2017年4月26日 (水)

映画 『ナポラ』

監督・脚本: デニス・ガンゼル、撮影:トルステン・ブロイアー、音楽:アンジェロ・バダラメンティ・ノーマンド・コーベイル、主演: マックス・リーメルト、トム・シリング、ユストゥス・フォン・ドナーニー、2004年、117分、ドイツ映画、原題:NAPOLA/BEFORE THE FALL

ドイツ版の原題は、『Napola - Elite für den Führer』(ナポラ - 総統のためのエリート)となっている。

労働者階級の少年であるフリードリッヒ(マックス・リーメルト)が、ボクシングの腕前を認められ、ナチスのエリート養成機関である民族共同体教育施設(ナポラ、Nationalpolitische Lehranstalt)に入校し、その後さまざまな試練を経験し、結局はそこでの教育に付いていけず、退学処分となるまでを描いている。

フリードリッヒの親友となり、彼の退学に至る契機をつくる人物がアルブレヒト(トム・シリング)である。アルブレヒト自身は、党内で実力をもつ父親のハインリッヒ(ユストゥス・フォン・ドナーニー)のコネで入学しているが、親の方針に反発し、自害を遂げている。

そのアルブレヒトの父は、字幕では知事と出るが、日本の知事とは全く異なり、ナチス党の行政区分である大管区(ガウ、Gau)の地区指導者(大管区指導者、Gauleiter)である。ナポラはナチス親衛隊の下部組織であり、生徒や教職員は、親衛隊と同じ色や柄の制服を身に着け、階級も親衛隊組織を倣ったものとされる。

監督のデニス・ガンゼルは、高校での独裁政治についての授業を扱った『Die Welle』(波、2008年)でも有名だ。デニス・ガンゼルは、祖父がナポラの教員であり、ナチスについて詳しいようだが、どちらの作品とも、ナチスの価値観に対しては否定的に描かれている。

ナチスのエリート養成学校であるからには、心身の鍛錬はもちろん、生活の仕方なども軍人同様細やかな規則や慣習があり、それを逸脱し或いはそれに反発する者は、一定の制裁を受け、また、平然と落ちこぼれていく。そうした、一部非人道的な扱いをされることを含め、せっかく難関を突破し貧しい生活と縁を切ることができたフリードリッヒは、我慢強く過酷な試練に耐え、仲間をつくり、やがて、有力者の息子アルブレヒトとも親しくなる。

アルブレヒトはフリードリッヒと違い、親の決めたとおり、本人の意図と無関係に入校させられ、初めから決められたレールの上を歩んでいくのであるが、本人の性格も相俟って、ナポラのやりかたに不満をもち、やがて自分の生きる場を見失ってしまう。自我を捨て、弱者を見下し、うまくいった者だけが生きる価値を認められる世界には、とても付いていけなかったのである。

そのアルブレヒトの死は、一大決心をし、親の反対を押し切ってまで入校したフリードリッヒの気持ちをさえ、折ってしまうのである。

これらの展開が、一定のテンポで進んでいく。ナポラという場所での生徒の訓練や生活の実態が、リアルに再現されていくようすは興味深い。ただ、フリードリッヒという少年の心の変容を描くべく、単線的な展開に終始しているので、映画としてのエンタメ性は置き去られたような感を否めない。

巨大な城や雪原、森林など、大がかりなロケや、シーンにふさわしいOST、カメラワークやさまざまな演出も、映画の単線ぶりを補うことはできなかった。

この映画のあとにできた『Die Welle』は、学校のひとクラスとその教師という全体が主役となっているので、話が、教師の家庭や、生徒それぞれの関係などにも及び、重複的な展開を見せているが、こちらは、フリードリッヒという少年の生きざまを中心に描かれていくため、映画上での遊びがない。

フリードリッヒとアルブレヒトの二人を、ほぼ同格に描き、それに対する強固な壁としての制度を対立させる、といった構図のほうがよかっただろう。

フリードリッヒの内面の変容についても、映画自体は静かに淡々と日々のようすが描かれていくようすは好感をもてるので、それに対比させるかたちで、彼の葛藤を描き出してもよかった。それは描かれていないことはないが、客観的な事実があってそれに対する彼の反応としてしか描写されていないので物足りない。

日本でいうエリートとは明らかに異なり、歴史上のある時点での、ナチスという政党の機関であり、同じエリートと言っても、あくまでも「総統のためのエリート」であったのだが、それでもなお、能力面での競争などやその結果としての優劣の発生、優れた者のとる態度、劣等の者が陥る心理などを、輻輳的に描写してほしかった。

そこまで描いたとしても、2時間の枠を超えず、フリードリッヒの内面描写も表現できたはずだ。

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Napola

 

2017年4月20日 (木)

映画 『イレブン・ミニッツ』

監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ、製作:エバ・ピャスコフスカ、イエジー・スコリモフスキ、音楽:パヴェウ・ミキェティン、出演:リチャード・ドーマー、ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、パウリナ・ハプコ、2015年、81分、ポーランド・アイルランド合作、原題:11 MINUT/11 MINUTES(11分)


イエジー・スコリモフスキは、23歳のとき、28歳のロマン・ポランスキーに請われ、二人で同監督処女作となる『水の中のナイフ』(1962年)の脚本を書き、ヴェネツィア国際映画祭・国際映画批評家連盟賞を受賞している。同作品は、第36回アカデミー賞外国語映画賞にポーランド代表作品として史上初めて出品され、ノミネートされるに至った。
言われてみれば、この映画も、『水の中のナイフ』を彷彿とさせる。

左目に痣をつくった男の新妻は女優であり、映画監督らしい男のいる高層ホテルの一室を訪れる。男の痣は、どうもこの映画監督の男に殴られてできたようで、その仕返しと妻の浮気が心配で、このホテルに向かい、多少狼狽し躊躇しながらも、消火器でドアを叩き壊し、ようやく室内に入ることができたのだが・・・・・・。

