に言うことはないからである。映像は言語に翻訳できない。

悪いヤツでありながら、その男を心から愛したアンナの女心と、犯罪を犯した男を罰する社会正義とのせめぎ合いは、多くの映画に見られる。この映画も、ある意味、アンナが主役である。そのいかにも小説の専売特許とも言える一つのパターンは、『カサブランカ』同様、戦争の影を落とした時代と、そこに湧いてはびこる悪を選ぶことで、物語としてまねのできない個性をもち、それをさらに映像にするという作業で、二度とありえない作品になったと言える。それゆえ、リメイクもできない。

ちょっとしたところに、演出の妙が冴える。帽子の少年が叫ぶ、ネコがハリーの靴にじゃれる、ホリーの駆け引きを知ったアンナが駅のカフェを去るとき、肩にかけたホリーのコートが床に落ち扉が開閉している、張り込みを続けるキャロウェイらの前にハリーが現れたかと思えば、風船売りの酔っ払った年寄りであった、など数えきれない。

最後にハリーの逃げ込むのは、地下の下水道だ。地上と同じような幅をもち、迷路のようになった下水道で、捕り物が行われる。ここも圧倒的に光と影の演出が効く。

追い詰められたハリーは、片足を撃たれながら何とか地上に出ようとするが、固くしまった格子状の蓋はなかなか開かない。地上には、グレーチングから出たハリーの指だけが、風の音のなか、空に向かってもがいている。そこにホリーが拳銃を持って近づく。二人の間に目と目のやりとりがある。ハリーは親友だったホリーに殺される。ここをツーショットにしなかったのはプロの選択だった。

全体に、カメラのポジショニングがいい。フルショットからバストショット、アップとうまく使い分ける。また、冒頭から頻繁に使われるのが、斜め撮りだ。通常は傾ける必要のないところまで、大胆に斜め撮りにし、不安感、不安定感を演出している。下から見上げ、上から見下ろすさまざまなバリエーションもみごとだ。

ホリーが初めてハリーを見かけるシーンは圧巻だ。漆黒の闇に、一瞬、向かいの家の光が当たる。主役のこうして初登場する。まことに心憎い演出だ。
ホリーが二度目にハリーに出会うのは観覧車だ。この観覧車の箱のなかで、二人は意味深長な会話をする。ハリーの本性が観客に知れるのもこのシーンだ。観覧車を背景に立つホリーのもとへ、ハリーが遠くから現れる。この登場のしかたもまたいい。

あまりにも有名なラストシーンは、この映画唯一の長回しである。アンナをほとんど点にしか見えない遠景から、ずっと中央を歩いて来させて、カメラの脇をすり抜けさせる。会話しそうかという観客の予想を裏切って、アンナはホリーに目をやることなく、脇を通り過ぎる。

サスペンスという単純なくくりかたでは収まらぬ作品で、しゃれた雰囲気と映像のセンスが輝く逸品と言える。

生まれてきて、この人に出会えてよかった…人には誰しもそういう人物が一人はいるだろう。
この映画は、私にとってそんな作品だ。

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