あえてストーリーの中心を見つけようとするなら、この話だけであり、これと平行して何人かのエピソードが語られるに過ぎない。同じホテルの一室で、ガールフレンドの持ってきたポルノを飽き飽きしながら見る窓掃除の男、出所したばかりのホットドッグ屋、男にフラれ、連れていた犬を押し付けられる女、浅はかな銀行強盗をひとりで仕出かし失敗する青年、麻薬を売った女と一発やって亭主の帰宅に慌てふためいてバイクで去っていく売人など、ロクでもない連中ばかりが登場する。彼らが、「最後はいっしょになる」運命であり、そうした都会の人間の生きるプロセスが、断片的に描かれていく。

こうした技法を群像劇として宣伝しているが、古くは『グランドホテル』(1932年)のように、それぞれの人物がドラマをもち、その掛け合いの後、大団円に収斂するのが、群像劇の意味であり、この映画はそこからは大きく脱線している。

同じ時間の出来事を、キャラクターごとに見せたり、時間を前後させたりするという点で、むしろ、『エレファント』(2003年)や『桐島、部活やめるってよ』(2012年)と同じ手法であり、突然、カオスを迎えるという点では、予知夢のない『ファイナル・デスティネーション』でもある。

こうして、いろいろな映画を観、いろいろな出来事を経験してきた老齢の監督の作品としては、当然ながら、特に目新しい部分を発見するほどではない。

むしろ、この映画の圧巻はラストのカオスそのものではなく、そこから引いていくカメラなのだ。カオスの現場から引いていくカメラが、実は・・・という「落ち(オチ)」なのだ。この映画に、ストーリー上のオチなどあるはずがない。むしろ、映像上のオチこそ監督の意図なのだ。ラストの出来事のあとに、もったいぶった末にようやく出してくるのである。

このオチを効果的にするためには、登場人物に地位や名誉のある人間も高尚な人間的からみも要らなかったのである。スケベ監督やドラッグの売人、強盗をする少年、或いは、客に出すルームサービスの料理をひと切れ食べてしまうルーム係、ホットドッグを頬張る尼僧たち、で充分だったのだ。大仰なキャラクターでは、オチが霞んでしまうのである。

それが証拠に、エンドロールのあの字の小ささに注目したい。故意にポイントを小さくした文字を並べて、俳優名・役柄名など読めなくていいのだ、と言わんばかりである。膨大な数のモニターが映し出す都会の光景に、個人名は初めから不要なのである。

さらに、この映画の個性は、音と多彩な映像にある。この映画には音楽らしきものがほとんど入らない。あったとしても、故意にヴォリュームを下げて、聞こえるか聞こえない程度に流すだけである。あとは、音だけだ。それもきれいな音とは限らない。

映像にはさまざまなくふうが凝らされている。カメラがキャラクター目線になるのはよくあるが、犬の目線になることもあり、強盗を仕出かす前の少年のように、何を見ているかわからないようなシーンもある。

筋がないようなものだから、逆に、象徴的でサスペンス風な映像を取り入れることもできたのだ。低く飛ぶ航空機、大きなシャボン玉、みごとな絵の描かれたカンバスに落ちた黒い絵の具の一点、など、カオスのあとの衝撃を予兆させる通奏低音である。

こうして、この映画は出来上がった。81分のほとんどを使って、都会に住む「たいしたこともしてない」人物たちの午後5時過ぎのわずかな時間と、彼らの向かうカオスを描いたのである。そして、これは、都会の「どこにでもある出来事」としてカメラが記録しているだけの事実に過ぎないことを、「どうっすか?」と提示してくれただけなのである。

この手間ヒマかけた<遊びの世界>で、戯れることができるかできないかは、観客個人個人の個性によるのであろう。戯れることができなかったからといって卑下することもない。戯れることができたのなら、楽しい世界の扉をまた一つ開けた、とは言えるだろう。



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2017年2月20日 (月)

アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成29年2月20日)

<平成29年月2日20日(月)現在>

前々回→アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年8月5日) http://bit.ly/2aKlXh9 @syuya_yui

前回→アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年12月12日) http://bit.ly/2hljSOQ @syuya_yui

初めて見た順:

*全部見たもの

総合評価・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・小

*まだ続いているもの

総合評価・期待度・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・期待度・小

媒体は、見た順。

<試しに見たが2~3話で挫折したもの>は載せていないので、ほとんどが高評価になっています。

特記ある場合以外は、アニメ=テレビアニメ。

*****************************

『童夢』   コミック単行本   ★★★★★

『AKIRA』   コミック・劇場アニメ   ★★★★★

『交響詩篇エウレカセブン』   アニメ   ☆★★★★

『ハイキュー!!』   コミック・TVアニメ   ★★★★★

『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談。』   コミック   ★★★★★

『迷宮物語』   アニメ   ★★★★★

『弱虫ペダル』   アニメ  全シリーズ   ☆★★★★

『さよなら絶望先生』  アニメ 全シリーズ   ★★★★★

『氷菓』   アニメ・コミック   ★★★★★

『言の葉の庭』   アニメ   ★★★★★

『東京喰種』   アニメ・コミック  第二期二話で挫折   ☆☆☆★★

『黒子のバスケ』   アニメ   ★★★★★

『ワールドトリガー』   コミック  7巻で挫折   ☆☆☆★★

『進撃の巨人』   アニメ  第5話で挫折   ☆☆☆★★

『バケモノの子』   アニメ   ☆☆★★★

『ばらかもん』   アニメ   ☆★★★★

『雲のむこう、約束の場所』   アニメ   ★★★★★

『残響のテロル』     アニメ   ☆★★★★

『坂道のアポロン』   アニメ   ★★★★★

『四月は君の嘘』   アニメ   ☆★★★★

『デュラララ!!』(起承転結)   アニメ   ☆★★★★

『ハリガネサービス』   コミック   ★★★★★

『亜人』   コミック  8巻で挫折   ☆☆☆★★

『屍鬼』   アニメ・コミック   ★★★★★

『カーニヴァル』   アニメ  3話で挫折   ☆☆☆★★

『鬼灯の冷徹』   アニメ   ☆☆★★★

『東のエデン』   アニメ   ☆☆★★★

『文豪ストレイドッグス』   アニメ   ☆☆☆★★

『ダイヤのA』   アニメ  全シリーズ   ★★★★★

『おおきく振りかぶって』   アニメ 全シリーズ   ★★★★★

『はじめの一歩』   アニメ 全シリーズ   ★★★★★

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』   アニメ 全シリーズ   ☆★★★★

『心が叫びたがってるんだ。』   アニメ   ☆★★★★ 

『僕だけがいない街』   途中で挫折   ☆☆★★★

『ReLIFE』   アニメ 全シリーズ   ☆★★★★

『チア男子!!』   アニメ  途中で挫折   ☆☆★★★

『DAYS』   アニメ     ☆☆★★★

『アルスラーン戦記』   アニメ  全シリーズ   ★★★★★

『君の名は。』   劇場アニメ   ☆★★★★

『一週間フレンズ。』   アニメ   ☆★★★★

『斉木楠雄のΨ難』   アニメ  途中で挫折   ☆☆★★★

『骨が腐るまで』   コミック   ★★★★★

『男子高校生の日常』   アニメ   ★★★★★

『舟を編む』   アニメ   ☆★★★★

2017年2月12日 (日)

「愛するゆえの狂気なるもの」

フィクションでは、多くこうしたテーマが取り上げられてきた。
 
以前にも書いたのだが、三島由紀夫の『金閣寺』で、なぜ主人公の吃(ども)りの修行僧は、金閣に火を放ったあと、「生きようと私は思った」のだろうか。
 
これだけの犯罪を犯して、すぐに捕まる身であり、しかも、金閣と心中しようと考えたこともあったのに、裏山から金閣が燃え盛るのを見ながら、生きようと思ったのである。
 
本人に、犯罪を犯したという意識はほとんどなく、むしろ、畏怖するほどに敬愛しながらも、自らを悩ましつづけ、自らの前に立ちはだかってきた金閣に、ようやく復讐し放火することができ、ようやく金閣からの呪縛から逃れることができ、自由になったからには、生きたいと思ったのであろう。
 
芥川龍之介の『地獄変』では、見たものしか描けないという偏屈な絵描きが、屏風絵を描くことになるが、最後にきてその絵に画竜点睛の欠けるを知り、自分の娘であることを知りつつ、娘が燃え盛る牛車に閉じ込められたまま焼け死ぬ阿鼻叫喚の光景を見ながらこれを描き、出色の屏風絵を完成させる。しかし絵描きはその後、自害する。屏風絵はその男と娘の代わりに、生き続ける。
 
安倍公房の『他人の顔』は、より複雑な経路をたどる。簡単に言えば、実験でケロイド状に醜くなった自分の顔を新たに作るため、ある男の協力を得て、その男の仮面をつくり、自らの顔に貼り付ける。顔を新しくすると同時に、人間としても再生し、妻の愛を再度得たいと願う。
 
醜いままの顔では、愛する妻に嫌われるだろうと考え、苦心惨憺たる努力の末、ようやく完成した仮面を付け、身も心も新たな男として、妻という女の前に姿を現したが、実は、妻は当に仮面の正体を見抜いていた。
 
この小説の終わりにはこのようなことが書かれている。書くという行為は、何もなかったときにだけおこなわれるのである、と。逆に言えば、書いている間は、何も起きていない、のである。
この物語の終わったところから、この男の、書くことができない実行行為が始まることを読者に予想させている。妻の愛を取り戻すために、世間体を意識し、隠れるように生活し、ようやく新たな愛の獲得手段に思い至り、これほどに努力してきたにもかかわらず、妻は自分を裏切り、愛を取り戻すどころではなくなった。書くことがない実行行為とは、つまり妻を殺すことである。
 
エヴァ・ガードナーの出世作『裸足の伯爵夫人』も、ラストは悲劇に終わる。踊り子から映画界のスターになったマリアは、ある伯爵に見初められ結婚する。しかし伯爵は、戦争での負傷により不能になっており、それを初夜に知ったマリアは悲しみのどん底に陥る。親友ハリー(ハンフリー・ボガード)に相談するも埒が明かず、他の男を相手にする。それを知った伯爵は、マリアを拳銃で殺す。遺体は丁重に埋葬され、マリアそのままの像が庭に建てられた。
 
マリリン・モンローの事実上のデビュー作『ナイアガラ』では、夫(ジョセフ・コットン)を裏切ったローズは、教会のビルのなかで、夫に殺される。
この映画は内容より一層映像を見る映画なので、ストーリー自体はシンプルである。愛が憎悪に変わり妻を殺したあとでも、夫はローズの口紅を拾って、あんなに愛していたのに、と言う。愛するゆえに殺したのか、復讐のときは殺ししか頭にないのか。
 
かつてのポルノ映画の復刻版に、『人妻集団暴行致死事件』という映画がある。ポルノというより文学的作品で、タイトルや描写がどぎついが、内容はエロやどぎつさよりむしろ、マニアックなものになっている。ポルノというジャンルでありながら、キネマ旬報でもその年の9位に入っている。
 
ある男(室田日出男)は、苦労人で気前のいい男であり、町の若い不良数人(古尾谷雅人ら)と敵対していたものの、次第にかえって仲良くなる。しかしある日、男のいないとき、妻はこれら不良集団に姦淫される。妻をいとおしく思うあまり、男は、妻の汚れたからだを洗うべく、死んでいる妻をかかえて風呂に入れ、抱きしめ、愛撫する。映画として、このあたりが、単純に狂気とだけは言えない雰囲気を出しており、それが評価されたが、現実にもしありうることを知れば、男はやはり狂人扱いだろう。
 
これらはいかにも虚構ではあるが、事実は小説より奇なりを地でいくように、現実にもいろいろな事件は起きている。それは、社会生活上はあくまでも、犯罪であり、非社会的できごとではあるが、本人の心の世界にあっては、そうとわかっていても実行してしまう、ということなのだろう。
 
ある若い人妻が殺された、犯人は、前の夫であった。その男は、コンクリートの壁めがけて、車を猛スピードでぶつけ、自殺した。その数日後、妻を殺された今の夫は、二人の幼子があるにもかかわらず、自らの父親宛てにビデオレターまで撮ってから自殺した。あいつなしでは生きていけない、と。
 
ある団地で朝早く、二人の幼児が殺された。母親がゴミを出しに行き、近所の主婦と話をしているわずかの時間に決行された。犯人の女はすぐに自首した。幼児の父親と懇ろになったものの、長い付き合いの末、男の心はまた家庭に戻ってしまった。犯人の女は、離婚するという男の言葉を信じ、自ら男との幸福な家庭を夢見ていた。愛は憎悪に変わり、復讐の機会を待った。結果、幼児二人が犠牲になったのである。
 
マルセル・プルーストは、死ぬ直前は発狂していた。病室を密封し、そこにネズミを数匹放し、プルーストは奇声を発しながら、ムチをもってネズミを追いかけ回し、ヒステリックに何匹かを叩き殺すと、ようやく疲れて眠りについた。
 
彼の大著『失われた時を求めて』には、主人公が愛するアルベルティーヌが、午睡に耽る場面がある。殺したいほどに愛する相手が、目の前で寝ている姿を見て、主人公は非常な安心感を覚える。好きな相手が目の前で寝ている姿に、性的欲求よりも、穏やかな愛を感じるのである。
ここにこのまま寝ていてくれれば、アルベルティーヌがよその男と戯れることもないし、それにより心に湧く猜疑心もありえない。
無防備に自分の前ですやすやと眠っていられるということこそ、愛と信頼の証しであると。
 
フィクションは、現実にありえそうもないから、それを書き、それを映画にするのだろう。とすれば、そこに描かれたものは、現実にはありえないという前提があるはずだ。
ところが、現実には類似の事件が起きており、そうした小説や映画にヒントを得たわけではない。
 
虚実は皮膜のごとしで、両者は紙一重のことであるのかもしれない。しかし、現実にそうしたことがあるから、小説家も脚本家も、そういうストーリーを作ることができる。
 
憎らしいと思っても殺せないが、虚構の世界でなら殺せる。
しかし、愛ゆえの殺人や狂気が現実に頻発するのであれば、虚構として構築された世界は、いったいどういう位置づけになってくるのだろう。
 
それとも、愛は現実のもので、狂気は虚構に属するのか。そんなに単純でもないだろう。
 
虚構は無意味なものとして廃棄されてしまうのだろうか。
いやいや、虚構ほど愉快なものはないはずだが…。
 

2017年1月 8日 (日)

映画 『水の中のナイフ』

監督:ロマン・ポランスキー、脚本:イエジー・スコリモフスキ、ロマン・ポランスキー、撮影:イエジー・リップマン、音楽:クリシトフ・コメダ、1962年、94分、モノクロ、ポーランド語、原題:Nóż w wodzie

アンジェイ(レオン・ニェムチク)と妻クルィスティナ(ヨランタ・ウメツカ)は、湖でヨットを浮かべて休暇を過ごすため、車を走らせている。
しばらく行くと、青年(ジグムント・マラノウッツ)が前に立ちふさがり、注意したものの、車に乗せる。青年はヒッチハイクしていた。
湖に着くと、夫婦は自家用のヨットを出す準備をするが、アンジェイの招きで、青年はいっしょにヨットに乗り込む。……

ポーランド出身のロマン・ポランスキーによる、28歳にして初めての映画作品だ。

ポランスキーといえば、妻のシャロン・テート殺害事件で有名になったが、『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』『戦場のピアニスト』で知られる鬼才だ。

タイトルにあるように、ナイフは出てくるが、途中で海に落とされてしまう。それでも、そこまでにときどき出てくる青年の持ち物である一本のナイフは、道具としてのナイフを超え、象徴的な意味をもたされている。

映画全体の印象としては、若い監督の作品によくあるように、低予算でありダイナミックな展開があるわけではない。この作品も、画面上ではひたすら淡々と話が進むため、ダイナミックな展開を期待していると、裏切られるかもしれない。

やや倦怠期にあるような夫婦は、妻のほうが若く、豊満な肢体をもつ。夫の仕事などは一切語られないが、ある程度の社会的地位と財産があるようだ。
一方、ヒッチハイクの青年は、その名前も出てこず、アンジェイにガキなどとも呼ばれるが、そこまで子供ではなく、といって大人になりきっている年齢でもない。一度、19歳というセリフが聞かれる。

夫は、帰ろうとする青年を、無理やり誘い、自慢のヨットに乗せた。カネのない若造に、いいとこを見せてやろうというくらいの気持ちがあったからだろう。だから、ヨットの操舵に素人の青年に、ああしろこうしろと、船長よろしく命令する。

青年は、命令されるのを不愉快に思いながらも、それに従い、そのうちヨット乗りも楽しいと思うようになる。その間、妻の作る料理を楽しんだりし、妻はひとり泳いでワニの形をした浮き輪と戯れている。
ヨットが浅瀬に乗り上げて動かなくなったその日の晩も、船底のへやで、三人で子供じみたゲームなどをして楽しむ。

あすは5時に起きようと言って、目覚まし時計をセットしたものの、その前にすでに妻は起きて甲板でタバコを吸い、そこに青年も起きてくるが、あとから起きてきた夫に甲板掃除を命令され、掃除しているうちに、ちょっとした口論から、青年は水の中に落とされてしまう。

責任を感じて青年を探しに湖に飛び込んだ夫は帰らず、それをブイの陰で見ていた青年はヨットに泳ぎ着く。泳げないと言っていた青年は、泳げたのだった。妻はそれを知り、ヨットに上がってきた青年にビンタを加えるが、その直後、青年と妻は…。

この映画は、大人の男と青年との対比を描いているのだろう。そう見るならわかりやすい。
ヒッチハイクをしている青年がナイフを持っていてもおかしくない。実際、森のなかでは役に立つんだ、というセリフもある。


青年が大人に刃向かうとき、文字通り、このナイフを持つことでバランスがとれる。権力、財産、社会的地位、…そうしたものをもつ大人の男に対して、それらの何もない貧乏な青年は、ナイフをもつ。このことは象徴的だ。

アンジェイは、そうしたものをすでに手に入れている壮年の男だ。だから、ナイフのかわりに、高級車や自家用ヨットを持つ。
だが、船上という閉じられた空間で三人しかいないのでは、青年の所有するナイフは不気味であり、5時前に起きた時、夫は、テーブルにあった青年のナイフを、自分の着るガウンのポケットにしまって甲板に上がり、青年に掃除を命令する。
まさに、そのとき、青年がナイフを返してくれと言ったことから、揉み合いになるのだ。

妻は、熟年の夫であっても、その実、小心さや意気地のなさ、そのかわり、それを隠そうとして高慢にふるまうような態度に辟易している。
それは、ファーストシーンで、車を交互に運転する夫婦のツーショットからも、はっきりわかる。
夫と青年の間にあって、夫の身勝手さをなじりながら、青年にはその幼さを指摘する。ただ、夫がいなくなったところで、青年とは過ちを犯す。

音楽にはサスペンス調のジャズが使われるが、ヨットでの週末の休暇という図式でありながら、雰囲気として決して陽気なものではなく、どこか常に不安やサスペンス感を漂わせるこの作品に、よくマッチしている。

ある船乗りの話が、途切れ途切れに出てくる。酒瓶を割って床に飛び散った破片の上を、誤って踏んでしまったという。ところがその男の足は皮が厚かったので、足裏にはけがをしなかった。それどころか、これは実は俺の芸のひとつでわざとやったんだと言ったという。
このエピソード風の話は、夫の心理や性格と並行して時折出てくる。

この映画には無駄がない。映像もシャープであり、いろいろな苦労も想像できる。映像のあちこちに出てくる「尖った物」が、この映画をまさにシャープなものにしている。編集もうまいが、何より、フレームを切り取り方がいい。この映画も、どんな教科書より、カメラの勉強をするにはもってこいである。

後の、ポランスキー特有のサスペンスタッチではあるが人間ドラマである、という個性が、すでに萌芽として見られる作品だ。

2017年1月 7日 (土)

映画 『顔のない眼』

 監督:ジョルジュ・フランジュ、主演:ピエール・ブラッスール、アリダ・ヴァリ、エディット・スコブ、1959年、88分、フランス映画、モノクロ、原題:LES YEUX SANS VISAGE
 
医師ジェネシエ(ピエール・ブラッスール)は皮膚移植の権威であるが、交通事故で、顔の両目以外の部分を損傷した娘クリスチアヌ(エディット・スコブ)のために、同い年くらいの同じような容貌の娘を、助手のルイーズ(アリダ・ヴァリ)に誘拐させては、自宅に連れて来させ、地下にある手術室で、ルイーズとともに、クリスチアヌに移植手術を施す。
 
この2回目の手術でクリスチアヌは美しい素顔を見せるが、それも実は失敗したことがわかると、二人は第三の犠牲者を探すことにする。……
 
ホラー映画監督の黒沢清が賞賛するように、まさにフランスでヌーベル・ヴァーグがもてはやされていた同時期に、実はこんな作品がひっそりと生まれていたことは注目されてよい。このささやかな作品は、その後、サスペンスやホラーなどのジャンルに、大きな影響を与えたからだ。
 
白黒であるから、ライティングと影をうまく使うのは当然と言えるが、ストーリーの展開も一定の速度を保ち、省けるところは省くなど、シーンやセリフも最低限となっていて見やすくなっている。
 
顔の移植というと安倍公房の『他人の顔』を思い出すが、それと違い、この映画には、顔に関する自我との葛藤などという哲学的課題は出てこない。
もっぱら、失った娘の顔を取り戻そうとする父親の執着心と、それを受動的に受け入れながらも自家撞着に陥る娘本人の物語としてのみ描かれている。
 
手術台で眠らされている被害者の顔に、鉛筆で剥がす線を書き入れたり、メスで皮膚を切って鉗子で押さえ、その後それを剥がすシーンまで入るが、それほど生々しさが感じられず、手術シーンも二体目のこのシーンだけである。
 
クリスチアヌは登場しても、初めは後ろ姿だけしか映さない。ルイーズが持ってきた仮面をかぶると、ようやく顔が映される。まるで『犬神家の一族』の助清のようであるが、こちらは少女であり、仮面の姿そのものもかわいらしく美しくみえてしまう。
 
手術のあと素顔を表わすが、もともとそのような容姿の少女のせいか、仮面をつけていたときと全く同じ顔である。目の大きなかわいらしい顔つきではあるが、黙っているとそのかわいらしさは、どこかまた不気味である。
 
クリスチアヌが自宅の大きな屋敷の階段や地下の通路を歩くときなど、大きな空間や高い天井に対して、仮面をつけたクリスチアヌが、はかない存在に感じられ、痛々しくもあり不気味でもあり、あるいはまた、いとおしくもあり、これらクリスチアヌの無言のシーンは、サスペンス・ホラーというより、実に芸術性が高い。
 
ジェネシエが行なっていることは、所詮犯罪であり、結果的には帳尻を合わせて終わるが、クリスチアヌだけは生き残る。
 
クリスチアヌは手術するたびに失敗することで落胆していたが、やがては、よその娘を犠牲にしてまで手術を受けることじたいに嫌気がさし、最後は、父親の手先となっているルイーズを殺してしまう。
地下に飼っている何頭もの愛犬を檻から出すと、犬たちは、ちょうど帰宅した父ジェヌシエを襲って噛みつく。
クリスチアヌは、犬たちとともに飼われていた白い鳩も放す。父親が横たわるわきを、平然と真っ暗な木々のほうへ向かってさまよい歩く。周囲には鳥たちが飛び交っている。
このラストシーンは、物悲しいと同時に、映画ならではのメルヘンであり、サスペンス調の映画のラストシーンとしては異色である。こういうラストはあまり見たことがない。
 
当時『リラの門』などで有名なフランス映画界の重鎮ピエール・ブラッスールに加え、ルイーズ役のアリダ・ヴァリは『第三の男』で有名であり、『カサンドラ・クロス』にも老眼鏡をかけた老婦人の役で出ていた。
 
クリスチアヌ役のエディット・スコブという女優は初めて見たが、今なお現役のようである。とにかく彼女は愛らしくかわいい。美人系統ではないかもしれないが、目が大きく青く、全体にほっそりと小作りで、この女優なくしては、この映画は成立しなかっただろう。
 
実際、この子の顔をテーマとした映画だからである。この容姿の娘で、自分が皮膚移植の専門医なら、やってみたくなるという気がする。
 
顔の移植にまつわるサスペンス調の映画でありながら、常に三拍子のBGMも手伝ってか、観終わっても、どこかすがすがしささえ感じる異色作だ。
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2017年1月 4日 (水)

好きな映画一覧

<作品名>(平成29年1月4日更新)



『死刑台のエレベーター』『ディーバ』『カサブランカ』『望郷』『モロッコ』『街の灯』『メトロポリス』『M』『靴みがき』『自転車泥棒』『道』『鉄道員』『赤い風船/白い馬』『紅塵』『ローラ殺人事件』『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』『汚れた顔の天使』『窓』『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『深夜の告白』『『呪いの血』『私は殺される』『拾った女』『荒馬と女』『十二人の怒れる男』『第三の男』『必死の逃亡者』『陽のあたる場所』『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『去年マリエンバートで』『顔のない眼』『めまい』『サイコ』『北北西に進路をとれ』『鳥』『裸足の伯爵夫人』『穴』『非情の罠』『2001年 宇宙の旅』『マドモアゼル』『クリスマス・ツリー』『特攻大作戦』『水の中のナイフ』『帰らざる夜明け』『レマゲン鉄橋』『チャイコフスキー』『大地震』『カサンドラ・クロス』『ベニスに死す』『ラ・パロマ』『シャイニング』『ストリート・オブ・ファイヤー』『激突』『π』『普通の人々』『殺しのドレス』『レオン』『ミツバチのささやき』『マリリンとアインシュタイン』『チャイナタウン』『マルホランド・ドライブ』『青いドレスの女』『ミスト』『天使』『ラルジャン』『遊星からの物体X』『トワイライトゾーン』『暴走機関車』『サン★ロレンツォの夜』『ボーイズ・ライフ』『評決』『キャビン・フィーバー』『刑事ジョン・ブック/目撃者』『ミザリー』『氷の微笑』『ステイ』『隠された記憶』『ファイナル・デスティネーション』『白いリボン』『倫敦から来た男』『テキサス・チェーンソー』『ゆりかごを揺らす手』『レミング』『不眠症 オリジナル版インソムニア』『ヒート』『THE WAVE  ウェイヴ』『エクスペンダブルズ1・2』『コロンビアーナ』『アンチクライスト』『メランコリア』『引き裂かれた女』『メカニック』『わたしを離さないで』『ドラゴン・タトゥーの女』『偽りなき者』『危険なプロット』『鑑定士と顔のない依頼人』『悪童日記』『トラ・トラ・トラ!』『安城家の舞踏会』『日本のいちばん長い日』『明治一代女』『どぶ』『にごりえ』『羅生門』『歌行燈』『祇園囃子』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『剣』『白い巨塔』『浮雲』『女が階段を上る時』『鍵』『悪名』『女系家族』『長崎ブルース』『約束』『鬼の棲む館』『飢餓海峡』『人間の條件』『戦争と人間』『少年時代』『仁義なき戦い』『華麗なる一族』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『砂の器』『新幹線大爆破』『県警対組織暴力』『人妻集団暴行致死事件』『泥の河』『AKIRA』『ツィゴイネルワイゼン』『家族ゲーム』『鬼龍院花子の生涯』『犬神家の一族』『マルサの女』『疑惑』『極道の妻たち』『TOMORROW  明日』『天城越え』『渚のシンドバッド』『顔』『CURE』『失楽園』『MEMORIES』『青の炎』『トウキョウソナタ』『カミュなんて知らない』『男たちの大和/YAMATO』『女はバス亭で服を着替えた』『明日の記憶』『象の背中』『『Life(ライフ)』『宮城野』『白夜行』『冷たい熱帯魚』『一枚のハガキ』『11.25 自決の日』『パレード』『はやぶさ 遙かなる帰還』『桐島、部活やめるってよ』『渋谷』『SHORT PEACE ショート・ピース』『迷宮物語』『言の葉の庭』『共喰い』『そこのみにて光輝く』・・・など。

2016年12月14日 (水)

映画 『にごりえ』


監督:今井正、原作:樋口一葉〔1872(明治5年)~1896年(明治29年)〕、脚本:水木洋子、井手俊郎、主演:第一話・丹阿弥谷津子、第二話・久我美子、第三話・淡島千景、1953年、130分、モノクロ、第一話・約31分、第二話・約36分、第三話・約63分。
 
樋口一葉は、五千円札に描かれた女流作家である。とはいえ、24歳で結核により他界している。
これは、明治期の小説家・樋口一葉の短編小説を三本合わせたオムニバス映画である。ほとんど、原作に忠実と言われている。
一葉の見た明治のこの時代における、若い女たちの悲しい物語である。
 
映像は、内容を自然にそのままを描いているものの、毅然とした姿勢で撮られており、定点長回し、モンタージュ手法、クローズアップ、スポットライトなど、映画の基本的技術ばかりでありながら、こうも神々しい絵ができあがるものかと驚嘆する。
 
それぞれの話に、それぞれに薄幸な娘が出てくる。
 
第一話。
身分の高い男のもとに嫁いだ女・せき(丹阿弥谷津子)が、夫に身分の低さをはじめ、いろいろと蔑みを受けるので、耐えきれなくなって実家に戻ってくる。最後は両親に説得されて戻るのであるが、夜道だからと人力車を拾うと、その男は幼なじみであった。車を止めて、他愛のない話をしたのち、男は車を引いて去り、女は歩いて別れる。
 
第二話。
料理屋に奉公している娘・みね(久我美子)は、伯父夫婦から、大晦日までに返さなければならない金があるから、何とかならないかと頼まれる。大晦日まで言い出せず、当日も忙しいあまりに女主人に言い出せないところへ、勘当同様の先妻の道楽息子が帰ってくる。金をせびりにきたのだったが、両親から大枚を無心すると、帰っていく。
たまたま、女主人がある業者から取り立てた金を、掛け硯(かけすずり)にしまったのはみねであり、こっそりそこから二円を盗ってしまった。
しかし、あとでその掛け硯の抽斗を開けると、一切の金がなくなっており、息子の文字で、ここにあるものももらっていく、という手紙が入れてあった。
みねが二円を失敬したことは、誰にも知られなかった。
 
第三話。
遊郭で働くお力(おりき、淡島千景)は、その店一番の美貌と客あしらいで知られていた。そこへある晩、きちんとした身なりの男が現れる。何度か男が足を運ぶうちに、お力はその男に思いを寄せるが、ある夜、身の上話をする。
女郎のお力にも、かつて好き合った男がいて、いまは別れていた。だが、男のほうは、ときどきお力に会いに、その店の前に現れるのであった。お力にはすでにうっとうしい存在であった。
その男は、妻子がありながら、甲斐性もなく、働きもせず、女房になじられる日々が続いていた。夫婦喧嘩の末、女房は小さな男の子を連れて、そこを出ていく。
 
三話のあらすじはこういったところである。
 
これら儚くも悲しい、若い娘たちの日常のありさまや苦労が、映像になることで、文字以上に見るだによくわかる。
三つの話に共通するのは、背景に身分の違いが鮮明に描かれているところだ。
 
明治という時代の底辺には、たくましくけなげに生きる貧しい女たちがたくさんいた。一葉の日記風に綴られた小説は、みごとに映像に置き換えられている。
 
内容はそれとしても、映画としての品格を失わず、話にむだもなく、流れるようなカメラと演出がある。いまだに、邦画の代表作に数えられるのも当然かと思う。
 
しかし、やはり、悲しい物語には違いない。
 
第三話で、お力の回想シーンがある。
貧乏な家の娘であるお力は、寒い晩に、お金をもらって、おかずを買いに行く。そのおかずといっても、おからである。
小さなカゴにおからを抱いて帰る途中、雪道で転んでしまう。少女は、雪と泥のなかに散らばったおからを、両手で掬ってカゴに戻す。
しかし、もうそれは食べられず、その場に立ちすくんで泣きじゃくる。そこへ、母親が迎えにくる。
 
この一連のシーンにセリフはない。転んでおからをカゴに戻す少女の姿と、その泣き顔のアップだけである。
このシーンは、全く何でもないように見えて、実に悲しいシーンだ。
 
これでもかこれでもかという不運の末に、なりたくもないのになってしまったのが女郎だった、というわけである。おまけに、最後は心中するのだ。
 
出演者でわかるとおり、その後有名になる俳優が、たくさん出ている。そういう俳優たちの若い頃を見られるのも楽しい。


 
※ YouTubeにも、全編アップされています(平成28年12月14日現在)。
Troubled Waters Imai Tadashi, 1953 https://youtu.be/BsSuuE-5SDY @YouTubeさんから


 

2016年12月12日 (月)

アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年12月12日)

<平成28年12月12日(月)現在>

前回→アニメ・コミック・評価・備忘録 (平成28年8月5日) http://bit.ly/2aKlXh9 @syuya_yui

初めて見た順:

*全部見たもの

総合評価・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・小

*まだ続いているもの

総合評価・期待度・大 ★★★★★ ←←← →→→☆☆☆☆★ 総合評価・期待度・小

媒体は、見た順。
試しに見たが2~3話で挫折したものは載せていないので、ほとんどが高評価になっています。
特記ある場合以外は、アニメ=テレビアニメ。
ツイッターで知ったもの、mixi時代にマイミクさんに教えていただいたもので、見ていないものもたくさんあります。

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『AKIRA』     コミック・劇場アニメ   ★★★★★

『交響詩篇エウレカセブン』   アニメ  ☆★★★★

『ハイキュー!!』     コミック・TVアニメ  ★★★★★

『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談。』  コミック  ★★★★★

『迷宮物語』  アニメ  ☆★★★★

『弱虫ペダル』   アニメ  全シリーズ  ☆★★★★

『さよなら絶望先生』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『氷菓』       アニメ・コミック  ★★★★★

『言の葉の庭』  アニメ  ★★★★★

『東京喰種』    アニメ・コミック  第二期二話で挫折  ☆☆☆★★

『黒子のバスケ』  アニメ  ★★★★★

『ワールドトリガー』  コミック  7巻で挫折  ☆☆☆★★

『進撃の巨人』  アニメ  第5話で挫折  ☆☆☆★★

『バケモノの子』  アニメ  ☆☆★★★

『ばらかもん』  アニメ  ☆★★★★

『雲のむこう、約束の場所』  アニメ  ★★★★★

『残響のテロル』    アニメ  ☆★★★★

『坂道のアポロン』  アニメ  ★★★★★

『四月は君の嘘』  アニメ  ☆★★★★

『デュラララ!!』(起承転結)    アニメ  ☆★★★★

『ハリガネサービス』  コミック  ★★★★★

『亜人』   コミック  8巻で挫折  ☆☆☆★★

『屍鬼』  アニメ・コミック  ★★★★★

『カーニヴァル』  アニメ  3話で挫折  ☆☆☆★★

『鬼灯の冷徹』  アニメ  ☆☆★★★

『東のエデン』  アニメ  ☆☆★★★

『文豪ストレイドッグス』  アニメ  ☆☆☆★★

『ダイヤのA』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『おおきく振りかぶって』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『はじめの一歩』  アニメ 全シリーズ  ★★★★★

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  アニメ 全シリーズ  ☆★★★★

『心が叫びたがってるんだ。』  アニメ  ☆★★★★ 

『僕だけがいない街』  途中で挫折  ☆☆★★★

『ReLIFE』  アニメ 全シリーズ  ☆★★★★

『チア男子!!』  アニメ  途中で挫折  ☆☆★★★

『DAYS』  アニメ  途中で挫折  ☆☆★★★

『アルスラーン戦記』  アニメ  全シリーズ  ★★★★★

『君の名は。』  アニメ   ☆★★★★

2016年12月 3日 (土)

去勢された日本的大義を取り戻すために (平成28年12月3日)

三島由紀夫によれば、戦後制定された現憲法には、日本人の魂が盛られていない、ということになる。そのとおりだ。

三島は、この憲法が、実は、日本人の魂に対しては大いなる制約をもち、人権尊重以上の理念を日本人にもたせないように縛り付けている、と鋭く指摘した。

この指摘はまさに卓見であり、憲法の三大原則を、子供のころから教えられ、また、教師になって何の疑問ももたず生徒に教えてきた身としては、大いに自己反省しなければならないと痛感した。

現憲法の大原則は、今でも変わらず、国民主権主義、基本的人権の尊重、平和主義の三つの柱である。

戦争を反省し、日本を平和国家にするという名目の陰で、米国は日本に憲法を制定させたが、それによりわれわれ日本人は、人権や自由であることを保障されたかに見える一方で、その実、古来より綿々とつづく日本人の魂なるものを去勢されてしまった。

現憲法下では、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないということに、日本人は非常に苦しんでいる、と三島は説いた。しかし、心ある日本人は、少なからず、戦後間もなくから、きっとどこかで、米軍に知られぬようにして、その魂を解き放そうと、試行錯誤を繰り返し、もがき続けてきたに違いない。

ヒューマニズムとは人道主義のことである。人道主義の根本には、人命尊重主義の考えがある。
人命はもちろん尊いものであり、二つとないものだ。不用意にそれが消えていく状況は、社会的にも許されない。

しかし、ヒューマニズムは万能ではない。一分(いちぶ)の例外もなく、ただ生命あるゆえ、これを尊重しなければならない、というのであれば、日本人の魂は、そこにおのずから、制約を感じることであろう。

ヒューマニズムの強制のもとでは、人を殺してはならぬ、自ら命を絶ってはならぬ、人のために生命を犠牲にしてはならぬ、…といった具合に、いかなるときにも、いかなる場合にも、いかなる職業の人々も、自他ともに、まずは人命を尊重しなければ「ならなくなった」のである。

災害や不慮の事故、強盗や通り魔事件において、人の命が奪われることは、いかなる主義主張・信条・信仰に身を置くとしても、望ましいことではないだろう。
こうした事件の被害を防ぐようにするのが人命尊重主義なのではない。それは、一行政の任務に過ぎない。

問題は行政のありかたといった表層のできごとではない。
日本人の魂という唯心論的なものである。
だから、これはまた、soul とか mind とか mentality などという西洋単語に置き換えられるような単純なものでもなく、ニュアンスも異なる。

人命尊重には一理あるものの、人命尊重主義というヒューマニズムが、「魂を持たぬ」日本人を増殖させ、日本人固有の精神の翼を捥(も)いできたことも事実であり、それが問題なのだ。
そして、「持たない」が、いつの間にか「持てない」に変化することが、恐ろしいのである。それはもはや、飼いならされた愛玩動物に等しい。

非常にごく最近ではあるが、「持てないことはないだろう」と、一部の日本人が目覚める方向になってきているのはうれしいことだ。

人命尊重主義が、社会の究極の摂理になってしまえば、外形的にも内面的にも、武士道は認められることはなくなる。むしろ、それは、異端であり狂気であるとレッテル貼りされる可能性もある。

絶対的人命尊重主義の考えは、極めて西欧的な「平和思想」に根ざしている。これは、宇宙倫理にかなうものでもあり、それだけに普遍性をもつ。その普遍性は、他方でまた、得てして侵略性を伴う。
平和は人倫にかなう、だから、それをあなたの土地にも広めたい…これが侵略の真実である。宗教や左翼に見られる折伏(しゃくぶく)も、これに似ている。

この「平和思想」は、武士道とは真っ向から対立する。武士道は、そもそも、常日頃におこなう「戦いの準備」だからだ。

武士道は死んだかに見えるが、脈々とつづく日本人の血というものは、そんな簡単に、「他人の血」に変わりうるだろうか。

血というものは、本来、排他性を帯び、同じ血同士で結びつくのではなかったか。
国際化というものにしても、良きことなり、という暗黙の絶対的性善説は危険である。「他人の血」との融合は、良きことばかりではない。

三島は、今でも一部の動画で見られるが、戦後民主主義体制において、大義という考え方は消えてしまったが、これは、民主主義が大義を必要としない国家形態であるから、無理もないことである、と言っている。

武士道の根幹には、大義がある。武士道における大義とは、誰かのために自己を犠牲にする、という考え方、あるいは、信念、あるいは、生き方そのものである。

天皇主権のもとでは、誰に向けても堂々としていられる大義があった。天皇の御稜威(みいつ)に従い、これがために身を捨てる、すなわち「海ゆかば」の世界観である。
民主主義は、三島のいうように、たしかに、天皇に対する意味をもって、大義を言うことには難がある。

しかし、本当に、民主主義体制において、大義はありえないろうか。両立しないだろうか。
大義というものの考え方も、武士道といっしょに、戦後の憲法下で、完全に、露のごとく消えてしまったのだろうか。

もし、現代の日本において、大義というものが失われてしまっているのであれば、むしろ、西欧的米国的民主主義を、一旦取り去ってみてはどうだろうか。
そうして、日本人が伝統的に培ってきた文化やその思想・教育観を盛り込んで、日本固有の「民族憲章」なるものを産み出すべきである。

こうした観点からしても、現憲法は、一度、廃棄せざるをえないと考える。

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